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海月の傘
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出て行け、と言われた。それだけだった。
私は特に何も感じなかった。苛立ちも、怒りも。というのも、出て行けと言い放った人間が、苛立ち、怒っていたからなのだと思う。他人に先を越されると、途端に興味を失ってしまう私だから。
ああそう、とも、うん、とも言わずに無言で身の回りを片付ける。とりあえず、描きかけのスケッチブックと鉛筆と消しゴムが目に付いた。資料や画材をまとめて入れていたビニールバックに詰める。ああこれ、どこの本屋のビニールバックだったっけ。そうだ。駅前の本屋だ。小さい割りに、意外と品揃えが良い。
身支度をする時間も与えられず、時間が刺さるように私を追い立てた。適当にサンダルを突っかけ、玄関を出る。
雨が降っていた。
私はここで初めて最悪な気分になる。もう一度玄関のドアを開け、玄関の傘立てから、この前買ったばかりの、緑色の透明なビニール傘を取った。本当に最悪な気分だ。なんで雨の日に、用事もないのに外に出なければならないのか。生憎行く当てもない。最悪だ。
あてつけに、シューズボックスの上に置いてあった、元々私の物ではない鍵をポケットにつっこんだ。同じく私の物ではない財布が脇に置いてあったが、それは持って出なかった。最大限の優しさだと思ってほしい。
鍵を持って出たのは、ささやかな反撃だ。一つしかないこの鍵を私が持って出てしまえば、元々この部屋にいる住人は外に出ることが出来ない。鍵をかけられないから。まぁ、開けっ放しで出かける事も出来ないわけではないが。
小ぶりな、緑色のビニール傘を開いた。ポイントで、くらげのシルエットが印刷されているのだが、心なしか楽しそうに見えた。雨の日にしか出番がないのだから、それも仕方がない。
雨の中を歩く。さぁ、どこに行こうか。近くの公園でスケッチの続きでもしようと思ったが、この雨ではどうだろう。喫茶店でもあれば良いのだが、駅前まで行くのは面倒だし、この近辺にはそんな洒落たものはない。そして私のこの格好。寝起きのままとしか思えない。適当なTシャツに、ジーンズの短パン。素足にサンダル。すっぴんに眼鏡。髪の毛も適当に束ねただけだった。どこにも行けるわけがない。買い物バックもとっさに引っ掴んで出てきたが、中身は多分多くて5千円くらいだ。まぁ粘れば時間をつぶすに事足りないが、決して頼もしいものでもない。
そんなことを考えていると、足元がずるっと滑った。
最悪だ。
とっさに突っかけてきたサンダルは、ヒールも高くストラップが緩いという作りのやつだった。雨の日に履くとストラップが緩い所為で足が滑る。3分おきくらいに足を小まめに滑らせながら、私の苛立ちは最高潮に達した。
もう、歩いていられない。
無意識に向かっていた、例の公園が目の前だった。あの公園はとてつもなく大きな木が茂っている。その下のベンチなら雨をしのぐのにちょうど良いだろう。
「……」
私は溜め息を付いてベンチに腰を下ろした。
画材の入った袋と、買い物バックを脇に置き、ビニール傘を閉じる。幸い、この大樹の下は雨の雫が落ちなかった。
何もすることがないので、スケッチブックと鉛筆を取り出す。この湿気では紙が湿ってろくに描けないが、何もしないよりは気分がいい。ごりごりと、無理やり鉛筆をすべらせる。うねうねと、変な模様が出来上がっていく。なんだろうね、これは。なんだろう。
さわさわと、向こうで雨の音がする。この木の下は、閉じられた空間みたいだ。雨に遮られて、この木の下だけに別の部屋ができあがる。
私は、ゆらゆらとくらげのように鉛筆を走らせる。
そうだ、あの傘のくらげは、空を泳いでるみたいだった。曇天にたゆたうくらげ。光を反射して、半透明に拡散する。
「……それ、なんの絵ですか?」
唐突に頭上から声がして、私は弾かれたように顔を上げた。
「ごめんなさい。驚かせてしまいましたか?」
困ったように頭を下げる。若い男だった。ふわふわと髪の毛は天然パーマだろうか。明るい色の髪に、濡れてしまったのか雫が光っている。
「……えっと……。別に、ただの落書きです」
私は言いあぐねて、結局ありのままを言った。別に、何を描こうと思っていたわけでもない。強いて言えば、くらげか。
男は、随分若いように見えた。私よりも年下に見える。十代後半くらい、多く見積もっても二十代前半だろう。にこにこと、やたら人懐っこい笑顔でこちらを見下ろしている。
「落書き・・・ですか。こんな日に、こんなところで」
まぁ、確かに、可笑しな事をしていると自分でも思う。しかしなんとも答えようがないので、私は曖昧に頷いた。ええ、まぁ、そんなところです。とか、そんなことを言った。
「……傘、持ってないんですか。雨、降ってるのに」
男に立ち去る気配は無い。私は何か言わなければならないような気がして、しぶしぶ尋ねた。
「え?ああ、……ぼく、傘はいらないんですよ」
意味の分からないことを言う。さっきからこの笑顔といい、何となく誤魔化されている気がする。しかし何故か悪い気はしなかった。
「……となり、いいですか」
別に断る理由もないので、私は首を縦に振った。
「雨は、いいですね。ぼくは好きです」
まるで、独り言のようにつぶやいた。何故か、さわさわという雨の音が耳元で聞こえた気がした。
「どうして?」
私は言いながら、スケッチブックに目を戻す。鉛筆がまた動き出した。
「……え?」
男はまるで意図しなかったように、驚いた顔をした。どうしてそんなことを訊くのか、と顔に書いてあった。
「だって、雨って普通、嫌われ者でしょ。濡れるし、荷物増えるし、思うように動けなくなる」
「ああ、そうか。そうですね。・・・でも、ぼくは好きですよ。雨。色が冴えて、静かになる。それをね、見てるのが好きなんです。濡れても別に構いませんし」
「そうだね、景色が変わるのはいいと思う。テンポが遅くなって、私と世界にカーテンがかかる」
なんとなく楽しくなって、私はスケッチブックから顔を上げた。くすんだカーテンがこの部屋の向こうに広がっている。薄く、透明で、すべてを洗うカーテン。このカーテンを開ければ、世界は生まれ変わるのかもしれない。
「……あ、やっと笑いましたね」
私は何を言い出すのだろう、と男の顔を見た。相変わらず、柔和な笑みを浮かべている。本当に、にこにこと笑っている。さっきから、なぜこの男はこんなに機嫌が良いのだろう。
「どうして?」
私はまた訊いた。
「……さぁ。どうしてでしょう」
はぐらかすように、肩をすくめる。ちょっとむっとしたが、柔らかなカーテンが揺らぐ程度のことだった。
私はまた、スケッチブックに目を戻した。ゆらゆらと、妙な幾何学模様。
「……それ、もしかしてくらげ、ですか」
男がずい、とスケッチブックを覗き込んだ。
「……うん。そうかもしれない。そんな気がする」
私がぼんやりと頷くと、男はにこっと私を見た。
「ぼくの名前、海月って言うんです」
何を急に。
「くらげ、って書いてミヅキ」
「下の名前?」
「いえ、苗字が」
そうなんだ、と私は返事をした。
「……そうかぁ、これ、ぼくなんですね」
嬉しそうに、男はスケッチブックを眺めていた。何がそんなに嬉しいのだろう。
「どうして、くらげを描こうと思ったんですか」
さぁ、どうしてだろう。
私自身、くらげみたいなものなのかもしれない。いつもぼんやりしていて、海の中をゆらゆら漂うみたいに、ひたすら傍観している。他人を、そして自分自身を。何もしない、ただ、漂うだけ。昔は違った気がする。もっともっと、世界を身近に感じていた。私の目の前には、いつもさわさわとカーテンが揺れている。その向こうで、誰が何をしようと、私には関係が無い。カーテンの向こうにいる私は、黒衣が操るマリオネットみたいに、上手に芝居をしていた。
いや、私自身は上手に芝居をうっていた心算だったのかもしれない。しかし、どうも、そうではなかったようだ。挙句に、追い出される。
私のカーテンを開けた人間は失望する。私がゼラチン状の、形を持たない存在であることに。開けなければいいのに、と思うが、開けたがる人間もいるのだ。私は別に隠さない。そんなことはどうだっていい。去る人間はいずれ去る。私のカーテンの内側には、私一人が佇む場所しかない。
「……くらげ、なのかなぁ、私って思ったんだ。追い出されるし。私は誰も必要じゃないから」
「じゃあ、ぼくら似たもの同士ですね。ぼくも、くらげです」
能天気に、男は笑った。
そうだね、くらげもいいのかもしれない。
こんな雨の日に、当てもなく漂うなんて、くらげにうってつけじゃないか。
つられて、私も笑った。
さわさわとした雨の音に、私の鼓動も響いた。ああそうだ。くらげにも心臓があるんだね。あったかい血が、流れてるんだね。
「あ、雨、上がったかな」
男は、ふと遠くを見た。
「じゃあ、ぼく、行きます。今日はね、気分がいいから、もう少ししたら、戻ります」
「?」
男は立ち上がって、軽くお辞儀をした。くしゃ、と髪を掻きあげると、この木の下から歩き出す。日の光に当たったところで、男は振り返って手を振った。私も何となく、手を振った。
ああ、誰もいなくなった。不思議だ。私のカーテンの内側には、私一人分のスペースしかないんだと思っていたよ。くらげ同士だと、変形しあって丁度収まりがいいのかな。今度一緒に住むやつは、くらげがいいのかもしれない。
私は苦笑した。
全く、今日は妙な日だ。
ただ、悪くはない。
「さぁ、荷物、取りに行かなきゃ」
大きな荷物は、後で着払いでもなんでも、送らせればいい。
私はスケッチブックを閉じて、ビニールバックにしまった。緑色のビニール傘も、忘れずに。
雨の日限定の、この部屋から一歩踏み出す。太陽がうっすらと光っていた。
「……あ」
頬に、微細な粒がはじけた。
「天気雨」
まだ、細かな雫が舞っていた。
私は緑色のビニール傘を開く。
「あれ?」
私は思わず声を上げた。目を見張る。
「ない」
そう。この傘を買ったのは、あれが描いてあったからなのに。
「くらげ」
ポイントでプリントされいた、くらげがいなくなっていた。
「……これじゃあ、ただのビニール傘じゃない」
その上、小ぶりな傘だから、私一人でギリギリなくらいだ。少し荷物が多いと逆に不便する。
でも、まぁいい。くらげ同士なら、丁度収まるだろう。
「先に、帰ってるからね」
透明なビニール傘越しに、太陽が雨に煙っていた。
私は特に何も感じなかった。苛立ちも、怒りも。というのも、出て行けと言い放った人間が、苛立ち、怒っていたからなのだと思う。他人に先を越されると、途端に興味を失ってしまう私だから。
ああそう、とも、うん、とも言わずに無言で身の回りを片付ける。とりあえず、描きかけのスケッチブックと鉛筆と消しゴムが目に付いた。資料や画材をまとめて入れていたビニールバックに詰める。ああこれ、どこの本屋のビニールバックだったっけ。そうだ。駅前の本屋だ。小さい割りに、意外と品揃えが良い。
身支度をする時間も与えられず、時間が刺さるように私を追い立てた。適当にサンダルを突っかけ、玄関を出る。
雨が降っていた。
私はここで初めて最悪な気分になる。もう一度玄関のドアを開け、玄関の傘立てから、この前買ったばかりの、緑色の透明なビニール傘を取った。本当に最悪な気分だ。なんで雨の日に、用事もないのに外に出なければならないのか。生憎行く当てもない。最悪だ。
あてつけに、シューズボックスの上に置いてあった、元々私の物ではない鍵をポケットにつっこんだ。同じく私の物ではない財布が脇に置いてあったが、それは持って出なかった。最大限の優しさだと思ってほしい。
鍵を持って出たのは、ささやかな反撃だ。一つしかないこの鍵を私が持って出てしまえば、元々この部屋にいる住人は外に出ることが出来ない。鍵をかけられないから。まぁ、開けっ放しで出かける事も出来ないわけではないが。
小ぶりな、緑色のビニール傘を開いた。ポイントで、くらげのシルエットが印刷されているのだが、心なしか楽しそうに見えた。雨の日にしか出番がないのだから、それも仕方がない。
雨の中を歩く。さぁ、どこに行こうか。近くの公園でスケッチの続きでもしようと思ったが、この雨ではどうだろう。喫茶店でもあれば良いのだが、駅前まで行くのは面倒だし、この近辺にはそんな洒落たものはない。そして私のこの格好。寝起きのままとしか思えない。適当なTシャツに、ジーンズの短パン。素足にサンダル。すっぴんに眼鏡。髪の毛も適当に束ねただけだった。どこにも行けるわけがない。買い物バックもとっさに引っ掴んで出てきたが、中身は多分多くて5千円くらいだ。まぁ粘れば時間をつぶすに事足りないが、決して頼もしいものでもない。
そんなことを考えていると、足元がずるっと滑った。
最悪だ。
とっさに突っかけてきたサンダルは、ヒールも高くストラップが緩いという作りのやつだった。雨の日に履くとストラップが緩い所為で足が滑る。3分おきくらいに足を小まめに滑らせながら、私の苛立ちは最高潮に達した。
もう、歩いていられない。
無意識に向かっていた、例の公園が目の前だった。あの公園はとてつもなく大きな木が茂っている。その下のベンチなら雨をしのぐのにちょうど良いだろう。
「……」
私は溜め息を付いてベンチに腰を下ろした。
画材の入った袋と、買い物バックを脇に置き、ビニール傘を閉じる。幸い、この大樹の下は雨の雫が落ちなかった。
何もすることがないので、スケッチブックと鉛筆を取り出す。この湿気では紙が湿ってろくに描けないが、何もしないよりは気分がいい。ごりごりと、無理やり鉛筆をすべらせる。うねうねと、変な模様が出来上がっていく。なんだろうね、これは。なんだろう。
さわさわと、向こうで雨の音がする。この木の下は、閉じられた空間みたいだ。雨に遮られて、この木の下だけに別の部屋ができあがる。
私は、ゆらゆらとくらげのように鉛筆を走らせる。
そうだ、あの傘のくらげは、空を泳いでるみたいだった。曇天にたゆたうくらげ。光を反射して、半透明に拡散する。
「……それ、なんの絵ですか?」
唐突に頭上から声がして、私は弾かれたように顔を上げた。
「ごめんなさい。驚かせてしまいましたか?」
困ったように頭を下げる。若い男だった。ふわふわと髪の毛は天然パーマだろうか。明るい色の髪に、濡れてしまったのか雫が光っている。
「……えっと……。別に、ただの落書きです」
私は言いあぐねて、結局ありのままを言った。別に、何を描こうと思っていたわけでもない。強いて言えば、くらげか。
男は、随分若いように見えた。私よりも年下に見える。十代後半くらい、多く見積もっても二十代前半だろう。にこにこと、やたら人懐っこい笑顔でこちらを見下ろしている。
「落書き・・・ですか。こんな日に、こんなところで」
まぁ、確かに、可笑しな事をしていると自分でも思う。しかしなんとも答えようがないので、私は曖昧に頷いた。ええ、まぁ、そんなところです。とか、そんなことを言った。
「……傘、持ってないんですか。雨、降ってるのに」
男に立ち去る気配は無い。私は何か言わなければならないような気がして、しぶしぶ尋ねた。
「え?ああ、……ぼく、傘はいらないんですよ」
意味の分からないことを言う。さっきからこの笑顔といい、何となく誤魔化されている気がする。しかし何故か悪い気はしなかった。
「……となり、いいですか」
別に断る理由もないので、私は首を縦に振った。
「雨は、いいですね。ぼくは好きです」
まるで、独り言のようにつぶやいた。何故か、さわさわという雨の音が耳元で聞こえた気がした。
「どうして?」
私は言いながら、スケッチブックに目を戻す。鉛筆がまた動き出した。
「……え?」
男はまるで意図しなかったように、驚いた顔をした。どうしてそんなことを訊くのか、と顔に書いてあった。
「だって、雨って普通、嫌われ者でしょ。濡れるし、荷物増えるし、思うように動けなくなる」
「ああ、そうか。そうですね。・・・でも、ぼくは好きですよ。雨。色が冴えて、静かになる。それをね、見てるのが好きなんです。濡れても別に構いませんし」
「そうだね、景色が変わるのはいいと思う。テンポが遅くなって、私と世界にカーテンがかかる」
なんとなく楽しくなって、私はスケッチブックから顔を上げた。くすんだカーテンがこの部屋の向こうに広がっている。薄く、透明で、すべてを洗うカーテン。このカーテンを開ければ、世界は生まれ変わるのかもしれない。
「……あ、やっと笑いましたね」
私は何を言い出すのだろう、と男の顔を見た。相変わらず、柔和な笑みを浮かべている。本当に、にこにこと笑っている。さっきから、なぜこの男はこんなに機嫌が良いのだろう。
「どうして?」
私はまた訊いた。
「……さぁ。どうしてでしょう」
はぐらかすように、肩をすくめる。ちょっとむっとしたが、柔らかなカーテンが揺らぐ程度のことだった。
私はまた、スケッチブックに目を戻した。ゆらゆらと、妙な幾何学模様。
「……それ、もしかしてくらげ、ですか」
男がずい、とスケッチブックを覗き込んだ。
「……うん。そうかもしれない。そんな気がする」
私がぼんやりと頷くと、男はにこっと私を見た。
「ぼくの名前、海月って言うんです」
何を急に。
「くらげ、って書いてミヅキ」
「下の名前?」
「いえ、苗字が」
そうなんだ、と私は返事をした。
「……そうかぁ、これ、ぼくなんですね」
嬉しそうに、男はスケッチブックを眺めていた。何がそんなに嬉しいのだろう。
「どうして、くらげを描こうと思ったんですか」
さぁ、どうしてだろう。
私自身、くらげみたいなものなのかもしれない。いつもぼんやりしていて、海の中をゆらゆら漂うみたいに、ひたすら傍観している。他人を、そして自分自身を。何もしない、ただ、漂うだけ。昔は違った気がする。もっともっと、世界を身近に感じていた。私の目の前には、いつもさわさわとカーテンが揺れている。その向こうで、誰が何をしようと、私には関係が無い。カーテンの向こうにいる私は、黒衣が操るマリオネットみたいに、上手に芝居をしていた。
いや、私自身は上手に芝居をうっていた心算だったのかもしれない。しかし、どうも、そうではなかったようだ。挙句に、追い出される。
私のカーテンを開けた人間は失望する。私がゼラチン状の、形を持たない存在であることに。開けなければいいのに、と思うが、開けたがる人間もいるのだ。私は別に隠さない。そんなことはどうだっていい。去る人間はいずれ去る。私のカーテンの内側には、私一人が佇む場所しかない。
「……くらげ、なのかなぁ、私って思ったんだ。追い出されるし。私は誰も必要じゃないから」
「じゃあ、ぼくら似たもの同士ですね。ぼくも、くらげです」
能天気に、男は笑った。
そうだね、くらげもいいのかもしれない。
こんな雨の日に、当てもなく漂うなんて、くらげにうってつけじゃないか。
つられて、私も笑った。
さわさわとした雨の音に、私の鼓動も響いた。ああそうだ。くらげにも心臓があるんだね。あったかい血が、流れてるんだね。
「あ、雨、上がったかな」
男は、ふと遠くを見た。
「じゃあ、ぼく、行きます。今日はね、気分がいいから、もう少ししたら、戻ります」
「?」
男は立ち上がって、軽くお辞儀をした。くしゃ、と髪を掻きあげると、この木の下から歩き出す。日の光に当たったところで、男は振り返って手を振った。私も何となく、手を振った。
ああ、誰もいなくなった。不思議だ。私のカーテンの内側には、私一人分のスペースしかないんだと思っていたよ。くらげ同士だと、変形しあって丁度収まりがいいのかな。今度一緒に住むやつは、くらげがいいのかもしれない。
私は苦笑した。
全く、今日は妙な日だ。
ただ、悪くはない。
「さぁ、荷物、取りに行かなきゃ」
大きな荷物は、後で着払いでもなんでも、送らせればいい。
私はスケッチブックを閉じて、ビニールバックにしまった。緑色のビニール傘も、忘れずに。
雨の日限定の、この部屋から一歩踏み出す。太陽がうっすらと光っていた。
「……あ」
頬に、微細な粒がはじけた。
「天気雨」
まだ、細かな雫が舞っていた。
私は緑色のビニール傘を開く。
「あれ?」
私は思わず声を上げた。目を見張る。
「ない」
そう。この傘を買ったのは、あれが描いてあったからなのに。
「くらげ」
ポイントでプリントされいた、くらげがいなくなっていた。
「……これじゃあ、ただのビニール傘じゃない」
その上、小ぶりな傘だから、私一人でギリギリなくらいだ。少し荷物が多いと逆に不便する。
でも、まぁいい。くらげ同士なら、丁度収まるだろう。
「先に、帰ってるからね」
透明なビニール傘越しに、太陽が雨に煙っていた。
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