ゾンビーフシチュー ~これを食する者は~

右京之介

文字の大きさ
1 / 1

ゾンビーフシチュー ~これを食する者は~

しおりを挟む
          ゾンビーフシチュー ~これを食する者は~

                                右京之介

ビーフシチュー専門店“コウセイ”は賑やかな住宅街から少し外れた場所にポツンと一軒だけ建っていた。
古い街並みが続いているここら辺りでは珍しく、おしゃれで新しい店だった。
ビーフのような焦げ茶色と、ジャガイモのような薄茶色の木材を組み合わせた小さな建物で、シチューの仕上げにかける生クリームのような白い看板が掛かり、そこにブロッコリーのような緑色で店名が書かれ、夜になると軒下にニンジンのようなオレンジ色のライトが灯った。そして、入口のドアは一枚板で、ビールのような小麦色をしていた。
ビーフシチューをこれでもかと強調するような凝った造りの建物である。新しい街並みでもあまり見かけないモダンな店である。こんな店が突然できたので、地元の人たちも驚いていた。
店のメニューは二つ。ビーフシチューとビールだけである。といってもビールだけを注文するような変わった客はいない。つまみもないからである。
二つをセットメニューにすると割安になるため、下戸と未成年を除くすべての客がビーフシチューとビールをセットで注文していた。

 午後七時、店の前を二人の若い女性が通りかかった。七海と結衣の同僚コンビである。
 二人は同時に立ち止まり、同時に顔を見合わせたが、驚きのあまり声が出なかった。
 軒下のニンジン色のライトが点灯していたからだ。
“コウセイ”は一日一組限定で客を取っていた。そのことは店先に置かれた木製イーゼルに白い文字で書かれている。一組だが、一人でも構わない。しかし二人までらしい。
つまり客は常に一人か二人ということである。完全予約制なのだが、電話やネットで予約はできない。開店時間である午後七時前に直接店へ行って予約を取る。客が入っているかどうかは軒下のニンジン色のライトが灯っているかどうかで分かる。店の中に客がいると、ライトは消えていて、これから予約をしようしても無駄だという意味である。
 今、軒下のライトは闇夜の中できれいなニンジン色に輝き、通行人を誘っている。
 今夜は開店時間になっても予約は入っておらず、店の中に一人も客はいないということだ。
二人の女性が驚くのも無理はない。
この店は会社から帰る途中にあった。店が新規オープンしたときから気になり、いつか入ってみたいと思い、今まで何度も店の前を通り、予約をしようとしていたのだが、一度もうまくいったことはなく、いつ通ってもニンジン色のライトは消えていたからだ。つまり、店の中には常に一人か二人の客がいたということである。
しかし、今日は客が入っていないらしい。
通勤コースだったけど、あきらめずに何度も通った甲斐があったというものだ。
“コウセイ”はそんなに高級な店ではない。値段もイーゼルにちゃんと書かれている。二つしかないメニューであるビーフシチューとビールの両方のセットは税込み二千五百円であり、今日の二人の手持ちのお金で十分食事ができる。クレジット会社のシールが数枚貼ってあるのでカードも使えて、キャッシュレスにも対応している。つまり、ポツンと一軒店で、怪しくもあるが、信用してもいい店ということだ。
今日は最初から予約が入ってなかったのか、あるいは急に予約がキャンセルになったのか分からない。
しかしすぐに入るしかない。このチャンスを逃せば、今度いつ入れるか分からないからだ。
ネットで検索しても出てこない本当の意味での隠れ家的存在の店。グルメ雑誌や地元の情報誌にも記載がなく、ましてやテレビで紹介されたこともない、謎に包まれた店だ。
街の外れに新しくできた店であるため、まだ地元民にも知られていないという理由もあるのだろう。
そんな店に今日初めて入れる。うまい具合に晩御飯はまだ食べてなくて、七海も結衣もお腹はペコペコだし、ビーフシチューは大好物だ。
条件は揃った。
二人は店内の雰囲気やビーフシチューの味の感想を誰よりも早くSNSにアップしてやろうと企んでいた。おそらく誰もやってないので、私たちが一番乗りだ。注目されるのは間違いない。たくさんくれるであろう“いいね”の数を想像すると、自然と笑みが浮かんで来る。ついでに、ヨダレも落ちそうになる。
しかし、七海は店に入る直前になって、
「まさかボッタクリじゃないよね」
ビーフシチューをイメージした茶色い建物を不安げに見上げる。
「店先に値段も提示してあるから大丈夫でしょう」結衣はすぐさま否定する。「ボッタクリ店って、地下にあるような怪しいバーとかじゃない。シチュー店のボッタクリなんて聞いたことがないよ。しかも地下じゃなくて、地上に堂々と建ってるし」
「でも予約が入ってないのはおかしいよね」
「たまたまそうなんじゃない」
「何も分からないって怖いよ」
「新しい店なんてそんなものだよ」
「もし怪しい店だったらどうするの?」
「二人分だから、五千円を置いて、脱兎のごとく、走って逃げよう。今年はウサギ年でしょ」
「アンタはいいよ、元陸上部だから。私は書道部だから、早く走れないよ」
「元陸上部といっても砲丸投げだからね。足には自信がないよ」
「砲丸投げは走らないんだっけ?」
「玉持って走ってどうするのよ。書道部は走らないんだっけ?」
「筆持って走ってどうするのよ」
「バトンの代わりに」
「手が真っ黒になるでしょ」
 二人が店の前でグダグダと迷っている間に、四、五人の人が通りすぎた。いずれもこちらをチラチラ見ていた。モタモタしている隙に、誰かが横からサッと入るかもしれない。
「だったらやめとく?」
「いや、入りたい」
「降って涌いたチャンスはモノにしないとね!」
「分かったよ、覚悟を決めた。入ろう!」
二人は走って逃げられるように、足の屈伸運動を二、三回行った。アキレス腱は肝心なときに切れるというのが、陸上部のあるあるだ。たとえ砲丸投げの選手だったとしても、切れるときは切れるのだ。
 さて、体は整えた。空腹感はさらに増した。ご馳走にありつけるという高揚感も増した。
ビーフシチュー専門店“コウセイ”を褒めた投稿もなければ、けなした投稿もない。何も情報がない中、店の前で少しの間躊躇していた二人だったが、不安に思いつつも、ゆっくりとビール色の重いドアを引いた。
――カラン。
ドアベルが鳴った。
「はい、いらっしゃいませ!」
 思いがけず快活な声が聞こえてきて、二人はホッとした。
 明るく元気な声は人を幸せにする。明るく元気な声でボッタクリはしないだろう。
 カウンターの向こうの厨房で、一人の中年男性が迎えてくれた。
 白いコックコートを着て、白いコック帽をかぶり、黒いエプロンをしている。スリムな体型で年齢は六十代半ばだろう。銀縁の眼鏡をかけて、グレーの口髭を生やしている。表情を見ると温厚そうで、いかにも洋食屋さんのシェフという感じだ。少なくともボッタクリをするタイプの顔ではない。声も顔も合格だ。
七海と結衣は顔を見合わせて、小さく二カッと笑った。
シェフは壁にあるスイッチの一つをオフにした。窓から見える軒下のニンジン色のライトが消えた。今は客が入っているという、通行人に向けてのサインだ。
店内には九つのカウンター席しかなく、確かに客は誰もいなかった。
「お二人様、そちらへどうぞおかけくださいませ」
二人は促されるまま、カウンターに並んで座った。ちょうど真ん中の位置だが、この後、他のお客が入って来ないのだから、端に詰めないで、ここに座っていいのだろう。
店内は照明がやや暗く感じる程度に落とされているため、落ち着いた雰囲気が漂っている。壁には絵画やポスター類が貼られてなく、ゴチャゴチャとした小物雑貨も置かれておらず、目立つ外装と違って、シンプルな内装だった。
「うちはビーフシチューしかありませんが」低い声でシェフが声を掛けてくる。
「はい。店の前にビーフシチュー専門店と書いてありましたから」結衣が答える。
「では、お飲み物はいかがいたしますか? 有料のビールか無料のお茶になりますが」
「二人ともビールのセットでお願いします」
「かしこまりました」シェフは準備をしようとしたが、
「あのう、セットメニューは一人二千五百円でいいですよね?」
七海がしつこく確認をする。
あんた、まだボッタクリを疑っているの?
結衣が呆れたような表情を向ける。
「はい。表に書いてあった通り、お一人様、税込み二千五百円でございます」
ニコリと笑って答えてくれた。
 シェフはビールを先に出してくれて、シチューの調理を始めたが、厨房は丸見えで、小さな店なのでカウンターからも声は届く。
 丸見えということは隠し事がないということなのでいいことだ。だからもう安心だと、二人はコソコソと話しながら、この店の最終的な安全確認を終えた。どうやら二人分の五千円を置いて、脱兎のごとく、走って逃げる必要はなさそうだ。
結衣は七海とビールで乾杯した後、さっそく調理中のシェフに疑問をぶつけてみた。
「今日は予約が入ってなかったのでしょうか?」
 シェフは手を止めずに答えてくれる。
「それが突然キャンセルになりましてね」
「やっぱりそうなんだ」七海は納得する。
「ラッキーだったね」結衣もうれしそうだ。
「でも、どうして一日一組なんですか?」七海が訊く。
「シチューを作るのに手間暇がかかりましてね。それで一日一組限定なんですよ」
「なるほどそういうことか――それで儲かるのですか?」
七海が訊きにくいことをズバリ言う。
「ちょっと、やめなさいよ」
結衣はあわてて七海の服の裾を引っ張って止めるが、
「だって、ランチもやってなくて、営業時間は午後七時から十時までですよね。三時間だけでやっていけるのかなと思いまして。それに営業時間が三時間といっても、客がずっと三時間居るわけじゃないですよね。一日一組の客が三十分ほどでさっさと食べ終わって帰ることもあるでしょうし」
結衣は失礼が止まらない七海の肩をグッと掴むが、
「心配なさらなくても、この店は私一人で切り盛りしてます。ワンオペというやつです。ですから、何とかやっていけますよ」シェフは嫌な顔をせずに答えてくれた。「しかもここは郊外ですから家賃も安いですしね」
 結衣はシェフがにこやかに答えてくれて安心したが、七海のずうずうしさには呆れ返った。
 いつものことではあるが、いつかどこかで誰かに怒られるだろう。そのとき、一緒にいないことを願おう。
 やがて、ビーフシチューが目の前に置かれた。ライスとサラダ付きである。
「ソースもすべて手作りになっております。肉は国産で二日間かけて煮込んであります。どうぞ、お召し上がりくださいませ」
「うあぁ、おいしそう」結衣は感動している。
「肉も野菜も、でかっ!」七海は遠慮なく叫ぶ。「めっちゃ、うまそう!」
 肉、ニンジン、ブロッコリー、ジャガイモ、たまねぎ、マッシュルーム、トマト。
 確かに一つ一つの具材は大きいが、見た目は特に変わったビーフシチューではない。これらが普通の白い器に入っている。
「野菜も契約農家から仕入れてます」シェフは、大きな声で感心している七海を笑いながらも、丁寧に説明してくれる。「その中でも特に新鮮でおいしいものを厳選しております」
「この肉、お箸でも切れるよね。二日間かけて煮込んだだけのことはある」七海はさっそく肉に喰らい付いている。「このデミグラスソースもすごくコクがあるね」
食レポを始めた七海をよそに、結衣はバッグからスマホを取り出した。
「お料理の写真を撮ってもいいですか?」シェフに訊くが、
「えっ? 写真ですか。あぁ、まあいいですよ」歯切れが悪い。
 そこで結衣はふと気づいた。
 ここに食べに来たお客さんは、この店を自分の隠れ家として取っておきたいんだ。写真を撮ってネットにアップなんかすると、人が殺到して隠れ家でなくなってしまう。ますます予約が取れなくなってしまう。ネット上で評判を見掛けないのはそのためだろう。だから、あまり写真を撮る人も少ないし、シェフも写真を撮られることに慣れてないのだろう。
 申し訳なく思ったので、遠慮がちに二枚だけ写真を撮った。
SNSにアップするかどうかは後で七海と一緒に考えよう。
「結衣、早く食べないと冷めちゃうよ」
 人の気も知らないで、七海はガツガツと食べ続けている。
 やっとありつけたご馳走だから仕方ないけどね。
シェフは私たちが食べる様子を微笑みながら見ている。他に客はいないのだから、することはないのだろう。一日一組限定なのだから、この後に来る客はいない。
しかし、のんきに眺めているフリをして、シェフは二人の言葉やしぐさや態度などをしっかりと観察していた。食べることに夢中になっている二人はそのことに気づかない。

一人の男性が予約をしていたのだが、突然海外出張になって、今すぐ会社に戻らなければならないと電話で連絡があった。販売した製品に不具合が生じたためのクレーム処理とのことだった。クレームのためにわざわざ海外へ行くらしい。
また機会がございましたらお越しくださいと言って、軒下のライトを点灯させてしばらくすると、二人の若い女性が入って来た。
新人のOL風の女性で、おそらく同僚だろう。思いがけず店に入ることができて、喜んでくれている。
七海と呼ばれている方は少し天然系の女性で、結衣と呼ばれている女性はしっかりした感じである。
さて、この特別なビーフシチューがお二人のお口に合いますかどうか。
「シェフ、このデミグラスソースには何か他にはない隠し味が入ってますよね」
 七海が訊いてくる。天然女子にしては鋭い。
「ほう、よく気付かれましたね」私は彼女に驚いたフリをして、笑顔を向けた。
 結衣も驚いて、隣に座る七海の顔を凝視している。「えっ、そうなの?」
 スプーンですくってじっくり味わっている。「全然分からないけど」
 私はもったい付けて、二人に話す。
「確かに味の奥行きを出すために隠し味を使ってます。しかし、それが何かは言えません」
「企業機密というやつですか?」七海がスプーンを止める。
「申し訳ありませんが、そういうことです」
「そうですか。教えてもらえないのは残念ですけど、それを私が見抜いたのだから満足です。結衣なんか、未だに分からないものねえ」七海がニタリと笑う。
 結衣は先ほどから、少しずつ何度もソースを口に運んでいるが、隠し味が存在していることさえも感じられないと嘆く。
「七海の場合、舌だけは優秀だからねえ」皮肉を言うしかないようだ。
「舌だけじゃなくて、私はいろいろなことに優秀だけど、舌も例外なく優秀なんだわ」
 隠し味として何を入れているのか、この子たちに話した瞬間、シチューを吐き出すだろう。二度と来なくなるだろう。そして、そのブラック情報はネット上を駆け回り、半永久的に残ってしまう。今や、そういう時代である。
 だから言えないのである。
 食べ終わるまでの短い時間、二人に関するできるだけの情報を聞き出す。しかし、あまりしつこく詮索すると不安がられる。常に笑顔を絶やさず、世間話の延長のように軽く振る舞う。あくまでも話好きなベテランシェフを装う。オープン以来、何人もの客と話してきたため要領は心得ている。しくじることはない。
 二人とも何気ない会話の中から分かったことは、七海が天然系の印象通り、何事にも動じることのない、たいへんポジティブな性格だということだ。
反面、しっかりしていると思われた結衣が意外とネガティブな性格のようだ。
七海がふと漏らした言葉から、結衣はいつまでもクヨクヨと悩んでいて、繊細で壊れやすい性格だということが分かった。
 つまりターゲットとするなら、意外にも天然系の七海ではなく、しっかり者の結衣の方ということになる。
「実はこのビーフシチューのセットメニューには特典が付いてまして」
 私は予定通り、切り出す。
 二人は食事を終えて、サービスで出す無料のコーヒーを飲んでいる。その表情からして、料理には満足していただけたように見える。
「えっ、何ですか?」二人とも驚いた顔を向ける。
表のメニューには書いてないことだからだ。
「もしよろしければの話ですが」わざともったいぶって話す。「一週間後に、お二人をもう一度この店にご招待させていただきます」
「えっ、いいんですか!?」二人ともコーヒーカップが宙に浮いたままだ。
「はい」私は二人にゆっくりと頷く。「ただし、お時間は営業中ではなくて、営業が終わった後の午後十時からの一時間になります――いかがでしょうか?」
 二人は顔を見合わす。
「もちろん来ます!」「万難を排してでも来ます!」
「ありがとうございます」笑顔とともに頭を下げる。「お料理は今日と同じくビーフシチューのセットメニューとなりますが、お値段は半額とさせていただきます――よろしいでしょうか?」
 予約を取らなくても店に入れて、しかも半額。二人きりだから今日のように貸し切り。
 二人がこの特典を理解するために十秒くらいを要した。 
「はい、よろしいです! ここのシチューは毎日食べてもいいくらいですから!」七海が軽口を叩く。
「一週間後の午後十時ですね」
すでに来る気になっている結衣は、予定をスマホに入力している。七海もマネをして入力を始める。
「さらに特典がございます」 
 七海と結衣の指が止まって、シェフを見上げる。
 次は何を言い出されるのか、今度は不安げな表情だ。
 こんないい特典なのだから、何か都合の悪い条件が付いているのではないか。
 そう思ったに違いない。
「今からタクシーを呼んで、お二人を無料で自宅までお送りいたします――お二人の家はここから近いですか?」
 二人はさらなる特典を理解するのに、さらなる時間を要した。
 さらなる特典は怪しいものではなく、さらに満足が行くものだったからだ。
 今から電車に揺られて帰る必要はない。しかもタクシー代はタダらしい。おそらくタクシー代は後日、店に請求がされるのだろう。
 二人は満足そうな表情で、また来週お願いしますと言って、店を出て行った。
 でも、もしかしたらリムジンのタクシーが来て、莫大な料金を請求されるのではないかという、二人の心配はたちまち吹き飛んだ。地元でもおなじみの普通のタクシーがやって来たからだ。しかし、疑い深い七海は乗車してすぐ運転手に訊いた。
「あのう、タクシー代のことなんですが」
「このお店と提携してまして、無料でお二人を自宅までお届けいたします」
やがて、タクシーは二人を乗せて走り去った。
その後を一台の車が尾行していたことを二人は知らない。

 一週間後、二人は再びビーフシチュー専門店“コウセイ”を訪れた。
通常の営業が終わった夜十時ちょうどのことだった。
 二人は前回と同じくカウンターの真ん中に並んで座った。
 さっそく、お調子者の七海が話し掛ける。
「シェフ、一週間が待ち遠しかったですよ。今日のこの時を今か今かと待ってましたよ」
「それはそれは誠にありがとうございます」
シェフは七海の軽口に乗って、軽く会釈を返す。
「ビーフシチューセットを二人前で、飲み物は二人とも生ビールでお願いします」
結衣がオーダーを入れる。
「はい、かしこまりました。わずか一時間ですが、ごゆっくりとお楽しみください」
 結衣は注文をしたが、スマホは取り出さない。写真を撮るつもりはないからだ。
あれから一週間、七海と一緒に会社の帰りに毎日店の前を通った。いつも軒下のニンジン色のライトは消えていた。つまり、毎日お客さんが入っていたことになる。しかし、ネットをあちこち当たってみたが、誰もこの店のことを投稿していなかった。やはり自分の隠れ家として、他人に言うことなく、こっそりとキープしておきたいに違いない。だったら、私たちも写真は撮らずに料理だけを楽しもうと、店に入る前に確認をしておいたのだ。
 シェフは二人が楽しく食事をする光景を眺めている。しかし、あまりジロジロ見ないように気を付ける。食事中に目が合うとお互いが気まずい。
 一週間経っても、二人に何ら変化はないようだった。
 季節は秋の終わりだから肌の露出は少ない。しかし顔を見ても、二人は一般的な若い女性のキレイな肌をしている。前回しっかりと観察をしておいたため、二人の顔のホクロの位置まで覚えている。もともとソバカスやニキビはなかった。この一週間で新たにできたと思われるシミや肌荒れなどは見当たらない。ましてや、顔に内出血の跡は見当たらない。視線は定まっているし、受け答えも正常に行えている。特に可能性のあった結衣の方をよく見てみるが、やはり何ら変わりはない。
 つまり、この二人は“対象者”でないということだ。
 ならば、どういう条件が揃えば対象者になるのか?
 予想はついているのだが確信はない。
詳しいことはいまだに分からない。
しかし何らかの条件があるはずだ。
 これからも実験と観察を地道に繰り返していくしかない。いつか一筋の光明が見える日が来るはずだ。焦らずに任務を遂行していこう。
 今回も食事の後はタクシーで家まで送るという特典が付いていた。
 やがて、一台の普通のタクシーがやって来て、二人を乗せて走り去った。今回はタクシーの後を尾行する車はなかった。
二人を対象者から外したため、尾行をする必要がなかったからだ。
 そう、結衣と七海の二人は“違った”のだ。
 
 グルメレポーターを生業とする太った男がやって来たのは、それから五日後のことだった。
馬尻と書いてバケツと読む名前のタレントだが、芸名ではなく、本名らしい。今回の来店は取材といった仕事でなく、プライベートでの訪問であり、店の前で待機をして、ちゃんと予約を取っての来店であった。
 朝と夜に週一のグルメ番組を持っている。いずれも冠番組だ。特に朝の番組は、誰が朝っぱらからグルメなんか見るのかという批判も跳ね返し、評判は上々で、いい数字が取れているらしい。
「ジャジャジャジャーン! 運命!(うんめい―うまいという意味)」という救いようのない決め台詞は小学生の間だけで流行っているという体たらくだが、イヤミのない顔と分かりやすいレポートで大人にも人気者になっている。
 しかし、ビーフシチュー専門店“コウセイ”はマスコミの取材を一切断っている。だから、特製ビーフシチューを味わうには個人で予約を取って来るしかない。たとえ有名人でも並んで予約を取らなくてはならない。そういうシステムにしている。
 店に入って来るなり、馬尻はトイレに向かった。
シェフは戻って来た馬尻をカウンター席の真ん中に誘導して、おしぼりを差し出した。
「こりゃどうもすんません」
 テレビでよく見かける男はおしぼりで大きな顔を拭きながら、大きな声で言った。
「いやぁ、やっと予約が取れましたわ!」
シェフはビールを出した後、さっそく調理に取り掛かっている。
「馬尻さん、今日は取材じゃないんですね?」シェフが確認をする。
「はい、もう完全なプライベートです。ご覧の通り、スタッフは引き連れてませんし、ちゃんと正規の料金をお支払いいたします。値切ることなんかしませんよ。しっかり完食して、しっかり払って、心置きなく退散いたします」ビール片手に話し出す。
「いや、それは分かってます」シェフは笑いながらも手は止めない。
「見渡す限り、芸能人のサインは飾られてませんねえ」馬尻はキョロキョロしている。
「うちはシンプルな内装を心がけてますから、そういった類のものは置いてないのですよ」
 店内はビーフシチュー色である濃い目の茶色で統一されていて、無駄な飾り付けはされてないし、グルメ番組が訪問したときにくれるステッカー類も貼られていない。かといって、店内は殺風景ではなく、暗めの照明が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「じゃあ、私もサインをするのはやめましょう。きっとシェフは欲しがってるでしょうけどね。はっはっは」ずうずうしいことを言うが、
「馬尻さんのサインが欲しいのはヤマヤマなんですがね」シェフも合わせてくれる。「どんなに著名な方でも、たとえ米国大統領でもサインはお断りしてるのですよ」
「またまた、そんなお世辞を。しかし、お世辞でも言ってもらえるとうれしいですよ。最近はテレビの仕事が減ってましてねえ」
 馬尻は一転して寂しそうな表情を見せて、ビールをグイッとあおった。
 確かにテレビで見る機会は減っているように思える。あちこちの局でグルメ番組が増えて、グルメレポーターが増えたからなのか、この人物自身の人気が落ちているのか。人気番組を担当していたはずだが、どういうことなのだろう。
テレビ業界に疎いシェフには分からない。
 しかし、馬尻のそんな寂しげな表情はシェフが期待していたものだった。
今まで来店してくれた客は悩みを抱えていそうだったが、小さな悩みに過ぎない。だから何も起きないに違いない。これが以前から予想していた条件だ。
つまり、この店で待っているのは闇の中に入り込んで、もがいているような人物だ。
 おそらくそういう人物なら条件に適うはずだ。
 今度こそ、何らかの変化が起きるのではないか。
 シェフは感付かれないように期待する。
 ビールをお代わりした馬尻の表情をこっそり盗み見る。憂いに溢れた顔が見える。逆にこちらが笑顔になりそうになったが、表情を引き締めて、誤魔化した。
「馬尻様、お待たせいたしました」カウンターに特製ビーフシチューが置かれた。
「おぉ!」馬尻は職業柄なのか、それが地なのか分からないが、大げさに驚く。
 見た目は、よそのビーフシチューよりも少し濃く、少し具が大きく、少し具の数が多いだけで、食べる前から声を上げて驚くほどのものではない。
「では、いただきます」丁寧に手を合わせて、スプーンを取る。
「おぉ、これは濃厚ですね!」一口食べて、また大げさに叫ぶ。
他に客はいないのだから遠慮することはない。叫んでもらっても構わない。
さすがに「ジャジャジャジャーン! 運命!」は言わない。営業用の台詞なのだろう。まあ、ここで言われてもリアクションに困るのだが。
その後も馬尻のおしゃべりは止まらない。先ほどのしょんぼりとした表情は、残念ながら一転して明るいものに変わってしまった。やはり食べることが好きなのだろう。しかし明るいとはいえ、心の根っこには沈んだ気持ちが残っていてほしい、それにまた火が付いてほしいとシェフは心で願いながらも、バレないように心地いい接客を続ける。
馬尻は食べてるか、しゃべってるかで、黙り込むことはない。 
シェフはニコニコしながら、馬尻のプロならではの流暢な食レポを褒めながら、質問に答えていく。
「そうですか。やっぱり企業機密ですか」
 ビーフシチューの隠し味に話が及んだとき、馬尻はとても残念そうな顔をした。隠し味を訊き出し、SNSにでも載せようとしていたのか。あるいは同業者に自慢しようとしていたのか。自分の番組で披露するつもりだったのか。
 しかしながら、隠し味の存在を見抜いたのはさすがグルメレポーターである。こんなに体が大きくなるまで食べ続けただけのことはある。もっとも、隠し味の正体までは見抜けなかったようだが。
 それは当たり前のことだ。そもそも隠し味の正体は食べるものではないからだ。
 その後も馬尻は食べながらも、ひたすら話し続けた。最初はシチューの味や店内の造りの感想を延べていたが、後半はビールを四杯お代わりしたことで、酔いも回って、テレビの仕事が減ったことに対しての愚痴が大半を占めるようになった。沈んだ気持ちに再び火が付いたように。
しかしシェフは嫌な顔もせず、聞き手に回る。タイミングよく頷いてあげているため、話しやすいのだろう。聞き上手もテクニックの一つである。必要以上のことをしゃべってくれる。たくさんの接客をこなすことで身に付けたものだ。
やはり馬尻は仕事がうまくいってないことに対する悩みがあるようだ。
シェフはその悩みに期待している。もちろん顔には期待の感情を出さず、人のいいシェフを演じる。

そして、閉店間際になったとき、シェフはちょっと失礼しますと言ってトイレに向かった。
馬尻はこのときを待っていた。
酔いは早い方だが、酒には強く、正体をなくすまで酔うことはない。シェフがトイレのドアの向こうに消えたのを確認すると、おもむろにバッグからスマホを取り出し、カウンターから身を乗り出すようにして、厨房内の撮影を始めた。
店内に防犯カメラはないようだ。入店してすぐにそれはチェックしている。シェフが戻って来るまで、バレることなく写真は撮り放題だ。
店に入ってすぐにトイレをチェックした。トイレのドアを開けると、さらに男女に分かれたドアがあった。つまりドアは二枚ある。トイレの奥まで店内のシャッターの音は届かないはずだ。そこまで計算してある。
 満足いくまで写真を撮り終えた頃、シェフは失礼いたしましたと言いながら戻って来た。
 馬尻は丁寧にお礼を言い、また一週間後にお願いしますと言って帰って行った。一週間後にまた招待するという、一つ目の特典を喜んで受け取ったのである。
もちろん今からタクシーで家まで送るというもう一つの特典も付いていた。迎えに来たのは普通のタクシーだった。
 タクシーの後部座席で馬尻は先ほどスマホで撮影した写真を次々に確認している。
 出されたビーフシチューはとてもおいしかった。何らかの隠し味が使われていることは分かった。しかしそれが何かは分からない。何とか手掛かりはないものかと思い、厨房の写真を撮っておいた。隠し味を探り出し、自分のSNSに投稿して、注目を浴びようと考えていたが、あのおいしさの秘密は何だろうという好奇心からの隠し撮りでもあった。人の良さそうなシェフを騙したことに、少し罪悪感を覚えたが、味への探求心の方が優った。
最近はテレビの仕事が減ってきている。やはり、ただ食べるだけではダメなのだろう。何らかの付加価値が必要だ。グルメ番組やグルメコーナーが増え、グルメレポーターも増えているのは、平和な日本ならではの傾向だ。だから、同業が増えることはいいことなのだろう。
しかし、これからも長らくテレビに呼んでもらえるように、今のうちに少しでも使えるネタを仕入れておかなければならない。生存競争の激しい業界である。競争相手に打ち勝っていかなければ、おまんまの食い上げである。グルメレポーターがおまんまの食い上げになるなんて、シャレにもならない。
SNSに載せるかどうかは酔いが覚めた後でじっくり考えることにして、一枚の奇妙な写真を見つけた。撮っているときは分からなかったのだが、厨房の奥に積んであった段ボール箱の一つに“公63”と小さく印刷されていたのだ。
 なんだこれは?
 職業柄、いろいろな食材や香辛料などのメーカーや生産者を知っている。しかし、“公63”なんて知らない。メーカー名や生産者名にしてはおかしい。
 外国から仕入れた物か? ならば中国だろう。漢字が使われているのだから。
 タクシーが自宅に着くまでまだ十分に時間はある。ネットで“公63”を検索してみるが出てこない。今どき、まったくヒットしない言葉も珍しい。
 仕方なく、知り合いの八藤に写真を添付して、メールを送った。
 八藤は探偵だ。夜の街に溶け込んで調査に当たる孤高の私立探偵というカッコイイものではない。大手探偵会社に勤務するサラリーマン探偵だ。勤務時間は基本的に朝の九時から十八時までで、時間を越えると残業手当も出る。週休二日で有給休暇も取りやすい環境にあるらしい。入居しているビルに看板も大きく掲げている、ちゃんとした探偵事務所の正社員だ。一応、主任の地位にある。たかが主任だというのに、自慢げに名刺を差し出されたことがある。
 調査にはちゃんと正規の料金を支払うとメールに書いておいた。
 だが、ネットで検索しても分からない言葉をどうやって調べるのだろうか。
探偵業だから、素人では分からないいろいろなテクニックがあるのかもしれない。
 しばらく待ってみたが、タクシーが自宅へ着くまでに、八藤主任殿から返事はなかった。

 一週間後の午後十時。
馬尻は特典を使って、ビーフシチュー専門店“コウセイ”に再び訪れた。シェフが笑顔で出迎えてくれたが、一瞬怪訝そうな顔つきになり、ふたたび笑顔に戻った。
ふと、ズル賢そうな表情が垣間見えた。
馬尻はこの一週間で少し痩せ、心なしか元気がないように見え、顔に小さな内出血の跡を見つけたからだ。
 どうやら、待ちに待った変化が現れたようだ。
 シェフは笑い出しそうになるのをグッと我慢して、カウンターにビールを置いた。
「馬尻様、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
「待っててくれましたか、それはありがとう」一週間前と違って声が小さい。
 目の前に置かれたビールも手に取ろうとしない。
「いかがなされましたか?」心配するフリをして、この一週間で何が起きたかを探ってみる。「体の具合でも悪いですか?」
「いやぁ、そうじゃなくて」ビールジョッキを見つめたまま、シェフを見ようとしない。「二つのレギュラー番組が両方ともなくなりましてねぇ」力なく教えてくれる。
「えっ、そうなんですか!?」これは本当に知らなかった。
「まだ正式に発表はされてませんが、局の決定事項なんです」
「評判はいいと聞いてましたが」これも本当だ。視聴率はよかったはずだ。
 シェフはこの一週間で何かが起きたと思ったが、レギュラー番組がなくなるとは思ってなかった。馬尻に起きた変化は大歓迎だが、少し気の毒な気もする。だが、そんなことは表に出さず、心底心配をしている顔をする。
「そうなんですよ」馬尻はやっとビールを手にする。「視聴者の評判はいいし、数字も取れているのですよ」
「では、なぜ番組が?」シェフは調理の手を休めず、会話を続ける。
「それが分かりません。スポンサーの都合だとしか教えてくれないんです」
「テレビ業界で、そういうケースはよくあるのですか?」
「いや、滅多にないでしょうね。私はスポンサーの悪口も言ってませんしね」
 馬尻はいきなりビールジョッキを掴むと、一気に半分くらい飲み干した。
「しかも、後には同じようなグルメ番組が始まると言うのですよ。訳が分かりませんよ。スポンサーもスタッフもまったく同じで、代わるのはMC兼レポーター役の私だけです」
 後任として、ライバルとも言える、ある男性タレントの名を挙げた。同じくグルメレポーターとして活躍している若手の人物である。番組の若返りを図ろうとしているのかもしれない。
 大いに笑って語ってくれた前回と違って、今日の馬尻の表情は終始乏しかった。しかし、ビーフシチューのおいしさはちゃんと褒めてくれた。さすが、グルメレポートを職業にしているだけのことはある。
まだ閉店までに時間があったが、馬尻はそろそろ帰りそうな気配だった。
シェフは最後に質問を一つした。
「つかぬことをお伺いいたしますが、馬尻さんの宝物というのは何ですか? 友情とか恩義とか目に見えないものではなく、手に取ることのできる宝物のことです」
「えっ、宝物ですか? うーん、そうだなあ。夜のレギュラー番組で最高視聴率を取ったときにもらった記念のベレー帽ですかねえ」
「ほう、ベレー帽が宝物ですか」
「当時のプロデューサーがベレー帽に凝っていて、一番のお気に入りをくれました。とても高い帽子らしいですが、二度ともらえないでしょうね」
最後まで寂しげな表情は変わらなかった。
 やがて馬尻は前回のようにビールのお代わりをすることもなく、ビーフシチューを完食して帰って行った。
 特典として付いている、タクシーでの自宅への無料送迎は利用した。
 やって来たのは地元の普通のタクシーではなく、二人の人物のイラストが描かれた旗が立っている車だった。
「これでやっと一人を塀の向こうに追いやったか」
 シェフは店の前に出て、小さくなりつつある車のテールライトを見送った。
 この後、馬尻は行方不明となり、未だに見つかっていない。

 今まで多数の来客があっというのに、なぜ馬尻にだけ条件に合う兆候が現れたのか、確かなことはまだ分からない。おそらく彼は闇の中に入り込んで、もがいてたのだろう。そんな人物に変化が現れるのではないかと、以前から推測はしていた。
しかし、やって来る客の心の中まで見極めるのは難しい。表情やしぐさなどを参考にして、会話の中から探り出さなくてならない。データを集めるには、かなりの時間と経験を必要とする。
 馬尻は一週間の間に、一気に落ち込み、老けてしまった。表情に明るさはなく、絶望的な顔をしていた。レギュラー番組がなくなってしまったからだ。それは偶然起きたことなのだが、そんな人物を集めなくてはならない。
 しかし、まだまだサンプルが足らない。もっとたくさんの人物を観察して、確かな条件を探り出さなくてはいけない。
条件さえ確定できれば的が絞れる。
的が絞れれば、加速度的に向こうへ追いやる人数は増えて行く。
 しかし、目標までは程遠い。トンネルの先は真っ暗で明かりさえも見えていない。
 そこで、今回から店の予約方法を変えることにした。的を絞るためだ。
 店頭にアンケート用紙を用意して、その場で記入してもらい、専用箱に投函していただいた後、後日こちらから連絡をするというものだ。客にとっては面倒なことになるが我慢してもらおう。
何しろ、こちらはたくさんの人類を救わなくてはいけないのだ。

 そんなとき、馬尻が調査協力をお願いしていた探偵の八藤が店にやって来た。
馬尻が移動中のタクシーからメールを送って来たのだが、すぐに返信することはできず、その後添付されていた写真の意味を調べているうちに、時間は経過してしまった。
 あれから馬尻と連絡が取れなくなっている。
電話をかけてもつながらない。いまどき圏外というのはどういうことか? 無人島にでもいるのか? 森の奥地にでもいるのか? それとも入院中なのか? 病院に寝たきりなら、電源は切られているはずで、スマホは使えない。
 馬尻とは別の飲食店で出会った。テレビでよく見掛ける有名人だったため、こちらから声をかけた。その場で意気投合したのだが、自分が探偵だと言ったのは、それから三か月ほど経った頃だった。特に理由はない。それまで職業を訊かれなかっただけだ。
「へえ、探偵さんだったのですか。ですが今のところ、私から依頼することはないですねえ。独身でお付き合いしている女性もいませんから、浮気調査も必要ないですしねえ」
「何か機会がありましたらでいいですよ。馬尻さんならお安くしておきますから。うな重の特盛分くらいは割引できますよ」
 ビジネスのために探偵を名乗ったわけではないので、名刺を渡しただけで、軽く流しておいた。
 その後、馬尻が最初の依頼をしてきたのは、ダンボールに小さく印刷されている“公63”の言葉の意味だった。ネットで調べても分からないらしい。一応、自分でもネット検索をしてみたが、確かにまったくヒットしない。
 探偵の同僚に訊いても分からなかった。街の図書館に行っても分からなかった。
 人脈を使っても、デジタルでも、アナログでも分からない。
 だったらどうすればいいのか?
残る方法は、このダンボールが置いてあった店に直接行って探るしかない。
というわけで、俺は今ビーフシチュー専門店“コウセイ”の前に立っている。ビーフシチューの色をした木造の比較的新しい建物だ。
一日一組限定で予約を取るためには、開店前に並ばなければならないと聞いていた。
 しかしそれは古い情報だったようで、来てみると予約の方法が変わっていた。貼ってある案内によると、店頭に設置された木箱にアンケート用紙が入っているので、記入して隣の箱に入れると、後日オーナーシェフから連絡が来るらしい。
 店の横にちょうど街灯が立っていたので、その下に移動してアンケートを仕上げる。家に持って帰って、またここまで投函に来るのは億劫だ。ここで立ったまま書くことにする。おそらくみんなこうしているのではないか。
 アンケート内容は名前と年齢と連絡先の他に“シチューを食べる理由”“健康状態”“近況報告”“友達の人数”“最近の悩み”“ストレス解消法”を書くように記されていた。
 なんだこれは?
 個人情報なので予約審査以外に使わないと注意書きがされていた。
 予約審査だって?
 さっぱり分からん。何をやりたいんだ、この店は?
 しかし、書くしかない。“公63”の意味を調べるための現地調査だ。
投函して一週間以内に連絡が来るというので、今日は店に入ることができない。いつになるのか分からないが、人気のある通販ではお届けが数か月待ちなんてこともあるから、気長に待つことにする。
それよりも馬尻の行方が気がかりだ。連絡は取れていない。生きているのか死んでいるのかさえ分からない。レギュラー番組が二つとも突然終わってしまったので、テレビで見る機会もなくなったのだが、マスコミは何も報道していない。相手にされないほど人気が落ちていたとするなら、気の毒なことだ。
結局、“公63”の意味と馬尻の行方の二つを調べる破目になってしまった。馬尻の行方調査は依頼人もいないため、俺がボランティアでやるのだが。
 だが、実は今それどころではない。俺はもっと重要な問題を抱えている。本当はこんな所で、のんきにアンケートなんか書いてる場合ではない。
馬尻と連絡が取れなくなっているのだが、美歩とも連絡が取れないのだ。美歩というのは付き合って半年になる俺の彼女だ。馬尻と美歩はお互いに面識はない。だから二人が駆け落ちをしたなんてことはない。三流ドラマのような展開ではない。偶然俺の周りで連絡が取れなくなった人間が二人いるに過ぎない。
 俺は真面目に書いたアンケートを木箱に投函すると店を後にした。
振り返ると、軒下にオレンジ色のライトが灯っていた。中に客がいるときに点くらしい。店頭に立ててある木製イーゼルにそう書いてあった。
 
 一週間経っても店からは何の連絡もなかった。俺は店の予約審査に落ちたということだ。アンケートはちゃんと真面目に書いておいたはずだが、なぜか落選してしまった。
“シチューを食べる理由”はぜひ評判の味を賞味したいと書いた。“健康状態”は極めて良好である。“近況報告”は元気に生きてます。“友達の人数”はそこそこいる。“最近の悩み”はあまりない。“ストレス解消法”は酒を飲んで寝ることと書いた。
 正直すぎるこの回答の何が問題なんだ? 
善良な一般市民にしか思えないではないか。
ちゃんと税金は払ってるし、選挙も欠かさず行ってるし、長年に渡ってゴールド免許だ。ビーフシチューくらい食べる権利はあるだろう。出された料理はたとえ不味くても残さず食べるし、悪口をネットに投稿するようなセコい俺ではない。
依頼主の馬尻とはいまだに連絡は取れない。だが引き受けた仕事だから、アンケートには再チャレンジするしかない。それしか店に入る方法がない。“公63”の意味を知る方法はないからだ。
というわけで、俺はまたシチュー屋の前に立っている。
軒下のオレンジライトは灯っている。つまり、中に客がいる。俺と違い、アンケートに合格して特製ビーフシチューにありつけた人がいるということだ。
アンケート用紙を見てみると、前回と同じ内容だ。だが同じ回答をすればまた予約審査に落ちるだろう。だから微妙に変えて書く。
“シチューを食べる理由”は子供の頃から貧しくて、今までビーフシチューなるものを食べたことがないからと書いた。同情を引く作戦だ。“健康状態”は最悪であると書いた。これは本当だ。最近いろいろと参っている。“近況報告”は全然元気じゃない、人生に疲れていると正直に書いた。“友達の人数”はほとんどいない。これも本当だ。会社の同僚以外の人との付き合いはほぼない。“最近の悩み”はものすごくある。悩みのてんこ盛りだ。“ストレス解消法”は、そんなものあれば教えてほしいと書いた。
ほぼヤケクソのような回答になったが仕方がない。見栄を張った前回と違って、全部本当のことを書いたらこうなったのだ。
 馬尻から連絡はないが、俺の彼女の美歩からも連絡はない。だから参っている。こんな店のアンケートの答えで悩んでいる場合ではない。“公63”の意味と、馬尻と美歩の行方を探さなくてはいけないのだ。
馬尻からは仕事を受けたに過ぎない。だから今連絡が取れなくても、後になって“公63”の意味は分からなかったと報告しておけばいい。ビジネスでの付き合いだ。
だが美歩は違う。結婚を考えているのだから、俺の一生がかかっていると言っても過言ではない。電話がつながらず、マンションに行っても不在というのはどういうことだ? 俺のことをマジで避けているのか? 何かの事件に巻き込まれたのか?

 その夜、ビーフシチュー専門店“コウセイ”のマスターから電話があった。
 明日の午後七時にお越しくださいと言われた。
 どうやら予約審査に受かったらしい。前回はダメで今回は受かった。その違いは分からない。なぜ、見栄を張った回答ではダメで、正直なヤケクソ回答ならよかったのか不明だ。正直者が馬鹿を見ることなく、報われることもあるということか。日本はいい国だ。
とにかく店に入れることになった。馬尻のために“公63”の意味を見つけてやろうじゃないか。苦労の末、やっと入店できることになったのだから、結果がどうであろうと、調査費はふっかけてやる。

 午後七時。俺はビーフシチュー専門店“コウセイ”のドアを開けた。
 入ったとたん、軒下のニンジン色のライトが点灯を始めた。
 気難しそうな店主だと思っていたのだが、気の良さそうな中年男性が迎えてくれた。
「八藤様ですね。お待ちしておりました」
“コウセイ”の外観は何の変哲もない木造の建物だったが、内装も奇をてらったものではなく、落ち着いた茶色で統一されており、無駄な装飾は施されてなかった。
シェフは挨拶代わりに俺の食の好みなどを訊いてくるが、適当に受け答えしながら、店内に視線を走らせる。“公63”と印刷されたダンボールを探すためだ。客側にダンボールはない。厨房にも積んでない。そもそも火を使う厨房にダンボールは置いてないはずだ。おそらく馬尻が来たときは臨時で置いてあったのか、ちょうど片付けるところだったのか、たまたま置いてあったものだろう。厨房の奥にドアが見える。あるとしたらあの奥だろう。馬尻はシェフがトイレに入っている隙に写真を撮ったらしい。俺もそのタイミングを待つしかないか。
出されたビールを飲む。
「シェフも一緒にどうですか」ダメもとでビールを勧めてみる。
「いえ、仕事中ですから」と断られた。
 そりゃそうだろう。レストランの店主が営業中に客と一緒に酒を飲むなんて、オヤジが一人で切り盛りしている場末の居酒屋じゃあるまいし。
残念ながら、大量のビールを飲ませて、トイレに行かせる作戦は失敗した。
 しばらくして、ビーフシチューが運ばれてきた。見た目はおいしそうだ。口に入れてみると、味も確かにうまいが、俺は普段からシチューは食べない。汁物をおかずにメシは喰えないからだ。おかずは固形物に限る。だからライスではなく、パンにしてもらった。パンをちぎりながら、“公63”の調査をどうしようかと考えてみるが、シェフとの話の内容から探るしかないと結論付けた。ありがたいことに、こちらから話さなくても、シェフから何かと話し掛けてきた。俺をなじみの客にしたいのか分からないが、料理と関係ないこともいくつか訊いてきた。俺はビールの酔いも手伝って、いろいろと愚痴ってしまった。

 目の前に座る八藤という変わった名前の客は初めての来店だった。アンケートを見ると、
“最近の悩み”はものすごくあると書かれていた。条件に合いそうだと判断したため、予約審査を通した。話してみると、深刻な悩みを抱えているようだった。友人と恋人がいなくなったという。友人はともかく、恋人は早く見つかってほしいと、酔いも手伝ってか、泣きそうになりながら話して来る。
もう少しだ。もう少しでこの人物は闇の中に片足を突っ込む。
できれば、あと一週間で闇に包まれてほしい。身動きが取れなくなってほしい。
そしてまたサンプルを増やすのだ。
 シェフは心の中でニタリと笑う。

 俺はビーフシチューを完食して店を出た。ちょうど通りかかったカップルがこちらを羨ましそうに見ていた。予約審査に漏れた連中だろう。俺も一回漏れたのだから、まあ、がんばって合格してくれ。正直なヤケクソ回答なら通ると思うぞ。
 ビーフシチューセットには特典が二つ付いていた。当然、両方利用させていただく。
一つは今日から一週間後、店に招待してもらえるというものだ。結局、馬尻から依頼されていた“公63”の意味は分からなかったから、次の機会に探るしかない。
予想として、“公”は“公司”の“公”じゃないかと睨んでいる。“公司”つまり中国語で“会社“だ。ビーフシチューに使う何かの食材を中国から仕入れているのではないか。ならば大した問題ではない。おそらく香辛料か何かではないのか。俺はグルメじゃないから、食べただけでは分からなかったが。
馬尻が何を企んでいるのか知らないが、ここのビーフシチューは国産の食材を使っているとはどこにも書かれていない。だから中国の食材を使っても問題はない。気にすることではないだろう。どうせ何かを奴の仕事に生かそうというのだろう。俺はテレビ業界のことも詳しくないから分からない。
しかし請け負った仕事だから、探偵として、ちゃんと調査はしなければならない。ここで諦めるわけにはいかない。
 もう一つの特典は目の前に止まったタクシーだった。自宅まで無料で送ってくれるという。馬尻もこのタクシーに乗りながら、俺にメールを送ってきたのだ。見たところ、普通のタクシーで何の問題もなさそうだ。まさかタクシーを使って誘拐はしないだろう。俺にはたいして資産もない。実家も裕福ではない。そもそも身代金なんて払えない。
 俺はタクシーの後部座席から店を振り返った。
軒下のオレンジ色のライトは消えている。俺が店を出てすぐに消したのだろう。一週間後、またここに来ることになったが、それまでこの店とシェフについて調べてみよう。
 
 翌日の深夜。
俺は店が見渡せる場所で張り込みをしていた。店の営業が終わって出てきたシェフを尾行して、自宅を突き止めるためだ。張り込みも尾行も、いつもの探偵としての仕事だから慣れたもので、苦にはならない。そして、相手は素人だ。尾行がバレない自信もある。
店にも近辺にも駐車場がないため、シェフは歩きか電車でこの店に通っているはずだ。だから俺も乗り物を用意することなく、張り込んでいる。
 午後十一時過ぎ。
特典を使って食事をしたらしいカップルが出てきて、タクシーで帰って行った。
 午後十一時半。白いコックコートから茶色いジャケットに着替えたシェフが出てきた。駅へ向かって歩き出す。終電にはまだ間に合う。やはり電車通勤だ。
 俺はすぐに尾行を開始した。うまく闇に溶け込む。最近は隠れるための電信柱も減って来たのだが、この一帯はまだ何本も存在していて、尾行するには有り難い。
やがてシェフは最寄りの駅から三駅目を下りてすぐのマンションに入って行った。タワマンとまではいかないが高級マンションだ。セキュリティはしっかりしているようで、部外者がすんなりと入ることはできない。
 自宅を見つけたが、これだけだとシェフの素性は何一つ分からない。家族構成ですら分からない。郵便受けが中にあって、家族構成くらいは確かめたいのだが、部外者は入れないようだし、防犯カメラも狙っているので、これ以上長居はできない。
 確かここは賃貸ではなく、分譲だったはずだ。一流企業を定年退職した人が退職金で購入して住んでいるケースが多いマンションだ。ビーフシチュー専門店“コウセイ”は比較的新しい。ならばシェフは退職金でこのマンションを買い、余力であの店を建てたというのか。そんなにたくさん退職金をもらえたのか。
明日、店の近所を聞き込んでみよう。新しい店だが、賃貸物件の可能性もある。

 店の営業時間は午後七時からだ。仕入れや仕込みがあるだろうから、少なくとも夕方くらいからは、店の周りをウロウロしない方がいいだろう。一度店に行ったのだから、俺の顔は覚えられているはずだ。それでなくとも、俺は普段から怪しまれる顔をしている。
 というわけで、俺は午前中から聞き込みを開始した。昼過ぎには終わらせる予定で、成果がなければ、また明日の午前中に出直してくるという作戦だ。
 しかし、出直す必要はなくなった。
店があるのは、住宅街から外れた、民家もまばらな場所だったのだが、ためしに周辺で一番大きな家を訪ねてみると、そこが店の大家さんだったのだ。
おばあさんが小型犬を抱えて出てきた。
「佐久川さんのお店ですか。うちが貸してますよ」
 まさかここが大家だとは思わなかった俺はとっさに不動産屋のフリをした。俺は場末の小さな不動産屋によくいるタイプの顔をしているから、名刺を渡さなくても疑われない。この近辺の不動産の値段を調査して歩いていると言って誤魔化す。
 大家の家の前からは、ビーフシチュー専門店“コウセイ”の茶色い建物が見えている。
 そうか、あのシェフは佐久川という名前なのか。
「失礼ですが、大家さんと佐久川さんとはどういうご関係でしょうか?」
 不動産とは関係のない失礼な質問だが、俺は満面の笑みを浮かべ、感じのいい人物を装う。こんなことくらい、探偵ならお手の物だ。
「うちとは他人ですよ。大家と店子の関係に過ぎませんよ。そもそもあの店はうちの息子が居酒屋をやると言って建てたものなんだよ。先祖代々のうちの土地の上にね。でも、途中で息子の気が変わっちゃって、止めちゃったのよ。内装までしっかり作ってあったのにねえ」
「そりゃ、もったいないね」
 おばあさんはおしゃべりだ。俺はおばあさんに合わせて気さくな紳士を演じる。おばあさんが抱えている茶色い犬も紳士らしく大人しい。淑女かもしれないが。
「うちの息子は子供の頃から気が小さくてね。直前になって、ビビッてしまって開店は中止。でもせっかく建てた建物を放置しておくわけにはいかないので、誰かに貸すことにしたのよ。そこで不動産屋さんにお願いしたところ……」
「佐久川さんが借りたいとやって来た」
「そういうことね」
 おばあさんは仲介をした大手不動産屋の名前を挙げて、お宅のライバル会社かねと訊いてきたが、うちは個人でやってる小さな不動産屋だと言って誤魔化した。
 話し好きでヒマそうなおばあさんには、もう少し付き合ってもらう。犬もグズッてないのでヒマなのだろう。犬が用事で忙しいことはないが。
「佐久川さんというシェフはどこかの料理屋で働いてたのですか?」
「それがね、そんな経験はないんだって。でも料理好きが高じて、定年退職後に店を開いたのよ。退職金を使ってね。ほら、料理をする機械とかいろいろお金がかかるでしょ」
「厨房機器は高いからね」
「ズブの素人が始めたんだけど、それで繁盛してるのだから、偉いわよねえ。うちの息子を雇ってくれないかしらねえ」
 気弱なバカ息子のことはどうでもいい。
気になるのは佐久川の前職だ。
「それがね、高級官僚らしいのよ」
「高級官僚だって!?」思わず声が裏返る。
「そうよ。厚生労働省の偉い人らしいよ」
「元厚生労働省のお役人で、しかも偉かった人なんですか」裏返った声が元に戻る。
 ならば、ビーフシチュー専門店“コウセイ”という名前は“厚生”から来ているのか?
 厚生労働省は公的機関だ。働いているのは公務員だ。
 つまり、ダンボールに印刷されていた“公63”も国の何かと関係しているのか?
 いかにも公務員が名付けそうだ。あいつらの発想力は単純かつ貧困だからだ。
 “コウセイ”の茶色い建物に目をやる。
どう見ても、ただのシチュー屋さんだ。しかもバカ息子が建てたものだ。居酒屋をやろうとしていた後に入ったらしい。居酒屋とシチュー屋は同じ飲食店だから、内装などは変更せずに、そのまま使えたのだろう。だから大まかな部分の改装には金がかからなかったはずだ。
あんなちっぽけな建物に国家権力が関与しているのか?
 まさか、そんなことはあるまい。だとしたら、何を探るためのシチュー屋なのか? 訳が分からない。ただの厚労省のOBであり、料理好きのオッサンだろう。そんな顔だったぞ。
「あのう、店のこれはどんなもので?」
俺は指で丸を作って、場末の不動産屋らしく、わざとゲスっぽく訊いてみる。
「保証金は三百万円で、毎月の家賃は二十万円だよ」
おばあさんは勢いで教えてくれる。
「ほう、そうですか。まあ、この辺りの相場ですねえ」適当に相槌を打つ。
 保証金は出て行くときに返してもらえるものだが、国家公務員の退職金なら、賃貸ではなく、物件をそのまま土地ごと購入できそうなものだが。
「私もそう思ったのよ。丸ごと買ってくれないって言ったのだけど、一年間だけ貸してほしいだって」
「一年間だけ!?」どういうことだ?
「そうよ。やっぱり官僚はしっかりしてるというか、ケチ臭いというか。ところで、国家公務員を退職して、自分で店を始めた場合も天下りって言うのかい?」
 それは言わないと思うが。
しかし、なぜ一年間の営業なのだろう。まるで何かの実験店みたいじゃないか。ビーフシチューを全国的に売り出すためのアンテナショップなのか? その後にデカく儲けようとしてるのか? あいつらは悪知恵が働くからな。

 俺は特典を使って、もう一度ビーフシチュー専門店“コウセイ”を訪れた。
一週間前にこの特典のことを聞いた時はうれしかった。午後十時からの一時間という遅い時間だが、予約なしでまた来れる。馬尻の依頼もまだ解決してないため、それを探ることができるからだ。もう一度予約を取るとなると大変だ。アンケートにまた同じ答えを書いて通るかどうか分からない。違う答えを書いたら、さらに分からなくなる。
オーナーシェフの佐久川に、“公63”は国の何かと関係しているのかと、思い切って訊いてみようか。いや、仕入れのルートについては教えてくれないか。飲食店の生命線だもんなあ。
しばらくは、のんきにそんなことを考えていた。
 だが、状況は一転した。
 次から次へと嫌なことが、俺の日常に起きだしたのだ。一生分の不幸が襲って来たように感じた。十三日の金曜日と仏滅と三隣亡が同時にやって来たようだった。神からも仏からも見放された感じだ。
この一週間はいろいろあり過ぎた。
 ここへ来るのに足が重くなるほどに。
 おもわずキャンセルしたくなるほどに。
「シェフ」俺は厨房にいるシェフを呼んだ。
佐久川さんと名前では呼ばなかった。大家さんに聞き込みしたことは内緒だからだ。
「明日地球が滅亡するとして、最後の晩餐に何を食べるかと訊かれたら、俺はここのビーフシチューだと答えるよ」
「ほう、そうですか。それは光栄なことでございます。料理人冥利に尽きます」
佐久川は調理の手を休めずに喜んでくれた。
「最後の晩餐という話題は定期的に出てきますね。皆さんは意外と、高級肉とか高級寿司ではなく、おにぎりのような質素な食べ物を望まれますね。私はお茶漬けがいいですかね。八藤さんの職場で最後の晩餐の話題が出てますか?」
「いや、そうじゃないんだ。本当に最後の晩餐になりそうなんだ」
 八藤はヤケクソ気味にビールを一気にあおった。
 佐久川はニンジンを切ろうとしていた腕を止めた。
「いったいどういうことですか?」
 一週間ですっかり顔色が悪くなった八藤が力のない目で厨房を見ていた。
 同じく力のこもってない声で、何があったのかを語り始めた。

特典を使って、一週間後に八藤が再来店した。
店に入って来た瞬間、佐久川は確信をした。
条件に合う兆候が現れている。
八藤は一週間でかなり痩せ、右頬に小さな内出血の跡を見つけたからだ。左の頬骨の辺りには青アザもできている。アザは初めての兆候だ。
 だが、間違いない。この人は立派なサンプルになる。
 カウンター席に座るなり、八藤は最後の晩餐の話をしてきた。よくある話かと思ったのだが、本当の最後の晩餐になるという。
「いったいどういうことですか?」
 嬉しさを押し殺して、私は八藤に尋ねた。
 探偵を仕事にしているという八藤はこの一週間で立て続けに嫌な目に遭い、もはや生きる気力もなくなったと言い出した。まさに打って付けの条件である。
「月曜日の話なんだが、俺は浮気調査をしていたんだ。探偵といっても小説に出てくるような、殺人犯を推理するようなカッコイイ仕事ではなくて、ほとんどは浮気の調査みたいなことをやってるんだ。どこの探偵事務所もそうなんだけどね」
八藤はビールを一口だけ飲んだ。
「その調査が終わって、会社に戻ったとたん、俺に電話がかかって来た。先方は電話に出たうちの女性社員に、今事務所に戻った人と代わってほしいと言ったらしい。今戻ったのは俺しかいないから出てみると、ついさっきまで俺が尾行をしていた浮気男からだった」
「逆に尾行されていたということですか?」私は調理の手を止めて話を聞いてあげる。
「そういうことだね。浮気の疑いがあった男の後をつけてたのだが、その日は大人しくて、何も起きなかったから、俺は帰社することにした。ところが、どこかで男は俺の尾行に気づいて、逆に俺の後をつけて、探偵事務所に入るところを見たのだろうな。そこで、入ってすぐ電話をかけてきたと言うわけだ。もちろん俺の名前なんかは知らない。だから今戻った人と言ってきたんだ」
「電話はどういう内容だったのですか?」
「ズバリ言ってきた。探偵のお前は俺を尾行していただろう。浮気の調査だろう。依頼人は女房だろう――全部当たっていたんだ」八藤は力なく笑う。「探偵が尾行に気づかれ、依頼人まで特定されるなんて、一番やってはいけないことなんだ。俺は二十年近くこの仕事をしているが、こんな大きな失態は初めてだ」
吐き捨てるように言って、ビールを飲み干した。
八藤は何も言わなかったが、私はビールのお代わりをカウンターに置いてあげた。先ほど出したシチューはまだ湯気を立てている。
「――となると、八藤さんはどうなるのですか?」
「まあ、重い処分が待ってるだろうな」
「懲戒免職とか?」
「そうだな。懲戒免職だと退職金も出ないよな。うちの所長が依頼人と話し合ってから、俺の処分が決まるのだけどね」
八藤は左の頬にできた青アザをそっと触る。
「そのアザはどうされたのですか?」
私はそれが内出血に並ぶ新たな兆候ではないかと疑ったから訊いてみた。
「これは殴られた跡なんだ」なんだそうか。私は少しがっかりする。
「殴り付けるなんて、所長さんは過激な方なんですね」
「いや、違うんだ。これは別件だ。翌日の話なんだが、そんなこともあって、俺は酒を飲んで嫌なことを紛らわせようとした。たらふく飲んで帰る途中、放置自転車を見つけた。邪魔だから蹴り倒してやった。だがそれは放置してあったのではなくて、コンビニに寄るために止めてあったんだ。ちょうど買い物を終えた男が出てきて、倒れた自転車のそばにボケッと立っていた俺が殴られたというわけだ――まさか、あんなチビにやられるとはなあ」
「小柄な方だったのですか」
「俺よりかなりちっこいし、年齢も二十歳くらいだ。だが俺は酒を飲み過ぎてグテングテン。相手はシラフ。勝てるわけないわなあ」
 お代わりしたビールもなくなった。また新しく置いてあげる。
「ああ、悪いね。追加の分の代金は払うから。そしてさらに俺の不幸は続く」そう言って、苦笑いをする。
「まだあるのですか?」これは面白くなってきたが、深刻なフリをしてあげる。
「ああ、次が大事なんだ――女にフラれた」
 八藤は結婚を考えていた美歩という女性と電話がつながらなくなり、共通の友人から連絡を取ってもらったら、全然知らない男と婚約をしていたと、ほぼ半泣きになりながらグジグジと語った。
「それで俺はトドメを刺されたんだ」
 八藤は佐久川に一通り愚痴ると、残りのビールを飲み干し、冷めかけているシチューを涙をこらえて完食した。
その後、おしゃべりな八藤は沈黙を続けた。虚空を睨んだまま何も言わない。
 そろそろ帰りそうになったので、私は最後の質問をした。
「つかぬことをお伺いいたしますが、八藤さんの宝物というのは何ですか?」
「宝物? 俺にそんなものがあったかな」八藤は文字通り、頭を抱えた。「ああ、そうだ。こんな俺でも探偵の仕事で手柄を立てたことがあるんだ。そのときにもらったのが懐中時計さ」
「ほう、今どき懐中時計とは珍しいですね」
「たまたま詐欺師を見つけたとき、所長からシャーロックホームズの懐中時計をもらったんだ。あれはどこに仕舞ったかなあ。押し入れに入れてあるかなあ。あれくらいだね、俺の宝物なんて」
その後、八藤は特典として付いているタクシーでの自宅への無料送迎を利用した。
 普通のタクシーではなく、二人の人物のイラストが描かれた旗が立っている車が到着した。
「こちらへどうぞ」
佐久川が店の外まで出てきて、車の後部ドアを開けてくれた。
 ほろ酔い気分の八藤は後部座席にドカッと座り込んだ。
 やっぱり厚生労働省じゃないか。
車の前部に立ててある旗に描かれたイラストは厚生労働省のシンボルマークだった。
なぜ厚労省の車で送ってくれるのか。そんなことはどうでもよかった。馬尻から依頼をされていた“公63”の意味なんかも、どうでもいい。あいつはまだ行方不明で、連絡は取れない。どこで何をやってんだか分からない。それよりも俺は俺のことで大変なんだ。最後の晩餐も済ませたことだし、さあこれからどうするかだ。
 八藤は大きなため息を一つついた。
佐久川シェフは小さくなりつつある厚労省の車のテールライトを見送り、
「また一人、対象者をあちらの世界に追いやることができた」
 満足げにつぶやいた。
 この後、八藤は行方不明となり、未だに見つかっていない。

 佐久川は確信した。一週間で兆候が現れるのは馬尻や八藤のように傷つき、落ち込み、明日への希望をなくしているような連中だ。闇に入り込んだ連中だ。
 間違いない。そんな連中が痩せたり、顔に内出血の跡ができたりする。
 これで条件は絞れる。無駄な調理をする必要もない。
予約審査のためのアンケートの質問内容を変えればいいだけだ。
 確実な人物だけを店に招待すればいい。普通のタクシーに乗せ、後を付けて、家を特定する必要もない。一週間後に兆候が現れた時点で厚労省の車で送れば済む。
 兆候とは瞑眩現象のことである。漢方薬を飲んだとき、一時的に体の具合が悪くなることがある。これを瞑眩と言う。副作用の一種なのだが、瞑眩を経て、薬が体に効いてくる。
 彼らに起きる瞑眩現象はアザや内出血などである。これらの症状が出ることが、特製ビーフシチューの効果があった証となる。効果があった人物を送り込む。
 問題はこれからどうやって、その人数を増やすかだ。
 目標まではまだまだ。先は長い。

佐久川は厚労省の役人としては異端の存在だった。気に入らないことがあると、同僚や先輩はおろか上司にまで喰ってかかり、意志を貫き通すためには平気で自分のクビを賭けるような、およそ公務員とは思えないほどの危険人物であった。しかし我儘放題というわけではなく、誰よりも会社に対する忠誠心があった。意見の相違があったとしても、結果的に佐久川の主張は常に正しいものであり、異端児とはいえ、たくさんの人望を集めていた。
銀縁眼鏡をかけて、口髭を生やした、いかにも温厚そうな今のシェフからは想像もつかない姿である。
定年退職後、そんな真面目で一本気な性格を見込んでか、奇妙なプロジェクトの協力者として目を付けられた。
 それは、ある物質を不特定多数の人々に摂取させて、その効果を測り、最終的には人類を救済するという前代未聞の壮大なるプロジェクトであった。しかし、一方では実現できるのか、その可能性がまったく分からない色物でもあった。
 しかし、佐久川は引き受けた。
店を出して、不特定多数の客に摂取させる方法を思い付き、提言したのも佐久川だった。
極秘プロジェクトは他人に知られてはならない。派手にできず、最初はこっそりとやる。実績が現れたら、大規模な方法にやり方を変えて、確実に目標が達成できるように邁進していく。そういう計画だった。
定年後でヒマだったこともあるが、懸命に働いたのに大して出世できずに終わったことへの意地の意味もあった。もっと国家に貢献したかったという強い後悔があった。だからプロジェクトへの参加を決めた。
嘱託での雇用になるが、給料は現役時代と変わらないという条件だった。
佐久川には、まだまだお国のために働こうとする意欲が十分にあった。たとえそれが人には言えないような恐ろしい計画であったとしても、それを上回る愛国心といった感情が残っていたのである。

予約審査のアンケート内容を変えた。ビーフシチューの名前を“明日から元気になるシチュー”と銘打つことにした。これだと、闇の中でもがいている真っ最中の人々の応募が増えるだろう。実験対象者がより正確に絞れるというものだ。ネーミングがイマイチだが、お堅い元官僚だから仕方あるまい。元より発想は貧困だ。
先ほどからカウンターには一組の親子が座っていた。
神経質そうな母親と、母親によく似た息子だ。この店で親子という組み合わせは珍しい。ほとんどは大人同士のカップルか一人客だからだ。
「普段、外食はしないのですが」母親が小さな声で話してくる。
「ああ、そうですか」私は調理の手を休めずに会話を進める。
「店の表に、元気になるシチューと書いてあったものですから」
 さっそくあの陳腐なネーミングに誘われて来店くださるとはありがたい。元気になるということは、今は元気じゃないということだ。大いに見込みがある。
二人して顔色が悪い。大きな悩みを抱えているということだ。うまく行けば親子仲良く向こうの世界に送れるかもしれない。親子そろって送り込むのは初めてだ。
「ビーフシチューの中には元気になる成分をふんだんに盛り込んでありますから」
「それはどういったものですか?」
「いや、それは言えないのですよ。お楽しみということです。ですが非合法的な成分は含まれてませんから、ご安心ください。ちゃんと法律を守った食材を使用しております」
「そうですか。名店によくある門外不出の秘伝というものですね。息子が元気になればいいので、それは構いません」
「失礼ですが、息子さんは何かお体の具合でも?」
 母親の隣に座っている息子は細身で、ブルーのシャツを着た、おそらく中学生だろう。先ほどから一言もしゃべらず、調理する私の手元を黙って見つめている。他に目をやる所がないため、私を見るしかないのだろう。といっても、ただ茫然と見ているだけで、何も考えてないように見える。
「息子は中学二年生になってから不登校になりまして」
 いじめを受けて、学校に行かなくなったことを、初対面の私に何のためらいもなく、話してくる。隣に座っている息子も母親のおしゃべりを止めることなく、まるで他人事のように黙って聞いている。そこまで事態は深刻化しているということだ。息子は一度、水を口に運ぶためにグラスを手に取っただけで、じっとしている。目に力がなく、体からも覇気を感じられない。いったい、生きているのか、死んでいるのか分からない有様だ。
つまりは、絶好のターゲットということである。
「いろいろな方に相談したり、セミナーに参加したりしたのですが、息子は分かってくれないと言いますか、殻に閉じこもって出て来てくれません。そんな中で、たまたまこの店の前を通りかかりましたら、元気という文字が見えまして、ビーフシチューを食べて、少しでも元気になるのならと、藁をもすがる思いで、来させていただきました。最近はどうしても、元気や希望や勇気といった言葉に目が行ってしまうのです」
「それはありがとうございます。息子さんが元気になれるように、心を込めてお作りいたします。息子さんに苦手な食材はございますか?」
 息子はちらっと私の目を見たが何も言わない。
「好き嫌いはありません」母親が代わりに答える。「何でも残さずに食べてくれます。それだけは助かっております」
 母親も顔色は悪い。しかし、受け答えはしっかりしている。母親自身の悩みもあるのかもしれない。話の中に夫のことが出て来ない。夫がいるのかどうかも分からないが、これ以上の詮索はやめよう。
やはりターゲットは息子だけかと思ったが、ふとあることに気付いた。
 母親には混入させる量を増やせばどうか?
 単純な思い付きだが、親子で量を変えてみることにした。
 今までも量を増やすことは考えていた。しかし、幾分の躊躇があった。
 なんといっても、量は限られている。毎日生まれるニワトリの卵と違って、限りなく使えるだけの量はない。また、多めに摂取したところで、人体への影響がどう出るのか分かってないからだ。
 今回はいい機会だ。申し訳ないが、この母親で実験してみよう。
 母子はまた沈黙の時間に戻り、私も黙ったまま調理を進める。母親のシチューは味を誤魔化すため、若干濃い味に仕上げる。二人は同じビーフシチューを頼んだ。まさかお互いで食べ比べることはしないだろう。母親の方があれを多めに盛ってあることは気づかれないはずだ。
シチューの火加減を調整しながら、二人のことを思う。
向こうの世界へ追いやることで息子、あるいは母子ともが救われるのだ。ためらってはいけない。この二人のためだ。ひいては日本国家のための仕事なのだ。
佐久川は今一度、そのことを自分自身に言い聞かせて、胸に抱いていた罪悪感を体から追い払った。

母子はビーフシチューの味に満足したようで、何度もお礼を言いながら帰って行った。
母親は、食べ終えて水を飲んでいる息子の方を見て、顔色が良くなったみたいと言った。
しかし、それは気のせいだ。そんな早く症状が出ることはない。今までの実験結果から、何らかの変化が現れるのは一週間後だ。私は母親の方を観察していたが、そちらも変化はなく、顔色は悪いままだった。やはり多少量を増やしたと言っても、すぐに何かが起きるわけではないようだ。いきなり副作用が現れて、倒れたりしないということが分かっただけでも収穫だった。
 親子には一週間後、店に招待するという特典を説明すると、快く受けてくれた。今から再会が楽しみだ。親子ともども、どんな変わりようになっているのだろう。
閉店後、“公63”の在庫がほとんどなくなっているため、文部科学省に発注をしておく。
普段から多く在庫を抱えることはしていない。量には限りがある。もし店が火災や地震などの災害に見舞われて、焼失してしまったら大変だからだ。
尾行を付けたタクシーに乗った親子を見送ると、私はしっかりと戸締りを確認して、店を後にした。午後十一時のことだった。
二人に兆候が現れる一週間後の再会が待ち遠しかった。
しかし、再会はできなかった。
 翌日、ビーフシチュー専門店“コウセイ”は木っ端みじんに吹き飛ばされて、跡形もなくなったからだ。
あの親子が最後の客となった。
 
 古くから続く中門家の庭には高さ三メートルくらいの小さな山があった。
自然に隆起したものではなく、子供が遊びで作り上げたものでもなく、どこかに穴を掘って出てきた土砂を積んだ山でもなかった。しかし、なぜ庭にこのようなこんもりとした部分があるのか分からない。先祖代々誰も知る者はなく、古文書といった類の物も残されてなかったからである。
庭にある山は長年の間、雑草が生い茂った状態で放置されていた。もしかしたら先祖のお墓かもしれない。掘ってみたところで、祟りにでも見舞われたら大変だと家人が恐れていたため、誰も安易に近寄らなかったからである。
山は見ようによって、古墳に見えたのだ。
決して死者を目覚めさせてはいけない。
だが近所に同じような山はない。古墳なら群を成しているのではないか。
古墳ではないにしても、触らぬ神に祟りなしということわざを、中門家は代々に渡り、頑なに守り続けていた。
 しかし令和の時代になって、祟りなんぞ何も気にしないという風変わりな子孫が現れた。
もしかしたら宝でも埋まってるんじゃないか、いっそ俺の代で掘ってやれ。ここはうちの土地だから、何か出てきても全部俺のものだ。掘った者勝ちだ。お宝を換金して、いいもの喰ってやる。いや、いっそのことこんな古くてカビ臭い家なんかブッ壊して、豪邸でも建ててやるか。
山の発掘に反対していた両親が相次いで亡くなり、この家に一人で暮らすことになった中門台助が決心したことだった。
何が祟りだ。祟れるものなら祟ってみやがれ。
柔道三段の大柄な中門は手に大きなスコップを持ちながら、庭の山を見上げて吠えた。
「こんなデカい山を全部平らにしようというバカはいないだろ。一気にてっぺんから攻めてやるか。中心から真下に向かってズドンだ。お宝が埋まっているとしたら、ド真ん中だろうよ」
 中門は右手にスコップを持ち、左手にペットボトルのお茶を持ち、首に大きめのタオルを巻き付けて、庭の山を登り始めた。生い茂る雑草を踏み付けて、わずか三メートル先の頂上へ向かう。頂上が見えてからが遠いんだと、富士山を登るときのような感想をブツクサ言っているうちにたどり着く。息さえも切れないミニ登山だった。
 こんな近くに宝があるというのに、我らが先祖は誰もビビッて掘り起こそうとしない。だから俺が子孫代表として、代わりにやってやる。先祖はありがたく思え。ついでに、ちゃんと守護しろ。金が余ったら、キミたちの墓を大理石で新調してやるよ。三越本店にあるアンモナイトの化石が入った大理石を使ってやるよ。
重機を使えば楽だろうが、業者にお宝の存在を知られてはいけない。重機をレンタルしようにも、俺は普通車の免許しか持ってない。わざわざ免許を取りに行くくらいなら、さっさと掘ってやる。それに、デカい重機でガンガン掘ってたら近所の人に怪しまれる。近所の人はこの山の存在を知っている。高さ三メートルとはいえ、家の前の通りからは垣根越しに山の上半分が丸見えだからだ。
お宅はついにこの山を掘るのか。だったら何か出てくるだろう。同じ町内なのだから、うちにもおすそ分けをくださいよ、なんて言われかねない。うちの近所には欲深いじいさん、ばあさんがたくさん住んでいる。欲深いから長生きできたのか、長生きしているうちに欲深くなったのか知らない。今から掘り起こそうとしている俺も欲深いのだが。
俺はてっぺんに立って、お山の大将の気分であたりを見渡した。だけど、特に絶景というわけではない。ボロい我が家と塀の向こうの隣の家が覗けるだけだ。山といっても中途半端な高さだ。土の堆積場のようなものだ。こんな山を誰が作ったのか。日本庭園に漂う品のある趣なんか、欠片も感じられない。わびさびなんか、あるわけない。
 俺は力を込めて、頂上にスコップを突き刺した。記念の一刺しである。これから山を壊そうとしているのだから、地鎮祭の鍬入れの逆である。神主じゃなくて、お坊さんを呼べばいいのか?
 土はそんなに固くないが、高さは三メートルある。何かが埋まってたとしたら、この山のさらに下の方だろう。ヒマに任せて始めたものだが、けっこう大変そうだ。
だがお宝が待っている。お宝を金に変えれば、いくつもの夢が叶う。
やればできる。がんばれ、俺! 
ご先祖のみなさん、加勢してくれ。大理石の墓石が待ってるぞ。

やがて三十分が経過した。
山の麓には掘り起こした土が散らばっている。一か所に集めているヒマなんかない。
俺は一休みして、首から下げた大きめのタオルで顔を拭き、お茶をガブガブ飲む。
 徳川の埋蔵金を掘るときも、こんな高揚した気分だったのだろうなあ。
あちらは何も出て来なかったが、こちらはお宝を掘り起こしてやるぜ。
ニュースになったら、一躍近所のスターだ。ネットで拡散されたら国民的スターだ。
 さらに三十分が経過した。
 おそらく地上付近まで穴を開けただろう。山の部分は制覇したことになる。つまり山の部分には何も隠されてなかったということだ。
そろそろ地下の部分の掘削に移る。これからが本番だ。
 俺は穴の底から、苦労して掘った直径1.5メートルほどの穴を見上げた。きれいな青空が出ている。天気のいい日を選んで決行したのだ。
雨で穴が崩れて、生き埋めになりたくないからな。穴の底で死ぬと、本当の古墳になってしまう。そのまま朽ち果ててしまうとシャレにならない。探しに来てくれる人はいないからな。
 この穴から出るには、大きめのタオルをスコップに巻き付け、首から下げるようにして、穴の壁を両手両足を使って、よじ登ればいい。たかが三メートルだ。俺ならできる。
だがこれからさらに深く掘るとなると、穴から這い出るのも大変になる。崩れる可能性も高くなる。こんな場所で遭難したくない。馬鹿デカい声を出せば隣の家にも聞こえるだろうが、お宝発掘もバレてしまう。
やっぱり重機を調達して来ようかなあ。
今までは掘った土をスコップで上へ放り投げて外に出していたが、これ以上深くなると、それも大変になる。元野球部の俺でも、もはや両腕の筋肉はパンパンになっている。
続きは明日にしようかなあ。
しだいに弱気になってくる。
 どうしたものかと考えながら掘ってみると、スコップが何か堅いものに当たった。
 今まではずっと柔らかめの土か小さな石ばかりで、大きな石には当たらなかった。これは希望が持てる。
 よしっ、俺は持ってるぞ。
 堅いものに沿って、穴を横へ向けて掘り始めた。
場所はおそらく地上地点。地面を掘ったという感覚はない。つまり海抜ゼロメートルだ。
ならば、お宝を地面に置いて、上から土砂をかぶせて、山で隠したというのか? 
古代人というのはおかしなことをしやがる。お宝ならもっとちゃんと隠せよ。
 さらに三十分後。
ついに、長さ二メートルほどの石の棺が現れた。
やっと出て来たと思ったら、どう見ても棺桶じゃねえか。やっぱり古墳だったのか。
ペットボトルのお茶は空だし、首から下げている大きめのタオルは汗を吸い取ってドボドボだ。苦労してたどり着いたのが棺桶かよ。棺桶の周りに何もない。お宝はどこだよ。
そもそも棺桶というのは木製じゃないのか。火葬場で棺桶ごと焼くじゃないか。
だけど木製だったら、山につぶされる。だから石でできた棺桶なのか。
おお、そうだ。棺桶の周りには何も見当たらないが、中に入ってるかもしれん。遺体の周りを貴金属で埋め尽くしてるかもしれん。花の代わりにお宝を詰め込んでるかもしれん。   
よし、開けてみるか。
棺桶のフタに手をかけた。
いや、待てよ。ツタンカーメンの呪いって、あったよな。
関係者が次々に事故に遭ったり、病気にかかったりしたという話だ。本当にあったことなのか、都市伝説なのか知らないけど、これは大丈夫なのか? 
一応、お祈りをしておこう。
「なんまいだ~、なんまいだ~、バチは当たりませんように。いや、待てよ。仏教でいいのか? アーメン、アーメン、呪いは起きませんように。明日からもうまいメシが喰えますように――これでいいだろう。東洋と西洋の両方の神仏にお願いしておいたから、大丈夫だろう」
俺は重い上蓋を横にズズッとずらして、中を見た。
茶色く変色した布でグルグル巻きにされた、ミイラらしきものが安置されていた。
わっ、ミイラかよ。ここは日本だぞ。てっきり骨が入ってると思ったのだが。
中身はそいつだけだった。装飾品は何もなく、小判の一枚も宝石の一個も入ってなかった。和洋両方とも宝物は見当たらなかった。
なんだ、ハズレかよ。
 俺はふたたび上蓋をズズッと閉めて、空を見上げた。
相変わらず晴れている。
 お宝は何も出て来なかった。誰か知らない人が眠っていただけだ。おそらく俺の先祖だろう。昔は土葬だったからな。なぜか木製ではなく石製の棺桶に入っていた。ただそれだけだ。さて、山から這い出て、土をかぶせて、元に戻すか。眠ってたところを少し邪魔しただけだから、タタリはないだろう。二度寝すればいいだろ。
 あーあ、俺の苦労はいったい何だったんだ。汗と時間と夢を返せよ。
 大きめのタオルを使って、スコップを首から下げ、自由になった両手両足を使って、穴を登って行くが、ふと気が付いた。
 いや、待てよ。このミイラは売れないのか? 
俺の先祖という証拠はないのだから売ってもいいだろ。俺の土地から、俺が発掘したのだから、どう扱おうと俺の勝手だろ。そもそも墓地以外の場所に死体を埋めるのは違法だろ。だから売りさばいても文句はないはずだ。
 貴重な物なら売れるだろ。どんな物にもマニアックと呼ばれる奴がついている。
 そいつらに売ればいいじゃないか。よし、そうしよう。
 メルカリに出そうと思ったが、よく考えたらこいつは死体だ。受け付けてくれないだろう。商品のカテゴリーに死体はなかったはずだ。ヤフオクもラクマも同じ理由でダメだろうな。ミイラを包んでる布だけなら、剥ぎ取って、出品できそうだが、誰も買わないだろう。
名も無きミイラを買ってくれるとしたらどこだ?
タタリのないミイラはいかがですかー。

 俺は家に戻り、シャワーを浴びてから、東京国立博物館に電話をした。博物館ならミイラの展示もしてくれるだろうと思ったからだ。ときどき古代ミイラ展もやっている。
「お宅でミイラの買取をされてますか?」
「はあ?」と言って断られた。
 国立科学博物館にも電話した。
「お宅は掘ったばかりの生きのいいミイラの買取をされてますか? 今のところ、タタリはありませんし、オプションで石棺も付けますよ」
 ここでも「はあ?」と言って、電話を切られた。
 その後、何軒かの博物館に電話するも要領を得ない。そもそも博物館は買取をやってないのか。やっぱり本場の大英博物館じゃないとダメか。あそこは日本でミイラ展もやってるから、実績もあるんだよなあ。だが電話をかけても英語がしゃべれないからなあ。英語さえ話せれば、きっと大金持ちになれるんだがな。こんなことじゃ、真面目に英語の勉強をしておけばよかったなあ。確かミイラは英語でマミーだったな。なんでお母さんがミイラなんだ? エジプト人なら買ってくれるかもしれんが、エジプト語なんか余計にしゃべれんしなあ。
 その後、俺はネットで千葉県の明日花村にある村立考古学博物館という施設を見つけて、ダメもとで電話をしてみた。聞いたこともない村の聞いたこともない博物館だ。
おそらく辺鄙であろう村に村民の税金を使って、何を建ててるんだ?
村おこしの一環として博物館を作ったのか?
もしかしたら野菜がいっぱい収穫できるお金持ちの村かもしれないな。だったら税金も余ってるもんなあ。
期待はしてなかったのだが、予想に反して、なぜか博物館の学芸員がすぐにミイラを見に来ると言い出した。
今すぐだって!?
 俺は山のてっぺんにブルーシートをかぶせると、急いでお茶を買いに走った。
 わざわざ田舎からやって来るということは、きっと高値で買い取ってくれるに違いない。
 いつも買う安物のほうじ茶ではなく、玉露を買うことにした。
 家に帰ったらもう一度シャワーを浴びてから、さっぱりとした服に着替えて出迎えよう。散髪に行ってるヒマはなさそうだが、間違っても、欲深いオヤジだとバレないように気を付けよう。
  えーと、電卓はどこに置いたっけ。

 千葉県の明日花村に住んでいるという村立考古学博物館の学芸員三人はやって来るなり、白い防護服のようなものに着替え、小型カメラなどの機材を持って、山の頂上から下へ降りて行った。
あんな狭い場所にむさ苦しいオッサン三人がよく入れるなあと思っていたが、数分後興奮した様子で這い上がって来た。
「間違いなくミイラです」
 だからミイラだと言ってるだろと思ったが、ここは冷静に対処しよう。なんといっても、古民家が豪邸に化けるほどのお宝だ。三人の気分を害してはいけない。
「ほお、やはりミイラですか。中門家が先祖代々、この山を雨の日も風の日もアラレの日も、命がけで守り続けてきた甲斐があったというものですよ。いや、ようやく日の目を見ますよ。ご先祖さんたちも草葉の陰で大喜びですよ」
山は長年放置してあったのだが、デカい声で堂々と言えば、ウソもホントに聞こえる。学芸員は俺の与太話を真面目な顔で聞いてくれている。
「しかし日本の場合、僧侶が穴に入って、断食しながらミイラになっていきます。決してこのように包帯で巻かれることはありません」
「じゃあ、外国のミイラですか。アーメン、アーメン」
 とりあえず古墳に格上げされた山に向かって手を合わせておく。
「みなさん、お疲れでしょうから、家の中にどうぞ。すぐにお茶をいれますから」
 奮発して買った玉露だ。気分をよくしてもらって値を釣り上げよう。
頼むぞ、高級玉露! お前はこんなときのために存在しているのだ。
 ああ、茶菓子も買って来るべきだったなあ。虎屋の羊羹なあ。だけど近所に虎屋はないんだよなあ。ミイラを売った金で虎屋をここに誘致してもいいな。わざわざ買いに行く手間が省けるからな。

三人の学芸員は防護服のようなものを脱いでくつろいだ。
一番年長の針尊と言う名前の中年男が玉露を一口すすってから、説明をしてくれる。
埋まっているのは本物のミイラと思われる。なぜこんな場所に安置されているのかは分からない。お宅の先祖かもしれないが、学術上、大変貴重なものである。本日は簡単な調査だけで後日、本格的に重機を入れて、掘り出したい――そう言って来た。
 俺はミイラの正体が誰でも構わない。先祖であっても、他人であっても、野垂れ死にした奴であっても、殺されて遺棄された奴であっても、とことん調べてもらえばいい。なんなら今すぐ持って帰ってもらっても構わない。ただし、ここは中門家の先祖伝来の土地であり、ミイラも俺の所有物だとはっきり主張した。そして、条件によっては譲り渡すつもりであると付け加えた。
「話は相談だが、いくら出せるかな?」俺は玉露を口に含んでから、単刀直入に訊いた。
 初めて玉露を飲んだけど、こんな味だったのか。まあまあの味だな。
真ん中に座ってる針尊は両脇の学芸員を見た。
二人は任せたとばかりに頷いて、針尊に視線を返した。
「そうですな。板切れ込みで……」
「待ってくれ。板切れって何だ?」
「どうやらミイラの下に敷いてあるようなんです。そこには何やら文字が書かれてます。何分、穴の底は暗いですし、持って帰って本格的に調べないと、何のための板切れかも分かりません」
「では、その板切れ込みでおいくらになるかな?」
「これくらいですな」針尊は三本の指を立てた。両脇の男二人も納得したように頷く。
 うーん、三千万円か。予想より少ないな。豪邸を丸ごと建てるのは難しいが、豪邸っぽい家に改装することはできるな。土地はこのまま活用できるし、上物だけだからな。しかし、ちょっとした物置もほしいなあ。
「もう一声、何とかなりませんかね。つまり四本は無理ですか?」
「私どももそんなに予算がありませんから、三十万でお願いしますよ」
「三十万!? 三千万じゃないのか?」俺は玉露を噴き出しそうになる。
「三千万!? 三十万に決まってますよ」針尊も玉露を噴き出しそうになる。
 三十万円なら雨漏りの修理と白アリの駆除をして終わりじゃないか。
「三十万と三千万は開きがあり過ぎるので、間を取って、千五百十五万でどうだい?」
「両極端な金額の間を取るのはおかしくないですか?」
「どうしても三十万円か?」
「どうしても三十万円です」
 両者のにらみ合いは一時間も続いた。
 ここで二人の男が針尊に提案をした。
三人が自分のお小遣いの中から千円ずつを出すというのはどうか?
結局、それで決まって、三千円が足された。三十万円飛んで三千円だ。
 ああ、もう疲れた。タダよりマシだ。俺に交渉は向いてない。持ってけ、泥棒!
しかし、俺が玉露を三千円で買ったことをなぜこいつらは知っているのか? 尾行されていたのか? 俺は公安にマークされているのか? 俺は超一級の重要人物なのか?
 翌日、庭に大型重機が入り、山は慎重に崩され、無事にミイラは発掘されて、辺りは更地と化した。山が消えた庭は広々として見えた。
 そして、三か所の雨漏りは修理され、白アリは一匹残らず駆除された。
 俺は山があった場所で家庭菜園を始めた。トマトが実るのを今から楽しみにしている。

 文部科学省考古発掘部。
 ミイラを包んでいた包帯が解かれて、傍らに茶色い蛇がとぐろを巻いているかのように置かれている。ミイラ本体は推定で二十歳前後の男性。身長は約百六十センチ。中門台助の庭から発掘されたため、このミイラはダイスケと名付けられた。
中門台助が後になって、ミイラの買取価格が三十万円飛んで三千円とは安くないかと文句を付けてきたので、ミイラの名付け親になってもらったのだ。中門台助は喜んで自分の名前を付けた。発掘者に与えられたネーミングライツであった。もちろん、名付け料は三十万円飛んで三千円の中に含まれている。
解剖台の上に寝ているダイスケを五人の男が取り囲んでいる。明日花村村立考古学博物館の針尊も立ち会っている。他の四人は文科省考古発掘部の研究員である。
エックス線検査はすでに終えていた。中身に異常はない。普通のミイラだった。
誰も口を開こうとしない。
包帯でグルグル巻きにされた本格的なミイラが日本で、しかも古墳地帯でもないただの民家の庭から発掘されて、全員が戸惑っているのである。
そこへ追い打ちをかけるように、ミイラとともに埋葬されていた板切れの文字を解読していた研究員が、タブレットを手に飛び込んで来た。
「すべての文字が判明しました!」興奮して叫ぶ。
「その内容は!?」針尊も興奮して訊く。
「こいつは」研究員がミイラを指差す。「ゾンビです」
「なんだと!」
「はい。そのように記されてます」
 五人は改めてミイラを見つめる。
 ゾンビだと?
 そんなものがこの世に存在するのか?
 架空の妖怪か化け物ではないのか。
 全員がダイスケを前にして混乱する。しかしダイスケは黒い穴となっている二つの目を向けているだけで、語ることはない。死んでいるゾンビだ。
 仮にダイスケがゾンビだとして、誰もが疑問に思っていることを針尊は口にする。
「ゾンビは死なないんじゃないのかね?」
 こう言ったが、ゾンビを目の当たりにするのは初めてで、死なないという情報はゾンビ映画から得たものだ。しかし、全員のゾンビに対する認識はその程度のものだった。
そして、解読研究員もそうだった。
「よく分かりません」こう答えるしかない。
質問をされても、ゾンビについてはみんなと同じような知識しかないため、答えられない。なにしろ見たことも聞いたこともないゾンビだから、説明のしようがないのだ。
研究員はタブレットを持って立ち尽くす。
「板切れには何と書いてあったんだ?」
リーダー研究員の高川が解読した研究員に尋ねた。
 その報告がまだだった。正体がゾンビだと分かって、全員がうろたえていたのだ。
「では、分かりやすく現代語にしたものを読み上げます」
研究員は冷静さを取り戻し、タブレット画面を見つめた。
「ゾンビここに眠る。推定年齢三百歳。性別不明。今後のゾンビのさらなる繁栄を願って、増殖する方法をここに記す。ゾンビを繁栄させるにはミイラ化した体を粉末状にして摂取すべし。摂取量は少量でも可能。個人差はあるが、七日で効果が現れる。すべての摂取者に効果が現れるとは限らない。悩み多き者を標的とせよ。これを読んだ者にゾンビの未来を託すことにする。すなわち人類の救済につながる方法を託すのである――以上です」
 荒唐無稽な内容に誰もが黙り込む。
 やがて、高川が研究員に訊いた。
「最後の、人類の救済とはどういう意味だ?」
「それも分かりません」タブレットから顔をあげる。分からないことだらけだ。
「まさか、すべての人類をゾンビ化すると言うんじゃないでしょうな」針尊は吐き捨てるように言う。「だとしたら、目的が分からんなあ」自分でツッコミを入れる。
 しかし、針尊のヤケクソな発言に誰も反対しようとしないし、賛成しようともしない。ただ、訳が分からないため、困惑しているだけである。なんといっても、ゾンビと人類救済の関係が分からない。
「確か、欧米では人魚のミイラを粉末にして摂取すると不老不死になるという伝説がありましたね」高山が針尊に言う。
「猿の上半身と魚の尻尾をくっつけたものを燻製にした上、人魚だと偽って、ずいぶん輸出されたみたいだな」
「当然ながら、効力はなかったと」
「この板切れはいつ頃書かれたものなんだ?」
「木の劣化具合からして、おそらく江戸時代です」
「不老不死伝説が信じられていた時代だな」
「しかし、不老不死の人間なんか、有史以来いませんからな」
「だったら、人工的に製造されたインチキのミイラではなく、本物のミイラの粉末だとどうなるのか?」
 高山がミイラのダイスケを見た後、全員を見渡して、意見を求める。
 一人の若手研究員が提案した。
「ためしに、このダイスケを粉末にして摂取してみませんか?」
「研究の一貫としての摂取か?」高川が訊く。
「いや、ただ面白そうなので……」
「うーん、確かに面白そうだ。人類救済の意味も分かるかもしれんしな――お前、喰ってみるか」
「やめてください! それはパワハラですよ」
「他にミイラを喰いたい奴はいるか?」全員を見る。「ああ、いないな」
 誰もミイラを食べたくないらしい。当然だろう。
だったら誰かに食べさせるしかない。
 文部科学省考古発掘部では、ミイラの粉末をいかにして誰かに食べさせるかの検討を始めた。
「誰かを飲みに誘って酒に混ぜるというのはどうだ?」
「それでは睡眠薬を入れて女性をモノにしようとする奴と同じだろう」
「そもそも酒に混ぜてもバレないのか? 味はどうなんだ?」
「ミイラの味か。分からんな。お前、ここで味見してみ」
「そうやって引っかけるつもりだろ」
「先日の健康診断で再検査になった奴に治療薬だと言って飲ませるか」
「怪しまれるんじゃないか?」
「うちの食堂のおばちゃんに頼んでみるか。日替わり定食に混入してもらおうや」
「待ってください。身内を騙すのは心苦しいです」
「そうだな、身内だと将来に禍根を残すことにもなりかねん」
「何か他に方法はないのか?」
 一同が静まり返ったとき、
「あるぞ!」後ろから声がした。
 全員が振り向いて、入口を見た。
 トップである文部科学大臣が立っていた。
トレードマークであるべっ甲メガネがキラッと光る。二百万円以上するとウワサされている黄色いべっ甲のフレームだ。
「これは常盤大臣!」全員が驚いて、背筋を伸ばす。
「キミたちは先ほどから何をゴチャゴチャ言っておる」大臣は全員を睨みつける。「そういう実験は厚生労働省にやらせればいいだろ。あそこには実験が好きな連中が揃っておるだろ。遠慮なく、丸投げすればよい」
 どうやら解読した研究員は大臣にもゾンビの情報を上げていたようだ。常盤大臣は情報共有にうるさい。細かいことまで迅速に報告するよう文科省内では徹底されている。そして自分が知らない情報があると、たとえ些細なことであっても、烈火のごとく怒り出し、担当者は左遷させられる。パワハラの権化のような人物である。
 当然ながら、常盤大臣の丸投げ案を採用することにした。大臣からの指示であったが、失敗しても、文科省職員は責任を取らなくてもいいというメリットもあった。
「おお、そうですね。さすが大臣。素晴らしい考えです」
「我々が束になってかかっても、常盤大臣にはかないませんわ」
 次々にゴマすりが始まる。
 こんな良いタイミングでこんな良いアイデアを出してくるとは、常盤大臣は廊下でみんなの話し合いを盗み聞きしていたに違いない。右の耳が真っ赤になっていることからして、ドアに耳を押し付けて聞いていたのだろう。だが、そんなことは誰も言い出せない。地方にある文科省出張所に飛ばされたら大変だからである。
「私たちは文科系の文科省だから、実験は理科系の厚労省に任せましょう」
「そうだ!」「異議なし!」
 満場一致の声を聞くと、常盤順蔵文部科学大臣は満足そうに頷き、大きな体を揺すりながら、のしのしと考古発掘部から出て行った。

厚生労働省薬品実験0号室。
「主任、文科省から実験依頼が届いてます」
「どんな内容だ?」
「先日発掘されたゾンビのミイラを粉にして飲むと、本当にゾンビになるかどうかという実験です」
「バカか。そんなもの、うちに回してくるな」
「それが、常盤大臣からの直々の依頼です」
「しょうがねえな、あの狸オヤジ。だったらうちの大臣に飲ませてやれ。以前うちにいた大臣は国民の前でカイワレを喰っただろ。だったらミイラも喰えるだろ。文科省に連絡しておけ。厚生労働大臣自らが試しに飲んでみるとな」
「ああ、それはいいですね。今のうち文科省に恩を売っておきましょう」
「いいか、俺たちは定年までここにいる」主任は十人ほどの職員を見渡す。「だがな、大臣なんてすぐに代わる。裏金や不倫といった不祥事が発覚したら数ヶ月で交代だ。今まで何人の大臣に仕えてきたか。もう顔も名前も覚えてないわ。かまわん、うちの大臣に飲ませてやれ――だが、粉末のままだとバレるな」
「文科省は茶色いシチューに混ぜるように言ってます」
「特製ビーフシチューか。それはいい案だな。色もミイラっぽいじゃないか。ハリウッドのセレブが飲んでるとでも言えば、あいつ、喜んで飲むだろ」
 みんながゲラゲラ笑い出した。そのとき……。
「それを私に飲ませるわけ?」いきなり後ろから声がした。
トップである厚生労働大臣が立っていた。
全員から笑顔が消え、体は直立不動となる。
宇多野五月厚労省大臣がトレードマークである長い黒髪をなびかせながら、スッと入って来た。髪のメンテのため、月に美容代を二十万円も使っているというウワサだ。確かにいつもツヤツヤしている。かつて一人の職員がこの髪に触ろうと後ろから近づいたところ、後ろ回し蹴りを喰らって、一撃で倒されたというウワサもある。
今の俺たちの会話を廊下で立ち聞きしていたのか?
主任の顔面は蒼白になっているが、
「これは宇多野大臣殿、本日はお日柄もよろしいようで」揉み手でお迎えする。
「外は吹雪いてるわ!」頭の上に雪が乗っかっている。白い雪と黒い髪のコントラストは美しい。
大臣は長い髪を大きく振って、床の上に雪をササーッと散らすと、後ろを向いた。
「高尾事務次官、ここへ!」
大臣に隠れるように、小柄な男が立っていた。厚労省ナンバー2の事務次官だ。スーツのサイズが合ってないらしく、だぶついている。宇多野大臣に仕えてから、ストレスが溜まって痩せたとウワサされている。
「はっ、何でしょうか?」長身の大臣を見上げる。
「お前、ビーフシチューは好きだろ」大臣が睨みつける。
「まあ、嫌いではありませんが」
「お前が飲みなさい」
「はあ?」
「ミイラの粉末が入った特製ビーフシチューをお前が飲んでみなさい」
「あの、ちょっと大臣。これはパワハラではありませんか?」
「違います。いささか強引な業務命令です。お前が飲めないのなら、誰でもいい、下請けに出しなさい――分かりましたね」
 宇多野大臣は有無を言わせず、黒髪をなびかせて、厚生労働省薬品実験室からさっそうと出て行った。事務次官を除く全員が安堵の表情を浮かべた。
 ふう、下請けか……。
ポツンと残された高尾事務次官の脳裏には、定年退職したばかりの佐久川の顔が思い浮かんだ。現役ではなく、厚労省のOBだが、有能な奴だから適任だろう。どうせヒマにしてるだろうから、あいつに飲ませてやろう。在職中は生真面目で、国家公務員のカガミのようだったあいつなら、退職したとはいえ、断らないはずだ。事務次官直接の依頼と言えばいいだろう。もしダメなら大臣の名前を出してもいいだろう。あいつなら、きっと試してくれるに違いない。ミイラの粉末を一気に飲んでくれるはずだ。
結果はどうなってもいい。人類のゾンビ化なんぞ、私の知ったことではない。そもそもそんな荒唐無稽なことが起きるわけない。みんなは揃いも揃って一流大学を出ているのに何を夢みたいなことを言ってるんだ。どうせ何も起こらず、プロジェクトは闇に葬り去られるだろう。
 三流大学から事務次官にまで駆け上がった高尾は一人でせせら笑った。

 佐久川に連絡を取ってみたところ、予想通り、お国のためならと引き受けてくれた。しかし、自分自身で飲むことを断り、代わりに飲食店を出して、不特定多数の客に摂取させる方法を提言してきた。高尾事務次官はそれを承認した。実験ができるのなら、誰が飲んでもかまわない。たくさんの人に飲ませた方がサンプル数も増えるというものだ。増えたところで、ゾンビ化など起きない。下痢をする人が増えるだけだろう。
実験を自分から佐久川へ下請けに出したら、さらに下請けに出されて、孫請けになったが、要は結果が分かればいいのだ。それで宇多野大臣も満足して、常盤大臣に報告してくれるだろう。
こうして厚労省の肝煎りで佐久川がオーナーシェフを務めるビーフシチュー専門店“コウセイ”が誕生した。

しかし三ケ月後、ビーフシチュー専門店“コウセイ”は爆発炎上した。
 そして今、佐久川はかつて店が存在していた場所に立っている。
この地域にしてはおしゃれで、よく目立っていた店はもう存在しない。寂寥感を倍増するかのように、冷たい風が吹いている。
佐久川自身が提案し、レトロ感のある居酒屋から、ビーフシチューをモチーフに改装した店であったが、今は跡形もなく、更地と化している。炎上したばかりで、まだ焦げ臭いニオイが漂っているというのに、数ヶ所から草が生えて来ていた。
 ほう、雑草とはたくましいものだな。
 佐久川は足元の雑草に目を細める。
隣には大家のおばあちゃんが茶色い犬を抱えて立っていた。そもそもの店の持ち主であったおばあちゃんの息子がしっかりと火災保険に入っていたため、けっこうな保険金が下りることになり、とりあえず佐久川はホッとしている。
何らかの原因で漏れ出したガスに引火でもしたのかと心配していたのだが、消防と警察の実況見分によると、ガス漏れは起きてなかったという。しかし燃え残った木製ドアの鍵穴には無理矢理開けようとした跡が残り、焼け跡にはタバコの燃えカスも残っていたらしい。しかし佐久川は喫煙者ではなく、店内も禁煙であった。つまり何者かが店に侵入して、タバコを投げ捨て、火が付いたことにより、爆破炎上したものと思われた。自然発火ではなく、人的な災害であった。
 肝心のミイラの粉末も燃えてしまったが、被害は最小で済んだ。ちょうど在庫が切れかかっていたこともあって、そんなに数を置いてなかったからだ。タイミングがいいことに、最近は在庫を多めに置かないように気を付けていた。限りある資源は大切に扱わなくてはいけない。
以前グルメレポーターの馬尻が来たとき、トイレに入っている隙に店内の写真を撮られたことがあった。天井に埋め込まれている小型の防犯カメラに気づかず、何枚も取っていた。それを佐久川はトイレの中で、防犯カメラと連動させているスマホを使って見ていた。それ以来、ミイラの粉末の在庫は最小限にして、小まめに送ってもらうようにしていた。写真撮影からエスカレートして、盗まれでもしたら大変だからだ。もっとも、何の粉末かは分からないだろうが、念には念を入れたのである。
茶色い粉末は厚労省の関係者が“公63”と呼んでいたものだ。公的な実験のため付けられた“公”という文字に、ミイラの身長が約160センチ=63インチだったため、“公63”と名付けられた粉末である。ミイラは発見者である民間人の名前を取って“ダイスケ”と呼ばれているらしい。
佐久川は粉末を見るだけで、ミイラ本体にはお目にかかったことはなかった。粉末として削られているため、もはや身長は63インチもないだろうが。
ミイラの粉末を値段に換算すると、1グラム6万円はするらしい。覚醒剤並みの値段だ。
 もちろん隣に犬と一緒にたたずんでいる大家さんはそんな事情を知らない。
まさか、小さなビーフシチュー専門店で、密かに国家プロジェクトが行われていたとは、夢にも思わないだろう。
「せっかくお店が繁盛し始めたというのに気の毒だねえ」同情してくれる。
「いやこちらこそ、大事なお店をなくしてしまって申し訳ないです」オーナーシェフは謝罪する。
「いやいや佐久川さんが謝ることはないよ。何者かが放火したらしいからね。カメラには映ってなかったのかい?」
「防犯カメラも設置してあったのですが、バラバラに吹き飛ばされてました」
「じゃあ、犯人は分からないねえ」
 大家さんと佐久川は揃って、警察の事情聴取を受けていた。二人とも動機がなく、事件には関わってないとして、家に帰されたのだが、佐久川の聴取の方はかなり長引いた。
「あんたが国家公務員という上級国民だったから、下っ端の警察官に嫉妬されて、嫌がらせを受けたのでしょうよ。はっはっは」
 随分と遅れて警察署から解放された佐久川を、大家さんは笑って出迎えてくれた。
店がなくなったからといっても、結構な保険が下りることもあって、かなりの余裕である。居酒屋を断念した息子も大笑いしていて、親子でこれがホントの焼け太りだと言って、乾杯したらしい。それでも警察から保険金詐欺を疑われなかったのは、大家さんの人柄だろうか。息子には会ったことはないが、確かにこのおばあちゃんは悪者には見えないし、別段お金に困っているようにも見えない。
「そうそう、あんたが警察から戻って来る前に、ここを見に来た連中がいたよ」
「さっそくマスコミが来ましたか」
「マスコミは店が燃えてるときから来てたよ。あいつらはホント、ずうずうしいよね。火を消さないでパシャパシャと写真を撮っているんだからね。スクープ写真というやつでしょ。会社に戻ったら偉い人に褒められるのだろうよ」
「見に来ていたのはマスコミじゃないと?」
「そうそう。ピシッとスーツを着た男たちさ。黒くて大きな車で来てたよ。白い手袋をした運転手付きでね。隣近所を回って、私が大家だと聞き込んだらしくてね、いろいろと偉そうに訊かれたわ。警察でも事情を訊かれたけど、お巡りさんは態度もよくて、目上の私にちゃんと敬語で話してくれたよ。だけど、あの男はダメだね。上から目線でね。ちゃんと家賃は払ってたかとか、ビーフシチューは食べたのかとか、根掘り葉掘り聞かれたさ」
「大家さんはそれにお答えになったのですか?」
「答えないと何をしでかすか分からない雰囲気だったからね。家賃はちゃんともらってたけど、私はビーフシチューなんか食べてないと言ってやったよ。そしたら、なぜ食べてないのかと訊かれてさ。あたしのようなおばあちゃんにビーフシチューが似合うかいと、逆に聞いてやったさ。そしたら、男はフンと鼻で笑いやがった。たった一回だけだったね、男が笑ったのは」
「その男は具体的にどんな感じの人でしたか?」
「それが金髪でねえ、背が高くて、顔の掘りが深いハーフっぽい人だったよ。だから染めてるんじゃなくて、地毛なんだろうね。日本語はちゃんと話してたよ。言葉遣いと態度は悪かったけど、見た目だけはいい男だったわねえ」
 大家は男の容姿を思い出したのか、うっとりしている。
しかし、佐久川の眉間にはシワが寄った。
 外務大臣自らがここへ偵察に来たというのか。
 確かにあの男は金髪のハーフだ。父親がアイルランド人だと聞いたことがある。政治家には珍しく、普段から滅多にメディアには出ようとしない変わり者だ。テレビに映ったのも、大臣になって、最初のお披露目のため、入閣した連中と国会の階段に並んだときくらいだ。だから、大家さんが顔を知らないのも無理はない。
 外務省が動いていたとは想定外だった。
「佐久川さんは元高級官僚だと言ったら、イケメンハーフは驚いてたよ」
 そうか、おしゃべりな大家さんのお陰で、こちらの正体がバレてしまったのか。
 まあいいだろう。あいつらの調査能力からすれば、早晩バレることだ。構わない。
 佐久川は辺りを見渡し、店が建っていた土地が狭かったことに驚く。店を切り盛りしているときには、土地の広さなど意識していなかったため、意外であった。短い期間であったが、いろいろなことが頭の中を去来する。しかし感慨にふけっている暇はなさそうだ。
 もはや土地だけになってしまった空間に大臣が運転手を連れて、やって来たという。爆破の後、店はどうなっているのか偵察に来たのだろう。犯人が現場に戻るというのは本当らしい。運転手役はたくさんいる秘書の中の一人だろう。
外務大臣自らが手を汚すとは思えない。おそらく部下に命じて、やらせたはずだ。あのワンマン大臣の命令に逆らえる部下は一人もいないだろう。外務省は世界中に拠点があるため、どこに飛ばされるか分からない。
店を吹き飛ばしたのは外務省の連中に違いない。しかし証拠はないし、はっきりとした動機は分からない。何か金のニオイを嗅ぎつけて来たのかもしれない。
霞が関には魔物が住んでいると言われる。
金髪でハーフの外務大臣ことオライリー山越も魔物の一人だった。
「その連中はどこかの不動産屋じゃないですかね」大家さんには誤魔化しておく。「この土地に目を付けたのでしょう」
「あんな愛想のない不動産屋なら取引は勘弁だね。二度と顔を見たくないよ。偉そうにしていた男の運転手も偉そうだったからね――ねえ、そうでしょ?」
 大家は抱いている茶色い犬に話しかけるが、そっぽを向いたままだ。確かチワワという犬種だ。
「あいつらはロクに礼も言わないで、あたしに排気ガスを浴びせて、大きな車で帰って行ったのよ。ところで、ここにまた新しく上物を建てたら、あんたがまた借りて、ビーフシチュー屋さんをやってくれるかい?」大家が訊いてくる。
 しかし、店の移転先はだいたい決めてあるとウソを吐いて、ありがたい申し出をやんわりと断った。
大家さんは私が個人で店をやっていると思っている。店を再開するためには、資金さえあればできると思っている。なかなかそうはいかない。公務として店を経営しているのだから、個人でなんとかできる問題ではない。店を再建するとしたら、また猥雑な手続きが待っている。これが公務員というものだ。
 佐久川はミイラの粉末入りビーフシチューを出張販売で売ることを思い付き、許可を得て、とりあえず、この地を去ることにした。出張販売だと、実店舗と違って経費も少なくて済むので、ケチな厚労省でも許可はすぐに下りた。
火災保険が下りる為、大家さんには何も損失はなく、保証金が減額されることもないため、店を借りるときに預けた三百万円は満額、銀行口座に振り込んでくれることになり、そのまま出張販売店のオープンのための資金となった。
 日本国民をゾンビ化するための国家プロジェクトはこれからも続いて行く。

 一か月前。外務省大臣室。
 大臣机に座るオライリー山越の前に一人の男性職員が立っていた。座っている大臣と立ってる男の目の高さが変わらないのは、大臣の背が高く、男の背が低いからだ。
 男は、厚生労働省が発送する“公63”という小さなダンボール箱を見たという。
「公62までしかないはずだろう」オライリー外務大臣は職員を睨みつける。
「それが、確かに63と印刷されてました」職員は上目遣いで答える。
「ならば、発送先が一か所増えたのではないのか?」
「いいえ。厚労省のサイトを見ても、発送先は62までしか載ってません」
 この場合のサイトというのは、一般人向けに情報発信されているサイトではなく、省庁の関係者しか見ることができない内部のサイトである。それを見ると、お互いの省庁がどのような仕事をしているのか、概略がつかめるようになっている。
「しかもそのダンボールを発送するときは、ものものしく厳重体制が敷かれておりまして、宝物を扱うかのように、周りを人が取り囲み、見えなくしています。私はトラックに積み込むところにたまたま通りかかりまして、ちらっと“63”という数字が見えたもので、ご報告に上がった次第です」
「ふーん」大臣は厚い胸の前で太い腕を組み、高い天井を見上げる。天井からはフランス政府からもらった派手なシャンデリアがぶら下がっている。
「公63か。それは臭うな」
「はい、確かに臭います」男は自分の情報を受け入れてもらって、少し安心する。
実は外務省も厚労省がコソコソと何かをやっているところまでは掴んでいた。しかし、具体的なことまでは把握できていなかった。職員の間で厳戒な情報規制がされているのだろう。何も漏れて来ない。
だが、金の臭いがするのなら、こちらも動くしかない。  
オライリー大臣は再び男に目をやった。
「よく知らせてくれた。この件は副大臣に探らせるとしよう。君は部署に戻って、副大臣からの指示を待つんだ。それと、この件は省内極秘扱いとするように」
「はっ!」
 男性職員は深く頭を下げると、満足そうな顔をして、大臣室を出て行った。

 荷物を満載した宅配業者が最初の配達を終え、路上に停めてあるトラックに戻って来た。
厚労省から委託を受けている業者である。
いつものように六十三個中、届け先が近場にある二十四個の荷物を配達しなければならない。荷物にはすべて“公”の文字と数字が書かれており、箱に貼り付けてある伝票の細かい文字を読まなくても、すぐに分かるようになっている。
 次の配送先が頭に入っている若手ドライバーが小走りで運転席に向かっていたところ、ジーンズ姿の外国人風の男が声をかけてきた。
「あの、お兄さん、すいません。郵便局はどこですか?」
 あと二十三個の配達が残っている。忙しいときに何だよと思ったのだが、ここはオフィス街で、周りには通行人がたくさん歩いている。誰が見ているか分からない。親切にしてあげないと、会社にクレームが入ったり、隠し撮りされた写真がSNSに面白おかしく掲載されたりするかもしれない。迷惑なことに、トラックには自分のネームプレートが貼り付けてある。
 ここは表情に出さずに、グッと我慢をする。
「はいはい。郵便局ですね。ここをまっすぐ……」
「まっすぐ?」
「ああ、日本語は分かりませんか。ここをストレートに行って、右に……」
「右?」
「ああ、ライトに……」
「電気?」
「いや、そのライトじゃなくて、右という意味のライトです。右に曲がる。ターンライトです」
「牛ターン?」
「いや、厚切りでおなじみの牛タンじゃなくて。ああ、俺の発音が悪いのか」
 二人がトラックのちょうど正面で話しているとき、別の男によって、後部のドアが開けられていた。前からは死角になって見えない。そこへもう一人の男が小さな台車を押してやって来た。上には何も乗っていない空の台車だ。二人とも宅配業者と同じような制服を着ているのだが、よく見ると、本物とは微妙にデザインが違うことが分かる。
 道行く人たちには二人が台車へ荷物を下ろそうとしているように見えるだろう。誰も不審に思う人はいないようだ。
 トラックの荷台に乗り込んだ男は“公63”と印刷された小さなダンボールを見つけ出すと、台車の横に立っている男の元に運んできた。台車の男は上に貼ってある伝票の写真をすばやく撮ると、カッターを取り出し、荷物の一部を開封した。
「――粉だ」荷台の男がつぶやく。
 台車の男は荷物の中身を想定していたかのように、先の尖った細い管をポケットから取り出すと、ビニール袋に突き刺し、中の粉末を少量抜き取った。その後、開封がバレないように封印すると、何事もなかったかのように空台車を押しながら、二人はトラックから立ち去った。
 トラックの前方にいた外国人風の男はドライバーに何度も頭を下げて、お礼を言いながら、郵便局のある方角へ歩いて行った。
 親切に道順を教えてあげたドライバーは何も気づくことなく、後ろのドアが閉まっていることを確認すると、次の配達先に向けて、トラックを走らせた。
この間、わずか二分間の出来事だった。

 ちょうど郵便局の前に来たところで、外国人風の男が電話を取り出した。先ほどの二人と簡単に会話を済ませると、続けて外務大臣室の直通電話にかけた。
「丸橋です」
「おお、副大臣か。どうだった?」
「首尾よく行きました。どうやら中身は粉だったようです」
「――粉? そうか。粉の可能性もあったわけだな」
「はい。液体や粉末の可能性も考慮して、道具の準備をしておりました。二人が盗み出したサンプルをすぐに大臣室までお届けします」
「ご苦労だった。鑑定班を待機させているから、すぐに粉の正体も分かるだろう。君も後で大臣室に寄ってくれ。善後策を話し合おうじゃないか」
 道を尋ねた外国人風の男こそ、副大臣のヴィン丸橋であった。大臣のオライリー山越と同じくハーフだったが、日本生まれの日本育ちであり、当然日本語はペラペラであった。宅配業者に化けた二人の職員がサンプルを盗み出す間、日本語が分からない外国人のフリをして、時間を稼いでいた。外国人風の顔だったため、疑われることはなかった。副大臣自らが現場に出て、仕事をこなしていたのだ。
 ヴィン丸橋は副大臣室に戻ると、ジーンズからスーツに着替え、粉末の鑑定結果が出る頃を見計らって、外務大臣室へと向かった。

「おお、副大臣。待っていたぞ」
ちょうど午後三時になっていた。
オライリー山越大臣は大臣机に座って、午後のおやつを食べていた。大臣は午前十時と午後三時の二回、甘いおやつを食べる。糖分を吸収しないと頭が働かないらしい。
オライリー大臣の目の前に、ヴィン副大臣が直立不動で立った。
長身で彫りの深いハーフ顔の二人が向かい合う。
 金髪のハーフアンドハーフだ。
「これはなかなかうまいな」
大臣がようじに刺して見せたのは信玄餅だった。
「どなたかの山梨土産ですか?」
「いいや、自家製の信玄餅だ」
「ほう、自家製とは珍しいですね。女性職員に作らせたのですか?」
「そうだ。うちの省にはなかなか器用な職員がいるものだな。本物の信玄餅をちゃんと再現してくれておる。黒蜜もコクがあってうまい。次回の外国訪問のとき、日本土産として、持って行ってもいいな。日本の和菓子は近年人気があるからな」
 関係のなさそうなおやつの話が続く。副大臣もヒマではない。肝心の話が出て来ないため、大臣を急かす。
「ところで大臣。盗み出したサンプルの鑑定結果はどうだったのですか?」
「ああ、これだ」再びようじで信玄餅を刺して、こちらに見せる。「きな粉だ」
「きな粉と申しますと?」
「だから、君たちが盗み出したのは、ただのきな粉だったのだよ」
「そんなはずは……」
「そんなはずだ」大臣は信玄餅の最後の一つを口に放り込む。「鑑定の結果、あの粉はきな粉だった。特別なきな粉ではなく、混ざりっ気のない正真正銘の純粋なきな粉であり、その辺のスーパーで売っている普通のきな粉だった」
 大臣は食べ終えた信玄餅を包んでいた紙をようじと一緒に丸めると、足元にあるゴミ箱に投げつけた。表情には出ていないが、怒っていることは明白だった。
「この通り、きな粉を口にしたが、何の変化もない。ただうまいだけで毒でも薬でもなかったというわけだ」
 確かに大臣の顔色はよく、体に何の変化もなさそうだ。
「なぜ、きな粉だったか分かるか?」大臣は副大臣を冷たい目で見る。
「いいえ。分かりかねます」もはや頭の中が真っ白で何も考えられない。
「隠している物がきな粉に似ているからだ。非合法の白い粉を、同じく白い色の小麦粉で誤魔化すようなものだ」
「きな粉と似ている物と言えば何でしょうか?」
「色が似ているだけなのか、同じく粉末状のものなのか、今は分からんな。実験好きな厚労省のことだから、何かの実験材料だろうな」
「では、あの荷物の発送先のビーフシチュー専門店“コウセイ”とは何の関係があるのでしょうか?」
「さあな。最近はビーフシチューにきな粉を入れるのか?」
「さあ、どうでしょうか。多様性の時代ですが、シチューにきな粉を入れるのか……」
副大臣の声はしだいに小さくなる。厚労省にまんまと騙されたことが明らかになって来たからだ。言い訳は何も思いつかない。失態を認めざるを得ない。
 首尾よく事を進めたはずなのに、どこでしくじったのか?
 オライリー大臣は口元に付いたきな粉をウェットティッシュで拭うと、目の前に立つヴィン副大臣の青い目を、茶色い目で睨みつけた。
「シチュー屋の“コウセイ”へ行って、何が行われているかを探って来るんだ。外務省の威信をかけて探り出せ。それで、今回のミスを帳消しにする――いいな、ヴィン丸橋副大臣」
「はっ!」
 ――カチッ!
 副大臣はかかとを合わせて、敬礼をした。
 ここまで外務省を愚弄されたからには、何としても結果を出さなくてはならない。

 “公63”と書かれたダンボール箱は万一に備えて、二重底になっていた。小さなビニール袋で小分けにされたきな粉の詰め合わせの下に、同じく小分けにされたミイラの粉末が仕込んであった。ミイラの粉末の色に似たきな粉をあちこちから探し出してきて、詰めておいたのだ。こじ開けられたとしても、同封されている粉のすべての成分を分析することはない。するとしても、上の粉だけだろうと読んでいた。見た目はすべて同じなのだから、バレないはずだ。
もしダンボールごと盗難に遭ったとしても、箱には小型の発信機が内蔵されていて、追跡することができた。
 これが厚労省の策略だった。
外務省よりも厚労省の方がリスクマネジメント能力に優れていたということだ。
 外務省のヴィン丸橋副大臣はミスを挽回するために、またもや自ら先頭に立ち、一緒にサンプルを盗み出した連中とは別の二人を手下にして、ビーフシチュー専門店“コウセイ”へ向かった。
 手下の二人は外国人風ではなく、純粋な外国人であった。外務省は人材が豊富である。金さえ払えば何でもやってくれる得体の知れない外国人を多数抱えている。もちろん国民は何も知らない。
 
午後一時。
ヴィン丸橋副大臣を含めた三人は黒くて大きい公用車でビーフシチュー専門店“コウセイ”に乗り付けた。窓に黒いフィルムが貼られていて、中は見えない。
車を下りると、ビーフシチューを模した茶色い建物の前に並んで立った。怪しい店を想像していたのだが、新しくておしゃれな店だったため、三人はしばし呆然とたたずむ。
近所の住民から、店の営業時間は午後七時から十時で、シェフがやって来るのは夕方頃だと聞き出した。定休日はないというので、今日も夕方に来るらしい。
 まだ午後二時だ。開店時間には余裕がある。仕込みの時間を入れたとしても、まだ来ないだろう。店を調べるには十分な時間がある。
どうやらここは普段から人通りが少ないらしい。それでも辺りを見渡してから、三人は店の裏側に回った。ちょうど裏口にドアがあった。
一人がピッキングツールを取り出した。この男の名はアンディ。東南アジア系の外国人で、元犯罪者だ。といっても、今から勝手に鍵を開けるのだから、現犯罪者になる。といっても、外務省公認のため、何ら罪に問われない。
外務省には外国から連れて来た色々な訳アリの人材が揃っている。その特技を生かすことで、法から免れるよう、取り計らってやっている。
 浅黒い顔の男はほんの二分で解錠に成功すると、後ろに立っている副大臣を見上げて、ニヤッと笑った。さすがベテランの元ピッキング犯だ。木製ドアの鍵くらいお手のものだろう。
 三人はドアを閉めると、小型の懐中電灯を持って、無人の店の中に入り込んだ。店内には上質の油の香りが微かに漂う。
「副大臣、ありました」一人の男が呼んだ。
こちらは浅黒い男と対照的に色の白い男だった。レオンという名のドイツ人だ。
さっそく“公63”と書かれたダンボール箱を見つけたようだ。
厨房の隅にある小さなテーブルの上に置いてあったのだ。
「こんな目立つ場所に置いておくとは無造作すぎるな」副大臣は怪しむ。「開けてみろ」
 ダンボール箱はすでに封が切ってあった。
「これはきな粉ですよ」
 二人の外国人は前回まんまと、きな粉に騙されたと聞いている。
「よしっ、舐めてみろ」副大臣は当然のように指示する。
「俺がですか?」レオンは躊躇する。
「当たり前だ。大臣が信玄餅にまぶして喰ったけど、大丈夫だった。お前も大丈夫だろう」
「あの大臣は何を喰っても大丈夫そうですから」
 副大臣が睨みつける。当然逆らえない。
「はい、分かりました」ビニール袋を破り、指の先に少量付けて舐めてみる。「ああ、普通のきな粉です」
「クソッ! 厚労省め、何を企んでやがる。箱の底の方に何か隠されてないか?」
 レオンは箱の中をゴソゴソと探る。
「一番下まで全部きな粉です。何も怪しい物は入ってません」
「他に何かないか探そう。ダンボールがここに届けられていたのは間違いない。きっと何かがあるはずだ」
 三人は裏口のドアを気にしながらも、店の中にあるダンボール箱や棚をくまなく捜索したが、ビーフシチューに使う食材や店の帳簿類しか出てこなかった。
 何も見つからないようでは、前回のミスの帳消しにならない。
副大臣は大いに焦るが、怪しいものは何も見つからない。テーブルの上に乗り、シャッターの開閉棒を使って、天井まで突っついてみたが、隠し扉などない。床も抜けない。忍者屋敷などではない、ごく普通の飲食店だった。
こうして無駄に一時間が過ぎた。
「仕方がない。帰るか」副大臣が力なく、二人に声をかけた。
「ヴィン副大臣」アンディがきな粉の入ったダンボール箱を持ち上げる。「こうなりゃ、嫌がらせで、こいつを店の中にぶちまけましょう!」
「おお、それはいいアイデアだ。二人でやっちまえ!」自分ではやらない。
 アンディとレオンはダンボール箱から取り出した袋を次々に破り、中身を店内にバラまいていく。テーブルの上に乗って、花咲かじいさんのようにまき散らす。
 副大臣が懐中電灯の光で照らしてみると、店内は舞い上がった粉で視界が悪くなるほどになっていた。三人は粉にむせて、息が苦しくなる。
「よし、そろそろ行くぞ」副大臣は咳き込みながら、歩き出した。二人が後に続く。
 ミスの帳消しにはならなかった分、店に嫌がらせをしたことで、胸はスッとしていた。
 三人は裏口のドアを少し開けると、隙間から辺りを見渡してから外へ出た。
 最後に出たレオンがタバコに火を付け、トドメの嫌がらせとばかりに、店の中に投げ込んで、ドアを閉めた。
 いきなり粉塵爆発を起こして、店は木っ端みじんに吹き飛んだ。

 オライリー山越外務大臣の目の前に、ヴィン丸橋副大臣が立っている。
 副大臣は“コウセイ”の爆発に巻き込まれて、全身に大やけどを負っていた。顔にも手にも包帯がグルグルと巻かれている。おそらく体中に巻かれているのだろう。
 顔は目しか見えていない。
「君はスケキヨかね」座っている大臣は立っている副大臣をジロジロ見る。「君は本当に副大臣なのだろうな。顔が見えないからといって、誰かとすり替わってないだろうな」
「そんなことしません。大横溝の読み過ぎです」くぐもった声で答える。「私の目を見てください」
 確かに包帯の隙間から青い目が見える。
「カラコンじゃないだろうな」
「いえ、カラコンのようなモダンな物をする年齢ではありません。それに、私の声でも判断できると思います」
 店が爆発した瞬間、若いアンディとレオンはすばやく地面に伏せたため、体の後ろ半分――後頭部と背中をやけどしただけだったが、中年のヴィン副大臣は反応ができず、突っ立ったままだったので、全身に爆風を浴びた。あやうく命を取り留めたのは悪運が強いからだろう。三人とも、まさか店が爆発するとは思ってなかったので、油断していたのである。
「公用車の修理には五十万ほどかかるらしい」
“こうせい”に横付けされていた公用車は爆発の影響で、左半分が真っ黒焦げになってしまった。強化ガラスが使われていたため窓は割れなかったが、煤で真っ黒になって、黒いフィルムを貼ってなくても、車内は見えない状態だった。幸いにもエンジンは無事だったため、半焦げの公用車を半ば引き摺るようにして、外務省まで運んできた。
もともと車体は黒いのであまり目立たなかったが、細かい傷がたくさん付いており、窓ガラスとタイヤ、ホイールの交換とともに、ボディは全面塗装が必要になった。しめて五十万円である。もちろん修理屋に睨みを利かせて、五十万まで値切ったのである。
「副大臣、分かっているだろうが、これでは前回のミスの取り消しなどできない」
「はい。重々承知いたしております」包帯に包まれた口元がモゴモゴ動く。
「だが、もう一度だけチャンスを与える」
「はっ、ありがとうございます」モゴモゴ。
「本陣を攻め落とす」
「――と言いますと?」モゴモゴ。
「厚労省に忍び込んで真相を確かめて来るんだ」
「えっ、どうやってですか?」モゴモゴ。
「必要な人材は貸与する。遠慮なく言えばいい。私の名前で稟議書を切ろうじゃないか」
外務省はその仕事柄、世界中に伝手を持っている。そのため、いろいろな人種のいろいろな特技を持った連中を集めることが可能なのである。もちろん他の省に知られることはない。ましてや国民に知る余地はない。
ヴィン副大臣は包帯に包まれた腕を組んで、しばし考える。
「では、アンディとレオンはもう結構ですので、代わりに、ものすごいイケメンのメイクアップアーティストを一人ご用意願いますか。年齢、国籍は問いません」モゴモゴ。
「よかろう。その人物と副大臣の二人だけで決行するというのだな?」
「はい、そういたします」モゴモゴ。
「チャンスはこれが最後だと思え。ちなみに、外務省は世界のあちこちに勤務先があるぞ。たまには日本以外の国の空気を吸ってみるのもいいものだぞ」
「はっ!」モゴモゴ。
――カチッ!
陰湿な皮肉を言われたヴィン副大臣はめげることなく、かかとを合わせて敬礼をした。空気なんかどこの国でも同じじゃないかとは、口が裂けても言わなかった。

 三日後の日曜日。
ヴィン丸橋副大臣とものすごいイケメンのメイクアップアーティストは、霞が関にある中央合同庁舎第5号館に入ると、受付で二人分の一時通行証を受け取り、セキュリティーゲートをすんなり通過し、難なく厚生労働省に入り込んだ。
通行証は何食わぬ顔をして、出るときに返却すればいい。
 すべてはアダンと名乗る、ものすごいイケメンのメイクアップアーティストが整えてくれた。
 厚労省の職員名簿を手に入れ、その中から独身者をピックアップし、密かに近づいて、懐柔を図ったのである。ものすごいイケメンのメイクアップアーティストはフランス人だったため、国際ロマンス詐欺のようなものだった。
 なぜ、メイクアップアーティストが必要だったのか?
 ヴィン副大臣の顔をメイクで誤魔化すためである。包帯グルグル巻きの顔面で歩いているだけで、正体がバレてしまうため、ヤケドだらけの顔にメイクを施し、分からないようにしたのだ。もはやメイクというより、ハリウッドの特殊メイクである。任務を終えると、メイクを落とし、ヤケドの薬を塗布して、また包帯グルグル巻きのスケキヨに戻るのである。
「アダンさんよ、罠にかけた相手はどんな職員だったのかね?」
 厚労省の廊下を歩きながら、副大臣がニヤけた顔で問いかける。
ハーフのヴィン副大臣はイケメンで、日本人にしては長身だが、ものすごいイケメンのメイクアップアーティストはさらに背が高い。イケメンで長身の二人組が並んで歩いていると、すれ違う職員が驚いて、次々に振り返る。
「四十代の独身でした」アダンは日本語を巧みに操る。「しかし、一回だけ銀座のバーに連れて行っただけですよ」
たった一回で落とせるのだから、さすがオライリー大臣が探し出した、フランス人のものすごいイケメンのメイクアップアーティストである。相手と一線を越えたのか訊こうとしたが、ゲスに思われたらいけないので、やめておいた。日本人は上品でなければならない。外務省の職員は世界における日本の立場を常に意識している。
 罠に賭けた人物から手に入れたICカードで次々にドアを開けて、建物の奥へと進んで行く。途中、何度角を曲がったか、分からない。
「アダンさんよ。あんたよくここの道が分かるね」
迷わずに進むフランス人に副大臣は驚く。
「その人物から手に入れた建物の見取り図を見て、目的地までの経路は頭に入れてます」
「ほう、そうですか。そりゃ、すごい」イケメンなのに仕事ができるじゃないか。
 元来の方向音痴であり、地図を見ていても迷ってしまう副大臣は感心する。
「その目的地は何階かね? 今、エレベーター前を通り過ぎたぞ」
「それは地下にあります。その人物はベテランの職員で厚労省内はどこでも行けるのですが、たった一か所だけ、関係者以外は入ってはいけない部屋があるらしいです」
「それは怪しいな」
「はい。おそらくそこに何かが隠されているのではないかと、彼は言ってました」
「――彼?」
 まあ、このご時世だ。多様性の時代だ。同性の国際ロマンス詐欺があってもおかしくはない。だが、詳しく訊くのはやめておこう。そちらの趣味はない。
ともあれ、アダンに騙されてくれた彼に乾杯だ。
「チンチン!」

 最後の関門である地下にある部屋のドアを開き、二人は中へ入った。
入口のプレートには“厚生労働省薬品実験0号室”、関係者以外立ち入り禁止と書かれていた。
そこは薄暗く、狭い地下室だった。しかし、今日は日曜日で誰も来ないはずだ。彼の情報では、この部屋が使われるのは平日だけということだった。
ためらうことなく、電灯のスイッチを入れる。今どきLEDではない蛍光灯が部屋を照らす。プレートにある通り、薬品実験室のようだった。
 厚労省内に薬品のための実験室がいくつか存在することは、副大臣も把握していた。
 しかし……。
「0号室って、何だ?」怪しすぎる。
 二人は室内を見渡す。
 壁際には戸棚が設置されていて、いくつもの薬品が並んでいる。しかし、二人の目は部屋の真ん中に置かれた透明の棺桶のようなケースを捉えていた。上から黒い布がかぶせてある。
「何が入ってるんだ?」副大臣が布をまくった。
「うひゃ!」驚いたアダンが後ろに飛びのいた。
 ものすごいイケメンのメイクアップアーティストでも悲鳴をあげて驚くことがあるんだな。しかも悲鳴はかわいい。
 しかし、副大臣は冷静だった。
布の端を持ったまま、それを観察する。
「おそらく、こいつはダイスケだ」
 透明ケースの中にはミイラがいた。
「ダイスケって何ですか?」
 少し離れたところからアダンが覗き込むようにしている。
「こいつの名前だ」
 スケキヨとダイスケが対面した。エイリアンとプレデターの出会いのようなものだ。
「しかし副大臣、なぜ頭しかないのですか?」
「体は文科省にあるということだろうな」
 ケースの中にはミイラの頭部だけが安置されていた。
「アダンさん、そんなところに突っ立ってないで、近づいてここを見てみろ」
 副大臣はミイラの右側を指差した。
 アダンが恐る恐る寄って来る。
「うっ、エラの部分が削られてますね」
 ヴィン副大臣はアダンがエラという日本語を知っていて驚いた。
 自分はエラという意味のフランス語を知らない。
「厚労省が隠していたのはこれだ。民家で見つかったミイラだ。発見者の名前を取ってダイスケと名付けられたのだよ。掘り出したのは文部科学省の考古発掘部だ。削られた部分をここからビーフシチュー専門店“コウセイ”に送っていた。それを色が似ているきな粉でカムフラージュしていたのだろう」
副大臣は“コウセイ”で見たきな粉を思い出した。
そうか、あの中にこのミイラの粉が混ざっていたのか。
 爆発炎上したとなると、証拠は何もないが。
「副大臣、厚労省はなぜこんなことをしているのですか?」
「うーん、それが分からん」エラが削られたミイラの頭部を見る。
 かつて目があって所は、二つの黒い空洞となっている。
 もはや目玉はない空洞だが、何かを訴えかけているような錯覚に陥る。
 副大臣は写真を数枚撮ると、黒い布を透明ケースにかぶせた。ミイラの頭は見えなくなった。これ以上ここにいても、この謎は解けそうにない。謎を解く攻略本なども、この部屋には置いてないようだ。
「さあ帰るとしよう――アダンさん、ご苦労さんでした」
さて、オライリー大臣に報告をして、指示を仰ぐとするか。これでミスは帳消しだ。
 だが、カラクリが分かったところで、大臣がこれからどうするのかは分からない。
 外務省に利益があれば、動くだろうし、何もメリットがなければ見ぬフリをしておくだろう。大臣が動くとしたら、副大臣としてまた何らかの重責を担わなければならない。
 定年まであと二年。
波風が立たないように過ごしたいのだがな。
メイクで誤魔化しているヤケドの跡がチリチリと痛んだ。

二日後、大臣会議が中央合同庁舎第5号館で開催された。
いつもながらのありきたりの会議内容に辟易していたオライリー山越外務大臣だったが、この後、地下にある厚生労働省薬品実験0号室に忍び込む予定でいる。会議は午後五時に終わる。今は繁忙期ではないため、厚労省職員も時間を守って、定時でさっさと帰宅するだろう。実験室は無人になっているはずだ。これが時間を厳守する公務員のいいところだ。
ヴィン副大臣の報告によると、実験0号室にはミイラの頭部が安置されていたという。どうやら文科省が発掘したダイスケらしい。そして、頭部には欠けの部分があった。ミイラを削り取って、ビーフシチュー専門店“コウセイ”に送っているようだ。
 いったい何をやっているのかと副大臣は言っていたが、簡単なことである。
 ヨーロッパでは、ミイラを粉にして飲むと、不老不死になると言われている。厚労省の狙いはおそらくこれだろう。シチュー屋の客に摂取させて、不老不死伝説の真偽を確かめているに違いない。
 当然、不老不死になるわけないのだが、カネのニオイがする。
ミイラの粉末をヨーロッパに輸出すれば、外貨獲得ができるではないか。
久しぶりに面白い仕事にありつけそうだ。
オライリー大臣は居並ぶ他の大臣に分からないようにニヤリと笑った。

厚生労働省薬品実験0号室。
オライリー外務大臣はダイスケが入れられている透明ケースを覗き込んでいた。
副大臣の報告通り、右のエラが削られている。
 この頭一つでいったいいくらになるのか?
 何人分の粉末が取れるのか?
 体の部分も合わせると、数万人分になるのではないかと、捕らぬ狸の皮算用をする。
 天井付近を見渡す。
 どうやらこの部屋に防犯カメラはないようだ。蛍光灯を使っているくらいだから、そんな新しいものは設置されてないのだろう。厚労省は外務省と違って、危機管理能力が低い。
 さて、ダイスケの頭をかっぱらってから、おそらく文科省にある胴体部分もいただくとするか。胴体は副大臣にやらせよう。
 最初から盗み出すつもりでエコバッグを持って来ていた。
 頭一個くらい入る大きさだ。
 まさか花柄のエコバッグの中にミイラの頭部が入っているとは誰も思わないだろう。
 透明ケースのフタに手をかけた。鍵は付いてない。
よしっ、どうやら開きそうだ。
ミイラの頭部に手をかけた。
生まれて初めてミイラに触った。
「外務大臣、そこで何をなさっているのですか?」
入口に宇多野五月厚労省大臣が腕を組んで立っていた。
相変わらず、長い黒髪はツヤツヤである。
「お金を稼ぐためには躊躇なく泥棒もやってのけるなんて、外務省のカガミですね」
嫌な皮肉を言ってくる。
 オライリー大臣は一瞬、しまったという顔をしたが、ゆっくりケースから手を離し、
「私を見習いたいかね?」皮肉を宇多野大臣に返す。
「まさか。人間、そこまで落ちぶれたくありませんからね」
「よく私を見つけたな」
「毎日、ダイスケ君に挨拶をしてから、帰ってましてね」
「今日も恋人に会いに来てみたら、私がいたということか」
「恋人じゃなくて泥棒を見つけたの。偶然にね。オライリー大臣のそばにスパイがいるということじゃないから、安心してくださいね」
 宇多野大臣が薄ら笑いを浮かべながら近づいて来る。
「君は月の美容代に二十万円もかけているらしいな」
美しい髪を見ながら、また皮肉を言う。
「おやおや、外務大臣もその金髪のお手入れにかなりのお金をかけておるとのウワサですよ」
まったく喰えねえ女だ。
「今、喰えねえ女だと思ったでしょう」
「あんた、超能力があるのか?」
「人の表情から心を読み取るのを得意としてましてね」
「へえ、厚労省にもキャサリン・ダンスがいたのか」
 オライリーは諦めたように肩をすくめた。
「さっさとここから出て行ってくださいな、部外者であるオライリー外務大臣殿。何も入ってない花柄のエコバッグだけ持ってね。あなたほど花柄エコバッグが似合わない人も珍しいわね」
 宇多野は棘のある言葉を投げかけると、壁にあるスイッチを押して、古びた蛍光灯を消した。薬品実験0号室はたちまち真っ暗になった。
 暗闇の中、宇多野は先に部屋を出て行こうとする。
 オライリーがその後を付いて行こうとした瞬間、空気を引き裂く音が聞こえた。
 とっさに左手を上げて、側頭部を庇う。
――ガツッ!
 宇多野の後ろ回し蹴りが頭部に飛んで来て、オライリーが左手にはめていた腕時計を粉砕した。
「あら、避けられてしまったわね」
 宇多野が体勢を整えながら感心する。
「以前、君の回し蹴りを喰らって、私の部下が卒倒したことがあったからな」
「あの男はオライリー大臣の部下でしたか。優秀な大臣には優秀な部下が付いてますね」また皮肉を言う。
 宇多野がオライリーに近づいて行く。
――ジャリ!
壊れて散らばっている腕時計の破片を踏みつけた。
「どうやらロレックスに守られたようね」
「暗いのによくロレックスだと分かったな」
「高級なロレックスはオライリー大臣が愛用してそうですからね。残念ながらバラバラになったようね」
 こいつのハイヒールには時計を破壊するような鉄のかたまりでも仕込んであるのか?
「こんな時計、またもらえばいい」
「さすが外務大臣、世界中から貢物が届くようね」
「厚労大臣の元にも、全国のお医者様からお届け物が届くそうだな。二十万円の美容代も余裕で捻出できるというものだ」
 宇多野を煽ってみるが、何も返事は返って来ない。
 しだいにオライリーは部屋の隅へ追い詰められていく。
 長い足から繰り出される蹴りの気配に気を付けながら、しだいに後退していく。
 この女は空手の有段者だから気を付けなくては。腹に前蹴りなんか喰らったら痛そうだ。
 さて、どうすればいいのか?
 そうだ、確か奥に薬品が入った棚があったな。
 鍵がかかってなければいいが。
 オライリーは前を向いたまま、後ろに右手を伸ばして、ガラス戸に手を掛けた。
 ――ススーッ。
 うまくスライドした。
 中から何かの瓶を掴み取る。
 ここまで音は立てていないため、暗闇の中の一連の動作に宇多野は気づいてないだろう。
「待て、こっちへ来るな!」
悲鳴をあげて、怯えているフリをする。
 宇多野がその声に反応して立ち止まった瞬間、その足元付近に瓶を叩き付けた。
 宇多野の小さな悲鳴が聞こえた。
 オライリーはその脇をすり抜け、廊下へ飛び出た。
 何の薬品か分からんが、浴びたとしても足元だ。あのキレイな顔と髪は無事だろう。大して恨まれることはあるまい。それに鍵がかかってなかったということは劇薬ではないということだ。まあ、貴重品には鍵をかけておくものだ。
 オライリー山越外務大臣は地下から一階に駆け上がり、受付嬢に片手をあげて、バーイと挨拶すると、中央合同庁舎第5号館を後にした。
 ダイスケの頭部の盗み出しには失敗したが、まだ諦めるわけにはいかない。莫大な外貨の獲得がかかっているからだ。これに成功すれば次の選挙も安泰だ。
 それにしても、宇多野大臣がキャッと甲高い悲鳴を上げるとは驚いた。
あの女、なかなかかわいい所もあるじゃないか。

翌日の17時20分。
中央合同庁舎第7号館6階にある文部科学省考古発掘部。
厚労省に保管されているミイラの頭部の奪取にしくじった外務省はミイラの胴体を狙って、しつこく動いていた。性懲りもなく、今度は文科省に潜入する。
頭よりも体の方が体積は多いからな。たくさんの粉末が取れるというものだ。これをヨーロッパに輸出して、外貨を山ほど稼いでやる。
待っていろよ、ダイスケ。
 オライリー山越外務大臣は第7号館入口の守衛を顔パスで通り抜け、6階にやって来た。
 エレベーターが開いて廊下が見渡せたが、定時を過ぎているため、歩いている職員はいない。出会ったとしても外務大臣が何かの業務で文科省にやって来たと思われるだけで、怪しまれることはないだろう。そのために、いかにも怪しい包帯グルグルのヴィン副大臣は連れずに、一人で来ている。
 考古発掘部のドアに鍵はかかってなかった。
“コウセイ”に忍び込むときに鍵を開けたアンディからピッキングツールを借りて来たのだが、どうやら使う必要はないようだ。ピッキングのレクチャーも受けたのだが、その技はまたどこかで使うことがあるだろう。世界でもピッキングができる大臣は自分だけに違いない。
カーテンの隙間から夕陽が差し込み、部屋内を照らしているため、電灯をつけなくてもまだ明るい。ここも厚労省の薬品実験0号室同様に、棺桶のようなケースが真ん中に置いてあった。周りを囲む棚には発掘された装飾品などが陳列されている。どこか土臭いニオイが漂っている。
厚労省の透明ケースにはダイスケの頭部しか入ってなかったが、残りの胴体はここに入っているはずだ。頭部のエラの部分のように削られてないことを願いたい。ミイラの粉末は高額だ。少しでも量を確保したいからだ。輸出するにしても、色味が似ているからといって、さすがにきな粉で誤魔化すわけにはいかない。バレたら外務省の信用はガタ落ちだ。国際問題にも発展しかねない。
もちろん、粉末で不老不死になるかどうかの保証はできない。効くわけないからだ。プラシーボ効果で多少は元気になるかもしれないが、個人差があると言って、誤魔化しておけばいい。
 やがてケースの上に夕陽が差した。厚労省のケースには黒い布がかぶせてあったが、ここのケースには何やらたくさんの文字が書かれた白い布がかぶせてあった。
 オライリー大臣は顔を近づけて、その文字を見てみた。
 おびただしい数の漢字が印刷されていた。
「なんだこれは?」ひとりごとを言う。
 寿司屋にある魚偏の漢字が書かれた湯呑のデザインを布に転写したような感じだ。
「深い意味はないだろう」
 布を一気に引き剥がす。
 透明のケースの中には人が横たわっていた。頭部も付いていた。
「やあ、オライリー外務大臣じゃないか!」
 透明のフタを押し上げて、そいつは出てきた。
「常盤文部科学大臣!」オライリーが悲鳴のように叫んだ。思わず後ずさる。
ケースの中にいたのは文部科学大臣だった。トレードマークであるべっ甲メガネがキラッと光る。二百万円以上はするという黄色いべっ甲のフレームだ。
「常盤大臣、なぜここに!?」1メートル離れた場所から声をかける。
 実はすでに死んでるんじゃないかと恐れたためである。
「オライリー大臣を待っていたのだよ」
大柄な文科大臣がゆっくりケースから出てきた。
スーツ姿だ。どうやら生きているようで、こっちを向いて、ニヤッと笑った。
常盤はかぶせてあった布を広げて示した。
「君はここに書かれている漢字の意味が分かるか?」
「えっ、意味ですか? いいえ、分かりませんが」
「2136文字ある。つまり、常用漢字の一覧だよ。特注で作らせたブランケットだ。これを体の上から掛けて寝ると、寝ている間に漢字が覚えられるという優れものだ。受験生に評判よくて、まずまず売れておる。なんといっても、メイドイン文科省だからな。まあ、覚えられるかどうか、個人差はあるがな」
オライリーは聞いて呆れる。
 個人差があるということは、漢字ブランケットの効果は期待できないということだ。
文科省もあくどい商売をしやがって。
ミイラの粉末を輸出して儲けようと企んでいることを棚に上げて、オライリーは毒づく。
 常盤大臣はオライリー大臣の心の中を見透かしたようで、
「文化庁を京都へ移転するに当たって、随分と金がかかったものでな。京都の人間はよほど東京の人間を毛嫌いしているらしく、何かと経費を上積みされて、予算が倍になってしまったのだよ。だから不本意ながら、こういう商売もやっておる」
漢字ブランケットをヒラヒラさせながら、苦しい言い訳をしてくる。
 しかし、苦しいのはこちらの立場だ。
文科省へ盗みに入ったところを、まんまと待ち伏せされていたのだからな。しかもケースに入って。何もこの中で待たなくてもいいじゃないか。大臣ともなると変な人物が多い。盗みに入る大臣も変なのだが、オライリーは気づかない。
「もしや、宇多野大臣からお聞きになりましたか?」
「ああ、その通りだ。君がここに忍び込んで来るはずだと警告を受けていたので、寝ながら待っておったのだよ。この中は狭くて、快適ではなかったがな」
 透明ケースから貞子のように這い出て来た常盤大臣がオライリー大臣と対峙した。
身長はほぼ同じだ。長身の大臣同士が睨み合う。
「宇多野大臣はオライリー君に恥ずかしい液体をかけられたと言っておったぞ」
「何ですかそれは。瓶に入っていたものですよ」
 逃げるために、彼女の足元へ叩き付けたものだ。
「ほう、君は恥ずかしい液体を瓶に入れて持ち歩いておるのかね」
「いえ、瓶に入った薬品という意味ですよ」
「ほう、君は恥ずかしい液体を薬品と呼んでおるのかね」
 常盤大臣は真面目に言ってるのか、からかっているのか。
 黄色いべっ甲のフレームが光った瞬間、オライリー大臣は頭から漢字ブランケットをかぶせられて、強烈なヘッドロックを決められた。
 そう言えば、常盤大臣は大学時代、プロレス同好会に入っていたはずだ。
うぅ、本物のヘッドロックは痛いな。
俺は囲碁同好会だったからなあ。
「ぐぐぅ、先輩やめてください」ブランケットに包まれた状態から、くぐもった声を出す。
「確かに私と同じ大学出身だが、貴様を後輩と思ったことはない」
「そんな殺生な――」
「私の後輩に盗賊はおらぬわ。ミイラ取りがミイラになるとはこのことだな。どうせ、ミイラを欧州にでも売り飛ばして、外貨を稼ごうという魂胆だろう」
 くそっ、完全に読まれている。
「貴様の仕事熱心なところは評価に値するが、外務省に貴重なミイラを渡すわけにはいかん。文科省も何かと入用なものでな」
 ヘッドロックを決めているとはいえ、常盤大臣はオライリーより年を取っている。しだいに力が落ちて来た。
「先輩、参りました。降参です」わざと情けない声を出す。
「オライリー君はそんなに弱い人間だったのかね」
「いいえ、私を見くびってもらっては困りますよ――それっ!」
 油断をさせておいて、一気に首を引き抜いた。
 締められていたため、顔が真っ赤になっていることが自分でも分かる。
 常盤はヘッドロックから逃れたオライリーを驚いて見ている。
「私の力も落ちたものだ」力なく笑う。「ヘッドロックは得意技だったのだがな」
 隙ができた瞬間、オライリーは部屋から逃げるため、周りにある出土品を常盤にぶつけだした。
 土器、埴輪、土偶、アンモナイトの化石……。
手に触れた物を次々に投げて行く。
後輩と思われてないのなら、こっちも先輩と思わない。
常盤は年寄りとは思えない速さで避けていく。
 しかし、オライリーは手を緩めない。
錆びた鉄剣を振り下ろし、石斧を振り回すと、勾玉を手裏剣のように投げつけて、鏡をフリスビーのように投げ付け、隙ができたところで、文部科学省考古発掘部から飛び出した。
それでも常盤は執拗に追って来た。
オライリーが廊下の角を曲がるときに振り返ってみると、常盤大臣は撒いておいたガラス玉に足を取られて、ぶざまに転んでいた。
こうして、オライリー外務大臣は中央合同庁舎第7号館からの脱出に成功した。
数々の出土品を破壊したが、ミイラの存在を国民にバラされてはいけないため、文科省から外務省へ請求書が届くことはないだろう。
オライリーはドサクサに紛れてポケットに入れた水晶の勾玉をリサイクルショップに持って行って、5千円で売り飛ばし、自分のお小遣いにすると、次の作戦を考えることにした。
ミイラの頭部も胴体も手に入らなかったからだ。
外務省はしつこい。外交もこのくらいしつこくやればいいのだが。

“こうせい”のオーナーシェフである佐久川は店を爆破された後、出張料理の会社を設立して、ミイラの粉末入りのビーフシチューの販売を始めていた。
その会社は高級マンションの一室にある。出張販売専門なので店舗はない。希望者の家に出かけて行き、キッチンを借りて、ビーフシチューを作ってあげるのだ。いわゆる出張シェフである。
店と違って、かなり広い空間があるため、たくさんの在庫を置くことができた。大きなキッチンスペースがあり、ミイラの粉末が入ったビーフシチューを作って、すぐに急速冷蔵し、保存している。
 利用希望者は全国から来ているのだが、事前にアンケートを記入してもらい、抽選に当たった人の家に訪問するというシステムにしている。本当は抽選ではなく、ミイラの粉末が効きそうな人物を選び出しているのである。
 つまり、深刻な悩みを抱えた人物を対象としているのである。
 一時申し込みが殺到したことがあった。なぜか東京近辺からの申し込みであった。アンケートを読んで検討するだけでも大変な作業だったが、それも今では落ち着いている。

 昼食用に特製ビーフシチューを作りに来てほしいという依頼は、なぜかウィークリーマンションから届いた。
アンケートによると、客は三人。最後の晩餐にしたいと書かれていた。本来なら絶好のターゲットなのだが、冗談で書いたのかもしれない。何と言っても極秘のプロジェクトであるため、出張料理は一人でやらざるを得ない。訪問できるのは午前中に一軒、午後に二軒。多くても、一日にせいぜい三軒である。時間的にそれくらいなのだが、ミイラの粉末も大量にあるわけではない。おのずと限りがある。よって、自然と競争率は高くなる。申し込みは多数あり、対象者を厳選しても、かなりの数になる。世の中、こんなに病んでいる人が多いのかと、佐久川は当事者でありながら、驚き、呆れる。
そんな事情もあり、当選確率を上げるため、病気の母親に一口食べさせてあげたいといった同情を買うようなことを書いて来る人物が後を絶たない。実際訪問をしてみると、どこも悪そうに見えない母親が元気に出迎えて、モリモリ食べてくれる。料理人なら有り難いことなのだろうが、佐久川は業務を遂行するための手段として、料理をしているに過ぎない。
今回も最後の晩餐などと書かれているが、あまり期待はできない。しかし本当のことなら、みすみす逃すわけにはいかない。待っているのは三人だからである。三人同時に送り込むことができるかもしれない。これは大きい。客が三人であっても、落ち込んでいる人は一人で、あとの二人が元気付けているというパターンが多いのだが、三人いっぺんという可能性もある。
 ウィークリーマンションには食事が始まる一時間前に到着した。仕込みには一時間程かけるからだ。そこには広いキッチンスペースがあった。これでゆったりと料理ができる。その間に客と話しながら、さりげなく情報を引き出していく。アンケートで選抜はしているのだが、対面により、はたしてこの客は確実な該当者なのかどうかを最終的に見極めるのである。
 年齢は訊かなかったので、見た目から判断すると、二十代と思われる若い女性が一人に、三十代と四十代に見える男性が一人ずつという組み合わせだ。
三人は順番に信濃、山加、甘利川と名乗った。アンケートに書かれていたため、名前は覚えていたが、顔と一致させる。三人はどういう関係かという説明はなかったので、こちらからも訊いていないが、顔付きは似ておらず、おそらく家族や親せきの集まりではない。そして、今からおいしい食事をする雰囲気ではない。食事前の高揚感は伝わって来ない。
つまり、本当に今回の食事を最後の晩餐にするのだろう。
これは三人全員を同時に送り込める――佐久川はそう見抜いた。
 テーブルについている三人の表情は暗い。お互い何も話さない。
 佐久川は調理の手を休めることなく、三人には気づかれないように観察を続けている。会話による聞き込みはあらたか終えている。あとは観察によって、三人を見極める。
 一週間後、ビーフシチューを食した後にあの瞑眩現象が現れる。顔に出る内出血やアザなどだ。実店舗を構えていたときは、一週間後に予約なしで招待することで、それを確認をしていた。問題は出張料理サービスでどうやって確認するかだ。同じようにもう一度出張することで、今までは何とか乗り切って来た。
しかし今回は難しい。おそらく部屋のどこかに練炭や劇薬でも用意してあるのだろう。つまり、ネットで知り合った他人同士による心中だ。最後の晩餐の後、このウィークリーマンションを死に場所と決めているのだろう。正確には“最後の晩餐”ではなく、“最期の晩餐”だ。
マンションのオーナーや管理者からすると迷惑なことだが、後先のことは何も考えていない。三人はそこまで切羽詰まっているのだろう。心中前の心理はそんなものだろう。
では、心中をどうやって一週間引き延ばすのか?
佐久川は調理の手を休めずに考えているが、いいアイデアは浮かばない。
「つかぬことを伺いますが、お客様の宝物は何ですか?」いつもの質問をしてみる。
「えっ、宝物ですか?」若い女性である信濃がこっちを見た。なんで食事前にそんなことを訊くのかという表情をしている。
「いや、深い意味はありません。個人的に興味があるだけで、すべてのお客様に訊いているのですよ。もちろん、無ければ無いでいいですし、答えたくなければ答えなくてもいいですよ」
「宝物ですか。私は特にないですねえ」信濃が答えてくれる。 
「私も」最年長の甘利川も答えてくれる。「ないかな」
「俺は――やっぱりないね。マスター、すいません」山加がすまなそうに言う。
「いえ、謝ることはないですよ。人それぞれですから」
 いまから死に行く人たちに宝物はあっても、すでに処分したのかもしれない。身の回りをきれいにしてから、ここに集まったのかもしれない。
 佐久川はそう考えたところで、三人の手首に目が行った。
「それはミサンガですよね」
 三人はお揃いのミサンガを手首に巻いていた。
「これ、ミサンガって言うのですか?」信濃が逆に訊いてくる。
「えっ、知らないで買ったの?」山加が驚く。
「そうか、君はミサンガを知らない年頃なのか」甘利川も驚いている。
「これは」信濃が佐久川に教えてくれる。「さっき雑貨さんの前を通りかかったとき、店員さんから、ちょうど三つ売れ残ってるので、いかがですかとすすめられたのです。なんだか、幸運を呼ぶそうです」そう言って、薄く笑った。
初めて笑ってくれたのだが、今さら幸運をもらってもという感情なのかもしれない。
「ミサンガは切れたら願い事が叶うのですよ」佐久川が信濃に教えてあげる。「最近はあまりしている人は少ないのでしょうかね」
「願い事が叶うのですか」信濃が手首のミサンガを見つめる。
他の二人も思い詰めたように見つめる。
「ですが、願い事が叶うにはミサンガが自然に切れないとダメなのですよ」
「これ、自然に切れますか?」信濃が顔を上げた。
「一週間もあれば擦り切れるでしょう」そんな簡単に切れるわけないが、無理矢理一週間後に持って行く。「一週間後にいいことがあるかもしれませんよ。ほら、今週は雨と曇りの日ばかりですが、一週間後は晴れの予報ですよ」
「そうでしたか」信濃は答えてくれるが、一週間後のことなど考えてなかったのだろう。
「風も強いですが、一週間後は穏やかになるそうですよ。風がビュービュー吹くと何かと大変ですからね。最近は空気も乾燥してますしね」
 ここで練炭を使って火事にでもなったら、風の影響で類焼は避けられず、他の部屋にも迷惑がかかると、さりげなく示唆しておく。
「それに今日は仏滅ですが、一週間後は大安ですよ。大安の良き日に、リムジンに乗って思い出作りなんていかがでしょうか」
 出張料理を利用していただいた方への特典なのですよと佐久川は説明したが、一週間後が大安かどうかは知らない。
「へえ、リムジンですか、私は乗ったことないです」信濃が言うと、二人の男性も小さく頷いた。
「一週間後、予約なしで出張料理にご招待してから、食後はリムジンで高台に行って、夜景を見下ろすという趣向です。この世のモノとは思えないほど、キレイな夜景ですよ。やぶ蚊も飛んでませんしね。私から言うのもなんですが、とても素晴らしい企画でして、たくさんのお客様に好評をいただいてます。一生の思い出になったと言う方も続出しております。一週間なんてあっと言う間ですよ。寝て起きたらリムジンの車中みたいなものですよ」
 佐久川はいくつものデタラメを並べ立てた。その中の何が琴線に触れたのか、分からないが、三人はウィークリーマンションの滞在を一週間延長して、もう一度ビーフシチューを味わってくれることになった。もしかしたら彼らの心の中にまだ迷いがあったのかもしれない。この世に未練があったのかもしれない。ならば間に合う。
 佐久川は決意を新たにした。
この三人を死なせてなるものか。

ビーフシチュー専門店“コウセイ”が跡形もなく吹き飛ばされて以来、佐久川はシチューを通販で売り出そうと模索していた。全国から注文が来ると踏んだからだ。しかし考えてみると、遠方の場合、シチューを食した後の瞑眩現象の確認ができない。何か体の変化が起きてますかなどと訊くことはできない。ましてや顔写真を送るようには言えない。
さらに、現象が出ていたとして、どうやって連れて来るのか。遠くまで車を派遣するとなると、手間暇がかかる。
通販を諦めたところで、出張料理サービスを思い付いた。ただし、日帰りできる近場の地域内だ。それだと、現象が現れる一週間後に再度訪問することで観察することができるし、何かと理由を付けて、厚労省の車に乗せて、あの地へ送り込むこともできる。
こうして国家プロジェクトは着実に歩みを進めている。

 千葉県の百里ヶ浜にある刑務所跡。
リノベーションされた結果、全室がトイレ、温泉付き。太平洋が見渡せるオーシャンビューであり、ペット可。施設内には大浴場、大食堂、大トレーニングルーム、大カラオケルーム、大談話室、大喫煙所、大将棋室と大囲碁室と大オセロ室あり。
ミイラの粉末入りの特製ビーフシチューを食べて、ゾンビに変化した人、もしくは変化しそうな人は厚労省の車で強制的にここへ連れて来られる。そして、社会に放たれる時が来るまで隔離されている。
ここはゾンビ専用のビオトープであり、ゾンビレッジと名付けられていた。
 ゾンビといっても、正確には不老不死になるのではない。それは、ダイスケが死んでミイラ化していたことからも分かる。ミイラ化した後にダイスケと名付けられたのだが。
 つまり、死なないのではなく、かなりの長寿を全うできるようになるということである。
 文科省のAIが弾き出した回答では、ゾンビ化すると、今までの記憶を失い、三百歳くらいまで生きられるという。
 そうなると、どうなるのか。
 まず、深刻な悩みを抱えた人物を助けることになる。
つまり、自殺願望者の救済措置としてのゾンビである。
また、人類が三百歳まで生きるようになると、中小企業の後継者不足は解消される。高齢化社会につきものの労働力不足も軽減される。いろいろな文化も継承される。免許証返納も先送りされ、バスの優先座席は撤去され、敬老パスもずいぶん先まで発行しなくてもよくなる。また年金も二百八十歳くらいから支給すればいいだろう。それまで国家の財政は整い、国債発行は過去のものになる。
このように、長寿ゾンビが生まれると、日本国にはたくさんのメリットが生まれるのである。
 各省が自分の省の利益のみならず、いろいろな思惑を抱えて、やっきになるのも無理はない。つまり、一応は日本の将来のことも考えているのである。一応は公務員である。

佐久川は明日出張料理する分の準備を終えると、パソコンの電源を落とした。
 粉末が入ったダンボール箱が積んである。一箱に二袋入っていて、“公63”と小さく印刷されている。底にミイラの粉末が入った袋が隠されていて、上にきな粉が入った袋を乗せて、カムフラージュしている。同じような色をしているため、見ただけでは判別がつかず、舐めてみないと分からないだろうし、たとえ舐めても何の粉末かは分からないだろう。ミイラの粉末など舐めた人はほとんどいないからだ。
 佐久川は火の元をチェックすると、鍵をかけてマンションを後にした。
 庭の植込みの中で待機していた男たちがすぐさま部屋へ向かった。

「うう、寒かったぜ」
 震えながら、ピッキングツールを取り出したのはアンディだ。
 さっそくドアの前にしゃがみ込む。
「これくらいの寒さなんか、大したことないよ」
平気な顔をしているのは、すぐ後ろで見ているレオンだ。
「あんたはドイツ人だからだろ。俺は赤道直下の東南アジア系だから寒いのは苦手なんだ」
 アンディがドアのカギ穴を覗き込みながら、寒さに顔をしかめる。
「今から東南アジア人が盗難をやるのか」レオンがからかう。「下らないダジャレだな」
「漢字が違うんだよ、このドイツ野郎が!」
「何だと、このインドネシア野郎が!」
「モスラに頼んでドイツを攻撃してもらうぞ!」
「インドネシアにソーセージ売ってやらないぞ!」
「待てよ、手元が狂うだろう」
「ああ、悪かったな」レオンが冷静さを取り戻す。「日本語は難しいということで許してくれ」
「分かったよ――急ごう、ボスが来る」
 三分後、ドアが開いた。
「さすがだな、アンディ」レオンはゆっくりドアを開ける。
 部屋の主である佐久川はさっき帰って行った。中には誰もいないはずだが、念を入れて、注意深く土足のまま、奥まで伸びている長い廊下を進んで行く。
 真ん中ほどまで来たところで、振り返って、玄関に立つアンディに声をかける。
「大丈夫だ、入って来い」レオンが手招きをする。
 逆光で表情が見えないアンディは振り返ると、さらに後ろにいる人物に声をかける。
「大丈夫だそうです。入りましょう」
 今になって部屋へ近づいて来たヴィン丸橋副大臣がすぐ後ろに立っていた。
まだ爆風を浴びた傷が癒えないため、顔面は包帯でグルグル巻きにしてある。ただし、今日は盗人の真似事をするため、目立たないように、白い包帯を墨汁で黒く染めてきた。黒いスケキヨである。手も黒い包帯を巻いて、黒っぽい服装をしているため、暗がりに立つと、まったく見えないだろう。
 黒スケキヨは、ドアを開けたとたん爆発するとでも思ったのか、安全が確保されてから、のこのこ近づいて来た。安全確認は二人の外国人の仕事だった。
こうやって常に保身をはかった結果、副大臣にまで上り詰めたのである。もし仕掛けられていた爆弾が爆発して、アンディとレオンが吹き飛ばされたとしても、大して悲しむこともなく、自分も被害者だと大いに主張して、次の任務に取り掛かるだろう。その場合は横に立っている、ものすごいイケメンのメイクアップアーティストであるアダンが証人になってくれるはずだった。
 しかし、爆弾などの仕掛けはなく、ドアは安全に開いたため、四人は無人のマンションの奥に入って行く。
オライリー山越外務大臣の命令の元、ヴィン丸橋外務副大臣が率いる外人部隊がミイラの粉末を加工していると思われる部屋に流れ込んだ。
 先に入ったレオンが懐中電灯で奥の部屋を照らしている。
「副大臣、このダンボール箱を見てください」
「おお、これだ、これだ」
 “公63”と書かれたダンボール箱が壁際に積んであった。
 その数は二十箱。
「やはり、ここがアジトだったんだな」
 ビーフシチュー専門店“こうせい”が爆破により、実店舗の閉鎖を余儀なくされ、出張料理に特化したという情報はすぐに外務省へ入って来た。佐久川が以前店に来た客へ出張シェフを始めたというDMを送り、それがネット上で拡散し、誰もが知ることになったからだ。
 店舗の時代と違い、販路を拡大したため、もはや隠れ家的存在ではなく、ビーフシチューの写真や味の感想をネット上へ投稿する人も増えていた。
 外務省職員を動員して、出張シェフの申し込みを行った。職員はどうしても、東京近辺に住んでいるため、怪しまれるのではないかと思ったが、数人はアンケートとやらに合格したようで、何も知らない佐久川はのこのこと家にやって来た。その際、名刺の住所がこのマンションになっていたのである。
 外務省職員に届いたシチューの成分解析は進んでいるが、まだ結果は出ていない。短気なオライリー大臣は結果を待つことなく、マンションに忍び込むよう、ヴィン副大臣に指示をしたのである。
「箱の中身を確認してくれ。ちゃんと手袋はしろよ。きな粉に騙されるんじゃないぞ」
 副大臣は黒い包帯越しにモゴモゴと指示を出す。
 アンディ、レオン、アダンの三人が手分けをして、ダンボール箱を開けていく。
「底の方までしっかり確認するんだ。それと、ここでタバコは吸うなよ。また吹き飛ばされるからな。マンションの中だと逃げられないぞ」
 副大臣はまだチリチリと痛む顔を黒包帯の上からそっと撫でた。
 外人部隊の捜索が続いて行く。

「副大臣、やはり底にある袋の中身はきな粉ではありません」
レオンがビニール袋を見せる。
「見た目は同じだろ。なぜ分かるんだ?」副大臣が近づいて行く。
「ビニールを少し破ってニオイをかいでみたのですが、きな粉のような大豆の香ばしい香りがしません」
「レオンよ、香ばしいという日本語をよく知ってるな」
「はい。テレビで食レポ番組をよく見てますから、覚えました。エビを食べたときはプリップリで、食パンはフッカフカで、焼き芋はホックホクと言います。ナポリタンを食べたときは懐かしい味と言います。たこ焼きは急いで食べると熱くて食レポができません」
「ああ、全部正解だ。食レポ番組で日本語を覚えるとは珍しいな」
「ボリューミーという変な英語も覚えました」
「あれは日本人が作った恥ずかしい英語だ。ところで底の粉のニオイはどうだ?」
「無臭です」
「よし、間違いない。これがミイラのダイスケの粉末だ」
副大臣は袋を受け取って、愛おしそうに眺めた。
 これが大金に変わるのだからたまらないな。
「他のダンボール箱も開けて、底の袋を全部回収するんだ。開けたダンボール箱は盗んだことがすぐバレないように、しっかり閉めておけ。明日箱を開けたら、佐久川の奴、驚くだろうよ」
 オーナーシェフが厚労省OBの佐久川だということは分かっていた。送付書にはこのマンションの住所とともに、自分の名前を書いていたからだ。厚労省の退職者名簿を見て、すぐに判明した。しかし、なぜOBがビーフシチュー屋のシェフをやっているのかは不明のままだった。
 二十箱から二十袋を取り出して、フローリングの床に積み上げたところで、インタホンが鳴った。アンディがモニターに駆け寄る。
「ボス、お待ちしてました」モニターに映ったオライリー大臣に頭を下げた。
「どうだ。見つかったか」
「はい。二十袋ありました」副大臣もやって来て答える。
「よしっ、全部持ち出してくれ。ワゴン車をマンションに横付けした」
 外務大臣自らが車を運転して来たようだ。
 大臣は部屋に入ることなく、ワゴン車へ戻って行った。
「しかし副大臣、ミイラの粉をビーフシチューに入れて、どうするのですか?」
 ものすごいイケメンのメイクアップアーティストのアダンがミイラの袋を五つ持ちながら訊いてくる。
「アダンはフランス人なのに知らないのか」副大臣は呆れた顔を見せる。「ミイラの粉末を飲んだら死なないという言い伝えがヨーロッパにあるのだよ」
「ワタシはヨーロッパ人ですが、そんな伝説は知らないです。本当の話ですか?」
「フランスに二百歳や三百歳の人はいるか?」
「いいえ、いません」
「だったら効果はない。そういうことだ」
「なんだ、インチキですか」
 ミイラの粉末が日本からヨーロッパへ輸出されていた時期がある。しかしそれは本物のミイラの粉末ではない。魚や動物を燻製にして、細かく砕いて、さもミイラの粉末のように作っていたニセモノなのである。だから効果はなかった。
目の前にあるのは本物のミイラだ。
しかし、こいつら四人にはこのことを黙っておく。あくまでもインチキだと言っておかないと、盗まれでもしたら困る。こいつらは簡単に鍵を開けてしまう。
「いいか、これが大金を生むんだ。麻薬と同じで、希少価値がある。この粉末が莫大な外貨に変わるのだよ。つまり、これはただの盗みではなく、日本国の利益のための外務省による聖なる行為なんだ――さあ、さっさとここを出るぞ」
 副大臣と三人の外国人がそれぞれ五袋を手に持って長い廊下に出ると、小柄な男が立っていた。
「高尾事務次官!」ヴィン副大臣が驚いて声をあげた。厚労省ナンバー2の事務次官だ。「君はこんな所で何をやっておるのだ?」
「副大臣こそ、盗人の真似事ですか。いや、真似事ではなく、盗人そのものですね」
「私は副大臣だぞ。君は事務次官の分際で何を言っておるのだ」
 副大臣と三人の外人部隊が廊下で高尾を取り囲む。
四人の大柄な男に囲まれる、ひときわ小柄な高尾事務次官。相変わらず、スーツのサイズが合ってないため、だぶついている。
「高尾君は一人でここに来たのかね」
「まさか。私は偵察要員ですよ」高尾が玄関に目をやると、ちょうどドアが開いた。
「よお、ヴィン丸橋外務副大臣!」
「あなたは常盤文科大臣!」
黄色いべっ甲メガネをかけているはずだが、逆光でよく見えない。
「ビーフシチュー店を爆破したと思ったら、ミイラの頭部の盗みに失敗し、胴体の盗みにも失敗して、今度は粉末の盗みにも失敗するとは、ざまあねえな。オライリー大臣はワゴン車の中でのんびりタバコを吸っておったわ」
「どうやら情報が筒抜けのようですね」ヴィン副大臣の声が震える。
「そんな大げさなものではない。外務省がたいした計画も立てずに動いているから、よく分かるというものだ。君がなぜ顔面を包帯でグルグル巻きにしているかも知っておるわ――さて、高尾君を解放してくれるかね。長身の君たちに囲まれていたら、イジメを受けてるように見えるのでな」
 四人が後ろに下がった。
隠れて見えてなかった高尾事務次官の体が出現した。
 そのとき、なかなかやって来ない部下を心配したオライリー大臣がやって来た。
「お前たち、何をモタモタと……」
いつの間にか、常盤大臣と高尾事務次官が部屋にいて驚く。
「――常盤大臣! ついでに事務次官!」
「誰かと思ったら、わしのかわいい後輩じゃないか。また会ったな。ヘッドロック以来だな」
「なぜここに……?」
「君たち外務省と同じく、文科省もしつこいのだよ。財政が厳しいものでな」
 さらに一人の人間が玄関に登場した。
「おお、やっと来たか、大臣」常盤が出迎える。
 そこには宇多野厚生労働大臣が立っていた。
「髪のブラッシングをしていたら遅くなりました」つややかな黒髪がはずむ。
「いや、気にすることはない。わしたちも今来たばかりだ」
「文科省同様、しつこい厚労省が参上いたしましたよ――高尾事務次官、ご苦労様」
「これで役者が揃ったというわけだな」常盤は満足そうだ。
「なるほど」オライリーは先輩大臣を見る。「宇多野大臣にこの場所をお聞きになったというわけですか。どうやら厚労省のOBが関わっているようですね」
 名前を出された宇多野は廊下の奥に立つオライリーに目を向けた。
「オライリー大臣、お久しぶりですこと。その節はお世話になりました」
 薄ら笑いを浮かべながら、皮肉を言ってくる。
 廊下の奥から近寄って来たオライリーは宇多野の足元を見る。
 この女の蹴りから逃れるため、足元に何らかの液体が入った瓶を叩きつけてやったのだが、ケガはしてないらしい。
「どうやら、あの液体に害はなかったようだな」宇多野に不敵な笑いを向けてやる。
 実は大事に至らなくてホッとしたのだが、オライリーはそんな表情をおくびにも出さない。ここで弱みを見せるわけにはいかないからだ。
「液体はホルマリンだったから、大した害はないわね」宇多野も不敵に笑う。「でも、その中に入っていたのはイボガエルだったのよ」
「あの瓶の中身はイボガエルのホルマリン漬けだったということか」
「そうよ、しかも三匹」
「うぅ、エグイな。厚労省はイボガエルでどんな実験を行っていたんだ?」
「新しいニキビの治療薬に決まってるでしょ。効果てきめんで、イボガエルの皮膚がアマガエルの皮膚ようにツルツルになったわ。ご興味がおありなら、外務省に試供品を送って差し上げるわよ。代引きでね」
「ふん、金を取るのか」
「当然でしょ。新薬の開発には数百億円もかかるのよ。しかもほとんどは途中で断念しなければならないしね。薬品会社に対して、そういったバックアップもしなければならないのよ。その点、外務省はお気楽でいいわね」
「こっちは地球の規模で仕事をしているんだよ」
「こっちもカエルのイボで仕事をしてるわよ」
 二人の言い争いに常盤が割って入った。
「まあまあ、お二人さんよ、いがみ合うのは後にしてくれ。それよりもオライリー君、その袋を渡してもらおうか」
 袋を持った副大臣と三人の外国人がビクッとする。
事情はよく分からないが、タッグを組んでいる常盤文科大臣と宇多野厚労大臣を前にして、うちのオライリー外務大臣が不利だと感じているようだ。
 オライリーは袋を守るように、四人の先頭で仁王立ちになる。
「いくら先輩の言うことでも、それは無理です。せっかくですが、お引き取りください」
「貴様、どの口が言ってるんだ!」常盤は一瞬カッとなったが、すぐに感情を沈める。ここが老獪なところだ。「まあ、いい。だったらこうしようじゃないか。君たち外務省とうちの文科省と彼女の厚労省の三省で、ミイラの粉末を山分けというのはどうだ」
「いいえ、これは外務省が手に入れたものですから、独り占めをさせていただきます」
「ただ盗んだだけじゃないか。そもそもミイラを発掘したのは文科省だ。そして、厚労省に実験の委託をしたのだよ」常盤は宇多野を見る。
「その通りよ。盗人猛々しいとはこのことよね。すぐに粉末を渡してもらおうかしら」
オライリーは宇多野のつま先がピクリと動いたのを見逃さない。
持っていたビニール袋を握り直し、後ろに立っている副大臣と外国人に声をかける。
「みんな気を付けろ。この女は空手使いだ。まともに蹴られたらケガするぞ。俺はロレックスの腕時計を粉砕された」
 腕にはまた違うロレックスをはめている。もちろん外国からの貢物だ。
「えっ、カラテ?」「怖いよぉ」「オーマイガー!」外国人の三人が身をすくめる。
 カラテという日本語は世界中に知れ渡っている。それが強力な武器であることも。
 オライリーは諦めずに隙を探す。
 廊下の幅は二メートル。玄関までは十メートル。どうやって突破するか。
 俺だけならまだしも、俺の後ろで縮み上がっている副大臣と三人の外人部隊も引き連れなければならない。 
まったくこいつらときたら、いざというとき頼りがない。カラテと聞いて、すくみ上ってやがる。
 しかし考えてみれば、おっかないのは宇多野大臣だけで、ヘッドロックは強烈だが年寄りの常盤大臣と、小柄でいかにも弱そうな高尾事務次官だけだ。
 しかも、向こうは小さいのが三人。こっちはデカいのが五人。
 宇多野をかわせば、行ける。
「お前ら、行くぞ!」後ろの四人に声をかけた。「気合を入れろ!」
 スタートダッシュをしたとたん、また玄関に新たな登場人物が現れた。
「いやあ、遅くなってしまったなあ。まだミイラの粉末はあるのかな」
 八人全員が驚いて、固まった。
 みんなを代表するかのように、常盤文科大臣が大きな声で叫んだ。
「これは、福王寺法務大臣!」
「おお、常盤君じゃないか」男は丁寧にも靴を脱いで、廊下に上がり込んで来る。「相変わらず、べっ甲のメガネが似合うね。やあ、オライリー君に宇多野君、高尾君も来ておるのか。みんな、お揃いだね。いやいや、外は寒いよ。年寄りには堪えるねえ」
法務大臣は白い息を吐き出す。
 玄関から見える外は日も暮れて、すっかり暗くなっていた。
 
「まあまあ、みなさん。こんな細長い廊下で固まっていてもしょうがない。奥に集まれる部屋があるんだろ、常盤君」
「はい。かなり広い部屋がございます」
「だったらそこへ移動して、話し合おうじゃないか」
 福王寺大臣は、背は低いがガタイのいい体で廊下をズンズン進んで行く。
「オライリー君も宇多野君も来たまえ」
「はい!」「はい!」
「高尾君もヴィン丸橋君も来たまえ」
「はい!」「はい!」
「アンディ君にレオン君にアダン君、日本国のために働いてくれて感謝しておるぞ」
「はい!」「はい!」「はい!」
 ここにいる誰もが、政界の重鎮である福王寺法務大臣には逆らうことができず、文句の一つも言えず、ぞろぞろと後を付いて行く。
 せっかく粉末の袋を持って部屋を脱出しようとしていたオライリーが一番悔しがっている。しかし相手は法務大臣である。先輩の常盤大臣でさえ、黙って従っているのである。逆らえるはずもない。
 法務大臣の登場で二十袋の行先が分からなくなった。
「ほう、大きな部屋だね」福王寺が感心する。「では、各自適当に座ってくれるかね」
みんなは部屋のあちこちにある椅子やソファーに向かって行く。
 福王寺は当然のごとく、部屋にある最も高い椅子である電動マッサージチェアに座りこんだ。誰も文句は言わない。 
 下っ端である三人の外人部隊は座る椅子がなくなったため、壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げて、座ることにした。
「ここから佐久川君がミイラの粉の入ったビーフシチューを発送しておるのか」
福王寺大臣は部屋を見渡す。
「はい、そうです」宇多野厚労大臣が返事をする。「ここで調理をしております」
 やがて部屋に低いモーター音が響き始めた。
 福王寺が電動マッサージチェアのスイッチを押したからだ。
「おぉ、なかなかいいねえ。これは最新式かな?」宇多野を見る。
「はい、三十万円以上する最新型です。佐久川が調理の間、ずっと立ってますので、せめて休憩中はくつろいでもらおうと、厚労省から予算を引っ張って来て、ここに設置いたしました」
 ソファーに座って大人しくしていた常盤が口を開いた。
「福王寺大臣、詳しい事情をよくご存じですね」
「私くらいの身分になるといろいろな情報が勝手に入って来るものだよ。それはとても詳細でね。たとえば、そこの座っておる三人の外国人諸君の名前はおろか、国籍や家族構成までも報告してくる。何でもかんでも知らせればいいというものではないがね」
「あちこちの省に子飼いの職員がいるということですか?」
「君、子飼いだなんて言うと、人聞きが悪いではないか。同志だよ、同志」
「いや、これは失礼いたしました」常盤は慌てて頭を下げる。
 みんなは常盤が他人に頭を下げる光景を見て、驚いている。
 あの大臣が頭を下げている。明日は大雪だな。
「さて、本題に入るとしようじゃないか。わしがここまで出張って来たのには、当然ながら理由がある」
 全員をゆっくり見渡す。
「文科省と厚労省が推進し、外務省が横取りをしようとしている極秘の国家プロジェクトを中止してくれるかね」
 全員があっけに取られて黙り込む。
一瞬、何を言われたのか理解するまで数秒を要した。
「オライリー君たちが手にしているミイラの粉末は処分してもらって、ミイラ本体のダイスケはまた元の民家の庭に戻してもらいたいのだよ。家主の中門台助には少しばかりの金を包んでおけばよかろう。何せ、彼は金に執着しておるようだから、断りはしないだろう」
 福王寺の元にはそんな情報まで届いているのかと、全員が驚くとともに、各省の思惑が頭の中を去来する。
 すなわち、文科省は文化庁の移転に金がかかり、厚労省は新薬の開発に金がかかり、外務省は外貨獲得のためにミイラの粉末を必要としている。
「しかし大臣……」年長の常盤が異議を申し立てようと口を開く。
「なにかね?」福王寺が鋭い視線を向けてくる。
 この目だ。
政界の分からず屋や変わり者や頑固な議員をたちまち黙らせたこの目に、ここにいる誰もが射すくめられて、逆らうことができない。目を向けられた常盤は何も言い返せなくなり、黙り込む。常盤が黙れば、オライリー大臣も宇多野大臣も反論することは難しくなる。ましてや、ヴィン丸橋副大臣と高尾事務次官はうつむいたままだ。
 宇多野が逆上して、福王寺を蹴飛ばしてくれないかなあ、とオライリーは思っているが、その長い足はソファーの上で組まれたまま、ピクリとも動こうとしない。
 ならば、よく事情が分かってない外人部隊が暴れてくれないかなあと思ってみたが、三人も福王寺が発する迫力に押されてか、顔を青ざめさせたまま、大人しくパイプ椅子に座っている。粉末が入った袋は各自ちゃんと膝の上に乗せているので、仕事は真面目にやるタイプなのだろう。
しかし、今さらこいつら三人を引き連れて、玄関に向かってダッシュするのは無理だ。せっかく外務大臣にまで登り詰めた俺の議員人生が終わってしまう。
 玄関はすぐそこなのになあと思っていたら、また新たな人物が部屋に入って来た。
「これはこれは皆様、お揃いで……」
 マッサージチェアで気持ち良さそうにしている福王寺以外の全員がその人物に目を向けた。部屋の入口にはチンチクリンの男が立っていた。地味な灰色のジャンパーを着て、地味な茶色のズボンを履いている。
「こんなところで極秘会議の真っ最中でやんすか。玄関の鍵は開いたままでっせ。不用心ですなあ」
 男は部屋の中にズカズカと入って来ると、壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げて、勝手に座った。
「いやあ、今日も寒いですなあ。冬ですからなあ」両手を擦り合わせている。
 みんながあっけに取られている中、オライリーが男に言った。
「あんたに二つのことを訊きたい」
「これはオライリー大臣様。あっしに何が訊きたいのでしょ?」
「まず、なぜこの場所が分かった?」
「まあ、そりゃ、あっしもいろいろと網を張ってましてね。日夜、数々の貴重な情報が入ってくるのですよ」と言って、ちらっと福王寺を見る。
福王寺は天井を見ながらマッサージを受けていて、男を見ていない。
「そうか、分かった。あんたはここに福王寺大臣がいても驚かなかった。ここにいらっしゃることを知っていた。つまり、大臣の後を付けて来たな」
「そんな、後を付けるなんて、人聞きの悪いことを……」
「では何だ?」
「へえ、帰り道が一緒でして」
「大臣は高級住宅街に住んでおられる。あんたもそうなのか?」
「いや、あっしは高級住宅街の入口のそばに住居を構えておって、犬の散歩のために、高級住宅街の中に入ることもありやして……」
 オライリーは言葉をさえぎる。
「時間の無駄だから、もう一つの質問をする」
「へえ、何でやんしょ?」
「あんたは誰だ?」
「へっ? あっしのことをご存じない? 皆様もご存じない?」
 男はオライリーとその他のメンバーを見渡すが、誰も口を開こうとしない。全員が、あんたは誰だという顔をしている。
「あっしは総務大臣の水川ですよ」
「総務大臣ということは総務省か?」
「当然ですがな、オライリーはん」
「総務省なんて省があったか? 新しくできた省か?」
「昔からありますやん」
「ヴィン副大臣は知ってるか?」
「いいえ――常盤大臣はいかがですか?」
「知らんな――宇多野君はどうかね?」
「存じません――高尾事務次官は知ってる?」
「只今、ネットで調べております」スマホを操作している。「あっ、どうやら実在するようです」
 総務省が実在と聞いて、みんなは驚く。そんな省は知らなかったからだ。
「あんた、総務省なんて、我々現役の大臣も知らないマイナーな省だぞ。そこの大臣がいったい何の用だ?」オライリーが睨みつける。
「消防車を新しくするのに、大金が必要でして」
「なぜいきなり消防車の話が出てくるんだ?」
「消防庁は総務省の外局なんです」
「何ー!」
 全員が一斉に驚いた。みんな初耳だったからだ。
 しかし、これ以上参加する省が増えると、各省庁の取り分が少なくなる。
「かなりガタが来ている消防車もありやして」
「ホームセンターで赤いペンキを買って来て、塗り直せばいいだろ」
「オライリーはん、そんな殺生なことを言わないでくださいよー」
 水川大臣は素っ頓狂な声をあげるが、
「ああ、それでかまわんよ」
「ええっ! 常盤大臣までそんなことを……」
「塗装が剥げても走るでしょ」
「ああ、宇多野はんまで」
 宇多野は足を組んだまま、水川に言い聞かせる。
「そもそも赤い火を消そうというのに、赤い消防車が出動するのはおかしいでしょ。水で鎮火させるのだから、消防車は水色にすべきじゃない? 水玉模様の消防車なんてメルヘンじゃない」
「今さら消防車のボディの色を変えろと言われましても。しかも水玉模様なんて緊張感のカケラもありませんやん。それに最近はサイレンも古くなりまして、音が小さいんですよ」
「マイクがあるでしょ。緊急車両が通りますと叫んでるでしょ。車内マイクを持って、地声でウゥ~ウゥ~と叫べばいいだけでしょ――はい、これで解決ね」
 水川総務大臣は宇多野厚労大臣によって、たちまち追い出された。水川を引き留めてあげる大臣はいなかった。うるさい総務大臣が去って、再び部屋に沈黙が訪れた。
 電動マッサージチェアが稼働する音だけが響く中、宇多野が声をかけた。
「法務大臣」気持ちよさそうにマッサージを受けていた福王寺が目を開いた。
「大臣は我々の極秘国家プロジェクトの何がお気に召さないのでしょうか?」
「ああ、そのことかね。ゾンビ法を成立させることが面倒なのだよ」
 千葉県の百里ヶ浜にある刑務所跡に、ミイラの粉末を摂取し、ゾンビ化した人を一時隔離している。急に始まった事業であり、法の整備が追い付いていない状態にある。法務省としては喫緊の課題となっているのだが、
「私もあと三年ほどで引退しようと思っていてね。なるべくややこしいことは避けて、残りの議員人生は波風立つことなく、のんびりと過ごして行きたいのだよ」
 ミイラの粉末を飲ませ、体に変化が見られた人を対象に、厚労省の旗を立てた車で連れ去り、百里ヶ浜の施設に隔離する。ほぼ誘拐である。今は極秘で行われているが、いつまでも国民に黙っているわけにはいかない。ほぼ誘拐を正当化するための法律が必要なのである。
 刑務所跡といっても、今はキレイになっていて、外から見ると、高級リゾート地に見える。これが隠れ蓑になっているため、今のところ外部からの反対運動や暴動などは起きていないが、バレることは時間の問題である。連れて来た人物の中にはテレビでよく見かける有名人も含まれている。いつ情報が漏れるか分からない。
しかし、法律が施行されると、こういった心配もなくなる。
 オライリーは、マッサージチェアに体を預け、半眼で天井を見上げる福王寺を見る。
 この男を説得しなければ外貨獲得は困難だ。すでにヨーロッパへ売り込むためのルートはできている。あとはモノさえあれば、スムーズに流れて行く。モノは今、自分と三人の外国人の手にある。
だが、この頑固な大臣にもどこか弱点があるはずだ。
それは何か? 
さっきから考えているが分からない。あの電動マッサージチェアが止まれば、大臣はこの部屋を出て行くだろう。二十袋の粉末の処分を確約させた上で。有無を言わさず。
 弱点は何だ?
 同じことを考えていたのは宇多野大臣だった。
 あの妖怪の心を動かすにはどうすればいいのか?
 そうだ!
 いつかスマホの待ち受け画面を自慢げに見せられたことがあった。
 そこに写っていたのは……。
「大臣、お孫さんはお元気ですか? 確か、愛ちゃんと言いましたか」
 福王寺の目がカッと見開いて、体をマッサージチェアから起こした。
「おお、愛ちゃんは元気だよ。宇多野君は私の孫のことをよく覚えてくれたねえ」
 妖怪が好々爺に変身した。
「以前写真を見せていただきましたから。愛ちゃんはとても聡明そうで、かわいいお孫さんですね」
 そうか、孫か。忘れていたな。
 オライリーは悔しがった。福王寺の弱点を宇多野に気づかれてしまったからだ。しかし、ここでいがみ合っていてはいけない。協力体制を敷かないと、せっかくの気づきが無駄になる。
「そう言えば大臣、愛ちゃんの次にお生まれになったお孫さんはお元気ですか?」
 オライリーがニコニコ顔で話し掛ける。ヴィン副大臣はこんな大臣の顔を初めて見たのでびっくりする。外貨獲得のためなら、愛想笑いなど、いくらでもできるのだろう。
「おお、オライリー君も覚えてくれてたのかね。それはうれしいなあ。二人目の孫は舞ちゃんで、三人目の孫が美衣ちゃんだよ。三人揃って、アイマイミーとなるのだよ」
 このとき電動マッサージチェアの動きが止まった。
一瞬、部屋の中が静かになったが、また動き出した。ヴィンがすばやく大臣の後ろに駆け寄り、そっとスイッチを押したからだ。
オライリー大臣は抜け目なかったが、ヴィン副大臣も抜け目なかった。
 外務省に生息する同じ穴の狢である。
 そして、福王寺の孫自慢が止まらなくなった。
 今では三人の孫の写真を待ち受けにしていることを始めとして、三人のうち一人はアイドルにしたいだの、音楽家にしたいだの、バレリーナにしたいだの、言いたい放題であった。無理に笑顔を作りながら聞いている連中は、顔が突っ張って、神経がおかしくなりそうだった。
「大臣、うちにも孫が一人いるのですが、何かとお金がかかりましてね」
 みんなの顔面が潰れる前に、オライリーが仕掛けていく。
「やはり大臣のお孫さんとなると、いい学校へ入れてあげたいですよねえ」
 オライリーの思惑を察した宇多野も続けてくれる。
「当然、私立学校ですわな。大臣のお孫さんが公立では世間が何と言いますか」
 高尾事務次官も追い打ちをかける。
「幼児教育をしっかりしておかないと、俺のようになりますよ」
 アンディも一押しする。ピッキング犯だけに説得力がある。
「いい学校ですと、けっこうこれが」指で丸を作る。「かかるそうですね」
 レオンも負けじと説得にかかる。
「僕の国フランスでも教育費はバカになりませんよ」
アダンが締める。
 そして、また宇多野に戻った。
「大臣ともなりますと、引退された後でも何かとお付き合いが多くて、交際費が大変らしいですね。退職金ではとてもとてもまかない切れないらしいですね」
 再び動き出した電動マッサージチェアに身をゆだねていた大臣が置き上がり、宇多野に目を向けた。
「そのミイラの粉だがね。相場はどんなものかな?」
「覚醒剤並みの1グラム6万円くらいです」
「なんと、そんなに高価なものかね。うーん」天井を仰ぐ。「わしに百グラムほど譲ってくれんかね」
 こうしてまた一人、共犯者が増えた。
 
 福王寺を仲間にできて、宇多野は上機嫌だった。
 ミイラの粉末を外務省に持ち逃げされそうになるところを阻止できたと思ったら、法務省の福王寺が現れて、プロジェクトそのものの存続が危ぶまれた。途中、総務大臣の乱入もあったが、何とかそれらの困難を乗り切ることができた。
 福王寺の懸念であったゾンビ法の成立については、法務副大臣に丸投げすることにしたらしい。あいつは東大法学部出身だから大丈夫だろうと笑っている。ならば最初からそうすればよかったのだ。
一件落着したところで、宇多野は叫びたくなるような気分だが、もちろん表情には出さず、いつものように、クールなまま振る舞う。
「ところで、福王寺大臣の宝物は何ですか?」
 佐久川がシチュー屋に来た客とコミュニケーションを取るために訊いているという質問をしてみる。大臣のご機嫌をこのまま継続させるためだ。
「そりゃ、宝物は孫だね」即答する。「実はな、三人の孫の写真をスマホの待ち受け画面にしとるのだよ」
「やっぱりそうですか。かわいいですからねえ」さっき見せられたが、初めて聞いたように感心しておく。これも処世術である。
「オライリー君はどうかね。やはり孫の写真を待ち受けにしとるのかね?」福王寺が他の大臣にも機嫌よく話を振って来る。
「うちの孫は一人だけですが、孫のドアップの写真を待ち受けにしてますよ」
「やはりな――ヴィン副大臣はどうかね? 孫が宝かね?」
「うちはまだ孫がおりませんので、うちのかわいい犬を待ち受けにしております」
「ほう、犬が宝かね。犬種はトイプードルだろう」
「なぜご存じで?」
「だいたいかわいい犬を自慢してくる奴はトイプードルを飼っておるわ。名前はチョコとかモカとかマロンとかココアとかだろう」
「はい、チョコです。大臣はなぜ名前までご存じなのですか?」
「トイプードルはだいたい茶色だろ。だからみんな、スイーツ系の名前を付けておるわ。考えることは同じということだよ」
 その後は年配男性の和気あいあいとした話が遅くまで続いた。
 年寄りが集まれば必ず出てくる孫と病気の話で盛り上がった。唯一独身の宇多野大臣にとっては、どうでもいい話だったが、ときどき話を振られると、無理矢理笑顔で対応してあげていた。ミイラの粉末が手に入れば、他に何も言うことはない。粉末は少しだけ売って、新薬の開発のために使い、残りの大半は一人でも多くの迷える国民を救うために使う。そもそも本来の目的はそれなのだから。
 にもかかわらず、粉末の使い道が文化庁の移転だとか、外貨の獲得だとか、自分の省のことしか考えていない。消防車の塗装って何? バカじゃないのか。国民に知られたら一大事でしょ。
 結局、粉末が入った二十袋は文科省、厚労省、外務省、法務省で、公平に五袋ずつ山分けすることとなった。また、残りのミイラを砕いて粉末にした分も、四省で均等に配分することに決めた。これでミイラのダイスケ君は全身まんべんなく再活用されることとなった。

中門台助は叔父と向き合っていた。
 父の弟に会うのは十年ぶりくらいだ。広大な敷地に広大な建物が鎮座し、目の前には広大な庭が広がっている。父と違って商才があった叔父は地元でも有名な資産家に成り上がっていた。
 台助の家にあるちゃぶ台を四つ繋ぎ合わせたくらいの一枚板の座卓に座っている。
 台助は意味もなく、座卓をコンコンと叩いてみる。音を確かめたところで何の木か分かるはずもないが、どんな音がするのか、叩いてみたかったのである。
「これは屋久杉から作られておる」叔父が教えてくれる。
「へえ、屋久杉の一枚板ですか」台助が表面をなぞる。
「車が一台買えるくらいの値段だ」
台助はあわて手を引っ込める。叔父が言う車とは、外国の高級車であり、中古の国産軽トラじゃないだろう。指紋を付けてしまったので、ハンカチで拭こうと思ったのだが、普段からハンカチなんか持ってないことに気付いた。
まあ、指紋くらいで文句は言わないだろう。それに、うちが弁償なんかできるほど裕福ではないことは知られている。
「お前はついにアレを掘り起こしたのか」
 いきなり核心を突かれた。
 ちょっとした話があると言ってやって来ただけなのに、なぜバレてるんだ?
 叔父はそんな俺の心を見透かしたように言ってくる。
「十年ぶりに会いたいとなると、他に理由はないだろ」
 へえ、おっしゃり通りでございます。
 仕方なく、正直に白状する。
「庭の小山を掘ってみたら、底の方に石の棺が安置されていて、中にミイラが一体入ってました」
「しかし、ミイラだけで目ぼしい財宝は入ってなかったと」
「まあ、そういうことです」
「他にもミイラが埋まってるんじゃないかと」
「はあ、そういうことです」
「それはこの家の庭じゃないかと」
「へえ、そういうことです」
「ミイラを売った金は雨漏りの修理と白アリ駆除でたちまち消えたというわけだな」
「なぜそれを!?」
「修理をした会社も駆除をした会社も私が経営しておる」
 そういえば数十社の会社を経営してるんだっけ。その中の二社というわけか。これは不覚を取った。
「金のニオイに釣られて、のこのこやって来たのだな。どうせ、あの倒れそうな古民家を豪邸に造り変えようと企んでおるのだろ」
「ふう、そういうことです」
 すっかりバレてしまい、観念する。
「確かに、この敷地にミイラは埋まっておる」また唐突に言われる。
「えっ、マジっすか!?」庭を見る。
「庭ではなく、床下だ」
「うひゃ!」台助が飛び上がった。
「いや、お前じゃなくて、隣の御仁の下だ」
「えっ、私の下ですか?」佐久川があわてて立ち上がった。「それは失礼いたしました」
「いや、かまわん。どうぞお座りください」手のひらで畳を示す。
 佐久川は座布団の位置を先ほどから少しずらして座り直した。

 中門台助の庭から見つかったミイラ=ダイスケは四つの省で分けられた。各省はそれぞれの利潤の追求にばかり目が向けられ、本来の活用方法である国民の救済にはほとんど使われようとしていない。
 愛国心に溢れる真面目な佐久川はそれが納得できなかった。
 ビーフシチュー専門店での苦労は何だったのか。あやうく店ごと吹き飛ばされるところだったのだ。転居先のマンションで出張シェフをやっていたが、そこからも粉末は盗まれ、証拠隠滅のためか、部屋中水浸しにされた。
よって、ミイラの粉末はもはや手元にない。ならば、新たに手に入れるしかない。そして、自殺願望者をゾンビ化するための国家プロジェクトを、自分の力で完遂させなければならない。 
 そして、佐久川はダイスケの発見者である中門台助と接触した。別のミイラを発掘するためだ。厚労省に勤務していたときの名刺を差し出した。すでに退職して、今の身分は嘱託での再雇用だが、黙っていたら分からない。名刺に嘱託とは書かれていないからだ。思惑通り、厚労省の偉い人だと勘違いしてくれた。年相応のポストに就いていると思ったのだろう。そして、文科省の悪口を言ってきた。せっかく掘り起こしたミイラがたった三十万円飛んで三千円だったこと。後で文句を言ったら、ミイラの命名権だけをくれて、ミイラの名前がダイスケになったことなど。
 そこで佐久川はすべてを厚労省に任せてください。うちは文科省のようなケチではありませんと説得した。この男は金で動くと、すぐに見抜いたからである。
しかし、別のミイラが埋まっているかどうかの保証はない。庭の小山は一つしかないし、台助も心当たりがないと言っていた。しつこく話を聞いていたところ、叔父を紹介された。しばらく会ってないが、もしかしたら何らかの手掛かりを得ることができるかもしれないと言う。
そしてなんとか、叔父の家に同行するところまでこぎ着けた。
「なぜ、中門家にミイラが安置されているのか分かるか?」叔父は訊いてくる。
「さっぱり分かりません」台助は正直に答えた。
「中門家の先祖にエジプト人……」
「ええっ!? すると、俺にはエジプト人の血が流れているということですか。うーん、やっぱりそうか。昔からラクダが大好きで、好みの女性のタイプはクレオパトラなんですよ。会ったことないですけど。この彫りの深い顔もエジプト譲りですかねえ。それに、子供の頃はよく砂遊びをしたものです。考えてみると、エジプトと言えば砂漠ですから、砂に目がなかったのでしょうねえ。血筋というものでしょう。そう言えば、昔飼ってた犬はスフィンクスに似てましたよ。えっ、スフィンクスは犬じゃない? 狛犬のデカいやつだと思ってましたけど、あれは何の動物ですか?」
「台助、話を止めよ」
「へっ?」
「先祖にエジプト人がいたとは言ってない。エジプトに興味を持った人がいたというだけだ。その人が見よう見まねでミイラを作ってみたらしい。それにお前の顔はのぺっとして、彫りは深くない」
 台助は両手で顔をゴシゴシこすった。
「こすっても彫りは深くならん。鼻は低いままだ。お前の顔などどうでもよい。ミイラの話だ。今言ったように見よう見まねで作ったために出来が雑であろう」
「俺もそう思ってましたよ。なんか変だなって」台助は知ったかぶりをする。
「包帯の巻き方も下手くそだ」
 ですよねーと頷く。
「あのう」佐久川が割り込んで来る。「叔父さんはこの床下のミイラをご覧になったのですか?」
「ああ、見たよ。木の板に書かれた文字も読んでおる」
「そういえば、ミイラの下に板切れが敷かれてたと言ってたなあ」
台助が博物館の職員との会話を思い出す。
「あれには何と書かれていたのですか?」
「それは難しくて読めんな」
「なんだ、そうか――ああちょっと俺、便所に行って来ます」
 台助はあわててトイレへ走った。
 そろそろ金の話が出るだろう。ここはスッキリしておいた方が集中できて、頭も回るだろう。普段から回ってはいないが、尿意がない方がちょっとはマシになるだろう。
 台助がいなくなると、叔父は唐突に言った。
「ゾンビらしいな」
 佐久川は驚いて、叔父の顔を見た。
「ご存じでしたか」
「木板に書かれた文字はちゃんと解読しておる。台助に聞かれたらマズいだろうから、分からないフリをしておった」
「それは申し訳ない」佐久川は気遣いに感謝する。
「ミイラを粉末にして摂取すればゾンビが増える。それが人類救済につながると書かれておるが、意味が分からん。それになぜ厚労省が動いておるのかも分からん」
「それは……」佐久川はどこまで話せばいいのか迷う。
「だがな」安置されているらしい床を見る。「このミイラが蘇るとは思っておらん。私はそこまで信心深くない。あなたに引き渡してあげよう」
「えっ、それは……」突然の提案に佐久川は珍しくうろたえる。
「何百年も前のミイラだ。もはや祟りはせんだろう」
「申し出はありがたくお受けいたします」深く頭を下げた。
「中門家で確認できているミイラは台助の庭にあったものと、この家にあるものの二体だけだ。他に埋もれているかもしれんが、それは中門家ではない。まあ、探すとなると大変だろう」
 佐久川は庭に目をやった。
「あそこにも小山があったのですか?」
「あったよ。私の祖父の頃の話だ。台助のように掘ったのではなく、山を崩してみたらしい。理由は、ただ邪魔だったからだ。すると、石の棺桶が出てきて、騒然となったらしい。また山を積み上げるのも面倒だから、床下に安置したようだ。資産価値があるのかどうか知らんが、まさか大事な物を踏み付けてるとは思わなかったのだろう。だから私の代まで無事に残っていたというわけだ」
「そうだったのですか。しかし今になって、手放してもいいのですか?」
「私も年だからね。最近では終活というのか、あれだよ。私がいなくなった後、親族間で揉めてもダメだからね。中には台助のような欲深い奴がいるからね。それにしても、ミイラを作ってしまうとは、まったく酔狂な先祖がいたもんだ。厚労省は板切れに書かれていたことを信じておるのかね?」
「どうやらそのようです」
厚労省の思惑がズレて来たため、佐久川が個人で動いているということは伝えない。
「お役人さんの考えることは分らんが、ホラーと言うか、SFと言うか、そういうものも官僚は信じるのかね」
「それは、何と言うか、いろいろな職員がおりますから」
「このミイラを持って行くということは、ファラオの呪いは信じてないということだな」
「まあ、そうなります。令和の時代に祟りはないだろうとの見解です」
 厚労省の総意のように話す。
「台助に渡す金だが」叔父はトイレの方を見る。「口止め料も含めて、家の改装ができる程度でいいだろう。奴は豪邸を建てたいのだろうが、欲というものはキリがないからな。文句を言ってきたら、またミイラの命名権をやればよい」
「ありがとうございます」佐久川は頭を下げた。
 そう言っていると、台助が戻って来た。
「ああ、スッキリした――で、ミイラさんはいかほどになりますかね?」
 いきなり指で丸を作る。
「おお、小銭でいいのか?」
叔父はニヤッと笑った。
 台助は廊下でズッコケた。 
ダイスケに続く新たなミイラは命名権を獲得した台助によって、“ショウヘイ”と名付けられ、これからたくさんの人々を救うことになった。
台助の家の庭にはもらったお金で物置が建てられた。百人乗っても大丈夫らしいが、台助には百人も友達がいないため、確かめようがなかった。

 かつてG7サミットが行われたホテルの会場で常盤文科大臣主催の食事会が行われた。招待されたのは宇多野厚労大臣、高尾事務次官、オライリー山越外務大臣、ヴィン丸橋外務副大臣、福王寺法務大臣に加え、アンディ、レオン、アダンの外人部隊だった。
 常盤大臣からは何も内容を知らされていない極秘の集まりだったが、ミイラの粉末の割り振りが各省庁でうまくできたことに対する祝賀会だということは、招待されたメンバーを見て、全員が分かっていた。
三人の外国人の招待は、口止めの意味が含まれていたのだが、本人たちは功労賞の意味だと勘違いしているため、機嫌よく話している。ただし、それぞれの国の言葉で話しているため、話が噛み合わず、なかなか前に進まない。
高級ホテルとは縁のない三人だったため、席についたときは、落ち着きなく、あたりをキョロキョロと見渡していたのだが、今はリラックスできているようだ。
テーブルの上にビールが運ばれ、常盤大臣が前に立った。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきまして、ありがとうございます」
 マイクを通さずに話し出す。
会場内にいるウェイターたちに聞かれてはマズいからだ。ミイラのミの字も聞かせてはいけない。それでも地声が大きいため、聞いている出席者は気が気でない。しかし、常盤本人もそのことが分かっているようで、早々に話を切り上げた。
「喉を潤していただくために、とりあえずビールで乾杯したいと思います。後ほど高級ワインをお出しいたしますので、ゆっくりご堪能ください。では、乾杯の音頭は福王寺大臣にお願いしてよろしいでしょうか」この中でもっとも先輩の議員を立てる。
「ああ、かまわんよ」常盤に代わって、福王寺がみんなの前に立った。
 乾杯の音頭は誰に聞かれてもかまわないので、マイクを使う。
「それでは、お集まりいただいた各省庁の発展を祈念いたしま……」
 そのとき、会場の後ろに一人の男が現れた。
「ちょっと待ちたまえ!」
 全員がいっせいに振り向く。
「あなたは鳴滝財務大臣!」福王寺が驚いて、珍しく大きな声をあげた。
各省庁のトップに君臨する財務省。
そのトップに君臨する財務大臣。
ご機嫌を損ねたら、予算を削られてしまう。
あの福王寺でさえ、頭を下げる超大物である。
白髪を肩まで伸ばしている。オライリーのような金髪の大臣は珍しいが、長髪の大臣も珍しい。
「なぜ、あなたがここに!?」福王寺が驚く。
「この者に聞いたのだよ」
 鳴滝大臣の後ろからひょっこり出て来たのは水川総務大臣だった。
「へへへ。皆さん、お久しぶりでやんす。あの節はお世話になりやした。よくも部屋から追い出していただいて。へへへ」
 全員が立ち上がり、財務大臣と総務大臣のために席を空ける。もちろん総務大臣はついでなのだが、並んで座れたため、嬉しそうにしている。
 急いで、二人分のビールも運ばれた。
「福王寺君、待たせたな。乾杯の音頭を頼むよ」
 福王寺は二人の席が整うまで、マイクの前で突っ立ったままだった。法務大臣を放置する機会はさほどない。だが相手は財務大臣だ。誰も文句は言えない。
「はい。では、集まりいただいた各省庁の発展を祈念いたしまして、乾杯!」
 福王寺は戸惑いながらも高らかに乾杯の発声をした。
 乾杯の後は、各自口を開くことなく、黙々とビールを飲み、つまみを食べている。鳴滝財務大臣に遠慮しているのである。
 そもそも、なぜ財務大臣がここに来たのかが分かっていない。
 鳴滝はそんな思いを知ってか知らずか、こちらも黙々とビールを口に運んでいる。
一人だけうるさいのは隣に座っている水川総務大臣だ。今までいかに自分が重要な仕事をしてきたかを、自慢げに語っている。普段財務大臣には相手にされず、話す機会などほとんどないため、ここぞとばかりに声を張り上げている。
「鳴滝大臣、やっと国勢調査の結果を公表いたしましたよ」
「国勢調査? あれは総務省がやっておったのか」
「そうですよ。何をおっしゃるのですか。消防車の塗装もやってますよ」
「ほう、そうかね。ベテラン議員のわしでも知らないことがあるもんだな」
 鳴滝はおつまみのビーフジャーキーを口にしている。
 他のおつまみはビスケットとビターチョコレートとビビンバである。
「さて」鳴滝が立ち上がった。「諸君、なぜ私がここに来たかというとだな」
 全員がいっせいに鳴滝を見上げる。
「百里ヶ浜の施設の運営に金がかかりすぎておる」
 ゾンビ化した人たちを収監している場所である。
 自殺しそうな人を選び出し、ミイラの粉末を摂取させ、ゾンビ化させて、約三百歳まで生き長らえさせるのである。ここで、人として生きるための訓練をやり直し、社会へ復帰するという壮大な国家プロジェクトである。
「特にあの海岸の整備には多大な工事費がかかった」
 その海岸はゾンビーチと呼ばれている。
 ゾンビならタダで泳ぎ放題、潜り放題、サーフィンし放題の美しいビーチである。
「君たちの省にこれ以上、ゾンビ再生のための補助金はやれんということだ」
 驚いた出席者たちがひそひそと話し始める。
「しかし大臣」常盤が代表して発言する。「これからの高齢化社会を、さらに高齢のゾンビに支えてもらい、住みよい日本を作り上げるという計画なのですが」
「おやおや、常盤大臣は鳴滝大臣に逆らうのでやんすか?」水川総務大臣がしゃしゃり出てくる。「まさか文科大臣が財務大臣に逆らいませんよねえ。はっはっは」
 銀歯を光らせながら、大口を開けて笑う。
虎の威を借りる狐である。 
 しかし、他の省の大臣も財務大臣には逆らえない。省の予算を減らされたくないからだ。
 蛇に睨まれた蛙である。
 常盤はべっ甲のメガネをワナワナと震わせながら悔しがる。
 結局、文科省と厚労省に保管してあるミイラダイスケの頭部と体、新たなミイラショウヘイの全身を財務省に没収されてしまった。
各省にはミイラの粉末が一袋ずつ残っただけだった。
「諸君、堪えてくれ。財務省にもいろいろと事情があるのだよ」鳴滝が言うと、
「そうだよ、諸君。人間は忍耐が大事なんだよ」また水川が出てくる。
 選挙が近い。
 二体のミイラを粉末にして売り飛ばすと、莫大な資金となる。
 鳴滝はミイラを裏金に変えて、選挙資金とする魂胆なのだろう。
 選挙が近いのは、何も鳴滝だけではない。みんな近いのだ。だから、手元に粉末を一袋だけ残してくれた。
国民を救うという国家プロジェクトは後に追いやられてしまったが、現状維持で良いことにしよう――これが全員の総意であった。
「宇多野君、ここで食事は出ないのかな?」鳴滝が催促する。
「只今、ビーフストロガノフをお持ちいたします」
「おお、ビーフストロガノフはあっしも大好きでやんす」水川がまた銀歯を光らせた。
 宇多野がウェイターに合図を送り、食事の支度をさせた。
厨房では佐久川シェフが腕を振るっていた。
宇多野厚労大臣から指示された通り、ミイラの粉はかなり多めに入れてある。
深刻な悩みを抱えてなくとも、効果が現れるくらいに。
「ところで、鳴滝大臣」食事が来る前に宇多野が訊いた。「大臣の宝物は何ですか?」
「宝物かね。有権者一人一人という答えは優等生だな。まあ、この議員バッジだな」左胸のバッジを指差す。「これを手にするのに苦労したからね」
 鳴滝の政治家としてのデビューは遅かった。それまでいろいろと苦労をしてきたというウワサだ。その苦労をバネに財務大臣にまで登り詰めた。
「あっしの宝物も議員バッジでやんす」
 訊かれもしないのに水川が答える。
「おっ、総務省もバッジをもらえるのか?」
「鳴滝大臣、冗談はやめてください。総務省もれっきとした日本の省でやんすよ」
「君は相変わらず、大学の落研時代のしゃべり方が抜けないな」
「あっしにとってはこれが標準語でやんす」
 出席者は次々に出されてくる料理を楽しんだ。
ゾンビール、ゾンビーフジャーキー、ゾンビスケット、ゾンビターチョコレート、ゾンビビンバ、ゾンビーフカレー、ゾンビーフストロガノフ、ゾンビーフステーキ、ゾンビーフカツレツ、ゾンビーフバーガー、ゾンビーフン。
もちろん、ゾンビーフシチューも堪能した。
 常盤文科大臣と宇多野厚労大臣の二人は、みんなに気づかれないように目配せして、ニヤリと笑った。
 二人の料理だけは、普通の料理だったからだ。
 これも宇多野が佐久川シェフに指示していたことだった。

 千葉県の百里ヶ浜。
高い塀に囲まれたその地域はゾンビレッジと呼ばれ、海沿いにはゾンビーチが続いている。今日は天気が良いため、ゾンビーチにはたくさんのゾンビが繰り出して来ている。
 今、二人の男がゾンビーチに置かれたベンチに座って、太平洋を眺めていた。
「自分の名前も年齢も住所も思い出せないというのは幸せなことなんでしょうかね」
 太った男が隣に座る気の良さそうな中年男性に話しかける。
「辛いことを思い出さないのなら、幸せなのでしょうね」
「しかし、楽しい思い出まで思い出せないのは、逆に辛いですよね」
「まあ、その辺は人それぞれでしょう。歩んで来た人生が違いますからね。それよりも、お宅が手にされているのはベレー帽ですね」
「そうなんです。どうやら私は普通の人間だった時、テレビ関係の仕事をしていたようで、
帽子の裏側にグルメ番組の最高視聴率達成記念という文字が縫い付けられてるのですよ」
「ほう、その記念品というわけですか。お宅は体格がいいから、グルメレポーターでもなさってたんじゃないですか」
「そうですかねえ。まったく記憶にありませんけどね。ところで、あなたは懐中時計を持っておられますね」
「これ、シャーロックホームズの懐中時計なんですよ」
「あなたは探偵だったんじゃないですか?」
「私もまったく記憶になくて。でも、探偵物語の松田優作に憧れていたのは確かなんですよ」
「何か手柄を立てて、それをもらったのでしょう。未解決事件の犯人を突き止めたとかね」
「だったら、カッコイイですね」
 二人はまた太平洋を眺める。
 顔に出来ていた内出血の跡はほとんど分からないくらいに治っていた。
 ミイラの粉末を摂取したことで顔や手足に現れる内出血やシミなどは、いずれ過去の記憶とともに消えて行く。しかし一般常識や礼儀作法などはそのまま残り、社会生活に何ら支障は及ぼさない。
 グルメレポーター馬尻と探偵だった八藤の記憶も消えていて、かつて二人が知り合いだったことも覚えていない。
「ゾンビというと体中が傷だらけで、汚い格好をしていて、ヨタヨタ歩きながら、噛み付いて仲間を増やすものだと思ってましたがね」
「噛まれた人もゾンビになるという話ですね。それは映画の中のデフォルメされたゾンビですよ。現実のゾンビはこの通りです」
「なるほど。ゾンビがこんな普通の格好をしていたら、インパクトがないですからね」
 二人の体はきれいで、清潔で、さっぱりとした格好をしていた。
「ここでは誰も噛み付いたりしませんから、安心して過ごしましょう」
 かつての友人二人は楽しそうに笑った。

少し離れた所には大きめのテーブルが設置されていた。日差しをさえぎっているのは、ゾンビーチパラソルである。
パラソルの下で五人の男がジュースを飲みながら、テーブルを囲んでいる。
 金髪の男が小さな男の子の写った写真を手にしている。
「私が何者かという手掛かりはこの一枚の写真だけです」
 隣から男が覗き込む。二人ともハーフらしく、イケメンである。
長身で彫りの深いハーフ顔の二人が隣り合う。
 ハーフアンドハーフである。
「男の子のアップの写真ですか。お孫さんじゃないですかね」
「やはりそう見えますか。自分のこの見た目からして、孫がいてもおかしくはない年齢だと思っていたのですが、孫がいたという記憶はないのですよ。そちらは何の写真ですか?」
「それが犬なんですよ。どうやら、トイプードルらしいのですが、私も犬を飼っていた記憶がないのです」
 同じテーブルに座っている、背は低いがガタイのいい男性も写真を見せてくれた。
「私も気が付いたら手に写真を持っておりました。これです」
 そこには三人の小さな女の子が写っていた。
「こちらもお孫さんじゃないですかね」金髪男性が覗き込む。
「どうやらそのようだが、三人も孫がいれば、覚えていてもよさそうなものだがねえ。まったく記憶にないんだよ。せめてこの子たちの名前だけでも知りたいものだがねえ」
「写真の裏はどうですか? あっ、何か書かれてますよ」
「えっ、どれどれ――愛、舞、美衣。ああ、これが三人の名前だよ。そうに違いない。三人揃って、アイマイミーだなあ。よく考えたなあ」
 白髪で長髪の男が写真を覗き込んで来る。
「間違いないでしょう、あなたのお孫さんだ。どことなく、あなたに似ておる」
「そちらは何か手掛かりをお持ちなのですか?」
「ああ、わしかね。写真などなくて、訳の分からんバッジが付いとるだけだよ」
 白髪の男性の左胸にバッジが光る。
「その菊花模様は!」金髪の男が驚く。「議員バッジじゃないですか!」
「議員? まさかこのわしが政治家かね。それはないと思うぞ」
「いいえ、間違いないです。あなたはどこかの偉い議員さんだったのですよ」
「へえ、そうかね。それは驚いたな。わしが議員とはなあ」
「実はですね」隣の男がしゃしゃり出て来る。「あっしの服にも同じバッジが付いてまして」
「あっ、ホントですね。でしたら、お二人揃って議員さんだったのですね」
 二人は顔を見合わす。
「うーん、面識はないがねえ」
「あっしもないでやんす」
「まあ、せっかくだから、大切に扱うとするか。おそらく苦労して手に入れた議員バッジだろうからな」 
「それにしても、目の保養になるでやんすねえ」
 ゾンビーチでは女性たちがゾンビキニを着て、ゾンビーチバレーをやっていた。白熱した試合に観客からも黄色い声援が飛ぶ。特にキレイで若い女性はゾンビーナスと呼ばれ、キレイな熟女はゾン美魔女と呼ばれていた。
「さて、みなさん、ゾンビレッジに戻りましょうか」白髪で長髪の男が提案する。「今日は負けませんぞ」
 五人の男は毎日、ゾンビリヤードをして楽しんでいた。
 ゾンビール1ダースを賭けて戦っているのである。
「いやいや、今日は私がいただきますよ、議員殿」金髪男が茶化す。
「おいおい、わしを議員だなんて呼ばないでくれたまえ。議員になれるような立派な人間じゃないよ」
「いやいや、ここを出てからはぜひゾンビッグになって、世間をあっと言わせてくださいよ」
 五人はゾンビーチパラソルを畳むと、ゾンビーチバレーを横目に見ながら、ゾンビレッジへ向かって歩き出した。

 そのすぐ隣でも、ゾンビーチパラソルの下に集まっている三人組がいた。
女性が一人、男性が二人という組み合わせだ。
「ということは、私たちは何らかの知り合いですよね」若い女性が言う。
「おそらくあなたは二十代」一番年嵩の男性が言う。「そちらの男性は三十代で、私は四十代くらいでしょうから、兄弟姉妹じゃないでしょうね。年が離れ過ぎている」
「それに、お互いあまり似てませんしね」三十代の男性が笑う。
 三人はお互いの関係性を探っている。過去の記憶が消えていて思い出せないため、何か手掛かりはないものかと、知恵を出し合っているのである。
「でも、知り合いだったことは確かですよね」
三人の共通点は手首に巻かれたミサンガである。
「これ、ミサンガって言うのですか?」女性が訊いてくる。
「えっ、知らないで巻いてたの?」三十代の男性が驚く。
「そうか、君はミサンガを知らない年頃なのか」四十代の男性も驚いている。「これが切れたら願い事が叶うのだよ」
「そう簡単に切れそうにないですけど」
「願い事はそう簡単に叶わないということだよ。ミサンガを作ってる人からすると、簡単に切れた方が売り上げは伸びるのだろうけどね」
「ストッキングと同じですね。すぐ伝線するから、すぐ新しいのを買わなきゃならないんです」
「頑丈なストッキングを作ると売り上げが上がらないからね」
「ストッキングというと」三十代の男性が話す。「忘年会で女装したとき、ストッキングを穿いたのですよ。あれは暖かかったなあ」
「君はそんなことを覚えているのに、我々三人の関係を思い出せないの?」
「そうなんですよ。くだらないことは思い出すのですけどね」
「まあ、私もそうだけどね。ここに集まってる人はみんな記憶喪失みたいだからね」
自分たちがいったい何者なのか、過去に何をしていたのか。肝心なことは思い出せない。
三人はゾンビーチに陽が落ちるまで語り合っていた。
「そういえば、あの建物の屋上から見る夕日はきれいらしいよ」
 その建物はゾンビレッジの中で最も高く、ゾンビルと呼ばれ、ランドマークとなっている。夏になると屋上ゾンビアガーデンがオープンし、ゾンビたちの間で大いに盛り上がった。何といっても料理の種類が多く、ゾンビーガン料理まで揃っていた。

高台から二人の男女がゾンビーチを見下ろしていた。
「邪魔者は消せましたね」
「ああ、君のお陰だよ。後はレールが敷かれた出世街道を駆け上がるだけだ」
「これで公私の公の部分の目途は立ちましたね。公私の私の部分はどうなってますか?」
「――というと?」
「とぼけないでください。奥様といつ離婚してくださるのですか?」
「ああ、その件かね。女房と話し合いはしておるのだが」
「私はいつまで愛人のままでいればいいのですか? 離婚に向けての進捗状況をお教えください」
「まあ、そうだなあ。うーん」
「何も話し合いはされていないと、お見受けいたしますが」
「いや、そんなことは……」
 女の回し蹴りが男の側頭部に炸裂した。
 常盤文部科学大臣は高台から海に転落して死んだ。
 高台には黄色いべっ甲の眼鏡だけが残された。
翌年、日本に女性初の総理大臣が誕生した。
その見事な黒髪は外国人にも評判がよかった。

 ゾンビレッジで療養して、普通の人間と区別がつかなくなれば、めでたく卒業となり、社会復帰していく。その際、仕事先は紹介してもらえる。もし性に合わなければ、別の仕事も紹介してくれる。ゾンビズリーチという組織が動いてくれるのだ。
そして、彼らは約三百歳まで生き続け、社会へ貢献していく。
 三百歳まで生きることが幸せなのかどうかは、その人物の臨終の瞬間に決まる。
死後、その体はミイラ化する。その粉末は後世へと引き継がれて行く。
 三百年後、果たして彼らは笑いながら死んでいけるのだろうか?

そして、一年後。
 ゾンビーチに集まるゾン美魔女たちの間から歓声が上がった。
新しくゾン美魔女に加入して来た熟女を出迎えたからだ。
「おめでとう!」みんなが祝福する。「ようこそ、ゾンビーチへ!」
 新入りの女性が頭を下げた。
「みなさん、どうぞよろしくお願いします」
ゾン美魔女はゾンビキニ姿だが、新人女性は紺色のスーツを着ている。挨拶が済むと、すぐ着替えることになっている。
「スーツがお似合いですよね」
「バリバリ仕事ができそうな雰囲気ですね」
「これぞキャリアウーマンという感じですよ」
 周りを取り囲むゾン美魔女が褒めたたえる。
「いいえ、そんなことはないです。と言っても、過去にどんな仕事をしていたか記憶にありませんが」
「あら、その胸に付いているのは議員バッチじゃありません?」
胸に金色の菊の花を形取ったバッチが輝いている。
「もしかしたら政治家さんでしたか?」
 新人女性は胸のバッチに触れながら、戸惑っている。
「私が政治家ですか? それはないと思いますよ」
「みんなから先生と呼ばれていたりして」
「先生と呼ばれるほどバカじゃありませんよ」
「もしかして、女性初の総理大臣だったりして」
「そんなこと、あり得ませんよ」
 新人女性は大きな口を開けて笑った。
「来たばかりで不安があるかもしれないけど、ここにいるのはいい人ばかりだよ。だから安心してね」
「でも、昔は体罰が横行してたんだよ」
「そうなんですか!?」新人は驚く。
「私なんてゾンビーチを抜け出そうとして、ゾンビンタを三発喰らったもの」
「抜け出す方が悪いね」みんなが笑う。「でも今は体罰なんかないから大丈夫だよ」
「ここは食べ物もおいしいしね」
「特に野菜がおいしいと聞いて来ましたけど」
「ゾンビニールハウスで丹精込めて作ってるからね」
「それは楽しみです」
「おいしい物もたくさんあるし、この海岸はきれいだし、ここは天国みたいだよ。行ったことないけどね」
「ゾンビーチはこんなに広いのにゴミ一つ落ちてませんね」
「もしゴミとか小枝なんかの漂流物が落ちてたらこの袋に入れて、持って帰ってね」
「それは何の袋ですか?」
「ゾンビニール袋だよ――それじゃ、新人さん。今からゾンビキニに着替えて来てくださいな」
「素敵なゾンビキニですね」
「なんと言っても、ゾンビクトリアシークレット製のゾンビキニだからね」
「そうなんですか。それは魅力的ですね」
「一緒にゾンビーチバレーで楽しみましょうね。その後はお楽しみのゾンビンゴ大会があるんだよ」
「そうなんですか!? 何がもらえるんですか?」
「私はゾンビンテージ物のジーンズをもらったわ」
「私なんかゾンビー玉三十個だったわよ」
「それを海にまいたのでしょ」
「他に使い道がなかったからね。海がキレイになってよかったわ」
「それは素敵ですね。今からゾンビンゴ大会が楽しみです」
宇多野五月はうれしそうに笑った。

女性初の総理大臣への風当たりは強かった。不運なことに天候異常による作物や原材料費の高騰が続き、国民の経済的不満は新人女性総理へと向かった。総理は美しかった。そのため同性からの嫉妬も多かった。さらに永田町にはまだまだ男尊女卑の思想が残っていた。自分の上に女性が立つのは許せないというお年寄り連中だ。時代遅れの象徴のような彼らの執拗な追及は続いた。
女性総理の神経を蝕むくらいに。

首相官邸からゾンビレッジまで厚労省の旗を立てた車で宇多野元総理を送り届けたのは、総理専属シェフをやっていた佐久川だった。
自殺願望者をゾンビ化して救済し、三百歳まで寿命を与えて、社会に役立てるという国家プロジェクトであったが、宇多野総理はそれを個人的に利用しようと考えるようになった。自分に逆らう取り巻きの排除に使い出したのだ。いつしか周りはイエスマンばかりになった。その結果、野党はおろか、与党内からも総理交代論が囁かれるようになった。
地位と名誉と権力が、いつしか純粋だった彼女を狂わせたのだろう。
国家の忠実な下僕でありたい佐久川はそれが許せなかった。せっかく自殺者もしだいに減って来たと言うのに、ここに来て心変わりするとは信じられなかった。
心身ともに疲れはじめた頃を見計らって、提供する料理の中に少量のミイラの粉末を混入させることにした。
そして、国会の最終日が終わり、官邸に戻ってすぐ、宇多野総理の意識の混濁が始まり、一時間後、すべての記憶が消えた。
日本初の女性総理はわずか任期一年の短命で終わった。

月曜日の午後七時。
会社帰りの二人の女性が駅へと向かう道のりを歩いていた。七海と結衣の同僚コンビである。
「わっ!」二人はほぼ同時に声を上げ、ほぼ同時に立ち止まった。
「店がある……」「なんで?」
 二人が見つめている先にはビーフシチュー専門店“コウセイ”が建っていた。
 爆破炎上して以来、更地になっていた場所だ。
「金曜日の夜はなかったよね?」
「うん、何もなかった」
「じゃあ、土日の間にできたということ? そんなのできる?」
「秀吉は一夜で城を築いたというからね」
「あれは都市伝説でしょ」
「そうなの?」
「たぶんね。秀吉に会った人なんて、令和の時代に生きてないから、真相は分からないけどね」
「それよりも、この店だよ」
以前のように、焦げ茶色と薄茶色を合わせた建物に白い看板が掛かり、緑色で“コウセイ”と店名が書かれているが、全体的に以前より一回りほど大きくなっている。
しかし、たたずまいは同じだから、間違いなく、あの“コウセイ”だ。
「ということは、同じオーナーだよ」
「あの銀縁の眼鏡をかけた口髭のシェフか。でもなんか違うなあ」
「確かに違和感が――あっ、オレンジ色のライトがない」
「ああ、ホントだ。だから変に感じたんだ。これじゃ、中にお客さんがいるかどうか分からないじゃない」
「でも、入ってみる?」
「もちろん」
 二人とも晩御飯はまだだ。ちょうどお腹もすいている。いつもこの辺を通り頃には空腹なのだが。
「ダメだったら、また今度来よう」
「そうだね。まあ、うちらは二回入ったことがある常連だから、冷たく追い返されることはないでしょ」ずうずうしいことを言う。
ビール色の重いドアを引いた。
――カラン。
ドアベルが鳴った。
「はい、いらっしゃいませー!」
 明るくて元気な声が聞こえてきて、二人はあれっと思った。
女性の声だったからだ。
「お二人様ですね。どうぞこちらへ」
メニューを抱えたウェイトレスが席に誘導してくれる。以前はカウンターだけだったのにテーブル席がある。店内を見ると、やはり以前より広い。そしてほとんどのテーブルがお客さんで埋まっていた。
 席に向かう途中で、厨房にいるシェフと目が合った。
「お二人様、ご無沙汰しております。新装開店へようこそ」
「あっ、同じシェフだ!」七海が無邪気に叫んだ。
「ちょっと――」結衣が七海の大きな声に驚き、あわてて口を塞ごうとする。
 前回と同じような二人のやりとりに、佐久川はニコリと笑い、
「また同じシェフが調理を務めさせていただきます」頭を下げる。
「お店が大きくなりましたけど、メニューも増えたのですか?」
七海がウェイトレスの持っているメニューを見ながら尋ねた。
「サイドメニューをいくつか増やしました。しかし心配なさらなくても、メインは以前とまったく同じビーフシチューでございます。どうぞご賞味くださいませ」
佐久川がまたニコリと笑った。


                           (了)

しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

それなりに怖い話。

只野誠
ホラー
これは創作です。 実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。 本当に、実際に起きた話ではございません。 なので、安心して読むことができます。 オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。 不定期に章を追加していきます。 2025/12/22:『かれんだー』の章を追加。2025/12/29の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/21:『おつきさまがみている』の章を追加。2025/12/28の朝8時頃より公開開始予定。 2025/12/20:『にんぎょう』の章を追加。2025/12/27の朝8時頃より公開開始予定。 2025/12/19:『ひるさがり』の章を追加。2025/12/26の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/18:『いるみねーしょん』の章を追加。2025/12/25の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/17:『まく』の章を追加。2025/12/24の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/16:『よってくる』の章を追加。2025/12/23の朝4時頃より公開開始予定。 ※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。

10秒で読めるちょっと怖い話。

絢郷水沙
ホラー
 ほんのりと不条理な『ギャグ』が香るホラーテイスト・ショートショートです。意味怖的要素も含んでおりますので、意味怖好きならぜひ読んでみてください。(毎日昼頃1話更新中!)

【完結】実はチートの転生者、無能と言われるのに飽きて実力を解放する

エース皇命
ファンタジー
【HOTランキング1位獲得作品!!】  最強スキル『適応』を与えられた転生者ジャック・ストロングは16歳。  戦士になり、王国に潜む悪を倒すためのユピテル英才学園に入学して3ヶ月がたっていた。  目立たないために実力を隠していたジャックだが、学園長から次のテストで成績がよくないと退学だと脅され、ついに実力を解放していく。  ジャックのライバルとなる個性豊かな生徒たち、実力ある先生たちにも注目!!  彼らのハチャメチャ学園生活から目が離せない!! ※小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも投稿中

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます

まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。 貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。 そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。 ☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。 ☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。

最遅で最強のレベルアップ~経験値1000分の1の大器晩成型探索者は勤続10年目10度目のレベルアップで覚醒しました!~

ある中管理職
ファンタジー
 勤続10年目10度目のレベルアップ。  人よりも貰える経験値が極端に少なく、年に1回程度しかレベルアップしない32歳の主人公宮下要は10年掛かりようやくレベル10に到達した。  すると、ハズレスキル【大器晩成】が覚醒。  なんと1回のレベルアップのステータス上昇が通常の1000倍に。  チートスキル【ステータス上昇1000】を得た宮下はこれをきっかけに、今まで出会う事すら想像してこなかったモンスターを討伐。  探索者としての知名度や地位を一気に上げ、勤めていた店は討伐したレアモンスターの肉と素材の販売で大繁盛。  万年Fランクの【永遠の新米おじさん】と言われた宮下の成り上がり劇が今幕を開ける。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

後日譚追加【完結】冤罪で追放された俺、真実の魔法で無実を証明したら手のひら返しの嵐!! でももう遅い、王都ごと見捨てて自由に生きます

なみゆき
ファンタジー
魔王を討ったはずの俺は、冤罪で追放された。 功績は奪われ、婚約は破棄され、裏切り者の烙印を押された。 信じてくれる者は、誰一人いない——そう思っていた。 だが、辺境で出会った古代魔導と、ただ一人俺を信じてくれた彼女が、すべてを変えた。 婚礼と処刑が重なるその日、真実をつきつけ、俺は、王都に“ざまぁ”を叩きつける。 ……でも、もう復讐には興味がない。 俺が欲しかったのは、名誉でも地位でもなく、信じてくれる人だった。 これは、ざまぁの果てに静かな勝利を選んだ、元英雄の物語。

処理中です...