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木霊師は笑わない (前編)
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「木霊師は笑わない」 前編
右京之介
その遺体には胸から腹にかけて奇妙な傷が七つも付いていた。
検死官助手の赤穂は、ステンレス鋼製の検死台の上に横たわっている男の紺色のポロシャツと白色のアンダーシャツを、慎重にハサミで切り取って剥がし、裸の胸を露出させた。
男の名前は尾形武。年齢は二十八歳。大手金融会社に勤務。二十代にして手に入れたマイホームのリビングのソファーの上で、一人寂しく死んでいた。
結婚して一年。まだ新婚と呼べる時期に、なぜ彼は死ななければならなかったのか?
そのとき、妻はどうしていたのか?
子供はどうなったのか?いや、そもそも子供はいるのか?
この後、新築の家はどうなるのか?――そこまで具体的に事件の概要は聞いてなかった。
――傷が見えた。
赤穂はその傷を見てぎょっとした。
長さ五センチくらいの横向きの黒ずんだ傷が、胸の真ん中からヘソの下あたりに向かって、ハシゴの階段のように、七つ並んで付いていたからだ。そして、傷の周りには木くずのような物がたくさん、こびり付いている。
――なんだ、これは?
こんな傷跡は実際に見たことはないし、写真でも見たことはないし、法医学の講義でも習った記憶はなかった。七つの傷が上から下へと続いている。傷の横の長さはほぼ一定だが、それぞれの傷の間隔は一定ではない。約四センチから約七センチ開いていて、狭い箇所があれば広い箇所もある。不謹慎だが、何らかのモニュメントに刻まれたデザインのように見える。犯人による何かのメッセージかとも思ったのだが、ミステリーじゃあるまいし、現実にそんな猟奇的な事件は起こりにくい。胸に北斗七星と同じ星の配列で、七つの傷を付けられた男が主人公の漫画があったが、丸い星の代わりに、横棒にして傷を付けた?まさか、そんなことはあるまい。頭の中にいろいろな可能性が沸き出しては、非常識が過ぎると判断して、次々と打ち消して行く。
何がどう当たればこんな傷ができるのか?
七つの突起がある金属の長い板の上に、うつ伏せの状態で落下したのかと思ったがそうではないようだ。胸の辺りの傷ならそれも考えられた。自分の体重によって、突起に突き刺ささる可能性があったからだ。しかし、ヘソの辺りの傷はどうか。同じ形状の同じくらいの大きさの傷がついているが、お腹には胸と違って弾力がある。見たところ、ガチガチになるくらい腹筋は鍛えられていない。むしろ、脂肪が乗っていて、ややお腹が出ているとまで言えそうだ。しかし、深さからしても、七つの傷には均等に力が加わったように見える。
やはり、違う。この仮説なら胸の部分とお腹の部分でかかる力により、七つの突起の大きさが違わなければならない。そんな都合のいい金属板があるのか?
赤穂は傷に顔を近づけた。慎重にデジカメで接写する。一見して切り傷だと判断した。血は凝固して赤黒く変色している。しかし、この傷が致命傷となったかどうかはまだ分か
らない。傷の横幅は五センチくらいだが、縦は五ミリほどしかない。しかし、深さがあった。しかも、かなりの深さだ。正確な傷の深さを測定しようとして再び驚いた。どう見ても、内臓まで到達している。
幅が五センチほどもある包丁か何かで、グサグサと突き刺されていた。
切り傷ではなく、刺し傷であった。
変わった性癖の人間がこの男を痛みつけるために、一本ずつ傷を付けていったのか?
フードをかぶった得体の知れない人間が、ニタニタ笑いながら、包丁で突き刺していく姿を、一瞬想像したが、すぐに打ち消す。ありえない。B級ホラー映画じゃあるまいし。
ならば、何かを白状させるための拷問か?
何者かが、なかなか口を割らないこの男のために、傷を七つも付けてしまったのか?
白状させるために、爪を一枚ずつ剥がしていくという拷問がある。しかし、被害者は見たところ、真面目そうな身なりと風貌をしており、そちらの世界の人間には見えないし、暴力団関係者との報告は受けていない。見たところ、体に入れ墨も入っていない。
それに、傷の回りに付着している木くずは何だ?
傷と何の関係があるのか?
もし、拷問だとしても、その関係が分からない。
では、ヤクザがカタギに手を出したということか?
確かに、ヤクザも景気が悪いためか、カタギ相手の犯罪も増えているが。
では、七回刺されたところで白状したというのか?
それとも、最後まで口を割らずに命を落としてしまったのか?
――いや、それはない。
なぜなら、この男は一人で死んでいたのだ。家中のすべての鍵が内側から施錠された状態で、ソファーに横たわったまま死んでいたのだ。しかも、テレビをつけっぱなしにした状態で、テーブルの上にコーヒーが入ったマグカップを置いたまま…。
まさか、自傷ではあるまい。こんな変わった場所に傷を付けるか?ここまで傷つける理由は何か?ためらい傷らしきものはなく、一気に七つの傷を順番に付けていったのか。包丁で自分の体をグサグサと突き刺していったのか。まるで、自分の体を使って、何かの芸術作品を作るように。あるいは、DIYでも楽しむかのように。
そんな人間が存在するのか?
ならば、その凶器はどこへ行った?
室内から凶器は見つかってないとの報告は受けている。
遺体には七つの刺し傷が付いている。すべてが深く、すべてが致命傷に至っているように見える。しかし、それにしては出血量が少ない。先ほど見せられた現場の写真には、血が流れた、あるいは噴き出した跡が見られない。絨毯には何の汚れもなく、横たわっていたソファーもきれいなままなのである。だから、他で殺されて、家に運ばれたのではないかという見解も出てきているという。
それとも、この傷が死因ではないのか…?
他にどこか傷があるのかもしれない。まだ見ていない後頭部か、背中か。いや、外傷とは限らない。ひょっとしたら、内臓に何らかのダメージを受けているかもしれない。
しかし、まずはこの七つの傷を見なければ…。
さらに顔を近づけて、その傷を念入りに観察していた赤穂は再び、ぎょっとした。
いや、そんなはずはない。
赤穂は上から下へと続く七つの傷をもう一度丹念に調べてみた。
――いや、間違いない。
デジカメを掴もうとするが、体が震えてできない。
だめだ、これは手に負えない。
赤穂は教えを乞うている師匠格の宝永に声をかけた。
「教授。ここを見ていただきますか」
近くから見守っていた宝永教授がゆっくり歩み寄って来た。定年間際である法医学の師匠だ。体は大きく、最近は見かけないごつい黒縁の眼鏡をかけている。ヘアキャップの中の髪はすべて真っ白になっていた。長年の苦労の跡が伺える。
「どうした?」
宝永が遺体を足先から頭の先までゆっくり見渡した。
何らかの異常を見つけるように。
赤穂の声が震えていたことに気づいたのだろう。
「胸から下腹にかけての七つの傷ですが、体の内部から外部に向かって付けられたみたいです」
「えっ、どういうことだ?」
宝永は傷に顔を近づけた。横から見るとメガネのレンズの分厚さが分かる。極度の近眼
である。横から赤穂も覗き込む。邪魔にならないように距離を取りつつ、宝永からのアドバイスを一言も聞き洩らさないように耳をそばだてる。あるいは、こんなことも分からないのかと、叱責を受けるかもしれないと思い、全身が緊張する。こわごわ、横顔と七つの傷口を交互に見つめる。もはや初老に差し掛かっている宝永の言葉は、今までの長い経験と豊富な知識に裏打ちされており、常に的確であり、はずれることはない。
ゆえに、師匠格なのであった。
宝永は一つ目の傷口を見る。
二つ目、三つ目、四つ目、五つ目、六つ目、七つ目と下がっていく。
やがて、すべての傷の確認を終えた。
「――なんだ、これは?」教授の声が裏返りそうになった。
常に沈着冷静であり、どんな遺体と対面しても表情の一つも変えない宝永のこんな声を聞いたのは初めてだ。赤穂の腕には鳥肌が立ち、背中はぞっとした。と同時に、赤穂は自分の観察は間違っていなかったと分かり、反面ほっとした。
すべての傷口の周りの皮膚が立ち上がっていた。
外部から傷つけられた場合、周りの皮膚は内部へとめり込む。しかし、この傷口の皮膚は内部から押し出されて、ささくれ立っているように見える。
突き刺した凶器を、すばやく抜き取ればこうなるのではないか?
凶器に皮膚がくっ付き、そのままささくれ立つ。しかし、七つの傷がすべて内部から外部へと刺されたように見えているのはなぜか?まるで凶器が体内から体外へと突き出てできた傷のように見えているのはなぜか?
宝永は困惑の表情のまま、立ち会っていた岩鏡に声をかけた。
「警部、ちょっと来てもらえますか?」
岩鏡警部が大きなお腹を揺すってやって来る。その後ろからは同僚の打水刑事がスリムな体型をさっさと動かして付いてきた。定年間際の岩鏡とまだ二十代後半の打水。今回の事件を担当しているベテランと若手の凸凹コンビだった。
事件は昨日の午後に起きた。通報してきたのは新婚の妻だった。家に帰ってみたら、夫がソファーで寝たまま起き上がって来ない。脈をとってみたが動いてない。心臓も動いてない。息もしてない。人工呼吸を試みてみたが何も変化がないという電話だった。
すぐに救急車が向かったが、すでに心肺停止の状態だった。家の鍵がかかっていたため、妻はまだ犯人が居るのではないかと思い、家中を探し回り、クローゼットの中まで見てみたが、何ら異変はなく、荒らされた跡はなく、動かされた物も盗まれた物もなかったという。スマホはテーブルの上にマグカップとともに並べてあったのだが、直前に電話やメールを使った形跡はなく、また、犯行に結びつくようなサイトにアクセスした形跡もなかった。その後、警察の事情聴取が行われ、第一通報者の妻が疑われたが、その日は朝から近所の実家に行っていて、実母と一緒だったことが分かり、死亡時刻のアリバイは成立していた。また、被害者の夫婦関係や義母との関係は良好であり、妻の実母が共犯という可能性も否定された。まだ子供はなく、引っ越してきてまだ二か月しか経っておらず、近所の知り合いは多くなく、聞き込みは簡単に済んだが、何も引っかかることはなかった。また、職場での勤務態度はよく、遅刻や欠勤もなく、人間関係も問題はなく、今のところ何らトラブルは確認されていなかった。
ただ、金融会社に勤務している関係で、知らず知らずのうちに顧客から恨みを買っている可能性はあったが、はっきりしていない。その点は会社に調査を依頼しているところだった。殺人事件ということで捜査が進められていたが、なぜ殺されなければならなかったのかは不明のままであり、今日まで容疑者も不明のままであった。
妻の留守中、盗みに入った犯人が夫である被害者と鉢合わせして、何らかの凶器で体に七つの傷を付けて、何らかの方法で外から施錠して逃げた。誰もが、こんな突飛もないストーリーしか思い浮かばなかった。
宝永検死官に呼ばれた岩鏡警部は「おう、教授、どうした?」と気さくに聞いてきた。
二人は数々の事件に立ち合ってきた旧知の間柄である。宝永は死体の傷口を見せながら分かりやすく説明をした。二人の刑事は熱心に並んだ傷を覗き込むが、しだいに表情が険しくなってくる。若手の打水刑事はあわててメモを取り始める。
「この七つの傷はすべて内部から外部に向かって、つまり、横たわった状態だと下から上に力が加わっておるんだよ。体内から凶器が突き出て、引っ込んだとでも言えばいいのか。解剖して詳しく中を見ないと分からんのだが…」
宝永は困惑気味に説明するが、傷口をじっと見ていた岩鏡は言葉を遮った。
「――分かったぞ!何かこう、突起した部分が七つ並んでる金属の棒を仰向けのまま飲み込まされたのだろう。多少は曲がる細くて薄い棒をスルスルっとな。手品師が剣を飲み込むだろ。あれだよ。それで飲み込んだ後に上からグシャリと押しつぶす。七つの突起の部分だけが体内からブスッと突き出る。その後、金属棒を引き抜いた。するとこんな並んだ傷ができる。どうだい、教授?」
岩鏡警部がマスク越しに大きな声で自信満々に説を唱える。
しかし、宝永検死官はすぐさま否定した。
「いや、ヘソの下の辺りまで傷は付いてますから、多少は曲がる棒をまっすぐに飲み込んでも、先端は胃腸が邪魔して、そこまで到達しませんよ。それに口内や喉にはそのような何かの棒状のものとか、突起した部分が通過したような傷は一つも見当たりませんから」
岩鏡はしばらく考えたのち、諦めずに別の意見を自信満々に述べる。
「――じゃあ、あれだ!体内で何かが爆発したんじゃねえか?七つの小型爆弾が仕掛けられて爆発したとか、腐敗して発生したガスが何かに引火して爆発したんじゃねえか。それでボンボンボンボンボンボンボンと七回破裂して、内側から外側に向いた傷が七つできたんだ。違うか、教授!」
「それだと、こんなほぼ等間隔に傷はできないな。しかも、傷がきれいに縦一列に並んでいる。そもそも体内にそんな仕掛けを施すことは不可能だし、死んですぐに腐敗ガスが体内に充満することはない。爆発したような焦げた跡もないよ。だいたい殺すのであれば、金属棒を飲まるとか、爆弾を仕掛けるとか、そんな面倒なことをする必要はないだろうよ。台所にあった包丁で一突きすればいい」
宝永にことごとく否定されるが、岩鏡は懸命に知恵を絞る。捜査一課刑事の腕の、いや、頭脳の見せ所である。若手の打水刑事は隣に立ったまま冷や冷やする。いつも岩鏡警部はろくでもない推理を述べては、外しまくっているからだ。宝永と同じく定年間際であり、今までの刑事としての豊富な知識と経験があるのだが、下手な鉄砲はいつも当たらない。かすりさえしない。宝永検死官もそれには慣れているはずなのだが、今回は特にヒドい内容で、ベテラン刑事とは思えない推理が続く。ご自慢の知識と経験はどこへやら。
「そうだなあ。――あっ、分かった!体の中から七匹のエイリアンが出てきたんじゃねえのか!ピョンピョンピョンとな。教授はあの映画を見てないのか?」
宝永は黙り込んだ。助手の赤穂も黙ったままだ。
岩鏡のとんでもない説に辟易したのか?
この傷の正体に考えを巡らせているのか?
打水刑事は室内の床をキョロキョロと調べ出した。まさかとは思うのだが、岩鏡の説を擁護しようと、エイリアンが這った跡を探していたのだ。本当にエイリアンなら、ナメクジが這ったような跡が付いているはずだ。
もちろん、そんな跡は見当たらなかった。掃除の行き届いた清潔な壁と床だ。
まさか、天井から逃げたか!?
グルリと上を見渡すが異常はない。
シンプルな部屋だ。他に隠れるようなところはどこにもない。
パイプが張り巡らされていたり、複雑な機械が設置されていたりはしない。
ここは宇宙船内部ではない。奇妙な形跡は見当たらない。
「警部、エイリアンなんていませんよ」
同じように部屋中を見渡していた岩鏡が振り向く。
「いないか」本気でがっかりする。「いや、待てよ。この男のポロシャツと下着は赤穂君が切ったのだな」
「はい、そうですが…」突然、自分の名前を呼ばれた赤穂が驚いて答える。
「服に異常はなかったか?何物かが食い破った跡があったとか、ネチャネチャとした液体が付いていたとか、異臭がしたとか」
「そんな不気味なことはないです。穴一つ、開いていないのを確認した上で服を切断してますから。服を切断して初めて傷が見えたのです。そのポロシャツも下着もここにあります」
手で近くの台を示す。それらは広げて置いてあった。
「――ということは。体内からエイリアンが飛び出したわけではないと。うーん…」
岩鏡は腕を組み、頭をかしげる。
「警部さんよ」あまりにもバカバカしい論争に焦れた宝永が念を押す。「これらの傷はここに運ばれてきたとき、すでについていたのだよ。赤穂がそう言っておる。体の皮膚と服を同時に食い破って、変な生き物が登場したわけではないよ」
それでも納得いかない警部はまだあきらめない。
「――そうだ!肝心なことを忘れておったわ。傷のことはさておいて、エイリアンはまだ被害者の自宅にいるんじゃないのか!?エイリアンが巣作りをしておるんじゃないのか?奥さんが危険じゃないのか!?今頃、襲われてるんじゃないのか?奥さんは一人で反撃できるのか?恐ろしい武器でも携帯しておるのか?」
「警部!」今度は打水が口をはさむ。あまりのトンチンカンに語気も荒くなる。「自宅は昨日、鑑識と警部と私で徹底的に捜索したじゃないですか。被害者が寝ていたソファーをバラバラに分解してまで調べました。天井裏や排水溝の中までも丹念に見ました。エイリアンの巣なんてありませんでした。それに奥さんは署で事情聴取を受けていて、気落ちはしてましたが、正常というか、人間として無事でした。つまり、体をエイリアンに乗っ取られているようには見えませんでした」
「――ああ、そうだったな。じゃあ、エイリアンはいなかったというわけだ。――エイリアンじゃないとすると何だ?プレデターの可能性はどうだ?」
「ありません」
「あいつは目に見えないぞ」
「でも、ありません」打水は冷静だ。
警部はまた腕を組んで考えるが、もはや出尽くしたようで、いい知恵は浮かばない。
「宝永教授の方では何か分かったかね?」あきらめて、専門家に助けを求める。
助手の赤穂と遺体を見ていた宝永だったが、その顔は険しいままだ。
「おそらく、死因はこの七つの傷からの失血死だろう。これだけの深い傷なら相当の出血があったはずだ。しかし、どうやってこの傷が付いたかは、今のところ分からんし、傷の周りに木くずが付着している意味も分からん」
「うーん。教授でも分からんか。まあ、容疑者からエイリアンとプレデターが外れただけでも良しとするか。いくら日本の優秀な警察でも宇宙の果てまでは追えないからな」
その後、解剖を続けた結果、被害者の肺と胃に大きな穴が開き、その中には大量の木くずと木片が詰まっていたことが分かった。また、肺と胃の穴から木くずが噴出して、体の皮膚を突き破って、体外に出て、あの七つの傷を形成したと思われた。
なぜ、肺と胃の中に木くずや木片が詰まっていたのかは分からなかったし、それらの一部がどうやって体の外へ飛び出したかも分からなかった。
その古民家は奇妙な造りをしていた。
市から委託を受けた解体業者の坂口は、当該物件を見上げて唖然とした。家の中から屋根を突き破って、一本の大きな木が外に突き出ていたからである。高さは二十五メートルくらいあるだろう。屋根の上を、葉っぱを付けた枝が覆っていて、傘をさしているようだ。あまりの珍妙な現状のため、口をあんぐり開けたまま、立ち尽くす。五年間ほど、この解体の仕事に従事しており、崩れ落ちそうな木造三階建の家や小動物の住処になっている家など変わった物件をいくつも見て来たが、大木に貫かれたような家は見たことがなかった。
家を建てた後から木が成長して屋根を突き抜けたのか?
もともとあった木を囲うようにして家を建てたのか?
常人には理解できない現代アート作品などといった代物か?
車を止めた場所から眺めただけでは分からない。
「親方。何だい、あの屋根から生えてる木は?」
雇っているベテラン職人の三郎に声をかけられて、坂口は我に返った。
親方といっても、老齢で引退した父親から引き継いだ会社の、まだ経験の浅い代表に過ぎない。他の職人はみんな経験豊かな年上の男たちである。父親の代から勤務している人たちだから、親方が息子に代わっても気兼ねなく働いてくれている。このベテラン職人の三郎も木を見て驚いているのだから、めったにあることではないのだろう。
「おう、俺も何だろうと思ってたんだ」坂口は答える。
「見た感じはケヤキだなあ。よくもまあ、こんな環境の元で、でっかく成長したもんだなあ」
三郎が手に軍手をはめながら言う。
ケヤキはニレ科の落葉高木で、大きいものは高さ四十メートルに達する。今いる場所のような山地に自生するが、防風のため人家に植えられていることもある。
「ケヤキは防風によく使われるが、まさか真上から風は吹き下ろさんだろう。いったい何だね、親方?」三郎がまた訊いてくるが、坂口にも分からない。
「まあ、とりあえず、中に入ってみるか。――みんな、行くぞ」
坂口は資料を手に、職人たちを引き連れて家に向かう。
いったい中はどうなってるのか?
坂口は少しワクワクしてきた。
2015年に「空家等対策の推進に関する特別措置法」が施行されたことにより、倒壊の危険性がある空家は強制撤去できるようになった。
今回の物件に関しては、所有者が死亡により放置されていた空家であり、相続人はいなかったため、強制的に解体することが決まった。築六十年越えの平屋建てなのだが、手入れもされておらず、風雪にさらされていたため、屋根の一部は捲れ上がり、壁は剥がれ落ち、玄関の扉は鍵が壊れ、半開の状態であり、雨戸も外され、畳がボロボロになっている室内が見えていた。どこかへ運び出されたのか、家具や電化製品などは何もなく、ガランとしている。人が住まなくなると、当然、家の手入れはされなくなり、荒れて行く。それに加えて、自然に朽ち果てていくものである。
坂口はこんな風景を見るといつも寂しい気分になった。
だが、この建物自体の解体は難しくない。
二百万円の解体費用は市が全額負担することになっている。
つまり、取りっぱぐれはない。
坂口の寂しい気分も、少しだけ紛れるというものだ。
台所、風呂場、便所以外の居住スペースは、八畳の部屋が三つ並んでいるウナギの寝床のような細長い間取りをしていた。その真ん中の部屋の中央の畳を大きなケヤキが突き破り、その先は天井を突き抜けていた。周囲は約250センチ。大きいケヤキとなると周囲が300センチにもなるが、これも大きい方である。ケヤキはまるでこの家の大黒柱のようにそびえ立っているが、家を支える柱の役目は、あまり果たしていない。逆に、家がこの木を取り囲んで、大切に守っているように見える。
「なんだか、ご神木のようだなあ」三郎がつぶやく。
「三郎さん、上の方に縄みたいなものが巻き付けてあるが」坂口が言う。
ケヤキの幹の上の方に、朽ちて今にも切れそうな縄が巻かれている。
「ああ、やっぱりご神木だ。あれはしめ縄だ」
「なんで、家の中にご神木があるんだ?」
「ご神木といっても正式なものではなかろう。この家の住人がしめ縄を巻きつけて、勝手にご神木として崇拝していたんじゃないかね。木の成長とともにしめ縄は上に行って、届かなくなったということだな。あるいは定期的に巻き直したかだな」三郎は木の根元を見渡す。「親方、これを見てみろ」
床には千切れた紙切れが数枚貼り付いている。
「茶色く変色しておるが、しめ縄にぶら下げる紙垂だ。千切れて落ちたのだろうよ。――まあ、個人で拝んでおったのだから、この木を切ってもバチは当たらんだろ」
「…そんなもんか」
坂口は不服そうだが、周りの職人たちは年配者である三郎の話に頷いている。木の周りを囲む畳と天井の部分は鉄板で補強が施されているが、木の成長に合わせて、取り換える必要があっただろう。手間をかけて育てていたことが伺える。
「親方、結局、この木をどうするかね?」
三郎がケヤキを見上げながら訊いてくる。坂口が生まれる前から働いている職人といえども、この家屋を見て、全員が驚いている。何と言っても、大木が部屋のど真ん中から屋根を破って生えているのである。珍しくてしょうがない。こんな奇妙な家と木には、初めてお目にかかるのだろう。物珍しそうに触ったり、叩いたりしている。
「いや、俺もこの木の処理のことは聞いてない。ちょっと待ってくれ」
床下に潜り込んでいた為さんからも声がした。
「親方!確かに地面から生えてますわ」
「そりゃそうだろ!何を寝ぼけてるんだ、為さん」潜るまでもないと、他の職人が茶化す。「こんなにデカい樹木だ。しっかり根を張ってるだろうよ」
坂口はしばらくの間、資料を片手に家の中を見渡していたが、この奇妙な造りに、どうやって対処するのか考えても分からない。
「市の担当に訊いてみるから、待ってくれ」
「分かりました」みんなは木を見上げたまま返事をする。
「おう、分かったぜ!」床下にいる為さんからも返事が聞こえた。
親方の坂口も、この木のことは聞いておらず、判断がつかなかったため、市の建築指導課の担当者である亀戸課長に電話を入れた。解体の邪魔になるのだから、切り倒してもいいのだろうけど、後になって文句を言われたらたまらない。その辺はちゃんとしておかないと、お役人という奴らは何かとうるさい。あいつらは何にしても、責任を取りたくないんだ。
「もしもし、課長さんかい。坂口だけど。山の中の現場に着いたのだが、なんだか、家の中から屋根を突き破ってデカい木が生えてるぞ。どうすりゃいいんだ?」
亀戸課長は現地調査をしているはずである。当然、この木のことも知っているはずだ。しかし、我々解体業者には何も知らされてはいない。簡単な資料を渡されただけで、さっさと解体しろという。しかも、安い賃金でだ。こっちは職人を引き連れて、重機を転がしながら、わざわざ山の中まで来てやってるんだ。まったく、弱小解体会社が相手だからといって、足元を見て、いい加減な仕事をしやがる。これだから公務員は嫌いなんだよな。
あの野郎――亀戸の陰気臭い顔が浮かんでくる。
坂口はスマホを耳に当てたまま、時折、その木を見上げて、何度も頷いている。何か、文句を言いたいのを我慢しているようにも見える。だが、なかなか通話が終わらない。やがて、職人たちが焦れ始めた。
「亀戸の奴、何をしゃべってるんだ」
「さっさと決めりゃいいのによ」
向こうに聞こえないように小さな声で言う。
先ほどから、坂口の口は動いてない。亀戸が一方的に話しているのだ。
「解剖?」
坂口から久しぶりに聞けた言葉がこれだった。
「今、親方は解剖と言ったよな」職人がざわめく。
「俺もそう聞こえたぞ。何だ、気持ち悪いな」
また、しばらく、坂口が頷くだけの時間が経過する。職人は待つしかない。
「この現場はダメになったんじゃないのか?」
三郎が冗談を言ったところで、ちょうど親方の電話が終わった。
「親方、えらく長い電話でしたが、何か不都合でもありましたか?」
「いや、気にするな。何でもない。――さあ、仕事を始めようや」
坂口は周りに集まっていた職人たちに言った。
「よーし、ぶっ倒していいそうだ。さっそく取り掛かろう。まずは三郎さん、東側から重機を入れてくれ。建屋を壊してから、基礎を砕いて、最後にこのケヤキを倒そうや」
坂口は解体手順を簡単に説明すると、手をポンポンポンと三回叩いて気合を入れた。
「みんな、今日も安全第一で頼むわ!」
「はいよ!」あちこちから返事が聞こえた。
「おう!」為さんはまだ床下にいるらしい。
解体作業は朝早くから一日がかりで行われた。解体後の建築物をしっかりと仕分けする分別解体なので時間がかかったが、これは法律で決められた解体方法なので仕方がない。
床下から這い出た為さんは、次に屋根へ登って、空に向かって突き出ているケヤキの枝葉を、チェーン・ソーや斧やのこぎりを使い、切り落とした。その後、家屋が解体され、地面はならされて、バラした廃材がトラックに積み込まれた。山間に響いていた重機の音も止み、敷地の中央にそそり立っているケヤキのみが、むき出しで残った。
「さて、最後のお楽しみ。こいつに取りかかるとするか。みんな、頼むぞ!」
坂口がヘトヘトになっている職人たちに最後の気合を入れた。これを倒せば今日の仕事は終わりだ。家に帰ると楽しい晩酌が待っている。
「日が暮れるまでにやっつけるぞ!」数人が呼応した。
「おう、やるぞ!」為さんも片手を突き上げた。
もう、床はなくなっている。為さんは地上の人だった。
新入りの二人が大木の根元を固めているコンクリートを電動ハンマーで破砕しているとき、ヒジが当たったか何かで、ケンカが始まった。他の職人たちが止めに入るも、興奮した一人が電動ハンマーを振り回し、その先を大木に突き刺してしまった。
「バカ、何をやってるんだ!この木は売り物だぞ!」
坂口の一言でケンカは止んだが、大木には穴が開いた。
――やばいな。
坂口は穴を覗きながら独り言を言う。
「親方、すいません」と穴を開けた奴が謝ってくる。
「ケンカなら仕事が終わってから、他所でやってくれ!」
「すいません」とケンカ相手も謝る。
「それと、商売道具で遊ぶな!お前たちにケガでもされたら、会社は業務停止か最悪、廃業に追い込まれる。責任を取れと言われても無理だろ」
「はい。申し訳ありません」二人は大きな体を小さくして、もう一度謝る。
「分かったなら、仕事を続けてくれ。この木を倒したら今日は終わりだから」
あまりにしょげているので、許してやることにする。作業はまだ続くのだ。
ここは山の中にポツンとある一軒家だった。かつて、この集落には三十軒ほどの家があったのだが、時代の流れとともに減少し、たった一軒残ったのがこの家だった。最初は夫婦で住んでいて、畑仕事をしていたのだが、夫が亡くなり、妻一人となり、それでも十年ほどは一人で暮らしていたようだが、やがて、その妻も亡くなり無人と化したのである。
家の真ん中にそびえる木は、いつしか自然に生えてきたという。確かにケヤキは自生するが、家の中から生えるのは珍しい。引っこ抜くのも忍びないとそのままにしていたら、どんどん成長して天井を突き破ったらしい。街の工務店に連絡をして天井と畳を直してもらっていたが、木の成長は早く、定期的に補強する必要があった。その補強も妻の死去とともに、行われなくなった。夫婦には身寄りがいなかった。この家に住もうという奇特な人もいなかったため、主のいなくなった家は荒廃し、今にも崩れそうな状態にまで悪化した。
その後はどこで聞きつけてきたのか、週末となると、ヒマな若者たちが心霊スポットとして肝試しに訪れるようになり、ボヤ騒ぎまで起きるようになった。その結果、安全面を考慮し、廃屋を朽ち果てるまで放置できないとして、市による強制解体という手続きが取られたのである。
坂口が先ほど亀戸課長から電話で聞いた事情であった。
しかし、坂口はこの話を信用してなかった。
たった一代でケヤキがこんなに大きく成長するはずがない。
雨後のタケノコじゃあるまいし。
どういう育て方をしたらこうなるのか。
どういう栄養を与えたらこうなるのか。
学校のプールを縦にすると、これくらいの高さになる。
いくら愛情込めて育てたからと言っても、愛情だけでこんなに巨大化するものなのか。もしかしたら、育てていたおばあさんが遺伝子操作をして、異常な品種を作り上げたのかと思ったのだが、ひそかに山の中で怪しい実験をしているマッドサイエンティストじゃあるまいし、結局、亀戸がいい加減に話をデカく盛ったと解釈するのが、一番説得力があると思った。
あいつは公務員のクセに不真面目な奴だからな。
アリみたいな小さな話を、ゾウみたいにデカく話す。いつものことだ。
高さ二十五メートルのケヤキは大きな幹だけになって突っ立っている。職人全員で力を合わせて根元付近に切れ目を入れた。周囲は約250センチあり、このまま切断するには時間がかかるため、ロープでグルグル巻きにし、最後は重機を使って、力任せに引っ張り倒すことにした。重機の轟音とともに大木が傾いていく。それを職人たちが見守る。周りには何もないので、気を使う必要はない。思いっきり倒してくれと、親方からの指示も出ている。
そのとき、坂口は重機の音に交じって、大木から悲鳴のような叫び声を聞いた。
職人を見るが、誰も気づいていないようで、何とも言わない。
気のせいか?坂口は首をひねる。
そうだろうな。木が声をあげるわけはない。
しかし、木がしだいに傾いていく音とともに、再び悲痛な声が聞こえてきた。
だが、職人は黙って、木を見つめたままだ。
――ケヤキが泣いている。
坂口はそう思った。
なぜ、自分にしか聞こえないのか分からない。
だが、確かにケヤキは泣いている。
木といえども、生き物だ。切られると痛いのだろう。
死にたくはないのだろう。
亀戸課長さんよ、この木は切り倒したらダメだったんじゃないのか?
このまま自生させておけばよかったんじゃないのか?
坂口は心の中で問うた。
ゆっくりと倒れていく大木を見て、坂口はこの木を育てていたという女性に対しても、申し訳なさで一杯になった。これはおばあさんが、おじいさん亡き後、一人で丹精を込めて育てていたケヤキらしい。しめ縄を巻いてあることから、ご神木として拝んでいたのかもしれないし、子供がいなかったおばあさんにとっては、この木が子供代わりだったのかもしれない。一人で亡くなっていたというおばあさんは、息を引き取るとき、この木のことを気にかけていたかもしれない。自分の神様、あるいは夫や子供のような存在だったこの木を、ここに置いたまま旅立って行くことに、後悔や悲しみはなかったのだろうか。この木が切り倒されたことを怒ってはいないだろうか。しかし、木をこのまま放置しておくわけにはいかなかった。お役所から受けた仕事である。断わるわけにはいかない。断ったら、次の仕事を回してくれないからだ。小さな会社にとっては致命的だ。会ったことはないおばあさんは、俺たちのそんな事情を分かってくれるだろうか。
そして、坂口は先ほど亀戸から電話で聞いた話を思い浮かべた。
「郵便屋さんが配達に行ったとき、台所で倒れて、亡くなっているおばあさんを見つけたのですよ。いわゆる、孤独死というやつですね。最初はてっきり、ただの病気だと思われたのですがね。体を見てみると、無数の傷がありましてね。これは事件じゃないかと、解剖に回されたのですよ」
「解剖?」坂口は驚いて訊く。
「はい。変死ではないかと思われて、司法解剖に回されたのですよ。しかし、何も異常はなかったのです。死因は心不全と判断されました。体中の傷は死因とは関係ないようです。では、何かというと、正体不明です。古い傷もあれば、新しい傷もある。おそらく、カッターかナイフで切ったのではとのことです。自傷かもしれません。そんな山の中に一人ぽつねんと住んでいると、死にたくなるのかもしれませんね」
そんなことないだろと坂口は思った。
アンタと違って、戦時中を生き伸びた人は強いんだと言ってやろうかと思った。
「いわく付きの家だけど、しっかり作業を頼みますよ。ケヤキは丁寧に扱うように、他の職人さんにもよく言っておいてください」
おばあさんの詳しい事情は職人に黙っていた。
亀戸の言うことは、話半分にしておいた方がいいからだ。
最後に残ったケヤキを職人全員の掛け声とともに、親の仇のようにブッ倒した。切り倒した後に残った根っこの部分は、ショベルカーを使って掘り起こし、焼却処分するために、細かく切断されて、トラックへ積み込まれた。その跡に空いた大きな穴は元通りに埋められた。一連の作業が終わり、坂口はホッとした。亀戸からいわく付きの家だなどと聞かされたため、何かが起きるのではと心配していたからだ。
坂口は、おばあさんと倒したケヤキの両方から俺たちを恨むのはやめてほしい。
ケヤキとおばあさんのダブルのタタリはやめてほしいと思った。
おばあちゃん、頼むから俺の枕元には立たないでくれよ。
「親方、どうしたんですか。手なんか合わせて」
三郎に声をかけられて、我に返る。
坂口は無意識のまま、倒れているケヤキに向かって手を合わせていたようだ。
「えっ?あっ!」自分でも驚く。「まあ、ご神木代わりに育てていたようだから、拝んでおいた方がいいだろうと思ってな」
「この跡に家を建てるのなら、解体後の地鎮祭も必要でしょうが、更地のままならいらないんじゃないですかね」三郎は言うが、
「三郎さんよ、親方が気になさってるのだから、ちょこっと、やっとこうや」
為さんが提案した。
結局、職人全員で倒したケヤキと土地に向けてしばらく手を合わせて、おばあさんの霊もケヤキの霊もちゃんと成仏するようにお願いをした。
こうして、簡単に地鎮祭を済ませた。そして、ケヤキを大型トラックに積み込み、最後に全員であたりの掃除をして、奇妙な古民家の解体作業を終えた。
「親方は信心深いからなあ」為さんは冷やかす。
「そんなことないだろ」坂口は照れるが、
「軽トラの中はお守りだらけだもんな」追い打ちをかけられ、
「ボロボロのお守りがいっぱいぶら下がってるしな」トドメを刺される。
「親方。古くなったお守りは取り換えた方がいいらしいですよ。一年くらいで」
「おう、そうなのか。どうすりゃいいんだ?」
「神社に持って行って、お焚き上げをすればいいんですよ」為さんが教える。
「おう、そうか。お焚き上げと言うのか。さっそく行ってくるか。――さあ、今日はこれで終わりだ。明日、俺がこの木を材木屋に持って行って、この現場は終わりだ。みんな、お疲れさーん!」
「あー、終わった、終わった」
ヘルメットと軍手を脱ぐと、手拭いを片手にワゴン車へ向かって笑顔で歩き出した。
「親方、お疲れさんでした!」
トラックにケヤキを乗せて帰る親方に、職人たちは挨拶をして帰って行く。
すでに、みんなの頭の中は今夜の晩酌のことで一杯になっていた。
坂口は一人、大型トラックの脇にたたずむ。
電話で話した亀戸によると、この大木の処分は決まっているらしい。市内の材木会社が引き取ることになっているという。つまりは、亀戸が現地調査の際にこの立派なケヤキを一目見て、金になると気づき、横流しを企んだということだ。ケヤキは堅くて、木目がキレイなため、家具や建築資材として重宝されている。そして、当然、材木会社も横流し品だと知っていて引き受けたのだろう。出所は市の建築指導課長だ。無下に断ることはできない。今後の仕事に影響してくるからだ。この街では、課長と業者はもはや、ズブズブの関係になっている。もちろん、市役所の人間は誰も気づいていない。いや、気づいているのかもしれないが、相手は課長である。見て見ぬふりをしているのだろう。あいつらは何かと波風は立てたくないという連中だ。こんな大きなケヤキのことだ。製材後はいくつかに分割されて、あちこちに高値で引き取られて行くのであろう。そうやって、亀戸はひそかに副業で儲けようとしていた。だから、この木の存在を我々には最後まで内緒にしていたのだろう。現場に来れば一目瞭然だというのに。当然、俺から電話が入ることも想定内だったはずだ。デカい木をどうすりゃいいんだ?という問いに、亀戸はあらかじめ用意していた答えを述べたに過ぎない。売却するため、丁重に切り倒せと…。
しかし、さっき若い奴が電動ハンマーでケヤキの幹に穴を開けてしまった。直径二センチ、深さ十センチほどの小さな穴だから、デカい木に比較すると大したことはないのだが、きっと亀戸はそれを見つけて、値切りの口実に使ってくるだろう。あいつはどこまでもセコイ奴だからな。あんな奴がよく課長をやってるよ。
「ふん、金の亡者め。いつかバチが当たるぜ」
坂口は大型トラックの荷台を見上げた。
そこには苦労して引き倒したケヤキが横たわっている。
「分かってくれるかな、ケヤキさんよ」そう言って、ケヤキを愛おしそうにポンポンと叩
いた。「アンタを切り倒したのは俺たちだけど、切り倒すように命令したのは亀戸課長なん
だ。俺たちは逆らえなかったんだよ。だから、恨むなら課長なんだよ。バチを当てるのな
ら、俺たちじゃなくて、向こうだぜ。間違えないように頼むわ。アンタを手塩にかけて育
てたおばあちゃんにも、あの世で会ったら言っといてくれよな」
坂口はこうしてケヤキにお願いをした。
そして、そのバチは本当に当たることになる。
巫女の綿(わた)時(どき)つむぎは描きあげたばかりの御朱印帳をもう一度見直して確認すると、満足
げに頷き、蛇腹を折りたたんで、目の前で待っている中年女性にニコリと微笑んで手渡した。京都西陣織の高級な御朱印帳である。女性はそれをおどけたように、うやうやしく両手で受け取ると、こちらも負けじとニコリと微笑み、丁寧なお礼を言い、去って行った。
「今のは、なかなかうまく描けた」つむぎは声に出して自分自身を褒めた。
近年、御朱印の集印を趣味とする人たちが増えている。何冊も御朱印帳を持って全国の神社を訪ね歩いている人もいるらしい。神社や神様に目を向けてくれることはありがたいことだ。特に若い女性の間でブームが起きていて、書店に御朱印帳を販売するコーナーができていたりする。数年前までは考えられないことだった。御朱印の存在すら知らない人が多かったからだ。綿時つむぎはこの風潮を巫女としてうれしく思う。
しかし、勘違いしている人たちもいる。そもそも御朱印とは参拝したという証としていただくものであるが、中にはスタンプラリーと間違って、せっせとコレクションに励んでいる人がいるのである。ゲーム感覚で神社を訪問するのはどうかと思うのだ。まずは、信仰心が先に立つべきではないのか。神様を敬う心を持つことが大切ではないのかと思う。もっとも、ゲーム感覚のコレクションであろうと、深い信仰心を持った上での収集であろうと、その行為がその人の人生にどのような影響を及ぼすのかは、神様が決めることである。
ここ永流(えいる)神社にも最近は御朱印目当ての参拝が増えてきた。街の中心から外れた小さな神社だというのに、評判がSNSなどで拡散されていったためである。御朱印の作成には手間がかかる。時には順番待ちの行列ができる。つむぎは日付、神社名、ご祭神の名前を墨書きしたあと、四季折々の花を一つ一つ手描きしてから、押印しているため、時間がかかるのである。神社によっては、忙しいために、あらかじめ別紙に書き置きをして、それを渡している所もある。受け取った人はそれを御朱印帳に貼り付けるのである。あるいは、スタンプを押すだけの所もある。神社での御朱印の提供の仕方といっても、全国で統一されているわけではなく、それぞれのやり方がある。
しかし、永流神社は参拝者に時間がかかることを、あらかじめお断りした上で、ちゃんと真心を込めて文字を書くし、丁寧に花の絵も添える。それでも初穂料は300円と安く設定している。ただし、御朱印を担当しているのは巫女の綿時つむぎ一人である。まさか、ここまで忙しくなるとは思わなかったのだが、一人のままで頑張っている。書道の心得があり、多少の絵心もあったからだ。
しかし、御朱印の絵は難しかった。何度も練習を重ね、いざ本番になってもなかなか納得できる絵が描けず、参拝者には申し訳ない気持ちでいっぱいであったが、ここのところ、やっとうまく描けるようになってきた。うまく描けなかったときは、神様にお詫びをして、参拝者が幸せになりますようにと、後でお祈りをしていたのだが、最近はそういったフォローのお祈りはなくなっていた。
先ほどお渡した御朱印もそうだ。桜の花びらの鮮やかさが、我ながらうまく描けたと思う。女性も満足そうな表情を浮かべていた。御朱印帳はかなり使い込んであり、おそらく、今までたくさんの御朱印を集印されてきたと思われた。そんな御朱印ベテラン女性が満足そうにされたのだから、桜の絵は気に入っていただけたのだろう。お一人で参拝に来られたようだが、つむぎはあの絵をあちこちで見せていただけたらうれしいと思った。
そもそも、巫女の仕事とは神職の補助であり、ご祈祷や装束の準備などを行っている。神事においては白衣と緋袴を身につけた巫女衣装で巫女神楽を舞って、神様に奉納し、参拝者にはお神酒を振る舞う。それ以外にも境内の掃除や電話の応対、お守りやお札、絵馬の販売と在庫管理なども行っているのである。そして、中には、つむぎのように御朱印を担当している巫女もいる。また、助勤や助務と呼ばれる学生アルバイトの巫女も多い。この神社でも年末年始の忙しい時期には短期でアルバイトを雇用する。しかし、つむぎはアルバイトではなく、正職員として働いていて、神職の資格も有している。それゆえ、ほとんどの巫女は二十代後半で定年となるが、つむぎには巫女としての定年はない。
客足が途切れたところで、つむぎは鏡の前に立ち、身なりとお化粧の乱れを確認する。職業柄、茶髪やパーマやネイルは禁止であり、勤務中はイヤリングやネックレスやカラコンなどの装飾品も禁止されている。つむぎは長い黒髪を後ろで結び直し、簡単にお化粧も直し、席に戻った。お化粧も神様にお仕えするという職業柄、あまり派手にならないよう、普段からナチュラルメイクを心掛けていた。
「巫女さんよ!」若い男性がやって来て、大きな声で訊いてきた。
「はい。ようこそお参りくださいました」つむぎは笑顔で対応する。神社では、いらっしゃいませと言わない。商売のように物品を販売するのではなく、授与するとされているからである。
ごつくて日焼けした男性が、セカンドバッグからゴソゴソと何かを取り出す。
「ここに古くなったお守りがたくさんあってな。それを…、何だったか…、あれしたいんだ」
「お焚き上げでしょうか?」
「おう、そうだ。それだ。どうすりゃいい?」
綿時つむぎは申込書を手渡し、手順を説明した。
「じゃあ、これな、手数料三千円な」
男は意外と丁寧な文字で申込書を記入し、お焚き上げの料金三千円を支払った。
つむぎは古いお札が入ったビニール袋を両手で受け取った。
「心を込めてお焚き上げをさせていただきます」
「おう、頼むわ。――それとは別に、交通安全のお守りがほしいんだけどな、一番効果があるのはどれだ?」
男は新しいお守りを所望した。
並べてある大きさや色が様々なお守りを見渡す。
「やっぱり、このデカいやつか?これだと事故は起きないのか?」
「いいえ。お守りは大きければいいというものではありません」
「おう、そうなのか?」
「まず、お守りに頼ってはいけません。ルールを守って安全運転を心がける。その心がけが一番のお守りになります。その正しい心がけをお守りが後押ししてくれるのです」
「そうか。さすが巫女さん。いいことを言うな。だったら、お守りは万能じゃないわけだな」
「はい。お守りは力を添えてくださるだけです。お守りがあるからといって、無謀な運転をするとか、左右を確かめずに道路を横断するようなことがあってはいけません。いくらお守りであっても、それは守り切れません」
「おう、そうだな。何でも得意不得意というものがあるからな」
「それに、最近は飲酒運転の取り締まりが厳しくなっています」
「おう、そうだ。飲んだら乗るなだ」
「はい。車にお守りを付けているからと言って、飲酒運転が免れるはずはありません。日本は法治国家です。ちゃんと法律を守らなければなりません」
つむぎは先ほどから男の目をしっかりと見ながら説明としている。
「おう、それもそうだ。アンタ、真面目だな。巫女さんというのはみんな真面目なのか?」「はい、神様に仕えておりますから、いい加減な気持ちでお仕事をするわけにはいきません」
「おう、そうかい。アンタは巫女さんのカガミのような巫女さんだな。俺に何らかの権力があれば、アンタを人間国宝に推薦して、この神社を世界遺産に認定してやるんだが、何もねえから勘弁してくれ。――まあ、いろいろと教えてくれて悪いけど、やっぱり一番大きいお守りをくれ。もちろん、お守りがデカくても安全運転で行くからよ。それは将来の人間国宝のアンタと約束する。俺も何人かの従業員を抱えている身だから、無茶はできんのよ。――えーと、これと、これと、これな」
つむぎは太い指で示されたお守りを一つ一つ丁寧に取り上げ、小さな紙袋に入れて手渡す。男はセカンドバッグから大きな財布を取り出して支払いをした。
「どうぞ、お納めくださいませ」
つむぎは男にお礼を言った。
ありがとうございましたとは言わない。
これは神社の巫女ならではの独特の言い回しであった。
社長らしき男性は一番大きい1000円の交通安全のお守りを買って行った。
返事はよかったが、ちゃんと聞いてなかったような気がする。しかし、お守りは三つも買っていただいた。家族の分なのか、仕事の関係者に配るのか分からないが、いかつい見かけや乱暴な言葉遣いに反して、意外と信心深い方なのは確かだった。さすがに、御朱印帳は持ってなかったようだが。つむぎは鳥居の下をくぐり抜けようとする男の背中に向かって、手を合わせ、あなたが事故に遭わず、交通安全でありますように、あなたのご家族も、職場の方も皆様が幸せでありますようにと祈りを込め、深々と頭を下げた。
祈りの念を背中に感じたのか、男が振り返った。
まだ頭を下げているつむぎに、お礼を言うように片手をあげて「おう!」と言うと、足早に去って行った。神社の駐車場には大きなケヤキを積んだ大型トラックが止めてあった。
坂口が神社にお守りを買いに来たのは、為さんに、古くなったお守りは取り換えた方がいいと言われたこともあるが、ケヤキを育てていたおばあさんの恨みも気になったからである。亀戸課長の言っていた“全身傷だらけのおばあさん”というのが、どうも気になる。会ったこともなく、顔も知らないおばあさんだが、傷だらけで横たわる老女の姿が浮かんで来る。恨まれて、交通事故でも引き起こされたら、たまらない。そのための大き目のお守りであった。
やがて、永流神社の境内の灯は落ちた。午後七時。この時間になると参拝客は来なくなる。そのため、春先には午後七時になると自動的に境内のライトが消えるようにタイマーの設定がなされている。それが夏になると午後九時にまで延長する。日が長くなるため、遅くまで参拝に訪れる人たちや、境内で夕涼みをするために来られる人たちがいらっしゃるからである。綿時つむぎは立ち上がって、社務所内の電気を消し、戸締りをした。長い間、正座をして血の巡りが悪くなっていた足を延ばし、軽く屈伸運動をすると、黒髪の長いかもじ――今風に言うエクステをはずし、黒髪のショートカットの頭を露わにした。巫女は黒くて長い髪を条件としている。髪には霊力が宿るとされているからである。よって、ショートヘアの女性は髪を付け足している。かもじを付けたままでもよかったのだが、ショートヘアに戻した方が集中できる気がするため、いつも直前に取りはずす。そして、最後にお守りを首から下げた。この時にだけ使用する特別なお守りだった。
つむぎはこれから儀式に向かうのである。
もう一度、無人となった社務所を振り返り、何事もないことを確認すると、つむぎは一人で境内の奥に広がる林の方へ歩き出した。衣装はそのままである。手には何も持っていない。一人が歩けるだけの狭い石畳の上を静々と進んで行く。両脇には木々が並んでいる。このあたりには街灯が設置されていないため、月明りしか届いておらず、暗い道が続く。闇の中につむぎの草履の小さな足音だけが響く。このあたりは草木が多いため、夏になると虫がたくさん飛んでいるため、虫よけスプレーを携帯しなければならない。今は春先だから、虫もそんなにいない。つむぎは虫が苦手なため、この時期はホッとする。静まり返った林の中をつむぎは巫女衣装のまま、一人で静かに歩いて行く。なるべく頭を上下させないで、背筋を伸ばしたまま、ススッと歩く。巫女独特の歩き方である。
林の中を歩きながら、先ほどの男性に言われた言葉を思い出す。
“アンタ、真面目だな”
その言葉に、今、歩きながら仮想で答えてみる。
“そうです。私は真面目です。浮ついた心のまま、生半可な気持ちでこのお仕事をしているわけではありません。私はこの小さな体で、この神社が歩んできた千年の歴史を背負っているからです。たくさんのご先祖の願いをたった一人で受け止めているからです。太古より連綿と受け継がれてきた技を守り、子々孫々まで伝え継ぐ義務が、私にはあるのです。決して気を抜くことはなく、油断することなく、精進を怠ることなく、日々を送る義務が、私にはあるのです。天から授かったこのお仕事に誇りを持ち、決して後悔することなく、日々を送っています。それを真面目と捉えられても構いません。むしろ、真面目という表現の方が分かりやすいでしょうから、私はそれで構わないのです。”
やがて、直径十メートルほどの丸い場所に出た。地面がむき出しになっていて、雑草さえも生えておらず、周りを大きな木が取り囲んでいる広場であった。自然にこのような形状になったのではない。代々、ここを訪れる人々が、木を伐採し、草を抜き、石ころを取り除き、作り上げた地だ。丸い地の真ん中に四角い大きな石と小さな石が置いてあった。上は平べったくなっており、この石も人為的に設置されたものと分かる。
この場所は神社の奥にある本殿のさらに奥に存在する。案内板などは何もない。立ち入り禁止ではないが、参拝者が入り込むことはない。ここには見るべきものや参拝すべきものが何もなく、頭上を木々が生い茂っているため、昼間でもあまり日が当たらない場所だからである。しかし、興味本位で入り込んだとしても、見ただけではどのような場所かは分からない。ただ、ぽっかりとひらけた空間があるとしか分からないはずだ。ここはどういう場所かと、神主や巫女に訊いても、本当のことは話してくれないだろうし、聞いたとしても理解はできないだろう。
つむぎはこの奇妙な場所をゆっくり見渡して、深く一礼した。そして、広場の真ん中に歩み寄り、鎮座する小さな石の上にゆっくりと座って、巫女衣装の襟元を整え、背筋を伸ばした。樹木の間を抜けて吹いてくる風が、つむぎのショートヘアを揺らす。
古来、巫女にはお神楽を舞ったりする他に、神託を得て、伝えるという役目も担っていた。神がかりをして、神の意志を伝える、つまり、シャーマンである。古くは卑弥呼がそれに当たる。しかし、明治以降はそういった役目もしだいに薄れ、神事の奉仕や神職の補助といった仕事を行う現代の巫女さんのような形に変わっていったのである。
しかし、それは一般的な巫女さんのこと。
永流神社の巫女であるつむぎは独特の伝統を古来より引き継いでいた。
この林の中の空間は、太古より神託を得る神聖なる場所であり、つむぎはそれを担ったシャーマンの末裔であった。しかし、永流神社で受け取る神託は一般的なものとは違うところがある。意志を伝えてくるのは、神ではなく神木であった。神が木にかかったのではなく、木そのものの意志であった。神木が感知した温度、湿度、気圧、風などの変化により、天候や干ばつ、作物の実りを伝え、地面の振動により地震や地割れ、土砂崩れを伝え、樹木同士の交信により、敵対する遠くの神社の動静さえも伝えてきた。
生きとし生ける物にはすべて霊が宿り、意志を持ち、意志を伝える。霊を感知できる者ならコミュニケーションは可能である。たとえ、相手が大きな樹木であっても、小さな草花であっても。
つむぎは石の上に座って、背筋を伸ばし、膝を揃えて、目を閉じている。月明りに照らされて、白衣の白色と緋袴の赤色が林の中でくっきりと浮き上がって見えている。彼女の周りをぐるりと取り囲むのは、十本の巨大な神木であり、そのすべてに、しめ縄が張ってある。東西南北に立っている四本の神木は特に大きく、威圧感さえ漂っている。ちょうど四方を守るように計算して植えられ、長年に渡って育てられた大木である。
神木が発する心地いい木の香りが頭上から降り注いでくる。
正統なシャーマンなら、その香りに金や銀の色が付き、輝きながら落ちてきていることが分かるだろう。
つむぎは自分から話しかけることなく、静かに耳を澄ましている。神木からの声を聞き取ろうとしているのだ。聞こえてくるのは、微かな春の虫の鳴き声と、風に揺れた枝葉が擦れる音だけである。つむぎは両膝の上で握っていた手を広げて、目の前で合わせた。伸ばしていた背中をやや後ろに傾ける。念を出すときは体に力を入れて前傾体勢になる。逆に受け取るときには、力を抜いて、体をそらせて、念を受け取りやすい体勢を取るようにする。これが基本である。
声を受け取るときの一番の敵は雑念である。心の中から雑念を追い出し、澄み切った状態に持って行かないと、神木が発する声は届かない。
心の中から雑念、妄想、今日起きた出来事、今日会った人たちの姿を消して行く。
竹ぼうきで境内を掃く自分の姿と気持ち。社務所で参拝者をお迎えする自分の姿と気持ち。御朱印を書いた人たちの姿と気持ち。お守りを授与した人たちの姿と気持ち…。
雑念を追い払う一番の味方は、神木に宿る木霊に対する絶対的な信仰心であった。
永流神社において、古代より連綿と続く木霊との交流。先祖代々受け継がれてきた聖なる儀式。人々は木霊に守られて、助けられて、支えられて、生きてきた。その木霊への信頼がなくして、心が澄み切ることはない。微かでも木霊への疑念や存在を否定する心が生じると、その声は二度と聞こえなくなる。――そして、今、つむぎの心の中は無と化した。
しだいに虫の音が止み、神木からかすかな声が聞こえてくる。最初に語りかけて来るのは、四本の大木なのだが、どの神木から聞こえてくるのか分からない。それは木の幹から発せられているのか、それとも枝葉からなのかもわからない。だが、厳かなゆったりとした男性が発するような低い声だ。声を発しているのはこの神木に宿る木霊である。しかし、この声は常人に聞こえない。今はシャーマンであるつむぎにだけ聞こえている。
その声は、つむぎの耳ではなく、脳へ直接届いているからである。
この時代、永流神社に敵対する勢力など存在しない。永流神社に限らず、抗争を続けている神社などどこにもない。ゆえに、神木が発する声の内容は、これまでの神社や地域の歴史であったり、これからの神の役目や神社の在り方であったり、遠くの神社の神木から伝えられたと思われる神社間の援助や祭りによる交流方法だったりする。
やがて、つむぎからも神木へ声をかけはじめた。伝えてきた情報に対する質問や意見を述べだしたのである。しかし、つむぎの声も万人には聞こえない。口から声を発していないからである。木から脳、脳から木へと言語は渡る。四方に立つ四本の巨木以外の六本の神木からも次々と、木霊が発する声が届いてくる。頭の上で交錯しているすべての言葉を、つむぎは理解し、自分の心の声を返していく。
突然、つむぎの目が大きく見開いた。
「悲痛な叫び声ですか?」
たった一言、驚いたように言葉を発した。
その後も、静かな林間でのシャーマンと神木との交流は続いた。
その間、誰もここを通りかかることはない。
小さな虫の鳴き声と、さやさやと鳴る葉擦れの音。
静かに、穏やかに時が経過する。
このように、つむぎが神木からの声を聞き取り、神木につむぎの声を聞き取ってもらい、お互いが理解し、信頼し合えるようになるまで、つむぎは毎日この場所に通い続けた。
そして、いつしか一年が経過していた。
つむぎと神木との目に見えない交流は約一時間続いた。毎日、これくらいの時間がかかっている。ゆっくり立ち上がると、つむぎは十本のすべての神木に、一本ずつ丁寧に頭を下げた。正確には神木に宿る十柱の木霊に対して頭を下げたのである。
ふたたび狭い石畳を通って、社務所に併設されている住居へ戻ると、神主である父が待っていた。父も装束姿である。今どき珍しく髪をきっちりと七三に分け、黒縁眼鏡をした細身の体型。真面目を絵に描いたような五十九歳が正座をして待っている。この真面目さがつむぎに引き継がれたことは一目瞭然である。父の目は前を見据えたまま、両手のこぶしは膝の上で握りしめたままだ。一年中変わらないいつもの光景である。
つむぎは父の正面に同じく正座をすると、静かに一礼した。
これから、今日の十柱の木霊とのやり取りを詳しく報告し、助言をもらうのである。
「悲痛な叫び声が聞こえたようです」
つむぎは木霊から聞き取った内容を話す。
先ほどは、驚いて思わず言葉が口を衝いて出てしまった。
四方の四本の巨木のうちの東に立つ木から教えられたことだ。
その巨木は樹木からの声を受け止めたと告げてきた。
「先日の山火事ではないのか?」
三日前、大規模な山火事が起き、たくさんの樹木が焼け落ちた。十本の神木は焼け落ちる際の樹木の断末魔の叫びを多数聞いていた。ここから二百キロ以上離れたところに位置する山だったが、その声は木から木へと伝わり、永流神社まで到達していたのである。
父はつむぎが受け取った悲痛な叫び声が、そのときの山火事のものだと思ったのである。
「いいえ、違うようです。山火事のときとは、また別の木だそうです」
「そうか。どこかで樹齢を重ねた大木が受難に遭ったのかもしれないな」
師でもある父は寂しそうに言った。
二人のやり取りは二十分ほどで終わった。
最後に再び礼をかわし、親子の儀式は終わる。
当然、ここは人間同士、ちゃんと声を発しての会話であった。
その後、つむぎは自分の部屋に戻り、特殊な和紙に本日の木霊との交流内容を克明に記録する。ワープロの時代だが、毎日新しく墨をすり、先祖から引き継がれた筆で書き留めていく。そして、墨が乾いたところで、別棟にある大きく、薄暗く、カビ臭い書庫に向かい、古代より伝わる膨大な交流録の最後のページに閉じる。書庫は見渡す限り、代々の神職が書き記してきた各種の文書が年代ごとに分けられ、年数を記した棚に保管してあった。
こうした特殊な儀式を終えることで、つむぎの一日も終わる。
これが、永流神社に仕えるシャーマンとしての習慣であった。
霊を感知できるかどうかは、その人の持って生まれた能力である。しかし、その能力をただ有しているだけでは普通人に終わってしまう。その能力を発揮させるためには、その能力を開花させなければならない。開花させるきっかけを与えるのは、代々その能力を引き継いでいる人物からの秘伝の伝授による。つむぎはこの能力を持って生まれ、父からの伝授により開花させた。つまり、父はつむぎの親でもあり、師でもあった。秘伝は一子相伝のものであり、それは永流神社に太古より伝わっている門外不出のものであるが、能力を開花できたのは、つむぎ本人の日々の努力があったことは言うまでもない。
父は祖母から、祖母は曾祖父からその能力を引き継いでいる。祖母及び曾祖父はすでに故人である。特殊能力を持った巫女として神社に仕えるのは強制ではない。つむぎも父から請われたわけではない。父には弟がいる。つむぎの叔父だ。叔父には娘が二人いる。その娘たちも血を引いており、巫女になる資格があった。しかし、つむぎは巫女になることを自分の宿命と自覚していた。子供の頃はキレイな巫女衣装で神楽を舞ってみたいという単純な憧れに過ぎなかったのだが、いつしか、父の背中を追うようになっていた。
若いつむぎには他の職に就くという選択肢もあったのだが、後悔してなかった。むしろ、この職に就けたことを誇りとし、喜びを感じていた。つむぎが後を継いだことについて、父は何も言わないが、おそらく、内心では喜んでくれていることだろう。父は長男であり、本家になるため、巫女が次男である叔父の分家から出るよりもいいのだろうから。
叔父は生まれ育った永流神社を出て、警察の職に就いていた。
やがて、つむぎに子供ができ、成人に達した時、この能力が伝えられるのだが、つむぎはまだ二十一歳。父から伝えられてやっと一年と少しが経過したに過ぎない。そして、その能力はいまだ完全に開花しておらず、神木との会話もやっと可能になったばかりである。
もっとも、最初は神木が発する声が一言も聞き取ることができず、またこちらから投げかける声も拾ってもらえず、何度も諦めようとしていた時期に比べると、格段の進歩を遂げていたのであるが…。
この能力を有する人間は永流神社関係者にしか存在せず、今のところ、つむぎと父の二人だけである。この神社に嫁いできた母は健在であり、神職の資格があり、詳細を知ってはいるが、その能力の有資格者ではない。父と母は当然ながら血はつながってはおらず、伝授することは不可能であり、その役目は一人娘であるつむぎに伝えられた。わずか一年前のことである。
この能力を有する人間は古代より“木霊師”と呼ばれていた。
この世に存在する“木霊師”はつむぎと父の二名だけである。
父は第四十一代の木霊師であり、つむぎは綿時家第四十二代の木霊師であった。
救命救急センター入口に放置されていた男は仰向けに寝かされており、左胸には木刀がまるで墓標のように突き立っており、傷口の周辺はドス黒い血が滲んでいた。ピクリとも動かず、木刀が自立できるくらい深く胸に刺さっていることから、すでに男は死んでいると思われた。木刀にはバランスが悪いヘタな文字で“コテツ”と、黒マジックで書いてあったが、これが何を意味するのかは分からなかった。
救命救急センター入口のインタホンからナースセンターへ連絡があったのは、深夜四時過ぎのことである。
「もしもーし。おたくの勝手口に死体が置いてありますよー」というふざけた一言だった。
当直中のナースが半信半疑、見に行くと、本当に遺体が放置してあったのである。
赤いTシャツの上から黒の革ジャンを着たジーンズ姿。靴は片方が脱げている。年は若く、二十代と思われた。あたりを見渡したが、通報してきたらしい人物は見当たらない。何者かが車で遺体をここまで運び、そのまま放置して逃げ去ったと思われた。その際、良心の呵責を感じたのか、インタホンから知らせてきたようであった。
その後、左胸に木刀を突き立てたまま絶命していたのは、持っていた免許証から、暴走族のリーダー松虫一二郎だと判明した。年齢は平成十二年生まれの二十一歳だった。
「ああ、この後だ。もう一回見せてくれ。スローでな」岩鏡警部が打水刑事に言った。
「コマ送りにしましょうか?」打水が訊く。
「ああ、それがいい。ゆっくり見れればいい。要はどうやったら木刀が、あんな具合に胸へ、ブスッと突き刺さるかだ」
救命救急センターから、変死体が勝手に届けられたという通報が入ったのは深夜の四時四十分。爆睡中の警部が叩き起こされたのが五時。同じく叩き起こされた打水刑事を伴って署に到着したのが五時半。近所の人たちが起き出した七時頃から聞き込みを続け、個人商店の入り口に設置されていた防犯カメラの映像を入手したのが七時半。早朝の捜査協力にお礼を言って、署に戻ったのが八時のことである。
先日の、胸に七つの傷があるサラリーマンの密室殺人事件は、懸命な捜査にもかかわらず、暗礁に乗り上げ、行き詰っていた。そこへ今回の事件である。人手不足のため、二人の刑事はこちらの捜査にも回されて、意見を述べることになった。まったく人使いが荒い。他の捜査員がいるだろうにと、ぼやいていた岩鏡警部だったが、俺の推理を聞かせてほしいということなのだろう。こうして、期待されているうちが花だと、自分に言い聞かせて、快く承諾をしてやった。
そして、今朝の事件も先日の事件と同じく、奇妙な事件であった。
――八時半。被害者の身元が暴走族のリーダー松虫一二郎だと判明したところで、問題のシーンを再度確認するために、防犯カメラの映像が巻き戻された。
画面右から男性の乗った自転車がやって来る。
「この男はまともな一般人だな」岩鏡が服装から、そう判断する。
サイクルジャージとヘルメットを身に付けた普通のサイクリストだ。
遅れて、その向こうに一台のバイクが現れた。
「来やがったな」吐き捨てるように言う。
松虫一二郎である。こちらは革ジャン姿である。
防犯カメラに映る前、両者には何らかのトラブルが起きていたと思われる。
「どうせ、クラクションを鳴らしたとか、追い抜いたとか、あおり運転とかの交通トラブルにでも、なったのだろうよ」
追いついた松虫は、ハンドルから両手を離して、棒のような物を振り上げると、突然、並走している自転車の男に殴りかかった。
「よしっ、ここだ!」岩鏡警部が叫ぶ。「ここからコマ送りで頼むわ」
俺は生暖かい春の風を正面から受けながら、バイクを転がしている。最近は半グレというらしい。それは都会での呼び名だろう。何かのグレーゾーンなのか?半分グレてるというのか?中途半端だな。どうせなら全部グレればいいのに。まあ、確かにグレてるとしか言いようのないカツアゲ行為なんかは、俺たちも昔はよくやっていたが、あんなセコいことは、もう卒業した。
以前、下っ端の奴が、通りすがりの高齢者から金をひったくったと聞いて、半殺しにしてやったことがある。それを見た仲間たちは二度と女子供、高齢者といった弱者を襲ったりはしなくなった。何といっても、半殺しにしてやった奴は、恥ずかしさのあまり、この街に住めなくなり、どこかのド田舎に逃走してしまい、その後は行方不明になってしまったからだ。そいつは勝手にどこかへ行ったのだが、俺がブッ殺して、どこかに埋めたというウワサが街中に広まった。アホらしいので放っておいた。おかげで、いまだに俺を殺人犯の目で見ている連中がいるのだが、好きにさせている。本当にヤッていたら、今頃、俺は塀の向こうだ。
というわけで、チンケな引ったくりや、セコいカツアゲや、野蛮な暴力を卒業した今は“走り”一本だ。つまり、こんな地方都市では、半グレなどとは呼ばれず、昔ながらの“暴走族”で通っているというわけだ。間違っても“珍走団”などとは呼ばせない。もちろん、暴力団や愚連隊には属してない。混ざりっ気のない富士山の湧水のような純粋な暴走族、ムクドリ一家だ。
そして、俺がムクドリ一家総長の松虫一二郎だ。
“リーダー”と呼ぶ奴らもいるが、“総長”の方が何となく重みがあっていいだろ。漢字はかっこいい。どこかの政治家みたいに、何でもかんでも横文字にすればいいってもんじゃない。平成十二年生まれだから一二郎だ。名付けた父親のセンスが問われるだろうが、今さら変えられない。名前の変更にはややこしい裁判手続きが必要だからだ。
そう、“まつむし じゅうにろう”が俺の名だ。
今日は土曜の夜だ。明日の朝までは俺たちが支配する闇の時間帯だ。夜通し、この街は俺たちムクドリ一家のものだ。仲間は集まっている。総長である俺の元にな。総勢三十台のバイクに二台の車だ。車の数が少ないが、俺の族はバイクがメインだ。まあ、俺を筆頭にみんなが貧乏なだけだ。車は高根の花だ。だから、車といっても軽自動車だ。だが、狭いあぜ道も走れるし、税金も安くていい。
さっきから走りを待ちきれない連中が、エンジンをブォンブォンと吹かしていて、けっこううるさい。これじゃ近隣からクレームが入るし、警察が黙っていないのも分かる。分かっているなら、辞めたらどうかと思われるかもしれないが、そうはいかない。
暴走族としての意地もあるし、俺たちから爆音を取れば何も残らないからだ。それでも、善良な市民の皆様には、なるべく迷惑がかからないように気をつけている心憎い暴走族。それがムクドリ一家だ。
何人かがバイクにまたがったまま、“無苦怒裏”と族名が書かれた大きな旗を振り回している。この旗こそが、我が族のアイデンティティだ。暴走する際に忘れちゃいけないし、敵に奪われてもいけない。敵とは、敵対する暴走族であり、警察であり、ときどき暴力団だ。
この旗を死守するためには、この命も賭けてやる。代々、諸先輩の皆様から引き継がれてきた大切な旗なんだ。長年に渡って使い込んでいるため、あちこちが、ほつれてはいるが、定期的にクリーニングにも出しているし、アイロンもかけている。シーズンオフの冬にはちゃんとタンスの中に、“タンスにゴンゴン”と一緒に仕舞っている。冬は走らない。寒いからだ。それに、雪道ではスピードが出せないし、雪で滑ると危ないからだ。転ぶと痛い。おまけに、バイクで転ぶと、バイクごと、スッーと滑って行く。あれは恥ずかしい。街中でやってしまうと注目の的だ。みんなの目が追いかけて来る。俺たちはそんな変なことで注目されたくない。爆音と生き様で注目されたいんだ。
小さな山のふもとの、大きな無料駐車場の隅に立っている古時計が午前零時を告げた。日付が変わって、日曜日だ。俺は指を一本、空に突き上げてみんなを静かにさせると、大きな声で今夜走るルートを説明した。といっても、そんなに多くのルートはない。先々週と同じだ。しかし、大きなカーブもあるし、長くつづく直線もあるし、急な坂もある。走りがいがあるコースというわけだ。ルートを頭の中に叩き込んだメンバーたちは、俺の指先と時計を交互に見ている。大人しく合図を待っているのだ。そして、その大人しさは数分後に爆発する。エンジンの爆音とともに…。
俺は二本の指を突き上げた。発進の合図だ。いっせいにエンジンがかかり、爆音がとどろく。まずは二台の車が並んで駐車場を出て、このまま街道を突っ走る。地方都市とはいえ、道路だけは広くて立派にできている。地方は車社会であり、道路を通す土地もいっぱいあるからだ。片道二車線の道路を俺たちムクドリ一家が占領して走る。
車の次は旗を掲げたバイクが二台と、並走するバイクが二台。さらにその後に三台。こいつら七台が親衛隊だ。そして、いよいよ総長である俺様の登場というわけだ。いつもやめろと言ってるのだが、俺がバイクをスタートさせるときは、みんなが大声で、オオッーと声援をくれる。何の声援か分からんが、まあ、事故らないように言ってくれているのだろう。ありがたい事だが、暴走族の総長が運転操作を誤って入院なんて恥ずかしいからな。重症とか重体なら同情も引けるが、翌日退院みたいなセコいケガなら末代までの恥だ。そうならないように、みんなは安全の祈りを込めて声援を飛ばしてくれるのだろう。俺たちムクドリ一家はチームワークが良いんだ。ホントはみんな良い奴なんだ。まあ、本当に良い奴は暴走行為なんてしないだろうけど。“良い奴”の定義なんか、さまざまだ。
最後のバイクが大型駐車場を出るまで二分はかかる。三十二台の大所帯だからだ。
大所帯が道路を占拠して走るのだから、後続は大渋滞となる。
分かってる。一般市民は大変迷惑だ。
だが、少しだけ付き合ってくれ。俺たちムクドリ一家の夜に。
駐車場を出ると、まずは小さな山のふもとを一周してエンジンを慣らす。大事なエンジンだ。大切に扱う。それからいっせいに街へ出る。街へ出るまで海岸線を走る。左手には海が続く。真っ暗な海だが遠くに小さく漁火が見える。俺は闇に浮かんでるあの漁火が好きだ。情緒があるじゃないか。それに、みんなが寝静まっているのに、漁師さんは働いているのだから偉いと思う。まあ、俺たちはこの通り、遊んでるのだけど。右手には低い山が並んでいる。山のふもとには畑が広がっていて、農家が点在する。一軒の農家の灯りがポツンと点いているときがある。俺はその光も好きだ。温かみがあるからだ。朝早くから暗くなるまで働いて、今ゆっくりしているのだなと思うと、何だかグッと来る。まあ、俺たちはこの通り、遊んでるのだけどな。
といっても、昼間はときどき、ドーナツ屋で働いている。できあがったドーナツに砂糖をまぶすのが俺の仕事だ。砂糖が少なすぎても、多すぎてもいけない。あれは加減が難しいんだ。もちろん、勝手に味見をしてはいけない。グッと我慢のドーナツだ。
そういうわけで、海側と山側の両方向からの素敵な灯りが、俺たちの走りを応援してくれているんだ。小さなスポットライトを浴びせてくれているようなものだ。
俺はムクドリ一家の中でロマンチスト第一位だ。
街に入るとすぐ、先頭を走っていた車の一台が猛スピードでバックしてきた。Uターンをする時間を短縮するために行うムクドリ一家伝統のバック走行だ。後続のバイク集団があわてて道を空ける。ポッカリ空いたその間を、滑るように走ってくる。
「すげえ、逆モーゼみたいだ。軽自動車のクセに器用だな」と眺めていたところ、俺のバイクの横にピタリと急停車した。
「総長!」助手席の窓を下げて、叫んで来る。
「出やがったか?」俺はバイクを止めて、窓から顔を突き出した親衛隊に訊く。
「出やがりました!」親衛隊員の一人が言う。
「よしっ、やるぞ!」俺は叫んだ。
周りに集結した奴らに向けて、指を四本示す。
四=死だ。
出やがったのは敵対するチーター連合の奴らだ。奴らに四=死だ。
周りから大きな歓声上がる。今夜一番の盛り上がりだ。
みんなは暴れたくて、ウズウズしていたんだ。
いきなり、その機会がやって来たというわけだ。
親衛隊が乗っている車は動く武器庫になっている。軽だけど。武器といっても拳銃や日本刀なんかはない。もちろん、爆弾なんかない。そんな物騒な物を持ってるのは不良だ。木製バットはあるが金属バットはない。あれは痛い。殴った方は手が痺れるし、殴られた方も痛い。ケガをしたらどうするんだ。木製バットならうまく折れてくれる。折れるまで殴るのは本物の不良だから、あまり感心しない。立ち上がれない程度に足を痛みつけるか、ハンドルを握れない程度に手を痛みつけるのが俺たちムクドリ一家の流儀だ。
さっそく俺は軽自動車のコンパクトなトランクをゴソゴソやって、一本の木刀を引き抜いた。俺が愛用する木刀。その名もコテツだ。漢字は難しくて書けない。
チーター連合との抗争に備えて、いろいろな武器を集めていた時に、仲間の一人が街のフリーマーケットで見つけてきた物だ。俺のために三千円もの大金を払って、男らしく値切ることもせず、現金一括払いで買って来てくれたものだ。ちゃんと、領収書をもらってきた。そんな男気の染み込んだこの木刀は大切に扱わないといけない。
「今宵もこのコテツにたっぷりと血を吸わせてやるぜ!」
俺はコテツを頭上に振り上げ、夜空に向けて吠えた。
もちろん、これは仲間を鼓舞するための総長としてのパフォーマンスだ。
ちょっと、時代劇みたいで、クサかったけどな。
「おう!」仲間たちも遅れて野太い声で呼応してくれた。これが以心伝心だ。
武器を必要とする他の連中も、軽自動車のトランクから、おのおの好きな物を持って行った。といっても、そのほとんどが棒切れとか、チェーンとか、唐辛子スプレーとか、石コロとかだ。だが、石でも当たると痛い。川から拾い集めてきた立派な武器だ。丸くて、投げやすそうなものを厳選してきた。手が滑らないように苔は落としてある。元手はタダだ。
交差点の信号が青になったと同時に、俺たちムクドリ一家は爆音をあげて走り出した。右手で信号待ちをしていたチーター連合は、俺たちを見つけると赤信号を無視して、追いかけて来やがった。笑えることに先頭は軽トラだ。リーダーのオヤジの車を無断で借りてきたのだろう。先日、あの軽トラの荷台にヤギを乗せて走ってるのを見たばかりだ。奴らにはお似合いのヤギ車だ。子牛ならドナドナだ。
しばらく走って、次の交差点に差しかかったところで、俺は手を挙げて、みんなに三本の指を示した。三方向に分かれろという合図だ。親衛隊の車と俺は真っすぐに、残りは左右に分かれて、スピードを上げた。とっさの出来事について来れないチーター連合のアホどもは、交差点の真ん中で右往左往している。もちろん、ヤギ車もいる。俺たちが悪い頭を捻って考えついた作戦に、まんまと引っかかるとは、俺たちよりアホということだ。
直進した俺たちはすかさずUターンをして、チーター連合の正面を取り、左右に分かれた仲間はそれぞれ、街の一画をグルリと回って来て、チーター連合の後ろに出た。これで前と後ろから挟み撃ちだ。バイクにまたがったまま、いまだに呆然としている奴らに、俺たちはおのおの武器をもって襲いかかる。五百円のコンビニビニール傘でしばき上げ、シャッターの開閉棒で突っつき、川で集めた石ころを投げつけ、海岸で拾ったほら貝をぶつけ、爆竹を束にして放り投げる。
俺も自慢の木刀コテツで応戦する。狙うは敵の手や足だ。ヘルメットをかぶってるとはいえ、頭を殴って大ケガを負わせてはいけない。目なんかに当たったら大変だ。手足だと思いっきりぶん殴っても、せいぜい骨折する程度だ。命に別状はない。しばらく、バイクに乗れなくすればいいだけだ。俺は心やさしいアウトローだ。
ガツンと向う脛を打ってやる。弁慶の泣き所は痛い。悲鳴が上がる。
肘を打ってやる。ヒジがビリビリするだろう。これをファニーボーンと呼ぶんだ。これまた、悲鳴が上がる。背中を打ってやる。息がしばらく止まって苦しいだろう。だが安心しろ、大ケガはしちゃいない。
――今宵もコテツは絶好調だぜ!
あたりに爆竹の煙が充満したところで、俺たちは猛スピードで逃げ出す。しかし、これはフリだ。あわてて追いかけてきた敵は、次々に停止するか、転倒する。
「総長、やりましたよ!」
仲間の一人がうれしそうに叫ぶ。
鉄工所で働いてる奴が自家製の“まきびし”をばら撒いたのである。
「全部で二百個。作るのに五時間もかかりましたよ!」
「すげえ、よくやった!」
二十台ほどいたバイクはすべてがパンクして止まるか、転がっている。ヤギ車も止まっている。タイヤには特製まきびしが突き刺さったままである。引っこ抜こうとしても無駄だ。簡単に抜けないようにまきびしには“返し”が付けてある。刺さったタイヤは廃棄処分するしかないだろう。さすが鉄工所の三代目跡取りである。いい仕事をする。本来の仕事はさぼってるが。さらに、虫を追い払う農業用の煙幕花火を投げつけた仲間=農家の跡取りがいて、敵はもうもうと立ち上る白煙に包まれている。こいつもいい仕事をしてくれた。田植えはサボるけど。チーター連合は戦意を喪失したのか、誰一人として反撃してこない。次は何を仕掛けてくるのかと、白煙の中でビクビクしているのかもしれない。
俺は二本の指を突き上げた。退却の合図だ。
全車、いっせいに勝利の爆音を上げながら走り出す。
敵をこれ以上痛みつける必要はない。
あまりやり過ぎると、マジで恨まれる。
俺たちムクドリ一家は要領がいい。
仕事がすんだら、ムクドリのように素早く、さっさと逃げる。
これが俺たちのポリシーだ。
「このまま自主解散する。みんな、先に行ってくれ!」
俺は親衛隊の車とバイクの仲間たちに向かって叫んだ。
おのおのは今夜の走りに満足したことだろう。
走りそのものを楽しむ機会は少なかったが、敵対するチーター連合をコテンパンにしてやったのだからな。暴れたかった連中もスカッとしたことだろう。
あたりは地方都市の深夜らしく、静かになった。
俺たちはまた次の土曜日の深夜に集合する。
つまり、この静けさは一週間しか続かない。善良な市民には悪いけど。
そして、俺は一人バイクを止めて、電話ボックスに駆け込んだ。最近は公衆電話の数も減って、探すのは大変なのだが、相手にこちらの番号を知られることはないし、自分のスマホに通話履歴も残らなくて便利だ。と言っても、今から悪いことをするわけではない。むしろ、いいことだ。――俺は110番にかけた。
電話ボックス内に書いてある住所を読み上げて、現在地を教える。
「あー、もしもし。暴走族同士の抗争でバイクが二十台くらい転んでますよ。あれは絶対ケガ人が多数出てますよ。もしかして、死んでる人もいるかもしれませんよ。早く救急車とパトカーを大量に派遣してください。緊急車両の在庫を全部、出し惜しみせずに使ってください。その暴走族はこの街で二番目の規模を誇るチーター連合ですよ。チーターのように早く走ることをモットーにしてますけど、実際はカメよりもドン臭い集団ですわ。えっ、オレですか?ムクド…、いや、偶然通りかかった善良な市民です。納税もしっかり払ってる真面目で誰からも愛されている市民です。いやいや、通報は市民の義務ですから、当然のことをしたまでです。感謝状なんかいりませんよ。お構いなく。では、失礼します」
これでチーター連合も一網打尽だ。ついでに、折れた棒切れや曲がった傘や割れたほら貝なんかの武器も、あのあたりに放置してやったから、あいつらの物と勘違いされて怒られるだろう。もしかしたら、凶器準備集合になるかもしれん。ざまあみろだ。
そう、俺たちは要領がいいんだ。学校の勉強は、からっきしダメだったけどな。
夜が明けて、ムクドリ一家は自主解散した。俺は一人で帰路につく。家までは直線の一本道だ。今夜は楽しい走りだった。チーター連合の奴らもやっつけてやったし、善良な市民の義務も果たしたし、警察にも捕まらず、まんまと逃げおおせたし、言うことはないな。あとはさっさと家に帰って、風呂でも入って、朝寝するだけだ。ああ、太陽がまぶしい。
のんびりと走っているところを、一台の自転車が抜いて行った。
えっ、この俺がチャリに抜かれた?
三十人以上の荒くれ者を束ねる総長のこの俺様がチャリに負けた?
まあ、余裕をかまして抜き返してやるわ。
俺はバイクの速度を上げて、その自転車を抜き返してやった。
自転車には若そうな男が乗っていた。サングラスをしているからよく見えないが、雰囲気からして若いようだ。自転車のことはよく分からないが、スピードが出そうな本格的で高級そうなやつだった。あのエイリアンの頭のような形をしたヘルメットをかぶっている。太ももを見るとかなり太くて鍛えられている。自転車で鍛えたのか、他のトレーニングで鍛えたのか分からないが、あの自転車に、あの足じゃ、早いわな。鬼に金棒。金太郎にマサカリ、浦島太郎にカメだ。だが、俺のバイクには勝てんだろ。バイクにエンジンだ。
ところがだ。そいつはまた俺を抜いて行ったんだ。なんという速さだ。競輪の選手が朝練してるのか?しかも、そいつは抜き去るときに俺の方をチラッと見て、ニヤッと笑いやがった――ように見えたんだな。
俺はむかついた。
せっかく、いい気分で朝を迎えたというのに、あざ笑われるとは。
だだっ広い道路なんだから、お先にどうぞと、気持ちよく、道を譲ってくれればよかったのに。だが、もう遅い。俺様に火がついたら誰にも止められないぜ。
俺はバイクの側面に装着している仕込みパイプの中から木刀――コテツを手で引き抜いた。例の鉄工所の三代目跡取りが取り付けてくれた着脱可能なパイプだ。強力な磁石で付いてるんだ。警察に追われたときは、走りながらパイプごと捨てて逃げられるという優れものだ。さすが三代目、ここでもいい仕事をしてくれている。
どうやら、俺のコテツはまだ暴れ足りないらしい。
ここで引いては総長の名が廃るというものだ。
相手がチャリであろうと、俺は容赦をしない。大ケガをさせない程度に、全力で立ち向かっていく。この持ち前の気合と根性と無鉄砲さでムクドリ一家の総長にまで登り詰めたんだ。俺はスピードを上げて、自転車に並んだ。そいつは隣で俺が振り上げている木刀を見て、おそらくギョッとしただろう。サングラスで目が見えないが、そのはずだ。
俺はそいつがチャリの速度を上げて逃げる前に、ハンドルから両手を離して、両足の太モモで燃料タンクをはさんでバランスを取ると、木刀で思いっきり殴りかかってやった。
その後のことはよく分からない。
そいつが急ブレーキをかけて、俺の木刀をうまくかわしたのは見えた。
なかなか、やるじゃねえか。
俺が体勢を崩してバイクごと転倒したのも分かった。
ここで転ぶのかよ。
転倒する直前、チャリ野郎に向かっていたはずの木刀が、切っ先を変えて、俺に向かって来たことも分かった。
おいおい、ウソだろ!
こらっ、コテツ!なんでご主人である俺様に向かってくるんだ!
仲間が三千円もの大金を払って買ったんだぞ!
あいつの男気を台無しにするのか!
だが、俺の叫びは届かなかった。
そして、切っ先が俺の左胸を貫いたことが分かった。
切っ先が肋骨の隙間をすり抜けて、ズズッと背中まで達したことも分かった。
いきなり、全身に痛みが走ったことも。
いきなり、全身の力が抜けたことも。
俺は木刀に黒マジックで“コテツ”と書いていた。
コテツさんは江戸時代の刀工で、切れ味鋭い刀を作った有名人だと聞いたからだ。だから、名前にあやかったんだ。こっちは木刀だけど、その刀のように、敵対する族の連中をバッサバッサと切り倒してやろうと思ったんだ。
“コテツ”というのは“虎徹”と書くのだと、意識がなくなる寸前に分かった。
これじゃ、難しくて書けないな。
俺は心の中で、そうつぶやいた。
もう、声は出せなくなっていた。
一台の軽トラがしっかり制限速度を守りながら、街をゆっくり走っている。
スピードを出して警察に捕まったら、元も子もない。せっかく、あの場から逃げてきたのだから。
「警察に通報しやがったのは、絶対にムクドリ一家の奴らだ!」
助手席でリーダーがわめく。
タイヤにまきびしが刺さって動けなくなっているところを、数十台のパトカーに取り囲まれて、共同危険行為でいっせいに連行された。警察署のパトカーを総動員したほどの多さだ。なぜ、ここまで大げさにする必要があるのか?奴らが大げさに通報したのだろう。
だが、ラッキーなことに、この軽トラにまきびしは刺さらず、警察が来る前に動かすことができた。当然、他のメンバーは置いて、俺とこいつだけで逃げてきた。あんなトロい奴らの面倒まで見てられない。自己責任で逃げるべきだ。この軽トラまで押収されたら、今後、ヤギを運べなくなって、オヤジにまで迷惑がかかってしまう。ヤギは俺ん家の貴重な収入源だからな。収入がなくなれば、俺の小遣いもなくなるというわけだ。
「まきびしだの、煙幕だのって、あいつらは忍者かよ」
俺はダッシュボードを蹴り上げる。
「まったくですよ。リーダーのこの軽トラがあってよかったですよ」
俺と一緒に逃げてきたこいつは中学の後輩だ。今は舎弟だ。速度を守って運転してもらっている。俺たちの街まではもう少しだ。今頃、残して来た奴らは警察に捕まって恨んでるだろうけど、かまうもんか。俺がチーター連合のリーダーだ。いっさい文句は言わせない。
「リーダー、何か転がってますよ」
前方左にバイクと人が倒れていた。
すぐ横に軽トラを止めて、窓から見下ろす。
「俺たちの仲間か?いや、違うな。あっ、こいつムクドリ一家の松虫一二郎じゃねえか!」
敵の総長がバイクと一緒に倒れていた。
二人は軽トラから降りて駆け寄る。
「わっ、こいつ、死んでますよ!」
「――どれ?わっ、マジかよ。木刀が胸に刺さってるじゃねえか。これはダメだ。左胸だから心臓がある方だ。これはきっと即死だな。これで生きてるわけないよな」
バイクの脇に横向きで倒れている総長の左胸からは大量の血が流れ出ていた。
木刀は体を貫通して、血の付いた切っ先は背中から突き出ている。
「この木刀は松虫のものだ。コテツと書いてあるだろ。見覚えがある。さっき、振り回してやがるのを見たぜ」
「俺、こいつにヒジを殴られてビリビリ来ました」
「なんで、それが刺さってるんだ?」
「ケンカになって、逆に奪われて、刺されたとか」
「いや。こいつ、けっこうケンカ強いぜ。そんなヘマはしないだろう。しかも、こいつにケンカを吹っ掛けるなんて、この街では俺たちくらいだ。だが、俺たちの仲間はみんな、警察に連れて行かれた。だったら、誰がやったかだ」
「どこからともなく、この街に流れてきた、ならず者じゃないですか?」
「そんな、安物の西部劇じゃあるまいし。やっぱり、ケンカじゃなくて、事故じゃねえのか。――それよりも、ホントに死んでるのか確かめてみろよ。心臓に耳を当てるとか、脈を取
るとか、息を確かめるとか、保健体育の時間に習っただろ」
「えっ、リーダーがお願いしますよ。オレ、授業中寝てたから」
「なんでだよ。怖いだろ。頼むよ」
「俺も怖いっスよ」と言いながら「おいおい、松虫くん。起きなさい」と、総長の肩を揺する。しばらく、二人でかがんだまま、見つめる。
「――生き返りませんよ。やっぱり、死んでますよ」
「松虫が道端で死んでいた。今は春だぜ。虫が死ぬのは冬だろうが。春は虫が土の中から出ている季節だぜ、まったく、どうなってんだ」
リーダーが怒気を含んだ声でボソボソと言う。
「――で、リーダー、こいつをどうします?見なかったことにして、このまま行っちゃいますか?それとも、警察に通報くらいしてやりますか?」
「いや、運ぼう」
「マジっすか?」
「化けて出て来られたらたまらんからな。マジで嫌な奴だったけど、さっきの抗争もなかったことにしよう。つまり、ノーサイドということだ。憎きムクドリ一家の総長だけど、お互い、この街でヤンチャをやってきた仲だ。こんな所に寝かせておいたら気の毒だ。ちょうど、俺たちは軽トラに乗ってるんだ。こいつを荷台に積もうや」
二人は総長の遺体を苦労して荷台に上げた。
「ふう。死体というものは重いな」リーダーがため息をつく。「荷台はヤギ臭いけどがまんしてくれや、松虫総長」
バイクと脱げている片方の靴は放置したままだった。
「どこへ運びますか?警察か病院か葬儀屋か、思い出がいっぱい詰まったこの街を見下ろす丘の上か…」
「警察の玄関に置いたとたんに見つかって、パトカーに追跡されたらヤバいから、病院に持って行こう」
「さすが、リーダー。頭がいい!」
「近くに救急病院があっただろ、そこへ行こうや」
軽トラを救命救急センター入口につけた。まだ早朝だ。あたりに歩いている人も病院関係者も見当たらない。二人はふたたび苦労して死体を下して、仰向けに寝かせた。左胸に刺さっている木刀が突っ立った。透明の屋根から差し込む朝日が奇妙な遺体を照らし出す。
「シュールな光景だな」運転席に戻ったリーダーが、寝かされた松虫を見て言う。
「リーダー。さっき、荷台にあいつの血が付きましたよ」
「ああ、大丈夫だ。この前、オヤジがヤギを乗せたから。警察に訊かれても、ヤギをドライブに連れて行ったら、興奮して鼻血を出したと言っとけばいい」
「大丈夫ですかねえ。日本の警察は優秀だから人間とヤギの血の区別くらいつけるんじゃないですか?」
「おい、勘違いするなよ。俺たちは何も悪いことはしてない。おそらく、こいつは木刀を振り回してるとき、手が滑ったか何かで、自分の胸を刺してしまったんだ。俺たちがやったんじゃない。既に死んでたじゃないか。その辺の防犯カメラを見れば、俺たちの無実も証明されるはずだ。路肩でくたばっていた遺体をわざわざ運んであげたのだから、逆に褒められてもいいくらいだ。遺族から金一封くらいもらう資格はある。――さて、あらぬ疑いをかけられる前に、さっさと、ずらかろうぜ。いや、待て。引き上げる前に病院へ一言、言っておいた方がいいんじゃないか」
「そうですね。俺が言ってきますよ」玄関のインタホンへ駆け出した。
「もしもーし。おたくの勝手口に死体が置いてありますよー」
こう言っておけば、お医者さんかナースさんが引き取りに来てくれるだろう。
「犯人は俺たちじゃないっスよー」ついでに無実を主張しておく。
チーター連合の二人は敵対するムクドリ一家総長の死体を放置すると、一目散に逃げだした。逃げる前に、二人で松虫に手を合わせた。
「なんまいだー」「アーメン」
和風と洋風の両方で拝んでおいた。
これで、化けて出て来ないだろう。
「後で車に塩でも振りかけておこうや」
「はい。念には念を入れないと、お化けはおっかないですからね」
二人の逃げ足はチーターのごとく早かった。
防犯カメラの映像が巻き戻された。松虫一二郎はハンドルから両手を離して、棒のような物を振り上げると、突然、並走している自転車の男に殴りかかった。
「よしっ、ここだ!」岩鏡警部が叫ぶ。「ここからコマ送りで頼むわ」
コマ送りになった画面を警部が凝視する。
「この棒は木刀だな。だが、打ち所が悪いと死んでしまうから立派な武器だ」
自転車がとっさに急ブレーキをかけて、木刀をうまくかわした。
空振りを喰らった松虫は、体勢を崩してバイクごと転倒する。
当然、コマ送りの画面では松虫が大型バイクごと、ゆっくりと倒れていく。かなりの音がしたと思われるが、もちろん、音声は入ってない。
「松虫は革ジャンを着ているだろ。ここだ、見てみろ。ファスナーは首の辺りまで上がってる。ところがだ、次の場面ではファスナーが全開になって、下に着ていた赤のTシャツの胸が見えている。おかしいだろ」
確かに、場面が変わると、革ジャンに隠れていたはずのTシャツが見えている。
「次に、ここだ。松虫はバイクが転倒しそうになって木刀から手を離した。そのとき、木刀の先は下を向いていた。落ちて行く体が地面に激突するのを防ぐように、松虫は両手を広げて、下に向けている。本能的に防御の体勢を取ったのだろうな。このとき、木刀は手から離れて宙に浮き、両手は何も掴まずに宙をさまよっている。だが、ここだ。場面が変わると、地面を向いていた木刀の切っ先、は百八十度回転して松虫に向かって来ている。そして、革ジャンのファスナーが下がり、むき出しになっていたTシャツの左胸の心臓を貫いた。松虫がうつ伏せの状態で地面に倒れ込むと、体の重みで木刀は体を貫き、その切っ先は背中から突き出た。ここをもう一回、戻して、見せてくれ」
岩鏡に言われて、巻き戻し、同じ場面をコマ送りで見るが、やはり真相は分からない。
「ほら、やっぱり、おかしいだろ。木刀が宙で百八十度回転してるんだぞ。――どうだ、打水?」
モニター画面を凝視していた打水刑事が名前を呼ばれて我に返る。
岩鏡警部と打水刑事は個人商店から提供された防犯カメラの映像を確認した。そこに映っていたのは奇妙な光景だった。松虫がバイクごと転ぶ寸前に木刀が動き、左胸に向かって行くように見えたのだ。集まっていた捜査員全員で何度か見てみたが、どうしても分からない。打水の提案でコマ送りにしてみたが、やはり分からない。
打水はまだ画面から目を離さない。
「確かに変ですね。ファスナーが勝手に開いて、左胸がむき出しになる。木刀がクルリと回転して、うまい具合に左胸へ突き刺さる。まるで、松虫を傷つけるために、人の力が加わったように思えます」
打水と顔を並べて見ている岩鏡。
「そうなんだ。しかし、画像を見る限りはバイクの自損事故だな。松虫が木刀で殴ろうとして、バランスを崩して、勝手に転倒した。転倒する際に、木刀が胸に突き刺さった。そういう事故だ。まさか、自殺ではあるまい。こんなややこしい自殺の方法を取る必要はないし、松虫のようなずうずうしい奴が自殺するはずはない」
署内でもムクドリ一家には手を焼いていた。特に交通課にとっては疫病神だった。総長の松虫が人生の最期に自殺という手段を選んだとしたら、所轄の警察署内にも、敵対する暴走族内にも、不謹慎ながら、喜ぶ連中がたくさんいる。そのことを一番自覚していたのは松虫自身のはずだ。
「自分が死ぬことによって、みんなを喜ばせようなんて、松虫の野郎、死んでも思わんだろ。ギャースカうるさいだけのムクドリのボスが、そんな殊勝な心掛けをするわけはない。
つまり、自殺はありえんということだ。これが俺の導き出した万人も納得するであろう的確なる推理だ。だが、木刀をうまく避けた自転車の男は逃げてしまっている。松虫以外には誰も映っていない。バイクが転倒するのは、ほんの一瞬だから、妙な細工は仕掛けられんだろう。自殺じゃないとすると、いったい、どういうことなのか。それが分からん。先日の七つの傷の男といい、今回の木刀の男といい、変な事故だか事件が続きやがるな」
岩鏡がボヤいているところに、警官が駆け込んできた。
「警部、松虫の遺体を救命救急センター入口に放置した連中が白状しました」
取り調べを担当している霜月刑事である。
岩鏡はやっと画面から目を離す。
「チーター連合の奴らか。軽トラの荷台の血痕は松虫のものだったんだな」
「はい。DNA鑑定をした結果、そう判明いたしました。奴らは興奮したヤギが鼻血を出したと言い張ってましたが、間違いなく、松虫自身のものでした」
「あいつらは、日本の優秀な警察が人間とヤギの血の区別も付けられないとでも思っていたのか」
センター入口に設置してある防犯カメラに、遺体を運ぶ二人の男と軽トラが映っていたため、すぐに車種とナンバーの照会が行われ、リーダーの父親が所有する車だと分かった。父親に問い合わせたところ、あの時間帯には息子が乗り回していたとの証言が取れた。
「しかし、なぜ、死体を運んだんだ?」
「たまたま道を通りかかったら倒れていたので、気の毒に思い、とても親切に運んであげた。そんなことは市民の義務だと言ってます」
「なんでチーターが運ぶんだ。ムクドリとは敵対してるんじゃないのか?」
「それが、リーダーは元ラガーマンで、試合が終わればノーサイドなので、敵でも助けたと言ってます。つまり…」
霜月刑事は手帳を取り出して、読み上げる。
「紳士のスポーツであるラグビーでは、試合が終われば、敵と味方や、勝者と敗者の区別はなくなり、お互いに健闘をたたえ合う仲間同士であるという精神を、常に忘れず持っていて、チーター連合のリーダーはそれを人生の指標としているため、忠実に実行したそうです」手帳を閉じる。
「そんな崇高な精神の持ち主の元ラガーマンが、なぜチンケな暴走族のリーダーなんかをやってるんだ。さっさと足を洗うように言っておいてくれ」
「それと、車に付着していた白い粉ですが」
「覚せい剤だったか!?」
「塩でした」
「ヤギに塩をかけて喰ったのか?」
「いいえ。松虫が化けて出てきたら怖いので、車に塩を撒いてお清めしたそうです」
「なぜ暴走族なのに、そんなに律儀なんだ」
「それと、運んであげた総長ですが、見つけたときには、すでに亡くなっていたそうです。一応、体を揺すってみたけど、無反応だったと言ってます」
「だったら、あいつらがやったんじゃないな。松虫の財布もスマホもそのままだったし、運んだ後に、わざわざインタホンで知らせているくらいだからな。犯人は俺たちじゃないと言っていたという夜勤のナースの証言もある。それならそうと、最初から素直に白状すればいいんだ。手間を取らせやがって、何がヤギの血だ。――それで、財布とスマホから何か出たか?」
霜月が答える。
「いいえ。目ぼしい物は出ません。財布にもスマホにも松虫本人の指紋しか付着してません」
「チーター連合の二人は軽自動車に乗っていたのだろう。だったら、手袋はせずに、素手のままだろ。二人の指紋が付いてないということは、財布やスマホに触れてもいないということだ。盗みが目的じゃない。奴らには敵対する松虫総長をやっつけたいという動機がある。ついさっきまで、ムクドリ一家にコテンパンにやられていたのだからな。動機からすると、あの二人がクロなんだが、状況をみると、どんどんシロに近づいて行くな。――チーター連合の他のメンバーはどうなんだ?」
「はい、厳しい取り調べと高尚な説教をした上、全員を釈放しました。曲がった傘や割れたほら貝などの現場の遺留品は、すべて没収いたしました」
「メンバー全員、松虫の死亡とは関係はないのか?」
「はい。松虫が転倒している時刻が防犯カメラの映像に出てます。その時間には、メンバー全員がパトカーと警察官に取り囲まれて、順番に連行されてましたから、アリバイがあります」
「そうか。だが、ヤギ車にはまんまと逃げられたんだな」
「はい。申し訳ありません。リーダーともう一人は複雑なあぜ道をグルグル回って、うまく逃げおおせたようです。二人とも農家の子なので、あぜ道を走るのはお手の物でして、パトカーは振り切られました」
「逃げたおかげで、松虫を拾えたというわけか。運がいいのか、悪いのか分からんな。それはいいとして、チーター連合の全員にはアリバイがある。だが、双方の暴走族が敵対していたことは事実だろ。なあ、打水」
打水刑事が説明する。
「確かに、三年前から双方は抗争を繰り返してますが、小競り合いばかりで、大事には至ってません」
「ムクドリ一家のメンバーの飛ばしたロケット花火が、チーター連合のメンバーの背中に入って、軽いヤケドしたのが、最近、起きた事件だったな」
「冷やせば治る全治半日のケガでした。ですので、死者までは出さないと思います。なにぶん、地方のチンケな暴走族風情ですから、そんな大それたことはできないと思います」
「そうだなあ。暴走族同士の抗争の可能性も考えられるのだが、映像からすると、完全に事故なんだよな。だが、俺にはどうも納得できんな。木刀があんなにうまく肋骨の間をすり抜けて、心臓を一刺しできるかね。人為的に刺されたとしか思えんのだがな」
「ですが、その場合は松虫が持っていた木刀を奪い取って刺したことになります」
「あいつから奪い取るとなると、力がありそうなだけに、なかなか難しいな。――松虫を恨んでいた連中は数知れず。つまり、殺人の動機を持った人間はたくさんいるということだな」
その後の調べで、倒れていたバイクも刺さっていた木刀も松虫本人の物で、ご丁寧にも、バイクの側面には木刀を収納できるパイプが装着されていた。また、相手の自転車の人物はそのまま逃げ去り、いまだ身元は不明であった。おそらく、何かの交通トラブルがあったのだろうが、今のところ、防犯カメラには捉えられておらず、早朝だったため、目撃者もいなかった。
「もし、自転車の男が何らかのトレーニングをしていたのなら、またあの道を通るだろう。打水刑事、しばらく、聞き込みを続けるとするか」
「はい。だいたい、トレーニングというのは決まった時間に決まった場所でやりますから、事故が起きた時間と同じ早朝に、あの辺りの聞き込みをしたいと思います」
「そうか。また寝不足の日々が続くのか。テレビで防犯カメラの映像をガンガン流してもらって、自転車男に自首させようや。その方が手間も省けるだろ」
「自転車男が容疑者というわけではないのですが」
「そうだな。お忙しい中、任意で署までご足労いただくということだな」
岩鏡警部はまったく先が見えない二つの事件のことを思い、ため息をついた。
岩鏡の発案でホワイトボードが用意されて、七つ傷の男と木刀の男の事件の比較概要を、打水が書き出して一覧表にすることになった。
・被害者の名前
七つ傷の男:尾形武(二十八歳)
木刀の男:松虫十二郎(二十一歳)
・自殺かどうか?
七つ傷の男:新婚であり、新築の家に住んでいた。自殺の動機はない。
木刀の男:やっと、総長にまで登りつめて喜んでいた。自殺の動機はない。
・他殺かどうか?
七つ傷の男:遺体に防御創はない。凶器は不明。
木刀の男:防御創はない。木刀で体を貫くのは不可能?
・動機は何か?
七つ傷の男:家に荒らされた跡はなく、物取りの犯行ではない。
木刀の男:財布やスマホが残されており、物取りの犯行ではない。
・現場の状況は?
七つ傷の男:家の鍵はかかっており、密室状態。
木刀の男:事件時、防犯カメラには被害者以外映ってない。
・他殺とすれば犯人像は?
七つ傷の男:第一発見者は妻。アリバイあり。犯人不明。
木刀の男:第一発見者は敵対する暴走族。アリバイあり。犯人不明。
岩鏡警部は座ったまま、ホワイトボードを見上げる。
「こうやって一覧表にすると、余計に分からん。なあ、打水?」
「はい。でも、これだけ共通点がありますから、二つの事件には何らかの繋がりがあるのかもしれません」
「おお、そうだな。共通の犯人ということもあり得るな」
「ですが、今のところ、被害者である尾形と松虫に何も接点はありません」
「エリート金融マンと暴走族の総長だから、住んでる世界が違うわな。――霜月刑事、尾形武が暴走族だったことはないのか?」
「ありません」
「逆に松虫十二郎がエリート金融マンだったことは?」
「余計にありません」
「だろうな」
岩鏡は腕を組んで考える。
「だが、霜月刑事、おかしいよな。リンカーン・ライムはこうやって、ホワイトボードに書き出して、犯人を見つけてるのだがな」
「警部。あれは外国の話ですよ」
「そうか。日本とは事情が違うわな。しかし、向こうの鑑識の技術はすごいからな。ガスクロマトグラフまで持っとるしな。うちの鑑識は何をやってるんだ?」
「鑑識は鑑識でがんばってますよ」
「うちもアメリア・サックスみたいな女性捜査官がほしいよなあ。元モデルだし」
「ですから警部。あれは外国の話です」
「打水刑事、今回の犯人がエイリアンの可能性は?」
「ありません」
永流神社の社務所。
巫女の綿時つむぎは、預かった御朱印帳に日付や神社名などを書き、最後にアジサイの絵を描きあげて、押印し、若い女性に手渡した。和綴じタイプの上品な御朱印帳である。時期的には少し早いが、それぞれ、ピンクとブルーのアジサイを描いてあげた。永流神社はアジサイの名所でもあるからだ。受け取った女性は御朱印を見て、一緒に来ていた女性とカワイイと言って歓声をあげる。
丁寧に絵を仕上げるのに、少し時間がかかったが、喜んでいただいてよかった。
キレイに描いたのだが、感想はカワイイだった。
もちろん、喜んでいただければ、それでもかまわない。
“カワイイ”は若い女性が使う褒め言葉なのだから。
二人の女性はまた夏になれば来ますと言って、二人分600円の初穂料を支払うと、丁寧にお辞儀をして、うれしそうに帰って行った。
おそらく、二人は私と同年代だろう。まだ先の話だが、いつか私にも、この巫女という仕事を辞める日が来る。綿時家第四十二代の木霊師としての仕事を、まだ見ぬ次の人物に譲る日が来る。その後は、旅に出ようと思う。おそらく、その頃には父も母も鬼籍に入っていることだろう。だから、一人旅になるだろう。何も憂いを抱くことなく、ゆったりとした気持ちで自由な旅に出てみたい。今の女性たちのように、御朱印帳を持って全国の神社を巡りたいと思う。どんな神社との、どんな花との、どんな人との出会いが待ってるのだろうか。何年先のことになるかわからないが、今から楽しみにしている。
それは、綿時つむぎのたった一つの夢だった。
しばらくの間、御朱印待ちの行列ができていたが、今の二人連れの若い女性で、いったん途切れた。神社の境内にも静けさが戻る。ハトが石畳の上をのんびり歩いている。
今のうちに、前へ回って、お守りや絵馬やオリジナルの御朱印帳の整理整頓を始めようと立ち上がった。時刻は夕方。おそらく、すぐに御朱印を所望する参拝客で忙しくなるだろう。
遠くの拝殿から神主である父が朗々とあげる祝詞の声が聞こえてくる。相変わらず、張りがあるのに、澄み切った声をしている。自分の父でありながら感心する。あの声でお願い事をされたら、きっと神様も願いを聞いてくれることだろう。そう思わせる声だ。
そんな神々しい声をかき消すように、バイクの音が森を抜けて、響いてきた。社務所からは見えないが、表に大きな専用駐車場が併設されている。そこにかなりの台数のバイクが集結したようだ。永流神社は街道沿いということもあってツーリング客がよく訪れる。だが、駐車場に入っても、ずっとエンジンを切ることなく爆音を響かせ、喚声をあげていることからして、お行儀の良いツーリング集団ではなく、お行儀の悪い暴走を趣味としている集団だろう。あそこで休憩をしているのか。それともこの神社に用事があるのか。
あるとしたら、いったい何の用だろう。
信仰心を持っているとは思えないが。
まさか、交通安全のお守りを買うとか?
つむぎは整理整頓を終えて、席に戻った。
やがて爆音も止み、ガラの悪そうな二十人ほどの一団がぞろぞろと鳥居をくぐって入って来た。金髪に茶髪にスキンヘッド。バイクに乗るというのに、なぜか、モヒカンにリーゼント。ちゃんと形を保っているということは、駐車場でヘルメットを脱いで、整えたのだろう。遠くからでも、背格好を見ると、どんな集団かだいたいの見当が付いた。
手にヘルメットをぶら下げている男も数人いる。
やはり、お行儀の悪い方の集団だ。
しかし、見ていると、一団はちゃんと手水舎で手と口を清め、拝殿でお賽銭を入れ、二礼二拍手一礼をして、長い間、手を合わせ、何かのお願い事をしている。一人の男は手にメモのような物を持って、熱心に読み上げている。一般人より丁寧に時間をかけている。
見かけで人を判断してはいけないと、綿時つむぎは改めて思った。
五分間ほど、何をお祈りしていたの分からないが、その集団は社務所に向けて、ぞろぞろとやって来た。みんな揃って、ダルそうに歩いている。普段はバイクに乗っているため、自分の足で歩くことが面倒なのかもしれない。先頭を歩く男が、この群れのリーダーだろう。さっき、メモを読んでいた男だ。目が合ったとたん、その男が声をかけてきた。
「おねえさん、交通安全のお守りを二十個くれるか」
まさか、本当に交通安全のお守りを買うらしい。
暴走族が交通安全のお守り?
「ようこそお参りくださいました。こちらにいろいろと種類がございます」
つむぎは戸惑いつつも、先ほどキレイに並べたばかりのお守りの列を手で示した。
交通安全といっても、大中小、色とりどりのお守りがある。
「へえ、いっぱいあるもんだな」
リーダーらしき男は感心する。
すぐ横にいるナンバー2らしき男が声をかける。
「リーダー、これなんかどうです。金色でピカピカ光ってて、いいですよ」
大きな金色のお守りを指差す。
やはり、この男がリーダーらしい。
「おお、こりゃ、派手でいいな。よく目立ちそうだ。おねえさん、これはステッカー付きか?」
お守りとステッカーを合わせて販売しているというポスターを、すばやく確かめたらしい。セットで買う方が、より効果があると小さく書いてある。
「はい、交通安全のお守りと交通安全のステッカーのセットになっております」
「だったら、これがいいな。じゃあ、これを二十セット頼むわ!」
元気よく言ってくれたが、隣からまた、ナンバー2が口を挟む。
「おねえさん、二十個も買うんだから負けてくれよ」
「いえ、それは…」つむぎが躊躇すると、
「ボケッ!」リーダーがその男の頭を、持っていたヘルメットでぶん殴る。「セコイことを言うな!世の中には値切っていい物と、ダメな物があるんだ。値切るんだったら、ぼったくりの店でやれ」
「はい、すいません!」ナンバー2は頭を下げる。
「お前は先週、幼稚園のバザーで、五百円の小物入れを四百五十円に値切って、俺に怒られたばかりだろうよ。お守りを値切って、罰が当たったらどうするんだ。交通安全のお守りだから事故るぞ。命あっての物種だからな。――おねえさん、悪かった。こいつがアホなもんで。ちゃんと正規料金を一括現金で払うから」
「では、税込みで二万二千円になります」
リーダーがズボンのポケットから黄色の財布を取り出した。
黄色い財布は風水で金運アップの効果があると言われている。
暴走族が風水?
ふたたび、つむぎは戸惑う。
「俺が二万円払うから、オマエは消費税分だけ払え」とナンバー2に言いつける。
「どうぞ、お納めくださいませ」
つむぎはお礼を言って、お守りとステッカーを二十セット手渡す。
「はい、お納めいたしましたよ」
リーダーは交通安全セットを両手で受け取ると、後ろを向き、取り囲んでいたメンバーに言った。
「いいか。みんなの分もお守りを買ってやったからな」
「オッス!ありがとうございます!」いっせいに頭を下げて礼を言う。
「お守りはバイクにぶら下げておけ。それとステッカーも忘れずに貼っておけよ」
「オッス!」
「俺たち、チーター連合は今夜から安全運転でぶっ飛ばすんだぞ!」
「分かりやした!」
「パトカーに追われても、安全運転で逃げるんだぞ!」
「分かりやした!」
「解散して家に帰るときも安全運転でな」
「分かりやした!」
「無事に家へ帰るまでが暴走だぞ!」
神社の境内が暴走族の研修所のようになっていた。
リーダーはナンバー2に命じて、交通安全セットを全員に配らせた。
この荒くれ集団が意外と統制が取れて、ちゃんとしているところを見られて、逆に恥ずかしく思ったのか、もう用は済んだというのに、リーダーがつむぎに話しかけてきた。
「最近、物騒なんでね。神頼みでもしておこうと思って」
暴走族も神頼みをするのかと、つむぎは感心して、
「先日、バイクの事故で若い方が亡くなりましたね」
新聞記事で読んだ事件のことを話してみた。
「ああ、俺のチームじゃないんだけど、ちょっと知ってる奴だったんで驚いた」
もちろん、勝手に遺体を病院に配送して、警察に説教を喰らったことは言わない。
「運転操作を誤って転倒されたと新聞に載ってましたね」
「まあ、そうらしいけど、あいつは運転がうまいんだよな。ときどき、両手を離して乗ってるし。どうやら、転んだ際に持ってた木刀が刺さったらしいんだ」
「木刀ですか?」なぜ、木刀を持ってバイクに乗るのか、つむぎには分からない。
「ああ、左胸にグサッとな。まあ、おねえさん、聞いてくれ。それがおっかない話なんだ。革ジャンを着てたはずなんだが、前のファスナーが下りちゃって、むき出しになった胸に刺さったらしいんだ」
「ファスナーが下りてなければ、刺さってないのですか?」
「革ジャンはけっこう分厚いから、そう簡単に深いところまで刺さらないと思うけどな」
「深いところまで?」
「ああ。心臓を一突きなんだ。だから、革ジャンの前のファスナーが開いていたかどうかを、しつこく刑事に訊かれたんだ」
あっ、まずいな。遺体を見たことがバレる。
「――と、俺のツレが言ってた。だが、木刀の先は体を突き抜けるほど鋭くないし、余程の力が加わらないと、そうならないんだ。おかしいんだよな」
「体を突き抜けたのですか?」つむぎは驚く。木刀が体を貫通した?
「ああ。血の付いた木刀の先っぽが背中から出ていた――と、ツレが言ってた。それと、これもツレが警察から言われたらしいんだけど、何かの意志が働いて、革ジャンのファスナーを下げて、木刀で突き刺したみたいだってさ。――ほら、おっかない話だろ。俺もツレからこの話を聞いた時には驚いたもんよ」
「そうですね」答えながら、つむぎは何かを考えている。木刀が?意志が働いて?
「でもな。幽霊が犯人じゃあるまいし、木刀が勝手に動かないよな?ツレの奴がそんな怖い経験をしたから、今日はここに来てみたんだ。お守りがあった方がいいと思ってな」
「そうだったのですか。ありがとうございます。先ほどは拝殿で何か熱心に読んでおられたようですが?」
個人の参拝について立ち入ったことを聞いてはいけないが、つむぎはこの集団に興味を持ったので、思わず訊いてみた。木が体を貫通したことに関連したものかもしれないし、他の情報も聞かせてくれるかもしれないと思ったからだ。そして、おそらく、お調子者らしいリーダーは答えてくれるだろうと思ったからだ。
「ああ、あれか。十年後の俺に宛てた手紙を読んだんだ。まあ、それは、いいじゃないか」
十年後の自分に…?
中学生の卒業文集みたいだ。
この人たちは本当に暴走族だろうか?
どうやら、木刀の件ではないようだが聞きたいと思った。
だが、残念ながら、読んでくれないらしい。
ところが、また例のナンバー2がしゃしゃり出てきた。
「リーダー、おねえさんに聞かせてあげてくださいよ」
いいぞ、ナンバー2!
つむぎは心の中で彼を応援する。
「そうか。しょうがねえな」リーダーは先ほどのメモを取り出して、読み始めた。
「十年後の俺へ。他人に迷惑をかけてませんか?世の中の役に立つ人間になってますか?」
メンバー全員が爆笑する。
「笑うな、ボケッ!――ああ、やっぱりやめた。おねえさん、これくらいで勘弁してくれ」
「はい、承知いたしました」つむぎは笑いながら承諾する。
「――それじゃ、また。みんな、行こうぜ!」
リーダーはメモをポケットに捻じ込むと、ふたたび仲間を引き連れて、ぞろぞろと帰って行った。リーダーは振り返り、つむぎに向けて、ヘルメットを頭上に掲げた。お礼のつもりらしい。
御朱印帳を持って待っていた中年女性が、その集団を遠巻きに見ながらやって来た。離れた所で、ガラの悪い集団が帰るのを、ずっと待っていたようだ。誰も彼らに関わりたくないのはよく分かる。
「あのう、御朱印、よろしいでしょうか?」女性がおずおずと尋ねてくる。
「はい、申し訳ありません。お待たせいたしました。お預かりいたします」
彼らが長居してことを謝っておく。
つむぎは慣れた手つきで参拝日や神社名などを書き入れ、ブルーのアジサイの絵を仕上げて、最後に押印し、丁重に手渡した。
「あら、素敵な絵をありがとうございます。ずっと待っていた甲斐があったわ。毎年、ここのアジサイを楽しみにしてるのよ」
どうやら、永流神社の常連さんのようだ。ありがたいことだ。お手製の御朱印帳はかなり分厚く、ベテラン参拝者と思われた。永流神社だけでなく、いろいろな神社仏閣を訪ね歩いているのだろう。
この女性も満足そうに帰って行った。
そろそろ日が暮れる。今の女性が本日最後の参拝客になりそうだった。
先ほどのお行儀の悪い集団=チーター連合のバイクの爆音が境内にまで響いて来た。今まで何をやっていたのか、まだ駐車場にいるようだ。この時間までバイクにお守りをぶら下げて、ステッカーを貼っていたのかもしれない。リーダーが自腹を切って買ったのだから、メンバーとしては、お守りを付けて、ステッカーを貼らざるを得ないのだろう。リーダーはメンバーのためを思ってお守りを買ってあげたのだろうが、メンバーとしては、お守りを付けたバイクには乗りたくないのではないか。
何せ、ツッパリの暴走族集団なのだからと、つむぎは思った。
やがて、爆音は遠ざかって行った。
つむぎは彼らが無茶をしないように、安全運転を心がけてくれるように願った。あんな集団だから、そんなことを願っても無理なことかもしれないが、せっかく、この神社へ参拝に来ていただいたのだから、何かの縁があったのことだろう。あのお調子者のリーダーも悪い人ではなさそうだし、ナンバー2の人も要領が悪いだけだと思うし、メンバーたちも素直にリーダーの言うことを聞いていた。たとえ、お行儀の悪い集団であっても、みなさん、幸せになっていただきたいと思った。
そのリーダー格の男の言葉がよみがえる。
“木刀が勝手に動かないよな?”
つむぎは誰もいない境内に目を向けながら、その質問に答えてみる。
“いいえ。動くこともあります。生きとし生ける物にはすべて霊が宿っているからです。たとえ、霊が宿る樹木が切り倒されて、命なき一本の棒切れになったとしても、樹木のときに、強烈な念を受けていたのなら、その念の残滓が棒切れを動かすのです。その棒切れが朽ち果てていたとしても、細かく分断されていたとしても、そして、たとえ樹木が木刀に加工されていたとしても、動くことがあるのです“
棒切れや木刀などの小さな木が実際に動いたところを見たことはない。
しかし、理論上は動くはずだ。
樹木から引き継がれた何らかの意志を持って動くはずだ。
“何かの意志が働いて…”
いや、そうではない。
外部から意志が働きかけたのではない。
木刀そのものが意志を持っていたのだ。
木刀が自らの意志で動いたに違いない。
常人には考えられないことだろうが、つむぎにとっては不思議なことではなかった。
午後七時。タイマーが働き、境内のライトがいっせいに消灯した。
あたりを小さな常夜灯と月明りが照らすだけになった。こんな時間でも参拝に訪れる方もいらっしゃるので、つまずかない程度に、石畳には少しだけ光があたっている。
儀式に向かうために、つむぎは立ち上がって、社務所内の電気を消し、戸締りをした。
先ほどのリーダーから聞いた、何かの意志が働いて木刀が体を突き刺したという話が気になっていた。しかし、時間も押していたし、他の参拝客のこともあったため、あれ以上の詳しいことは聞けなかった。リーダーはその話をツレから聞いたと言っていたが、ウソなのはバレている。話すとき、目が泳いていたからだ。おそらく、その事故とは何らかの関係があるのだろう。しかし、こうして他人に話すということは、事故に直接関係しているのではなく、目撃したか何かだろう。悲惨な事故のはずが、うれしそうに話していた。当事者ではないからだ。それを人に言いたくて仕方がなかった。そんなタイミングで、私と出会ったということだろう。
いずれにせよ、肝心なことは木刀が動いたということだ。
そのことが、つむぎの脳裏にはずっと引っかかっていた。
これだけで終わらなければいいのだが。
署内第七会議室に五人の男が集まっていた。
宝永検死官と助手の赤穂、岩鏡警部と打水刑事、捜査員の霜月が、証拠品保存袋に入っている革ジャンと穴の開いたTシャツと血だらけの木刀をテーブルの上において、席についている。木刀には黒マジックで“コテツ”と書いてある。
道端で亡くなっていたムクドリ一家の総長松虫十二郎の遺留品だ。この件は目撃者も証拠もないため、事件ではなく、このままバイク事故として処理されようとしている。だが、どうも納得できないという岩鏡の意見を受けて、証拠品を再検討しようというのだ。
「この木刀のコテツが左胸に突き刺さって、背中まで突き抜けていたわけだ」岩鏡が言う。岩鏡たちは防犯カメラの映像を繰り返し見た。スローでも、コマ送りでも、何度も再
生して確かめてみた。
革ジャンのファスナーが勝手に下がって、Tシャツを着た左胸が見えたと思うと、木刀
が切っ先を変え、真っすぐに突き刺さっていった。松虫はおそらく即死。死因は失血死だった。
「映像に何も加工は施されていないのだね?」宝永が念を押すように訊いてくる。
しかし、それも無理はない。最近はCG加工の技術が格段に向上し、一目見たくらいでは分からないくらい巧妙だからである。その道のプロならば、警察官や検死官を欺く映像くらいは簡単に作成できる。
打水刑事が答える。
「先生に判断していただいた死亡推定時刻は朝の四時で、個人で経営されているクリーニング店から映像を入手したのは七時半です。加工する余裕はないでしょうし、加工する理由もありません。映像を提供いただいた店の家族は、暴走族とは何の関わりもありませんので、事実そのものの映像です」
「そうかね。では、順番に見て行こうか」宝永は納得したようだ。
証拠品を前にして、霜月が続ける。
「まず、革ジャンですが、細かい傷があるだけで異常は見当たりません。ポケットにはスマホと財布が入ってましたが、指紋は本人のものだけです。家族の了解を得て、中身を見たのですが、事故と関連することは何も出てきませんでした。また、財布の中には現金一万八千円がそのまま残されてました。家族によりますと、普段持っているお金はそんなものだということです。何分、ドーナツ屋の砂糖ふりかけバイトですから、そんなに持ってないそうです」
「なるほど」岩鏡が相槌を入れる。
「次に、革ジャンのファスナーですが、勝手に下がるような細工はされてませんでした」
以降は、岩鏡が質問をする形式で進めていく。
「ファスナーに手でつまむ部分があるじゃないか。あそこを押さえつけると、ストッパーの役目になって、下りて来なくなるな」
「はい、しかし、映像ではそこまで細かく確認ができませんでした」
「ストッパーが働いてない状態で、革ジャンの前の部分を左右に引っ張ったら、ファスナーはスッーと下りたかもしれんな」
「それも一瞬のことですから、映像では確認できませんでした。しかし、スローやコマ送りで見ても、どこかに革ジャンが引っかかったようなシーンは見られませんでした」
「ああ、そうだったな。革ジャンの前が開いて、左胸が露わになったのは確かなんだけどな。その方法が分からんな。ストッパーじゃないとしたらなんだ?」
「革ジャンはごく普通のものでした」
「もし、革ジャンの上から刺さっていたら、一気に背中までグサリとはいかんかったわな」
「はい、かなり分厚いですから、かなりの力で押し込む必要があると思います」
「Tシャツはどうだ?」
「衣料量販店で売ってるような普通の赤いTシャツです。何も細工はしてありません」
「宝永教授」岩鏡は検死官に話しかける。「木刀がうまい具合に肋骨の間をすり抜けて、心臓を突き破り、背中から貫通するとは、偶然にしてはできすぎてますな」
「そうだね。まるで計ったようにピンポイントで貫いているね。しかも、木刀は斜めからではなく、体の正面から貫いておる。つまり、同じくらいの体格の人間が向かい合って突き刺すということだね」
「では、バイクに乗りながらでは?」
「無理だね。あの映像からは考えられない。今、まさにバイクから落ちかけてるんだ。あんな体勢で、あんな角度で刺さるはずはない」
宝永も映像を確認している。
そして、さすがの宝永も首をひねる。
「革ジャンにもTシャツにも問題はない。だとすると、霜月くん、木刀そのものにも異常はないのかね?妙な細工が仕掛けてあるとか」
「はい、何ら、おかしなところはありません。バネ仕掛けで動くとか、ピアノ線がくくり付けてあるとか、中に何かが仕込んであるとか、そういったことはありませんでした。木刀のX線検査をしてまで確認をしてます。中身はただの木でした。松虫の衣服と手にしていた物に異常はありませんでした」
「…そうかね」宝永は黙り込んでしまう。
岩鏡が話す。
「松虫から木刀を奪い取るなんてありえない。木刀が空中で半回転するなんてありえない。まっすぐ体を突き抜けるのもありえない。ありえないの三連発だな。――乗っていたバイクはどうだった?」
「鑑識がバイク店に持って行って、立ち合いのもと、バラバラに分解してもらったそうですが、怪しい部品は何も見つからなかったとのことです」
助手の赤穂が補足の説明をする。
「衣服に付着していた血液は松虫本人のものだと、報告をした通りですが、木刀には多数の傷と少量の血液が付いてました。傷はチーター連合の連中やバイクなどを殴りつけた跡でしょうし、血液は松虫のものではなかったので、殴ったときに付着した敵の連中のものと思われます。詳しく検証をすることもできますが、かなりの時間を要します」
「今のところ、そこまでする必要はないだろうな」
霜月が続ける。
「木刀にマジックで書かれていた“コテツ”については、江戸時代の刀工虎徹のことでしょう。あやかって書いたのか、憧れて書いたのか、これで相手を一刀両断してやるという気持ちの表れでしょうが、コテツという名前そのものに深い意味はなく、今回の事故とは直接関係ないと思われます。家族に確認したところ、こんなヘタクソな字は本人の筆跡で間違いないと言われました。ただ、松虫がこの木刀をどこで手に入れたかは分からないため、捜査員が写真を持って土産店などを回ってます」
「木刀と言えば武具店か土産店かだな。俺も修学旅行で京都に行ったとき、買って来たな。家に持って帰っても使い道に困るんだな、あれは。防犯用に寝室に置いてあるが、刑事の家に泥棒は入らんだろうしな。――まあ、結局、これらの証拠からは何も分からんということだな」
岩鏡は事件だと踏んでいるのだが、確証が得られず、気落ちした声を出す。
このままだと事故扱いになってしまう。
「事故だと断定するには、何か引っかかるのだがなあ。長年の刑事の勘でそう思うのだがな。目撃者はいないが、映像という証拠があるから、やはり事故と断定されてしまうか。――霜月くん、自転車の人間の身元はまだ分からんのか?」
「はい、まだ分かりません。ニュース番組であの映像をバンバン流してもらってるのですが、まだ名乗り出てきません。そんなに特殊なタイプの自転車ではなくて、どこでも売ってるものですから、自転車から割り出すのは難しいようです。それと顔が防犯カメラにははっきり映ってません。ヘルメットを着用しているので髪型も分かりません。ですので、この身元の件も、画像からプリントアウトした写真を持って、あたりの聞き込みを重点的に行っているところです」
「そうか、引き続き近所を当たってみてくれ」
「分かりました」霜月は捜査のため、ここで席を立った。
岩鏡が検討を続ける。
「宝永教授、先日発生したもう一つの事件のことですが」
「事件じゃなくて、事故じゃないと言いたいのだね」
「あれも何か引っかかるんですよ。今回の事件と同じように物取りの犯行ではありませんし、殺人だとすると、殺される理由もありません。ただ、残念ながら同じように事件だとする証拠はありません。――あの胸に付いていたハシゴ段みたいな七つの傷ですが…」
「キミが犯人はエイリアンだと主張している傷かね?」
「まあ、そうですが。その後、何か分かりましたか?」
「解剖の結果、肺と胃の中に大量の木くずが詰まっていたことは報告しておいた通りだ。また、七つの傷の周りにも木くずが付着しており、どうも、肺と胃に開いた穴から木くずが飛び出て、皮膚を破って体外に出たとしか考えられん。だが、なぜ、木くずなのか分からん。木くず以外にも小さな木片も混ざっておったのだが…」
「宙に舞っている木くずを大量に吸い込むと、自然と肺に入りますな」
「そうなるな。なぜ、宙に木くずが舞っていたのかは分からんがな」
「胃にたくさんの木くずが詰まっていたということは、木くずを喰ったということですか?」
「胃の中には木くずと木片の他には、ほとんど何も入っとらんかったから、喰ったのだろうな。いったい、木をどうやって喰ったのか、なぜ喰ったの分からん」
「打水、木くずを無理に喰わせるというリンチはあるのか?」
「マル暴の四課の刑事に訊かないと、くわしくは分からないのですが、私は聞いたことはありません。どうせ喰わせて、痛みつけるのなら、エグい泥とか石鹸を喰わすんじゃないでしょうか」
「汚いのかキレイなのか分からんな。ところで、木くずなんか、うまいのか?」
「いや、喰ったことないです。でも、醤油をかけて、鰹節だと思って喰えば喰えそうですが」
「喉につかえそうだな」
「ふやかして喰うとか、お茶漬けにするとか」
「それだと、米の未消化分くらい残ってるだろう。だが、あの家は木くずを喰うほど貧しかったのか。金融関係の会社は給料がいいはずだぞ。本物の鰹節くらい買えるだろ。何で死んでしまうかな。新婚の奥さんもいるというのにな。あの奥さんはけっこういい体格をしてたぞ。あれは三食をちゃんと喰ってるという体だ。自分は喰って、ダンナには喰わせなかったんじゃないか?」
「いえ、そんなことはないでしょう。被害者は奥さんほど太ってはいませんが、木くずを食べるほど飢えていたとは思えません」
「…だとしたら、木を喰うのは、何かの儀式か?アマゾンの奥地に行けばやってそうだな」
「ないでしょう」
「そうか。ならば、ダイエットか?偏食グルメか?何だか、分からんな。何といっても、木くずとエイリアンが結びつかんのだよ」
まだ、エイリアン説が捨てきれない岩鏡へ、呆れたように宝永が言う。
「肺と胃の中で見つかった木くずは科捜研で調べてもらっている。ただの木くずだと思うから、あまり期待しないで待っていてくれ。それに、鑑識で調べてもらったから、もう何も出ないと思うが、この三つの証拠品も回しておくことにするか」
テーブルの上の革ジャンとTシャツと木刀を指差す。
「お願いします。あまり期待しないで待ってます。それにしても、教授。木くず遺体といい、木刀遺体といい、木にまつわる奇妙な遺体が続きますな」
「ああ、これで終わりにしてもらいたいね。久しぶりに傷のないキレイな遺体が見たいよ」
しかし、木にまつわる奇妙な遺体の出現はこれで終わらなかった。
この日から三日後。
丸太とロープでグルグルに巻かれた奇妙な遺体が、所轄内のアスレチック公園で発見されたからである。
上野作治はスマホを持って、道路脇に立っている。
事件発生の情報メールが届いた時はドキリとした。俺のことかと思ったからだ。しかし、女が道を歩いていて、金を奪われそうになったという未遂事件の記事をよく読んでみると、時間も場所も少し違っていた。女が大声をあげると、その男は何も取らずに逃げて行ったらしい。また現れるかもしれないという注意喚起のメールだ。どうやら、俺の同業者が近くをウロウロしているようだ。なんて、目障りな奴だ。
女に大声をあげられたから、逃げてしまうとは情けない。素人は何も分かっちゃいない。まず、大声をあげられないように口をふさぐ。これが鉄則だ。その際、指を噛まれないように気を付ける。これも鉄則だ。噛まれたら痛いし、もし化膿したら病院に行かなければならない。すると、手配書が回っていて捕まるというわけだ。そんなのは歯が貫通しないくらいの厚さの手袋でもしておけば防げる。簡単なことだ。間違っても軍手をしてはいけない。あれは製品によっては薄いものがある。安く束で売ってるような軍手はコスパがいいが、人の口をふさぐという仕事には適していない。トリセツには書いてないが。
仕事は事前の段取りが大事だ。段取りで仕事が成功するかどうかが決まると言ってもいい。素人は段取りがいい加減だ。慎重に、正確に、かつ素早く段取りを終えること。これが大事。この商売を三十年も続けていれば、これくらいの知恵は付く。
いくらバカな俺でも。
スマホを仕舞おうと思ったとき、またメールが来た。不審者情報だ。今度こそ俺のことかと思ったのだが、また違っていた。帰宅途中の小学生の女の子が不審な男に声をかけられたらしい。走って逃げたので無事だったようだが、子供にちょっかいを出すとは、犯罪者の風上にも置けない不逞の輩だ。こんな奴と一緒にされたらたまらない。
世の中にはあちこちに不審者がいるものだ。俺を含めて。
夕方。市民公園のそばの道路脇。
昨日、下見の際に目をつけた女を、俺はここで待っている。もちろん、ちゃんとマスクと眼鏡に、厚めの手袋をしている。女の年齢は三十歳くらいだ。紺色のスーツ姿で髪はショートカット。いかにもバリバリと仕事ができそうな背筋をピンと伸ばして歩く女で、金はけっこう持っていそうな雰囲気なんだ。俺とは住んでる世界が違うキャリアウーマンとかいう人種だ。
だが、最近は電子決済が進んでいて、キャッシュを持って歩いている奴が少なくて困る。持っていても少額なんだな。以前、あまりにも“あがり”が少なかったため、ついつい高齢者を相手にしたことがあった。そのばあさんはけっこう持っていたが、高齢者からふんだくると、後味が悪いんだ。死んだら枕元に立たれそうなんだな。以降、そこそこの若者をターゲットにしているのだが、スマホとかクレジットカードを盗んだところで、金に代えるのは面倒だし、金を手に入れるときに足がつく可能性が高い。
だから、この商売はキャッシュが一番なのよ。手っ取り早くていいのよ。
いただいたキャッシュをさっさと使ってしまったら分からない。まさか、警察も指紋を取るために、お札を追いかけるようなことはしないだろうし、お札に目印を付けておくほど、ヒマじゃないだろう。
一気に使い切れないほどガバッと儲かる銀行強盗をやってるわけではない。そんなのは今どき流行らない。ニュースを見ても銀行強盗なんか、ほとんど起きてない。ときどき、地方の郵便局が狙われて、すぐに容疑者逮捕というパターンはよく見かけるが、いい年したオッサンが犯人の場合が多い。情けない限りだ。俺も似たようなものだけど、捕まりはしない。この道、三十年。いまだ捕まらず、警察には俺の指紋さえ登録されてない。
俺の一回の稼ぎはたかだか数万円だ。ときには、しょぼいことに数千円だ。はい、メシ喰って終わり。明日のメシ代のためにまた引ったくり。また、メシ喰って終わり。終わらない負のスパイラル。メシを喰う必要がないなら、俺は引ったくりなんてセコい仕事はしない。だが、メシを喰わないと生きていけない体に神様が作ったわけだ。つまり、神様が悪い。悪の根源だ。いつか、やっつけてやりたい。しかし、嫌々ながらも、この商売をたった一人で三十年も続けている俺は偉い。継続は力なり。これホント。俺の座右の銘。今の若い連中に聞かせてやりたい言葉だ。
俺は昨日からここを主戦場にしている。といっても、まだ儲けはゼロだ。
かつては、人がまばらな大きな市民公園だった。ざっと見渡して、遊んでる親と子が何人いるのか、犬と飼い主が何組いるのか、簡単に数えられるほど、閑散としていた。
それが市は何を考えているのか、ここを有料のアスレチック公園に変えるらしい。有料だぜ。たかが、公園で遊ぶのに金を取るんだぜ。市の財政が逼迫しているからといって、小さな子供がいるファミリー層から分捕るか?とんでもない悪党だよな。
俺みたいな引ったくりの常習犯に言われちゃおしまいよ。
改装工事のため、公園の周りはバカ高いフェンスが張り巡らされており、完成するまで中に入ることはできない。つまり、このあたりは普段以上に、人通りが少ないということだ。強盗屋の俺にとっては絶好の場所なんだ。釣り人で言うと、入れ食いスポットだ。ホラー好きからすると、心霊スポットだ。
もしかしたら、さっき未遂事件を起こしたような奴らが、この絶好の場所を見つけるかもしれないから、常にあたりには気を配る必要がある。怪しい奴を見かけたら仕事は延期せざるを得ない。こっちも怪しいから、向こうも同じことを思うだろうけどな。ときどき、嫌がらせで、不審者がいるといって通報してやる。向こうも、俺にやってくるからお互い様だ。同業者は多いが、獲物は限られている。早い者勝ちだ。集中して張り込もう。
フェンスの隙間から覗いてみると、閉鎖中の公園内ではたくさんの遊具が設置中だ。すべて、アスレチック用の木製遊具だ。公園脇にはブルーシートがかけられた大量の木材らしきものが積んである。ジャングルジムやブランコなどの小さな遊具から、フェンス越しに、てっぺんが見えている巨大な滑り台まであるようだ。掲示してある完成予想図によると長さ六十メートル、高低差は二十メートルある東洋一の滑り台らしい。大人も楽しめると書いてある。
そうか、この俺でも滑り台で楽しめるのか…。
その前に人生が滑りっぱなしだけどな。
フェンスの陰にたたずんだまま、一時間ばかり待ってみたが、ターゲットの金を持っていそうなテキパキ歩くOL嬢は来ない。おそらく、OLだろうから退社時間が決まっていて、決まった時間に通ると読んでいたのだが、今日は残業かもしれない。金曜日だから、飲み会かもしれないし、社内ボーリング大会かもしれない。ときどき、金がなさそうな連中は通った。女子学生や、息子のジャージを着てるオバサンや、子連れの主婦だ。そいつらに怪しまれないよう、完成予想図を眺めたり、スマホを触ってたり、待ち合わせをしてるフリをするというセコい努力が無駄になった。そして、明日に出直そうか、場所を変えようかと考えているうちに、あたりは暗くなってしまった。優柔不断は時間を浪費するだけだ。俺はずっと人生を浪費してきた。
今日は例のOLをあきらめることにして、ついでだからこの大きな公園を一周してみる。他にカモが歩いているかもしれない。小銭が落ちているかもしれない。怪しい同業者と出会ったら素通りだ。向こうも見ぬフリをするだろうからお互い様だ。
同業者はニオイで分かるんだ。
それにしても大きな公園だ。俺が真面目に支払った税金の一部もこの改装に使われているはずだが、子供のいない俺にとっては、支払った見返りがないというわけだ。
あの巨大な滑り台に百回くらい乗って、元を取るしかないのか。
世の中は悪人に不公平だなと思って歩いているうちに、フェンスとフェンスの間に隙間が開いている所を発見した。
おっ、入れるな。
今なら入場料がタダじゃないか。
少し、税金の元を取ってやるか。
俺はあたりを見渡すと体を横にして、隙間から改装中のアスレチック公園に入り込んだ。
特に目的があったわけじゃない。開いていたから入っただけだ。誰かに見つかったところで大したことではない。散歩しているうちに、間違えて入り込んだとでも言えばいい。酔ってるフリをしてもいい。その前に見つかることはないだろう。日はもう落ちているから、灯りと言えば、しょぼい街灯とうっすらとした月明りしかなく、隙間から覗き込むような物好きは、俺くらいだろうからな。
外からはよく見えなかったが、園内に入ってみると、意外にたくさんの種類の遊具が設置済みだったり、建設中だったりしていた。自然の木を生かした公園だ。アスレチック公園とはそんなものだろうけど、不健康な俺の人生では、出会うことがなかった健康的な施設だ。世の中にはこんな世界があるらしい。
ロープ登りだとか丸太渡りだとかターザンごっこをする遊具などがあるし、俺を誘うように長さ六十メートルの巨大な滑り台が鎮座している。そんな中で公園の真ん中に長くて巨大な吊り橋が、ひと際目立った状態で建設されていた。丸太とロープを使って作られた橋で、おそらく二十メートルはある丸太の橋が、三分割されて作られている。ところどころ隙間があるのは、まだ作りかけなのだろう。ご丁寧にも下は長細い池になっていて、すでに水が張ってある。いや、雨水がたまっているのか。子供が落ちても大丈夫な深さのようだ。だが、落ちればズボンはビショビショだ。そういう、ずぶ濡れになるアトラクションなのかもしれない。子供はずぶ濡れになっても平気だ。逆に大喜びだ。俺にもそういう時代があったから分かるんだ。
俺は薄暗い中、大きな吊り橋の一番奥にまで行ってみた。
よし、奥から手前まで渡ってみようとヒマなことを考えた。
俺はいつも少年のように純粋な心を持っている。
純粋な心のおもむくままに強盗をしている。
何も矛盾していない。
まだ、完成途中のようだがロープを掴んで、揺れる丸太に足をかけてみる。まさか、池に落ちることはあるまい。落ちるところを見られたら恥ずかしいので、一応、周りを見てみる。だだっ広い公園には俺一人しかいない。関係者以外は、あのフェンスの隙間を見つけないと入り込めないはずだし、関係者以外が入ってはいけないことになっている。
バランスを取りながら一歩ずつ不安定な丸太を進んで行く。童心に帰って遊んでみようと思ったが、しだいに面倒臭くなってきた。丸太は揺れて定まらないし、体はフラフラするし、足はガタガタするし、池に落ちそうだ。ちょっと体を動かしただけなのに、明日は筋肉痛になるはずだ。若い頃と違い、すっかり年を取って、バランス感覚も鈍っていることを忘れていた。若い頃から体幹を鍛えておけばよかったなあ。帰宅部だったけど。
アホらしい。さっさと戻ろう。
俺は体の向きを変えて吊り橋を戻ろうとした。手でしっかりロープを掴んで、足でしっかり丸太を踏みしめる。転ばないように体勢を整えた。ところが、いきなりロープが外れて、ほどけた丸太が宙に飛んだ。引っ張られて二本目の丸太も飛んで行く。
――何が起きた!?
バランスを崩して片膝をついたところに、丸太が落ちてきて頭部を強打し、ロープが体にからまって動けなくなった。何というタイミングの悪さだ。
どうやったら、こんな風にロープがからまるんだ?
まるで、罠にかかった獣のようだ。
側頭部から血が流れてきた。
俺はそのまま池に落下した。
静かな公園に、水の音がバシャ―ンと響く。
意外と深い水中で、もがきながら思った。
誰からも見られてないだろうな。
俺はバカのくせにプライドだけは高かった。
敦盛そう子は市民公園の完成予想図を見上げていた。この公園がアスレチック公園に生まれ変わるのを、私はずっと前から楽しみにしている。子供の頃から遊んでいたこの公園には、ホントに小さな子供向けの遊具しかなく、ここよりかなり小さな隣町の公園の方が、よほど充実していることに、子供心にも、ずいぶんと悔しい思いをしてきた。それが一か月後には、大人も遊べるアスレチック公園に変わるという。会社の帰りにここの完成予想図を眺めて、想像を膨らますのが日課となっていた。完成したら、もちろん遊びに来るつもりだ。とっくに子供から大人へ変わっていたとしても、今までの恨みを晴らすがごとく、思う存分に遊んでやろうと心に決めている。運動不足やストレスの解消にもなるし、美容と健康のためにもいい。何といっても、この街の住民は格安で遊べるといううれしいシステムになっているからだ。何と、こんな公園なのに年間パスがあるのだ。市役所に行ってさっそく購入済みで、家の机の引き出しにスタンバイ中だ。今から使うのがとても待ち遠しい。
今日は仕事の帰り、大型スーパーへ買い物に寄った。明日は休み。金曜の夜だからゆっくりできる。そろそろ出始めた夏服をいろいろと物色して帰ろうと思ったところで、テレビでも見たことがある女性カリスマ販売員を見つけた。巧みな話術でたくさんの仕事帰りのお客さんを引きつけていて、二重、三重の人垣ができている。さすがカリスマだ。テーブルの上に並べてある食材を次々に捌いていく。口が達者だけでなく、手の動きも素晴らしい。一連のパフォーマンスが終了すると、周りを取り巻いていた人たちが、次々に商品を買い求めていく。商品の山は次々に低くなっていく。少し離れたところから見ていた私もあわてて駆け寄る。バッグから財布を取り出し、商品を一個掴むと、お札と一緒にカリスマ販売員へ差し出した。
というわけで、いつもより一時間遅めの帰り道。アスレチック公園の完成予想図を見上げる。
あと一か月か。早くできないかなあ。オープンしたら、まずは巨大な滑り台といきたいところだが、巨大な吊り橋で体を慣らすとしようかな。などと思いながら、公園の周りを歩いていると、フェンスが一か所開いていた。大人が一人入れるくらいの隙間がある。どうぞお入りくださいと言われているかのような、ちょうどいい隙間だ。何度も通りかかっているが、こんな隙間はなかったはずだ。工事の人が閉め忘れたのか、不届き者がこじ開けたのか分からないが、ここで私にいたずら心が沸き起こり、ちょっと入ってみることにした。もう日が暮れているから、誰も見てないだろう。一応、あたりを見てみる。誰も歩いていない。貸し切りのチャンスだ。私は隙間から、急いで公園内に入り込んだ。
お目当ての滑り台はまだ建造中で、てっぺんまで登れないようだった。残念だが、お楽しみは後に取っておくとしよう。だったら、二十メートルの巨大吊り橋に挑戦だ。さすがに長くて、三つに分割されている。この三つをつなげて完成するのだろう。あたりはすっかり暗くなっているため、奥の方は遠くて、よく見えない。吊り橋は池の上に吊られていて、落ちたらびしょ濡れだろう。それでも興味が抑えられず、試してみることにする。
私はロープを握ると、一本目の丸太に右足をかけた。ぐらりと揺れる。そのとき、遠くの方で水の音がバシャ―ンと響いた。驚いて丸太にかけた足を戻して、腰をかがめ、すぐに逃げられる体勢を取る。どうやら、奥のあたりで音がしたようだ。こんなに暗いから、工事関係者ではないだろう。私の他に、この公園に不法侵入している人がいるのかもしれない。しばらく様子を見てみる。といっても暗くてよく見えないため、耳をすます。誰かが来れば、猛ダッシュで逃げてやる。元陸上部だから逃げ切る自信はある。
――その後は何も聞こえない。
五分ほど経過したが何も起きなかった。小動物が池にでも落ちたのかもしれない。カラスが家に帰らず、水浴びでもしているのかもしれない。大丈夫だ。そう思うと、私はせっかく渡り始めた吊り橋を、もう少し進んでみることにした。両手で両脇のロープを掴み、不安定でよく見えない丸太を、勘で一本ずつ踏みしめて渡って行く。大変だけど、なかなか楽しい。三分割された吊り橋の一分割目の真ん中あたりに来たところで、私はロープを掴み損ねた。
バランスを崩して足元が揺れたとき、なぜか揺れる橋に結んであるロープから丸太が抜けて、宙に舞い上がった。通り過ぎていた後ろの丸太も跳ね上がった。とっさに頭を下げて避けると、うまい具合に二本の丸太は空中でコーンと甲高い音を立てて、ぶつかり合い、水中へ落下した。
なぜ、丸太が跳ぶの?
未完成だからといって、丸太が飛び上がるはずはない。
そういう仕掛けなのか?
ビックリ丸太というアトラクションなのか?
足元を探してみるが、そういった仕掛けは施されてない。
当然だ。あんなものが頭に当たると大ケガをする。
また、宙に上がった二本以外の丸太は動かず、橋に固定されたままである。
何が起きたのか理解できず呆然としているうちに、今度はロープがシュルシュルと体に巻き付いて来た。まるで生きているかのような動きに、アトラクションの一部かと思ったが、すぐに打ち消す。ロープは私の首にも巻き付き、強力に絞めはじめたからだ。
これは何かの遊びではない。
なぜだか分からないが、このままだと殺される。
早くここから逃げ出さなくては。
運のいいことに、首とロープの間に私の左手首が挟まっていた。とっさに手を出したら、うまくロープにからみ取られたのだ。隙間ができているお陰で何とか呼吸ができている。ここに左手首を挟まなければ、直接ロープが首にかかり、絞め付けられていたはずだ。おそらく、外すことができず、そのまま死んでいたかもしれない。
しかし、ロープが締め上げてくる力はすさまじく強い。
私の手首と首を一緒に締めてくる。
一瞬、大蛇が巻き付いているのではと思い、目線を下げてみるが、ただのロープだ。
ならば、このロープは意志を持っているのか?
自由になっている右手で、巻きついているロープを外そうとするが、ビクともしない。
このまま耐えるのが精一杯で、私の手の力は持ちそうにない。
いきなり、膝の力が抜けて、しゃがみ込んだ。
だが、ロープは構わずに、ぐいぐい締め付けてくる。
このままだと絞め殺される。落ち着け。
この体勢から脱出できる武器はないかと目だけを動かして、あたりを見渡してみるが、何も見当たらない。首が締まっていて大きな声は出そうにない。出たとしても、人通りが少ない場所だ。誰も気づいてくれないだろう。誰もいない公園を勝手に無料貸し切りにして、遊んでいたため、バチが当たったのだろうか。
こんな薄暗い所で、誰にも知られず死にたくない。
公園で孤独死なんて、したくない。
年パスをまだ一回も使ってないのに。
せっかく元を取ってやろうと思っていたのに。
何とか生き延びようとジタバタしているうちに、右手がショルダーバッグに触れた。
そうだ。さっき買った…。
首と一緒に、ロープに巻き取られている左手に力を込めて、気道を確保しながら、バッグの中を右手でかき回す。手の先に目当ての物が当たる。包装紙を破り、箱に爪を突き刺し、中身を取り出す。よし、うまく取り出せた。簡易包装に感謝しよう。
私はそれを握り直すと、バッグから取り出し、首に巻き付いたロープに押し付けた。
カリスマ販売員から買った何でも切れる万能包丁は、このロープでも切れるのか?
頼むよ、カリスマさん!
私は最後の力を振り絞った。
後編へつづく。
右京之介
その遺体には胸から腹にかけて奇妙な傷が七つも付いていた。
検死官助手の赤穂は、ステンレス鋼製の検死台の上に横たわっている男の紺色のポロシャツと白色のアンダーシャツを、慎重にハサミで切り取って剥がし、裸の胸を露出させた。
男の名前は尾形武。年齢は二十八歳。大手金融会社に勤務。二十代にして手に入れたマイホームのリビングのソファーの上で、一人寂しく死んでいた。
結婚して一年。まだ新婚と呼べる時期に、なぜ彼は死ななければならなかったのか?
そのとき、妻はどうしていたのか?
子供はどうなったのか?いや、そもそも子供はいるのか?
この後、新築の家はどうなるのか?――そこまで具体的に事件の概要は聞いてなかった。
――傷が見えた。
赤穂はその傷を見てぎょっとした。
長さ五センチくらいの横向きの黒ずんだ傷が、胸の真ん中からヘソの下あたりに向かって、ハシゴの階段のように、七つ並んで付いていたからだ。そして、傷の周りには木くずのような物がたくさん、こびり付いている。
――なんだ、これは?
こんな傷跡は実際に見たことはないし、写真でも見たことはないし、法医学の講義でも習った記憶はなかった。七つの傷が上から下へと続いている。傷の横の長さはほぼ一定だが、それぞれの傷の間隔は一定ではない。約四センチから約七センチ開いていて、狭い箇所があれば広い箇所もある。不謹慎だが、何らかのモニュメントに刻まれたデザインのように見える。犯人による何かのメッセージかとも思ったのだが、ミステリーじゃあるまいし、現実にそんな猟奇的な事件は起こりにくい。胸に北斗七星と同じ星の配列で、七つの傷を付けられた男が主人公の漫画があったが、丸い星の代わりに、横棒にして傷を付けた?まさか、そんなことはあるまい。頭の中にいろいろな可能性が沸き出しては、非常識が過ぎると判断して、次々と打ち消して行く。
何がどう当たればこんな傷ができるのか?
七つの突起がある金属の長い板の上に、うつ伏せの状態で落下したのかと思ったがそうではないようだ。胸の辺りの傷ならそれも考えられた。自分の体重によって、突起に突き刺ささる可能性があったからだ。しかし、ヘソの辺りの傷はどうか。同じ形状の同じくらいの大きさの傷がついているが、お腹には胸と違って弾力がある。見たところ、ガチガチになるくらい腹筋は鍛えられていない。むしろ、脂肪が乗っていて、ややお腹が出ているとまで言えそうだ。しかし、深さからしても、七つの傷には均等に力が加わったように見える。
やはり、違う。この仮説なら胸の部分とお腹の部分でかかる力により、七つの突起の大きさが違わなければならない。そんな都合のいい金属板があるのか?
赤穂は傷に顔を近づけた。慎重にデジカメで接写する。一見して切り傷だと判断した。血は凝固して赤黒く変色している。しかし、この傷が致命傷となったかどうかはまだ分か
らない。傷の横幅は五センチくらいだが、縦は五ミリほどしかない。しかし、深さがあった。しかも、かなりの深さだ。正確な傷の深さを測定しようとして再び驚いた。どう見ても、内臓まで到達している。
幅が五センチほどもある包丁か何かで、グサグサと突き刺されていた。
切り傷ではなく、刺し傷であった。
変わった性癖の人間がこの男を痛みつけるために、一本ずつ傷を付けていったのか?
フードをかぶった得体の知れない人間が、ニタニタ笑いながら、包丁で突き刺していく姿を、一瞬想像したが、すぐに打ち消す。ありえない。B級ホラー映画じゃあるまいし。
ならば、何かを白状させるための拷問か?
何者かが、なかなか口を割らないこの男のために、傷を七つも付けてしまったのか?
白状させるために、爪を一枚ずつ剥がしていくという拷問がある。しかし、被害者は見たところ、真面目そうな身なりと風貌をしており、そちらの世界の人間には見えないし、暴力団関係者との報告は受けていない。見たところ、体に入れ墨も入っていない。
それに、傷の回りに付着している木くずは何だ?
傷と何の関係があるのか?
もし、拷問だとしても、その関係が分からない。
では、ヤクザがカタギに手を出したということか?
確かに、ヤクザも景気が悪いためか、カタギ相手の犯罪も増えているが。
では、七回刺されたところで白状したというのか?
それとも、最後まで口を割らずに命を落としてしまったのか?
――いや、それはない。
なぜなら、この男は一人で死んでいたのだ。家中のすべての鍵が内側から施錠された状態で、ソファーに横たわったまま死んでいたのだ。しかも、テレビをつけっぱなしにした状態で、テーブルの上にコーヒーが入ったマグカップを置いたまま…。
まさか、自傷ではあるまい。こんな変わった場所に傷を付けるか?ここまで傷つける理由は何か?ためらい傷らしきものはなく、一気に七つの傷を順番に付けていったのか。包丁で自分の体をグサグサと突き刺していったのか。まるで、自分の体を使って、何かの芸術作品を作るように。あるいは、DIYでも楽しむかのように。
そんな人間が存在するのか?
ならば、その凶器はどこへ行った?
室内から凶器は見つかってないとの報告は受けている。
遺体には七つの刺し傷が付いている。すべてが深く、すべてが致命傷に至っているように見える。しかし、それにしては出血量が少ない。先ほど見せられた現場の写真には、血が流れた、あるいは噴き出した跡が見られない。絨毯には何の汚れもなく、横たわっていたソファーもきれいなままなのである。だから、他で殺されて、家に運ばれたのではないかという見解も出てきているという。
それとも、この傷が死因ではないのか…?
他にどこか傷があるのかもしれない。まだ見ていない後頭部か、背中か。いや、外傷とは限らない。ひょっとしたら、内臓に何らかのダメージを受けているかもしれない。
しかし、まずはこの七つの傷を見なければ…。
さらに顔を近づけて、その傷を念入りに観察していた赤穂は再び、ぎょっとした。
いや、そんなはずはない。
赤穂は上から下へと続く七つの傷をもう一度丹念に調べてみた。
――いや、間違いない。
デジカメを掴もうとするが、体が震えてできない。
だめだ、これは手に負えない。
赤穂は教えを乞うている師匠格の宝永に声をかけた。
「教授。ここを見ていただきますか」
近くから見守っていた宝永教授がゆっくり歩み寄って来た。定年間際である法医学の師匠だ。体は大きく、最近は見かけないごつい黒縁の眼鏡をかけている。ヘアキャップの中の髪はすべて真っ白になっていた。長年の苦労の跡が伺える。
「どうした?」
宝永が遺体を足先から頭の先までゆっくり見渡した。
何らかの異常を見つけるように。
赤穂の声が震えていたことに気づいたのだろう。
「胸から下腹にかけての七つの傷ですが、体の内部から外部に向かって付けられたみたいです」
「えっ、どういうことだ?」
宝永は傷に顔を近づけた。横から見るとメガネのレンズの分厚さが分かる。極度の近眼
である。横から赤穂も覗き込む。邪魔にならないように距離を取りつつ、宝永からのアドバイスを一言も聞き洩らさないように耳をそばだてる。あるいは、こんなことも分からないのかと、叱責を受けるかもしれないと思い、全身が緊張する。こわごわ、横顔と七つの傷口を交互に見つめる。もはや初老に差し掛かっている宝永の言葉は、今までの長い経験と豊富な知識に裏打ちされており、常に的確であり、はずれることはない。
ゆえに、師匠格なのであった。
宝永は一つ目の傷口を見る。
二つ目、三つ目、四つ目、五つ目、六つ目、七つ目と下がっていく。
やがて、すべての傷の確認を終えた。
「――なんだ、これは?」教授の声が裏返りそうになった。
常に沈着冷静であり、どんな遺体と対面しても表情の一つも変えない宝永のこんな声を聞いたのは初めてだ。赤穂の腕には鳥肌が立ち、背中はぞっとした。と同時に、赤穂は自分の観察は間違っていなかったと分かり、反面ほっとした。
すべての傷口の周りの皮膚が立ち上がっていた。
外部から傷つけられた場合、周りの皮膚は内部へとめり込む。しかし、この傷口の皮膚は内部から押し出されて、ささくれ立っているように見える。
突き刺した凶器を、すばやく抜き取ればこうなるのではないか?
凶器に皮膚がくっ付き、そのままささくれ立つ。しかし、七つの傷がすべて内部から外部へと刺されたように見えているのはなぜか?まるで凶器が体内から体外へと突き出てできた傷のように見えているのはなぜか?
宝永は困惑の表情のまま、立ち会っていた岩鏡に声をかけた。
「警部、ちょっと来てもらえますか?」
岩鏡警部が大きなお腹を揺すってやって来る。その後ろからは同僚の打水刑事がスリムな体型をさっさと動かして付いてきた。定年間際の岩鏡とまだ二十代後半の打水。今回の事件を担当しているベテランと若手の凸凹コンビだった。
事件は昨日の午後に起きた。通報してきたのは新婚の妻だった。家に帰ってみたら、夫がソファーで寝たまま起き上がって来ない。脈をとってみたが動いてない。心臓も動いてない。息もしてない。人工呼吸を試みてみたが何も変化がないという電話だった。
すぐに救急車が向かったが、すでに心肺停止の状態だった。家の鍵がかかっていたため、妻はまだ犯人が居るのではないかと思い、家中を探し回り、クローゼットの中まで見てみたが、何ら異変はなく、荒らされた跡はなく、動かされた物も盗まれた物もなかったという。スマホはテーブルの上にマグカップとともに並べてあったのだが、直前に電話やメールを使った形跡はなく、また、犯行に結びつくようなサイトにアクセスした形跡もなかった。その後、警察の事情聴取が行われ、第一通報者の妻が疑われたが、その日は朝から近所の実家に行っていて、実母と一緒だったことが分かり、死亡時刻のアリバイは成立していた。また、被害者の夫婦関係や義母との関係は良好であり、妻の実母が共犯という可能性も否定された。まだ子供はなく、引っ越してきてまだ二か月しか経っておらず、近所の知り合いは多くなく、聞き込みは簡単に済んだが、何も引っかかることはなかった。また、職場での勤務態度はよく、遅刻や欠勤もなく、人間関係も問題はなく、今のところ何らトラブルは確認されていなかった。
ただ、金融会社に勤務している関係で、知らず知らずのうちに顧客から恨みを買っている可能性はあったが、はっきりしていない。その点は会社に調査を依頼しているところだった。殺人事件ということで捜査が進められていたが、なぜ殺されなければならなかったのかは不明のままであり、今日まで容疑者も不明のままであった。
妻の留守中、盗みに入った犯人が夫である被害者と鉢合わせして、何らかの凶器で体に七つの傷を付けて、何らかの方法で外から施錠して逃げた。誰もが、こんな突飛もないストーリーしか思い浮かばなかった。
宝永検死官に呼ばれた岩鏡警部は「おう、教授、どうした?」と気さくに聞いてきた。
二人は数々の事件に立ち合ってきた旧知の間柄である。宝永は死体の傷口を見せながら分かりやすく説明をした。二人の刑事は熱心に並んだ傷を覗き込むが、しだいに表情が険しくなってくる。若手の打水刑事はあわててメモを取り始める。
「この七つの傷はすべて内部から外部に向かって、つまり、横たわった状態だと下から上に力が加わっておるんだよ。体内から凶器が突き出て、引っ込んだとでも言えばいいのか。解剖して詳しく中を見ないと分からんのだが…」
宝永は困惑気味に説明するが、傷口をじっと見ていた岩鏡は言葉を遮った。
「――分かったぞ!何かこう、突起した部分が七つ並んでる金属の棒を仰向けのまま飲み込まされたのだろう。多少は曲がる細くて薄い棒をスルスルっとな。手品師が剣を飲み込むだろ。あれだよ。それで飲み込んだ後に上からグシャリと押しつぶす。七つの突起の部分だけが体内からブスッと突き出る。その後、金属棒を引き抜いた。するとこんな並んだ傷ができる。どうだい、教授?」
岩鏡警部がマスク越しに大きな声で自信満々に説を唱える。
しかし、宝永検死官はすぐさま否定した。
「いや、ヘソの下の辺りまで傷は付いてますから、多少は曲がる棒をまっすぐに飲み込んでも、先端は胃腸が邪魔して、そこまで到達しませんよ。それに口内や喉にはそのような何かの棒状のものとか、突起した部分が通過したような傷は一つも見当たりませんから」
岩鏡はしばらく考えたのち、諦めずに別の意見を自信満々に述べる。
「――じゃあ、あれだ!体内で何かが爆発したんじゃねえか?七つの小型爆弾が仕掛けられて爆発したとか、腐敗して発生したガスが何かに引火して爆発したんじゃねえか。それでボンボンボンボンボンボンボンと七回破裂して、内側から外側に向いた傷が七つできたんだ。違うか、教授!」
「それだと、こんなほぼ等間隔に傷はできないな。しかも、傷がきれいに縦一列に並んでいる。そもそも体内にそんな仕掛けを施すことは不可能だし、死んですぐに腐敗ガスが体内に充満することはない。爆発したような焦げた跡もないよ。だいたい殺すのであれば、金属棒を飲まるとか、爆弾を仕掛けるとか、そんな面倒なことをする必要はないだろうよ。台所にあった包丁で一突きすればいい」
宝永にことごとく否定されるが、岩鏡は懸命に知恵を絞る。捜査一課刑事の腕の、いや、頭脳の見せ所である。若手の打水刑事は隣に立ったまま冷や冷やする。いつも岩鏡警部はろくでもない推理を述べては、外しまくっているからだ。宝永と同じく定年間際であり、今までの刑事としての豊富な知識と経験があるのだが、下手な鉄砲はいつも当たらない。かすりさえしない。宝永検死官もそれには慣れているはずなのだが、今回は特にヒドい内容で、ベテラン刑事とは思えない推理が続く。ご自慢の知識と経験はどこへやら。
「そうだなあ。――あっ、分かった!体の中から七匹のエイリアンが出てきたんじゃねえのか!ピョンピョンピョンとな。教授はあの映画を見てないのか?」
宝永は黙り込んだ。助手の赤穂も黙ったままだ。
岩鏡のとんでもない説に辟易したのか?
この傷の正体に考えを巡らせているのか?
打水刑事は室内の床をキョロキョロと調べ出した。まさかとは思うのだが、岩鏡の説を擁護しようと、エイリアンが這った跡を探していたのだ。本当にエイリアンなら、ナメクジが這ったような跡が付いているはずだ。
もちろん、そんな跡は見当たらなかった。掃除の行き届いた清潔な壁と床だ。
まさか、天井から逃げたか!?
グルリと上を見渡すが異常はない。
シンプルな部屋だ。他に隠れるようなところはどこにもない。
パイプが張り巡らされていたり、複雑な機械が設置されていたりはしない。
ここは宇宙船内部ではない。奇妙な形跡は見当たらない。
「警部、エイリアンなんていませんよ」
同じように部屋中を見渡していた岩鏡が振り向く。
「いないか」本気でがっかりする。「いや、待てよ。この男のポロシャツと下着は赤穂君が切ったのだな」
「はい、そうですが…」突然、自分の名前を呼ばれた赤穂が驚いて答える。
「服に異常はなかったか?何物かが食い破った跡があったとか、ネチャネチャとした液体が付いていたとか、異臭がしたとか」
「そんな不気味なことはないです。穴一つ、開いていないのを確認した上で服を切断してますから。服を切断して初めて傷が見えたのです。そのポロシャツも下着もここにあります」
手で近くの台を示す。それらは広げて置いてあった。
「――ということは。体内からエイリアンが飛び出したわけではないと。うーん…」
岩鏡は腕を組み、頭をかしげる。
「警部さんよ」あまりにもバカバカしい論争に焦れた宝永が念を押す。「これらの傷はここに運ばれてきたとき、すでについていたのだよ。赤穂がそう言っておる。体の皮膚と服を同時に食い破って、変な生き物が登場したわけではないよ」
それでも納得いかない警部はまだあきらめない。
「――そうだ!肝心なことを忘れておったわ。傷のことはさておいて、エイリアンはまだ被害者の自宅にいるんじゃないのか!?エイリアンが巣作りをしておるんじゃないのか?奥さんが危険じゃないのか!?今頃、襲われてるんじゃないのか?奥さんは一人で反撃できるのか?恐ろしい武器でも携帯しておるのか?」
「警部!」今度は打水が口をはさむ。あまりのトンチンカンに語気も荒くなる。「自宅は昨日、鑑識と警部と私で徹底的に捜索したじゃないですか。被害者が寝ていたソファーをバラバラに分解してまで調べました。天井裏や排水溝の中までも丹念に見ました。エイリアンの巣なんてありませんでした。それに奥さんは署で事情聴取を受けていて、気落ちはしてましたが、正常というか、人間として無事でした。つまり、体をエイリアンに乗っ取られているようには見えませんでした」
「――ああ、そうだったな。じゃあ、エイリアンはいなかったというわけだ。――エイリアンじゃないとすると何だ?プレデターの可能性はどうだ?」
「ありません」
「あいつは目に見えないぞ」
「でも、ありません」打水は冷静だ。
警部はまた腕を組んで考えるが、もはや出尽くしたようで、いい知恵は浮かばない。
「宝永教授の方では何か分かったかね?」あきらめて、専門家に助けを求める。
助手の赤穂と遺体を見ていた宝永だったが、その顔は険しいままだ。
「おそらく、死因はこの七つの傷からの失血死だろう。これだけの深い傷なら相当の出血があったはずだ。しかし、どうやってこの傷が付いたかは、今のところ分からんし、傷の周りに木くずが付着している意味も分からん」
「うーん。教授でも分からんか。まあ、容疑者からエイリアンとプレデターが外れただけでも良しとするか。いくら日本の優秀な警察でも宇宙の果てまでは追えないからな」
その後、解剖を続けた結果、被害者の肺と胃に大きな穴が開き、その中には大量の木くずと木片が詰まっていたことが分かった。また、肺と胃の穴から木くずが噴出して、体の皮膚を突き破って、体外に出て、あの七つの傷を形成したと思われた。
なぜ、肺と胃の中に木くずや木片が詰まっていたのかは分からなかったし、それらの一部がどうやって体の外へ飛び出したかも分からなかった。
その古民家は奇妙な造りをしていた。
市から委託を受けた解体業者の坂口は、当該物件を見上げて唖然とした。家の中から屋根を突き破って、一本の大きな木が外に突き出ていたからである。高さは二十五メートルくらいあるだろう。屋根の上を、葉っぱを付けた枝が覆っていて、傘をさしているようだ。あまりの珍妙な現状のため、口をあんぐり開けたまま、立ち尽くす。五年間ほど、この解体の仕事に従事しており、崩れ落ちそうな木造三階建の家や小動物の住処になっている家など変わった物件をいくつも見て来たが、大木に貫かれたような家は見たことがなかった。
家を建てた後から木が成長して屋根を突き抜けたのか?
もともとあった木を囲うようにして家を建てたのか?
常人には理解できない現代アート作品などといった代物か?
車を止めた場所から眺めただけでは分からない。
「親方。何だい、あの屋根から生えてる木は?」
雇っているベテラン職人の三郎に声をかけられて、坂口は我に返った。
親方といっても、老齢で引退した父親から引き継いだ会社の、まだ経験の浅い代表に過ぎない。他の職人はみんな経験豊かな年上の男たちである。父親の代から勤務している人たちだから、親方が息子に代わっても気兼ねなく働いてくれている。このベテラン職人の三郎も木を見て驚いているのだから、めったにあることではないのだろう。
「おう、俺も何だろうと思ってたんだ」坂口は答える。
「見た感じはケヤキだなあ。よくもまあ、こんな環境の元で、でっかく成長したもんだなあ」
三郎が手に軍手をはめながら言う。
ケヤキはニレ科の落葉高木で、大きいものは高さ四十メートルに達する。今いる場所のような山地に自生するが、防風のため人家に植えられていることもある。
「ケヤキは防風によく使われるが、まさか真上から風は吹き下ろさんだろう。いったい何だね、親方?」三郎がまた訊いてくるが、坂口にも分からない。
「まあ、とりあえず、中に入ってみるか。――みんな、行くぞ」
坂口は資料を手に、職人たちを引き連れて家に向かう。
いったい中はどうなってるのか?
坂口は少しワクワクしてきた。
2015年に「空家等対策の推進に関する特別措置法」が施行されたことにより、倒壊の危険性がある空家は強制撤去できるようになった。
今回の物件に関しては、所有者が死亡により放置されていた空家であり、相続人はいなかったため、強制的に解体することが決まった。築六十年越えの平屋建てなのだが、手入れもされておらず、風雪にさらされていたため、屋根の一部は捲れ上がり、壁は剥がれ落ち、玄関の扉は鍵が壊れ、半開の状態であり、雨戸も外され、畳がボロボロになっている室内が見えていた。どこかへ運び出されたのか、家具や電化製品などは何もなく、ガランとしている。人が住まなくなると、当然、家の手入れはされなくなり、荒れて行く。それに加えて、自然に朽ち果てていくものである。
坂口はこんな風景を見るといつも寂しい気分になった。
だが、この建物自体の解体は難しくない。
二百万円の解体費用は市が全額負担することになっている。
つまり、取りっぱぐれはない。
坂口の寂しい気分も、少しだけ紛れるというものだ。
台所、風呂場、便所以外の居住スペースは、八畳の部屋が三つ並んでいるウナギの寝床のような細長い間取りをしていた。その真ん中の部屋の中央の畳を大きなケヤキが突き破り、その先は天井を突き抜けていた。周囲は約250センチ。大きいケヤキとなると周囲が300センチにもなるが、これも大きい方である。ケヤキはまるでこの家の大黒柱のようにそびえ立っているが、家を支える柱の役目は、あまり果たしていない。逆に、家がこの木を取り囲んで、大切に守っているように見える。
「なんだか、ご神木のようだなあ」三郎がつぶやく。
「三郎さん、上の方に縄みたいなものが巻き付けてあるが」坂口が言う。
ケヤキの幹の上の方に、朽ちて今にも切れそうな縄が巻かれている。
「ああ、やっぱりご神木だ。あれはしめ縄だ」
「なんで、家の中にご神木があるんだ?」
「ご神木といっても正式なものではなかろう。この家の住人がしめ縄を巻きつけて、勝手にご神木として崇拝していたんじゃないかね。木の成長とともにしめ縄は上に行って、届かなくなったということだな。あるいは定期的に巻き直したかだな」三郎は木の根元を見渡す。「親方、これを見てみろ」
床には千切れた紙切れが数枚貼り付いている。
「茶色く変色しておるが、しめ縄にぶら下げる紙垂だ。千切れて落ちたのだろうよ。――まあ、個人で拝んでおったのだから、この木を切ってもバチは当たらんだろ」
「…そんなもんか」
坂口は不服そうだが、周りの職人たちは年配者である三郎の話に頷いている。木の周りを囲む畳と天井の部分は鉄板で補強が施されているが、木の成長に合わせて、取り換える必要があっただろう。手間をかけて育てていたことが伺える。
「親方、結局、この木をどうするかね?」
三郎がケヤキを見上げながら訊いてくる。坂口が生まれる前から働いている職人といえども、この家屋を見て、全員が驚いている。何と言っても、大木が部屋のど真ん中から屋根を破って生えているのである。珍しくてしょうがない。こんな奇妙な家と木には、初めてお目にかかるのだろう。物珍しそうに触ったり、叩いたりしている。
「いや、俺もこの木の処理のことは聞いてない。ちょっと待ってくれ」
床下に潜り込んでいた為さんからも声がした。
「親方!確かに地面から生えてますわ」
「そりゃそうだろ!何を寝ぼけてるんだ、為さん」潜るまでもないと、他の職人が茶化す。「こんなにデカい樹木だ。しっかり根を張ってるだろうよ」
坂口はしばらくの間、資料を片手に家の中を見渡していたが、この奇妙な造りに、どうやって対処するのか考えても分からない。
「市の担当に訊いてみるから、待ってくれ」
「分かりました」みんなは木を見上げたまま返事をする。
「おう、分かったぜ!」床下にいる為さんからも返事が聞こえた。
親方の坂口も、この木のことは聞いておらず、判断がつかなかったため、市の建築指導課の担当者である亀戸課長に電話を入れた。解体の邪魔になるのだから、切り倒してもいいのだろうけど、後になって文句を言われたらたまらない。その辺はちゃんとしておかないと、お役人という奴らは何かとうるさい。あいつらは何にしても、責任を取りたくないんだ。
「もしもし、課長さんかい。坂口だけど。山の中の現場に着いたのだが、なんだか、家の中から屋根を突き破ってデカい木が生えてるぞ。どうすりゃいいんだ?」
亀戸課長は現地調査をしているはずである。当然、この木のことも知っているはずだ。しかし、我々解体業者には何も知らされてはいない。簡単な資料を渡されただけで、さっさと解体しろという。しかも、安い賃金でだ。こっちは職人を引き連れて、重機を転がしながら、わざわざ山の中まで来てやってるんだ。まったく、弱小解体会社が相手だからといって、足元を見て、いい加減な仕事をしやがる。これだから公務員は嫌いなんだよな。
あの野郎――亀戸の陰気臭い顔が浮かんでくる。
坂口はスマホを耳に当てたまま、時折、その木を見上げて、何度も頷いている。何か、文句を言いたいのを我慢しているようにも見える。だが、なかなか通話が終わらない。やがて、職人たちが焦れ始めた。
「亀戸の奴、何をしゃべってるんだ」
「さっさと決めりゃいいのによ」
向こうに聞こえないように小さな声で言う。
先ほどから、坂口の口は動いてない。亀戸が一方的に話しているのだ。
「解剖?」
坂口から久しぶりに聞けた言葉がこれだった。
「今、親方は解剖と言ったよな」職人がざわめく。
「俺もそう聞こえたぞ。何だ、気持ち悪いな」
また、しばらく、坂口が頷くだけの時間が経過する。職人は待つしかない。
「この現場はダメになったんじゃないのか?」
三郎が冗談を言ったところで、ちょうど親方の電話が終わった。
「親方、えらく長い電話でしたが、何か不都合でもありましたか?」
「いや、気にするな。何でもない。――さあ、仕事を始めようや」
坂口は周りに集まっていた職人たちに言った。
「よーし、ぶっ倒していいそうだ。さっそく取り掛かろう。まずは三郎さん、東側から重機を入れてくれ。建屋を壊してから、基礎を砕いて、最後にこのケヤキを倒そうや」
坂口は解体手順を簡単に説明すると、手をポンポンポンと三回叩いて気合を入れた。
「みんな、今日も安全第一で頼むわ!」
「はいよ!」あちこちから返事が聞こえた。
「おう!」為さんはまだ床下にいるらしい。
解体作業は朝早くから一日がかりで行われた。解体後の建築物をしっかりと仕分けする分別解体なので時間がかかったが、これは法律で決められた解体方法なので仕方がない。
床下から這い出た為さんは、次に屋根へ登って、空に向かって突き出ているケヤキの枝葉を、チェーン・ソーや斧やのこぎりを使い、切り落とした。その後、家屋が解体され、地面はならされて、バラした廃材がトラックに積み込まれた。山間に響いていた重機の音も止み、敷地の中央にそそり立っているケヤキのみが、むき出しで残った。
「さて、最後のお楽しみ。こいつに取りかかるとするか。みんな、頼むぞ!」
坂口がヘトヘトになっている職人たちに最後の気合を入れた。これを倒せば今日の仕事は終わりだ。家に帰ると楽しい晩酌が待っている。
「日が暮れるまでにやっつけるぞ!」数人が呼応した。
「おう、やるぞ!」為さんも片手を突き上げた。
もう、床はなくなっている。為さんは地上の人だった。
新入りの二人が大木の根元を固めているコンクリートを電動ハンマーで破砕しているとき、ヒジが当たったか何かで、ケンカが始まった。他の職人たちが止めに入るも、興奮した一人が電動ハンマーを振り回し、その先を大木に突き刺してしまった。
「バカ、何をやってるんだ!この木は売り物だぞ!」
坂口の一言でケンカは止んだが、大木には穴が開いた。
――やばいな。
坂口は穴を覗きながら独り言を言う。
「親方、すいません」と穴を開けた奴が謝ってくる。
「ケンカなら仕事が終わってから、他所でやってくれ!」
「すいません」とケンカ相手も謝る。
「それと、商売道具で遊ぶな!お前たちにケガでもされたら、会社は業務停止か最悪、廃業に追い込まれる。責任を取れと言われても無理だろ」
「はい。申し訳ありません」二人は大きな体を小さくして、もう一度謝る。
「分かったなら、仕事を続けてくれ。この木を倒したら今日は終わりだから」
あまりにしょげているので、許してやることにする。作業はまだ続くのだ。
ここは山の中にポツンとある一軒家だった。かつて、この集落には三十軒ほどの家があったのだが、時代の流れとともに減少し、たった一軒残ったのがこの家だった。最初は夫婦で住んでいて、畑仕事をしていたのだが、夫が亡くなり、妻一人となり、それでも十年ほどは一人で暮らしていたようだが、やがて、その妻も亡くなり無人と化したのである。
家の真ん中にそびえる木は、いつしか自然に生えてきたという。確かにケヤキは自生するが、家の中から生えるのは珍しい。引っこ抜くのも忍びないとそのままにしていたら、どんどん成長して天井を突き破ったらしい。街の工務店に連絡をして天井と畳を直してもらっていたが、木の成長は早く、定期的に補強する必要があった。その補強も妻の死去とともに、行われなくなった。夫婦には身寄りがいなかった。この家に住もうという奇特な人もいなかったため、主のいなくなった家は荒廃し、今にも崩れそうな状態にまで悪化した。
その後はどこで聞きつけてきたのか、週末となると、ヒマな若者たちが心霊スポットとして肝試しに訪れるようになり、ボヤ騒ぎまで起きるようになった。その結果、安全面を考慮し、廃屋を朽ち果てるまで放置できないとして、市による強制解体という手続きが取られたのである。
坂口が先ほど亀戸課長から電話で聞いた事情であった。
しかし、坂口はこの話を信用してなかった。
たった一代でケヤキがこんなに大きく成長するはずがない。
雨後のタケノコじゃあるまいし。
どういう育て方をしたらこうなるのか。
どういう栄養を与えたらこうなるのか。
学校のプールを縦にすると、これくらいの高さになる。
いくら愛情込めて育てたからと言っても、愛情だけでこんなに巨大化するものなのか。もしかしたら、育てていたおばあさんが遺伝子操作をして、異常な品種を作り上げたのかと思ったのだが、ひそかに山の中で怪しい実験をしているマッドサイエンティストじゃあるまいし、結局、亀戸がいい加減に話をデカく盛ったと解釈するのが、一番説得力があると思った。
あいつは公務員のクセに不真面目な奴だからな。
アリみたいな小さな話を、ゾウみたいにデカく話す。いつものことだ。
高さ二十五メートルのケヤキは大きな幹だけになって突っ立っている。職人全員で力を合わせて根元付近に切れ目を入れた。周囲は約250センチあり、このまま切断するには時間がかかるため、ロープでグルグル巻きにし、最後は重機を使って、力任せに引っ張り倒すことにした。重機の轟音とともに大木が傾いていく。それを職人たちが見守る。周りには何もないので、気を使う必要はない。思いっきり倒してくれと、親方からの指示も出ている。
そのとき、坂口は重機の音に交じって、大木から悲鳴のような叫び声を聞いた。
職人を見るが、誰も気づいていないようで、何とも言わない。
気のせいか?坂口は首をひねる。
そうだろうな。木が声をあげるわけはない。
しかし、木がしだいに傾いていく音とともに、再び悲痛な声が聞こえてきた。
だが、職人は黙って、木を見つめたままだ。
――ケヤキが泣いている。
坂口はそう思った。
なぜ、自分にしか聞こえないのか分からない。
だが、確かにケヤキは泣いている。
木といえども、生き物だ。切られると痛いのだろう。
死にたくはないのだろう。
亀戸課長さんよ、この木は切り倒したらダメだったんじゃないのか?
このまま自生させておけばよかったんじゃないのか?
坂口は心の中で問うた。
ゆっくりと倒れていく大木を見て、坂口はこの木を育てていたという女性に対しても、申し訳なさで一杯になった。これはおばあさんが、おじいさん亡き後、一人で丹精を込めて育てていたケヤキらしい。しめ縄を巻いてあることから、ご神木として拝んでいたのかもしれないし、子供がいなかったおばあさんにとっては、この木が子供代わりだったのかもしれない。一人で亡くなっていたというおばあさんは、息を引き取るとき、この木のことを気にかけていたかもしれない。自分の神様、あるいは夫や子供のような存在だったこの木を、ここに置いたまま旅立って行くことに、後悔や悲しみはなかったのだろうか。この木が切り倒されたことを怒ってはいないだろうか。しかし、木をこのまま放置しておくわけにはいかなかった。お役所から受けた仕事である。断わるわけにはいかない。断ったら、次の仕事を回してくれないからだ。小さな会社にとっては致命的だ。会ったことはないおばあさんは、俺たちのそんな事情を分かってくれるだろうか。
そして、坂口は先ほど亀戸から電話で聞いた話を思い浮かべた。
「郵便屋さんが配達に行ったとき、台所で倒れて、亡くなっているおばあさんを見つけたのですよ。いわゆる、孤独死というやつですね。最初はてっきり、ただの病気だと思われたのですがね。体を見てみると、無数の傷がありましてね。これは事件じゃないかと、解剖に回されたのですよ」
「解剖?」坂口は驚いて訊く。
「はい。変死ではないかと思われて、司法解剖に回されたのですよ。しかし、何も異常はなかったのです。死因は心不全と判断されました。体中の傷は死因とは関係ないようです。では、何かというと、正体不明です。古い傷もあれば、新しい傷もある。おそらく、カッターかナイフで切ったのではとのことです。自傷かもしれません。そんな山の中に一人ぽつねんと住んでいると、死にたくなるのかもしれませんね」
そんなことないだろと坂口は思った。
アンタと違って、戦時中を生き伸びた人は強いんだと言ってやろうかと思った。
「いわく付きの家だけど、しっかり作業を頼みますよ。ケヤキは丁寧に扱うように、他の職人さんにもよく言っておいてください」
おばあさんの詳しい事情は職人に黙っていた。
亀戸の言うことは、話半分にしておいた方がいいからだ。
最後に残ったケヤキを職人全員の掛け声とともに、親の仇のようにブッ倒した。切り倒した後に残った根っこの部分は、ショベルカーを使って掘り起こし、焼却処分するために、細かく切断されて、トラックへ積み込まれた。その跡に空いた大きな穴は元通りに埋められた。一連の作業が終わり、坂口はホッとした。亀戸からいわく付きの家だなどと聞かされたため、何かが起きるのではと心配していたからだ。
坂口は、おばあさんと倒したケヤキの両方から俺たちを恨むのはやめてほしい。
ケヤキとおばあさんのダブルのタタリはやめてほしいと思った。
おばあちゃん、頼むから俺の枕元には立たないでくれよ。
「親方、どうしたんですか。手なんか合わせて」
三郎に声をかけられて、我に返る。
坂口は無意識のまま、倒れているケヤキに向かって手を合わせていたようだ。
「えっ?あっ!」自分でも驚く。「まあ、ご神木代わりに育てていたようだから、拝んでおいた方がいいだろうと思ってな」
「この跡に家を建てるのなら、解体後の地鎮祭も必要でしょうが、更地のままならいらないんじゃないですかね」三郎は言うが、
「三郎さんよ、親方が気になさってるのだから、ちょこっと、やっとこうや」
為さんが提案した。
結局、職人全員で倒したケヤキと土地に向けてしばらく手を合わせて、おばあさんの霊もケヤキの霊もちゃんと成仏するようにお願いをした。
こうして、簡単に地鎮祭を済ませた。そして、ケヤキを大型トラックに積み込み、最後に全員であたりの掃除をして、奇妙な古民家の解体作業を終えた。
「親方は信心深いからなあ」為さんは冷やかす。
「そんなことないだろ」坂口は照れるが、
「軽トラの中はお守りだらけだもんな」追い打ちをかけられ、
「ボロボロのお守りがいっぱいぶら下がってるしな」トドメを刺される。
「親方。古くなったお守りは取り換えた方がいいらしいですよ。一年くらいで」
「おう、そうなのか。どうすりゃいいんだ?」
「神社に持って行って、お焚き上げをすればいいんですよ」為さんが教える。
「おう、そうか。お焚き上げと言うのか。さっそく行ってくるか。――さあ、今日はこれで終わりだ。明日、俺がこの木を材木屋に持って行って、この現場は終わりだ。みんな、お疲れさーん!」
「あー、終わった、終わった」
ヘルメットと軍手を脱ぐと、手拭いを片手にワゴン車へ向かって笑顔で歩き出した。
「親方、お疲れさんでした!」
トラックにケヤキを乗せて帰る親方に、職人たちは挨拶をして帰って行く。
すでに、みんなの頭の中は今夜の晩酌のことで一杯になっていた。
坂口は一人、大型トラックの脇にたたずむ。
電話で話した亀戸によると、この大木の処分は決まっているらしい。市内の材木会社が引き取ることになっているという。つまりは、亀戸が現地調査の際にこの立派なケヤキを一目見て、金になると気づき、横流しを企んだということだ。ケヤキは堅くて、木目がキレイなため、家具や建築資材として重宝されている。そして、当然、材木会社も横流し品だと知っていて引き受けたのだろう。出所は市の建築指導課長だ。無下に断ることはできない。今後の仕事に影響してくるからだ。この街では、課長と業者はもはや、ズブズブの関係になっている。もちろん、市役所の人間は誰も気づいていない。いや、気づいているのかもしれないが、相手は課長である。見て見ぬふりをしているのだろう。あいつらは何かと波風は立てたくないという連中だ。こんな大きなケヤキのことだ。製材後はいくつかに分割されて、あちこちに高値で引き取られて行くのであろう。そうやって、亀戸はひそかに副業で儲けようとしていた。だから、この木の存在を我々には最後まで内緒にしていたのだろう。現場に来れば一目瞭然だというのに。当然、俺から電話が入ることも想定内だったはずだ。デカい木をどうすりゃいいんだ?という問いに、亀戸はあらかじめ用意していた答えを述べたに過ぎない。売却するため、丁重に切り倒せと…。
しかし、さっき若い奴が電動ハンマーでケヤキの幹に穴を開けてしまった。直径二センチ、深さ十センチほどの小さな穴だから、デカい木に比較すると大したことはないのだが、きっと亀戸はそれを見つけて、値切りの口実に使ってくるだろう。あいつはどこまでもセコイ奴だからな。あんな奴がよく課長をやってるよ。
「ふん、金の亡者め。いつかバチが当たるぜ」
坂口は大型トラックの荷台を見上げた。
そこには苦労して引き倒したケヤキが横たわっている。
「分かってくれるかな、ケヤキさんよ」そう言って、ケヤキを愛おしそうにポンポンと叩
いた。「アンタを切り倒したのは俺たちだけど、切り倒すように命令したのは亀戸課長なん
だ。俺たちは逆らえなかったんだよ。だから、恨むなら課長なんだよ。バチを当てるのな
ら、俺たちじゃなくて、向こうだぜ。間違えないように頼むわ。アンタを手塩にかけて育
てたおばあちゃんにも、あの世で会ったら言っといてくれよな」
坂口はこうしてケヤキにお願いをした。
そして、そのバチは本当に当たることになる。
巫女の綿(わた)時(どき)つむぎは描きあげたばかりの御朱印帳をもう一度見直して確認すると、満足
げに頷き、蛇腹を折りたたんで、目の前で待っている中年女性にニコリと微笑んで手渡した。京都西陣織の高級な御朱印帳である。女性はそれをおどけたように、うやうやしく両手で受け取ると、こちらも負けじとニコリと微笑み、丁寧なお礼を言い、去って行った。
「今のは、なかなかうまく描けた」つむぎは声に出して自分自身を褒めた。
近年、御朱印の集印を趣味とする人たちが増えている。何冊も御朱印帳を持って全国の神社を訪ね歩いている人もいるらしい。神社や神様に目を向けてくれることはありがたいことだ。特に若い女性の間でブームが起きていて、書店に御朱印帳を販売するコーナーができていたりする。数年前までは考えられないことだった。御朱印の存在すら知らない人が多かったからだ。綿時つむぎはこの風潮を巫女としてうれしく思う。
しかし、勘違いしている人たちもいる。そもそも御朱印とは参拝したという証としていただくものであるが、中にはスタンプラリーと間違って、せっせとコレクションに励んでいる人がいるのである。ゲーム感覚で神社を訪問するのはどうかと思うのだ。まずは、信仰心が先に立つべきではないのか。神様を敬う心を持つことが大切ではないのかと思う。もっとも、ゲーム感覚のコレクションであろうと、深い信仰心を持った上での収集であろうと、その行為がその人の人生にどのような影響を及ぼすのかは、神様が決めることである。
ここ永流(えいる)神社にも最近は御朱印目当ての参拝が増えてきた。街の中心から外れた小さな神社だというのに、評判がSNSなどで拡散されていったためである。御朱印の作成には手間がかかる。時には順番待ちの行列ができる。つむぎは日付、神社名、ご祭神の名前を墨書きしたあと、四季折々の花を一つ一つ手描きしてから、押印しているため、時間がかかるのである。神社によっては、忙しいために、あらかじめ別紙に書き置きをして、それを渡している所もある。受け取った人はそれを御朱印帳に貼り付けるのである。あるいは、スタンプを押すだけの所もある。神社での御朱印の提供の仕方といっても、全国で統一されているわけではなく、それぞれのやり方がある。
しかし、永流神社は参拝者に時間がかかることを、あらかじめお断りした上で、ちゃんと真心を込めて文字を書くし、丁寧に花の絵も添える。それでも初穂料は300円と安く設定している。ただし、御朱印を担当しているのは巫女の綿時つむぎ一人である。まさか、ここまで忙しくなるとは思わなかったのだが、一人のままで頑張っている。書道の心得があり、多少の絵心もあったからだ。
しかし、御朱印の絵は難しかった。何度も練習を重ね、いざ本番になってもなかなか納得できる絵が描けず、参拝者には申し訳ない気持ちでいっぱいであったが、ここのところ、やっとうまく描けるようになってきた。うまく描けなかったときは、神様にお詫びをして、参拝者が幸せになりますようにと、後でお祈りをしていたのだが、最近はそういったフォローのお祈りはなくなっていた。
先ほどお渡した御朱印もそうだ。桜の花びらの鮮やかさが、我ながらうまく描けたと思う。女性も満足そうな表情を浮かべていた。御朱印帳はかなり使い込んであり、おそらく、今までたくさんの御朱印を集印されてきたと思われた。そんな御朱印ベテラン女性が満足そうにされたのだから、桜の絵は気に入っていただけたのだろう。お一人で参拝に来られたようだが、つむぎはあの絵をあちこちで見せていただけたらうれしいと思った。
そもそも、巫女の仕事とは神職の補助であり、ご祈祷や装束の準備などを行っている。神事においては白衣と緋袴を身につけた巫女衣装で巫女神楽を舞って、神様に奉納し、参拝者にはお神酒を振る舞う。それ以外にも境内の掃除や電話の応対、お守りやお札、絵馬の販売と在庫管理なども行っているのである。そして、中には、つむぎのように御朱印を担当している巫女もいる。また、助勤や助務と呼ばれる学生アルバイトの巫女も多い。この神社でも年末年始の忙しい時期には短期でアルバイトを雇用する。しかし、つむぎはアルバイトではなく、正職員として働いていて、神職の資格も有している。それゆえ、ほとんどの巫女は二十代後半で定年となるが、つむぎには巫女としての定年はない。
客足が途切れたところで、つむぎは鏡の前に立ち、身なりとお化粧の乱れを確認する。職業柄、茶髪やパーマやネイルは禁止であり、勤務中はイヤリングやネックレスやカラコンなどの装飾品も禁止されている。つむぎは長い黒髪を後ろで結び直し、簡単にお化粧も直し、席に戻った。お化粧も神様にお仕えするという職業柄、あまり派手にならないよう、普段からナチュラルメイクを心掛けていた。
「巫女さんよ!」若い男性がやって来て、大きな声で訊いてきた。
「はい。ようこそお参りくださいました」つむぎは笑顔で対応する。神社では、いらっしゃいませと言わない。商売のように物品を販売するのではなく、授与するとされているからである。
ごつくて日焼けした男性が、セカンドバッグからゴソゴソと何かを取り出す。
「ここに古くなったお守りがたくさんあってな。それを…、何だったか…、あれしたいんだ」
「お焚き上げでしょうか?」
「おう、そうだ。それだ。どうすりゃいい?」
綿時つむぎは申込書を手渡し、手順を説明した。
「じゃあ、これな、手数料三千円な」
男は意外と丁寧な文字で申込書を記入し、お焚き上げの料金三千円を支払った。
つむぎは古いお札が入ったビニール袋を両手で受け取った。
「心を込めてお焚き上げをさせていただきます」
「おう、頼むわ。――それとは別に、交通安全のお守りがほしいんだけどな、一番効果があるのはどれだ?」
男は新しいお守りを所望した。
並べてある大きさや色が様々なお守りを見渡す。
「やっぱり、このデカいやつか?これだと事故は起きないのか?」
「いいえ。お守りは大きければいいというものではありません」
「おう、そうなのか?」
「まず、お守りに頼ってはいけません。ルールを守って安全運転を心がける。その心がけが一番のお守りになります。その正しい心がけをお守りが後押ししてくれるのです」
「そうか。さすが巫女さん。いいことを言うな。だったら、お守りは万能じゃないわけだな」
「はい。お守りは力を添えてくださるだけです。お守りがあるからといって、無謀な運転をするとか、左右を確かめずに道路を横断するようなことがあってはいけません。いくらお守りであっても、それは守り切れません」
「おう、そうだな。何でも得意不得意というものがあるからな」
「それに、最近は飲酒運転の取り締まりが厳しくなっています」
「おう、そうだ。飲んだら乗るなだ」
「はい。車にお守りを付けているからと言って、飲酒運転が免れるはずはありません。日本は法治国家です。ちゃんと法律を守らなければなりません」
つむぎは先ほどから男の目をしっかりと見ながら説明としている。
「おう、それもそうだ。アンタ、真面目だな。巫女さんというのはみんな真面目なのか?」「はい、神様に仕えておりますから、いい加減な気持ちでお仕事をするわけにはいきません」
「おう、そうかい。アンタは巫女さんのカガミのような巫女さんだな。俺に何らかの権力があれば、アンタを人間国宝に推薦して、この神社を世界遺産に認定してやるんだが、何もねえから勘弁してくれ。――まあ、いろいろと教えてくれて悪いけど、やっぱり一番大きいお守りをくれ。もちろん、お守りがデカくても安全運転で行くからよ。それは将来の人間国宝のアンタと約束する。俺も何人かの従業員を抱えている身だから、無茶はできんのよ。――えーと、これと、これと、これな」
つむぎは太い指で示されたお守りを一つ一つ丁寧に取り上げ、小さな紙袋に入れて手渡す。男はセカンドバッグから大きな財布を取り出して支払いをした。
「どうぞ、お納めくださいませ」
つむぎは男にお礼を言った。
ありがとうございましたとは言わない。
これは神社の巫女ならではの独特の言い回しであった。
社長らしき男性は一番大きい1000円の交通安全のお守りを買って行った。
返事はよかったが、ちゃんと聞いてなかったような気がする。しかし、お守りは三つも買っていただいた。家族の分なのか、仕事の関係者に配るのか分からないが、いかつい見かけや乱暴な言葉遣いに反して、意外と信心深い方なのは確かだった。さすがに、御朱印帳は持ってなかったようだが。つむぎは鳥居の下をくぐり抜けようとする男の背中に向かって、手を合わせ、あなたが事故に遭わず、交通安全でありますように、あなたのご家族も、職場の方も皆様が幸せでありますようにと祈りを込め、深々と頭を下げた。
祈りの念を背中に感じたのか、男が振り返った。
まだ頭を下げているつむぎに、お礼を言うように片手をあげて「おう!」と言うと、足早に去って行った。神社の駐車場には大きなケヤキを積んだ大型トラックが止めてあった。
坂口が神社にお守りを買いに来たのは、為さんに、古くなったお守りは取り換えた方がいいと言われたこともあるが、ケヤキを育てていたおばあさんの恨みも気になったからである。亀戸課長の言っていた“全身傷だらけのおばあさん”というのが、どうも気になる。会ったこともなく、顔も知らないおばあさんだが、傷だらけで横たわる老女の姿が浮かんで来る。恨まれて、交通事故でも引き起こされたら、たまらない。そのための大き目のお守りであった。
やがて、永流神社の境内の灯は落ちた。午後七時。この時間になると参拝客は来なくなる。そのため、春先には午後七時になると自動的に境内のライトが消えるようにタイマーの設定がなされている。それが夏になると午後九時にまで延長する。日が長くなるため、遅くまで参拝に訪れる人たちや、境内で夕涼みをするために来られる人たちがいらっしゃるからである。綿時つむぎは立ち上がって、社務所内の電気を消し、戸締りをした。長い間、正座をして血の巡りが悪くなっていた足を延ばし、軽く屈伸運動をすると、黒髪の長いかもじ――今風に言うエクステをはずし、黒髪のショートカットの頭を露わにした。巫女は黒くて長い髪を条件としている。髪には霊力が宿るとされているからである。よって、ショートヘアの女性は髪を付け足している。かもじを付けたままでもよかったのだが、ショートヘアに戻した方が集中できる気がするため、いつも直前に取りはずす。そして、最後にお守りを首から下げた。この時にだけ使用する特別なお守りだった。
つむぎはこれから儀式に向かうのである。
もう一度、無人となった社務所を振り返り、何事もないことを確認すると、つむぎは一人で境内の奥に広がる林の方へ歩き出した。衣装はそのままである。手には何も持っていない。一人が歩けるだけの狭い石畳の上を静々と進んで行く。両脇には木々が並んでいる。このあたりには街灯が設置されていないため、月明りしか届いておらず、暗い道が続く。闇の中につむぎの草履の小さな足音だけが響く。このあたりは草木が多いため、夏になると虫がたくさん飛んでいるため、虫よけスプレーを携帯しなければならない。今は春先だから、虫もそんなにいない。つむぎは虫が苦手なため、この時期はホッとする。静まり返った林の中をつむぎは巫女衣装のまま、一人で静かに歩いて行く。なるべく頭を上下させないで、背筋を伸ばしたまま、ススッと歩く。巫女独特の歩き方である。
林の中を歩きながら、先ほどの男性に言われた言葉を思い出す。
“アンタ、真面目だな”
その言葉に、今、歩きながら仮想で答えてみる。
“そうです。私は真面目です。浮ついた心のまま、生半可な気持ちでこのお仕事をしているわけではありません。私はこの小さな体で、この神社が歩んできた千年の歴史を背負っているからです。たくさんのご先祖の願いをたった一人で受け止めているからです。太古より連綿と受け継がれてきた技を守り、子々孫々まで伝え継ぐ義務が、私にはあるのです。決して気を抜くことはなく、油断することなく、精進を怠ることなく、日々を送る義務が、私にはあるのです。天から授かったこのお仕事に誇りを持ち、決して後悔することなく、日々を送っています。それを真面目と捉えられても構いません。むしろ、真面目という表現の方が分かりやすいでしょうから、私はそれで構わないのです。”
やがて、直径十メートルほどの丸い場所に出た。地面がむき出しになっていて、雑草さえも生えておらず、周りを大きな木が取り囲んでいる広場であった。自然にこのような形状になったのではない。代々、ここを訪れる人々が、木を伐採し、草を抜き、石ころを取り除き、作り上げた地だ。丸い地の真ん中に四角い大きな石と小さな石が置いてあった。上は平べったくなっており、この石も人為的に設置されたものと分かる。
この場所は神社の奥にある本殿のさらに奥に存在する。案内板などは何もない。立ち入り禁止ではないが、参拝者が入り込むことはない。ここには見るべきものや参拝すべきものが何もなく、頭上を木々が生い茂っているため、昼間でもあまり日が当たらない場所だからである。しかし、興味本位で入り込んだとしても、見ただけではどのような場所かは分からない。ただ、ぽっかりとひらけた空間があるとしか分からないはずだ。ここはどういう場所かと、神主や巫女に訊いても、本当のことは話してくれないだろうし、聞いたとしても理解はできないだろう。
つむぎはこの奇妙な場所をゆっくり見渡して、深く一礼した。そして、広場の真ん中に歩み寄り、鎮座する小さな石の上にゆっくりと座って、巫女衣装の襟元を整え、背筋を伸ばした。樹木の間を抜けて吹いてくる風が、つむぎのショートヘアを揺らす。
古来、巫女にはお神楽を舞ったりする他に、神託を得て、伝えるという役目も担っていた。神がかりをして、神の意志を伝える、つまり、シャーマンである。古くは卑弥呼がそれに当たる。しかし、明治以降はそういった役目もしだいに薄れ、神事の奉仕や神職の補助といった仕事を行う現代の巫女さんのような形に変わっていったのである。
しかし、それは一般的な巫女さんのこと。
永流神社の巫女であるつむぎは独特の伝統を古来より引き継いでいた。
この林の中の空間は、太古より神託を得る神聖なる場所であり、つむぎはそれを担ったシャーマンの末裔であった。しかし、永流神社で受け取る神託は一般的なものとは違うところがある。意志を伝えてくるのは、神ではなく神木であった。神が木にかかったのではなく、木そのものの意志であった。神木が感知した温度、湿度、気圧、風などの変化により、天候や干ばつ、作物の実りを伝え、地面の振動により地震や地割れ、土砂崩れを伝え、樹木同士の交信により、敵対する遠くの神社の動静さえも伝えてきた。
生きとし生ける物にはすべて霊が宿り、意志を持ち、意志を伝える。霊を感知できる者ならコミュニケーションは可能である。たとえ、相手が大きな樹木であっても、小さな草花であっても。
つむぎは石の上に座って、背筋を伸ばし、膝を揃えて、目を閉じている。月明りに照らされて、白衣の白色と緋袴の赤色が林の中でくっきりと浮き上がって見えている。彼女の周りをぐるりと取り囲むのは、十本の巨大な神木であり、そのすべてに、しめ縄が張ってある。東西南北に立っている四本の神木は特に大きく、威圧感さえ漂っている。ちょうど四方を守るように計算して植えられ、長年に渡って育てられた大木である。
神木が発する心地いい木の香りが頭上から降り注いでくる。
正統なシャーマンなら、その香りに金や銀の色が付き、輝きながら落ちてきていることが分かるだろう。
つむぎは自分から話しかけることなく、静かに耳を澄ましている。神木からの声を聞き取ろうとしているのだ。聞こえてくるのは、微かな春の虫の鳴き声と、風に揺れた枝葉が擦れる音だけである。つむぎは両膝の上で握っていた手を広げて、目の前で合わせた。伸ばしていた背中をやや後ろに傾ける。念を出すときは体に力を入れて前傾体勢になる。逆に受け取るときには、力を抜いて、体をそらせて、念を受け取りやすい体勢を取るようにする。これが基本である。
声を受け取るときの一番の敵は雑念である。心の中から雑念を追い出し、澄み切った状態に持って行かないと、神木が発する声は届かない。
心の中から雑念、妄想、今日起きた出来事、今日会った人たちの姿を消して行く。
竹ぼうきで境内を掃く自分の姿と気持ち。社務所で参拝者をお迎えする自分の姿と気持ち。御朱印を書いた人たちの姿と気持ち。お守りを授与した人たちの姿と気持ち…。
雑念を追い払う一番の味方は、神木に宿る木霊に対する絶対的な信仰心であった。
永流神社において、古代より連綿と続く木霊との交流。先祖代々受け継がれてきた聖なる儀式。人々は木霊に守られて、助けられて、支えられて、生きてきた。その木霊への信頼がなくして、心が澄み切ることはない。微かでも木霊への疑念や存在を否定する心が生じると、その声は二度と聞こえなくなる。――そして、今、つむぎの心の中は無と化した。
しだいに虫の音が止み、神木からかすかな声が聞こえてくる。最初に語りかけて来るのは、四本の大木なのだが、どの神木から聞こえてくるのか分からない。それは木の幹から発せられているのか、それとも枝葉からなのかもわからない。だが、厳かなゆったりとした男性が発するような低い声だ。声を発しているのはこの神木に宿る木霊である。しかし、この声は常人に聞こえない。今はシャーマンであるつむぎにだけ聞こえている。
その声は、つむぎの耳ではなく、脳へ直接届いているからである。
この時代、永流神社に敵対する勢力など存在しない。永流神社に限らず、抗争を続けている神社などどこにもない。ゆえに、神木が発する声の内容は、これまでの神社や地域の歴史であったり、これからの神の役目や神社の在り方であったり、遠くの神社の神木から伝えられたと思われる神社間の援助や祭りによる交流方法だったりする。
やがて、つむぎからも神木へ声をかけはじめた。伝えてきた情報に対する質問や意見を述べだしたのである。しかし、つむぎの声も万人には聞こえない。口から声を発していないからである。木から脳、脳から木へと言語は渡る。四方に立つ四本の巨木以外の六本の神木からも次々と、木霊が発する声が届いてくる。頭の上で交錯しているすべての言葉を、つむぎは理解し、自分の心の声を返していく。
突然、つむぎの目が大きく見開いた。
「悲痛な叫び声ですか?」
たった一言、驚いたように言葉を発した。
その後も、静かな林間でのシャーマンと神木との交流は続いた。
その間、誰もここを通りかかることはない。
小さな虫の鳴き声と、さやさやと鳴る葉擦れの音。
静かに、穏やかに時が経過する。
このように、つむぎが神木からの声を聞き取り、神木につむぎの声を聞き取ってもらい、お互いが理解し、信頼し合えるようになるまで、つむぎは毎日この場所に通い続けた。
そして、いつしか一年が経過していた。
つむぎと神木との目に見えない交流は約一時間続いた。毎日、これくらいの時間がかかっている。ゆっくり立ち上がると、つむぎは十本のすべての神木に、一本ずつ丁寧に頭を下げた。正確には神木に宿る十柱の木霊に対して頭を下げたのである。
ふたたび狭い石畳を通って、社務所に併設されている住居へ戻ると、神主である父が待っていた。父も装束姿である。今どき珍しく髪をきっちりと七三に分け、黒縁眼鏡をした細身の体型。真面目を絵に描いたような五十九歳が正座をして待っている。この真面目さがつむぎに引き継がれたことは一目瞭然である。父の目は前を見据えたまま、両手のこぶしは膝の上で握りしめたままだ。一年中変わらないいつもの光景である。
つむぎは父の正面に同じく正座をすると、静かに一礼した。
これから、今日の十柱の木霊とのやり取りを詳しく報告し、助言をもらうのである。
「悲痛な叫び声が聞こえたようです」
つむぎは木霊から聞き取った内容を話す。
先ほどは、驚いて思わず言葉が口を衝いて出てしまった。
四方の四本の巨木のうちの東に立つ木から教えられたことだ。
その巨木は樹木からの声を受け止めたと告げてきた。
「先日の山火事ではないのか?」
三日前、大規模な山火事が起き、たくさんの樹木が焼け落ちた。十本の神木は焼け落ちる際の樹木の断末魔の叫びを多数聞いていた。ここから二百キロ以上離れたところに位置する山だったが、その声は木から木へと伝わり、永流神社まで到達していたのである。
父はつむぎが受け取った悲痛な叫び声が、そのときの山火事のものだと思ったのである。
「いいえ、違うようです。山火事のときとは、また別の木だそうです」
「そうか。どこかで樹齢を重ねた大木が受難に遭ったのかもしれないな」
師でもある父は寂しそうに言った。
二人のやり取りは二十分ほどで終わった。
最後に再び礼をかわし、親子の儀式は終わる。
当然、ここは人間同士、ちゃんと声を発しての会話であった。
その後、つむぎは自分の部屋に戻り、特殊な和紙に本日の木霊との交流内容を克明に記録する。ワープロの時代だが、毎日新しく墨をすり、先祖から引き継がれた筆で書き留めていく。そして、墨が乾いたところで、別棟にある大きく、薄暗く、カビ臭い書庫に向かい、古代より伝わる膨大な交流録の最後のページに閉じる。書庫は見渡す限り、代々の神職が書き記してきた各種の文書が年代ごとに分けられ、年数を記した棚に保管してあった。
こうした特殊な儀式を終えることで、つむぎの一日も終わる。
これが、永流神社に仕えるシャーマンとしての習慣であった。
霊を感知できるかどうかは、その人の持って生まれた能力である。しかし、その能力をただ有しているだけでは普通人に終わってしまう。その能力を発揮させるためには、その能力を開花させなければならない。開花させるきっかけを与えるのは、代々その能力を引き継いでいる人物からの秘伝の伝授による。つむぎはこの能力を持って生まれ、父からの伝授により開花させた。つまり、父はつむぎの親でもあり、師でもあった。秘伝は一子相伝のものであり、それは永流神社に太古より伝わっている門外不出のものであるが、能力を開花できたのは、つむぎ本人の日々の努力があったことは言うまでもない。
父は祖母から、祖母は曾祖父からその能力を引き継いでいる。祖母及び曾祖父はすでに故人である。特殊能力を持った巫女として神社に仕えるのは強制ではない。つむぎも父から請われたわけではない。父には弟がいる。つむぎの叔父だ。叔父には娘が二人いる。その娘たちも血を引いており、巫女になる資格があった。しかし、つむぎは巫女になることを自分の宿命と自覚していた。子供の頃はキレイな巫女衣装で神楽を舞ってみたいという単純な憧れに過ぎなかったのだが、いつしか、父の背中を追うようになっていた。
若いつむぎには他の職に就くという選択肢もあったのだが、後悔してなかった。むしろ、この職に就けたことを誇りとし、喜びを感じていた。つむぎが後を継いだことについて、父は何も言わないが、おそらく、内心では喜んでくれていることだろう。父は長男であり、本家になるため、巫女が次男である叔父の分家から出るよりもいいのだろうから。
叔父は生まれ育った永流神社を出て、警察の職に就いていた。
やがて、つむぎに子供ができ、成人に達した時、この能力が伝えられるのだが、つむぎはまだ二十一歳。父から伝えられてやっと一年と少しが経過したに過ぎない。そして、その能力はいまだ完全に開花しておらず、神木との会話もやっと可能になったばかりである。
もっとも、最初は神木が発する声が一言も聞き取ることができず、またこちらから投げかける声も拾ってもらえず、何度も諦めようとしていた時期に比べると、格段の進歩を遂げていたのであるが…。
この能力を有する人間は永流神社関係者にしか存在せず、今のところ、つむぎと父の二人だけである。この神社に嫁いできた母は健在であり、神職の資格があり、詳細を知ってはいるが、その能力の有資格者ではない。父と母は当然ながら血はつながってはおらず、伝授することは不可能であり、その役目は一人娘であるつむぎに伝えられた。わずか一年前のことである。
この能力を有する人間は古代より“木霊師”と呼ばれていた。
この世に存在する“木霊師”はつむぎと父の二名だけである。
父は第四十一代の木霊師であり、つむぎは綿時家第四十二代の木霊師であった。
救命救急センター入口に放置されていた男は仰向けに寝かされており、左胸には木刀がまるで墓標のように突き立っており、傷口の周辺はドス黒い血が滲んでいた。ピクリとも動かず、木刀が自立できるくらい深く胸に刺さっていることから、すでに男は死んでいると思われた。木刀にはバランスが悪いヘタな文字で“コテツ”と、黒マジックで書いてあったが、これが何を意味するのかは分からなかった。
救命救急センター入口のインタホンからナースセンターへ連絡があったのは、深夜四時過ぎのことである。
「もしもーし。おたくの勝手口に死体が置いてありますよー」というふざけた一言だった。
当直中のナースが半信半疑、見に行くと、本当に遺体が放置してあったのである。
赤いTシャツの上から黒の革ジャンを着たジーンズ姿。靴は片方が脱げている。年は若く、二十代と思われた。あたりを見渡したが、通報してきたらしい人物は見当たらない。何者かが車で遺体をここまで運び、そのまま放置して逃げ去ったと思われた。その際、良心の呵責を感じたのか、インタホンから知らせてきたようであった。
その後、左胸に木刀を突き立てたまま絶命していたのは、持っていた免許証から、暴走族のリーダー松虫一二郎だと判明した。年齢は平成十二年生まれの二十一歳だった。
「ああ、この後だ。もう一回見せてくれ。スローでな」岩鏡警部が打水刑事に言った。
「コマ送りにしましょうか?」打水が訊く。
「ああ、それがいい。ゆっくり見れればいい。要はどうやったら木刀が、あんな具合に胸へ、ブスッと突き刺さるかだ」
救命救急センターから、変死体が勝手に届けられたという通報が入ったのは深夜の四時四十分。爆睡中の警部が叩き起こされたのが五時。同じく叩き起こされた打水刑事を伴って署に到着したのが五時半。近所の人たちが起き出した七時頃から聞き込みを続け、個人商店の入り口に設置されていた防犯カメラの映像を入手したのが七時半。早朝の捜査協力にお礼を言って、署に戻ったのが八時のことである。
先日の、胸に七つの傷があるサラリーマンの密室殺人事件は、懸命な捜査にもかかわらず、暗礁に乗り上げ、行き詰っていた。そこへ今回の事件である。人手不足のため、二人の刑事はこちらの捜査にも回されて、意見を述べることになった。まったく人使いが荒い。他の捜査員がいるだろうにと、ぼやいていた岩鏡警部だったが、俺の推理を聞かせてほしいということなのだろう。こうして、期待されているうちが花だと、自分に言い聞かせて、快く承諾をしてやった。
そして、今朝の事件も先日の事件と同じく、奇妙な事件であった。
――八時半。被害者の身元が暴走族のリーダー松虫一二郎だと判明したところで、問題のシーンを再度確認するために、防犯カメラの映像が巻き戻された。
画面右から男性の乗った自転車がやって来る。
「この男はまともな一般人だな」岩鏡が服装から、そう判断する。
サイクルジャージとヘルメットを身に付けた普通のサイクリストだ。
遅れて、その向こうに一台のバイクが現れた。
「来やがったな」吐き捨てるように言う。
松虫一二郎である。こちらは革ジャン姿である。
防犯カメラに映る前、両者には何らかのトラブルが起きていたと思われる。
「どうせ、クラクションを鳴らしたとか、追い抜いたとか、あおり運転とかの交通トラブルにでも、なったのだろうよ」
追いついた松虫は、ハンドルから両手を離して、棒のような物を振り上げると、突然、並走している自転車の男に殴りかかった。
「よしっ、ここだ!」岩鏡警部が叫ぶ。「ここからコマ送りで頼むわ」
俺は生暖かい春の風を正面から受けながら、バイクを転がしている。最近は半グレというらしい。それは都会での呼び名だろう。何かのグレーゾーンなのか?半分グレてるというのか?中途半端だな。どうせなら全部グレればいいのに。まあ、確かにグレてるとしか言いようのないカツアゲ行為なんかは、俺たちも昔はよくやっていたが、あんなセコいことは、もう卒業した。
以前、下っ端の奴が、通りすがりの高齢者から金をひったくったと聞いて、半殺しにしてやったことがある。それを見た仲間たちは二度と女子供、高齢者といった弱者を襲ったりはしなくなった。何といっても、半殺しにしてやった奴は、恥ずかしさのあまり、この街に住めなくなり、どこかのド田舎に逃走してしまい、その後は行方不明になってしまったからだ。そいつは勝手にどこかへ行ったのだが、俺がブッ殺して、どこかに埋めたというウワサが街中に広まった。アホらしいので放っておいた。おかげで、いまだに俺を殺人犯の目で見ている連中がいるのだが、好きにさせている。本当にヤッていたら、今頃、俺は塀の向こうだ。
というわけで、チンケな引ったくりや、セコいカツアゲや、野蛮な暴力を卒業した今は“走り”一本だ。つまり、こんな地方都市では、半グレなどとは呼ばれず、昔ながらの“暴走族”で通っているというわけだ。間違っても“珍走団”などとは呼ばせない。もちろん、暴力団や愚連隊には属してない。混ざりっ気のない富士山の湧水のような純粋な暴走族、ムクドリ一家だ。
そして、俺がムクドリ一家総長の松虫一二郎だ。
“リーダー”と呼ぶ奴らもいるが、“総長”の方が何となく重みがあっていいだろ。漢字はかっこいい。どこかの政治家みたいに、何でもかんでも横文字にすればいいってもんじゃない。平成十二年生まれだから一二郎だ。名付けた父親のセンスが問われるだろうが、今さら変えられない。名前の変更にはややこしい裁判手続きが必要だからだ。
そう、“まつむし じゅうにろう”が俺の名だ。
今日は土曜の夜だ。明日の朝までは俺たちが支配する闇の時間帯だ。夜通し、この街は俺たちムクドリ一家のものだ。仲間は集まっている。総長である俺の元にな。総勢三十台のバイクに二台の車だ。車の数が少ないが、俺の族はバイクがメインだ。まあ、俺を筆頭にみんなが貧乏なだけだ。車は高根の花だ。だから、車といっても軽自動車だ。だが、狭いあぜ道も走れるし、税金も安くていい。
さっきから走りを待ちきれない連中が、エンジンをブォンブォンと吹かしていて、けっこううるさい。これじゃ近隣からクレームが入るし、警察が黙っていないのも分かる。分かっているなら、辞めたらどうかと思われるかもしれないが、そうはいかない。
暴走族としての意地もあるし、俺たちから爆音を取れば何も残らないからだ。それでも、善良な市民の皆様には、なるべく迷惑がかからないように気をつけている心憎い暴走族。それがムクドリ一家だ。
何人かがバイクにまたがったまま、“無苦怒裏”と族名が書かれた大きな旗を振り回している。この旗こそが、我が族のアイデンティティだ。暴走する際に忘れちゃいけないし、敵に奪われてもいけない。敵とは、敵対する暴走族であり、警察であり、ときどき暴力団だ。
この旗を死守するためには、この命も賭けてやる。代々、諸先輩の皆様から引き継がれてきた大切な旗なんだ。長年に渡って使い込んでいるため、あちこちが、ほつれてはいるが、定期的にクリーニングにも出しているし、アイロンもかけている。シーズンオフの冬にはちゃんとタンスの中に、“タンスにゴンゴン”と一緒に仕舞っている。冬は走らない。寒いからだ。それに、雪道ではスピードが出せないし、雪で滑ると危ないからだ。転ぶと痛い。おまけに、バイクで転ぶと、バイクごと、スッーと滑って行く。あれは恥ずかしい。街中でやってしまうと注目の的だ。みんなの目が追いかけて来る。俺たちはそんな変なことで注目されたくない。爆音と生き様で注目されたいんだ。
小さな山のふもとの、大きな無料駐車場の隅に立っている古時計が午前零時を告げた。日付が変わって、日曜日だ。俺は指を一本、空に突き上げてみんなを静かにさせると、大きな声で今夜走るルートを説明した。といっても、そんなに多くのルートはない。先々週と同じだ。しかし、大きなカーブもあるし、長くつづく直線もあるし、急な坂もある。走りがいがあるコースというわけだ。ルートを頭の中に叩き込んだメンバーたちは、俺の指先と時計を交互に見ている。大人しく合図を待っているのだ。そして、その大人しさは数分後に爆発する。エンジンの爆音とともに…。
俺は二本の指を突き上げた。発進の合図だ。いっせいにエンジンがかかり、爆音がとどろく。まずは二台の車が並んで駐車場を出て、このまま街道を突っ走る。地方都市とはいえ、道路だけは広くて立派にできている。地方は車社会であり、道路を通す土地もいっぱいあるからだ。片道二車線の道路を俺たちムクドリ一家が占領して走る。
車の次は旗を掲げたバイクが二台と、並走するバイクが二台。さらにその後に三台。こいつら七台が親衛隊だ。そして、いよいよ総長である俺様の登場というわけだ。いつもやめろと言ってるのだが、俺がバイクをスタートさせるときは、みんなが大声で、オオッーと声援をくれる。何の声援か分からんが、まあ、事故らないように言ってくれているのだろう。ありがたい事だが、暴走族の総長が運転操作を誤って入院なんて恥ずかしいからな。重症とか重体なら同情も引けるが、翌日退院みたいなセコいケガなら末代までの恥だ。そうならないように、みんなは安全の祈りを込めて声援を飛ばしてくれるのだろう。俺たちムクドリ一家はチームワークが良いんだ。ホントはみんな良い奴なんだ。まあ、本当に良い奴は暴走行為なんてしないだろうけど。“良い奴”の定義なんか、さまざまだ。
最後のバイクが大型駐車場を出るまで二分はかかる。三十二台の大所帯だからだ。
大所帯が道路を占拠して走るのだから、後続は大渋滞となる。
分かってる。一般市民は大変迷惑だ。
だが、少しだけ付き合ってくれ。俺たちムクドリ一家の夜に。
駐車場を出ると、まずは小さな山のふもとを一周してエンジンを慣らす。大事なエンジンだ。大切に扱う。それからいっせいに街へ出る。街へ出るまで海岸線を走る。左手には海が続く。真っ暗な海だが遠くに小さく漁火が見える。俺は闇に浮かんでるあの漁火が好きだ。情緒があるじゃないか。それに、みんなが寝静まっているのに、漁師さんは働いているのだから偉いと思う。まあ、俺たちはこの通り、遊んでるのだけど。右手には低い山が並んでいる。山のふもとには畑が広がっていて、農家が点在する。一軒の農家の灯りがポツンと点いているときがある。俺はその光も好きだ。温かみがあるからだ。朝早くから暗くなるまで働いて、今ゆっくりしているのだなと思うと、何だかグッと来る。まあ、俺たちはこの通り、遊んでるのだけどな。
といっても、昼間はときどき、ドーナツ屋で働いている。できあがったドーナツに砂糖をまぶすのが俺の仕事だ。砂糖が少なすぎても、多すぎてもいけない。あれは加減が難しいんだ。もちろん、勝手に味見をしてはいけない。グッと我慢のドーナツだ。
そういうわけで、海側と山側の両方向からの素敵な灯りが、俺たちの走りを応援してくれているんだ。小さなスポットライトを浴びせてくれているようなものだ。
俺はムクドリ一家の中でロマンチスト第一位だ。
街に入るとすぐ、先頭を走っていた車の一台が猛スピードでバックしてきた。Uターンをする時間を短縮するために行うムクドリ一家伝統のバック走行だ。後続のバイク集団があわてて道を空ける。ポッカリ空いたその間を、滑るように走ってくる。
「すげえ、逆モーゼみたいだ。軽自動車のクセに器用だな」と眺めていたところ、俺のバイクの横にピタリと急停車した。
「総長!」助手席の窓を下げて、叫んで来る。
「出やがったか?」俺はバイクを止めて、窓から顔を突き出した親衛隊に訊く。
「出やがりました!」親衛隊員の一人が言う。
「よしっ、やるぞ!」俺は叫んだ。
周りに集結した奴らに向けて、指を四本示す。
四=死だ。
出やがったのは敵対するチーター連合の奴らだ。奴らに四=死だ。
周りから大きな歓声上がる。今夜一番の盛り上がりだ。
みんなは暴れたくて、ウズウズしていたんだ。
いきなり、その機会がやって来たというわけだ。
親衛隊が乗っている車は動く武器庫になっている。軽だけど。武器といっても拳銃や日本刀なんかはない。もちろん、爆弾なんかない。そんな物騒な物を持ってるのは不良だ。木製バットはあるが金属バットはない。あれは痛い。殴った方は手が痺れるし、殴られた方も痛い。ケガをしたらどうするんだ。木製バットならうまく折れてくれる。折れるまで殴るのは本物の不良だから、あまり感心しない。立ち上がれない程度に足を痛みつけるか、ハンドルを握れない程度に手を痛みつけるのが俺たちムクドリ一家の流儀だ。
さっそく俺は軽自動車のコンパクトなトランクをゴソゴソやって、一本の木刀を引き抜いた。俺が愛用する木刀。その名もコテツだ。漢字は難しくて書けない。
チーター連合との抗争に備えて、いろいろな武器を集めていた時に、仲間の一人が街のフリーマーケットで見つけてきた物だ。俺のために三千円もの大金を払って、男らしく値切ることもせず、現金一括払いで買って来てくれたものだ。ちゃんと、領収書をもらってきた。そんな男気の染み込んだこの木刀は大切に扱わないといけない。
「今宵もこのコテツにたっぷりと血を吸わせてやるぜ!」
俺はコテツを頭上に振り上げ、夜空に向けて吠えた。
もちろん、これは仲間を鼓舞するための総長としてのパフォーマンスだ。
ちょっと、時代劇みたいで、クサかったけどな。
「おう!」仲間たちも遅れて野太い声で呼応してくれた。これが以心伝心だ。
武器を必要とする他の連中も、軽自動車のトランクから、おのおの好きな物を持って行った。といっても、そのほとんどが棒切れとか、チェーンとか、唐辛子スプレーとか、石コロとかだ。だが、石でも当たると痛い。川から拾い集めてきた立派な武器だ。丸くて、投げやすそうなものを厳選してきた。手が滑らないように苔は落としてある。元手はタダだ。
交差点の信号が青になったと同時に、俺たちムクドリ一家は爆音をあげて走り出した。右手で信号待ちをしていたチーター連合は、俺たちを見つけると赤信号を無視して、追いかけて来やがった。笑えることに先頭は軽トラだ。リーダーのオヤジの車を無断で借りてきたのだろう。先日、あの軽トラの荷台にヤギを乗せて走ってるのを見たばかりだ。奴らにはお似合いのヤギ車だ。子牛ならドナドナだ。
しばらく走って、次の交差点に差しかかったところで、俺は手を挙げて、みんなに三本の指を示した。三方向に分かれろという合図だ。親衛隊の車と俺は真っすぐに、残りは左右に分かれて、スピードを上げた。とっさの出来事について来れないチーター連合のアホどもは、交差点の真ん中で右往左往している。もちろん、ヤギ車もいる。俺たちが悪い頭を捻って考えついた作戦に、まんまと引っかかるとは、俺たちよりアホということだ。
直進した俺たちはすかさずUターンをして、チーター連合の正面を取り、左右に分かれた仲間はそれぞれ、街の一画をグルリと回って来て、チーター連合の後ろに出た。これで前と後ろから挟み撃ちだ。バイクにまたがったまま、いまだに呆然としている奴らに、俺たちはおのおの武器をもって襲いかかる。五百円のコンビニビニール傘でしばき上げ、シャッターの開閉棒で突っつき、川で集めた石ころを投げつけ、海岸で拾ったほら貝をぶつけ、爆竹を束にして放り投げる。
俺も自慢の木刀コテツで応戦する。狙うは敵の手や足だ。ヘルメットをかぶってるとはいえ、頭を殴って大ケガを負わせてはいけない。目なんかに当たったら大変だ。手足だと思いっきりぶん殴っても、せいぜい骨折する程度だ。命に別状はない。しばらく、バイクに乗れなくすればいいだけだ。俺は心やさしいアウトローだ。
ガツンと向う脛を打ってやる。弁慶の泣き所は痛い。悲鳴が上がる。
肘を打ってやる。ヒジがビリビリするだろう。これをファニーボーンと呼ぶんだ。これまた、悲鳴が上がる。背中を打ってやる。息がしばらく止まって苦しいだろう。だが安心しろ、大ケガはしちゃいない。
――今宵もコテツは絶好調だぜ!
あたりに爆竹の煙が充満したところで、俺たちは猛スピードで逃げ出す。しかし、これはフリだ。あわてて追いかけてきた敵は、次々に停止するか、転倒する。
「総長、やりましたよ!」
仲間の一人がうれしそうに叫ぶ。
鉄工所で働いてる奴が自家製の“まきびし”をばら撒いたのである。
「全部で二百個。作るのに五時間もかかりましたよ!」
「すげえ、よくやった!」
二十台ほどいたバイクはすべてがパンクして止まるか、転がっている。ヤギ車も止まっている。タイヤには特製まきびしが突き刺さったままである。引っこ抜こうとしても無駄だ。簡単に抜けないようにまきびしには“返し”が付けてある。刺さったタイヤは廃棄処分するしかないだろう。さすが鉄工所の三代目跡取りである。いい仕事をする。本来の仕事はさぼってるが。さらに、虫を追い払う農業用の煙幕花火を投げつけた仲間=農家の跡取りがいて、敵はもうもうと立ち上る白煙に包まれている。こいつもいい仕事をしてくれた。田植えはサボるけど。チーター連合は戦意を喪失したのか、誰一人として反撃してこない。次は何を仕掛けてくるのかと、白煙の中でビクビクしているのかもしれない。
俺は二本の指を突き上げた。退却の合図だ。
全車、いっせいに勝利の爆音を上げながら走り出す。
敵をこれ以上痛みつける必要はない。
あまりやり過ぎると、マジで恨まれる。
俺たちムクドリ一家は要領がいい。
仕事がすんだら、ムクドリのように素早く、さっさと逃げる。
これが俺たちのポリシーだ。
「このまま自主解散する。みんな、先に行ってくれ!」
俺は親衛隊の車とバイクの仲間たちに向かって叫んだ。
おのおのは今夜の走りに満足したことだろう。
走りそのものを楽しむ機会は少なかったが、敵対するチーター連合をコテンパンにしてやったのだからな。暴れたかった連中もスカッとしたことだろう。
あたりは地方都市の深夜らしく、静かになった。
俺たちはまた次の土曜日の深夜に集合する。
つまり、この静けさは一週間しか続かない。善良な市民には悪いけど。
そして、俺は一人バイクを止めて、電話ボックスに駆け込んだ。最近は公衆電話の数も減って、探すのは大変なのだが、相手にこちらの番号を知られることはないし、自分のスマホに通話履歴も残らなくて便利だ。と言っても、今から悪いことをするわけではない。むしろ、いいことだ。――俺は110番にかけた。
電話ボックス内に書いてある住所を読み上げて、現在地を教える。
「あー、もしもし。暴走族同士の抗争でバイクが二十台くらい転んでますよ。あれは絶対ケガ人が多数出てますよ。もしかして、死んでる人もいるかもしれませんよ。早く救急車とパトカーを大量に派遣してください。緊急車両の在庫を全部、出し惜しみせずに使ってください。その暴走族はこの街で二番目の規模を誇るチーター連合ですよ。チーターのように早く走ることをモットーにしてますけど、実際はカメよりもドン臭い集団ですわ。えっ、オレですか?ムクド…、いや、偶然通りかかった善良な市民です。納税もしっかり払ってる真面目で誰からも愛されている市民です。いやいや、通報は市民の義務ですから、当然のことをしたまでです。感謝状なんかいりませんよ。お構いなく。では、失礼します」
これでチーター連合も一網打尽だ。ついでに、折れた棒切れや曲がった傘や割れたほら貝なんかの武器も、あのあたりに放置してやったから、あいつらの物と勘違いされて怒られるだろう。もしかしたら、凶器準備集合になるかもしれん。ざまあみろだ。
そう、俺たちは要領がいいんだ。学校の勉強は、からっきしダメだったけどな。
夜が明けて、ムクドリ一家は自主解散した。俺は一人で帰路につく。家までは直線の一本道だ。今夜は楽しい走りだった。チーター連合の奴らもやっつけてやったし、善良な市民の義務も果たしたし、警察にも捕まらず、まんまと逃げおおせたし、言うことはないな。あとはさっさと家に帰って、風呂でも入って、朝寝するだけだ。ああ、太陽がまぶしい。
のんびりと走っているところを、一台の自転車が抜いて行った。
えっ、この俺がチャリに抜かれた?
三十人以上の荒くれ者を束ねる総長のこの俺様がチャリに負けた?
まあ、余裕をかまして抜き返してやるわ。
俺はバイクの速度を上げて、その自転車を抜き返してやった。
自転車には若そうな男が乗っていた。サングラスをしているからよく見えないが、雰囲気からして若いようだ。自転車のことはよく分からないが、スピードが出そうな本格的で高級そうなやつだった。あのエイリアンの頭のような形をしたヘルメットをかぶっている。太ももを見るとかなり太くて鍛えられている。自転車で鍛えたのか、他のトレーニングで鍛えたのか分からないが、あの自転車に、あの足じゃ、早いわな。鬼に金棒。金太郎にマサカリ、浦島太郎にカメだ。だが、俺のバイクには勝てんだろ。バイクにエンジンだ。
ところがだ。そいつはまた俺を抜いて行ったんだ。なんという速さだ。競輪の選手が朝練してるのか?しかも、そいつは抜き去るときに俺の方をチラッと見て、ニヤッと笑いやがった――ように見えたんだな。
俺はむかついた。
せっかく、いい気分で朝を迎えたというのに、あざ笑われるとは。
だだっ広い道路なんだから、お先にどうぞと、気持ちよく、道を譲ってくれればよかったのに。だが、もう遅い。俺様に火がついたら誰にも止められないぜ。
俺はバイクの側面に装着している仕込みパイプの中から木刀――コテツを手で引き抜いた。例の鉄工所の三代目跡取りが取り付けてくれた着脱可能なパイプだ。強力な磁石で付いてるんだ。警察に追われたときは、走りながらパイプごと捨てて逃げられるという優れものだ。さすが三代目、ここでもいい仕事をしてくれている。
どうやら、俺のコテツはまだ暴れ足りないらしい。
ここで引いては総長の名が廃るというものだ。
相手がチャリであろうと、俺は容赦をしない。大ケガをさせない程度に、全力で立ち向かっていく。この持ち前の気合と根性と無鉄砲さでムクドリ一家の総長にまで登り詰めたんだ。俺はスピードを上げて、自転車に並んだ。そいつは隣で俺が振り上げている木刀を見て、おそらくギョッとしただろう。サングラスで目が見えないが、そのはずだ。
俺はそいつがチャリの速度を上げて逃げる前に、ハンドルから両手を離して、両足の太モモで燃料タンクをはさんでバランスを取ると、木刀で思いっきり殴りかかってやった。
その後のことはよく分からない。
そいつが急ブレーキをかけて、俺の木刀をうまくかわしたのは見えた。
なかなか、やるじゃねえか。
俺が体勢を崩してバイクごと転倒したのも分かった。
ここで転ぶのかよ。
転倒する直前、チャリ野郎に向かっていたはずの木刀が、切っ先を変えて、俺に向かって来たことも分かった。
おいおい、ウソだろ!
こらっ、コテツ!なんでご主人である俺様に向かってくるんだ!
仲間が三千円もの大金を払って買ったんだぞ!
あいつの男気を台無しにするのか!
だが、俺の叫びは届かなかった。
そして、切っ先が俺の左胸を貫いたことが分かった。
切っ先が肋骨の隙間をすり抜けて、ズズッと背中まで達したことも分かった。
いきなり、全身に痛みが走ったことも。
いきなり、全身の力が抜けたことも。
俺は木刀に黒マジックで“コテツ”と書いていた。
コテツさんは江戸時代の刀工で、切れ味鋭い刀を作った有名人だと聞いたからだ。だから、名前にあやかったんだ。こっちは木刀だけど、その刀のように、敵対する族の連中をバッサバッサと切り倒してやろうと思ったんだ。
“コテツ”というのは“虎徹”と書くのだと、意識がなくなる寸前に分かった。
これじゃ、難しくて書けないな。
俺は心の中で、そうつぶやいた。
もう、声は出せなくなっていた。
一台の軽トラがしっかり制限速度を守りながら、街をゆっくり走っている。
スピードを出して警察に捕まったら、元も子もない。せっかく、あの場から逃げてきたのだから。
「警察に通報しやがったのは、絶対にムクドリ一家の奴らだ!」
助手席でリーダーがわめく。
タイヤにまきびしが刺さって動けなくなっているところを、数十台のパトカーに取り囲まれて、共同危険行為でいっせいに連行された。警察署のパトカーを総動員したほどの多さだ。なぜ、ここまで大げさにする必要があるのか?奴らが大げさに通報したのだろう。
だが、ラッキーなことに、この軽トラにまきびしは刺さらず、警察が来る前に動かすことができた。当然、他のメンバーは置いて、俺とこいつだけで逃げてきた。あんなトロい奴らの面倒まで見てられない。自己責任で逃げるべきだ。この軽トラまで押収されたら、今後、ヤギを運べなくなって、オヤジにまで迷惑がかかってしまう。ヤギは俺ん家の貴重な収入源だからな。収入がなくなれば、俺の小遣いもなくなるというわけだ。
「まきびしだの、煙幕だのって、あいつらは忍者かよ」
俺はダッシュボードを蹴り上げる。
「まったくですよ。リーダーのこの軽トラがあってよかったですよ」
俺と一緒に逃げてきたこいつは中学の後輩だ。今は舎弟だ。速度を守って運転してもらっている。俺たちの街まではもう少しだ。今頃、残して来た奴らは警察に捕まって恨んでるだろうけど、かまうもんか。俺がチーター連合のリーダーだ。いっさい文句は言わせない。
「リーダー、何か転がってますよ」
前方左にバイクと人が倒れていた。
すぐ横に軽トラを止めて、窓から見下ろす。
「俺たちの仲間か?いや、違うな。あっ、こいつムクドリ一家の松虫一二郎じゃねえか!」
敵の総長がバイクと一緒に倒れていた。
二人は軽トラから降りて駆け寄る。
「わっ、こいつ、死んでますよ!」
「――どれ?わっ、マジかよ。木刀が胸に刺さってるじゃねえか。これはダメだ。左胸だから心臓がある方だ。これはきっと即死だな。これで生きてるわけないよな」
バイクの脇に横向きで倒れている総長の左胸からは大量の血が流れ出ていた。
木刀は体を貫通して、血の付いた切っ先は背中から突き出ている。
「この木刀は松虫のものだ。コテツと書いてあるだろ。見覚えがある。さっき、振り回してやがるのを見たぜ」
「俺、こいつにヒジを殴られてビリビリ来ました」
「なんで、それが刺さってるんだ?」
「ケンカになって、逆に奪われて、刺されたとか」
「いや。こいつ、けっこうケンカ強いぜ。そんなヘマはしないだろう。しかも、こいつにケンカを吹っ掛けるなんて、この街では俺たちくらいだ。だが、俺たちの仲間はみんな、警察に連れて行かれた。だったら、誰がやったかだ」
「どこからともなく、この街に流れてきた、ならず者じゃないですか?」
「そんな、安物の西部劇じゃあるまいし。やっぱり、ケンカじゃなくて、事故じゃねえのか。――それよりも、ホントに死んでるのか確かめてみろよ。心臓に耳を当てるとか、脈を取
るとか、息を確かめるとか、保健体育の時間に習っただろ」
「えっ、リーダーがお願いしますよ。オレ、授業中寝てたから」
「なんでだよ。怖いだろ。頼むよ」
「俺も怖いっスよ」と言いながら「おいおい、松虫くん。起きなさい」と、総長の肩を揺する。しばらく、二人でかがんだまま、見つめる。
「――生き返りませんよ。やっぱり、死んでますよ」
「松虫が道端で死んでいた。今は春だぜ。虫が死ぬのは冬だろうが。春は虫が土の中から出ている季節だぜ、まったく、どうなってんだ」
リーダーが怒気を含んだ声でボソボソと言う。
「――で、リーダー、こいつをどうします?見なかったことにして、このまま行っちゃいますか?それとも、警察に通報くらいしてやりますか?」
「いや、運ぼう」
「マジっすか?」
「化けて出て来られたらたまらんからな。マジで嫌な奴だったけど、さっきの抗争もなかったことにしよう。つまり、ノーサイドということだ。憎きムクドリ一家の総長だけど、お互い、この街でヤンチャをやってきた仲だ。こんな所に寝かせておいたら気の毒だ。ちょうど、俺たちは軽トラに乗ってるんだ。こいつを荷台に積もうや」
二人は総長の遺体を苦労して荷台に上げた。
「ふう。死体というものは重いな」リーダーがため息をつく。「荷台はヤギ臭いけどがまんしてくれや、松虫総長」
バイクと脱げている片方の靴は放置したままだった。
「どこへ運びますか?警察か病院か葬儀屋か、思い出がいっぱい詰まったこの街を見下ろす丘の上か…」
「警察の玄関に置いたとたんに見つかって、パトカーに追跡されたらヤバいから、病院に持って行こう」
「さすが、リーダー。頭がいい!」
「近くに救急病院があっただろ、そこへ行こうや」
軽トラを救命救急センター入口につけた。まだ早朝だ。あたりに歩いている人も病院関係者も見当たらない。二人はふたたび苦労して死体を下して、仰向けに寝かせた。左胸に刺さっている木刀が突っ立った。透明の屋根から差し込む朝日が奇妙な遺体を照らし出す。
「シュールな光景だな」運転席に戻ったリーダーが、寝かされた松虫を見て言う。
「リーダー。さっき、荷台にあいつの血が付きましたよ」
「ああ、大丈夫だ。この前、オヤジがヤギを乗せたから。警察に訊かれても、ヤギをドライブに連れて行ったら、興奮して鼻血を出したと言っとけばいい」
「大丈夫ですかねえ。日本の警察は優秀だから人間とヤギの血の区別くらいつけるんじゃないですか?」
「おい、勘違いするなよ。俺たちは何も悪いことはしてない。おそらく、こいつは木刀を振り回してるとき、手が滑ったか何かで、自分の胸を刺してしまったんだ。俺たちがやったんじゃない。既に死んでたじゃないか。その辺の防犯カメラを見れば、俺たちの無実も証明されるはずだ。路肩でくたばっていた遺体をわざわざ運んであげたのだから、逆に褒められてもいいくらいだ。遺族から金一封くらいもらう資格はある。――さて、あらぬ疑いをかけられる前に、さっさと、ずらかろうぜ。いや、待て。引き上げる前に病院へ一言、言っておいた方がいいんじゃないか」
「そうですね。俺が言ってきますよ」玄関のインタホンへ駆け出した。
「もしもーし。おたくの勝手口に死体が置いてありますよー」
こう言っておけば、お医者さんかナースさんが引き取りに来てくれるだろう。
「犯人は俺たちじゃないっスよー」ついでに無実を主張しておく。
チーター連合の二人は敵対するムクドリ一家総長の死体を放置すると、一目散に逃げだした。逃げる前に、二人で松虫に手を合わせた。
「なんまいだー」「アーメン」
和風と洋風の両方で拝んでおいた。
これで、化けて出て来ないだろう。
「後で車に塩でも振りかけておこうや」
「はい。念には念を入れないと、お化けはおっかないですからね」
二人の逃げ足はチーターのごとく早かった。
防犯カメラの映像が巻き戻された。松虫一二郎はハンドルから両手を離して、棒のような物を振り上げると、突然、並走している自転車の男に殴りかかった。
「よしっ、ここだ!」岩鏡警部が叫ぶ。「ここからコマ送りで頼むわ」
コマ送りになった画面を警部が凝視する。
「この棒は木刀だな。だが、打ち所が悪いと死んでしまうから立派な武器だ」
自転車がとっさに急ブレーキをかけて、木刀をうまくかわした。
空振りを喰らった松虫は、体勢を崩してバイクごと転倒する。
当然、コマ送りの画面では松虫が大型バイクごと、ゆっくりと倒れていく。かなりの音がしたと思われるが、もちろん、音声は入ってない。
「松虫は革ジャンを着ているだろ。ここだ、見てみろ。ファスナーは首の辺りまで上がってる。ところがだ、次の場面ではファスナーが全開になって、下に着ていた赤のTシャツの胸が見えている。おかしいだろ」
確かに、場面が変わると、革ジャンに隠れていたはずのTシャツが見えている。
「次に、ここだ。松虫はバイクが転倒しそうになって木刀から手を離した。そのとき、木刀の先は下を向いていた。落ちて行く体が地面に激突するのを防ぐように、松虫は両手を広げて、下に向けている。本能的に防御の体勢を取ったのだろうな。このとき、木刀は手から離れて宙に浮き、両手は何も掴まずに宙をさまよっている。だが、ここだ。場面が変わると、地面を向いていた木刀の切っ先、は百八十度回転して松虫に向かって来ている。そして、革ジャンのファスナーが下がり、むき出しになっていたTシャツの左胸の心臓を貫いた。松虫がうつ伏せの状態で地面に倒れ込むと、体の重みで木刀は体を貫き、その切っ先は背中から突き出た。ここをもう一回、戻して、見せてくれ」
岩鏡に言われて、巻き戻し、同じ場面をコマ送りで見るが、やはり真相は分からない。
「ほら、やっぱり、おかしいだろ。木刀が宙で百八十度回転してるんだぞ。――どうだ、打水?」
モニター画面を凝視していた打水刑事が名前を呼ばれて我に返る。
岩鏡警部と打水刑事は個人商店から提供された防犯カメラの映像を確認した。そこに映っていたのは奇妙な光景だった。松虫がバイクごと転ぶ寸前に木刀が動き、左胸に向かって行くように見えたのだ。集まっていた捜査員全員で何度か見てみたが、どうしても分からない。打水の提案でコマ送りにしてみたが、やはり分からない。
打水はまだ画面から目を離さない。
「確かに変ですね。ファスナーが勝手に開いて、左胸がむき出しになる。木刀がクルリと回転して、うまい具合に左胸へ突き刺さる。まるで、松虫を傷つけるために、人の力が加わったように思えます」
打水と顔を並べて見ている岩鏡。
「そうなんだ。しかし、画像を見る限りはバイクの自損事故だな。松虫が木刀で殴ろうとして、バランスを崩して、勝手に転倒した。転倒する際に、木刀が胸に突き刺さった。そういう事故だ。まさか、自殺ではあるまい。こんなややこしい自殺の方法を取る必要はないし、松虫のようなずうずうしい奴が自殺するはずはない」
署内でもムクドリ一家には手を焼いていた。特に交通課にとっては疫病神だった。総長の松虫が人生の最期に自殺という手段を選んだとしたら、所轄の警察署内にも、敵対する暴走族内にも、不謹慎ながら、喜ぶ連中がたくさんいる。そのことを一番自覚していたのは松虫自身のはずだ。
「自分が死ぬことによって、みんなを喜ばせようなんて、松虫の野郎、死んでも思わんだろ。ギャースカうるさいだけのムクドリのボスが、そんな殊勝な心掛けをするわけはない。
つまり、自殺はありえんということだ。これが俺の導き出した万人も納得するであろう的確なる推理だ。だが、木刀をうまく避けた自転車の男は逃げてしまっている。松虫以外には誰も映っていない。バイクが転倒するのは、ほんの一瞬だから、妙な細工は仕掛けられんだろう。自殺じゃないとすると、いったい、どういうことなのか。それが分からん。先日の七つの傷の男といい、今回の木刀の男といい、変な事故だか事件が続きやがるな」
岩鏡がボヤいているところに、警官が駆け込んできた。
「警部、松虫の遺体を救命救急センター入口に放置した連中が白状しました」
取り調べを担当している霜月刑事である。
岩鏡はやっと画面から目を離す。
「チーター連合の奴らか。軽トラの荷台の血痕は松虫のものだったんだな」
「はい。DNA鑑定をした結果、そう判明いたしました。奴らは興奮したヤギが鼻血を出したと言い張ってましたが、間違いなく、松虫自身のものでした」
「あいつらは、日本の優秀な警察が人間とヤギの血の区別も付けられないとでも思っていたのか」
センター入口に設置してある防犯カメラに、遺体を運ぶ二人の男と軽トラが映っていたため、すぐに車種とナンバーの照会が行われ、リーダーの父親が所有する車だと分かった。父親に問い合わせたところ、あの時間帯には息子が乗り回していたとの証言が取れた。
「しかし、なぜ、死体を運んだんだ?」
「たまたま道を通りかかったら倒れていたので、気の毒に思い、とても親切に運んであげた。そんなことは市民の義務だと言ってます」
「なんでチーターが運ぶんだ。ムクドリとは敵対してるんじゃないのか?」
「それが、リーダーは元ラガーマンで、試合が終わればノーサイドなので、敵でも助けたと言ってます。つまり…」
霜月刑事は手帳を取り出して、読み上げる。
「紳士のスポーツであるラグビーでは、試合が終われば、敵と味方や、勝者と敗者の区別はなくなり、お互いに健闘をたたえ合う仲間同士であるという精神を、常に忘れず持っていて、チーター連合のリーダーはそれを人生の指標としているため、忠実に実行したそうです」手帳を閉じる。
「そんな崇高な精神の持ち主の元ラガーマンが、なぜチンケな暴走族のリーダーなんかをやってるんだ。さっさと足を洗うように言っておいてくれ」
「それと、車に付着していた白い粉ですが」
「覚せい剤だったか!?」
「塩でした」
「ヤギに塩をかけて喰ったのか?」
「いいえ。松虫が化けて出てきたら怖いので、車に塩を撒いてお清めしたそうです」
「なぜ暴走族なのに、そんなに律儀なんだ」
「それと、運んであげた総長ですが、見つけたときには、すでに亡くなっていたそうです。一応、体を揺すってみたけど、無反応だったと言ってます」
「だったら、あいつらがやったんじゃないな。松虫の財布もスマホもそのままだったし、運んだ後に、わざわざインタホンで知らせているくらいだからな。犯人は俺たちじゃないと言っていたという夜勤のナースの証言もある。それならそうと、最初から素直に白状すればいいんだ。手間を取らせやがって、何がヤギの血だ。――それで、財布とスマホから何か出たか?」
霜月が答える。
「いいえ。目ぼしい物は出ません。財布にもスマホにも松虫本人の指紋しか付着してません」
「チーター連合の二人は軽自動車に乗っていたのだろう。だったら、手袋はせずに、素手のままだろ。二人の指紋が付いてないということは、財布やスマホに触れてもいないということだ。盗みが目的じゃない。奴らには敵対する松虫総長をやっつけたいという動機がある。ついさっきまで、ムクドリ一家にコテンパンにやられていたのだからな。動機からすると、あの二人がクロなんだが、状況をみると、どんどんシロに近づいて行くな。――チーター連合の他のメンバーはどうなんだ?」
「はい、厳しい取り調べと高尚な説教をした上、全員を釈放しました。曲がった傘や割れたほら貝などの現場の遺留品は、すべて没収いたしました」
「メンバー全員、松虫の死亡とは関係はないのか?」
「はい。松虫が転倒している時刻が防犯カメラの映像に出てます。その時間には、メンバー全員がパトカーと警察官に取り囲まれて、順番に連行されてましたから、アリバイがあります」
「そうか。だが、ヤギ車にはまんまと逃げられたんだな」
「はい。申し訳ありません。リーダーともう一人は複雑なあぜ道をグルグル回って、うまく逃げおおせたようです。二人とも農家の子なので、あぜ道を走るのはお手の物でして、パトカーは振り切られました」
「逃げたおかげで、松虫を拾えたというわけか。運がいいのか、悪いのか分からんな。それはいいとして、チーター連合の全員にはアリバイがある。だが、双方の暴走族が敵対していたことは事実だろ。なあ、打水」
打水刑事が説明する。
「確かに、三年前から双方は抗争を繰り返してますが、小競り合いばかりで、大事には至ってません」
「ムクドリ一家のメンバーの飛ばしたロケット花火が、チーター連合のメンバーの背中に入って、軽いヤケドしたのが、最近、起きた事件だったな」
「冷やせば治る全治半日のケガでした。ですので、死者までは出さないと思います。なにぶん、地方のチンケな暴走族風情ですから、そんな大それたことはできないと思います」
「そうだなあ。暴走族同士の抗争の可能性も考えられるのだが、映像からすると、完全に事故なんだよな。だが、俺にはどうも納得できんな。木刀があんなにうまく肋骨の間をすり抜けて、心臓を一刺しできるかね。人為的に刺されたとしか思えんのだがな」
「ですが、その場合は松虫が持っていた木刀を奪い取って刺したことになります」
「あいつから奪い取るとなると、力がありそうなだけに、なかなか難しいな。――松虫を恨んでいた連中は数知れず。つまり、殺人の動機を持った人間はたくさんいるということだな」
その後の調べで、倒れていたバイクも刺さっていた木刀も松虫本人の物で、ご丁寧にも、バイクの側面には木刀を収納できるパイプが装着されていた。また、相手の自転車の人物はそのまま逃げ去り、いまだ身元は不明であった。おそらく、何かの交通トラブルがあったのだろうが、今のところ、防犯カメラには捉えられておらず、早朝だったため、目撃者もいなかった。
「もし、自転車の男が何らかのトレーニングをしていたのなら、またあの道を通るだろう。打水刑事、しばらく、聞き込みを続けるとするか」
「はい。だいたい、トレーニングというのは決まった時間に決まった場所でやりますから、事故が起きた時間と同じ早朝に、あの辺りの聞き込みをしたいと思います」
「そうか。また寝不足の日々が続くのか。テレビで防犯カメラの映像をガンガン流してもらって、自転車男に自首させようや。その方が手間も省けるだろ」
「自転車男が容疑者というわけではないのですが」
「そうだな。お忙しい中、任意で署までご足労いただくということだな」
岩鏡警部はまったく先が見えない二つの事件のことを思い、ため息をついた。
岩鏡の発案でホワイトボードが用意されて、七つ傷の男と木刀の男の事件の比較概要を、打水が書き出して一覧表にすることになった。
・被害者の名前
七つ傷の男:尾形武(二十八歳)
木刀の男:松虫十二郎(二十一歳)
・自殺かどうか?
七つ傷の男:新婚であり、新築の家に住んでいた。自殺の動機はない。
木刀の男:やっと、総長にまで登りつめて喜んでいた。自殺の動機はない。
・他殺かどうか?
七つ傷の男:遺体に防御創はない。凶器は不明。
木刀の男:防御創はない。木刀で体を貫くのは不可能?
・動機は何か?
七つ傷の男:家に荒らされた跡はなく、物取りの犯行ではない。
木刀の男:財布やスマホが残されており、物取りの犯行ではない。
・現場の状況は?
七つ傷の男:家の鍵はかかっており、密室状態。
木刀の男:事件時、防犯カメラには被害者以外映ってない。
・他殺とすれば犯人像は?
七つ傷の男:第一発見者は妻。アリバイあり。犯人不明。
木刀の男:第一発見者は敵対する暴走族。アリバイあり。犯人不明。
岩鏡警部は座ったまま、ホワイトボードを見上げる。
「こうやって一覧表にすると、余計に分からん。なあ、打水?」
「はい。でも、これだけ共通点がありますから、二つの事件には何らかの繋がりがあるのかもしれません」
「おお、そうだな。共通の犯人ということもあり得るな」
「ですが、今のところ、被害者である尾形と松虫に何も接点はありません」
「エリート金融マンと暴走族の総長だから、住んでる世界が違うわな。――霜月刑事、尾形武が暴走族だったことはないのか?」
「ありません」
「逆に松虫十二郎がエリート金融マンだったことは?」
「余計にありません」
「だろうな」
岩鏡は腕を組んで考える。
「だが、霜月刑事、おかしいよな。リンカーン・ライムはこうやって、ホワイトボードに書き出して、犯人を見つけてるのだがな」
「警部。あれは外国の話ですよ」
「そうか。日本とは事情が違うわな。しかし、向こうの鑑識の技術はすごいからな。ガスクロマトグラフまで持っとるしな。うちの鑑識は何をやってるんだ?」
「鑑識は鑑識でがんばってますよ」
「うちもアメリア・サックスみたいな女性捜査官がほしいよなあ。元モデルだし」
「ですから警部。あれは外国の話です」
「打水刑事、今回の犯人がエイリアンの可能性は?」
「ありません」
永流神社の社務所。
巫女の綿時つむぎは、預かった御朱印帳に日付や神社名などを書き、最後にアジサイの絵を描きあげて、押印し、若い女性に手渡した。和綴じタイプの上品な御朱印帳である。時期的には少し早いが、それぞれ、ピンクとブルーのアジサイを描いてあげた。永流神社はアジサイの名所でもあるからだ。受け取った女性は御朱印を見て、一緒に来ていた女性とカワイイと言って歓声をあげる。
丁寧に絵を仕上げるのに、少し時間がかかったが、喜んでいただいてよかった。
キレイに描いたのだが、感想はカワイイだった。
もちろん、喜んでいただければ、それでもかまわない。
“カワイイ”は若い女性が使う褒め言葉なのだから。
二人の女性はまた夏になれば来ますと言って、二人分600円の初穂料を支払うと、丁寧にお辞儀をして、うれしそうに帰って行った。
おそらく、二人は私と同年代だろう。まだ先の話だが、いつか私にも、この巫女という仕事を辞める日が来る。綿時家第四十二代の木霊師としての仕事を、まだ見ぬ次の人物に譲る日が来る。その後は、旅に出ようと思う。おそらく、その頃には父も母も鬼籍に入っていることだろう。だから、一人旅になるだろう。何も憂いを抱くことなく、ゆったりとした気持ちで自由な旅に出てみたい。今の女性たちのように、御朱印帳を持って全国の神社を巡りたいと思う。どんな神社との、どんな花との、どんな人との出会いが待ってるのだろうか。何年先のことになるかわからないが、今から楽しみにしている。
それは、綿時つむぎのたった一つの夢だった。
しばらくの間、御朱印待ちの行列ができていたが、今の二人連れの若い女性で、いったん途切れた。神社の境内にも静けさが戻る。ハトが石畳の上をのんびり歩いている。
今のうちに、前へ回って、お守りや絵馬やオリジナルの御朱印帳の整理整頓を始めようと立ち上がった。時刻は夕方。おそらく、すぐに御朱印を所望する参拝客で忙しくなるだろう。
遠くの拝殿から神主である父が朗々とあげる祝詞の声が聞こえてくる。相変わらず、張りがあるのに、澄み切った声をしている。自分の父でありながら感心する。あの声でお願い事をされたら、きっと神様も願いを聞いてくれることだろう。そう思わせる声だ。
そんな神々しい声をかき消すように、バイクの音が森を抜けて、響いてきた。社務所からは見えないが、表に大きな専用駐車場が併設されている。そこにかなりの台数のバイクが集結したようだ。永流神社は街道沿いということもあってツーリング客がよく訪れる。だが、駐車場に入っても、ずっとエンジンを切ることなく爆音を響かせ、喚声をあげていることからして、お行儀の良いツーリング集団ではなく、お行儀の悪い暴走を趣味としている集団だろう。あそこで休憩をしているのか。それともこの神社に用事があるのか。
あるとしたら、いったい何の用だろう。
信仰心を持っているとは思えないが。
まさか、交通安全のお守りを買うとか?
つむぎは整理整頓を終えて、席に戻った。
やがて爆音も止み、ガラの悪そうな二十人ほどの一団がぞろぞろと鳥居をくぐって入って来た。金髪に茶髪にスキンヘッド。バイクに乗るというのに、なぜか、モヒカンにリーゼント。ちゃんと形を保っているということは、駐車場でヘルメットを脱いで、整えたのだろう。遠くからでも、背格好を見ると、どんな集団かだいたいの見当が付いた。
手にヘルメットをぶら下げている男も数人いる。
やはり、お行儀の悪い方の集団だ。
しかし、見ていると、一団はちゃんと手水舎で手と口を清め、拝殿でお賽銭を入れ、二礼二拍手一礼をして、長い間、手を合わせ、何かのお願い事をしている。一人の男は手にメモのような物を持って、熱心に読み上げている。一般人より丁寧に時間をかけている。
見かけで人を判断してはいけないと、綿時つむぎは改めて思った。
五分間ほど、何をお祈りしていたの分からないが、その集団は社務所に向けて、ぞろぞろとやって来た。みんな揃って、ダルそうに歩いている。普段はバイクに乗っているため、自分の足で歩くことが面倒なのかもしれない。先頭を歩く男が、この群れのリーダーだろう。さっき、メモを読んでいた男だ。目が合ったとたん、その男が声をかけてきた。
「おねえさん、交通安全のお守りを二十個くれるか」
まさか、本当に交通安全のお守りを買うらしい。
暴走族が交通安全のお守り?
「ようこそお参りくださいました。こちらにいろいろと種類がございます」
つむぎは戸惑いつつも、先ほどキレイに並べたばかりのお守りの列を手で示した。
交通安全といっても、大中小、色とりどりのお守りがある。
「へえ、いっぱいあるもんだな」
リーダーらしき男は感心する。
すぐ横にいるナンバー2らしき男が声をかける。
「リーダー、これなんかどうです。金色でピカピカ光ってて、いいですよ」
大きな金色のお守りを指差す。
やはり、この男がリーダーらしい。
「おお、こりゃ、派手でいいな。よく目立ちそうだ。おねえさん、これはステッカー付きか?」
お守りとステッカーを合わせて販売しているというポスターを、すばやく確かめたらしい。セットで買う方が、より効果があると小さく書いてある。
「はい、交通安全のお守りと交通安全のステッカーのセットになっております」
「だったら、これがいいな。じゃあ、これを二十セット頼むわ!」
元気よく言ってくれたが、隣からまた、ナンバー2が口を挟む。
「おねえさん、二十個も買うんだから負けてくれよ」
「いえ、それは…」つむぎが躊躇すると、
「ボケッ!」リーダーがその男の頭を、持っていたヘルメットでぶん殴る。「セコイことを言うな!世の中には値切っていい物と、ダメな物があるんだ。値切るんだったら、ぼったくりの店でやれ」
「はい、すいません!」ナンバー2は頭を下げる。
「お前は先週、幼稚園のバザーで、五百円の小物入れを四百五十円に値切って、俺に怒られたばかりだろうよ。お守りを値切って、罰が当たったらどうするんだ。交通安全のお守りだから事故るぞ。命あっての物種だからな。――おねえさん、悪かった。こいつがアホなもんで。ちゃんと正規料金を一括現金で払うから」
「では、税込みで二万二千円になります」
リーダーがズボンのポケットから黄色の財布を取り出した。
黄色い財布は風水で金運アップの効果があると言われている。
暴走族が風水?
ふたたび、つむぎは戸惑う。
「俺が二万円払うから、オマエは消費税分だけ払え」とナンバー2に言いつける。
「どうぞ、お納めくださいませ」
つむぎはお礼を言って、お守りとステッカーを二十セット手渡す。
「はい、お納めいたしましたよ」
リーダーは交通安全セットを両手で受け取ると、後ろを向き、取り囲んでいたメンバーに言った。
「いいか。みんなの分もお守りを買ってやったからな」
「オッス!ありがとうございます!」いっせいに頭を下げて礼を言う。
「お守りはバイクにぶら下げておけ。それとステッカーも忘れずに貼っておけよ」
「オッス!」
「俺たち、チーター連合は今夜から安全運転でぶっ飛ばすんだぞ!」
「分かりやした!」
「パトカーに追われても、安全運転で逃げるんだぞ!」
「分かりやした!」
「解散して家に帰るときも安全運転でな」
「分かりやした!」
「無事に家へ帰るまでが暴走だぞ!」
神社の境内が暴走族の研修所のようになっていた。
リーダーはナンバー2に命じて、交通安全セットを全員に配らせた。
この荒くれ集団が意外と統制が取れて、ちゃんとしているところを見られて、逆に恥ずかしく思ったのか、もう用は済んだというのに、リーダーがつむぎに話しかけてきた。
「最近、物騒なんでね。神頼みでもしておこうと思って」
暴走族も神頼みをするのかと、つむぎは感心して、
「先日、バイクの事故で若い方が亡くなりましたね」
新聞記事で読んだ事件のことを話してみた。
「ああ、俺のチームじゃないんだけど、ちょっと知ってる奴だったんで驚いた」
もちろん、勝手に遺体を病院に配送して、警察に説教を喰らったことは言わない。
「運転操作を誤って転倒されたと新聞に載ってましたね」
「まあ、そうらしいけど、あいつは運転がうまいんだよな。ときどき、両手を離して乗ってるし。どうやら、転んだ際に持ってた木刀が刺さったらしいんだ」
「木刀ですか?」なぜ、木刀を持ってバイクに乗るのか、つむぎには分からない。
「ああ、左胸にグサッとな。まあ、おねえさん、聞いてくれ。それがおっかない話なんだ。革ジャンを着てたはずなんだが、前のファスナーが下りちゃって、むき出しになった胸に刺さったらしいんだ」
「ファスナーが下りてなければ、刺さってないのですか?」
「革ジャンはけっこう分厚いから、そう簡単に深いところまで刺さらないと思うけどな」
「深いところまで?」
「ああ。心臓を一突きなんだ。だから、革ジャンの前のファスナーが開いていたかどうかを、しつこく刑事に訊かれたんだ」
あっ、まずいな。遺体を見たことがバレる。
「――と、俺のツレが言ってた。だが、木刀の先は体を突き抜けるほど鋭くないし、余程の力が加わらないと、そうならないんだ。おかしいんだよな」
「体を突き抜けたのですか?」つむぎは驚く。木刀が体を貫通した?
「ああ。血の付いた木刀の先っぽが背中から出ていた――と、ツレが言ってた。それと、これもツレが警察から言われたらしいんだけど、何かの意志が働いて、革ジャンのファスナーを下げて、木刀で突き刺したみたいだってさ。――ほら、おっかない話だろ。俺もツレからこの話を聞いた時には驚いたもんよ」
「そうですね」答えながら、つむぎは何かを考えている。木刀が?意志が働いて?
「でもな。幽霊が犯人じゃあるまいし、木刀が勝手に動かないよな?ツレの奴がそんな怖い経験をしたから、今日はここに来てみたんだ。お守りがあった方がいいと思ってな」
「そうだったのですか。ありがとうございます。先ほどは拝殿で何か熱心に読んでおられたようですが?」
個人の参拝について立ち入ったことを聞いてはいけないが、つむぎはこの集団に興味を持ったので、思わず訊いてみた。木が体を貫通したことに関連したものかもしれないし、他の情報も聞かせてくれるかもしれないと思ったからだ。そして、おそらく、お調子者らしいリーダーは答えてくれるだろうと思ったからだ。
「ああ、あれか。十年後の俺に宛てた手紙を読んだんだ。まあ、それは、いいじゃないか」
十年後の自分に…?
中学生の卒業文集みたいだ。
この人たちは本当に暴走族だろうか?
どうやら、木刀の件ではないようだが聞きたいと思った。
だが、残念ながら、読んでくれないらしい。
ところが、また例のナンバー2がしゃしゃり出てきた。
「リーダー、おねえさんに聞かせてあげてくださいよ」
いいぞ、ナンバー2!
つむぎは心の中で彼を応援する。
「そうか。しょうがねえな」リーダーは先ほどのメモを取り出して、読み始めた。
「十年後の俺へ。他人に迷惑をかけてませんか?世の中の役に立つ人間になってますか?」
メンバー全員が爆笑する。
「笑うな、ボケッ!――ああ、やっぱりやめた。おねえさん、これくらいで勘弁してくれ」
「はい、承知いたしました」つむぎは笑いながら承諾する。
「――それじゃ、また。みんな、行こうぜ!」
リーダーはメモをポケットに捻じ込むと、ふたたび仲間を引き連れて、ぞろぞろと帰って行った。リーダーは振り返り、つむぎに向けて、ヘルメットを頭上に掲げた。お礼のつもりらしい。
御朱印帳を持って待っていた中年女性が、その集団を遠巻きに見ながらやって来た。離れた所で、ガラの悪い集団が帰るのを、ずっと待っていたようだ。誰も彼らに関わりたくないのはよく分かる。
「あのう、御朱印、よろしいでしょうか?」女性がおずおずと尋ねてくる。
「はい、申し訳ありません。お待たせいたしました。お預かりいたします」
彼らが長居してことを謝っておく。
つむぎは慣れた手つきで参拝日や神社名などを書き入れ、ブルーのアジサイの絵を仕上げて、最後に押印し、丁重に手渡した。
「あら、素敵な絵をありがとうございます。ずっと待っていた甲斐があったわ。毎年、ここのアジサイを楽しみにしてるのよ」
どうやら、永流神社の常連さんのようだ。ありがたいことだ。お手製の御朱印帳はかなり分厚く、ベテラン参拝者と思われた。永流神社だけでなく、いろいろな神社仏閣を訪ね歩いているのだろう。
この女性も満足そうに帰って行った。
そろそろ日が暮れる。今の女性が本日最後の参拝客になりそうだった。
先ほどのお行儀の悪い集団=チーター連合のバイクの爆音が境内にまで響いて来た。今まで何をやっていたのか、まだ駐車場にいるようだ。この時間までバイクにお守りをぶら下げて、ステッカーを貼っていたのかもしれない。リーダーが自腹を切って買ったのだから、メンバーとしては、お守りを付けて、ステッカーを貼らざるを得ないのだろう。リーダーはメンバーのためを思ってお守りを買ってあげたのだろうが、メンバーとしては、お守りを付けたバイクには乗りたくないのではないか。
何せ、ツッパリの暴走族集団なのだからと、つむぎは思った。
やがて、爆音は遠ざかって行った。
つむぎは彼らが無茶をしないように、安全運転を心がけてくれるように願った。あんな集団だから、そんなことを願っても無理なことかもしれないが、せっかく、この神社へ参拝に来ていただいたのだから、何かの縁があったのことだろう。あのお調子者のリーダーも悪い人ではなさそうだし、ナンバー2の人も要領が悪いだけだと思うし、メンバーたちも素直にリーダーの言うことを聞いていた。たとえ、お行儀の悪い集団であっても、みなさん、幸せになっていただきたいと思った。
そのリーダー格の男の言葉がよみがえる。
“木刀が勝手に動かないよな?”
つむぎは誰もいない境内に目を向けながら、その質問に答えてみる。
“いいえ。動くこともあります。生きとし生ける物にはすべて霊が宿っているからです。たとえ、霊が宿る樹木が切り倒されて、命なき一本の棒切れになったとしても、樹木のときに、強烈な念を受けていたのなら、その念の残滓が棒切れを動かすのです。その棒切れが朽ち果てていたとしても、細かく分断されていたとしても、そして、たとえ樹木が木刀に加工されていたとしても、動くことがあるのです“
棒切れや木刀などの小さな木が実際に動いたところを見たことはない。
しかし、理論上は動くはずだ。
樹木から引き継がれた何らかの意志を持って動くはずだ。
“何かの意志が働いて…”
いや、そうではない。
外部から意志が働きかけたのではない。
木刀そのものが意志を持っていたのだ。
木刀が自らの意志で動いたに違いない。
常人には考えられないことだろうが、つむぎにとっては不思議なことではなかった。
午後七時。タイマーが働き、境内のライトがいっせいに消灯した。
あたりを小さな常夜灯と月明りが照らすだけになった。こんな時間でも参拝に訪れる方もいらっしゃるので、つまずかない程度に、石畳には少しだけ光があたっている。
儀式に向かうために、つむぎは立ち上がって、社務所内の電気を消し、戸締りをした。
先ほどのリーダーから聞いた、何かの意志が働いて木刀が体を突き刺したという話が気になっていた。しかし、時間も押していたし、他の参拝客のこともあったため、あれ以上の詳しいことは聞けなかった。リーダーはその話をツレから聞いたと言っていたが、ウソなのはバレている。話すとき、目が泳いていたからだ。おそらく、その事故とは何らかの関係があるのだろう。しかし、こうして他人に話すということは、事故に直接関係しているのではなく、目撃したか何かだろう。悲惨な事故のはずが、うれしそうに話していた。当事者ではないからだ。それを人に言いたくて仕方がなかった。そんなタイミングで、私と出会ったということだろう。
いずれにせよ、肝心なことは木刀が動いたということだ。
そのことが、つむぎの脳裏にはずっと引っかかっていた。
これだけで終わらなければいいのだが。
署内第七会議室に五人の男が集まっていた。
宝永検死官と助手の赤穂、岩鏡警部と打水刑事、捜査員の霜月が、証拠品保存袋に入っている革ジャンと穴の開いたTシャツと血だらけの木刀をテーブルの上において、席についている。木刀には黒マジックで“コテツ”と書いてある。
道端で亡くなっていたムクドリ一家の総長松虫十二郎の遺留品だ。この件は目撃者も証拠もないため、事件ではなく、このままバイク事故として処理されようとしている。だが、どうも納得できないという岩鏡の意見を受けて、証拠品を再検討しようというのだ。
「この木刀のコテツが左胸に突き刺さって、背中まで突き抜けていたわけだ」岩鏡が言う。岩鏡たちは防犯カメラの映像を繰り返し見た。スローでも、コマ送りでも、何度も再
生して確かめてみた。
革ジャンのファスナーが勝手に下がって、Tシャツを着た左胸が見えたと思うと、木刀
が切っ先を変え、真っすぐに突き刺さっていった。松虫はおそらく即死。死因は失血死だった。
「映像に何も加工は施されていないのだね?」宝永が念を押すように訊いてくる。
しかし、それも無理はない。最近はCG加工の技術が格段に向上し、一目見たくらいでは分からないくらい巧妙だからである。その道のプロならば、警察官や検死官を欺く映像くらいは簡単に作成できる。
打水刑事が答える。
「先生に判断していただいた死亡推定時刻は朝の四時で、個人で経営されているクリーニング店から映像を入手したのは七時半です。加工する余裕はないでしょうし、加工する理由もありません。映像を提供いただいた店の家族は、暴走族とは何の関わりもありませんので、事実そのものの映像です」
「そうかね。では、順番に見て行こうか」宝永は納得したようだ。
証拠品を前にして、霜月が続ける。
「まず、革ジャンですが、細かい傷があるだけで異常は見当たりません。ポケットにはスマホと財布が入ってましたが、指紋は本人のものだけです。家族の了解を得て、中身を見たのですが、事故と関連することは何も出てきませんでした。また、財布の中には現金一万八千円がそのまま残されてました。家族によりますと、普段持っているお金はそんなものだということです。何分、ドーナツ屋の砂糖ふりかけバイトですから、そんなに持ってないそうです」
「なるほど」岩鏡が相槌を入れる。
「次に、革ジャンのファスナーですが、勝手に下がるような細工はされてませんでした」
以降は、岩鏡が質問をする形式で進めていく。
「ファスナーに手でつまむ部分があるじゃないか。あそこを押さえつけると、ストッパーの役目になって、下りて来なくなるな」
「はい、しかし、映像ではそこまで細かく確認ができませんでした」
「ストッパーが働いてない状態で、革ジャンの前の部分を左右に引っ張ったら、ファスナーはスッーと下りたかもしれんな」
「それも一瞬のことですから、映像では確認できませんでした。しかし、スローやコマ送りで見ても、どこかに革ジャンが引っかかったようなシーンは見られませんでした」
「ああ、そうだったな。革ジャンの前が開いて、左胸が露わになったのは確かなんだけどな。その方法が分からんな。ストッパーじゃないとしたらなんだ?」
「革ジャンはごく普通のものでした」
「もし、革ジャンの上から刺さっていたら、一気に背中までグサリとはいかんかったわな」
「はい、かなり分厚いですから、かなりの力で押し込む必要があると思います」
「Tシャツはどうだ?」
「衣料量販店で売ってるような普通の赤いTシャツです。何も細工はしてありません」
「宝永教授」岩鏡は検死官に話しかける。「木刀がうまい具合に肋骨の間をすり抜けて、心臓を突き破り、背中から貫通するとは、偶然にしてはできすぎてますな」
「そうだね。まるで計ったようにピンポイントで貫いているね。しかも、木刀は斜めからではなく、体の正面から貫いておる。つまり、同じくらいの体格の人間が向かい合って突き刺すということだね」
「では、バイクに乗りながらでは?」
「無理だね。あの映像からは考えられない。今、まさにバイクから落ちかけてるんだ。あんな体勢で、あんな角度で刺さるはずはない」
宝永も映像を確認している。
そして、さすがの宝永も首をひねる。
「革ジャンにもTシャツにも問題はない。だとすると、霜月くん、木刀そのものにも異常はないのかね?妙な細工が仕掛けてあるとか」
「はい、何ら、おかしなところはありません。バネ仕掛けで動くとか、ピアノ線がくくり付けてあるとか、中に何かが仕込んであるとか、そういったことはありませんでした。木刀のX線検査をしてまで確認をしてます。中身はただの木でした。松虫の衣服と手にしていた物に異常はありませんでした」
「…そうかね」宝永は黙り込んでしまう。
岩鏡が話す。
「松虫から木刀を奪い取るなんてありえない。木刀が空中で半回転するなんてありえない。まっすぐ体を突き抜けるのもありえない。ありえないの三連発だな。――乗っていたバイクはどうだった?」
「鑑識がバイク店に持って行って、立ち合いのもと、バラバラに分解してもらったそうですが、怪しい部品は何も見つからなかったとのことです」
助手の赤穂が補足の説明をする。
「衣服に付着していた血液は松虫本人のものだと、報告をした通りですが、木刀には多数の傷と少量の血液が付いてました。傷はチーター連合の連中やバイクなどを殴りつけた跡でしょうし、血液は松虫のものではなかったので、殴ったときに付着した敵の連中のものと思われます。詳しく検証をすることもできますが、かなりの時間を要します」
「今のところ、そこまでする必要はないだろうな」
霜月が続ける。
「木刀にマジックで書かれていた“コテツ”については、江戸時代の刀工虎徹のことでしょう。あやかって書いたのか、憧れて書いたのか、これで相手を一刀両断してやるという気持ちの表れでしょうが、コテツという名前そのものに深い意味はなく、今回の事故とは直接関係ないと思われます。家族に確認したところ、こんなヘタクソな字は本人の筆跡で間違いないと言われました。ただ、松虫がこの木刀をどこで手に入れたかは分からないため、捜査員が写真を持って土産店などを回ってます」
「木刀と言えば武具店か土産店かだな。俺も修学旅行で京都に行ったとき、買って来たな。家に持って帰っても使い道に困るんだな、あれは。防犯用に寝室に置いてあるが、刑事の家に泥棒は入らんだろうしな。――まあ、結局、これらの証拠からは何も分からんということだな」
岩鏡は事件だと踏んでいるのだが、確証が得られず、気落ちした声を出す。
このままだと事故扱いになってしまう。
「事故だと断定するには、何か引っかかるのだがなあ。長年の刑事の勘でそう思うのだがな。目撃者はいないが、映像という証拠があるから、やはり事故と断定されてしまうか。――霜月くん、自転車の人間の身元はまだ分からんのか?」
「はい、まだ分かりません。ニュース番組であの映像をバンバン流してもらってるのですが、まだ名乗り出てきません。そんなに特殊なタイプの自転車ではなくて、どこでも売ってるものですから、自転車から割り出すのは難しいようです。それと顔が防犯カメラにははっきり映ってません。ヘルメットを着用しているので髪型も分かりません。ですので、この身元の件も、画像からプリントアウトした写真を持って、あたりの聞き込みを重点的に行っているところです」
「そうか、引き続き近所を当たってみてくれ」
「分かりました」霜月は捜査のため、ここで席を立った。
岩鏡が検討を続ける。
「宝永教授、先日発生したもう一つの事件のことですが」
「事件じゃなくて、事故じゃないと言いたいのだね」
「あれも何か引っかかるんですよ。今回の事件と同じように物取りの犯行ではありませんし、殺人だとすると、殺される理由もありません。ただ、残念ながら同じように事件だとする証拠はありません。――あの胸に付いていたハシゴ段みたいな七つの傷ですが…」
「キミが犯人はエイリアンだと主張している傷かね?」
「まあ、そうですが。その後、何か分かりましたか?」
「解剖の結果、肺と胃の中に大量の木くずが詰まっていたことは報告しておいた通りだ。また、七つの傷の周りにも木くずが付着しており、どうも、肺と胃に開いた穴から木くずが飛び出て、皮膚を破って体外に出たとしか考えられん。だが、なぜ、木くずなのか分からん。木くず以外にも小さな木片も混ざっておったのだが…」
「宙に舞っている木くずを大量に吸い込むと、自然と肺に入りますな」
「そうなるな。なぜ、宙に木くずが舞っていたのかは分からんがな」
「胃にたくさんの木くずが詰まっていたということは、木くずを喰ったということですか?」
「胃の中には木くずと木片の他には、ほとんど何も入っとらんかったから、喰ったのだろうな。いったい、木をどうやって喰ったのか、なぜ喰ったの分からん」
「打水、木くずを無理に喰わせるというリンチはあるのか?」
「マル暴の四課の刑事に訊かないと、くわしくは分からないのですが、私は聞いたことはありません。どうせ喰わせて、痛みつけるのなら、エグい泥とか石鹸を喰わすんじゃないでしょうか」
「汚いのかキレイなのか分からんな。ところで、木くずなんか、うまいのか?」
「いや、喰ったことないです。でも、醤油をかけて、鰹節だと思って喰えば喰えそうですが」
「喉につかえそうだな」
「ふやかして喰うとか、お茶漬けにするとか」
「それだと、米の未消化分くらい残ってるだろう。だが、あの家は木くずを喰うほど貧しかったのか。金融関係の会社は給料がいいはずだぞ。本物の鰹節くらい買えるだろ。何で死んでしまうかな。新婚の奥さんもいるというのにな。あの奥さんはけっこういい体格をしてたぞ。あれは三食をちゃんと喰ってるという体だ。自分は喰って、ダンナには喰わせなかったんじゃないか?」
「いえ、そんなことはないでしょう。被害者は奥さんほど太ってはいませんが、木くずを食べるほど飢えていたとは思えません」
「…だとしたら、木を喰うのは、何かの儀式か?アマゾンの奥地に行けばやってそうだな」
「ないでしょう」
「そうか。ならば、ダイエットか?偏食グルメか?何だか、分からんな。何といっても、木くずとエイリアンが結びつかんのだよ」
まだ、エイリアン説が捨てきれない岩鏡へ、呆れたように宝永が言う。
「肺と胃の中で見つかった木くずは科捜研で調べてもらっている。ただの木くずだと思うから、あまり期待しないで待っていてくれ。それに、鑑識で調べてもらったから、もう何も出ないと思うが、この三つの証拠品も回しておくことにするか」
テーブルの上の革ジャンとTシャツと木刀を指差す。
「お願いします。あまり期待しないで待ってます。それにしても、教授。木くず遺体といい、木刀遺体といい、木にまつわる奇妙な遺体が続きますな」
「ああ、これで終わりにしてもらいたいね。久しぶりに傷のないキレイな遺体が見たいよ」
しかし、木にまつわる奇妙な遺体の出現はこれで終わらなかった。
この日から三日後。
丸太とロープでグルグルに巻かれた奇妙な遺体が、所轄内のアスレチック公園で発見されたからである。
上野作治はスマホを持って、道路脇に立っている。
事件発生の情報メールが届いた時はドキリとした。俺のことかと思ったからだ。しかし、女が道を歩いていて、金を奪われそうになったという未遂事件の記事をよく読んでみると、時間も場所も少し違っていた。女が大声をあげると、その男は何も取らずに逃げて行ったらしい。また現れるかもしれないという注意喚起のメールだ。どうやら、俺の同業者が近くをウロウロしているようだ。なんて、目障りな奴だ。
女に大声をあげられたから、逃げてしまうとは情けない。素人は何も分かっちゃいない。まず、大声をあげられないように口をふさぐ。これが鉄則だ。その際、指を噛まれないように気を付ける。これも鉄則だ。噛まれたら痛いし、もし化膿したら病院に行かなければならない。すると、手配書が回っていて捕まるというわけだ。そんなのは歯が貫通しないくらいの厚さの手袋でもしておけば防げる。簡単なことだ。間違っても軍手をしてはいけない。あれは製品によっては薄いものがある。安く束で売ってるような軍手はコスパがいいが、人の口をふさぐという仕事には適していない。トリセツには書いてないが。
仕事は事前の段取りが大事だ。段取りで仕事が成功するかどうかが決まると言ってもいい。素人は段取りがいい加減だ。慎重に、正確に、かつ素早く段取りを終えること。これが大事。この商売を三十年も続けていれば、これくらいの知恵は付く。
いくらバカな俺でも。
スマホを仕舞おうと思ったとき、またメールが来た。不審者情報だ。今度こそ俺のことかと思ったのだが、また違っていた。帰宅途中の小学生の女の子が不審な男に声をかけられたらしい。走って逃げたので無事だったようだが、子供にちょっかいを出すとは、犯罪者の風上にも置けない不逞の輩だ。こんな奴と一緒にされたらたまらない。
世の中にはあちこちに不審者がいるものだ。俺を含めて。
夕方。市民公園のそばの道路脇。
昨日、下見の際に目をつけた女を、俺はここで待っている。もちろん、ちゃんとマスクと眼鏡に、厚めの手袋をしている。女の年齢は三十歳くらいだ。紺色のスーツ姿で髪はショートカット。いかにもバリバリと仕事ができそうな背筋をピンと伸ばして歩く女で、金はけっこう持っていそうな雰囲気なんだ。俺とは住んでる世界が違うキャリアウーマンとかいう人種だ。
だが、最近は電子決済が進んでいて、キャッシュを持って歩いている奴が少なくて困る。持っていても少額なんだな。以前、あまりにも“あがり”が少なかったため、ついつい高齢者を相手にしたことがあった。そのばあさんはけっこう持っていたが、高齢者からふんだくると、後味が悪いんだ。死んだら枕元に立たれそうなんだな。以降、そこそこの若者をターゲットにしているのだが、スマホとかクレジットカードを盗んだところで、金に代えるのは面倒だし、金を手に入れるときに足がつく可能性が高い。
だから、この商売はキャッシュが一番なのよ。手っ取り早くていいのよ。
いただいたキャッシュをさっさと使ってしまったら分からない。まさか、警察も指紋を取るために、お札を追いかけるようなことはしないだろうし、お札に目印を付けておくほど、ヒマじゃないだろう。
一気に使い切れないほどガバッと儲かる銀行強盗をやってるわけではない。そんなのは今どき流行らない。ニュースを見ても銀行強盗なんか、ほとんど起きてない。ときどき、地方の郵便局が狙われて、すぐに容疑者逮捕というパターンはよく見かけるが、いい年したオッサンが犯人の場合が多い。情けない限りだ。俺も似たようなものだけど、捕まりはしない。この道、三十年。いまだ捕まらず、警察には俺の指紋さえ登録されてない。
俺の一回の稼ぎはたかだか数万円だ。ときには、しょぼいことに数千円だ。はい、メシ喰って終わり。明日のメシ代のためにまた引ったくり。また、メシ喰って終わり。終わらない負のスパイラル。メシを喰う必要がないなら、俺は引ったくりなんてセコい仕事はしない。だが、メシを喰わないと生きていけない体に神様が作ったわけだ。つまり、神様が悪い。悪の根源だ。いつか、やっつけてやりたい。しかし、嫌々ながらも、この商売をたった一人で三十年も続けている俺は偉い。継続は力なり。これホント。俺の座右の銘。今の若い連中に聞かせてやりたい言葉だ。
俺は昨日からここを主戦場にしている。といっても、まだ儲けはゼロだ。
かつては、人がまばらな大きな市民公園だった。ざっと見渡して、遊んでる親と子が何人いるのか、犬と飼い主が何組いるのか、簡単に数えられるほど、閑散としていた。
それが市は何を考えているのか、ここを有料のアスレチック公園に変えるらしい。有料だぜ。たかが、公園で遊ぶのに金を取るんだぜ。市の財政が逼迫しているからといって、小さな子供がいるファミリー層から分捕るか?とんでもない悪党だよな。
俺みたいな引ったくりの常習犯に言われちゃおしまいよ。
改装工事のため、公園の周りはバカ高いフェンスが張り巡らされており、完成するまで中に入ることはできない。つまり、このあたりは普段以上に、人通りが少ないということだ。強盗屋の俺にとっては絶好の場所なんだ。釣り人で言うと、入れ食いスポットだ。ホラー好きからすると、心霊スポットだ。
もしかしたら、さっき未遂事件を起こしたような奴らが、この絶好の場所を見つけるかもしれないから、常にあたりには気を配る必要がある。怪しい奴を見かけたら仕事は延期せざるを得ない。こっちも怪しいから、向こうも同じことを思うだろうけどな。ときどき、嫌がらせで、不審者がいるといって通報してやる。向こうも、俺にやってくるからお互い様だ。同業者は多いが、獲物は限られている。早い者勝ちだ。集中して張り込もう。
フェンスの隙間から覗いてみると、閉鎖中の公園内ではたくさんの遊具が設置中だ。すべて、アスレチック用の木製遊具だ。公園脇にはブルーシートがかけられた大量の木材らしきものが積んである。ジャングルジムやブランコなどの小さな遊具から、フェンス越しに、てっぺんが見えている巨大な滑り台まであるようだ。掲示してある完成予想図によると長さ六十メートル、高低差は二十メートルある東洋一の滑り台らしい。大人も楽しめると書いてある。
そうか、この俺でも滑り台で楽しめるのか…。
その前に人生が滑りっぱなしだけどな。
フェンスの陰にたたずんだまま、一時間ばかり待ってみたが、ターゲットの金を持っていそうなテキパキ歩くOL嬢は来ない。おそらく、OLだろうから退社時間が決まっていて、決まった時間に通ると読んでいたのだが、今日は残業かもしれない。金曜日だから、飲み会かもしれないし、社内ボーリング大会かもしれない。ときどき、金がなさそうな連中は通った。女子学生や、息子のジャージを着てるオバサンや、子連れの主婦だ。そいつらに怪しまれないよう、完成予想図を眺めたり、スマホを触ってたり、待ち合わせをしてるフリをするというセコい努力が無駄になった。そして、明日に出直そうか、場所を変えようかと考えているうちに、あたりは暗くなってしまった。優柔不断は時間を浪費するだけだ。俺はずっと人生を浪費してきた。
今日は例のOLをあきらめることにして、ついでだからこの大きな公園を一周してみる。他にカモが歩いているかもしれない。小銭が落ちているかもしれない。怪しい同業者と出会ったら素通りだ。向こうも見ぬフリをするだろうからお互い様だ。
同業者はニオイで分かるんだ。
それにしても大きな公園だ。俺が真面目に支払った税金の一部もこの改装に使われているはずだが、子供のいない俺にとっては、支払った見返りがないというわけだ。
あの巨大な滑り台に百回くらい乗って、元を取るしかないのか。
世の中は悪人に不公平だなと思って歩いているうちに、フェンスとフェンスの間に隙間が開いている所を発見した。
おっ、入れるな。
今なら入場料がタダじゃないか。
少し、税金の元を取ってやるか。
俺はあたりを見渡すと体を横にして、隙間から改装中のアスレチック公園に入り込んだ。
特に目的があったわけじゃない。開いていたから入っただけだ。誰かに見つかったところで大したことではない。散歩しているうちに、間違えて入り込んだとでも言えばいい。酔ってるフリをしてもいい。その前に見つかることはないだろう。日はもう落ちているから、灯りと言えば、しょぼい街灯とうっすらとした月明りしかなく、隙間から覗き込むような物好きは、俺くらいだろうからな。
外からはよく見えなかったが、園内に入ってみると、意外にたくさんの種類の遊具が設置済みだったり、建設中だったりしていた。自然の木を生かした公園だ。アスレチック公園とはそんなものだろうけど、不健康な俺の人生では、出会うことがなかった健康的な施設だ。世の中にはこんな世界があるらしい。
ロープ登りだとか丸太渡りだとかターザンごっこをする遊具などがあるし、俺を誘うように長さ六十メートルの巨大な滑り台が鎮座している。そんな中で公園の真ん中に長くて巨大な吊り橋が、ひと際目立った状態で建設されていた。丸太とロープを使って作られた橋で、おそらく二十メートルはある丸太の橋が、三分割されて作られている。ところどころ隙間があるのは、まだ作りかけなのだろう。ご丁寧にも下は長細い池になっていて、すでに水が張ってある。いや、雨水がたまっているのか。子供が落ちても大丈夫な深さのようだ。だが、落ちればズボンはビショビショだ。そういう、ずぶ濡れになるアトラクションなのかもしれない。子供はずぶ濡れになっても平気だ。逆に大喜びだ。俺にもそういう時代があったから分かるんだ。
俺は薄暗い中、大きな吊り橋の一番奥にまで行ってみた。
よし、奥から手前まで渡ってみようとヒマなことを考えた。
俺はいつも少年のように純粋な心を持っている。
純粋な心のおもむくままに強盗をしている。
何も矛盾していない。
まだ、完成途中のようだがロープを掴んで、揺れる丸太に足をかけてみる。まさか、池に落ちることはあるまい。落ちるところを見られたら恥ずかしいので、一応、周りを見てみる。だだっ広い公園には俺一人しかいない。関係者以外は、あのフェンスの隙間を見つけないと入り込めないはずだし、関係者以外が入ってはいけないことになっている。
バランスを取りながら一歩ずつ不安定な丸太を進んで行く。童心に帰って遊んでみようと思ったが、しだいに面倒臭くなってきた。丸太は揺れて定まらないし、体はフラフラするし、足はガタガタするし、池に落ちそうだ。ちょっと体を動かしただけなのに、明日は筋肉痛になるはずだ。若い頃と違い、すっかり年を取って、バランス感覚も鈍っていることを忘れていた。若い頃から体幹を鍛えておけばよかったなあ。帰宅部だったけど。
アホらしい。さっさと戻ろう。
俺は体の向きを変えて吊り橋を戻ろうとした。手でしっかりロープを掴んで、足でしっかり丸太を踏みしめる。転ばないように体勢を整えた。ところが、いきなりロープが外れて、ほどけた丸太が宙に飛んだ。引っ張られて二本目の丸太も飛んで行く。
――何が起きた!?
バランスを崩して片膝をついたところに、丸太が落ちてきて頭部を強打し、ロープが体にからまって動けなくなった。何というタイミングの悪さだ。
どうやったら、こんな風にロープがからまるんだ?
まるで、罠にかかった獣のようだ。
側頭部から血が流れてきた。
俺はそのまま池に落下した。
静かな公園に、水の音がバシャ―ンと響く。
意外と深い水中で、もがきながら思った。
誰からも見られてないだろうな。
俺はバカのくせにプライドだけは高かった。
敦盛そう子は市民公園の完成予想図を見上げていた。この公園がアスレチック公園に生まれ変わるのを、私はずっと前から楽しみにしている。子供の頃から遊んでいたこの公園には、ホントに小さな子供向けの遊具しかなく、ここよりかなり小さな隣町の公園の方が、よほど充実していることに、子供心にも、ずいぶんと悔しい思いをしてきた。それが一か月後には、大人も遊べるアスレチック公園に変わるという。会社の帰りにここの完成予想図を眺めて、想像を膨らますのが日課となっていた。完成したら、もちろん遊びに来るつもりだ。とっくに子供から大人へ変わっていたとしても、今までの恨みを晴らすがごとく、思う存分に遊んでやろうと心に決めている。運動不足やストレスの解消にもなるし、美容と健康のためにもいい。何といっても、この街の住民は格安で遊べるといううれしいシステムになっているからだ。何と、こんな公園なのに年間パスがあるのだ。市役所に行ってさっそく購入済みで、家の机の引き出しにスタンバイ中だ。今から使うのがとても待ち遠しい。
今日は仕事の帰り、大型スーパーへ買い物に寄った。明日は休み。金曜の夜だからゆっくりできる。そろそろ出始めた夏服をいろいろと物色して帰ろうと思ったところで、テレビでも見たことがある女性カリスマ販売員を見つけた。巧みな話術でたくさんの仕事帰りのお客さんを引きつけていて、二重、三重の人垣ができている。さすがカリスマだ。テーブルの上に並べてある食材を次々に捌いていく。口が達者だけでなく、手の動きも素晴らしい。一連のパフォーマンスが終了すると、周りを取り巻いていた人たちが、次々に商品を買い求めていく。商品の山は次々に低くなっていく。少し離れたところから見ていた私もあわてて駆け寄る。バッグから財布を取り出し、商品を一個掴むと、お札と一緒にカリスマ販売員へ差し出した。
というわけで、いつもより一時間遅めの帰り道。アスレチック公園の完成予想図を見上げる。
あと一か月か。早くできないかなあ。オープンしたら、まずは巨大な滑り台といきたいところだが、巨大な吊り橋で体を慣らすとしようかな。などと思いながら、公園の周りを歩いていると、フェンスが一か所開いていた。大人が一人入れるくらいの隙間がある。どうぞお入りくださいと言われているかのような、ちょうどいい隙間だ。何度も通りかかっているが、こんな隙間はなかったはずだ。工事の人が閉め忘れたのか、不届き者がこじ開けたのか分からないが、ここで私にいたずら心が沸き起こり、ちょっと入ってみることにした。もう日が暮れているから、誰も見てないだろう。一応、あたりを見てみる。誰も歩いていない。貸し切りのチャンスだ。私は隙間から、急いで公園内に入り込んだ。
お目当ての滑り台はまだ建造中で、てっぺんまで登れないようだった。残念だが、お楽しみは後に取っておくとしよう。だったら、二十メートルの巨大吊り橋に挑戦だ。さすがに長くて、三つに分割されている。この三つをつなげて完成するのだろう。あたりはすっかり暗くなっているため、奥の方は遠くて、よく見えない。吊り橋は池の上に吊られていて、落ちたらびしょ濡れだろう。それでも興味が抑えられず、試してみることにする。
私はロープを握ると、一本目の丸太に右足をかけた。ぐらりと揺れる。そのとき、遠くの方で水の音がバシャ―ンと響いた。驚いて丸太にかけた足を戻して、腰をかがめ、すぐに逃げられる体勢を取る。どうやら、奥のあたりで音がしたようだ。こんなに暗いから、工事関係者ではないだろう。私の他に、この公園に不法侵入している人がいるのかもしれない。しばらく様子を見てみる。といっても暗くてよく見えないため、耳をすます。誰かが来れば、猛ダッシュで逃げてやる。元陸上部だから逃げ切る自信はある。
――その後は何も聞こえない。
五分ほど経過したが何も起きなかった。小動物が池にでも落ちたのかもしれない。カラスが家に帰らず、水浴びでもしているのかもしれない。大丈夫だ。そう思うと、私はせっかく渡り始めた吊り橋を、もう少し進んでみることにした。両手で両脇のロープを掴み、不安定でよく見えない丸太を、勘で一本ずつ踏みしめて渡って行く。大変だけど、なかなか楽しい。三分割された吊り橋の一分割目の真ん中あたりに来たところで、私はロープを掴み損ねた。
バランスを崩して足元が揺れたとき、なぜか揺れる橋に結んであるロープから丸太が抜けて、宙に舞い上がった。通り過ぎていた後ろの丸太も跳ね上がった。とっさに頭を下げて避けると、うまい具合に二本の丸太は空中でコーンと甲高い音を立てて、ぶつかり合い、水中へ落下した。
なぜ、丸太が跳ぶの?
未完成だからといって、丸太が飛び上がるはずはない。
そういう仕掛けなのか?
ビックリ丸太というアトラクションなのか?
足元を探してみるが、そういった仕掛けは施されてない。
当然だ。あんなものが頭に当たると大ケガをする。
また、宙に上がった二本以外の丸太は動かず、橋に固定されたままである。
何が起きたのか理解できず呆然としているうちに、今度はロープがシュルシュルと体に巻き付いて来た。まるで生きているかのような動きに、アトラクションの一部かと思ったが、すぐに打ち消す。ロープは私の首にも巻き付き、強力に絞めはじめたからだ。
これは何かの遊びではない。
なぜだか分からないが、このままだと殺される。
早くここから逃げ出さなくては。
運のいいことに、首とロープの間に私の左手首が挟まっていた。とっさに手を出したら、うまくロープにからみ取られたのだ。隙間ができているお陰で何とか呼吸ができている。ここに左手首を挟まなければ、直接ロープが首にかかり、絞め付けられていたはずだ。おそらく、外すことができず、そのまま死んでいたかもしれない。
しかし、ロープが締め上げてくる力はすさまじく強い。
私の手首と首を一緒に締めてくる。
一瞬、大蛇が巻き付いているのではと思い、目線を下げてみるが、ただのロープだ。
ならば、このロープは意志を持っているのか?
自由になっている右手で、巻きついているロープを外そうとするが、ビクともしない。
このまま耐えるのが精一杯で、私の手の力は持ちそうにない。
いきなり、膝の力が抜けて、しゃがみ込んだ。
だが、ロープは構わずに、ぐいぐい締め付けてくる。
このままだと絞め殺される。落ち着け。
この体勢から脱出できる武器はないかと目だけを動かして、あたりを見渡してみるが、何も見当たらない。首が締まっていて大きな声は出そうにない。出たとしても、人通りが少ない場所だ。誰も気づいてくれないだろう。誰もいない公園を勝手に無料貸し切りにして、遊んでいたため、バチが当たったのだろうか。
こんな薄暗い所で、誰にも知られず死にたくない。
公園で孤独死なんて、したくない。
年パスをまだ一回も使ってないのに。
せっかく元を取ってやろうと思っていたのに。
何とか生き延びようとジタバタしているうちに、右手がショルダーバッグに触れた。
そうだ。さっき買った…。
首と一緒に、ロープに巻き取られている左手に力を込めて、気道を確保しながら、バッグの中を右手でかき回す。手の先に目当ての物が当たる。包装紙を破り、箱に爪を突き刺し、中身を取り出す。よし、うまく取り出せた。簡易包装に感謝しよう。
私はそれを握り直すと、バッグから取り出し、首に巻き付いたロープに押し付けた。
カリスマ販売員から買った何でも切れる万能包丁は、このロープでも切れるのか?
頼むよ、カリスマさん!
私は最後の力を振り絞った。
後編へつづく。
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