7 / 35
アリスティードの恋人 02
フラヴィア王国暦五二八年一月――。
爵位の継承手続きが無事完了し、いよいよアリスティードが恋人を連れてくる日がやってきた。
ネージュは恋人を迎えに行った彼が帰ってきたと聞き、使用人達と一緒に玄関ホールで待機する。
「まさか本当に愛人を連れてくるなんて……」
隣に控えるミシェルから怒りのつぶやきが聞こえてきた。
「やめなさい。もう決まった事よ」
エリックやイレーヌ夫人はネージュの気持ちを汲み取ってくれ、不服ながらも恋人を受け入れると決めたようだが、年若い彼女には難しいのだろう。
ネージュはやんわりとミシェルを窘めた。その時である。玄関のドアが開き、アリスティードにエスコートされて一人の女性がホールに入ってきた。
明るい茶色の髪に紫色の瞳の、可愛らしい印象の女性だ。
彼女がアリスティードの恋人の、ジャンヌ・ビゼーに違いない。
「お帰りなさいませ、アリスティード様。そちらがジャンヌさんでいらっしゃいますか?」
「ああ」
声を掛けると、アリスティードは隣の女性に目配せをした。
「初めまして、ネージュ様。ジャンヌ・ビゼーと申します」
ジャンヌは一礼した。
彼女は、首都の衣装店で働くお針子だと聞いている。そのためか、都会的で洗練された雰囲気の持ち主だった。
「アリスが結婚するって聞いた時は目の前が真っ暗になったんですけど……奥様が良い方で良かった! 快く私を迎え入れて下さってありがとうございます」
ジャンヌはアリスティードの顔を甘い視線で見上げてからにっこりと微笑んだ。その態度だけでなく、『アリス』と愛称を呼ぶ姿からもアリスティードとの親密さが伝わって来る。
背後にいるミシェルから怒りの気配が漂ってきた。
後でたしなめなければ、と思いつつ、ネージュはジャンヌに声をかける。
「ジャンヌさんがお傍にいらっしゃればアリスティード様も心強いでしょう。長旅でお疲れでしょうからお部屋にご案内します」
ネージュはジャンヌの為に用意した客室の方向を手で指し示した。
「まずはこちらでおくつろぎ下さい」
客室に案内してそう告げると、ジャンヌは眉をひそめた。
「……あの、ここって客室ですよね。私、ここを使うんですか? アリスの奥さんとして扱って下さるって聞いてるんですけど」
「はい。女主人の為のお部屋にいずれ移って頂こうとは思っておりますが、先日まで私が使っておりましたので……家具や内装がそのままではお嫌ではありませんか?」
「それは……そうですね」
「女主人の部屋の隣は夫婦の寝室となっております。どちらもジャンヌさんのお好きなように整えて下さい。家具は屋敷の中に保管してあるものを使って下さっても構いませんし、新しくご購入頂いても構いません。内装も変えるとなるとお時間がかかります。その間はご不自由をお掛けしますが、どうぞこの部屋を自由にお使い下さい」
「ああ、なるほど、そういう事……。さすが侯爵家! 気前がいいですね」
ジャンヌはぱあっと顔を輝かせた。
◆ ◆ ◆
ジャンヌがやってきた二日後、屋敷を顧問弁護士のナゼールが訪れた。相続手続きの完了報告のためだ。
ネージュは、応接室にて彼と面会する。
「こちらは登記関係。こちらは権利書です。それと、これは爵位継承関係の書類を取りまとめたものです」
机の上に、紙の束が積まれていく。
「これでようやく一段落つきましたね」
「ええ。肩の荷が一つ下りました。ご尽力頂きありがとうございます、ナゼール卿」
「これが私の仕事ですから。……それよりも、ネージュ様は大丈夫ですか? 早速、愛人を屋敷に引き入れたと聞いているんですが……」
「特に何も問題は」
「……そんなはずないでしょう」
「いいえ。本当に何も問題はありませんのでお気遣いなく」
キッパリと言い切ると、ナゼールは肩を落とした。
「仮に何かあったとしても、あなたはそれを外部に漏らすような方ではありませんよね……。わかってはいるんですが、複雑です。もし何か私に相談したい事があったら仰ってください。お力になります」
「……そうですね。その時はお願いします」
ネージュはナゼールに向かって淡い笑みを浮かべた。
実際の所、ネージュに対するジャンヌの当たりはきつい。
『すいませんが、デート中なので遠慮してくれませんか?』
ネージュは昨日、庭を散歩するアリスティードとジャンヌに出くわした時の事を反射的に思い出した。
ジャンヌはアリスティードの腕を両手でしっかりと抱え込み、毛を逆立てた猫のようにネージュを睨みつけてきた。
彼女が屋敷にやって来てから、使用人達はピリピリしている。一番の過激派はミシェルだ。
ネージュはというと、ジャンヌの態度を仕方のないものとして受け入れていた。
特別な男性が形だけとはいえ、別の女と結婚したのだ。彼女の心の中は不安や嫉妬でいっぱいに違いない。
彼女の教育をお願いしたイレーヌ夫人によると、ネージュに対する態度は酷いが、アリスティードを想う気持ちは本物のようで、礼儀作法や女主人の仕事など、彼の隣に立つために必要な知識や所作は何でも身に付けるという意欲に溢れているらしいので心強い。
ジャンヌは間違いなく立派なアリスティードの『妻』になる。
そう確信すると同時に、ネージュは彼女に対する罪悪感を覚えていた。
爵位の継承手続きが無事完了し、いよいよアリスティードが恋人を連れてくる日がやってきた。
ネージュは恋人を迎えに行った彼が帰ってきたと聞き、使用人達と一緒に玄関ホールで待機する。
「まさか本当に愛人を連れてくるなんて……」
隣に控えるミシェルから怒りのつぶやきが聞こえてきた。
「やめなさい。もう決まった事よ」
エリックやイレーヌ夫人はネージュの気持ちを汲み取ってくれ、不服ながらも恋人を受け入れると決めたようだが、年若い彼女には難しいのだろう。
ネージュはやんわりとミシェルを窘めた。その時である。玄関のドアが開き、アリスティードにエスコートされて一人の女性がホールに入ってきた。
明るい茶色の髪に紫色の瞳の、可愛らしい印象の女性だ。
彼女がアリスティードの恋人の、ジャンヌ・ビゼーに違いない。
「お帰りなさいませ、アリスティード様。そちらがジャンヌさんでいらっしゃいますか?」
「ああ」
声を掛けると、アリスティードは隣の女性に目配せをした。
「初めまして、ネージュ様。ジャンヌ・ビゼーと申します」
ジャンヌは一礼した。
彼女は、首都の衣装店で働くお針子だと聞いている。そのためか、都会的で洗練された雰囲気の持ち主だった。
「アリスが結婚するって聞いた時は目の前が真っ暗になったんですけど……奥様が良い方で良かった! 快く私を迎え入れて下さってありがとうございます」
ジャンヌはアリスティードの顔を甘い視線で見上げてからにっこりと微笑んだ。その態度だけでなく、『アリス』と愛称を呼ぶ姿からもアリスティードとの親密さが伝わって来る。
背後にいるミシェルから怒りの気配が漂ってきた。
後でたしなめなければ、と思いつつ、ネージュはジャンヌに声をかける。
「ジャンヌさんがお傍にいらっしゃればアリスティード様も心強いでしょう。長旅でお疲れでしょうからお部屋にご案内します」
ネージュはジャンヌの為に用意した客室の方向を手で指し示した。
「まずはこちらでおくつろぎ下さい」
客室に案内してそう告げると、ジャンヌは眉をひそめた。
「……あの、ここって客室ですよね。私、ここを使うんですか? アリスの奥さんとして扱って下さるって聞いてるんですけど」
「はい。女主人の為のお部屋にいずれ移って頂こうとは思っておりますが、先日まで私が使っておりましたので……家具や内装がそのままではお嫌ではありませんか?」
「それは……そうですね」
「女主人の部屋の隣は夫婦の寝室となっております。どちらもジャンヌさんのお好きなように整えて下さい。家具は屋敷の中に保管してあるものを使って下さっても構いませんし、新しくご購入頂いても構いません。内装も変えるとなるとお時間がかかります。その間はご不自由をお掛けしますが、どうぞこの部屋を自由にお使い下さい」
「ああ、なるほど、そういう事……。さすが侯爵家! 気前がいいですね」
ジャンヌはぱあっと顔を輝かせた。
◆ ◆ ◆
ジャンヌがやってきた二日後、屋敷を顧問弁護士のナゼールが訪れた。相続手続きの完了報告のためだ。
ネージュは、応接室にて彼と面会する。
「こちらは登記関係。こちらは権利書です。それと、これは爵位継承関係の書類を取りまとめたものです」
机の上に、紙の束が積まれていく。
「これでようやく一段落つきましたね」
「ええ。肩の荷が一つ下りました。ご尽力頂きありがとうございます、ナゼール卿」
「これが私の仕事ですから。……それよりも、ネージュ様は大丈夫ですか? 早速、愛人を屋敷に引き入れたと聞いているんですが……」
「特に何も問題は」
「……そんなはずないでしょう」
「いいえ。本当に何も問題はありませんのでお気遣いなく」
キッパリと言い切ると、ナゼールは肩を落とした。
「仮に何かあったとしても、あなたはそれを外部に漏らすような方ではありませんよね……。わかってはいるんですが、複雑です。もし何か私に相談したい事があったら仰ってください。お力になります」
「……そうですね。その時はお願いします」
ネージュはナゼールに向かって淡い笑みを浮かべた。
実際の所、ネージュに対するジャンヌの当たりはきつい。
『すいませんが、デート中なので遠慮してくれませんか?』
ネージュは昨日、庭を散歩するアリスティードとジャンヌに出くわした時の事を反射的に思い出した。
ジャンヌはアリスティードの腕を両手でしっかりと抱え込み、毛を逆立てた猫のようにネージュを睨みつけてきた。
彼女が屋敷にやって来てから、使用人達はピリピリしている。一番の過激派はミシェルだ。
ネージュはというと、ジャンヌの態度を仕方のないものとして受け入れていた。
特別な男性が形だけとはいえ、別の女と結婚したのだ。彼女の心の中は不安や嫉妬でいっぱいに違いない。
彼女の教育をお願いしたイレーヌ夫人によると、ネージュに対する態度は酷いが、アリスティードを想う気持ちは本物のようで、礼儀作法や女主人の仕事など、彼の隣に立つために必要な知識や所作は何でも身に付けるという意欲に溢れているらしいので心強い。
ジャンヌは間違いなく立派なアリスティードの『妻』になる。
そう確信すると同時に、ネージュは彼女に対する罪悪感を覚えていた。
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
あなたへの愛を捨てた日
柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。
しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。
レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。
「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」
エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。
婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。
目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。
「あなたは、どなたですか?」
その一言に、彼の瞳は壊れた。
けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
二年間の花嫁
柴田はつみ
恋愛
名門公爵家との政略結婚――それは、彼にとっても、私にとっても期間限定の約束だった。
公爵アランにはすでに将来を誓い合った女性がいる。私はただ、その日までの“仮の妻”でしかない。
二年後、契約が終われば彼の元を去らなければならないと分かっていた。
それでも構わなかった。
たとえ短い時間でも、ずっと想い続けてきた彼のそばにいられるなら――。
けれど、私の知らないところで、アランは密かに策略を巡らせていた。
この結婚は、ただの義務でも慈悲でもない。
彼にとっても、私を手放すつもりなど初めからなかったのだ。
やがて二人の距離は少しずつ近づき、契約という鎖が、甘く熱い絆へと変わっていく。
期限が迫る中、真実の愛がすべてを覆す。
――これは、嘘から始まった恋が、永遠へと変わる物語。
夫が運命の番と出会いました
重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。
だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。
しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
白い結婚のまま、旦那様は薔薇のような美人に夢中になりました
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢リディアは、美貌で有名な侯爵レオンハルトに嫁いだ。
けれど結婚して二年、夫婦は一度も結ばれないまま――白い結婚だった。
それでも旦那様は優しかった。
冷たいわけではない。気づかいの言葉も、穏やかな笑顔もくれる。
だからリディアは、愛されてはいなくても、いつか少しは夫婦になれるのではないかと信じていた。
そんなある日、彼女は知ってしまう。
旦那様が薔薇の君と呼ばれる絶世の美女に心を奪われていることを。
彼が触れなかったのは私にだけだったのだと。
都合のいい奥方として、役に立っていたと悟る
静かに離縁を決意したリディアは、実家へ戻ったあと、女子学院で働き始める。
すると侯爵夫人時代には当たり前だった実務のすべてが、外では驚くほど必要とされていた。
感謝され、認められ、自分の足で立ち始めた彼女は、少しずつ見違えるほど美しくなっていく
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。