1 / 2
トリイ・ストーリー ~前編~
しおりを挟む
「トリイ・ストーリー」 ~前編~
右京之介
朝のラッシュ時。ホームに入ってくる電車を待つ人の列は、白いペンキで①から⑩と書かれた場所に等間隔を開けながら行儀良く並んでいた。
ショートカットの女子高生が友達でも探すようなフリをして、すぐ後ろに立っている男の顔をチラッと見た。
目が合った男はさりげなく視線をはずし、線路の向こうに立っている大きな広告看板を見た。ピンクを基調とした産婦人科医院の看板には、二人の赤ちゃんが仲良くハイハイしている写真が載っていた。
毎朝、同じ時間の同じ電車に乗る人たちは、いつしか自分が乗り込む番号位置を決めていて、言葉を交わさないまでも、十人ほどいるいつもお馴染みの顔ぶれが、今日も揃っていた。
そんな中に見知らぬ一人の男が混ざっていた。大きな荷物を持っていないところを見ると、観光客ではなさそうだ。別段怪しんだわけではないが、どうも気になった女子高生は振り向いた瞬間、その男を観察してみた。
身長約百七十センチ。中肉中背。五十歳前後。黒いジャケットに黒いズボン。
再び前を向いた女子高生は噴き出しそうになった。何の変哲もないオッサンだったからだ。
これじゃ、友達に訊かれても説明のしようがないじゃん。
たとえば、目が大きいとか、ホクロがあるとか、金髪だとか、何か目立つ特徴があればいいのだが何もない。手には何も持っていないし、中年のおじさんがよくつけている変な整髪剤のニオイもしない。もう一度、この人とどこかですれ違っても絶対に気づかないだろう。
よく、コンビニ強盗なんかの目撃者証言がある。
“犯人は身長百七十センチくらいで中肉中背の男性。心当たりのある方は最寄りの警察まで情報をお寄せください”
それじゃ、分からんて。成人男性の特徴なんて、みんなそんなものだろう。これでどうやって犯人を探し出せというのか? それでも、犯人は結構捕まっているから、きっと日本の警察官は想像力が豊かなのだろう。
女子高生は制服のスカートの裾を直すふりをして、男の足元を見た。アルファベットのNがデザインされた黒いスニーカーを履いている。
うちのクラスの男子が持っているものと同じものだった。黒尽くめの中年男は、なぜかスニーカーだけは若かった。
やがて、オレンジ色の車体をした電車がホームに入ってきた。⑥番の乗車口に並んでいた女子高生はこの駅で降りる三人の客を見送ると、大股で車両に乗り込み、いつものように反対側のドア付近に立った。既に何人かがつり革を持ちながら立っていて、座る席がないことは分かっている。でもすぐに五つ先の駅で降りるため、いつもこのドア付近に陣取っていた。
ときどき、同じクラスの友人に会うが、今日は見かけない。彼女は気まぐれだから、乗る電車の時間を決めていないようだ。今日は、一本遅い電車なのだろう。
けたたましいベルとともに、半分は学生、半分は会社員を乗せた電車が走り出した。
さっきの気になる男性といえば、少し離れたところに立って、車内の広告を眺めている。自分が毎朝並ぶ⑥番の列に見かけない男性が紛れていたので、興味本位でチェックしていたが、たまたま今日が休みでどこかに出かけるだけだったのだろう。
あーあ、無駄な詮索をして損をした。でも、ヒマ潰しになったのだからいいか。どうせならかっこいい人だったらよかったのになあ。こんなに見かけが平凡な人の話をしても、友達にはウケないだろうなあ。
約五分後、電車は次の駅に着いた。ここからは大勢の人が乗ってくる。女子高生は押されてドア付近から離れ、自分の意に反して中央付近にまで来てしまった。今日は特に人が多いようだ。大きなバッグを持っている紺色スーツの団体がいる。みんな、一様に若くてスーツがあまり似合っていない。きっと新入社員の研修にでも行くのだろう。
あーあ、若造たちのせいで私はギュウギュウ詰めだよ。
若造の女子高生はボヤく。
電車が三つ目の駅を出たときだった。右横にグレーのスーツを着たサラリーマン風の中年男が立った。押されて仕方なく横に来たようにも見えたが、きっと違う。なんだか不自然な動きだったし、チラチラとこっちを見ている。
やがて、男は後ろに移動すると、電車がそんなに揺れもしないのに、体を押し付けてきた。女子高生は持っていたバッグで防御をしていたが、男は天井の通風孔を見上げたまま、器用に右手を伸ばしてきた。
――痴漢だ!
心臓がズキンと鳴った。背中がゾゾーッと騒いだ。声を出そうと思ったが出ない。
痴漢なんかに遭ったら大声でわめいてやるといつも思っていたのに。学校で婦警さんに変質者の投げ飛ばし方の講習も受けていたのに。悪者を捕まえて警察に表彰されるシーンまで思い浮かべていたのに。――いざというときの私って、こんなに弱虫だったの?
情けなくて涙が出そうになる。
何とか体をずらしたが、男の手は執拗に追いかけてくる。混んでいるということもあるが、体が恐怖で硬直して動かせない。相手はこんなに弱そうな中年男だというのに。
怖いよ。誰か、助けて。
車内広告を眺めていた黒尽くめの男はフッと苦笑した。その広告も駅のホームで見た産婦人科医院のものだったからだ。産婦人科に用はないのだがと思いながら、視線を女子高生の後ろに立つ男の手元に向けた。先程から怪しいと睨んでいた男だ。ビジネスバッグで自分のやっている行為を隠してはいるが、男の上気した顔と体をよじって逃げようとしている女の子の態度で、何が行われているかは分かる。
男は乗客の狭い隙間を通り抜けて、その中年男の後ろに立った。
車内アナウンスが、まもなく四つ目の駅に到着することを告げたとき、黒尽くめの男がその男の手首をつかんだ。
朝の通勤通学時、電車の中は混んでいるが、駅のトイレの中も混んでいる。四つ目の駅のトイレもひっきりなしに人が出入りしていた。そんな中、かれこれ十分が過ぎようとしているのに、一番端の個室トイレのドアは閉まったままだった。
個室の中には二人の男がいた。女子高生に痴漢行為を働いていた男が奥の壁に向かい、両手をついて立っている。その後ろに黒尽くめの男が立っていた。手首をつかんだまま、ここに連行してきたのだ。
「次の駅で下りてください」
黒尽くめの男は手首をつかんだままその男の耳元でこう囁いた。痴漢は体を動かして逃げようとしたが、腕を後ろに捻り上げられていたので素直に従った。
かなり痛そうな顔をしていたが、加減は分かっていた。これ以上、力を入れると唸り声をあげてしまう。そうなると返って面倒だ。
連行するとき、被害に遭っていた女子高生と目が合った。何かを言いたそうだったが、無視して電車を下りた。
自分を助けてくれたのが、駅のホームですぐ後ろに並んでいた何の特徴のない男だと知って驚いたに違いない。今頃は目的の駅で下りて学校へと向っているだろう。
女子高生の体を撫で回していた男はいきなり手首をつかまれて、心臓が止まりそうになった。自分の欲望に負けて何度かこういう行為をしてきた。いつか捕まるかもしれないという恐怖感もあった。しかし、情けないことに劣情は止められなかった。腕を後ろに回されながら、人ごみの中を男と共に歩いた。決して振り返らないようにと言われたので前を見たまま歩いた。たくさんの人が歩いていたので、二人をいぶかる者はいない。後ろの男は警察官か鉄道保安の人間で、てっきり駅の事務室にでも連れて行かれると思っていたのだが、着いたところは男子トイレの個室内だった。
――誰なんだ、この人は?
後ろを振り向くなと言われているので顔は分からない。落ち着いた声からして五十歳前後か。かろうじて見える足元は、確か若者に人気のあるNのマークが入った黒いスニーカーだった。
「そのままの姿勢で私の質問に答えてください。あなたは新聞に載りたいですか?」
トイレの中で両手をあげている哀れな男の背中がビクッと動いた。
新聞って、この痴漢行為が載るという意味か?
だったら?
「い、いえ。載りたくないです」
「警察に連行されたいですか?」
連行されたあとは逮捕されるのか?
だったら?
「いえ。されたくないです」
「では、振り向かないで、あなたの名刺を渡してください」
――名刺?
なんで名刺なんだ?
男はスーツのポケットをさぐって、名刺入れから名刺を取り出すと後ろの男に差し出した。
「あと二枚同じ名刺をください。いや、人からもらった名刺を自分の名刺のフリをして渡す人がいるものでね。自分の名刺なら、同じものが何枚かあるでしょう」
男はもう二枚、名刺を差し出した。
後ろの男の声は落ち着いている。
人からもらった名刺を渡す人がいる?
この人はこういうことを何度もやっているのか?
黒尽くめの男は三枚の名刺をトランプのように扇形に広げてじっとながめた。
「森河高彦さん。ほう、高校の先生ですか。あんなことをしてもいいのですか?」
「ダメです。いえ、あのう、魔が差しまして、何とか穏便に……」
後ろの男から暴力的なニオイは感じられなかった。先程手首を捻られたが、もう痛みは消えている。声は温厚で言葉遣いも丁寧だ。ここで殴られたり、刺されたりはしないだろう。警察に通報するつもりもないようだ。しかし、何ともいえない不気味さがある。いったい何が目的なのか分からない。
黒い男が静かに言った。
「差した魔が悪いのではありません。あなたが悪いのですよ、先生」
「はい、確かに、悪いのはこの私ですから、あのう……」
「お願いが三つあります」男は森河の話を遮る。「名刺一枚につき、一つのお願いというわけです。それを聞いてくだされば、今回のことは誰にも言わず黙ってましょう」
許してくれるのか!?
「は、はい。分かりました。ありがとうございます。ありがとうございます」
森河は目の前の冷たそうな白い壁に向って何度も頭を下げた。
「まず、お金です。いくら用意できますか?」
「えっ、私には家庭がありまして、そんなには……」
「先生、私が警察に届けるとあなたの人生は終わりますけどね。ご家族がおありなんでしょう? それに生徒や学校や教育委員会にも迷惑がかかると思いますがね」
後ろでスマホを操作する音が聞こえる。
「ちょ、ちょっと待ってください。あのう、値段の相場はどんなものですか?」
「お金は一週間以内に用意してください。期間厳守です。一週間で用意できる限界が相場です。個人差がありますから、金額はあなたにお任せしますが、先生、あなたの人生が掛かっていることをお忘れなく」
黒尽くめの男は森河に一週間後、ある場所へ来るように、そして、用意した札束の間に自分の名刺を挟んでくるように指示をしてきた。
そして、奇妙な質問をしてきた。
「二つ目のお願いですが、あなたは笛が吹けますか?」
男が静かに去った後も、森河はトイレの個室に入ったまましばらく動けず、便器のフタにへなへなと座り込んだ。まるで男の残像に体を縛られているようだった。長く話していたような気がしたが、時計を見ると五分ほどしかたっていない。朝の職員会議には充分間に合うはずだ。
一人になって冷静に考えてみたが、やはり夢ではなかった。自分の痴漢行為からここまで連れて来られた経過がフラッシュバックしてくる。しかし、今更後悔しても遅すぎた。あのまま警察に通報されていたら、あの男の言う通り、今日の夕刊に大きく載って、人生が激変していただろう。
“現役高校教師が痴漢行為”
妻と娘の顔が脳裏に去来する。確実に離婚されるだろう。まだ健在な両親や兄弟からも見放されるはずだ。あの男のお陰で家庭崩壊からは免れた。学校をクビにならずに済んだ。
しかし、それと引き換えに金を要求された。
一週間で作れるだけの金を用意しろ?
警察に届けることはできない。どのように状況を説明すればいいのか?
「なに、痴漢をやっていたら恐喝されました? 恐喝犯人は悪いが、あんたも悪い」
そう言われるだろう。言われて追い返されるのならまだしも、あの女子高生が被害届けでも出していれば、そのまま痴漢で捕まってしまうだろう。一生を棒に振るか、一度だけ金を渡して穏便に済ませてもらうか。
どちらがマシな地獄か?
答えは明らかだった。それにあの男は常習犯に違いない。やり方が手馴れているし、話し方も妙に落ち着いている。痴漢を脅迫して生計を立てているような男だろう。そんな職業があるのか分からないが、きっと、あの男から逃げることはできない。
銀行と郵便局にある貯金残高はだいたい分かっている。長年これといった贅沢もしないで、懸命に働いていたため、ある程度の貯えがある。しかし、そこから引き出すことは妻の目があってできない。何事も几帳面な彼女は残高を千円単位まで把握しているだろう。もちろん、隠し口座やへそくりなんていう便利なものはないし、同僚や親戚から借りるわけにもいかない。そんなことをすると妻にばれるかもしれない。
また、同僚の中には日頃から私をよく思っていない人物がいる。何らかの汚点を見つけると鬼の首を取ったように喜んで、学校中に言い触らすに違いない。
それに、他人から借りるにしては金額が大きすぎる。二、三万のお金では、あの男は許さないだろう。こちらは名刺をカタに取られている。連絡をしようと思えばいつでもできるはずだ。
あの男が指定したタイムリミットは一週間後。
森河はシステム手帳を広げて、その日に◎印を書き込んだが、思い直して×印に変えた。
どう考えても、素敵な日じゃないと思ったからだ。
昼休みの運動場。どこにでもある学校の七不思議。ここ国常高校にも、かつてこの運動場が底なし沼だったという言い伝えがある。そして、よく晴れた日には誰もいない運動場の真ん中から子供の声が聞こえて来るという。その正体は、沼で小さな舟に乗って遊んでいるうちに転覆し、溺死してしまった子供の霊であり、寂しくて、おいでおいでとみんなを呼んでいるからだという。
だから、体育の授業のときも、休み時間に遊ぶときも、生徒たちは元より、先生たちまで真ん中付近には近寄らない。
運動場の真ん中にある半径約五メートルの地域は国立高校の七不思議の一つ。
心霊スポットと呼ばれている場所だった。
「おらっ、もう一丁!」
運動場の真ん中で大きな声が響いた。声の主の足元に小太りの男が転がっている。
「ほら、立てよ。なんだよ、それでも副主将かよ。――じゃ、次!」
副主将と呼ばれた男は肩で息をしながら立ち上がり、のそのそと土俵の外に出た。
代わりに入ったのは同じく小太りの香川だ。すでに何番かをこなしていたので、短パンは砂で汚れている。
「オリャー!」
その香川もあっという間に押し出された。
「まったく、どいつもこいつも、何でうちの相撲部はこんなに弱いんだよ」
土俵の真ん中で仁王立ちになっていたのは主将の小森。体には汚れがないし、息も切れていない。起き上がって呼吸を整えた副主将の吉田が言った。
「小森、俺たちが弱いんじゃなくて、お前が強すぎるんだよ」
小森主将が睨みつけて言う。
「何言ってるんだ。お前とはたかが身長で二十センチ、体重で三十キロくらいしか変わらんだろうが」
「それだけ違えば十分じゃないかよ」
「お前なあ、相撲は体格がすべてじゃないんだぜ」
「すべてじゃなくても、大部分、体格で決まるだろうよ。デカくなるために力士は、いっぱいメシを喰って、いっぱい寝てるんだぞ。だから喰うのも寝るのも稽古のうちだって言うじゃないか。なあ、香川」
体に付いた砂を掃っていた香川はポカンとした顔で答える。
「そうだよなあ、大きい方が有利だよなあ」
また、小森が怒りだす。
「じゃあ、香川。小さい力士に未来はないのかよ。希望はないのかよ」
「いやあ、小さくてもがんばっている力士はいるよなあ。ときどきデッカイ力士をブン投げるしねえ」
香川はすかさず、前言をひるがえす。
「そうだろ。お前らが弱いのは体格のせいじゃなくて精神力のせいなんだよ。もっと相撲を愛せよ」
吉田が副主将の面目にかけて言う。
「俺は愛してるさ。だから、毎日、こんな辺鄙で気持ちの悪い場所で稽古してるんじゃないか。女子生徒の痛い視線を背中に目一杯浴びながらも、健気にがんばっている俺だぜ。――なあ、香川」
「そう、ボクも相撲を愛してるよ。月刊大相撲を定期購読しているし、部屋には力士のポスターを天井にまで貼っているし、白鵬の湯飲みはボクの宝物だよ」
「あのなあ、吉田はいいとして、香川の相撲の愛し方はおかしいだろうが」
「そうだよなあ、ちょっと相撲オタクが入っているね」香川はそう自己分析をした。
主将の小森と副主将の吉田とヒラの香川は同級生だった。百八十センチを優に越え、体重も百キロを越える小森と百七十センチもない小太りの吉田と香川。クラブ活動をする上で、主将、副主将といった肩書きが付いているが、同級生だから、普段はタメ口で話している。
彼らが属する相撲部は運動場のド真ん中に足で線を引いて簡易土俵を作り、毎日休憩時間に稽古をしていた。心霊スポットなんか関係ない。迷信なんか信じない。死んだ子供のおいでおいでという声なんか聞こえてこない。ときどき、サッカーボールやソフトボールが土俵内に転がり込んでくるが、小森主将が睨みつけると、みんな、その体格に圧倒されてすごすごと退散して行く。
しかし、好き好んでこの場所を使ってるわけではない。ここしか空いてないだけだ。最初は、何かタタリでもあるんじゃないかと怖がっていたのだが、今では平気になってしまった。
それよりも、他の生徒の視線の方が恐ろしい。小森の提案で、まわしをして稽古をしているからだ。短パンの上からだが、吉田も香川も恥ずかしくてしょうがない。運動場の真ん中にいるだけでも目立つというのに、上半身は裸で下半身は短パンにまわしである。小森は観客が多いほど相撲取りは強くなれるんだと、屁理屈をこねた持論を展開して、強引にこのスタイルを確立してしまった。
運動場にいる生徒たちは、稽古をしている相撲部の周りで勝手に遊んでいるだけで、観客なんかじゃない。冷たい視線は感じても、暖かい声援なんか聞いたこともない。もちろん、放課後もここで稽古をするし、早朝稽古もときどきやっている。
雨が降っているときは、体育館にマットを敷いて、バスケ部や体操部や柔道部などの顰蹙を無視しながら稽古をする。バスケットボールや新体操のボールが飛んできたときは小森が思いっきり蹴り返すか投げ返す。
しかし、さすがの柔道部にも小森より体格の大きな生徒はいないため、誰も文句は言えなかった。
そろそろ昼休みが終わろうとする時間。相撲部員は地面に描いた土俵に向って深々とお辞儀をしてから昼の稽古を終えた。
小森主将は礼節にうるさい。たとえ、心霊スポットに作った即席の土俵であっても、最後はちゃんと礼をしてから終えるし、もし、各自の礼がバラバラなら、揃うまで何度もやり直しをさせる。土俵は神聖な場であり、そこには相撲の神様が住んでいると信じているらしい。
心霊スポットに神様?――小さいことは気にしない大きな小森主将であった。
三人は体中に付いた埃を掃うと、まわしをはずして短パンの上から制服の黒ズボンを履き、傍らに脱ぎ捨てていたアンダーシャツとワイシャツを着ながら教室に向った。首には白いタオルが揺れている。
「なんでいつも稽古する場所が運動場の心霊スポットなんだよ」さっきから小森は怒ってばかりだ。「他の高校の相撲部には立派な土俵と立派な指導者がいるんだぜ。それなのに、俺たちには不気味な沼跡と無能な顧問しかいないって、おかしいじゃねえか」
「でも、マイ土俵なんてそんな急には作ってくれないよ」吉田がいなした。「なあ、香川」
「そうだよねえ、運動場の隅も空いてないしねえ」
「なんだよ、香川。場所なんかどうでもなるだろうよ。野球部のバックネットを外せばいいだろ」
「ああ、そうだね。うちの野球部は弱っちいから、あんなのいらないよね」香川はすぐに同調する。
「プールもいらないだろ」
「そうだね。水泳部も弱っちいもんね」
「だろっ。水たまりで練習しろっての」
「なあ、小森。土俵がほしいって、もう一回先生に頼もうよ」吉田が提案する。
「いやだ。あんな奴に頭を下げるのは一回だけでいい。一回言ってダメな奴は何回言ってもダメだ」
「じゃあ、今度はボクが言ってみるよ」香川がぼそっと言う。
また、小森の顔が怒りで赤くなる。
「お前なんかじゃダメに決まってんだろ。主将の俺と副主将の吉田が並んで頭を下げてもダメだったんだぜ」
「そうだなあ。ボクじゃダメだよね。押しが弱いもんね」香川はまた冷静に自分を分析する。
「けどよ、小森、相撲部の予算が少ないから仕方ないんじゃないか」吉田が言う。
「違うだろ。そこで学校側からちゃんと予算を取ってくるのが顧問というものだろうが。まったく、なんであんな奴が俺たちの顧問になったんだよ」
廊下にタムロしている生徒たちの間を、大声を上げながらモーゼのようにかき分けて歩く小森は振り向いて、後ろからついて来る太刀持と露払い役の吉田と香川に言った。
「俺、一度でいいから、本物の土俵に上がってみたいんだ」
小太りの二人もウンウンとうなずいた。
今日、初めて三人の意見が合った。
半纏を羽織った老人は、脚立から下りて頭を包んでいた手ぬぐいをほどくと、剪定したばかりの松の木を見上げた。
さっそくカラスがやってきて羽を休めている。
「どうじゃ、きれいにしたばからだからな。居心地がいいじゃろう」
老人が自分の孫に話すように語りかけると、不思議なことにカラスはコクリと頷いた。
空に向って曲がりながら伸びている枝が、より逞しく見えるようになり、また、緑もより鮮やかに見えるようになったため、老人は自分の仕事に十分満足していた。木からも喜びと感謝の声が聞こえてくるような気がする。
老人の父もここで庭師として働いていた。さらに祖父までもここにいたというが、老人の記憶にはまったく残っていない。ここには樹齢百年を越える木が三本あるが、すべてこの親子が三代に渡って手入れをしてきた。父からはよく祖父がやってきた仕事がいかにすばらしかったかという話を何度も聞かされていたが、立派な職人だったらしいというだけで、話の内容はよく覚えていない。
むしろ、影響を受けたのは父の方だった。家が近かったため、子供の頃から、父の後を追いかけて、よくここへ遊びに来た。そして、父の仕事を眺めながら、自分も将来同じ仕事に就くことになるだろうと思っていた。実際、木が好きだった。大きく育てるのも好きだったし、高い所に登るのも好きだった。職人になって十年ほどは親子で一緒に仕事をしていた。
やがて、独り立ちできるくらいになったとき、父が病死した。病状はかなり悪化していて、医者には生きているのも不思議なくらいだったと言われたが、父はきっと自分の成長を待ってから死んでくれたのだろうと思っている。
そして、老人は自分に子供がいれば後を継がせてやりたいと思った。とてもやりがいがある素晴らしい仕事だと思うからだ。しかし、子供はいなかった。いや、娘が一人いたが老人には親権がなかった。
老人が娘を授かったのは四十歳を過ぎてからのことだった。遅くに生まれた子供はかわいいという。実際、目に入れても痛くないほど可愛かったが、そのとき既に妻との関係は修復できないところにまで来ていた。
妻とはよくここで会った。祖父が、父が、自分が育てた木々を見上げながら、いろいろな話をした。
そして、離婚話もここでした。妻の背中では生まれたばかりの娘がすやすやと眠っていた。
老人は、悪いのは自分の方だと詫びたが、妻に対して許しを乞うことはしなかった。許してもらえないことは分かっていたからだ。二人の間の大きな亀裂はもう元には戻せなかった。
しかし、老人は妻に一つだけ願い事を言った。
二十年後、娘は二十歳になる。そのとき、ここでもう一度会ってほしい。
この土地を離れて娘と二人で生きていく決心をしていた妻にそう言った。
妻は快く承諾してくれた。
“娘の二十歳の誕生日、ここで親子三人が再会する”
そのとき、自分は六十三歳になっている。
老人はその約束を生き甲斐にして、今まで懸命に仕事をこなしてきた。
老人はまぶしい木漏れ日に目を伏せて、隣の松の木に目をやった。次に取り掛かる仕事だ。太い幹から枝の先端にまで目を這わせて木の声を聞き、葉と語らい、頭の中に剪定後の姿をイメージする。
老人はしばらく目を瞑ったまま腕を組んで立っていた。
やがて、目を開けて、ふたたび木を見上げたとき、松の枝に止まっていたカラスが飛び立ち、老人の肩にバサリと乗った。
カラスは老人の耳元でカチカチとくちばしを鳴らした。
「なに、金色に塗った……? どういう意味じゃ?」
老人はカラスの言葉が理解できた。
奇妙なことにカラスには足が三本あった。
高校教師の森河は無人機が設置されたブースから出てくると、すばやく左右を見渡した。誰にも見られていない。雑居ビルの三階から二階へ階段を急いで駆け下りる。そのフロアには三軒の飲食店が営業をしていた。ここなら誰かに見られても言い訳ができる。ハンカチを取り出して、額の汗を拭きながら、その中の一軒の喫茶店に入ろうと思ったがやめた。一刻も早くこのビルを出たかったからだ。スーツの内ポケットには札束が入っていた。
最初に当たったのは信販会社だった。しかし、融資まで十日かかりますと言われて、消費者金融にした。あの男との約束は一週間で、期日厳守と言われていたからだ。
大手の会社で、出入りするときになるべく目立たない店を選んだ。融資はスムーズに行われた。そして、四軒目の消費者金融会社に行った時、無人機のモニターを通じて、もうこれ以上借りない方がいいですよと若い女性に言われた。
教師という社会的信用度の高い職業に就いているが、給料は決して高くはない。必然的に借りられる総金額も決まってくるだろう。それがいくらなのか分からない。闇金ならいくらでも貸してくれそうだが、それだけはやめておいた。
大手の金融会社を回って、向こうから忠告されるのを待った。そして、四軒目になってその忠告を受けた。忠告がなければもっと借りていただろう。
親身になってアドバイスしますと謳っていたTVのCM通りだった。
ちゃんとした会社からはもう借りられない。
――二百万円。
この金額が一週間で用意できる限界だった。
あの男は限界が相場だと言った。金額は任せると言った。確かにこれからの自分の人生を換算した金額にしては少ない。しかし、もし、これでは少ないと言われたならば、金融会社から借りない方がいいと言われたことを話して、何とか許してもらおうと思う。
これから家族に気づかれずに、返済をしていかなければならない。事故や病気で払えなくなるかもしれないというリスクを抱えて何年かを過ごさなくてはいけない。自分の小遣いから考えても、この金額が限界だということも話そうと思った。
トイレの中で聞いたあの男の声が蘇ってくる。穏やかで丁寧な言葉遣いだが、拒否できない強引な声が脳に入り込んできた。脳は拒否反応を起こすことができず、すべてを受け入れてしまった。姿を見せず、声だけで人を圧倒したあの男。年齢は私よりもはるかに下だっただろうあの男。しかし、あの黒い男はこの金額で許してくれるだろうと思った。
森河はあの男に言われた通り、札束の間に自分の名刺を挟んで、指定された場所に届けた。電車とバスを乗り継ぎ、わざと迂回しながら、慎重にここまでやって来た。誰にも後をつけられていなかったはずだ。ここでは、てっきり、あの男かあるいは仲間が待っていると思っていたのだが誰もいない。木の手入れをしている職人さんが一人いるが、仕事に集中しているようで、こちらを見ようともしない。
もし用意できるお金が五百万円以上なら、一万円札を五百万円分ごとに分けておくように言われた。
理由は今、分かった。五百万円分の札束の厚さが、賽銭箱の隙間から入れられる限界幅だったからだ。
しかし、用意できた金額は二百万円に過ぎなかった。もし、文句を言ってきたら、分割という手もある。この二百万円を払い終わったら、また借りられるだろう。あの男の口調から、そんなに切羽詰っているような状況ではないはずだ。しかも、金額はこちらに任せると言ったのだから、それくらいは妥協してくれると思う。いろいろなケースを想定しながら、何とか無事にお金を賽銭箱に納め終えた。
次に、森河はあの男から言われたもう一つのお願い事を実行するために社務所へ向った。そこで自分の名前を言えばいいらしい。話はつけておくと言っていた。ということは、そこにあの男はいないのだろう。あのとき、こちらから顔は見えなかったが、男は私の顔を知っているはずだ。だったら、わざわざここで名乗る必要はない。
社務所には若い女性の巫女さんが一人でいた。二十歳前後の今風の子だ。化粧をやや濃い目にしている。ドレスアップして街を歩けば、けっこう目立つのではないかと思った。しかし、今は白衣と緋袴の巫女装束を着ている。
森河が名乗ると、その子は、はい聞いておりますと言って奥に入って行き、紺色の風呂敷に包まれた長い棒状のものを持ってきて、
「こちらが笛でございます」両手でうやうやしく渡された。
「はあ、左様でございますか」同じようにうやうやしく両手で受け取ると、森河はその子に一礼し、持っていたショルダーバッグに笛を入れて歩き出した。
結局、約束の地の神社で会ったのは、庭師と巫女さんだけだった。二人とも見た感じは普通の人たちで、あの男の仲間とは思えない。見張られているという感覚もなかった。帰り道はときどき後ろを振り返りながら歩いていたが、怪しい人物には出会わなかった。
お金を支払うという第一のお願い事はこれで無事に終わったと見ていいのだろう。
問題は二つ目のお願い事だ。
なぜ、笛の練習をしなければならないのだ?
笛なんて、小学生のときの縦笛くらいしか経験はない。高校教師といっても教えている科目は社会だ。音楽には疎いし、弾ける楽器などはない。もし、音楽教師で吹奏楽部の顧問でもやっていたならできるかもしれないが。
いや、無理か。いくら音楽教師でも、こんな笛を吹いた経験なんてあまりないだろう。
なぜ、横笛なんだろうか?
問題はどこで練習するかだ。お金の工面をする一方で、笛の練習場所を探していた。口笛の練習なら車の中でもできるが、横笛となると両手を使わなくてはならない。どこかの大型スーパーの駐車場にでも車を止めてやるしかないか。
教師は恨めしそうに、ショルダーバッグから少しはみ出している笛の頭を見た。
一ヵ月後、あの男から連絡が来るらしい。
また、あの男の声が蘇ってくる。
(それまでにしっかりと練習しておいてくださいね)
あの男は温和な声でそう言った。逆にその声が怖くて震え上がった。
そして、三つ目のお願いが残っていることが、教師をさらに憂鬱な気分にさせた。
女の子は二十歳の誕生日の日にお母さんが経営する小さな美容室で金髪を黒髪に戻した。
お母さんは、どうしたわけ? と訊いてきたが、別に深い意味はない。誕生日を期に真面目になろうと思ったわけではない。女手ひとつで育ててくれたお母さんに恩返しをしようなんて、立派なことも思わない。強いてあげるのなら、今までバカばっかりやってきて、それに飽きてしまったということ。バカの王道をダラダラ歩んで行くのに少し疲れただけ。
でも、お母さんのお金をすくねずに、自分でちゃんと稼ごうと決心したことは確かだ。決心したとたんに、今まで付き合ってきた友人たちがバカに見えてきた。その中にまともに働いている奴なんか一人もいなかったからだ。
あいつらとは少し距離を置こうと思った。でも、完全に決別するわけにはいかなかった。なんと言っても、自分が苦労して築き上げた地位があったからだ。引退したとはいえ、まだ自分のことを尊敬してくれている後輩がたくさんいた。そいつらのためにも、仲間との関係は断ち切りたくはなかった。
女の子は履歴書を書きながら思った。
この髪型じゃ、どこへ行っても採用してくれないだろうな。せめて、見かけだけでも良くしておかないと、若さ以外、何の取り柄も資格も特技もないのだから。
自慢の頭は金色のボサボサで、ところどころがツンツンとんがっていた。それを、ばっさりとショートにして、黒く染め直した。
「あんた、やっと人生のやる気が出てきたねえ」
娘が真面目になると思ったのか、お母さんがちょっぴりうれしそうに言う。
「そんなもん、ないよ。やる気なんてなくても人生はやっていけるよ」
「あんた、相変わらず人生を舐めてるねえ」
「逆に舐められたら、おしまいだからね」
「まあ、せいぜいがんばってよ。お母さんも応援してるからね」
そんなお母さんの声を軽く背中で受け流して店を出た。二十年間も美容師をやってるんだ
から、さすがに仕上げがうまい。タダじゃ悪いと思ったので千円札を三枚だけ置いてきた。
そして、今まで塗りまくっていた化粧を少しだけ薄めにして、金ぴかだった洋服も地味で無難なものにした。
しかし、若いとはいえ、今まで学校にも行かず、まともに職につかずに生きてきた女性を採用してくれるところはなかった。
ヘタッぴな字で何枚履歴書を書いたか分からない。神妙な顔つきで何枚スピード写真を撮ったか分からない。履歴書をいちいち書いて写真を貼り付けるのが面倒になったので、コピーしてごまかそうかと思っていたところ、ひょんなことで、就職先が決まった。せめてやる気を見せようと履歴書をデカイ封筒に入れて速達で送ってみたのだ。
するとどうだろう。すぐに電話が来て、なぜか面接をするまでもなく、書類だけで採用されてしまった。
職業――巫女。
自分の名前と同じ発音。
仲のいい女友達に言ったら爆笑された。
巫女になる女性の条件は、未婚で穢れのない清浄な身体の持ち主らしい。
「そりゃ、ミコ、あんた、真逆じゃん!」
一分間、笑い続けやがった。
確かに、笑われてもしょうがない。自分も認める。この身体は穢れだらけだ。きっと、身体から発するオーラまで穢れているだろう。ドス黒いオーラ? ねずみ色のオーラ?
変なオーラなのに、どうして採用されたのか分からない。
「でも、条件の半分はあってるだろうが。あたしが未婚というのは本当じゃんかよ。それに、小学五年生の夏の終わりにグレてからこの歳まで、ずっと遊びまくっていたなんて、黙っていたら分からねえだろうが」
「あんた、神社で働くんだよ。絶対、神さんから天罰を喰らうよ」
さらに、一分間の爆笑。
「悪さをやっているところを、神さんには見られていたかもしれないけど、あたしがちゃんと働くと言ってるんだからいいだろうが。神さんもそんなに心が小さくないだろうよ」
「まあ、ミコが心を入れ替えるんだったら応援してやるよ」
心を入れ替えるんじゃなくて、今までの刺激だらけの生活に飽きただけなんだよ。神社なら静かな人生が待っているような気がするし、疲れを取るにはちょうどいいかなと。そんないい加減な動機なんだよな。
言ってみれば、リハビリだな、リハビリ。
でも、あたしが更生すると勘違いしたバカな女友達は就職祝いにと、ポケットからクシャクシャの一万円札を取り出して押し付けてきた。
「悪いね、あんたも金ねえのに」
「気にしないでいいよ。ところで、巫女って、給料いいの?」
「バイトだからさ、期待はできねえ」
「ふーん、じゃ、出世払いでいいよ」
「祝い金を返すのかよ! しかも、巫女って出世できるのかよ!」
「まっ、巫女のてっぺん目指してがんばんなよ」
「てっぺんか。いい響きだな」
それ以来、巫女になったミコは白い上衣に緋色の袴という地味な格好をして、社務所で大人しく仕事をしている。お守りやお札や絵馬の販売。厄払いや家内安全や交通安全祈願のお手伝い。境内の掃除や参拝客の案内や電話の応対とこき使われている。しかし、気を使ってくれているのか、バイト料は相場よりかなり高めなので文句は言えない。
でも、アルバイトだというのにお神楽の練習までさせられている。
これには文句を言った。本格的なお神楽をあげるとなると数万円もかかる。それをやってくれという奇特な人がいる。舞っている巫女が時給九百円のアルバイトとは言えない。ときどき手順を間違えるし、顔は引き攣ったままだし、頭に乗せた冠みたいなものは落ちそうになるし、手に持った木の枝も落としそうになる。
今まで人様に迷惑ばかりかけてきた元ヤンキーにも良心というものがある。つくづく悪いなあと思ってしまう。神主によるとお神楽の最中は神様が降りてきて、一緒になって踊ってくれているという。
バイトのいい加減な踊りじゃ降りて来ねえだろ。もし、あたしが神様だったら、そんな奴のところには降りねえよ。
一番苦労したのは、接客業に不似合いなこの言葉遣いだ。神主には何度も注意を受けている。それにこの短気な性格だ。参拝客はお年寄りが多い。財布からお金を出すのに手間取っていると、さっさとしろよと言いたくなるし、合格祈願に来た受験生には、神頼みしているヒマがあったら勉強しろよと叫びたくなるし、厄除け祈願に来た人には、厄なんか自分でブッ飛ばせよと回し蹴りをかましたくなる。
でも、それは我慢。ここをクビになったら行くところがないからだ。
こんな女なんかどこも雇ってくれないことは自分が一番よく知っているさ。
「ああ、オッチャン。さっき、一万円の心願成就っていうデカいお札が売れたよ」
ミコは社務所にお盆を持って入ってきた紺色の袴の男に言った。
「あのう、ミコさん。わたしのことはオッチャンじゃなくて、神主と呼んでください」
ああ、そうだった。
これもなかなか直らない。この年代の人はミコから見るとオッサンだ。親しみを込めてオッチャンとチャン付けで呼んであげているのだが、本当は神主と呼ばなければならない。しかし、この神主にはあまり威厳がないし、どちらかというと頼りなさそうな風貌をしている。オッチャンと呼ぶほうが似合っている。ときどき、参拝客の前でもオッチャンと呼んでしまい、そのたびに睨まれている。
ミコの採用を決めたのはこのオッチャンだ。なぜか、書類選考だけで採用された。では、ミコの容姿が飛びっきりいいのかというと、並のやや上といったところだ。じゃあ、ミコが巫女にぴったりの容姿だったのかというと、巫女に合う容姿など分からないから、やっぱりよく分からないままだ
まさか、写りの悪いあたしの顔写真を気にいってくれたとか?
ただ、ちょっと気になることがある。このオッチャン、どっかで見たことがある気がする。でも、思い出せない。勘違いかもしれない。何と言っても、ずっと悪の道を歩んできたから、オッチャンのような神の道とは交わらない。二つの道にはどこにも接点がないからだ。
今年で四十九歳になる神主は、お茶と和菓子をミコの方に差し出した。
「ちょっと休憩してください。その間、わたしが参拝客の相手をします」
時間はちょうど三時になっていた。
「休憩後はお神楽の練習をお願いします。明日、三件の予約が入ってますので」
ミコは口から蕎麦まんじゅうを噴き出しそうになった。
明日、三回も舞わなければならないのかよ。
「あのう、神主さん。あたしのヘタッぴな踊りでもいいのですか?」
「それはかまいません。最近、上達してきたので神様も喜んでおられますよ」
「へ~。あたしの踊りをねえ」
「しかし、その、自分のことをあたしと言うのはやめた方がいいですよ」
これも癖になっている。
あたしは傍らに置いてある黒いエクステを見た。髪を短く切りすぎたので、舞うときは付け毛をしてロン毛になる。
あたしの踊りなんか、絶対にご利益なんかねえよなあ。でも、みんな、有難そうに帰って行くし、今まで何の効果もないじゃないかと文句を言われたこともない。
もし、何かあってもあたしはバイトだし、バイトはあたししかいないし、まあ、いいか。
それに、あたしのような品のない元ヤンに神楽なんて神聖なものをさせるオッチャンにも責任がある。いざというときはオッチャンが何とかしてくれるだろう。
小さなお守りとかお札をチマチマ売っていても大した売り上げにはならない。この貧乏神社を助けるという意味でも、がんばって踊ってやるかな。何といっても、商品を仕入れるのと違って、元手は安上がりのバイト女だ。オッチャンは教えてくれないけど、かなりの儲けになっているはずだ。
それに、ディスコには小学六年生のときから厚化粧で年齢をごまかして通っていたからダンスは得意だ。
あっ、ダンスと言っちゃダメなのか。舞だな、神様が出現する有難い舞だ。
どうせ、神さんが出てきているのかどうかなんて、誰にも見えないだろう。舞っているときに写真を撮っている人もいるけど、神さんは写ってないだろう。心霊写真でも写っているのはオバケばっかりで、神さんは登場しないからな。
でも、オッチャンは神さんが見えると言っていた。本当かどうか確かめようはないけど。
まあ、神主だから見えるのだろう。その辺はすごいな、オッチャン神主。
ミコがアルバイトをしている満願神社が貧乏な神社になったのは今から十年ほど前だ。亡父の跡を継いだオッチャンこと現神主がちょっとした手違いでおみくじの中に“凶”を入れすぎて、人が寄り付かなくなってからだ。あわてて“大吉”を大量投入したが、あの神社は不吉だというウワサが流れ出して、一度去って行った参拝客はなかなか戻って来なかった。
しかし、神主が反省をして、朝晩、境内をきれいに掃き清め、神様に向って懸命にお祈りをしているうち、徐々に客が帰ってきた。
神社の神域は広くはないが、地元では歴史のある有名な神社だ。参拝客を初めに迎える鳥居は笠木がなだらかなカーブを描いている明神鳥居であり、その両脇には忠心ヅラをした二匹の狛犬が鎮座している。真っ直ぐに伸びる石畳を挟んで、杉の木と松の木がきれいに並んでいる。その先には立派な日吉造りの神殿、拝殿、社務所が鎮守の森を背景にして厳かに建っている。
それぞれの建物の四隅には吊り灯籠が下がっていて、夕方になると火が入れられる。
火を入れるのもミコの役だ。神殿内で二十四時間絶えることなく灯されている火を神主からもらい受けて、灯籠に火を付けて回る。面倒なので百円ライターを使ってもいいですかと訊いたら、目玉をひんむいて叱られた。とても大切な火らしい。かつてはこの火を狙って盗賊が押し寄せたこともあったという。
最も重要な建物である神殿は三重の垣根で覆われていて、垣根にはたくさんの鈴が取り付けられている。
そして、すべての鈴の中には式神が潜んでいた。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
やがて、境内に奇妙な声が流れてきた。毎日流れてくるこの大きな声。
ミコはこの声を聞くととても憂鬱な気分になった。何かの擬音にも聞こえるが、何を言っているのか意味は分からない。しかし、何とも言えない気持ち悪さがある。オッチャンに相談したが、止める手立てはないという。オッチャンもこの声が大嫌いだそうだ。いつも温和な表情をしているオッチャンも、この声を聞くと顔をしかめるくらいだ。
その声は満願神社の隣から聞こえていた。隣には二望寺というお寺がある。長年住職を務めていた男性が亡くなり、後を継いだ妻のフミがお経を読んでいるのだ。何語かも分からない奇妙なお経だ。そのお経は呪いの効果があるという。お経というのは死者の霊を弔うもののはずだが、その女は隣の神社、つまりここを潰すためにお経をあげている。
以前より両者の仲は良くなかったのだが、昔は人もまばらだった満願神社に参拝客が戻り、それを羨むようになった女は、お寺の仕事もおろそかにして、どこからか見つけ出してきた奇怪なお経を唱え出した。お寺の収入が減ったのは隣の神社のせいだと思い込んでいる。
そして、そのお経の一番の目的は、その呪いにより満願神社で二十年に一度行われる祭礼を潰すことだった。祭礼にはたくさんの人が集まり、当然、相当の収入がある。それがどうしても我慢できないらしい。逆恨みもいいとこだ。
かつて、日本では神社と寺は仲良く建っていた。神社の境内にお墓があったり、お寺に鳥居が立っていたりした。中には二つを兼ねているところがあり、神主と住職が同じ人というケースもあった。神主衣装で地鎮祭をして、袈裟に着替えてお経を読んでいた。神と仏が仲良く共存している状況を神仏習合と言った。
それが変わったのは明治になってからだ。政府が神社と寺を分離したのだ。そのため、しだいに神社と寺は離れて行き、ついには、神様と仏様のどっちが偉いかという論争にまで発展した。しかし、どちらが偉いかは決められない。両方とも見えないのだから決めようがない。
神仏に向って、おたくさんたち、どっちが偉いのですかと訊くこともできない。
いや、こちらから一方的に訊くことはできても、向こうからの返事が聞こえない。
どちらが偉いかは、神のみぞ知る。仏のみぞ知る。
深夜二時。黒っぽいジャンパーを着た男が港の一角で闇に溶けて立っていた。しきりに海に向って大型の懐中電灯を照らしている。頭上高く上げたり、下にさげたりと忙しそうだ。ときどき点滅させたり、ガラス面に手を当てて光の加減をしたりしている。
何らかの合図を送っているようだ。
やがて小さな漁船が、係留されている船の間を縫うように滑り込んで来て、男の足元でユラリと止まった。なかなかのテクニックだ。大金払って雇ったプロの漁師だから、それくらいは当たり前のことなのだろう。
「お待ちどうさまです」
船の中から日焼けした初老の男が顔を出した。
「よお、細川さん。今夜もありがとね」ジャンパー男が気軽に声をかける。
細川と呼ばれた男はイカ釣りを本業としていた。しかし、燃料高騰の煽りを受けて不景気となり、渡しと呼ばれる非合法の仕事を受けるようになった。
仕事は簡単だった。船で荷物の受け渡しをするだけだ。しかも、一回の仕事で本業半月分のお金がもらえる。ただし、荷物の中身は分からないし、知ったとしても決してしゃべってはいけない。しかも、もし海上保安庁や警察に捕まったときには黙秘を貫くという決まりになっている。そして、守れなかったときには過酷な制裁が待っていた。
船が接岸したとたんに、どこかに隠れていたらしい数人の男が足音を殺しながら、懐中電灯の男の元へ走ってきた。全員が暗闇に同化するように黒っぽい服を着ている。
先頭を走って来たリーダーらしき男が漁船を見下ろしながら声を潜めて言った。
「どうやら、うまくいったようだな。――細川さん、ご苦労」
「これは、カリノ組長。いつも世話になっとります」
「よしっ、みんな手伝うんだ」
男たちが漁船に乗り込んだとき、一台のワゴン車がやって来て、リーダー格の男の横に止まった。
「アニキ、やりましたね!」
窓から運転手役の若い男が顔を出してうれしそうに言う。
細川が組長と呼んでいた男を、この若者はアニキと呼んでいる。
「おお、ジュンか。末端価格は四億だぜ、四億」
「俺、そんな金、見たことないです。アニキは何に使うんですか?」
「まずは組の上納金があるだろ。半年も滞納しているんで、本部からうるさく催促されてるからな。それと事務所の内装工事費だな。床も壁もあちこち剥がれているからな。それに、応接セットも欲しいよな。バリバリの革張りのな。あと、車もな。いつまでもこんな中古のワゴンじゃ、格好がつかないからな。やっぱりベンツだな。デカくて黒いベンツな。――まあ、そんなもんか」
「さすがアニキ。自分のためでなく、組のために使うんですね」
「当たり前じゃねえか。残ったら、みんなで山分けだな」
「山分け? マジっすか! みんなの中に俺も入ってるんですか?」
「――さあ」
「ちょっと、アニキ!」
「こらっ、ジュン。つべこべ言わずにお前も外に出て手伝わんかい」
男たちは渡しの細川と協力して漁船からすべての荷物を陸揚げした。荷物は大きな二つの木箱と小さな一つの木箱だった。あとはこれをワゴンに積み込んで売りさばくだけだ。
売却のルートは既に確保してある。それ専門の奴らが今や遅しと待ち構えていることだろう。ここから先、自分たちの手は汚れない。売った奴らが捕まったとしても、所詮は末端の奴らだ。自分たちの元まで捜査の手は及ばない。
「おお、細川さん、約束のこれな」
漁師には十分すぎるほどに分厚い封筒を渡した。
「カリノ組長、ありがとうございます」
細川は船からヌッと大きな手を伸ばして大切そうに受け取る。
沖に止めた母船からここまで運んでくれた謝礼と口止め料だ。
なぜ、こんなに分厚いのか。その理由は何度もこの仕事を請け負っている細川は十分に承知している。今晩のことを誰かに話すと、この冷たい海に沈められる。残された家族に対しても容赦はない。家族揃って仲良く魚のエサになる。そのための保険だ。
細川は真っ暗な水面を眺めて、体をブルッと震わせた。
たった一度の仕事で大儲けした漁船が海のかなたに見えなくなったとき、静かな港に一発の銃声が轟いた。
「伏せろっ!」アニキがとっさに叫んだ。
倉庫の陰から三人の男が飛び出してきた。三人とも手には拳銃を持っている。銃口をこちらに向けたままゆっくりと歩いてくる。三人とも無言だ。
「くそ野郎、こんな場所で派手にブッ放しやがって!」
アニキは地べたに伏せながら吠えた。まったくの予想外だった。こちらは何も武装はしていない。ブツを受け取ることで、仕事の大半は終わる。無事に受け取ったところで緊張感も警戒心も薄れていた。油断をしていたとしか言いようがない。
どこからか付けてきやがったのか。それとも待ち伏せしてやがったのか。
くそっ、どこから情報が漏れたんだ。
アニキは首を少し上げながら、伏せている五人の仲間を順番に見た。その中にはワゴンを運転していた見習いのジュンもいる。信用できるメンバーを揃えたつもりだったが、この中に裏切った奴がいれば、立ち上がるはずだ。
拳銃を手にした三人が狙いを澄ましながらしだいに距離を縮める中、五人は冷たいコンクリートに体を密着したまま微動だにしない。
――どいつだ。
闇はさらに濃くなっていく。そんな中で一人一人の顔を見比べて行く。誰もが両手を頭の後ろで組んだまま地に伏せていて、動こうとはしない。
くそっ、母船の側から漏れたのかよ。せっかく大枚払って手に入れたというのによ。
アニキはカッカしている自分の脳を押さえ込んで冷静になった。
こいつらが裏切っていないとなると、反撃ができるじゃねえか。向こうは三人、こっちは六人。拳銃さえ奪えば何とかなるんじゃねえか。
アニキは地面に向って独り言を言いながらタイミングを計っていた。そのとき、仲間の五人の一人が目で合図を送ってきた。長年一緒に仕事をしてきた若頭の百舌だ。共に何度も修羅場をぐぐってきた。
あいつが考えていることは分かる。みんなでいっせいに飛び掛ろうと言うのだ。
よしっ、分かった!
こちらからも目で返事を送ったとき――。
――ドドドドッ。
闇の中に巨大なシルエットが浮かんだ。
なんだ、こいつは!?
ライトを消した一台のバスがゆっくりと走ってきて、三人の傍らに止まった。
アニキは首を起こしてバスを見上げた。茶色を基調とした二階建てサルーンの大型観光バスだった。二階部分は外の景色や空が眺められるようにガラス張りになっていて、中に派手なシャンデリアが見える。
他の五人もあっけに取れらて、呆けた顔で見上げている。
こんなものを使って犯罪をやるのかよ!?
観光バスの中にも数人の男がいるようで、窓からニヤついた顔でこちらの無様な姿を見下ろしている。
ふん、まったく、大人数でご苦労なことだぜ。
アニキは反撃をあきらめて体中の力を抜いた。仲間にも落ち着くよう合図を送る。先ほど合図を送ってきた百舌も首を小さく横に振って、残念そうな顔をした。相手の人数も分からないし、他にどんな武器を持ってるかも分からない。
何しろ、二階の窓から覗いている奴らの一人は手にカラオケのマイクを持ってる。
何だよ、あの余裕は。カラオケやりながら犯罪かよ。
しかし、ブツさえ渡せば命は助けてくれるだろう。俺たち六人を殺せば大事になるし、組織同士の大きな抗争に発展する。そうなると莫大な損失が発生する。奴らにとって何も得することはない。できれば穏便に済ませたいはずだ。
拳銃を持った三人のうちの一人が観光バスの運転席の窓越しに話しかけた。
「――ブツゾウ」
小柄な運転手役の男が答えた。
それは日本語ではなかった。
バスの中から十人ほどの男が下りてきて、瞬く間に戦利品である三つの木箱をバスの脇腹のトランクに詰め込んだ。
こうして、末端価格四億円の覚せい剤は、後からやって来た東南アジア系の奴らにまんまと掠め取られた。
――ドドドドッ。
六人は這いつくばったまま、轟音を発して去り行く大型観光バスの赤いテールランプを見送っていた。
それは闇夜に溶けていく怪物の目玉のように見えた。
腕を捻られたとき、肘のあたりでビシッと嫌な音がした。筋がおかしくなったのかもしれない。
その会社員は何が起きたのかよく分からないまま、自分の腕の心配をしていた。パソコンを使っての数値管理が主な仕事のため、利き腕が使い物にならなくなったら困ると思ったからだ。左手でキーボードを打つのは大変だなとノンキに思った。
しかし、すぐに腕の心配よりも身の心配の方が重要であると気付かされた。
OLに痴漢行為を働いていた男は、いきなり何者かに腕を取られて、個室トイレへ連行された。そして、金品を要求されたのだ。何者かはスムーズに事をすすめた。今日が初めてではなさそうだった。それはこの駅の個室トイレの多さで分かった。朝のラッシュ時はトイレが混む。普通の駅なら順番待ちの列ができているだろう。しかし、ここは個室の数が非常に多く、必ず空いている箇所がある。後ろに立って脅迫している男はそれを知っていて、ここでの犯行に及んでいるに違いない。
脅迫犯は犯罪者とは思えないほど丁寧で優しげな口調で言った。
「そのままの姿勢で結構ですので、私の質問に答えてください。あなたは新聞に載りたいですか?」
両手を上げて壁を向いている男は消え入りそうな声で答えた。
「いや、それは勘弁していただきたいです」
「では、警察に連行されたいですか?」
「いや。それも勘弁してください」
虫のいい回答だと自分でも思った。しかし、そう答えるしかなかった。
「では、あなたの名刺を渡してください」
男はよく分からないまま、ポケットから名刺を取り出すと、後ろ手に名刺を差し出した。
「もう二枚同じ名刺をください。――人からもらった名刺を渡す人がいるものでね」
男は三枚の名刺を受け取ると静かに言った。
「長谷幸造さん。いい会社にお勤めですね」
いい会社――自分でもそう思っている。
三十年ほど前に就職したときは誰も知らないような小さな会社だったのだが、今では誰でもその名を知っている大手企業に成長していたからだ。収入もそれにつれて上がり、贅沢ではないが、何不自由ない生活を送っている。その会社で中間管理職の任に付いていることは、近所の奥さん連中に対する妻の自慢でもあった。
しかし、いい会社にお勤め――その言葉には強烈な皮肉が込められていた。
その一流会社で中間管理職を務めるような立派な人間がそんな下劣な行為をしてもいいのですか?
社会的影響は大きく、会社のイメージダウンは計り知れないのではないですか?
トイレの個室の冷たいタイルに顔を押し付けられながら長谷は思った。
きっと、私はクビになるだろう。
そして、妻とは離婚することになるだろう。
一流会社に勤務していることだけが夫婦関係を何とか維持していると言っても過言でないからだ。その支えを失ったとき、妻と娘は家を出て行くだろう。いや、私の方が追い出されるだろう。近所でも目立つほどに大きいあの家を、私は出て行かなければならない。家のローンを払い終えるために、今までどれだけの残業や休日出勤をし、どれだけ上司に媚を売り、どれだけ取引先にペコペコと頭を下げてきたことか。
確かに痴漢は卑劣な行為だ。
しかし、その痴漢をしていた人から金を脅し取るなんて、まるでウンコにたかるハエみたいじゃないか。だが、その考えはすぐに改めた。ならば、自分はウンコそのものになってしまうからだ。
後ろの男は耳元に顔を近づけてくると、外に漏れない程度の小さな声で言った。
「私のお願いが三つあります。名刺一枚につき、一つのお願いというわけです。それを聞いてくだされば、今回のことは誰にも言わず黙ってましょう」
男は金の受け渡し場所を指定してきた。期日は一週間後。金額は任せるという。自分のこれからの人生を換算した金額を用意するようにとも言われた。今の年収から計算すると数千万円に相当するだろう。いや、億単位になるかもしれない。
きっと男は最初から、身なりがよく、収入があり、社会的地位が高そうな痴漢を探していたに違いない。そんな奴がいるのかと言うと、ちゃんとここにいる。
私がそうだった。
管理職の手前上、せめて、部下よりも仕立ての良いものを着ようと、オーダーメイドのスーツを着ている。その格好を見て、ターゲットにされたのだろう。私がお金をかけているのはスーツだけだとは知らずに。
しかし、私には家庭がある。家族に内緒で大金を支払うことはできない。
観念した私は、自宅の増改築費用として会社に七百万円の借り入れを申し込んだ。退職金が担保だった。さらに、その日から酒とパチンコとタバコをやめた。せめて自分の小遣いだけでも足して払おうと思ったからだ。痴漢などという情けない行為をした自分に対するペナルティだった。あのときはどうにかしていた。お尻を触られて顔を硬直している若いOLにゾクゾクしている自分がいた。ストレスが溜まっていたのは確かだが、言い訳にもならない。ストレスがない人はいないだろうから。
何も知らない妻は、それ以来、寄り道もしないで毎日まっすぐ家に帰ってくる私をいぶかしんだ。
今まで家庭を顧みずに仕事をしていたから、家族サービスでもしようと早く帰ることにしたんだよ。やっぱり、家で食べるお前の手料理が一番だな。おいしい料理を味わうのも家族サービスの一つだろ?
私はそんなことを言い訳に使ったが、妻は今まで通りゆっくり帰ってくればいいのにと思っていたようだ。いい会社でしっかり稼いでくれるだけで良かったからだ。私の家庭での存在感はその程度のものだった。
六日後、七百万円の融資は希望通り下りた。高校卒業後、長年に渡ってこの会社に貢献してきたという自負があったため、融資はしてもらえると思っていた。しかし、いざ審査が通ったと聞かされたときは、正直ホッとした。もしダメだったら銀行を当たらなくてはならなかったからだ。増改築費用という資金使途は他の人間には漏れないだろうが、念を入れて、同僚たちが家に来ないようにしなければならない。中にはおせっかいでおしゃべりで私のポストを狙っている奴らもいる。男は敷居をまたげば七人の敵がいるというが、私の場合、七人どころではない。
七百万円は妻や娘にバレても言い訳のしようがない大きな金額だった。
結局、用意できたのは七百十五万円。毎月少しずつ給与天引きで払っていかなければならないが、同じ業界でも給料が減っている会社がいくつもある。妻には不景気を理由にごまかせる金額だった。幸いなことに今まで給与明細を妻に見せたことはない。
端数の十五万円は以前より妻に内緒で少しずつ貯め込んでいた小遣いと、ここ一週間の節約分だった。
あの男はこのお金を直接持参するように言った。大きな物が運べる車に乗ってくるようにとも言われた。
「二つ目のお願いですが、あなたは太鼓が叩けますか?」
私の聞き違いではなく、男は確かにそう言った。
「俺って、ユウのお父さんに会ったことあるよな?」
安い外資系チェーン店のコーヒーをすすりながら、中学生の頃から付き合っているシンが訊いてきた。
窓に向って並んで座っていた私は小さなビスケットを前歯で齧りながら答える。
「シンが家に来たとき、一回会ったことあるよ」
「ちょっと白髪があって、背の高い人だったよな」
「そう。今は白髪増えてるけどね。でも、背は高いまんまで縮んでないよ」
「ほら、俺って、人の顔覚えるの得意じゃん」
「ああ、そうだね。何の変哲もない顔の人をよく覚えているよね」
「昨日の夜、ユウのお父さんを見かけたんだよ」
「えっ、どこで?」
「高野町のゲーセンで」
「ゲーセン? そんなところで、うちのお父さん何やってたのよ?」
「太鼓の達人」
「なんで?」
「バチで」
「じゃなくて、どうして?」
「知らん」
「見間違いじゃない?」
「だから、俺は人の顔覚えるのは天才的なんだって。あの人は、絶対、ユウのお父さんだよ。上着を脱いでネクタイはずしてワイシャツ姿で叩いてたよ。なんかもう必死って感じでさ。汗だくなんだよ。こめかみに血管浮いてるし。あの店で年配の人って珍しいじゃん。だから、若い奴らが周りを囲んで応援してるわけ。その中にいた俺のツレに訊いたら、お父さんは最近毎日来てるんだって。あの店じゃ有名人みたいよ。――ホント、親の仇みたいにバチをボコボコ叩きつけてたもんなあ」
「親の仇って、じいちゃん、ばあちゃん、まだ生きてるし」
「そういう意味じゃなくて、なんでユウのお父さんがゲーセンにいるわけ?」
「それはこっちが聞きたいわ!」
――ブシュ!
叫んだとたん、口からビスケットの破片が噴き出した。
しばらく家に帰るのが早くなったと思っていたのに、お父さんは最近また遅くなってきた。お母さんは、家族サービスだなんて、所詮、一週間くらいで終わっちゃったねえと笑っていたけど、お父さんは飲みにも行かないでゲーセンで太鼓を叩いている。
会社で何か嫌なことがあったのかもしれない。中間管理職は上と下に挟まれて大変らしい。でも、直接訊くわけにはいかないし、はっきりしたことが分かるまで、お母さんには黙っておこうと思う。
もちろん、シンには厳重に口止めをしておいた。そして、今度会ったら、ホントにうちのお父さんかよく見ておくように頼んでおいた。私が直接見に行ってもいいのだけど、怖いからやめておこうと思う。自分のお小遣いでゲーセンに通っているのだから、構わないのだけど、でも、なんだか気になる。
どうしちゃったんだろう、うちのお父さん。
長谷幸造は約束の場所に七百十五万円を持参した。用意できるお金が五百万円以上なら、一万円札を五百万円分ごとに分けておくようにと言われた。だから、五百万円と二百十五万円の二つの束にして用意しておいた。なぜ、わざわざ分ける必要があるのかと思っていたが、神社の賽銭箱の前に立ってみて分かった。
なるほど、この隙間では一度に七百十五万円を入れるのは無理だ。
妙なところで感心した。準備周到とはこのことだ。ここまで計算しているということは、こんなことを何度も行っているということになる。いったい何人の痴漢が犠牲になったのだろう。
いや、もう痴漢はいい。懲り懲りだと思う。しかし、こんな目に会わないと止められなかった自分にも腹が立つ。これから何年もかけて返済していかなければならない。その間、ずっと自分に腹を立て続けることになるだろう。
若い巫女さんに渡された本物の大きな和太鼓は、家に持って帰るわけにはいかず、家族に内緒で倉庫会社から収納トランクを一ヶ月間借りて保管した。本番の日まではゲームセンターで練習を続けようと思う。
「それまでにしっかりと練習しておいてくださいね」
あの男は温和な声でそう言った。
男の一つ目の願いであるお金はちゃんと支払った。金額はあれでよかったのだろうかと心配していたが、その後、何も言ってこない。そして、二つ目の願いを聞き届けるために、言われた通り練習をしている。最初はどうやって練習しようかと悩んだ。そもそも和太鼓なんて触ったこともない。
毎週収納トランクから持ち出してどこかの橋の下ででも叩こうかと思ったのだが、ある日、太鼓を叩くゲームがあることを知り、勇気を出してゲーセンという所に行ってみた。本物と同じような太鼓が置いてあり、これなら十分練習になると思い、家族サービスも忘れてせっせと通い始めた。
最近はリズムが体になじんできたし、太鼓の面とフチを叩くコンビネーションもうまくなってきた。運動不足だったからちょうどいいやと開き直って、懸命に叩いている。
かつてはゲームセンターに入り浸っているような若者をバカにしていたが、太鼓をうまく叩くと、彼らは歓声を上げて素直に喜んでくれた。みんな、いい奴らだった。
ありがたいことに娘には出会っていない。確か、ゲームセンターみたいな所は騒がしくて嫌だと言っていたっけ。
ただ、彼らの中に知り合いがいて、娘に密告でもされたら嫌だなと思った。
「おい、こらっ!」
後ろから大きくて険のある声をかけられた小森はとても驚いた。今までそんな口調で話しかけて来た奴なんていなかったからだ。国常高校相撲部主将として学区内に君臨している。プロの力士並みの体格をしているので、この地域内では誰もケンカなど売ってきたりはしない。さらに今日は少し体格が劣るとはいえ、副主将の吉田とヒラの香川を連れて三人で歩いている。それなのにいきなり怒鳴られた。
しかも、声からすると女だった。
三人が振り向くと、声の主は白い上衣に緋色の袴をはいて、竹ぼうきで掃除をしているショートカットの巫女さんだった。
巫女さんは竹ほうきを肩にかつぎあげると、のっしのっしと三人の方に向って来た。
そして、一番背が高い小森の真正面に立つと、見上げて言った。
「おまえら、これが見えんの?」
小森のさらに上にそびえているのは赤い鳥居だった。ところどころ色がはげているかなり年代ものの鳥居だった。
「神社に入るときは鳥居の下で一礼するのが礼節というものだろうが」
「へっ?」
小森は巫女さんにそう言われて、何も言い返せなかった。彼は礼節に弱かったからだ。礼にはじまり、礼に終わるのは何も武道に限ったことではない。相撲もそうだ。そのため、普段から二人の部員には礼節のことをしつこいほどに注意している。
神社もそうらしい。長い歴史により伝えられてきた礼節を守るのは当然のことだった。しかし、鳥居のところで一礼するとは知らなかった。
小森は巫女さんに大きな態度で、しかも汚い言葉遣いで注意された怒りも忘れて、他の二人を整列させると、深々と一礼した。
「よしっ、いいよ。じゃ、次はあそこで手と口を清めること」
巫女さんは竹ぼうきで手水舎を指して、スタスタと歩き出した。
三人は遅れずにミコの後につづいて歩き出した。
吉田が香川に言う。
「なんだよ、あの女。急に出てきて生意気じゃない?」
「そうだよなあ、巫女さんとは思えないねえ。美人だけどねえ」
ミコが振り向いた。
「こらっ、神域に入ったら私語は慎め! ここから先は神さんにお会いするという厳粛な気持ちを持って歩くこと」
「すいません」「はあ、どうも」
大きな体を小さくして小森も一緒に謝った。「以後、気をつけます」
手水舎の前でミコは振り向くと、竹ぼうきを担いだまま言った。
「手順を教えるからよく聞くように。ひしゃくを右手に持って、水をくんで左手を清める。次に左手に持ち替えて右手を清める。その後、また右手に持ち替えて口をすすぐ。――じゃあ、ここまでやってみて」
参拝の作法とは縁もゆかりもない人生を歩んできた三人は、恐る恐るひしゃくを手に持って手順をすすめた。
「こらっ、デブ!」
ミコに怒鳴られてみんなはビクッとした。三人ともデブだったからだ。
「口をすすぐときは、ひしゃくに口をつけるな! 左手に水を受けてやるんだ」
その後、三人はミコからひしゃくの伏せ方。神前での二拝二拍手一拝の仕方などを怒鳴られながらも細かく教わった。
しかし、香川が拝殿の脇にいた狛犬に向って、
「あっ、鳥居の横にもいたワンチャンがここにもいる」と叫んで、またミコに怒られた。
「ワンチャンって何だ! 狛犬と呼べ。狛犬は神様の使いなんだぞ。満願神社には四匹の狛犬がいて守ってくれてるんだ。しかも狛犬というのは、犬ではない。想像上の生き物だ」
さらに、三人ともお賽銭が百二十円ずつしかないと言ったときには、顔を真っ赤にして激怒された。
「あんたたち、神さんをなめてんの!?」
ここに来てからずっと押されていた香川がついに反撃をした。
「あとで缶ジュースを買おうと用意していた大切なお金でして、それに、さっきから神さん神さんと言ってますけど、あのう、神さんなんかいるのかどうか、見えないし……」
ミコが香川の前に立ち塞がった。
「じゃあ、キミは見えないものは信じないわけ? 愛も平和も心も見えないんだけどね」
香川はたちまちシュンと萎んだが、すぐにきっぱりと言った。
「いえ、信じます。ラヴもピースもハートも大好きです」
「なんで英訳するんだ、こらっ! 日本神道をなめてんのか」
ミコが竹ぼうきを上段に構えた。
「待ってください、巫女さん」小森が割って入る。「俺は国常高校相撲部主将の……」
「小森だな」ミコは竹ぼうきを下段にさげた。
「えっ!? なんで俺の名前をご存じなのですか?」
「国常高校に相撲部が出来たんだな」
「はい。去年まで女子高だったのですが少子化の影響で男女共学になりまして……」
「あのときは良かったなあ」
ミコが懐かしそうな顔をして虚空を仰ぐ。
「えっ、巫女さんは、もしかして先輩ですか?」
「――そういうこと」
相撲部の三人は横一列に並んで、先輩に深々と頭を下げた。三人とも、今日はよく頭を下げる日だなと思った。
「近々、この満願神社で二十年に一度の祭礼が行われるんだ」ミコは説明を始める。「そのときに奉納相撲をしてもらおうと思うわけさ。それで今日、みんなを呼んだんだ。奉納の意味は分かる? 神さんに捧げるんだよ。だから、神さんを信じてないというのは問題外なわけ」
小森が直立不動で言う。
「ごっちゃんです、先輩! 先輩が俺たちを推薦して下さったんですね。顧問の先生から昨日その話を聞いたときはうれしくて、夜は眠れませんでした。――なあ、吉田」
「はい、俺たちは土俵も稽古する相手もいないような部ですから、みなさんに取り組みを披露できると思うと眠れなくて、俺も思いっきり睡眠不足です。――なあ香川」
「ボクは爆睡したよ」
「てめえ、裏切るのかよ!」小森が怒り出す。「今日は寝るな。これは神さんからの命令だ」
「わ、分かったよ。大相撲ダイジェストのビデオを見ながら、がんばって朝まで起きているよ」
香川の優柔不断な態度に、ミコもあきれた表情をしている。
「ところで先輩。先輩のことは何と呼べばいいのでしょうか?」
バリバリ体育会系の小森は先輩後輩といった上下関係にもうるさい。生意気な巫女さんだと思ったが、同じ学校の先輩と分かったとたん、尊敬の眼差しを向けてきた。これからもお世話になる先輩の呼び名は大切だ。
「ああ、あたしのことはミコでいいよ」
「はあ、でも、巫女さんじゃ、そのまんまだと思うのですが」
「なに、先輩の言うことが聞けないの?」
「いえ、只今から巫女さんと呼ばせていただきます! なあ、みんな」
「はい!」吉田が元気に返事をする。
「でもなあ……」
「なんだ香川、文句あんのか!」小森が怒鳴る。
「すいません、ボクの巫女さんと呼びます」香川が萎縮する。
「ボクのって何だ? なんで、あたしが香川のものなんだよ、こらっ!」ミコの竹ぼうきが香川の頭上を狙い撃ちする。
小森があわてて間に入り、竹ぼうきの柄を真剣白刃取りで受け止める。
「巫女さん、待ってください! 香川については長い目で見てやってください」
「ああ、分かったよ。あたしは巫女をやってるけど、たまたま名前もミコと言うんだ」
「あっ、そうだったんですか」三人は納得した。
興奮が収まったミコは、竹ぼうきを腰のあたりに落ち着けると、学生服姿で並んで立っている三人を見渡して言った。
「ところで、他の相撲部員はどうしたわけ?」
小森が一礼をして答える。
「部員はこの三人だけです」
「三人!? 奉納相撲はトーナメント方式なんだよ。どうやって戦うんだよ」
「はい。主将の俺はシード選手として一回休みます。まず、吉田と香川が取り組みをします。勝った方が決勝で俺と戦います」
「二回しか取り組みがないじゃん。お客さんはいっぱい来るんだよ。どうすんのよ」
「でも、部員が……」
「顧問の先生は何やっているわけ? 今日が初めての打ち合わせだというのに来てないし」
三人はとても気まずい顔になったが、つづけて小森主将が説明する。
「なんだか、先生は相撲があまり好きじゃないらしくて」
「じゃあ、なんで顧問になったのよ」
「じゃんけんで負けたそうです」
「バカかよ!」
「はあ、元女子高なので女の先生が多いんです。それで、相撲部と聞いてみんなが断ったそうです」
「それで、じゃんけんかよ。どんな先生なんだ、そいつは」
「はい、静乃先生という女の先生なんですけど、今年、短大を出たばかりの恥ずかしがり屋さんで、テレビの相撲中継でも、まわしをしている力士のお尻が見れないそうです」
「……」
呆れて黙り込んだミコに香川が追い討ちをかける。
「力士のオッパイも見れないそうです」
「うるさい!」ミコの声が神社の境内に響いた。
「今後、顧問は当てにするな! 自分たちで部員を増やすこと。せめて、取り組みは十番くらいこなすように」
「でも、みんなサッカーとかテニスとかおしゃれなスポーツに行っちゃって、相撲部には入ってくれないんですよ」
「だったら、小森が学校で一番デカイ奴を脅して連れて来ればいいだろうが」
「一番デカイのは俺です。二番目にデカイのは杉田という奴なんですけど」
「ああ、そいつでいいじゃん」
「女なんです」
「女でもTシャツ着せてやらせろよ」
「そんなの無茶ですよ。でも、三番目にデカイのは男の奴で体重が百五十キロくらいあるんですが」
「そいつでいいだろ」
「身長も百五十くらいなんです」
「ゾロ目で目出度いじゃん。神さんも喜ぶだろ。その球体のような奴も連れて来るとして、奉納相撲の人選は小森に任せたから。――じゃあ、せこい百二十円のお賽銭でお祈りしてくれる?」
三人はもったいなさそうに百二十円をお賽銭箱に入れて、順番に鈴を鳴らした。
ガラン、ガラン、ガラン、ガラン…。
小森と吉田が拝殿の前で相撲部の発展を真剣にお願いしている間も、香川は汗だくになって鈴を鳴らし続けている。
「こらっ、香川、何やってるんだ!」ミコの声が飛ぶ。
「はあ、ボクはあまり相撲部に貢献してませんので、せめて神頼みだけは二人に負けないようにしようと、こうやってガラン、ガランと……」
「あのな、鈴を鳴らすのは三回と決まっているんだ。数多く鳴らせばいいってもんじゃない」
「へっ、三回?」
香川は肩で息をしながら、鈴を見上げて呆然と立ち尽くす。
「へっ?」「へっ?」知らなかった二人も鈴を見上げる。
「家のチャイムをピンポーン、ピンポーンと何回も鳴らされたらうるさいだろ。それと同じ
で神様もいい加減うるさいの。分かった?――じゃあ、今度はこっちに来てくれる」
ミコは再び竹ぼうきを肩に担ぐとサッサと歩き出した。
三人はあわてて後を追う。
振り向いたミコがまた怒鳴り出した。
「こらっ、真ん中を歩くんじゃない! 参道の真ん中は神さんの通り道だ」
へっ?
三人は立ち止まって自分の足元を見た。
「人間は端っこを歩くこと」
ドタバタと脇に駆け寄るが、香川は勢い余ってドゴンと灯籠にぶつかる。
「こらっ、香川。神聖な灯籠を稽古の相手に選んでどうするんだ」
「あのう、ミコ先輩。香川には特別のご配慮をお願いします」
何度も怒られる香川を見かねて、小森がすかさずミコをなだめる。
ミコも香川のドン臭い性格が分かりかけてきたので要望を受け入れる。
四人は静かな境内を、玉砂利の音をザクザクさせながら歩く。途中で庭師が木に登って剪定をしていた。ミコは、こんにちはー、ジッちゃーん! と大きな声で叫んであいさつをする。相撲部の三人も、ごっちゃんでーす! と叫ぶ。年老いた庭師も、おう! と礼を返してきた。
やがて、四人は神殿の前に出た。
「ほら、あれ」
ミコが竹ぼうきで指した所には――。
「おおっ、土俵だ!」
驚いた小森主将の目玉が二倍くらいになった。
「ミコ先輩、こんなところに土俵なんかありましたか? 俺、ガキの頃から何度もこの神社に来てますけど、見たことないです」
そこには立派な土俵が設営されていた。土俵上にはちゃんと俵があるし、脇には水桶と塩箱もある。大きな屋根は四本の柱が支えていた。運動場のド真ん中の心霊スポットに足で描いた土俵とは大変な違いだ。
「びっくりしたでしょ。奉納相撲のために、あたしとさっきの庭師のジッちゃんが力を合わせて作ったんだ。周りにズラッとゴザでも敷けば結構な数のお客さんが座れるだろ。――どう? みんな一躍ヒーローになれるんだぜ」
「すげえ、俺、一度でいいから、本物の土俵に上がってみたかったんですよ」
副主将の吉田も目を輝かせて土俵を見つめている。香川はうれしそうに土俵の周りをクルクル走り回っている。
「何といっても二十年に一度だからな。あたしが掃除をしてるんだ。女は土俵に上がったらダメらしいけど、この神社の掃除係はあたしだからいいだろう。それに、土俵の下には神さんへのお供え物として昆布とスルメとお米を埋めたんだ。お米は魚沼産コシヒカリだぞ。奮発しないと神さんも怒るだろうからな」
「へえ、本格的ですね」小森が感心する。
「待ち遠しいですよ」吉田も喜んでいる。
「それと、行司の役は町内会長のじいさんに頼んだ」
「えっ、もしかして大相撲の関係者ですか?」小森の小さな目が輝いた。
「いや。木村庄之助と同姓同名というだけで行司に選ばれたんだ。昨日、衣装合わせしたけどブカブカで全然似合わん。代わりに式守伊之助という名前の人を探してみたんだけど、そんなレアな名前の人は近所にいなくて、しかたなく、木村のじいさんに決まったわけさ」
小森と吉田は遠くを見つめる。
ザッ、ザッ、ザッ。
香川はまだ走り回っている。
「それと、この土俵の土はあたしが調達したんだ」
ミコは自慢げに土俵の土を指でつまんだ。横から小森と吉田も土をいじる。
「そうなんですか。さすが先輩。確か、土俵の土には粘土質が混じった物を使うんですよね。――これはちょっとサラサラしてるなあ」
「そうなのか、くわしいな小森は」
「はい、その方が型崩れしないんですよ。これはどこの土ですか?」
「いや、まあ、いいじゃんかよ」
「あれ、なんだろう、これは」
吉田が土俵の側面を指差しながら言った。
そこからプラスチック製のスコップの頭が出ていた。
二人はしゃがんで不思議そうに土俵から生えている赤いスコップを見つめた。
その頃、香川は目を回して倒れていた。
神社のそばにある昼下がりの児童公園。二人の女の子がシーソーにまたがって遊んでいる。
一人のお母さんがその脇にある砂場に入って、足で砂をかき分けながら言った。
「ねえ、この砂場おかしくない?」
そう訊かれたもう一人のお母さんも砂場に入り込んだ。
「ホントだ。いつもと違うみたい。やけに底が深くなってない?」
毎日遊びに来るこの公園の異変に気づいたのは、つい先ほどのことだ。
入り口に立ててあるはずの三本の逆U字型の車止めが抜かれて、そばに置いてあったのだ。
二人のお母さんは重い金属のそれらを苦労して穴に差し込んだ。
「誰がこんなイタズラをするんだろうね」
「ホント、何の得にもならないのにねえ」
「これを引っこ抜いて、公園に車を乗り入れたのかしらねえ」
「公園内を走り回って、何が楽しいのかしらねえ」
二人は息を切らしながら文句を言い合った。
そして、公園内に入ってから砂場の異変に気づいた。
「まさか、砂場だけ地盤沈下じゃないよねえ」
「昨日の夕方は何ともなかったのに」
「地震とか……」
「えっ、うちの方、揺れてないでしょ。ここだけってこと?」
「そう。この公園が震源地で沈んだんじゃない?」
「そんな細かいピンポイント地震なんてあるわけ?」
「ほら、今は何が起きてもおかしくない世の中でしょ」
「そうよねえ。だったら、ピンポイント竜巻が巻き上げたとか……」
二人のお母さんが不思議そうな顔をしながら、足で砂場をかき分けているうちに、もう一人の奥さんがやってきた。
「昨日、うちの子がここに赤いスコップを忘れて帰ったのよ。――あら、ないわね」
「さっきからこの砂場にいるけど、スコップなんか見てないわよ」
「それより、今も話してたんだけど、この砂場おかしくない? なんだか深いでしょ」
「深いというか、砂が減ったというか」
二人にそう言われた三人目の奥さんは、スコップを探すのも忘れて、自分の足元をしげしげと見つめた。
「あらホント、変よねえ」
砂場は砂が減って底のコンクリートが見えていた。
「これじゃ、子供たち、砂遊びができないでしょう」
そう言って、シーソーに乗った娘たちを見る。
「そうねえ。市役所に電話しておきましょうか」
三人目の奥さんがスマホを取り出した。
そのとき、四人目の奥さんがイヌを引きずるようにして走って来た。
「ハア、ハア、ちょっとー、大変よー」
普段は大人しい奥さんが、犬よりも早く走ってきたので三人は驚く。
「ハア、ハア、むこうのドッグランの砂場の砂がなくなってるのよー!」
「えっ、そっちも? ほら、ここもそうなのよ。今、市役所に電話しているところよ」
イヌ連れの奥さんは、スマホを操作している奥さんの電話口に大声で割り込んでいった。
「もしもーし、市役所の人。うちのワンちゃんの砂もないのよー!」
大きな声に驚いたトイプードルが興奮して暴れ出した。
ひしゃくで顔に水をかけられて、香川は目を覚ました。
ミコが香川の頬に平手打ちを一発かまして言う。
「デブのくせに長距離走るなよ。マラソンランナーにデブはいないだろうが。だいたい、この神聖なお水はこんなことに使うんじゃないんだからな」
まだボケッとしている香川をひしゃくでぶん殴ろうとかまえたところに、袴姿の神主が大きなお盆を持ってやって来た。
「ああ、オッチャン。こいつらが国常高校相撲部の三人です」
ミコが立ち上がる。小森と吉田もあわてて隣に立つ。香川はのそのそと立ち上がる。
「はじめまして。私が満願神社の神主です」
丁寧に頭を下げられて、三人は恐縮しながら頭を下げる。
「相撲部主将の小森です。こっちが副主将の吉田で、こいつがヒラの香川です」
「ほう、そうですか。小森君はなかなか良い体格ですね。奉納相撲の詳細は巫女さんから説明があったと思います。当日はたくさんの参拝客が来られる予定ですし、神様も期待されてますのでよろしくお願いします」
神主はお茶とお茶菓子が乗ったお盆を置くと、どうぞ、一服してくださいと言って去って行った。
ミコが神主の背中を見送りながら三人に言う。
「さっき、あたしがオッチャンと呼んだけどそれは間違い。神主さんと呼んであげて」
小森はまだ直立不動の姿勢でいる。なんといっても大先輩のミコさんが頭を下げる相手だ。粗相があってはいけない。やっと見えなくなったところでミコ先輩に言った。
「なんだかやさしそうな人ですね。神主さんというともっと気難しそうな人だと思ってました」
ミコはなんだか自慢げに話す。
「まあ、いい人だな。ちょっと変わってるけど。誰にもマネできない生き様をしてる人。でも、誰もマネしたがらないけどね」
小森と吉田がよく分からないまま感心して頷いている横で、香川はさっそくまんじゅうに手を伸ばしていた。
「こらっ、ミコ先輩が先だろうが!」
小森の張り手が香川の右頬に炸裂した。
口から飛び出したまんじゅうが宙を舞う。
「あたしはさっき食べたからいいよ。――とりゃー!」
ミコは竹ぼうきを振り回すと、その柄で空中のまんじゅうをゴミ箱の中に叩き落した。
小森が小さな目を見開いて言う。
「ミコ先輩は何者ですか!?」
「あたしはただの元ヤンだよ。今はちゃんと更生して社会復帰している立派な大人だけどね」
ミコは何事もなかったかのように竹ぼうきを脇に挟んでスクッと立っていた。
「では、お言葉に甘えて、ごっちゃんでーす」
小森、吉田、香川が同時に手を伸ばす。
「そのまんじゅう、うまいだろ。手作りだぞ」
「うまいです!」三人が同時に叫ぶ。
「うまいと思ったら手作りですか!」小森がデカい声で感心する。
三つ目にかぶりついている香川が言う。
「この弾力性がある皮といい、控えめなアンコの甘さといい、程よい大きさといい、言うことないです」
四つ目を口に入れながらつづける。
「でも、一番おいしい理由は愛情です。このおまんじゅうには愛がこもっていると思います」
五つ目を手に取ったところで小森に怒鳴られた。
「香川、その食い物への執念を相撲に生かせよ」
同じく五つ目に手を伸ばそうとしていた吉田がそっと手を引っ込めた。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
やがて、手作りまんじゅうを完食した相撲部の三人が、遠慮もなくお茶をズルズルすすっていると、あの奇妙なお経が聞こえてきた。この神社に隣接する寺で女住職のフミが読んでいるものだ。気味の悪さに三人はお茶を吐き出しそうになる。
「なんだこの呪文みたいなものは」
「どこの国の言葉かも分からないね」
「うう、体の具合が悪くなりそう」
さらに今日は奇妙なニオイが流れてくる。何か特殊な線香を焚いているようだ。三人はたちまち変なニオイに吐き気を覚え出した。
小森の湯飲みを持つ手が震える。「オェ。あの、ミコ先輩、これは何のニオイですか?」
吉田の顔は蒼白だ。「ウェ。今まで嗅いだことのない変なニオイだ」
香川は……。
「ボクは平気だけどね」お茶をおかわりしている。「このニオイは香ばしくて格別だなあ」
隣の寺に目を向けていたミコが振り向いた。
「寺からの嫌がらせだ。寺とここの神社は昔から仲が悪いんだ。特に向こうの住職が死んでから、寺を引き継いだ未亡人のババアが最悪でね、自分が供養だとかをサボっているから収入が減ったというのに、うちの神社があるから悪いと言い出して迷惑してるんだ。で、ああやって毎日、嫌がらせで意味の分からねえ変なお経を上げているわけ。閉め切ってあげればいいものを、こっちに向って声を張り上げてるんだから、たまんねえよな。それにこのニオイ。怪しいアロマの通販店で、タタリがあるというニオイの成分を線香に調合してもらって、それを毎日燃やしているんだってさ」
「なんだか、とばっちりですねえ」小森が流れてきた線香の煙に目をショボショボさせながら言う。「でも、タタリがあるって本当ですか?」
ミコは笑いながら言う。
「そんなもん、ねえよ。あったとしても、あたしがこれで叩き落してやるわ!」
竹ぼうきが宙で踊った。流れていた煙がユラリと揺れた。
ミコが竹ぼうきを肩にかつぎながら、三人の男子生徒を引き連れて玉砂利をザクザクと歩いて来る。
「ははは。相変わらず、活発なお嬢さんだな」
木に登って剪定をしていた庭師は仕事の手を休めて目を細めた。
ミコは庭師を見つけると、「こんにちはー、ジッちゃーん!」と大きな声で叫んであいさつをしてきた。
三人も「ごっちゃんでーす!」と叫ぶ。庭師も「おう!」と礼を返した。
確か、奉納相撲があると言っていたな。三人の体型からすると相撲部だな。お嬢さんの高校の後輩という子供たちか。がんばって神様を喜ばせてもらいたいものだ。そのために苦労してあの土俵を再現したのだからな。昆布とスルメとコシヒカリはわしが用意したが、砂はミコさんが用意したらしい。――はて、どこから調達したのやら。
以前、神社の境内ではよく相撲の取り組みがされていた。神様への奉納という意味もあったが、当時、これといって娯楽がなかった近所の人たちの楽しみでもあった。力自慢が集い、毎週のように大会が開かれていた。しかし、満願神社の参拝客が減るにしたがい、相撲大会の数も減り、いつしか土俵は荒れたままになってしまった。
今年、祭礼が行われるにあたり、神主が中心となって土俵の再建が行われた。昔、この境内で腕を鳴らした近所のお年寄りたちも奉納相撲を楽しみにしているらしい。
二十年に一度の祭礼か……。
年老いた庭師ことジッちゃんは、榊の葉を正確に切り進めながら思う。
わしにとっては三度目の祭礼だ。きっと今回が最後になるだろう。若はその準備に張り切っておられる。やはり、お父様が残してくださった伝統を汚さないようにとの思いが強いのだろう。お父様はすばらしい方だった。満願神社をここまで大きくされた。しかし、それを継いだ若には油断があった。神様の試練と言ってもいいだろう。
閑散とした境内。伸び放題の木々。乱れている玉砂利。荒れ果てた土俵跡。
ある日、若に鳥居が歪んで見えたらしい。夕日を背景にして建っている鳥居がグニャリと曲がって見えたという。
神様が怒っている。神様が嘆いている。神様が悲しんでいる。
自分の不甲斐なさを感じたという若は、かつてお父様と仕事をしていた私を呼び寄せて神社の再建に取り掛かった。
それから数年――。
二十年に一度の祭礼の時期に合わせるようにして神社に活気が戻ってきた。
境内には参拝客が溢れ、樹木や玉砂利の整備もされ、土俵も見事に蘇った。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
奇妙なお経は止まない。ジッちゃんは榊の木に立てかけていたハシゴから降りて隣の寺に目を向けた。せっかくきれいにした木の周りに嫌なニオイが漂っている。半纏にもニオイが染み付いたような気がしたので、埃を落とすように両手でバサバサと払ってみる。あちこちが擦り切れてつぎはぎになっているが、父親から譲ってもらった大切な半纏だ。
お隣さんの前の住職はあまり仕事熱心ではない怠け者だったが、跡を継いだ妻のフミはもっとヒドい。ろくに仕事もしないで、この神社に呪いをかけようとしている。朝な夕なと奇妙なお経を張り上げ、変なニオイの線香の煙をこちらに流してくる。
神社と寺の境界には白くて長い土塀が築かれていた。かなり前に造られたようで、ところどころ壁が剥げ落ちている。だが、その修復もかなり進んできている。
二十年前の祭礼ではこの塀に無数の式神を塗り込んで、寺からの攻撃に備えた。住職夫婦との争いはその頃から続いていたのだ。
しかし、奴らは手下として使っている邪霊をミミズに変化させて、地中から攻め込んできた。神社の神域の半分がミミズに侵食されて、鳥居が斜めに傾いた。最後の結界が破られそうになったとき、ミミズは総崩れした。若のお父様が壁に塗り込んでいた式神をミミズの天敵であるコウベモグラに変化させて地中に送り込んだのだ。
そのときの教訓を生かしてジッちゃんは神社と寺の境である塀際にたくさんの榊の木を植えた。榊には神が宿ると言われている。榊あるいは賢木とも書く。その名の由来は境木から来ているという。根の部分はしっかりと地中を捉えていてミミズの侵入は許さない。
祭礼まであと数日。
ジッちゃんは大きく育った榊の木に一本ずつ話し掛けながら、ゆっくりと歩き出した。
しっかりとこの神社を守ってくれよ。二十年前のあの日のように。邪霊を蹴散らしたあのときのように。祭礼が成功するかしないかで、この先二十年の満願神社の運命が決まる。隣の寺のように朽ち果ててはならない。お父様が築き上げられ、若が引き継がれたこの神社を決して衰退させてはならない。参拝してくださる人々を守っていかなければならない。そして何よりも神様に喜んでもらわなければならない。
やがて、ジッちゃんは神殿に供えていた神様への貢物である卵と酒を持って来ると、榊の木の根元に置いて周った。
隣との境界はこれで防御できる。
神殿の垣根に下がっている鈴がチリンとなった。
ジッちゃんが振り向いた。式神たちが騒いでいるようだった。
「もうちょっと待っておれ。出番はもうすぐだからな」
若がお茶とお茶菓子を乗せたお盆を持って歩いてくるのが見えた。
「ああ、もうこんな時間か」
ジッちゃんは腕時計で三時を確認して、若に頭を下げた。
石畳の傍らに置かれた木製の長いすに座って、ジッちゃんと若がお茶を飲んでいる。ジッちゃんの横には脱いだばかりの半纏と手甲がきちっとそろえて置いてあった。緩やかな風が仕事で汗ばんだ体に心地よさそうだ。
先ほどから聞こえていた奇妙なお経は止んでいた。向こうもティータイムなのかもしれない。二人の足元には数本ののぼりが重ねて置いてあった。奉納相撲のために作ったものだ。これを土俵へつづく参道の脇に立てて盛り上げる予定だ。
「若、いよいよですな」
「そうだね。でも、ここで油断したらいけないよ。最後の最後まできちんとやるか、神様はしっかりと見ておられる」
若の力強い言葉にジッちゃんは目を細めた。数年前には決して聞かれなかった言葉だったからだ。若は別人のように変わった。とても頼もしくなった。きっと祭礼はうまくいくだろう。お父様も天国から褒めてくださるに違いない。
ジッちゃんは遠くに見える鳥居を見つめた。すっかり老朽化している赤い鳥居も祭礼に合わせて新調される予定だ。
二人で早く新しい鳥居をくぐりたいものだ。いや、もう一人いたか。さっきの新米の巫女さんが。
「若、なかなか活発なお嬢さんを採用されましたな」
「ああ、ミコさんのことですか」
「はい、そうです」
若とミコの出会いは二年前にさかのぼる。二十年に一度の祭礼の準備は数年前から既に始まっていた。祭礼には莫大な資金がいる。それは寄付で賄わなければならない。しかし、参拝客がかなり減った現状ではとても厳しい状況下にあった。
そのために若は、その日の朝も満員電車に乗り込んでいた。最初に目をつけた獲物はスーツ姿の中年男性だった。しょぼくれた印象があったが、メガネ、腕時計、ネクタイピンなど、身につけている物は高級品のようだ。落ち着かず、そわそわした様子からして、きっとやるだろうと踏んでいた。
人々の合間を縫って移動し、なんとか男性の後ろにつけた。車内アナウンスがせわしなく流れ、いくつかの駅を通り過ぎ、何人かの人々が入れ替わった。
やがて、中年男性の手が若いOLらしき女性の太ももに伸びたところを確保した。
その駅にある改札付近のトイレはいつも混んでいた。各駅のどこのトイレが空いているかを調査していた若は、その男性をホームにあるトイレの個室に連れ込んだ。そのトイレは小さくて汚れも目立つため利用客は少なかった。その日も予定通り、誰にとがめられることもなく、獲物から三枚の名刺を奪うことに成功した。
若は名刺を見ながら静かに言った。
「代表取締役ということは社長さんですね。社長が痴漢などという卑劣な行為をして信用をなくせば、会社の存続にも影響するんじゃないですか?」
「は、はい。その通りでして……」
「従業員のみなさんは路頭に迷うんじゃないですか?」
「お、おっしゃる通りで……」
中年男性は壁のタイルに顔を押し付けたまま小声で返答している。決して振り返らないようにという命令にも素直に従っている。いったい後ろから脅している人物は何者なのか、頭の中は混乱しているに違いない。男に冷静さが戻る前に、若はその混乱の隙を突いて、質問を畳みかけていく。
「新聞に載りたいですか?」
「い、いえ」
「警察に連行されたいですか?」
「い、いえ」
「ワイドショーで面白おかしく報道されるかもしれませんよ」
「わ、私はどうすれば……」
「いくら用意できますか?」
「えっ? お金ですか。あの、確かに私が社長ですが、会社の経営は厳しくて、あの……」
しどろもどろしている社長の言葉を遮り、若が容赦なく要求を突きつける。
「今日から一週間、努力をしてください。最大限努力をした結果、できたお金ならば金額は問いません。約束を守ってくだされば、警察やマスコミに通報することはしません。一度しか言いませんから、よく聞いてください。お金を持ってきてくださる時間と場所は……」
そのとき、若の体がビクンと反応した。
背中にナイフのようなものを突きつけられたからだ。後ろはまったくの無防備だった。今までこんなケースはなかったからだ。足音はおろか、ドアが開く音さえ気づかなかった。
まさか、脅している後ろから脅されるとは……。
後ろに立つ人物が、ナイフを持った手の力を緩めないまま若の耳元で囁いた。
「命が欲しかったら、さっさと失せな」
若はナイフを背中に当てられたまま、体をずらして素早く個室を出ると、やって来た電車に飛び乗った。相手は後を追って来なかった。ホームを見渡してみたが仲間らしい人物は見当たらなかった。何が目的だったのか分からない。獲物を分捕られたのかもしれない。
トイレを出るときにチラッとその人物の横顔を見た。まだ幼さが残る女性だった。
それがミコとの出会いだった。
トイレ内に残ったミコと中年男性。
「お、おまえ! こんな所で何をやってるんだ」
「ふん、お父さん、まだ生きてたんだ」
夜通し遊んだ帰りの朝。ミコは駅のホームで偶然お父さんを見つけた。ミコとお母さんを残して家を出て行った憎んでも憎みきれないお父さんだ。その顔を忘れるはずはない。
その後、お母さんは小さな美容室を一人で切り盛りしながら女手一つでミコを育てた。
お父さんは小さいながらも会社を興して社長になったと聞いていた。
朝の混雑時にトイレへ入っていく二人の男性を気に留めるようなヒマな人はいない。みんな足早に通り過ぎて行く。だが、ホームのベンチで何もすることがなくボォと座っていたミコは気づいた。
――お父さんだ!
男性と二人でおどおどしながらトイレに入っていく姿を見て後をつけてきた。垣間見えた横顔から、誰かに助けを求めるような表情が読み取れた。しかし、ミコの存在に気づいた様子はない。
個室のドアをそっと開けると、お父さんは無様にバンザイの格好をさせられて金品を要求されていた。ポケットから折りたたみ式ナイフを取り出して黒尽くめの男の背中に突きつけた。男は反撃をすることもなく、何も言わずに去って行った。
「おまえこそ、元気でやってるのか」
お父さんはゆがんだネクタイを直しながらほっとした表情で訊いてきた。
ミコはその姿を見て、とたんに情けなさと怒りがこみ上げてきた。
私とお母さんを見捨てた男。自分が幸せになるためだったら平気で人を見捨てる男。
あたしは確かに人に自慢できる生き様はしていない。でも、人を騙してでも幸せになりたいとは思わない。人を裏切ってでも幸せになりたいとは思わない。そうやって得た幸せは決して長続きしないことを知っている。いくらバカなあたしでも、そのくらいの道理はわきまえている。なのに、こいつときたら……。
こいつのためにどれだけ辛い思いをしてきたことか。
――ガッ!
ミコは正面からお父さんの向こう脛を思いっ切り蹴り上げた。
グゥとカエルがつぶれるような声を出して、お父さんがうずくまった。
「朝っぱらからカツアゲされてんじゃねーよ、バーカ!」
ミコはそう叫ぶとトイレを飛び出した。お父さんはあまりの痛さに声も出せなかったようで何の返事もなかった。
そのままお金を取られてりゃよかったんだよ。身包み剥ぎ取られればよかったんだよ。
あんな奴、助けなきゃよかった。もう一発くらい蹴っておけばよかった。
あのクソオヤジが!
いや、クソオヤジなんかじゃない。ただの他人だ。哀れな他人だ。
それ以来、お父さんとは会っていない。お母さんの元には連絡が入ったかもしれないが、何も言って来ない。自分からお母さんに訊くこともしなかった。
若はその女性の顔を覚えていた。履歴書に貼ってある写真を一目見て間違いないと思った。今どきの女性と違う点が一つあった。目力だ。ちらっと横目で見たにすぎないが、あの目は忘れようとしても忘れられない。脅した側が脅されたのだから。派手な感じはなくなっているが、あのときの子だ。あの後、どうなっなったのかは分からない。今後の仕事にも差しさわりがあるので、すぐに退散した。
まさか、この神社を探り当てて応募してきたのだろうか。
こちらの顔はほとんど見られていないはずだし、声も聞かれてないはずだ。あの日、あの電車にはたまたま乗ったに過ぎないのだし、服装や髪型もできるだけ印象に残らないようにいつも地味な格好で仕事をしている。――偶然だろう。
気になった若は採用を告げる電話を入れて、相手の出方を待った。
翌日、あらためて面接という形を取り、話を聞いてみた。
ただの取り越し苦労だった。単に職を求めていたに過ぎなかったのだ。彼女もこちらのことを覚えていない様子だった。学歴も職歴も資格もないのに、なぜ、採用されたのか不思議に思っているに違いない。
しかし、がんばって仕事をこなしてくれている。お神楽もなかなかの評判だ。あのときナイフを振りかざしていたミコは、今やこの神社の大切な一員になっていた。
ジッちゃんがお茶を飲み干して言った。
「その活発なお嬢さんですが、先日、土俵の砂を調達すると言われたので、わしが仕事で使っている軽自動車とスコップを貸してあげました」
「そうだったのですか。どこからもらってきたのか知りませんが、ちゃんと砂が揃ってましたね」
「はい。車もきれいに掃除した上に、ガソリンも満タンにして戻してくれています」
「言葉使いはあまりよくありませんが、素直でいい子ですから、応援してやってください」
「はい。若が採用されたお方ですから。――ところで、祭礼の資金調達の方はいかがですか?」
「ああ、心配しなくても寄付金は着実に増えつつあります」
「しかし、若。あまり無理せんでください。いや、わしもたくさん寄付できればいいのですが、この歳になってもほとんど蓄えがないというのも情けない限りで……」
「いや、ジッちゃんには父の代から何かと世話になってます。その気持ちだけで十分ですよ。それよりもジッちゃんの方はどうですか。奥さんと娘さんとは久しぶりの再会でしょう」
「はい。奇しくも祭礼と同じく二十年ぶりですが」
「楽しみでしょう」
「そうですねえ。しかし、申し訳ない気持ちの方が大きいですかねえ。私の責任で苦労をかけてしまいましたから」
「いや、ジッちゃん、考えすぎですよ。きっと奥さんは許してくれています」
「そうだといいのですが」
ジッちゃんは照れたのか、自分が剪定した木々を見上げる。
しかし、思い出したことがあって、すぐに若の方を見た。
「ところで、若。ちょっと気になることがあります。三本足カラスからの情報なのですが、お隣さんが本堂を金色に塗りはじめたそうです」
「金色に? いったい何をやらかすつもりだ?」
「いや、それが分かりません。しかし、何かを企んでいることは違いないと思います。それと、さっき木の上から覗いたのですが、お隣さんの庭の花がかなり枯れつつあります」
「邪気にやられたか」
「そうだと思います。何としても祭礼は成功させないといけませんので、引き続き監視をしていきます」
「ジッちゃん、大変だろうが頼んだよ。もう少しの辛抱だからね。――さて、奉納相撲ののぼりでも立てましょうか」
若が腰を上げた。ジッちゃんも手甲をつかんで、半纏をフワリと羽織った。
古びたビルの三階。エレベーターも設置されていないこのビルでは、大人一人がやっと通れるくらいの狭い階段を木製の手すりにつかまりながら上がらなければならない。天井で申し訳なさそうについている電灯は薄暗く、足元まで光が届かない。
見るからに安っぽいビニール製のソファに恰幅のいいスーツ姿の男が深々と腰掛けている。不機嫌そうな顔をしたその男は、破れたソファの穴から太い指で綿を引き出しては床に投げつけていた。あちこち剥がれて黒ずんだところが目立つ古い床の上に白い綿が散乱している。
男の後ろには三人の同じく恰幅のいい男たちが護衛役として立っていて、さほど広くない部屋の中を鋭い目つきで見渡している。
スーツ男の前には黒っぽいジャンパーを着た男がかしこまって座っていた。末端価格四億円の覚せい剤をまんまと東南アジア系の奴らに掠め取られたアニキだった。アニキの後ろにも護衛役のつもりか一人の若者が立ってる。あのときワゴンを運転していた見習いのガキことジュンだった。
半年間も上納金を滞納していたため、本部から取り立て役の桃竜組の組長が三人の子分を連れていきなりやって来たのは三十分前の話。
全員が出払っていて、事務所に残っていたのは、アニキこと組長とジュンの二人だけだった。取引がうまくいけばバリバリの革張りに買い換える予定だったソファに桃竜組長がドカッと腰掛けて、ネチネチとアニキを追求していた。
「そいつらはブツゾウと言ったんだな」
スーツ姿の男が綿を毟るのを止めて低い声で尋ねる。
「はい。確かにブツゾウと聞こえました」アニキが小さな声で答える。
「ふーん、やはりな」気だるそうに言って、スーツ男がポケットからタバコを取り出す。
アニキが百円ライターを探してキョロキョロしているすきに、後ろの男がすかさずポケットから高級ライターを出して火をつける。
「奴らの正体が分かった」
「えっ、どこの組の奴らですか!?」アニキが身を乗り出す。
「そう、慌てるな。ふーぅ」煙をわざとらしくアニキの顔に吹きかける。
ジュンがキッと睨みつけるが、護衛の一人に睨み返され、あわてて視線をそらす。
「組じゃねえ。奴らはガセネタを?まされて、ヤクだと知らずにあれを盗んだんだ」
「では、何が目的で?」
「だから、ブツゾウよ。仏像専門の強盗団よ。どっかの仏像マニアに売り飛ばそうと盗んだんだろうよ。まさか、胎内に四億円のヤクが隠されているとは知らずにな」
「――で、奴らの正体は?」アニキが訊く。
「ちゃんと分かったわ。お前が覚えていた二階建ての大型観光バスのナンバーを元にな」桃竜組長はニヤリと笑う。
「えっ、盗難車じゃなかったのですか?」
「あんな派手なもん、誰が盗むか。街を走るだけで注目の的じゃねえか。奴らの持ち物よ。それだけ余裕があるってことだろ。東南亜細亜諸国犯罪連合の連中だ」
「何ですか、その漢字ばっかりの組織は?」
「つまり、東南アジアの国境なき窃盗団というわけだ」
「じゃあ、さっそく……」アニキが立ち上がる。
「だから、慌てるなと言ってるだろうが!」デカイ声が小さな事務所にこだまする。
「奴らはアジトを構えずに観光バスを使って日本国内を転々としている。しかし、仏像はまだ奴らの手元にある。仏像といってもヤクの入れ物代わりに使った安物だがな。近々、奴らの故郷で大規模な仏像のオークションが行われる。そこで何も知らない収集家に売り飛ばす予定らしい。盗品が集まるので有名なオークションだからな、物が揃うのはいつも開催直前らしい。運ぶに当たり、もし盗難品として届けが出ていれば飛行機だと危険だからな、きっと船を使う。――そこでだ。港で奴らを一網打尽にする。そのインチキ仏像の他にちゃんとした仏像もあるはずだからな。ついでに、それもいただくってわけだ」
「――で、どこの港ですか?」
「それが分からん。本部の情報網を駆使して確かめたが、今分かっていることはここまでだ。あとはお前が探せ。日本の港のどこかだ」
「あの、日本の周りは港だらけですが」
「じゃあ、あと一ヶ月な」桃竜組長はアニキの抗議を無視してつづける。「一ヶ月たっても上納金が払えなければ、この組はうちの桃竜組と統合するからな。それまでこまめに連絡を入れて、途中経過を報告するんだ。それと何かあったら遠慮なく相談してくれ。分かったな。報告、連絡、相談。つまり、ホウレンソウを忘れるなということよ」
ヤクザが報連相かよ。
アニキは頭の中で毒づいた。
半年前、アニキが厳しいヤクザ修業を終えて組を持ったまではよかったが、たちまちお金が逼迫した。上納金の支払いが延滞したため、本部の通達により、「正式な組長」から「仮の組長」に降格させられた。正式と仮とでは身分の差は大きい。
五人の組員は自分たちの親分を最初は“仮の組長”と呼んでいたが、しっくり来ないため、昔ながらの呼び名でアニキと呼んでいる。母船からの渡しをやっている漁師の細川はそのときに聞いた“仮の組長”を苗字と勘違いして“カリノ組長”と呼んでいる。おそらく、狩野組長とでも思っているのだろうが、今更事情を話して訂正してもらうわけにもいかず、そのまま“カリノ組長”と呼ばせている。
組員たちは、上納金を納めることができれば、晴れて“アニキ”を“組長”と呼ぶつもりだった。
不景気の波は任侠の世界にも押し寄せていた。財源が乏しい小さな組では、その波を押し戻すことは難しかった。
桃竜組長はあちこち欠けた安物のガラス灰皿でタバコをもみ消すとゆっくり立ち上がった。
アニキもあわてて立ち上がり、ジュンと並んで直立不動の姿勢で見送る。
「まあ、厳しいだろうがケジメをつけろや。わしも好き好んでこんなサテライトな組に来てるんじゃない。お前に期待してるからだ。分かっているだろうな」
「はっ!」アニキとジュンが深々と頭を下げた。
「じゃ、ちょっと便所借りるぞ」
桃竜組長が便所に入っている間、部屋の中の緊張感は緩和された。
アニキは護衛の中にいる顔見知りの男に小声で話しかける。
「ここまで歩きか?」
「ああ、そうだ。相変わらず、うちの親分は乗り物が大嫌いだからな」
下っ端の護衛といえども、相手が“仮の”組長とあらば、タメ語で話す。
「しかし、電車で八駅となると相当歩くな」
「向こうを出たのは午前中だぜ。今何時だ。もう夕方じゃねえか」
「せめて自転車にでも乗ってもらえないのか?」
「ああ、そう思って、電動機付き自転車の一番いいやつを四台買ったんだけど、どうしても乗ってもらえない。乗れたとしても、人相の悪い縦縞スーツの男四人が仲良くチャリに乗っていたら不気味だろうが。ぜったい職質に会うぜ。とにかく、うちの親分ときたら、自転車どころか、西村京太郎の小説を読むだけで酔うんだからな」
「そりゃ、重症だな」
「東京本部に行くときは四日かけて歩くんだぜ。さすがに嫌になるぜ」
「昔の旅人みたいだな」
「ああ、令和の時代だというのにな」
「しかし、歩きだとCO2も出ないし、日本一地球にやさしいヤクザの親分だな」
護衛はキッと言う表情で仮の組長を睨み返した。アニキはあわてて目を伏せた。冗談は通じなかったようだ。
やがて、本部からの取り立て人たちは大急ぎで帰って行った。早くしないと日が暮れるからだった。
「やっと帰りやがったか、あのガスタンク野郎が」
アニキが不機嫌そうな顔をして吐き捨てる。桃竜組長とアニキはほぼ同時に組長へ昇進した同期だった。組長昇進修業のときは、同じ釜のめしを喰って苦労を共にした。二人揃ってめでたく昇進できたときには、手を取り合って喜んだものだ。しかし、桃竜組長は上部へのゴマスリが上手で、いつの間にか出世して本部勤務になっていた。
不器用なアニキは差をつけられて、地方の“仮の組長”のままだ。
こちらは同期と思っているが、向こうはいまや同期とは思ってないだろう。ウォーキングが好きな桃竜組長は、今日もピクニック気分でここにやってきたに過ぎない。もちろん、奴はアニキが一ヶ月以内に上納金が用意できないことを願っている。そうなると、この組は自分のものになるからだ。一般組員に降格させたアニキとともに、全員をこき使うつもりだろう。
「くそっ、任侠の隅にも置けないおべんちゃら野郎が。いつか思い知らせてやる。何が電動機付き自転車だ。男だったら汗をかけよ。なあ、ジュン、そうだろ、まったく」
こうしてアニキの愚痴が続いていたが、気分が治まってきた頃を見計らって、ジュンが心配そうに訊いた。
「アニキ、どうしますか。あと一ヶ月ですよ」
「心配するな。手は打ってある」アニキはホウキで床に散らばった綿を集めながら言う。
「ホントっすか?」ジュンはチリトリで綿を受けながら言う。
「とりあえず俺たちからお宝をかっさらったのは東南アジア系の奴らだったからな。ガスタンク野郎に説教を喰らう前に、ちゃんと助っ人外国人を用意しておいた」
「えっ、すごいですね、アニキ!」
「ああ、目には目を、外国人には外国人をだ。不良外国人のルートをたどっていけば、そいつらも見つかると思うんだ」
「さすがアニキ。東南アジア系の不良の中には安い金で人殺しを引き受けるような奴らがいるそうですからね。観光バス窃盗団なんか一発で仕留めて、俺たちのお宝を取り返しましょう。ソファも本革のものに新調して、親分に綿を毟られないようにしましょう。早くアニキのことをもう一度、組長と呼びたいっス」
さっきまで震えていたジュンがテンションを上げてはしゃいでいる。
まだ掃除を終えてない綿がフワリと舞い上がる。
「でも、アニキが不良外国人とコネがあるとは知りませんでしたよ」
「おう。こっちへ来て、外を見てみな」
アニキは手招きをして、ジュンを窓際に呼んだ。
「求人広告を出すには金がかかるからな。ほら、見ろ。あそこの電信柱に、“外国人求ム”と書いた紙を貼っておいたんだ」
ドン、ドン、ドン。
ドアを激しく叩かれたので、あわてて開けてみる。
そこには若い従業員が立っていた。
「お客様、ヘッドホンをお使いくださいませ」
「ああ、すいませんです」
漫画喫茶の個室にいたスコットはソファから腰を浮かすと二メートル近い長身を折り曲げて謝った。個室といってもパーティションで区切られているだけなので天井は空いている。音楽を聴いたりビデオを見たりするときには、音が外に漏れないようにヘッドホンを使わなければならない。もし、直接、音が聞こえているようだったら、今のように、すかさず従業員がやってきて注意をされる。
確か、最初に会員になるときに説明を受けた。そのルールを覚えていたが、流れてきた音楽が故郷のものだったので、思わず聞き入ってしまったのだ。
スコットは腕時計を見た。朝の八時。そろそろ出かけなければならない。さっき、自動販売機で買った菓子パンとコーヒーを朝ごはんにした。故郷の朝食を思い出す。焼き立てのパンとスクランブルエッグとアツアツのコーヒー。あの頃の方がよかったかもしれない。でも、ここは日本だ。がんばって稼がないと。
――よしっ!
最近、弱気になってきた自分に喝を入れ、薄い茶色のドアを横にスライドさせて廊下に出た。
「行ってらっしゃい、スコットさん」
この漫画喫茶で寝泊りを始めて一週間。すっかり顔見知りになったアルバイトのカンちゃんがカウンターで見送ってくれる。
職を探すために日本に来て三ヵ月。一流ホテル暮らしからはじまって、ビジネスホテル暮らし、ウィークリーマンション暮らし、場末の旅館暮らしとしだいにランクダウンし、ついにたどり着いたのが漫画喫茶だった。個室ビデオ屋やサウナと比べると、少しこちらの方が安かったからだ。
マンガを読んだり、ビデオを見たりしながら日本語の勉強ができる。ネットもできるし、音楽も聴ける。飲み物は飲み放題で毛布も貸してくれる。有料だがシャワーもあった。日本語がたどたどしい外国人だと信用がないかもしれないと思って、一週間分の代金は前払いで納めてあった。
故郷で読んだ本には日本のことを黄金の国ジパングと紹介していた。お金がほしかったスコットは以前から興味があった日本で働こうと、全財産を隠し持って空港に降り立った。降りてすぐに後悔した。道端に黄金がザクザク落ちていると思ったのに、もはや黄金なんか見当たらなかったからだ。読んだ本があまりにも古かったのだ。
しかも、故郷と同じくらいの不景気で、日本人でさえ仕事が見つからないのに、何の取り得ない外国人にはなかなか仕事が見つからなかった。
三日前の話。たまたま歩いていた街の電信柱に“外国人求ム”の張り紙を見つけた。簡単な漢字が読めたスコットは怪しいと思いながらも、古びたビルの狭い階段を上がって三階のドアを叩いた。なぜか提灯がたくさん吊り下げてある事務所には目つきの悪い男たちがいた。
――ジャパニーズマフィアだ!
気づいたときは遅かった。三人の男たちに囲まれていたのだ。
とっさに逃げようと思ったのだが、
「ジタバタするな!」と怒鳴られた。
ジタバタという日本語の意味はまだ知らなかったが、相手の顔の表情からして、きっと脅しの言葉だろうと検討がついた。
そして、その相手の顔はものすごく怖かった。目と鼻と口と耳が大きく、眉毛がなかったのだ。
後で知ったことだが、この組で一番人相が悪い若頭、つまりナンバー2の百舌という男だった。
しかたなく、スコットはほとんどクッションがきかない硬いビニール製のソファに座った。価値のあるアンティーク家具かと思ったが、ただ古いだけだった。
「張り紙の日本語が読めるんだったら採用だな」
事務所のボスが即座にそう言ったので驚いた。
そんな簡単な仕事なのか?
「仕事の内容は東南アジア系の窃盗団が盗んだ仏像を探して取り返すことだ。もちろん、世間には内緒の仕事だ。目立たないように行動してくれ。奴らの居場所は分からんが、お前は外国人だから見つけられるだろう。それと、たとえ警察に捕まっても俺たちは知らんから、覚悟しておいてくれ」
「ち、ちょっと待ってください、ボス。仏像と言われてもいっぱいあります。名前とかスタイルとかを教えてほしいです」
「仏さんの名前までは知らんな。文殊菩薩とか千手観音とか色々あって難しいからな。仏像は五十センチほどの木の箱に入ってる」
「あの、五十センチと言うと何インチですか?」
「外国の単位なんか知らん。まあ、こんなもんだな」
ボスが手を広げる。
たぶん、二十インチくらいだ。――スコットはそう見積もる。
「木箱は三つ。大きいのが二つと小さいのが一つ。狙いは小さい方だ。その木箱は紫色の風呂敷で包んである」
「風呂敷? お風呂に敷くものですか?」
「いや、風呂には敷かんと思うがな。あんな薄いんじゃ水も吸い取らんし、あれに石鹸つけて体を洗ってる奴なんか見たことないし、バスタオル代わりにもならんしな。いや、頭に巻くのかなあ。――いや、なんで風呂敷というのか知らん」
「それと、目立たないように行動しろと言われても、ボクは見ての通り背が高いのです」
「そうだな。どのくらいあるんだ?」
「六フィート六インチくらいです」
「だから、外国の単位は知らんと言ってるだろ」
「では、日本の単位でいうと六尺六寸くらいです」
「――えっ? ああ、まあ、あれくらいか」
ボスは苦笑いをする。まさか自国の単位を知らないとは言えない。
俺より二十センチ以上は高いから、たぶん二メートル近いだろうな。
「背の低い人は高い靴を履いてごまかせますが、高い人は低くできないのです」
「腰をかがめて歩いたらどうだ?」
「余計に目立つと思います。ボクは老人じゃありませんので。おまけに、ボクは白人だし、金髪だし、目も青いし、相手が東南アジア系なら同じく東南アジアの外国人の方がコネクションもあると思うのですが。ボク、イギリスの人なんですよ」
「そんなにつべこべ言うなよ。同じ外国人じゃねえか。ファイト出してがんばれよ。日給は一万円。ただし、オプションもあるぞ。仏像を取り返して、奴らを生け捕りにすると百万円のボーナスをやる」
「えっ、ほんとうですか! ボク、がんばりますよ」
「おお、その意気だ、スコットくん。――しかし、なんでイギリスからわざわざ日本くんだりまで来たんだ?」
「はい。ボクはネス湖のそばの村でネッシーの木彫りを作って売っていたのですが、あまり売れなかったのです」
そう言ってスコットはポケットから自慢げに木彫りのネッシーを出して見せたが、アニキには首が細いアヒルにしか見えなかった。
「ある日、日本の北海道のクマの木彫りを見て、いつかあそこで修業させてもらおうと思ったのです。やがて、イギリスは不景気になったのですが、日本は景気がよくて黄金がザクザクあると“東方見聞録”に書いてあったので、お金も稼げると思い、一石二鳥をねらってやって来ました」
「確かに、シャケをくわえたクマの木彫りはよくできているし、弟子入りするのもいいだろうがな。しかし、来てみたら、東方なんちゃらというガイドブックに書いてあったのはガセネタで、日本も不景気だったというわけだな」
「その通りです。格安チケットを使ったので、降りたのは地方空港でした。そこから北海道に行くにはかなりの交通費が必要と分かったので、まずは職を見つけてお金を増やすことにしました」
「そうか。あんたのような男前でも苦労するんだなあ。神さまは平等ってわけだ」
「でも、住んでいるうちに日本が大好きになりました。そもそも、イギリスと日本は昔から仲が良かったのですから、好きになるのも当然だと思います。特に日英同盟のときは非常にお世話になりました」
「――えっ? ニチエイ。ああ、あれな。いや、たいしたことはできなかったけどな。俺も俺なりに精一杯がんばった結果があれだからな。まあ、よかったと思うぜ。まあ、スコットくんは世話になっているイギリス人だから、この仕事が成功すれば、ボディガードとして雇ってやってもいいぜ。そんなデカイ体だったら、何か格闘技でもやってたのだろ?」
「はい。ポロをやってました」
「ああ、馬に乗って走り回るやつか」
「はい。イギリスではとても人気がある王者のスポーツなんです」
「あんまり護衛には役に立たんな。うちには馬を世話する金も場所もないしな」
アニキは外国人の真似をして肩をすくめた。
ここで働くにあたって、契約書はないのかという質問はあっさりと無視されて、スコットは豪華な神棚にお祈りをさせられた。胸に下げた十字架を見せて宗教が違うと言ったのだが、日本の神さんは心が広いから祟らないと説得されて無理やり手を合わせてきた
ああ、アマテラスオオミカミさま……。
お賽銭として五百円を取られたのは納得できなかったが、外国人にお祈りをされて神さんも喜んでるぞと言われて、少しうれしい気分になった。
「じゃあ、さっそく今日から働いてくれ」
「はい、分かりました。その前にトイレを貸してほしいです」
緊張のあまり、トイレが近くなってしまったようだ。
そして、スコットがトイレに入って十分。
――ドカッ!
大きな音がした。アニキを先頭に組員たちが駆けつける。
「どうした、異邦人!?」
スコットは便器の横で倒れていた。
「ずっと座っていたら、足がしびれてしまいました」
「悪いな。うちの便所はまだ和式だからな。スコットくんが仏像を見つけてくれたら、ウォシュレット付きの洋式にするから、せいぜいがんばってくれ」
カビがこびりついたタイル壁に手をつきながら、スコットは立ち上がった。
「は、はい。コンジョーを出してがんばります。英国紳士のプライドに賭けてがんばります。こんなボクですがどうぞよろしくお願いします」
「ああ、分かったよ。分かったから、早くパンツを上げろ」
スコットはヨロヨロと足元をふらつかせながら組事務所を後にした。
しかし、日本のどこかの港に行って、仏像が入った木箱を探せというミッションは、あまりにも大雑把すぎた。
「港なんかすぐに見つけられるだろ。イギリスも日本も同じ海洋国家じゃねえか」
ボスの言葉に説得力はなかった。
スコットは地下一階にある漫喫を出て階段を上がりはじめた。見上げる空は鮮やかな青色をしている。
昨日は東南アジア系の窃盗団がアニキたちから仏像を盗んだ港に行ってみた。彼らが盗んだ仏像を本国に送るときも土地勘があるこの近くの港を使うに違いない。そう睨んでいる。
何の情報を取ってこなくても、アニキは日給の一万円をくれた。しかし、それでは申し訳が立たない。こんな見知らぬ外国人をわざわざ雇ってくれたのだから。
今日も情報を求めてヘタな日本語で不良外国人、漁師さん、市場の仲介人さんなどに聞き込みをしてみる予定だった。
♪レット・イット・ビー。なるようになるさ。
先ほど、ヘッドホンをするのを忘れて聞き入っていた歌がまだ耳に残っていた。
スコットの故郷イギリスのスーパースター、ザ・ビートルズの音楽は日本でも大人気だった。
歯が一本しか残っていない口を大きく開けてリーダー格のブンさんが大きく拍手をしてくれた。仲間たちも釣られて盛大な拍手を送る。調子に乗って指笛を吹く人や掛け声をかける人が続出した。拍手の音や大きな声やドカドカと地面を蹴る音が橋の下でこだまする。
高校教師の森河は吹き終わった横笛の出来に満足していた。
痴漢行為を黙認する代わりに出された条件。
横笛の練習をしておいてください。時期が来れば連絡します。
数週間前に黒尽くめの男と交わした奇妙な取引。
社会から見放されることを恐れた森河は、その約束を忠実に守り、ホームレスが住むこの橋の下で練習を重ねてきた。
駅の駐車場、原っぱの真ん中、山の頂といくつかの場所で練習をしてみたがしっくり来ない。やはり、楽器というものは自分で楽しむだけでなく、聞いている人たちにも楽しんでもらわなければならない。
――そう思った。いや、無理にでもそう思おうとした。
何の目的があって横笛の練習をさせられているのかは分からない。しかし、いつか連絡が来てその成果を試されるのであろう。だったら、楽しんでやった方がいいのではないか。半ば、開き直り気味でそういう考えに至った。
ある日、橋の下で歌を歌っているホームレスに出くわした。あそこなら音が響いてよく聞こえるし、なんといってもお客さんがいる。
しかし、素人の笛なんか聞いてくれるのだろうか?
試しに大声で歌を歌っていたその男に声をかけてみた。
ああ、いいよ。ここはみんなの場所だからさ。
それが一本しか歯がないブンさんとの出会いだった。
もう一度夕方に来てみなと言われた森河が約束どおり行ってみると、たくさんの観客が待っていた。ホームレス仲間を集めてくれたらしい。総勢三十人は下らない。焚き火も三ヶ所あり、みんなはワンカップを手に森河の出番を待っている。
「あの、ブンさん、これはやりすぎじゃ……」
「何をいう。客が多いほど盛り上がるだろ。それにみんな娯楽に飢えとるんじゃ。楽しませてやってくれ」
森河は取り出した横笛を震える手で持って吹きはじめた。
十分後、ブンさん以外の人たちはみんないなくなっていた。
「まあ、あれだ。なんだか、みんな用事ができたみたいでな」
ブンさんはそういって慰めてくれたが、ショックは大きかった。
「また明日も来なよ」
ここしか練習場所がない森河はその言葉に甘えて、また橋の下に行ってみた。待っていたのは、中学の吹奏楽部で少しだけ笛を吹いてたことがあるという若者だった。あまりのヘタさ加減に見かねたブンさんが、仲間内から探してきてくれたらしい。
まったく横笛を吹いた経験がない森河に、ホームレス歴二ヶ月という若者は呆れることもなく、基本的なことからていねいに教えてくれた。
「まず、右手は笛と直角になるようにして上から押えて、四本の指で穴をふさぎます。左手は親指で笛の裏側を支えるようにして、三本の指で穴をふさぎます」
森河が横笛の穴が七つあることを知ったのは、つい最近に過ぎない。
「姿勢を正して、笛が体の右側に来るように構えください。下唇を笛にくっつけて、素直に息を吐いてみて下さい」
ピ~、ピ~、ピ~。
情けない音が橋の下に反響した。
「それでいいです。初めてにしては上出来ですよ」若者はニコッと笑った。
それから数日間、特訓はつづいた。やがて、練習の成果が上がり、観客はしだいに戻ってきてくれた。先生役の若者もブンさんもみんなも見事に上達した腕前を自分のことのように喜んでくれた。
森河は学校が終わってからほどんど毎日、この橋の下に来て笛を吹いている。家に帰るのが少し遅くなっているが、妻には最近仕事が忙しいと言ってある。教師が忙しいのは一年中なのだが。
うまくなってくると、横笛にも愛着が湧いてくる。あの黒尽くめの男から借りているものだが、手入れは怠らないようにしようと、笛を掃除する布を自分で作ってみた。布には鉛がついたヒモが結んである。吹いた後、それを笛に通すと唾液で汚れた内部が掃除できる。
「なかなか本格的になってきたねえ」とブンさんが茶化す。「そろそろ三人で金を取ってもいいんじゃねえ?」
「えっ、三人?」
「そうさ。あっ、ちょうど来たな、あの二人……」
二人の中年男性が川の土手の階段を下りてくる。手にはそれぞれ大鼓と小鼓を持っていた。
「お仲間だろ?」
「いえ、私の知らない人たちです」
大小の鼓を持った二人の男性もあの黒尽くめの男の被害者だった。元はというと二人で痴漢を働いていたのだから加害者だったわけだが、一転して被害者となり、それぞれ二百五十万円と三百万円を取られたという。家族や銀行には言えないため、同業者の間を金策に走り回ったらしい。
大鼓担当はパン屋を経営する多田さん、五十三歳。
小鼓担当は文具屋を経営する本山さん、五十三歳。
中学の同級生というから四十年ほどの付き合いになるという。ともに経営難からストレスが溜まり、どちらからともなく、痴漢でもやるかということになったという。他にすることはないのかと思ったが、自分も痴漢をやっていて黒い男に捕まったのだから人のことは言えた義理ではない。
ある日の夜。店を終えた二人は駅で待ち合わせをして、混んでいる車両を目指して乗り込んだ。そして、会社帰りのOLを両脇から挟むように立つと、二人は痴漢行為を始めた。やがて三分ほどが経過した頃、二人の後ろに全身黒尽くめの男がするりと近づいてきたかと思うと、本山の手首を?みながら小さな声で言った。
「次の駅で下りてください」
――警察だ!
本山の顔から血が引いて真っ青になった。
すばやく手を引っ込めた多田も釘をさされた。
「お連れさん、逃げても無駄ですよ」
きっと本山は俺のことを話すだろう。仲間の警官もそばにいるはずだ。確かにこの男の言うとおり逃げても無駄だと思った。
相棒の多田も観念して二人の後をついて行った。駅に降りるとなぜかトイレの個室に連れ込まれた二人は、冷たいタイルに両手をつけたままの姿勢で背後から男に訊かれた。
「明日の朝刊に載りたいですか?」
「いえ、載りたくないです!」
二人は見事にハモッた。四十年も付き合っていると、似てくるらしい。
「では、振り向かないで、あなた方の名刺を渡してください」
二人は何を言われているのか分からないまま名刺を差し出した。
「あと二枚ずつ同じ名刺をください。――いや、人からもらった名刺を渡す人がいるものでね。自分の名刺なら同じものが何枚かあるでしょう」
男たちはそれぞれもう二枚の名刺を差し出した。
「本山良三さんと多田邦和さん。――ほう、お二人ともお店の経営者ですか」
黒尽くめの男が穏やかな声で言った。
「お願いが三つあります。名刺一枚につき、一つのお願いというわけです。それを聞いてくだされば、今回のことは誰にも言わず黙ってましょう」
黒尽くめの男は、その札束に自分の名刺を挟んで、一週間後に満願神社まで持ってくるよう指示した。
そして、用意できるお金が五百万円以上なら、一万円札を五百万円分ごとに分けておくようにと言われた。
「理由は簡単です。五百万円以上の厚さだと、お賽銭箱の入口から入らないからです」
二人は両手をついたまま横目で見つめあった。
なぜ、お金を神社に持って行くのか?
なぜ、そのお金をお賽銭箱に入れるのか?
そもそも、この男は何者なのか?
さっぱり分からなかった。
そして、黒尽くめの男は最後に奇妙な質問をしてきた。
「二つ目のお願いですが、あなた方は鼓が叩けますか?」
「えっ、ツヅミですか? 触ったこともないです」多田が答えた。
「私もないです」本山も続いた。
「では、満願神社へお金を納めに行かれたときに、社務所まで顔を出してください。そこにいる巫女から小鼓と大鼓を受け取ってください。ただし、彼女は何も知りませんから、何を訊いても無駄です。時期がくれば連絡をしますので、一生懸命に練習をしておいてください。私からは以上です。何かご質問はありますか?」
「いえ、ないです」二人はまた見事にハモッた。
二人とも気が動転していて、質問など思い浮かばなかった。
その後、二人はペアを組まされて、毎日大鼓と小鼓の練習をしているという。森河と同じく練習場所には困ったらしい。家の中や近所の公園などは無理だったため、あちこち捜し歩いて、この橋の下に落ち着いたという。
「やっぱりお客がいる方がやる気が出ますからねえ」本山がのんきに言う。
「最初は誰も聞いてくれなかったですが、最近はうまくなったですよ」多田も笑いながら言う。
娯楽がないとはいえ、ヘタな楽器を聴かされてホームレスのみなさんも大変だっただろうなと、森河は自分のことは棚に上げて思った。あの男から連絡が入るまで、同じ境遇の三人はこの橋の下で合同練習をつづけることにした。
コンクリートの上に数枚のダンボールが敷かれている。みなさんが用意してくれたものだ。横笛も鼓も本来は座って演奏するものだからだ。
本山が担当する大鼓は左の膝に乗せて右手で打つ。
多田が担当する小鼓は左手で持った鼓を右肩に載せて右手で打つ。
大鼓、小鼓はともに調緒と呼ばれる麻のヒモで音を調整する。調緒を締めたり緩めたりしながら、革の張力を変えて打つ。
その横で森河が横笛を吹く。
課題曲は「さくら」だった。日本人なら誰でも知っているし、簡単な曲だ。しかし、やってみるとかなり奥が深い。
というか、三人の息を合わせるのが大変だったのだ。
ホームレスのみなさんは忍耐力を最大限に発揮して聞いてくれている。古い橋の下に日本古来の楽器が奏でる音色が響き渡る。焚き火の炎がゆらゆら揺れる。酔った人たちの体もゆらゆら揺れる。ブンさんが腕組みをしながら満足そうな表情で聞き入っている。その場に似つかわしくない和の音が、情緒を伴って聞こえてくるから不思議だった。
庭師のジッちゃんは満願神社の古い鳥居を見上げていた。祭礼の際に新調されるため、もうすぐこの鳥居ともお別れだった。ところどころに赤く塗り直した跡がある。若が大切にしていた証拠だ。
昨晩は二十年に一度の祭礼中でも最も重要だと言ってもいい儀式が執り行なわれた。
神が宿るものを依代をと呼ぶ。小さいものはお守りだ。お守りをバラしても紙や布にしかならない。中に神がいるわけではない。必要に応じて神がお守りに降りてくるのである。
大きなものとなると山がある。山に神が降りる。川にも湖にも神は降りる。その中でも礼拝の対象となっているものをご神体として大切に扱う。多くは鏡であったり、剣であったり、玉であったりする。それらは、普段見ることはできない。御神殿の中に大切に保存されていて、拝殿より祈りを捧げる。山そのものがご神体の神社は山に向って祈りを捧げる。
ここ満願神社の依代の一つは柱だ。神が宿る柱を心御柱という。それは神殿の中央の床の下に埋められていて、建物を支える柱としての役目は担っていない。しかし、神社内では最も神聖なものである。心御柱が痛むと災いが起きるとされている。
そのため二十年に一度、新しいものと取り替える。
昨夜、この柱を取り替える儀式が秘密裏に行われた。儀式に係わったのは神職である若とジッちゃんと有力氏子三名にすぎない。若は身を清めるため数日前より、電車内の仕事を控え、当日は新しい柱に神をお迎えするため、夜が明けるまで数時間に渡って神への祝詞を唱えつづけた。
深夜に行うというのは、古くからの習慣であるが、隣の二望寺に気づかれて、邪魔されないための方策でもあった。
寝不足気味のジッちゃんは小さな声で鳥居の横に彫ってある寄贈者の名前を順番に読み上げた。すでに故人となった方もちらほら見受けられる。下のほうに小さくジッちゃんの名前も刻んである。二十年前にささやかながら寄付させていただいたものだ。
あの頃は離婚問題で大変だった時期だ。苦しい思い出しか蘇ってこない。
あれから二十年か。早いものだ。約束の日までもう少し。二十年ぶりに妻と娘に会える。妻には私がこの神社で働いていることを教えてある。今まで何も連絡がないということは二人とも元気でやっているということだろう。あの乳飲み子が二十歳か……。
妻はいったいどうやって子供を育てていったのだろう。
何の仕事をしていたのか? どこに住んでいたのか? 娘は学生なのか? 社会人なのか? 訊いてみたいことがたくさんあった。
しかし……。
ジッちゃんは思う。妻はきっと再会の約束を覚えているし、きっとここにやって来るに違いない。
しかし……。
妻は私を許してくれるのだろうか?
若は許してくれるだろうと言ってくれたが自信はなかった。それだけ辛い思いをさせてきたのだから。
まず二人に頭を下げよう。許してもらえるまで頭を下げよう。――ジッちゃんはそう思った。
「やあ、ジッちゃん、なに、物思いにふけってんだ?」
ミコがいつの間にか竹ぼうきを持って、そばに立っていた。
「ああ、お嬢さんか」
ふと我に返ったジッちゃんはミコと自分の娘をダブらせた。
「お嬢さんはいくつになるのかね?」
「あたしは二十歳だよ」
「ああ、やっぱりそのくらいかね。いや、わしにも娘がおってな」
「知ってるよ。二十年ぶりの再会でしょ。楽しみだね」
「あれっ、何で知っとるんじゃ?」
「この前、ジッちゃんが自分で話してくれたじゃんか」
「そうだったかの」
「まだボケる歳じゃないだろ、ジッちゃん。仕事に関してはちゃんとしているけど、それ以外はからっきしダメだな。しっかりしないと娘に嫌われるぞ」
小娘が痛いところを突いてくる。反論しようと思ったが、図星をつかれているだけに、気の利いた言葉が浮かんでこない。
「娘さん、きれいになってたらいいね」
小娘はニコリとした表情で言った。
「ああ、お嬢さんのようにな」
「あたしはダメだろうが。だいたいお嬢さんというガラじゃねえし」
ミコが竹ぼうきをかついで笑う。
「ははは、そうかね」
ジッちゃんは日に焼けた人懐こい顔をほころばせる。
そのとき――。
「えっ、どうしたの?」
突然、ジッちゃんの顔から笑いが消えた。
「――何か来る!」
そう言って右側の道路を見渡した。大通りにつづいている細い道だ。両脇に電信柱が立っているだけで誰も歩いていない。
「何も見えないけど」ミコが不安そうに言う。
ジッちゃんはカラスの言葉が理解できて、式神を自由に操ることができることを神主さんから聞いていた。
ああ見えても、ジッちゃんは超能力者なんだよ。今までその能力でずいぶんこの神社も守ってくれたんだ。
神主さんはそう言ってったっけ。その超能力者が目の前であわてている。
やがて、遠くに複数の人影が見えてきた。
シャリン、シャリン、シャリン――。
「――あれだ。この邪悪な気を発しているのはあの四人だ」
薄汚れた山伏の格好をした男たちが大股で歩いてくる。右手には錫杖と呼ばれる六つの輪がついた杖を持っている。杖を地面に突くたびにシャリンという音がする。左手には大きな数珠を持っていて、先頭の男は首から法螺貝を提げていた。
四人のうち、二人は坊主頭。一人は長髪で背中に髪を束ねている。もう一人は髪を金色に染めていて、手首には金色のブレスレットをしていた。
「――山伏?」
「そのようだ。しかし、どう見ても邪道の山伏だ。本来、山伏というのはその名のごとく山で修行をしている。しかし、あの四人はこんな街中をほっつき歩いておる。しかもあんな汚い格好でだ。それに金髪の山伏なんておらん。山伏の姿に似せたヤクザもんじゃな」
やがて四人は満願神社の前に差し掛かった。
ジッちゃんは自然体のまま風景に溶け込んで立っていたが、ミコは戦闘態勢よろしく竹ぼうきを構えた。しかし、彼らは二人に気づかないような素振りで赤い鳥居を見上げると、ニタリと笑い、隣の二望寺へと入って行った。
「――やはりな。お隣さんが雇ったのだろう」
ジッちゃんは四人が入って行った山門を見つめた。
ミコはほっとした表情をしている。
「みんな体がデカかったけど、一人だけチビがいたね。最初、子供かと思ったよ」
「いや、あの御仁の念が一番強く、かつ邪悪だった。きっと他の三人を束ねているのだろう」
「へえ、アマガエルみたいな顔してたのに偉いんだ」
「見かけで判断しては危険じゃ。四人ともすさまじい気を発しておった。油断ならん。ああいう奴を人面獣心と言うんじゃ。顔は人間だが、心は獣に等しい。何をやらかすか分からん」
「でも、ジッちゃん。もしかしてあいつらとケンカするわけ?」
「うーん。そうなるかの。祭礼を邪魔するために雇ったのだろうからな。――お嬢さん、心配せんでよろしい。わしが何とか食い止めるし、若もいらっしゃる」
心配をしているんじゃない。逆だ。久々のケンカにわくわくしているだけだ。でも、そんなことは言えない。ジッちゃんは、あたしと娘さんをダブらせて見ているらしいから。それにあたしをお嬢さんなんて呼んでくれているから。
元ヤンで九十人のレディースを束ねていたとは言えない。この歳になってやっと更生したなんて言えない。ジッちゃんの車を使って仲間五人で公園の砂をパクッて来たなんて言えない。
早く祭礼が始まらないかなあ。血がたぎるなあ。ニセ山伏が四人か。あのアマガエルをぺしゃんこにしてやりたいなあ。他のデカい三人もボッコボコにしてやりたいなあ。
ミコは不謹慎だとは思いながらも、ジッちゃんに見られないようにニタリと笑った。
女性が一人で切り盛りしている小さな美容室。大きなポスターをガラス面に貼ると、中の様子がほとんど見えなくなった。
「やっぱり二枚並べて貼るのは無理があるかなあ」
経営者の女性が一人でつぶやいた。
「あら、何のお知らせなの?」
予約を入れていた常連客がやって来て、貼られたばかりのポスターを見上げる。
「満願神社の祭礼よ。二十年に一度行われるって、先日話してたでしょ」
「ああ、あれね。そういえば前回行ったわよ。露店目当てに」
そう言って茶髪の色が取れかかっている女性が笑う。今日はしっかりと染め直すための来店だった。
「あのときのリンゴ飴の味は忘れられないわよ」
「そうそう、今回もたくさん露店が出るらしいよ」
「楽しみでしょ。あなたは二十年前、お腹が大きくて行けなかったから」
「そうなのよ。リンゴ飴のおいしさをさんざん自慢されたものねえ。ほんと、くやしかったわ。でも、そのときの子供がこの満願神社で巫女さんとして働いているのよ」
「えっ、ミコちゃんが?」
「そうなの。さっきこのポスターを貼ってくれって持ってきたのよ」
「巫女さんて、そんなこともやらされるの?」
「そんなのはここの神社だけでしょうけど。何だか人手不足みたいでね。でも、露店だけじゃなくて、厳かな儀式とか、相撲大会とかいろいろあるらしいから、行ってやってね。ミコも神楽を舞うみたいだから」
「へえ、すごいねえ。でも、あのミコちゃんがもう二十歳か。私たちも歳を取るわけだ」
「一緒にしないでよ。私はまだまだ若いつもりだからね」
「私だって、きれいな茶髪に染め直すために来たんだからね」
お母さんは今までさんざん迷惑をかけられた娘が一人前になったような気がしてとてもうれしそうだった。先日、金髪を黒色の戻してやったと思ったら、巫女さんになっていたとは驚いた。あんたには真逆の職業だと友達に言われたらしい。お母さんもそう思うよと言ったら、すごい顔で睨まれた。ミコは案内ポスターを二枚つきつけると、さっさと帰って行った。神楽を舞うのだけど、絶対見に来ないようにと釘を刺されたが、絶対に行ってやろうと思う。一人娘の初舞台だ。店を臨時休業にしてでも、こっそりと見に行く予定だ。もちろん、二十年前に食べ損ねたリンゴ飴も忘れずに買おう。
「香川、おまえ何だかニヤニヤしてないか? 今から稽古なんだから気合入れろよ」
「そういうけど、小森の足取りも何だか軽やかじゃないか」
頬に大きな絆創膏を貼っている香川が言う。
「それに吉田を見てよ。もうあんなに先を歩いているし」
国常高校相撲部の三人は満願神社の新しい土俵で初稽古をすることになっていた。授業が終わると、てきぱきと支度を終えて神社に向った。いつも運動場の真ん中の心霊スポットで稽古をしている三人の夢は本物の土俵の上で相撲を取ることだった。
今日、その夢が叶う。
しかし、三人が楽しそうなのは、夢が叶うという理由だけではなかった。
「おーい、早くしろよ」
副主将の吉田は先に着いて二人を待っている。
「しょうがねえよな、吉田も」
小森は自分の軽やかな足取りのことも忘れてあきれる。
鳥居の下に三人が揃ったところでいっせいに一礼した。
「よお、相撲部の学生さん」
頭の上の方から声がしたので三人が同時に顔をあげると、木の上に庭師がいた。
「ああ、ジッちゃん!」香川が馴れ馴れしく呼びかける。
「今日からあの土俵で稽古だな」ジッちゃんが木の枝につかまりながら叫ぶ。
「はい、そうです! ジッちゃんがリフォームをして、ミコ先輩が砂を入れた土俵を汚さないように、不肖三人の相撲部員が懇切丁寧に使用させていただく所存でございます」
小森が変な敬語で答える。
「そうかね。せいぜい強くなって、当日の奉納相撲を盛り上げてやってくれ」
「はい!」三人が並んで坊主頭を下げる。
「それと、土俵に行く途中でいいことがあるぞ。楽しみにな」
ジッちゃんが大きなハサミで参道を指しながら笑った。
三人は以前ミコに言われた通り参道の端っこを歩く。真ん中は神さんが通るからだ。香川は灯籠に激突しないよう、特に注意をして歩いている。
突然、小森が素っ頓狂な声をあげた。
「おい、あれを見ろよ!」
吉田と香川が小森の指差す方向を見上げた。
そこには名前が書かれた旗がひるがえっていた。
「興行のぼりだ!」
参道の両脇に相撲場所で立てられているのと同じのぼりが色も鮮やかになびいている。
小森、吉田、香川、三人の分がちゃんと作ってあった。
――ガツッ!
自分の名前に見とれていた香川は灯籠に激突した。
「本格的だぞ、おい! 俺の名前は赤で、吉田が緑で、香川が黄色か。いい色だなあ。何だかプロの力士になった気分だなあ。こんなことじゃ、しこ名を考えておけばよかったなあ」
小森が細い目をさらに細めて見上げている。隣に立った吉田も顔を真っ赤にして喜んでいる。やっと立ち上がった香川も額を撫でながら、うれしそうな顔をしている。
ジッちゃんがいいことあると言っていたのはこのことか。
「ねえ、小森、吉田、知ってる?」香川がうんちくを語り出す。「のぼりの標準サイズは縦が五、四メートルで横が七十センチなんだよ。黒色で名前を書くと黒星につながるからダメなんだ。下に送り主の名前が満願神社って青色で書いてあるけど、下に書くスポンサーの文字の場合、赤色は赤字につながるから禁止なんだ」
「お前は相撲のことになるとよく知ってるなあ」小森が感心する。
「その知識を勉強に生かせたらなあ」吉田がつぶやく。
「そうだよね。ボク、ぜったい、学年で一番になれるよね」香川は自覚している。「でもさ、小森。これ作ってくれたのミコ先輩だよねえ」
「作ったのは業者だろうけど、発注してくれたのは先輩だろうな。俺たち三人の名前を知っているのは先輩だけだからな」
「今日はミコ先輩、見かけないねえ」
「なんだ、香川、気になるのか?」
「当たり前じゃないか。小森も吉田も先輩に会いたくてそわそわしてたじゃないか」
「なんだ、みんなそうだったのか」
「あの手作りまんじゅうがまた食べられるのかと思うと、ボク、生まれてきてよかったと思うよ。ああ、もちろん、稽古はがんばるけどね」
「大げさだな香川は。でも、美人の先輩を持つと苦労するねえ、なあ吉田。――あれっ?」
吉田はまた二人を置いて、スタスタと土俵に向って歩いていた。
「あいつ、一刻も早く先輩に会いたいんだぜ」小森がニヤニヤ笑う。
早足で歩く吉田の両脇では白地に黒文字の「神社のぼり」がたくさん風になびいていた。祭礼のために氏子たちが奉納したものだった。中には十メートルを越える立派なのぼりもあり、祭礼への大きな期待をうかがわせていた。
本物の土俵の上で三人の取り組みがつづく。稽古を始めて一時間。三人とも体中が砂だらけだった。しかし、今日くっついている砂は学校の運動場の安っぽい砂とは違う。お清めの塩がたくさん混じったありがたい砂だ。いつもは嫌そうに払いのける砂だったが、今日は厳しい稽古の証のような気がして、払わずにそのままにしてある。
なんだか高校球児みたいだなと、頭の先から足の先まで砂まみれの三人が笑う。
「よお、デブ三人! 相変わらず部員は三人か?」
三人はうれしそうに振り返った。こんなに言葉遣いが悪いのはミコ先輩に決まっているからだ。
案の定、白い上衣に緋色の袴をはいたミコがお茶とまんじゅうを山盛り乗せたお盆を持って立っていた。
「ごっちゃんです、先輩!」三人が叫ぶ。
「まあ、一息ついてくれ」ミコがお盆を持ち上げて見せる。
香川がさっさと土俵を下りてまんじゅうを目指す。
二番手の吉田が追い抜きざま香川を送り出す。
追いかけてきた小森が二人を豪快に押し出して、ミコの前で直立不動になる。
「本日よりこの土俵で稽古をさせていただくことになりました。これもミコ先輩のおかげです!」
先輩を独り占めされたくない吉田が小森を突き出す。
「興行のぼりをありがとうございました!」
「のぼり? ああ、旗のことか。よく出来てるだろう。この神社御用達の老舗店に頼んだんだ」
ふたたび突進して来た小森を吉田が肩透かしでよける。たたらを踏んだ小森は体勢を立て直して、逆に吉田を寄り切る。吉田はあきらめて隣で大人しく小森の会話を聞くことにする。
「最初にご挨拶をと思ったのですが、お見掛けしませんでしたので先に稽古を始めていたしだいです」
「堅苦しい挨拶なんかいいよ。稽古の方が大切だからな。ちょっと営業に行ってて、今帰ってきたんだ」
「営業なんかやってるのですか?」
吉田に勝った小森はまんじゅうをねらっている香川をけん制しながら訊く。小森にとってはまんじゅうよりもミコ先輩との会話の方が魅了的だからだ。
「ああ、祭礼のポスターを貼ってもらう場所をさがしてきたんだ。おかげで全部貼ってもらったぜ。行きつけのバイク屋に、行きつけの革ジャン屋に、行きつけの木刀屋だ」
「何だか、先輩の人柄がにじみ出てますねえ」
「美容室にも行ったけどな」
「それは違和感があります」
「何だと!」
「す、すいません。平に、平に」
小森が小さくなって謝る。吉田と香川も連帯責任として頭を下げる。
「あたしの母親の店なんだ」
「えっ、御母堂様がご経営されている……」
「御母堂というツラじゃねえよ。オカンだよ、オカン」
香川が一歩前に出て、
「ボクたち美容室には縁がなくてすいません!」と坊主頭を下げる。
「まあ、気にするな。固定客がついてまずまず儲かってるらしいから。それに学生服を着た坊主頭のデブ三人が来たらオカンも困るだろうしな。それよりも香川、頬の絆創膏はどうした?」
口ごもる香川の代わりに吉田が答える。
「こいつ、部員の勧誘のときに張り手を一発喰らってブッ飛んだんです」
「なんでそいつを相撲部に入れないんだ?」
「ですので、そいつが学校で小森の次にデカい杉田さんでして……」
「なんだ。女子を誘ったのか!?」
「ミコ先輩が女子でもTシャツ着せてやらせろって言うから」
「冗談に決まってるだろ!」
「えっ!」
本気にしていた三人がそろって驚く。
気を取り直した香川がうつむき加減で話す。
「あのう、優勝商品のことも話したんですけど、怒って張り手をかまされました。捕り逃がした魚は大きいです」
「はあ? 優勝商品は米一俵だぞ。米一俵をもらえるから相撲大会に出ないかと誘われて、喜んでついてくる十七歳の純情乙女がいるか? しかも経費節減のために送料は出せないんだ。自分でかついで帰るんだぞ。米俵をかついだ女子高生なんか盗撮犯も狙わないぜ」
「すいません。乙女心は相撲心より難しいです」
「まあ、香川のツラじゃ女子には相手にされないだろ。イケメンでもいれば女子を騙して連れて来れるんだけどな」
「はあ、神主さんのようなイケメンだったらいいのですが」香川が肩を落とす。
「オッチャンはイケメンとまではいかないけど、整った顔してるからな。まあ、懲りずにこれからも勧誘はつづけるように。あたしの営業力で当日はわんさか人が集まるはずだからな」
「ごっちゃんです、先輩! 祭礼を盛り上げるために生徒の首に縄をつけてでも連れてくる所存です」
小森主将が高らかに宣言する。
「それよりか小森、早く気づけよ。さっきからこのお盆が重いんだ」
小森はあわててお盆を受け取る。まんじゅうが山盛りになったお盆は確かに重かった。
「じゃあ、頼むぜ。あたしはこれからお神楽の練習があるから」
ミコが緋色の袴のすそをひるがえして颯爽と去っていく。
香川はハイスピードでまんじゅうに手を伸ばすと、
「うん、うまい!」
たちまち元気になってミコの後姿に叫んだ。
「ミコ先輩ーっ! 相変わらず手作りまんじゅうには先輩の愛がこもっててうまいです!」
ミコが不思議そうな顔をして振り向いた。
「えっ、あたしの手作りじゃないよ! ここを出て左に行ったところに趣月堂っていう甘味屋があるじゃん。そこのおばあちゃんの手作りなんだよ。まんじゅう一筋六十年だからうまいはずだぜ」
三人は口からまんじゅうを噴出しそうになったが、ミコがしっかり見ていたのであわてて飲み込んだ。
まんじゅうはいつもより塩っぱかった。
早朝、白い手袋をはめた若は賽銭箱の後ろにある鍵を開けて中身を確かめた。たくさんの小銭に交じってお札が数枚入っている。お賽銭集めは毎朝行っていることで、お金は麻の袋に入れて社務所に持って帰って、備え付けの金庫に保管する。
若は中を覗き込んで怪訝そうな顔をした。
――約束が守られてない。
あの男、確か木川といったはずだ。そうだ、木川勤次……。男の名前をフルネームで言えたのには訳があった。賽銭箱の底に名刺が一枚落ちていたからだ。若は名刺を拾い上げた。
名刺があるだけで約束のお金は見当たらない。一万円札が数枚入っているだけで札束はない。要求する金額は決めていない。一週間で用意できる限界が相場だと言ってある。まさか、一万円しか作れなかったはずはない。取りはぐれのないように身なりのいい人物を狙っているのだから。確か、木川は高級そうなスーツを着ていたはずだ。
「振り向かないであなたの名刺を三枚渡してください。くれぐれも他人の名刺を渡さないでください」
木川は言われた通り名刺を後ろ手に差し出した。お金の要求にも素直にしたがった。ときどき退職しているにもかかわらず、未練があるのか、記念として取っているのか、以前勤務していた会社の名刺を何枚も大切に持っている男がいる。そんな人にはお金の話をすると、正直に事情を話してくれる。
実は既にこの会社は辞めていて、今は無職なので都合がつかない。今から再就職の面接に行くのでいい格好をしている。だから、お金は勘弁してください。
リストラされて求職中だったりする人からはお金は受け取らない。そのまま帰すことにしている。ほんとうは説教の一つでもしてから解放してやりたいのだが、そんな時間はない。さっさと朝の仕事を終えて、神社で本来の神職としての仕事をしなければならないからだ。
木川は名刺から大手電機メーカーに勤務していることが分かった。確かにそのメーカーは数百人規模のリストラを敢行していたが、木川はその対象ではない役職者だった。つまり、社員を切る側だ。しかも、スーツの胸にはちゃんと社章がついていた。
勤務していることは間違いなかった。辞めているのにバッジをつけている人はいないからだ。家族もいると言っていた。嫁入り前の娘が二人いるとも言っていた。
「だから、お金は作るので、このことは他言しないでください」
彼は涙声でそう懇願した。
一週間あれば、ある程度のお金が作れるはずだ。賽銭箱の中に名刺があるということは、約束をすっぽかしたのではなく、ここにちゃんと来ているということだ。
そして、昨日の夕方、ミコさんは帰り際に、オッチャン、風呂敷包みは渡しておいたからと言っていた。風呂敷の中身は笙(しょう)――中国から伝わった管楽器だった。
それは受け取ったらしい。それとなく、ミコにさんに訊いてみたが、男は確かに賽銭箱の前に立ち、鈴を何回も鳴らしていたという。お金を入れないで鈴だけ鳴らして帰ることはしないだろう。つまり、名刺だけ残して中のお金だけが消えていたのだ。
いったい誰が? どうやって?
若は賽銭箱を見下ろしながら、しばらく立ち尽くした。
ゲーセンの店内ではいろいろな電子音が聞こえてくる。ユウはそれが嫌いだった。背が低いため、自分の頭の上で音の波が交錯しているように聞こえるからだ。
自然の音や動物の声なら許せるけど、人間が作った人工音に押しつぶされたくないと思う。だから、ゲーセンは嫌いだ。ときどき、二階にプリクラを撮りに来るが、用が済んだら一階のゲームコーナーを素通りしてさっさと帰る。横にいる彼氏のシンはそんなこと全然気にならないし、考えたこともないという。
そりゃ、シンは背が高いから分からないんだよと言っても、そんなの考えすぎだよ。ここは悩む場所じゃなくて、楽しむ場所だよと言って笑う。
シンが腰をかがめてユウの耳元で囁いた。
「ほら、あそこ」
背伸びをして見た先には、ユウのお父さんがいた。
お父さんが毎日ゲーセンに現れて、太鼓の達人をしている。人の顔を覚えるのが得意なシンが目撃したのだから間違いない。でも、ユウには信じられなかった。あんな堅物なお父さんがゲーセンに行くか? 何の趣味もなく、仕事一筋で生きてきたお父さんがゲームをするか? 悩んだ末に、自分の目で確かめることにした。
自分の目の前にお父さんがいた。太鼓の達人の前に立って、上着を脱いだとたん、周りから人々が集まってきた。お父さんの腕前を見ようというのだ。
お父さんはこんなところですっかり有名になっていた。
やがて、バチ袋から一対のバチを取り出すと、両足を広げて、大きく構えた。目を大きく見開いて、口を真一文字に結んだお父さんなんか、家では見たことがない。
店内に太鼓の音が響く。画面に音符が映し出される。
赤の音符は太鼓の面を叩く。
ドン、ドン、ドン。
青の音符は太鼓の縁を叩く。
カン、カン、カン。
黄色い音符は連打だ。
ドン、ドン、ドン、カッ、カッ、カッ。
大きい音符は強打する。
ドカン、ドカン、ドカン。
お父さんが白髪交じりの頭から汗を飛び散らせながら、両手で連打する。周りには大きな人垣ができている。店の中にいるほとんどのお客さんが集まっている様子だ。お父さんに向って、若者たちの声援が飛び交い、最高に盛り上がる。
シンを見上げると、同じように声を張り上げて応援している。
「どう? ユウのお父さん、すげぇだろ」
――確かにすごい。
真面目が服を着て歩いているようなお父さんがあんなことになっているのだからすごい。会社でもいいポストにいるお父さんは、上司よりも部下の数の方が多いらしい。その部下たちは、お父さんのこんな姿は知らないだろう。お母さんに見せたら、きっと卒倒するだろう。
「大達人も夢じゃないよ」
「何、それ?」
「平均百万点出せたら大達人の称号がもらえるんだ」
「お父さん、それ目指してるのかなあ」
ユウは複雑な気分になる。喜んでいいのか、悲しんでいいのか。
やがて、お父さんは周りで応援をしてくれていた若者に向って、イエーイ! と叫んでゲームを終えた。万雷の拍手がお父さんを包み込む。
「いいぞ、おっさん!」「よっ、中年の星!」
お父さんはますます調子に乗って、体をクルッと一回転させたり、投げキッスを送ったりしている。
ユウは見つからないように、こっそりと逃げ出した。
やっぱり見なかったことにしよう。
シンがあわてて追いかけて来たけど、無視してダッシュした。シンと一緒に追いかけてきた電子音の波も振り切った。
あんなお父さん、全然、格好よくないよ。大達人なんて、勝手になればいいじゃん。
カウンターの上に置かれた木彫りはアニキが言う通り、どう見ても首が細いアヒルにしか見えなかった。しかし、隣から自慢げにこちらの表情をうかがっているスコットの顔を見ると、そんなことは言えなかった。
「うん。どう見てもネッシーだ」
「ジュンさん、ありがとうございます。私が心を込めて彫りました」
スコットはうれしそうに笑う。
見習いヤクザのジュンはウソをついてよかったと思った。
「これ、水に浮かべたらどうなるんだ?」
「はい。ちゃんと首と背中の一部だけが水面に出て、本物のネッシーのように見えます」
「へえ、すごいじゃん」マジで驚いた。「そこまで計算してるんだ。お前は体がデカイくせに手先は器用なんだな」
「試行錯誤の末に完成させました」
「なんだ、難しい四字熟語を知ってるな」
「はい、日本に来てますます日本が好きになったので、いろいろな本を読んで、いろいろな言葉を覚えているのです。きっと見習いのジュンさんよりも漢字を知ってますよ」
スコットはそう言って笑った。
貧乏な組のメシの種だった末端価格四億円の覚せい剤を仕込んだ仏像を盗んでいった東南アジア系窃盗団は、いずれどこかの港からその仏像を本国に送り出す。アニキからその港を見つけて、仏像を奪取しろと言われたスコットであったが、一日中駆けずり回っても、一向に埒が明かなかった。
早くしないと持って行かれちまうじゃねえか!
アニキの怒号が昨日もスコットを直撃した。
しょんぼりして大きな体を小さくしているスコットを見かねたジュンは気分転換にと彼を食事に誘った。朝っぱらから牛丼はどうだろうかと思ったが、外国人だから朝からでも肉をジャンジャン喰うだろうと行きつけの牛丼屋にした。入り口の横には、スコットが宿泊先のアルバイト生から借りてきたという自転車が停めてある。
スコットが組に面接に行ったとき、ジュンは不在だった。使い走りをさせられているため、よく出かけるらしい。ある日の夜、その日の日当を受け取りに行ったとき、階段から下りてくるジュンに出会った。
なんでこんな場所にハイスクールスチューデントが?
労働基準法に違反しているのではないか?
ボスに訊いてみると、彼も組のメンバーだと分かった。
「デカい外国人から見ると子供に見えるかもしれんな」ボスは笑った。「あいつは童顔を気にしてるから面と向って言うなよ」と釘を刺された。
その童顔は派手な紫色のスーツを着て、金のネックレスと金のブレスレットを周りの客に見せつけながら隣に座っている。スーツはボクが探している風呂敷と同じ色だと思った。
木彫りのネッシーを眺める二人の前で、注文を待つ店員がメモ用紙を持ったまま黙って立っている。しだいに朝定食目当ての客が増えてきたため、急かそうと思ったようだが、ジュンのいかにもヤクザでございますといったファッションと、得体の知れない大きな外国人を見て、黙って待つことにしたようだ。周りの客も二人を避けて座っている。店内で二人だけが孤立した存在のように浮き上がって見えていた。
「ああ、俺はあまり腹が減ってないか並みでいいわ」
ジュンが首から下げた金のネックレスをもてあそびながら、目の前の男性店員に言う。
「はい。牛丼の並がお一つと……」
店員が注文を繰り返そうとしたとき、スコットが割り込んだ。
「今のはキャンセルにしてください。牛丼の特盛とお味噌汁と卵とお漬物を二つずつください」
ジュンが驚いて言う。
「おい、待てよ。お前……」
「いいんです。見習いのジュンさんはボクのことを心配して、ここに連れてきてくれたのでしょうから」
「だったら、俺がおごるべきだろう」
「いえ、見習いのジュンさんのその気持ちがとてもうれしいので、ボクにご馳走させてください」
「あのなあ、こう見えても俺も日本のヤクザの端くれだぜ。外国人に施しは受けん」
「店員さん、それでお願いします」スコットはジュンを無視して言う。
店員は二人にあまりかかわりたくないため、さっさと注文を通して、次の客の元へ行ってしまった。
「それに、見習いのジュンさんはボクのネッシーを褒めてくれました」
スコットは大きな手に上にネッシーの木彫りを乗せる。
「このネッシーがあまりうまくできていないことは、ボクが一番よく知ってます。うまくできていれば、もっと売れていたのですから。でも、見習いのジュンさんは褒めてくれたのです」
「ああ、分かったよ。分かったから、見習いと言うのだけはやめてくれ。確かに見習いだけど、ジュンでいいよ」
やがて、二人は運ばれてきた牛丼に生卵をかけておいしそうに食べはじめた。
「スコット、箸の使い方、うまいじゃん」
「ああ、これですか。漫喫にあったビデオを見て覚えました」
「そんなビデオがあるのかよ」
スコットは答える代わりに割り箸をカチカチと交差させて得意げに笑った。
「それにお漬物も大好きになりました」
そう言って、シャキシャキと漬物を食べる。
ジュンはこいつのためにも早く窃盗団が見つからないかなあと思う。
「なあ、スコット。毎日、一生懸命に奴らを探してくれてるじゃん」
「はい、でも、全然見つかりません」
「きっと見つかるって。お前が小さくなっているのを見るのは嫌なんだよ」
「ジュンさんはやさしいです」
「そうか。でもよ、残念ながら、やさしい奴は俺たちの世界じゃ出世できないんだ。だから見習いなんだよな」
ジュンは自虐的な笑いを浮かべて、牛丼をワサワサとかき込む。
「なんだかスコットを見ていると俺自身を見ているようでさ。だから、がんばってほしいわけ。お前は俺と違って男前だし、背も高いし、英語もペラペラじゃん。ファイト出せよ」
「はい、ありがとうございます。ファイトとコンジョー出してがんばってみます」
スコットは食べ過ぎた紅しょうがの辛さに顔をしかめながら、ジュンに感謝をする。
「今日は自転車に乗って、隣の町まで足を伸ばそうと思ってます」
「そうか。アニキのためにも頼むわな。俺も一緒に行ってやりたいけど、今日は百舌さんの仕事を手伝わなきゃならないからな」
「とても怖い顔をしたナンバー2の人ですか?」
「ああ、若頭と言うんだ。でもな、百舌さんは怖い顔を気にしてるから面と向って言うなよ」
ボスに言われたことと同じようなセリフを言われた。
目の前にいる童顔と怖い顔。組のメンバーは魅力的だ。
デジャ・ビュというフランスの国の言葉を思い出す。確か、デジャ・ビュの逆の言葉もあったが思い出せない。あの国の言葉は難しい。のどの奥から音を出さなければならない。以前、マネしてやってみたが、咳き込んだだけだった。
「二人で金を回収する仕事をしてるんだ。でもな、百舌さんは口下手だから俺の横で立ってるだけ。俺が、金返せ、この野郎って怒鳴っている横で、黙って睨みつけてるんだ。怖いぞ、あの顔だもん。そのうち、すごい剣幕で怒り出すんじゃないかって、相手はビクビクしてるわけ。そのうち、百舌さんがタイミングを計って一歩前に出るんだ。とたんに、すいません、払いますだよ。笑っちゃうぜ。そうやって二人で役割分担したら、ほとんど回収できるんだ」
ジュンは得意げになって話すが、所属する自分の組も資金繰りが難しく、取り立ての桃竜組長が来ていることを、スコットは知っている。
「ありゃ、百舌さんの天職だな。無表情でぐっと睨むだけだけどな。俺もみんなも百舌さんが笑うところ見たことがないんだぜ。――でもな、百舌さんも過去にいろいろあったみたいで、本当はかわいそうなんだ」
とぼけているボス。笑わない百舌さん。よくしゃべるジュンさん。スコットは変わった同僚に囲まれていると思った。
そろそろ店を出ようというとき、ジュンがスコットのズボンの後ろポケットに入れている文庫本を見つけた。
「何を読んでるんだ?」
スコットは大事そうに本を取り出してカウンターに置く。
“枕草子”
「まくら くさこ。変わった名前の女だな」
「はい、まあ。あの……」
スコットはそれがジョークだと思った。しかし、ジュンの目は本気だった。どっちか分からない。ここで笑ってしまうと怒られるかもしれない。いくらハイスクールスチューデントと見間違えるほどのベビーフェイスでも、ジャパニーズマフィアのメンバーだ。怒ったら怖いのだろう。こんなところで暴れ出したら困る。応戦する武器は牛肉をすくうお玉くらいしかない。しかたなく、“まくら くさこ”で妥協する。
ジュンは百舌さんと待ち合わせているからと急いで帰って行った。
スコットは道路の左端を自転車で走りながら思った。
枕草子を知らない日本人なんているのか?
ハリーポッターを知らない英国人みたいなものじゃないか?
振り返ると紫スーツのジュンは道の右端をガニ股でノッシノッシと歩いていた。
自転車は左側を走って、人は右側を歩く。そのルールは祖国イギリスを見習って日本が導入したものだった。
三十分後、スコットは百貨店の商品搬入口にいた。朝っぱらから牛丼の特盛を食べて、大急ぎで自転車をこいだのでお腹の辺りが気持ち悪い。外国人だからといって、朝から肉ばっかり食べているわけではないのだ。それに朝からパンじゃなくて、あまり食べ慣れていない粘着性がある白米だったから、余計にお腹に重く感じる。
しかし、そんなことは言っていられない。ここは仏像を専門とする東南アジア系窃盗団が現れる可能性が高い場所だと睨んでいるからだ。そして、そのチャンスは今日しかないはずだ。
盗まれた仏像を求めてあちこちを訪ね歩いていたスコットだったが、手がかりであるパープルの風呂敷包みの木箱や二階建てサルーンの大型観光バスなどは見つからなかった。
いや、こんな少ない情報で見つかる方がおかしい。
ジャパニーズマフィアの本部でも見つけられないのだから、ボクが見つけられるわけない。
数日間、海辺の港町をトボトボ歩いていたが何ら進展もなく、気が滅入るだけだったので、気分転換にと街中に繰り出してみた。そこで、仏像展があることを知った。ある百貨店のビルの屋上から、“国宝 重要文化財級 仏像展開催中”という垂れ幕が下がっているのを見つけたのだ。難しい漢字ばかりだったが、仏像の大きな写真が載っていたので分かった。
八百円の入場料が痛かったので、入り口付近にしばらく立って中を覗いていたが、意外に大勢の人で賑わっていて、マスコミも何社かが取材に来ていた。
これだけ目立っているなら、窃盗団もこの仏像展のことを知っているはずだ。そして、開催期間が終わると高価で大切な仏像たちは、すぐに撤収されて運び出されるに違いない。
そう考えたスコットは期間最終日の翌朝、百貨店の商品搬入口で張り込むことにした。
どこかのお寺か博物館から借りていた仏像を返すために、ここから運び出されるのではないか? もし、窃盗団が故郷のオークションに間に合わせるように、手っ取り早く仏像を盗むとしたら格好の場所じゃないか?
もちろん、ここで奴らを生け捕りになんかはできないし、盗まれた仏像を持ってノコノコとやって来ないだろう。しかし、後をつけてアジトを突き止めることはできる。見つけたときはボスに報告して、あとはお任せしよう。それでも、何らかの謝礼はくれるはずだ。
スコットは漫喫のバイト生のカンちゃんから自転車を借りてここにやって来た。
搬入口は百貨店の裏側の大きな道路沿いにあった。向かいに大きな郵便局があったので人通りは多い。何台ものトラックが荷物の積み下ろしをしていて、百貨店の従業員が大声で指示を出したり、自ら運んだりしている。
スコットは脇にある電信柱の陰に隠れて黄色い色のトラックを待った。
ボスから貴重な情報だといって、もったいぶりながら教えてくれたことがある。
「よく聞けよ、異邦人。仏像を運ぶには細心の注意がいる。梱包するにも特殊な技術がいる。だから、その辺の運送屋じゃできないんだ。以前、テレビで仏像を運んでいるのを見たことがあるんだが、そのときは日本を代表する黄色いトラックの運送屋だった。これを参考にするんだ」
ボスの情報は心もとなかったが、黄色いトラックを待ってみることにする。回りを見渡してみたが怪しい人物はいないようだ。道行く人たちはクリスマスでもないのにみんな忙しそうだ。日本人はなぜこんなにセカセカしているのだろう。そんなに急いでどこへ行くのですかと、一人一人に尋ねてみたい衝動に駆られる。
そんな中、先ほどから郵便ポストの横に背の低いおじさんが立っていた。ポストと同じくらいの身長だから日本人の中でもとりわけ背が低い方なのだろう。五フィートもないようだ。釣りに行くのだろうか。ポケットがたくさんついたベストを着て、肩には釣竿が入ったと思われるケースをかついでいる。しかし、不思議なことにクーラーボックスの類は持っていないようだ。
釣った魚はどうするのだろうか。そのまま逃がすのだろうか。キャッチ・アンド・リリースをするのだろうか。
――ああ、分かった。きっと、待ち合わせだ。ここに友人が車でやって来て、あのおじさんを乗せて行くのだろう。その友人がバッグを持っているのだろう。きっと、そうに違いない。日本は海に囲まれているから釣好きな人も多いのだろう。
スコットは自転車にまたがりながら、あたりを観察し、あれこれと想像をして楽しんでいた。
どのくらいの時間が経過しただろうか。牛丼を特盛で食べたはずなのに、お腹が減ってきたと思った頃、幌付きの黄色い大型トラックがやって来た。
――あれだ! ボスが言ってた特殊な技術を持った運送屋さんだ。
助手席から一人の若者が下りて来て、方向転換をしたトラックの誘導を始めた。バッグから入り込んだトラックの周りを、別の車で駆けつけた運送会社の社員と、搬入口から出てきた百貨店の社員らしき男たちと、数人の警備員が取り囲んで、あたりが物々しくなる。
スコットは自転車から下りて近づいて行った。
やがて、百貨店の搬入口の奥から白い布でグルグル巻きにされた大きな物体が運び出された。
――やっぱり仏像だ!
大きい仏像は木箱になんか入らないので、そのまま包んで運ぶんだ。死んだ人を包帯で巻いたような感じで、何だかミイラみたいだ。死んだ人のことを仏さんと呼ぶのだったか?
だったら、これで違和感はないわけか。
数人がかりで慎重に運ばれる仏像をスコットは傍らで興味深げに見ていた。
すると、運転席から下りて来た男がスコットを見てギョッとする。
二メートル近い長身の金髪外国人がのそっと立っていたら、誰でも驚くだろう。
「ハロー!」しかし男は親しげに挨拶をしてきた。今から大変な仕事だというのにリラックスしている。
「ハロー!」スコットも笑顔で答える。
そして、白い布で包まれた物を指差して、仏像ですか? と尋ねてみる。
「あっ、日本語できるんだ。――その通りだよ。仏像は好き?」
「はい、大好きです」
「へえ、変わった外国人さんだねえ。そんなデッカイ図体なんだから手伝ってもらいたいけど、壊れちゃいけないからね。そこで大人しく見ててね。――さあ、気合入れていくかー!」
そう叫ぶと、運転手さんも運搬を手伝うために仲間の元へ走って行った。背中に会社名が横文字でプリントされている。
スコットは数人の男たちが仏像をトラックに積み込む様子を眺めながらも、窃盗団が現れないかと、さりげなく辺りを見渡していた。しかし、二階建ての大型観光バスがやって来る気配はない。
釣りスタイルの小さなおじさんは相変わらずポストの横に立って、友人を待っているようだ。
やがて、二人の男性がこちらに向って歩いてくるのが見えた。中年の男性と年配の男性の二人だ。彼らの視線は一直線で長身の外国人に向っている。
スコットは直感でポリスだと思った。
――やばい!
いや、やばくないか。
何も悪いことはしてないんだから。ボクは何もしてないのに、お巡りさんを見ると緊張をしてしまうが、日本人はどうなのだろう。やっぱり、警察署とか交番の前は足早で通り過ぎるものなのかなあ。パトロールカーを見るとドキッとするものなのかなあ。――だけど。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
「こんにちは」年配の男性が警察手帳を見せながら言った。「警察ですけど、ここで何をしてますか?」
ほら、やっぱりポリスだ。ピンポーンだ。
日本人は何かが的中したときに、“ピンポーン”と言う。卓球という意味ではないらしい。辞書には載っていない不思議な言葉だ。同じ意味の言葉に“ビンゴ”がある。これは何となく分かったし、辞書にも載っていた。“大当たり”“やったぞ”と書いてあった。でも、今はそんなに喜ぶべき状況ではないのだが。
スコットは、ここ数日、いろいろな人に盗まれた仏像の聞き込みをしていた。中には嫌な顔をしたり、怒り出したりする人もいた。そんなときは、日本語が分からないフリをして逃げるという手を思い付いた。
「WHAT?」年配の刑事の目を見つめて言ってみる。
「えっ、日本語は分からない? えー、あー、ホワッチュ・ア・ネーム?」
スコットは驚いた。刑事さんの英語の発音が完璧だったからだ。
ボクの故郷の素晴らしいキングズ・イングリッシュ!
「マイ・ネーム、あっ……」
釣られてフルネームで名乗るところだった。危ない、危ない。
わざと大げさに首をかしげて、あなたの英語は理解できませんとボディーランゲージで主張した。年配の刑事は困った顔をした。ちょっと良心が痛んだ。
あっ、そうだ。これを見られちゃマズイ。
スコットはズボンの後ろポケットに手をやって、覗いていた文庫本をさりげなく隠す。
まさか、お巡りさんなら知っているだろう、枕草子の本だ。日本語の読み書きはできますがしゃべれませんという言い訳は通用しないだろう。英語の読み書きはできますががしゃべれませんという日本の学生じゃないんだから。
次に中年の刑事が話しかけてきた。
「この自転車はあなたのものですか?」
日本語が分からないフリをしているというのに、しつこく訊いている。日本のポリスは仕事熱心だ。ドイツのポリスみたいに真面目だ。しかし、答えるわけにはいかない。この自転車は借り物だからだ。
中年の刑事は自転車の脇に屈みこむと年配の刑事に言った。
「照会してみますか?」
「ああ、そうだな。頼む」
年配の刑事は無線機に向って言った。
「自転車の防犯登録番号の照会をお願いします」
スコットは焦った。
これは自分が寝泊りしている漫喫のバイト生のカンちゃんから借りてきたのものだ。もちろん、了承を得たものだが、盗んできたと勘違いされたらどうしよう。今更、日本語で弁解すると、なぜ、今まで言葉が分からないフリをしていたのかと問われるかもしれない。
中年刑事がステッカーを読み上げる。
「えーと、いきますよ。あー、ダメだなあ。老眼で、よく見えんな。最初は2かな。2ですわ。次は5だな」
「あ~、もしもーし。え~、最初は2。次は5」年配刑事が復唱しながら無線機に告げる。
スコットの白い顔が青くなっていく。
どうしよう。どうしよう。
そのうち、緊張して赤くなってくる。
ボクがもし日本人だったら、黄色人種だから青赤黄と三色そろって信号ができあがる。
ああ、そんなこと考えているヒマはないんだ。警察に連れて行かれるのかなあ。すぐに解放してくれるのかなあ。せっかく得た仕事なのに、警察に捕まったとなると、きっとクビだろうなあ。ボスもみんなも警察は嫌いだろうからなあ。こうやってボクが焦ってることを二人のポリスは気づいているのだろうか。
スコットは思わず出そうになる貧乏ゆすりを何とか止めて冷静さを装っていた。
「6……、4……」
次々に数字が読み上げられていく。
どうしよう。どうしよう。
そのとき……。
――ヒュン!
何かの音がした。
――シュル、シュル、シュル。
何だろう?
スコットは刑事のことも忘れて周りを見渡した。
そして、空を見上げたとき、何かが光った。右から左へと何かが一直線に伸びている。やがて、左の視覚内に白い小さな物が飛び込んできた。
「刑事さん、お取り込み中、申し訳ありませんが、あれをご覧くださいませ」
中年刑事がスコットを見上げる。
「あんた、日本語がしゃべれる……」
しかし、スコットのさらに上を見上げて、口をあんぐりと開け放った。
仏像の入った木箱が空を飛んでいたからだ。
その飛んで行く先を見て、「あっ、かなちょろ!」年配の刑事が叫ぶ。
中年の刑事も我に返って叫ぶ。
「てめえ、生きていやがったのか!」
叫んだ相手は郵便局のポストの前にたたずんでいた釣りスタイルのおじさんだった。
おじさんは両足を踏ん張って釣竿で仏像を手繰り寄せていた。
あの距離から木箱に針を命中させて、一気に釣り上げるとは。あんな小さな体のどこにそんなパワーがあるというのだ。
スコットは青い目を白黒させて驚いている。
――ブーン!
木箱が道路の上を横切る。
やがて、かなちょろと呼ばれたおじさんの元に猛スピードで釣り上げた仏像が飛んで行った。
「おい、逃がすな!」
「こらーっ、刑事の頭ごしに物を盗むとは何事かーっ!」
二人は道路の反対側に向って駆け出した。
――バシッ。
「大漁、大漁! ほっほっほーっ!」
おじさんは奇声を発しながら白い布で包まれた小さな箱を見事にキャッチして、一目散に逃げ出した。――早い、早い。
騒動を聞きつけて、運送屋さんも百貨店の店員も警備員も、やっと仏像が盗まれたことに気づき、かなちょろの後を追い始める。しかし、日頃の運動不足が祟ってか、遅い、遅い。
かなちょろは木箱を脇に抱えて走りながら釣竿をケースに仕舞うほどの余裕を見せている。
一人取り残されたスコットは、今になって、なぜあのおじさんがクーラーボックスを持っていなかったのか理解した。必要がないし、獲物の他に大きな荷物を抱えたまま走れないからだ。とりあえず、かなちょろという人のおかげで警察には連行される心配がなくなってホッとしていた。しかし、おじさんの後を追おうとはしない。窃盗団は東南アジア系と聞いているが、あの人の顔はどう見ても日本人だ。それに二階建ての大型観光バスなんかには乗らず、走って逃げて行ったからだ。
たぶん、別の窃盗犯だろうな。
日本人は器用だと聞いていたが、あんな芸当ができるなんて。でも、あのおじさんはきっと逃げおおせるだろうと思った。
そして、スコットは数時間後、自分の予想が当たっていたことに気づく。夕刊に大きく報道されていたからだ。
“前代未聞! 仏像を釣竿で釣り上げて盗み出す”
“道路を渡り、伸びていく釣り糸”
“その先には重要文化財に指定された仏像が”
“木箱を抱えたまま徒歩で逃走”
容疑者は“かなちょろ”と異名をとる盗みの常習犯だった。
そして、スコットは辞書を引いてみて、“かなちょろ”というのが、金色(かないろ)の体をしたカナヘビ科のトカゲの異名だと知った。
~後編につづく~
右京之介
朝のラッシュ時。ホームに入ってくる電車を待つ人の列は、白いペンキで①から⑩と書かれた場所に等間隔を開けながら行儀良く並んでいた。
ショートカットの女子高生が友達でも探すようなフリをして、すぐ後ろに立っている男の顔をチラッと見た。
目が合った男はさりげなく視線をはずし、線路の向こうに立っている大きな広告看板を見た。ピンクを基調とした産婦人科医院の看板には、二人の赤ちゃんが仲良くハイハイしている写真が載っていた。
毎朝、同じ時間の同じ電車に乗る人たちは、いつしか自分が乗り込む番号位置を決めていて、言葉を交わさないまでも、十人ほどいるいつもお馴染みの顔ぶれが、今日も揃っていた。
そんな中に見知らぬ一人の男が混ざっていた。大きな荷物を持っていないところを見ると、観光客ではなさそうだ。別段怪しんだわけではないが、どうも気になった女子高生は振り向いた瞬間、その男を観察してみた。
身長約百七十センチ。中肉中背。五十歳前後。黒いジャケットに黒いズボン。
再び前を向いた女子高生は噴き出しそうになった。何の変哲もないオッサンだったからだ。
これじゃ、友達に訊かれても説明のしようがないじゃん。
たとえば、目が大きいとか、ホクロがあるとか、金髪だとか、何か目立つ特徴があればいいのだが何もない。手には何も持っていないし、中年のおじさんがよくつけている変な整髪剤のニオイもしない。もう一度、この人とどこかですれ違っても絶対に気づかないだろう。
よく、コンビニ強盗なんかの目撃者証言がある。
“犯人は身長百七十センチくらいで中肉中背の男性。心当たりのある方は最寄りの警察まで情報をお寄せください”
それじゃ、分からんて。成人男性の特徴なんて、みんなそんなものだろう。これでどうやって犯人を探し出せというのか? それでも、犯人は結構捕まっているから、きっと日本の警察官は想像力が豊かなのだろう。
女子高生は制服のスカートの裾を直すふりをして、男の足元を見た。アルファベットのNがデザインされた黒いスニーカーを履いている。
うちのクラスの男子が持っているものと同じものだった。黒尽くめの中年男は、なぜかスニーカーだけは若かった。
やがて、オレンジ色の車体をした電車がホームに入ってきた。⑥番の乗車口に並んでいた女子高生はこの駅で降りる三人の客を見送ると、大股で車両に乗り込み、いつものように反対側のドア付近に立った。既に何人かがつり革を持ちながら立っていて、座る席がないことは分かっている。でもすぐに五つ先の駅で降りるため、いつもこのドア付近に陣取っていた。
ときどき、同じクラスの友人に会うが、今日は見かけない。彼女は気まぐれだから、乗る電車の時間を決めていないようだ。今日は、一本遅い電車なのだろう。
けたたましいベルとともに、半分は学生、半分は会社員を乗せた電車が走り出した。
さっきの気になる男性といえば、少し離れたところに立って、車内の広告を眺めている。自分が毎朝並ぶ⑥番の列に見かけない男性が紛れていたので、興味本位でチェックしていたが、たまたま今日が休みでどこかに出かけるだけだったのだろう。
あーあ、無駄な詮索をして損をした。でも、ヒマ潰しになったのだからいいか。どうせならかっこいい人だったらよかったのになあ。こんなに見かけが平凡な人の話をしても、友達にはウケないだろうなあ。
約五分後、電車は次の駅に着いた。ここからは大勢の人が乗ってくる。女子高生は押されてドア付近から離れ、自分の意に反して中央付近にまで来てしまった。今日は特に人が多いようだ。大きなバッグを持っている紺色スーツの団体がいる。みんな、一様に若くてスーツがあまり似合っていない。きっと新入社員の研修にでも行くのだろう。
あーあ、若造たちのせいで私はギュウギュウ詰めだよ。
若造の女子高生はボヤく。
電車が三つ目の駅を出たときだった。右横にグレーのスーツを着たサラリーマン風の中年男が立った。押されて仕方なく横に来たようにも見えたが、きっと違う。なんだか不自然な動きだったし、チラチラとこっちを見ている。
やがて、男は後ろに移動すると、電車がそんなに揺れもしないのに、体を押し付けてきた。女子高生は持っていたバッグで防御をしていたが、男は天井の通風孔を見上げたまま、器用に右手を伸ばしてきた。
――痴漢だ!
心臓がズキンと鳴った。背中がゾゾーッと騒いだ。声を出そうと思ったが出ない。
痴漢なんかに遭ったら大声でわめいてやるといつも思っていたのに。学校で婦警さんに変質者の投げ飛ばし方の講習も受けていたのに。悪者を捕まえて警察に表彰されるシーンまで思い浮かべていたのに。――いざというときの私って、こんなに弱虫だったの?
情けなくて涙が出そうになる。
何とか体をずらしたが、男の手は執拗に追いかけてくる。混んでいるということもあるが、体が恐怖で硬直して動かせない。相手はこんなに弱そうな中年男だというのに。
怖いよ。誰か、助けて。
車内広告を眺めていた黒尽くめの男はフッと苦笑した。その広告も駅のホームで見た産婦人科医院のものだったからだ。産婦人科に用はないのだがと思いながら、視線を女子高生の後ろに立つ男の手元に向けた。先程から怪しいと睨んでいた男だ。ビジネスバッグで自分のやっている行為を隠してはいるが、男の上気した顔と体をよじって逃げようとしている女の子の態度で、何が行われているかは分かる。
男は乗客の狭い隙間を通り抜けて、その中年男の後ろに立った。
車内アナウンスが、まもなく四つ目の駅に到着することを告げたとき、黒尽くめの男がその男の手首をつかんだ。
朝の通勤通学時、電車の中は混んでいるが、駅のトイレの中も混んでいる。四つ目の駅のトイレもひっきりなしに人が出入りしていた。そんな中、かれこれ十分が過ぎようとしているのに、一番端の個室トイレのドアは閉まったままだった。
個室の中には二人の男がいた。女子高生に痴漢行為を働いていた男が奥の壁に向かい、両手をついて立っている。その後ろに黒尽くめの男が立っていた。手首をつかんだまま、ここに連行してきたのだ。
「次の駅で下りてください」
黒尽くめの男は手首をつかんだままその男の耳元でこう囁いた。痴漢は体を動かして逃げようとしたが、腕を後ろに捻り上げられていたので素直に従った。
かなり痛そうな顔をしていたが、加減は分かっていた。これ以上、力を入れると唸り声をあげてしまう。そうなると返って面倒だ。
連行するとき、被害に遭っていた女子高生と目が合った。何かを言いたそうだったが、無視して電車を下りた。
自分を助けてくれたのが、駅のホームですぐ後ろに並んでいた何の特徴のない男だと知って驚いたに違いない。今頃は目的の駅で下りて学校へと向っているだろう。
女子高生の体を撫で回していた男はいきなり手首をつかまれて、心臓が止まりそうになった。自分の欲望に負けて何度かこういう行為をしてきた。いつか捕まるかもしれないという恐怖感もあった。しかし、情けないことに劣情は止められなかった。腕を後ろに回されながら、人ごみの中を男と共に歩いた。決して振り返らないようにと言われたので前を見たまま歩いた。たくさんの人が歩いていたので、二人をいぶかる者はいない。後ろの男は警察官か鉄道保安の人間で、てっきり駅の事務室にでも連れて行かれると思っていたのだが、着いたところは男子トイレの個室内だった。
――誰なんだ、この人は?
後ろを振り向くなと言われているので顔は分からない。落ち着いた声からして五十歳前後か。かろうじて見える足元は、確か若者に人気のあるNのマークが入った黒いスニーカーだった。
「そのままの姿勢で私の質問に答えてください。あなたは新聞に載りたいですか?」
トイレの中で両手をあげている哀れな男の背中がビクッと動いた。
新聞って、この痴漢行為が載るという意味か?
だったら?
「い、いえ。載りたくないです」
「警察に連行されたいですか?」
連行されたあとは逮捕されるのか?
だったら?
「いえ。されたくないです」
「では、振り向かないで、あなたの名刺を渡してください」
――名刺?
なんで名刺なんだ?
男はスーツのポケットをさぐって、名刺入れから名刺を取り出すと後ろの男に差し出した。
「あと二枚同じ名刺をください。いや、人からもらった名刺を自分の名刺のフリをして渡す人がいるものでね。自分の名刺なら、同じものが何枚かあるでしょう」
男はもう二枚、名刺を差し出した。
後ろの男の声は落ち着いている。
人からもらった名刺を渡す人がいる?
この人はこういうことを何度もやっているのか?
黒尽くめの男は三枚の名刺をトランプのように扇形に広げてじっとながめた。
「森河高彦さん。ほう、高校の先生ですか。あんなことをしてもいいのですか?」
「ダメです。いえ、あのう、魔が差しまして、何とか穏便に……」
後ろの男から暴力的なニオイは感じられなかった。先程手首を捻られたが、もう痛みは消えている。声は温厚で言葉遣いも丁寧だ。ここで殴られたり、刺されたりはしないだろう。警察に通報するつもりもないようだ。しかし、何ともいえない不気味さがある。いったい何が目的なのか分からない。
黒い男が静かに言った。
「差した魔が悪いのではありません。あなたが悪いのですよ、先生」
「はい、確かに、悪いのはこの私ですから、あのう……」
「お願いが三つあります」男は森河の話を遮る。「名刺一枚につき、一つのお願いというわけです。それを聞いてくだされば、今回のことは誰にも言わず黙ってましょう」
許してくれるのか!?
「は、はい。分かりました。ありがとうございます。ありがとうございます」
森河は目の前の冷たそうな白い壁に向って何度も頭を下げた。
「まず、お金です。いくら用意できますか?」
「えっ、私には家庭がありまして、そんなには……」
「先生、私が警察に届けるとあなたの人生は終わりますけどね。ご家族がおありなんでしょう? それに生徒や学校や教育委員会にも迷惑がかかると思いますがね」
後ろでスマホを操作する音が聞こえる。
「ちょ、ちょっと待ってください。あのう、値段の相場はどんなものですか?」
「お金は一週間以内に用意してください。期間厳守です。一週間で用意できる限界が相場です。個人差がありますから、金額はあなたにお任せしますが、先生、あなたの人生が掛かっていることをお忘れなく」
黒尽くめの男は森河に一週間後、ある場所へ来るように、そして、用意した札束の間に自分の名刺を挟んでくるように指示をしてきた。
そして、奇妙な質問をしてきた。
「二つ目のお願いですが、あなたは笛が吹けますか?」
男が静かに去った後も、森河はトイレの個室に入ったまましばらく動けず、便器のフタにへなへなと座り込んだ。まるで男の残像に体を縛られているようだった。長く話していたような気がしたが、時計を見ると五分ほどしかたっていない。朝の職員会議には充分間に合うはずだ。
一人になって冷静に考えてみたが、やはり夢ではなかった。自分の痴漢行為からここまで連れて来られた経過がフラッシュバックしてくる。しかし、今更後悔しても遅すぎた。あのまま警察に通報されていたら、あの男の言う通り、今日の夕刊に大きく載って、人生が激変していただろう。
“現役高校教師が痴漢行為”
妻と娘の顔が脳裏に去来する。確実に離婚されるだろう。まだ健在な両親や兄弟からも見放されるはずだ。あの男のお陰で家庭崩壊からは免れた。学校をクビにならずに済んだ。
しかし、それと引き換えに金を要求された。
一週間で作れるだけの金を用意しろ?
警察に届けることはできない。どのように状況を説明すればいいのか?
「なに、痴漢をやっていたら恐喝されました? 恐喝犯人は悪いが、あんたも悪い」
そう言われるだろう。言われて追い返されるのならまだしも、あの女子高生が被害届けでも出していれば、そのまま痴漢で捕まってしまうだろう。一生を棒に振るか、一度だけ金を渡して穏便に済ませてもらうか。
どちらがマシな地獄か?
答えは明らかだった。それにあの男は常習犯に違いない。やり方が手馴れているし、話し方も妙に落ち着いている。痴漢を脅迫して生計を立てているような男だろう。そんな職業があるのか分からないが、きっと、あの男から逃げることはできない。
銀行と郵便局にある貯金残高はだいたい分かっている。長年これといった贅沢もしないで、懸命に働いていたため、ある程度の貯えがある。しかし、そこから引き出すことは妻の目があってできない。何事も几帳面な彼女は残高を千円単位まで把握しているだろう。もちろん、隠し口座やへそくりなんていう便利なものはないし、同僚や親戚から借りるわけにもいかない。そんなことをすると妻にばれるかもしれない。
また、同僚の中には日頃から私をよく思っていない人物がいる。何らかの汚点を見つけると鬼の首を取ったように喜んで、学校中に言い触らすに違いない。
それに、他人から借りるにしては金額が大きすぎる。二、三万のお金では、あの男は許さないだろう。こちらは名刺をカタに取られている。連絡をしようと思えばいつでもできるはずだ。
あの男が指定したタイムリミットは一週間後。
森河はシステム手帳を広げて、その日に◎印を書き込んだが、思い直して×印に変えた。
どう考えても、素敵な日じゃないと思ったからだ。
昼休みの運動場。どこにでもある学校の七不思議。ここ国常高校にも、かつてこの運動場が底なし沼だったという言い伝えがある。そして、よく晴れた日には誰もいない運動場の真ん中から子供の声が聞こえて来るという。その正体は、沼で小さな舟に乗って遊んでいるうちに転覆し、溺死してしまった子供の霊であり、寂しくて、おいでおいでとみんなを呼んでいるからだという。
だから、体育の授業のときも、休み時間に遊ぶときも、生徒たちは元より、先生たちまで真ん中付近には近寄らない。
運動場の真ん中にある半径約五メートルの地域は国立高校の七不思議の一つ。
心霊スポットと呼ばれている場所だった。
「おらっ、もう一丁!」
運動場の真ん中で大きな声が響いた。声の主の足元に小太りの男が転がっている。
「ほら、立てよ。なんだよ、それでも副主将かよ。――じゃ、次!」
副主将と呼ばれた男は肩で息をしながら立ち上がり、のそのそと土俵の外に出た。
代わりに入ったのは同じく小太りの香川だ。すでに何番かをこなしていたので、短パンは砂で汚れている。
「オリャー!」
その香川もあっという間に押し出された。
「まったく、どいつもこいつも、何でうちの相撲部はこんなに弱いんだよ」
土俵の真ん中で仁王立ちになっていたのは主将の小森。体には汚れがないし、息も切れていない。起き上がって呼吸を整えた副主将の吉田が言った。
「小森、俺たちが弱いんじゃなくて、お前が強すぎるんだよ」
小森主将が睨みつけて言う。
「何言ってるんだ。お前とはたかが身長で二十センチ、体重で三十キロくらいしか変わらんだろうが」
「それだけ違えば十分じゃないかよ」
「お前なあ、相撲は体格がすべてじゃないんだぜ」
「すべてじゃなくても、大部分、体格で決まるだろうよ。デカくなるために力士は、いっぱいメシを喰って、いっぱい寝てるんだぞ。だから喰うのも寝るのも稽古のうちだって言うじゃないか。なあ、香川」
体に付いた砂を掃っていた香川はポカンとした顔で答える。
「そうだよなあ、大きい方が有利だよなあ」
また、小森が怒りだす。
「じゃあ、香川。小さい力士に未来はないのかよ。希望はないのかよ」
「いやあ、小さくてもがんばっている力士はいるよなあ。ときどきデッカイ力士をブン投げるしねえ」
香川はすかさず、前言をひるがえす。
「そうだろ。お前らが弱いのは体格のせいじゃなくて精神力のせいなんだよ。もっと相撲を愛せよ」
吉田が副主将の面目にかけて言う。
「俺は愛してるさ。だから、毎日、こんな辺鄙で気持ちの悪い場所で稽古してるんじゃないか。女子生徒の痛い視線を背中に目一杯浴びながらも、健気にがんばっている俺だぜ。――なあ、香川」
「そう、ボクも相撲を愛してるよ。月刊大相撲を定期購読しているし、部屋には力士のポスターを天井にまで貼っているし、白鵬の湯飲みはボクの宝物だよ」
「あのなあ、吉田はいいとして、香川の相撲の愛し方はおかしいだろうが」
「そうだよなあ、ちょっと相撲オタクが入っているね」香川はそう自己分析をした。
主将の小森と副主将の吉田とヒラの香川は同級生だった。百八十センチを優に越え、体重も百キロを越える小森と百七十センチもない小太りの吉田と香川。クラブ活動をする上で、主将、副主将といった肩書きが付いているが、同級生だから、普段はタメ口で話している。
彼らが属する相撲部は運動場のド真ん中に足で線を引いて簡易土俵を作り、毎日休憩時間に稽古をしていた。心霊スポットなんか関係ない。迷信なんか信じない。死んだ子供のおいでおいでという声なんか聞こえてこない。ときどき、サッカーボールやソフトボールが土俵内に転がり込んでくるが、小森主将が睨みつけると、みんな、その体格に圧倒されてすごすごと退散して行く。
しかし、好き好んでこの場所を使ってるわけではない。ここしか空いてないだけだ。最初は、何かタタリでもあるんじゃないかと怖がっていたのだが、今では平気になってしまった。
それよりも、他の生徒の視線の方が恐ろしい。小森の提案で、まわしをして稽古をしているからだ。短パンの上からだが、吉田も香川も恥ずかしくてしょうがない。運動場の真ん中にいるだけでも目立つというのに、上半身は裸で下半身は短パンにまわしである。小森は観客が多いほど相撲取りは強くなれるんだと、屁理屈をこねた持論を展開して、強引にこのスタイルを確立してしまった。
運動場にいる生徒たちは、稽古をしている相撲部の周りで勝手に遊んでいるだけで、観客なんかじゃない。冷たい視線は感じても、暖かい声援なんか聞いたこともない。もちろん、放課後もここで稽古をするし、早朝稽古もときどきやっている。
雨が降っているときは、体育館にマットを敷いて、バスケ部や体操部や柔道部などの顰蹙を無視しながら稽古をする。バスケットボールや新体操のボールが飛んできたときは小森が思いっきり蹴り返すか投げ返す。
しかし、さすがの柔道部にも小森より体格の大きな生徒はいないため、誰も文句は言えなかった。
そろそろ昼休みが終わろうとする時間。相撲部員は地面に描いた土俵に向って深々とお辞儀をしてから昼の稽古を終えた。
小森主将は礼節にうるさい。たとえ、心霊スポットに作った即席の土俵であっても、最後はちゃんと礼をしてから終えるし、もし、各自の礼がバラバラなら、揃うまで何度もやり直しをさせる。土俵は神聖な場であり、そこには相撲の神様が住んでいると信じているらしい。
心霊スポットに神様?――小さいことは気にしない大きな小森主将であった。
三人は体中に付いた埃を掃うと、まわしをはずして短パンの上から制服の黒ズボンを履き、傍らに脱ぎ捨てていたアンダーシャツとワイシャツを着ながら教室に向った。首には白いタオルが揺れている。
「なんでいつも稽古する場所が運動場の心霊スポットなんだよ」さっきから小森は怒ってばかりだ。「他の高校の相撲部には立派な土俵と立派な指導者がいるんだぜ。それなのに、俺たちには不気味な沼跡と無能な顧問しかいないって、おかしいじゃねえか」
「でも、マイ土俵なんてそんな急には作ってくれないよ」吉田がいなした。「なあ、香川」
「そうだよねえ、運動場の隅も空いてないしねえ」
「なんだよ、香川。場所なんかどうでもなるだろうよ。野球部のバックネットを外せばいいだろ」
「ああ、そうだね。うちの野球部は弱っちいから、あんなのいらないよね」香川はすぐに同調する。
「プールもいらないだろ」
「そうだね。水泳部も弱っちいもんね」
「だろっ。水たまりで練習しろっての」
「なあ、小森。土俵がほしいって、もう一回先生に頼もうよ」吉田が提案する。
「いやだ。あんな奴に頭を下げるのは一回だけでいい。一回言ってダメな奴は何回言ってもダメだ」
「じゃあ、今度はボクが言ってみるよ」香川がぼそっと言う。
また、小森の顔が怒りで赤くなる。
「お前なんかじゃダメに決まってんだろ。主将の俺と副主将の吉田が並んで頭を下げてもダメだったんだぜ」
「そうだなあ。ボクじゃダメだよね。押しが弱いもんね」香川はまた冷静に自分を分析する。
「けどよ、小森、相撲部の予算が少ないから仕方ないんじゃないか」吉田が言う。
「違うだろ。そこで学校側からちゃんと予算を取ってくるのが顧問というものだろうが。まったく、なんであんな奴が俺たちの顧問になったんだよ」
廊下にタムロしている生徒たちの間を、大声を上げながらモーゼのようにかき分けて歩く小森は振り向いて、後ろからついて来る太刀持と露払い役の吉田と香川に言った。
「俺、一度でいいから、本物の土俵に上がってみたいんだ」
小太りの二人もウンウンとうなずいた。
今日、初めて三人の意見が合った。
半纏を羽織った老人は、脚立から下りて頭を包んでいた手ぬぐいをほどくと、剪定したばかりの松の木を見上げた。
さっそくカラスがやってきて羽を休めている。
「どうじゃ、きれいにしたばからだからな。居心地がいいじゃろう」
老人が自分の孫に話すように語りかけると、不思議なことにカラスはコクリと頷いた。
空に向って曲がりながら伸びている枝が、より逞しく見えるようになり、また、緑もより鮮やかに見えるようになったため、老人は自分の仕事に十分満足していた。木からも喜びと感謝の声が聞こえてくるような気がする。
老人の父もここで庭師として働いていた。さらに祖父までもここにいたというが、老人の記憶にはまったく残っていない。ここには樹齢百年を越える木が三本あるが、すべてこの親子が三代に渡って手入れをしてきた。父からはよく祖父がやってきた仕事がいかにすばらしかったかという話を何度も聞かされていたが、立派な職人だったらしいというだけで、話の内容はよく覚えていない。
むしろ、影響を受けたのは父の方だった。家が近かったため、子供の頃から、父の後を追いかけて、よくここへ遊びに来た。そして、父の仕事を眺めながら、自分も将来同じ仕事に就くことになるだろうと思っていた。実際、木が好きだった。大きく育てるのも好きだったし、高い所に登るのも好きだった。職人になって十年ほどは親子で一緒に仕事をしていた。
やがて、独り立ちできるくらいになったとき、父が病死した。病状はかなり悪化していて、医者には生きているのも不思議なくらいだったと言われたが、父はきっと自分の成長を待ってから死んでくれたのだろうと思っている。
そして、老人は自分に子供がいれば後を継がせてやりたいと思った。とてもやりがいがある素晴らしい仕事だと思うからだ。しかし、子供はいなかった。いや、娘が一人いたが老人には親権がなかった。
老人が娘を授かったのは四十歳を過ぎてからのことだった。遅くに生まれた子供はかわいいという。実際、目に入れても痛くないほど可愛かったが、そのとき既に妻との関係は修復できないところにまで来ていた。
妻とはよくここで会った。祖父が、父が、自分が育てた木々を見上げながら、いろいろな話をした。
そして、離婚話もここでした。妻の背中では生まれたばかりの娘がすやすやと眠っていた。
老人は、悪いのは自分の方だと詫びたが、妻に対して許しを乞うことはしなかった。許してもらえないことは分かっていたからだ。二人の間の大きな亀裂はもう元には戻せなかった。
しかし、老人は妻に一つだけ願い事を言った。
二十年後、娘は二十歳になる。そのとき、ここでもう一度会ってほしい。
この土地を離れて娘と二人で生きていく決心をしていた妻にそう言った。
妻は快く承諾してくれた。
“娘の二十歳の誕生日、ここで親子三人が再会する”
そのとき、自分は六十三歳になっている。
老人はその約束を生き甲斐にして、今まで懸命に仕事をこなしてきた。
老人はまぶしい木漏れ日に目を伏せて、隣の松の木に目をやった。次に取り掛かる仕事だ。太い幹から枝の先端にまで目を這わせて木の声を聞き、葉と語らい、頭の中に剪定後の姿をイメージする。
老人はしばらく目を瞑ったまま腕を組んで立っていた。
やがて、目を開けて、ふたたび木を見上げたとき、松の枝に止まっていたカラスが飛び立ち、老人の肩にバサリと乗った。
カラスは老人の耳元でカチカチとくちばしを鳴らした。
「なに、金色に塗った……? どういう意味じゃ?」
老人はカラスの言葉が理解できた。
奇妙なことにカラスには足が三本あった。
高校教師の森河は無人機が設置されたブースから出てくると、すばやく左右を見渡した。誰にも見られていない。雑居ビルの三階から二階へ階段を急いで駆け下りる。そのフロアには三軒の飲食店が営業をしていた。ここなら誰かに見られても言い訳ができる。ハンカチを取り出して、額の汗を拭きながら、その中の一軒の喫茶店に入ろうと思ったがやめた。一刻も早くこのビルを出たかったからだ。スーツの内ポケットには札束が入っていた。
最初に当たったのは信販会社だった。しかし、融資まで十日かかりますと言われて、消費者金融にした。あの男との約束は一週間で、期日厳守と言われていたからだ。
大手の会社で、出入りするときになるべく目立たない店を選んだ。融資はスムーズに行われた。そして、四軒目の消費者金融会社に行った時、無人機のモニターを通じて、もうこれ以上借りない方がいいですよと若い女性に言われた。
教師という社会的信用度の高い職業に就いているが、給料は決して高くはない。必然的に借りられる総金額も決まってくるだろう。それがいくらなのか分からない。闇金ならいくらでも貸してくれそうだが、それだけはやめておいた。
大手の金融会社を回って、向こうから忠告されるのを待った。そして、四軒目になってその忠告を受けた。忠告がなければもっと借りていただろう。
親身になってアドバイスしますと謳っていたTVのCM通りだった。
ちゃんとした会社からはもう借りられない。
――二百万円。
この金額が一週間で用意できる限界だった。
あの男は限界が相場だと言った。金額は任せると言った。確かにこれからの自分の人生を換算した金額にしては少ない。しかし、もし、これでは少ないと言われたならば、金融会社から借りない方がいいと言われたことを話して、何とか許してもらおうと思う。
これから家族に気づかれずに、返済をしていかなければならない。事故や病気で払えなくなるかもしれないというリスクを抱えて何年かを過ごさなくてはいけない。自分の小遣いから考えても、この金額が限界だということも話そうと思った。
トイレの中で聞いたあの男の声が蘇ってくる。穏やかで丁寧な言葉遣いだが、拒否できない強引な声が脳に入り込んできた。脳は拒否反応を起こすことができず、すべてを受け入れてしまった。姿を見せず、声だけで人を圧倒したあの男。年齢は私よりもはるかに下だっただろうあの男。しかし、あの黒い男はこの金額で許してくれるだろうと思った。
森河はあの男に言われた通り、札束の間に自分の名刺を挟んで、指定された場所に届けた。電車とバスを乗り継ぎ、わざと迂回しながら、慎重にここまでやって来た。誰にも後をつけられていなかったはずだ。ここでは、てっきり、あの男かあるいは仲間が待っていると思っていたのだが誰もいない。木の手入れをしている職人さんが一人いるが、仕事に集中しているようで、こちらを見ようともしない。
もし用意できるお金が五百万円以上なら、一万円札を五百万円分ごとに分けておくように言われた。
理由は今、分かった。五百万円分の札束の厚さが、賽銭箱の隙間から入れられる限界幅だったからだ。
しかし、用意できた金額は二百万円に過ぎなかった。もし、文句を言ってきたら、分割という手もある。この二百万円を払い終わったら、また借りられるだろう。あの男の口調から、そんなに切羽詰っているような状況ではないはずだ。しかも、金額はこちらに任せると言ったのだから、それくらいは妥協してくれると思う。いろいろなケースを想定しながら、何とか無事にお金を賽銭箱に納め終えた。
次に、森河はあの男から言われたもう一つのお願い事を実行するために社務所へ向った。そこで自分の名前を言えばいいらしい。話はつけておくと言っていた。ということは、そこにあの男はいないのだろう。あのとき、こちらから顔は見えなかったが、男は私の顔を知っているはずだ。だったら、わざわざここで名乗る必要はない。
社務所には若い女性の巫女さんが一人でいた。二十歳前後の今風の子だ。化粧をやや濃い目にしている。ドレスアップして街を歩けば、けっこう目立つのではないかと思った。しかし、今は白衣と緋袴の巫女装束を着ている。
森河が名乗ると、その子は、はい聞いておりますと言って奥に入って行き、紺色の風呂敷に包まれた長い棒状のものを持ってきて、
「こちらが笛でございます」両手でうやうやしく渡された。
「はあ、左様でございますか」同じようにうやうやしく両手で受け取ると、森河はその子に一礼し、持っていたショルダーバッグに笛を入れて歩き出した。
結局、約束の地の神社で会ったのは、庭師と巫女さんだけだった。二人とも見た感じは普通の人たちで、あの男の仲間とは思えない。見張られているという感覚もなかった。帰り道はときどき後ろを振り返りながら歩いていたが、怪しい人物には出会わなかった。
お金を支払うという第一のお願い事はこれで無事に終わったと見ていいのだろう。
問題は二つ目のお願い事だ。
なぜ、笛の練習をしなければならないのだ?
笛なんて、小学生のときの縦笛くらいしか経験はない。高校教師といっても教えている科目は社会だ。音楽には疎いし、弾ける楽器などはない。もし、音楽教師で吹奏楽部の顧問でもやっていたならできるかもしれないが。
いや、無理か。いくら音楽教師でも、こんな笛を吹いた経験なんてあまりないだろう。
なぜ、横笛なんだろうか?
問題はどこで練習するかだ。お金の工面をする一方で、笛の練習場所を探していた。口笛の練習なら車の中でもできるが、横笛となると両手を使わなくてはならない。どこかの大型スーパーの駐車場にでも車を止めてやるしかないか。
教師は恨めしそうに、ショルダーバッグから少しはみ出している笛の頭を見た。
一ヵ月後、あの男から連絡が来るらしい。
また、あの男の声が蘇ってくる。
(それまでにしっかりと練習しておいてくださいね)
あの男は温和な声でそう言った。逆にその声が怖くて震え上がった。
そして、三つ目のお願いが残っていることが、教師をさらに憂鬱な気分にさせた。
女の子は二十歳の誕生日の日にお母さんが経営する小さな美容室で金髪を黒髪に戻した。
お母さんは、どうしたわけ? と訊いてきたが、別に深い意味はない。誕生日を期に真面目になろうと思ったわけではない。女手ひとつで育ててくれたお母さんに恩返しをしようなんて、立派なことも思わない。強いてあげるのなら、今までバカばっかりやってきて、それに飽きてしまったということ。バカの王道をダラダラ歩んで行くのに少し疲れただけ。
でも、お母さんのお金をすくねずに、自分でちゃんと稼ごうと決心したことは確かだ。決心したとたんに、今まで付き合ってきた友人たちがバカに見えてきた。その中にまともに働いている奴なんか一人もいなかったからだ。
あいつらとは少し距離を置こうと思った。でも、完全に決別するわけにはいかなかった。なんと言っても、自分が苦労して築き上げた地位があったからだ。引退したとはいえ、まだ自分のことを尊敬してくれている後輩がたくさんいた。そいつらのためにも、仲間との関係は断ち切りたくはなかった。
女の子は履歴書を書きながら思った。
この髪型じゃ、どこへ行っても採用してくれないだろうな。せめて、見かけだけでも良くしておかないと、若さ以外、何の取り柄も資格も特技もないのだから。
自慢の頭は金色のボサボサで、ところどころがツンツンとんがっていた。それを、ばっさりとショートにして、黒く染め直した。
「あんた、やっと人生のやる気が出てきたねえ」
娘が真面目になると思ったのか、お母さんがちょっぴりうれしそうに言う。
「そんなもん、ないよ。やる気なんてなくても人生はやっていけるよ」
「あんた、相変わらず人生を舐めてるねえ」
「逆に舐められたら、おしまいだからね」
「まあ、せいぜいがんばってよ。お母さんも応援してるからね」
そんなお母さんの声を軽く背中で受け流して店を出た。二十年間も美容師をやってるんだ
から、さすがに仕上げがうまい。タダじゃ悪いと思ったので千円札を三枚だけ置いてきた。
そして、今まで塗りまくっていた化粧を少しだけ薄めにして、金ぴかだった洋服も地味で無難なものにした。
しかし、若いとはいえ、今まで学校にも行かず、まともに職につかずに生きてきた女性を採用してくれるところはなかった。
ヘタッぴな字で何枚履歴書を書いたか分からない。神妙な顔つきで何枚スピード写真を撮ったか分からない。履歴書をいちいち書いて写真を貼り付けるのが面倒になったので、コピーしてごまかそうかと思っていたところ、ひょんなことで、就職先が決まった。せめてやる気を見せようと履歴書をデカイ封筒に入れて速達で送ってみたのだ。
するとどうだろう。すぐに電話が来て、なぜか面接をするまでもなく、書類だけで採用されてしまった。
職業――巫女。
自分の名前と同じ発音。
仲のいい女友達に言ったら爆笑された。
巫女になる女性の条件は、未婚で穢れのない清浄な身体の持ち主らしい。
「そりゃ、ミコ、あんた、真逆じゃん!」
一分間、笑い続けやがった。
確かに、笑われてもしょうがない。自分も認める。この身体は穢れだらけだ。きっと、身体から発するオーラまで穢れているだろう。ドス黒いオーラ? ねずみ色のオーラ?
変なオーラなのに、どうして採用されたのか分からない。
「でも、条件の半分はあってるだろうが。あたしが未婚というのは本当じゃんかよ。それに、小学五年生の夏の終わりにグレてからこの歳まで、ずっと遊びまくっていたなんて、黙っていたら分からねえだろうが」
「あんた、神社で働くんだよ。絶対、神さんから天罰を喰らうよ」
さらに、一分間の爆笑。
「悪さをやっているところを、神さんには見られていたかもしれないけど、あたしがちゃんと働くと言ってるんだからいいだろうが。神さんもそんなに心が小さくないだろうよ」
「まあ、ミコが心を入れ替えるんだったら応援してやるよ」
心を入れ替えるんじゃなくて、今までの刺激だらけの生活に飽きただけなんだよ。神社なら静かな人生が待っているような気がするし、疲れを取るにはちょうどいいかなと。そんないい加減な動機なんだよな。
言ってみれば、リハビリだな、リハビリ。
でも、あたしが更生すると勘違いしたバカな女友達は就職祝いにと、ポケットからクシャクシャの一万円札を取り出して押し付けてきた。
「悪いね、あんたも金ねえのに」
「気にしないでいいよ。ところで、巫女って、給料いいの?」
「バイトだからさ、期待はできねえ」
「ふーん、じゃ、出世払いでいいよ」
「祝い金を返すのかよ! しかも、巫女って出世できるのかよ!」
「まっ、巫女のてっぺん目指してがんばんなよ」
「てっぺんか。いい響きだな」
それ以来、巫女になったミコは白い上衣に緋色の袴という地味な格好をして、社務所で大人しく仕事をしている。お守りやお札や絵馬の販売。厄払いや家内安全や交通安全祈願のお手伝い。境内の掃除や参拝客の案内や電話の応対とこき使われている。しかし、気を使ってくれているのか、バイト料は相場よりかなり高めなので文句は言えない。
でも、アルバイトだというのにお神楽の練習までさせられている。
これには文句を言った。本格的なお神楽をあげるとなると数万円もかかる。それをやってくれという奇特な人がいる。舞っている巫女が時給九百円のアルバイトとは言えない。ときどき手順を間違えるし、顔は引き攣ったままだし、頭に乗せた冠みたいなものは落ちそうになるし、手に持った木の枝も落としそうになる。
今まで人様に迷惑ばかりかけてきた元ヤンキーにも良心というものがある。つくづく悪いなあと思ってしまう。神主によるとお神楽の最中は神様が降りてきて、一緒になって踊ってくれているという。
バイトのいい加減な踊りじゃ降りて来ねえだろ。もし、あたしが神様だったら、そんな奴のところには降りねえよ。
一番苦労したのは、接客業に不似合いなこの言葉遣いだ。神主には何度も注意を受けている。それにこの短気な性格だ。参拝客はお年寄りが多い。財布からお金を出すのに手間取っていると、さっさとしろよと言いたくなるし、合格祈願に来た受験生には、神頼みしているヒマがあったら勉強しろよと叫びたくなるし、厄除け祈願に来た人には、厄なんか自分でブッ飛ばせよと回し蹴りをかましたくなる。
でも、それは我慢。ここをクビになったら行くところがないからだ。
こんな女なんかどこも雇ってくれないことは自分が一番よく知っているさ。
「ああ、オッチャン。さっき、一万円の心願成就っていうデカいお札が売れたよ」
ミコは社務所にお盆を持って入ってきた紺色の袴の男に言った。
「あのう、ミコさん。わたしのことはオッチャンじゃなくて、神主と呼んでください」
ああ、そうだった。
これもなかなか直らない。この年代の人はミコから見るとオッサンだ。親しみを込めてオッチャンとチャン付けで呼んであげているのだが、本当は神主と呼ばなければならない。しかし、この神主にはあまり威厳がないし、どちらかというと頼りなさそうな風貌をしている。オッチャンと呼ぶほうが似合っている。ときどき、参拝客の前でもオッチャンと呼んでしまい、そのたびに睨まれている。
ミコの採用を決めたのはこのオッチャンだ。なぜか、書類選考だけで採用された。では、ミコの容姿が飛びっきりいいのかというと、並のやや上といったところだ。じゃあ、ミコが巫女にぴったりの容姿だったのかというと、巫女に合う容姿など分からないから、やっぱりよく分からないままだ
まさか、写りの悪いあたしの顔写真を気にいってくれたとか?
ただ、ちょっと気になることがある。このオッチャン、どっかで見たことがある気がする。でも、思い出せない。勘違いかもしれない。何と言っても、ずっと悪の道を歩んできたから、オッチャンのような神の道とは交わらない。二つの道にはどこにも接点がないからだ。
今年で四十九歳になる神主は、お茶と和菓子をミコの方に差し出した。
「ちょっと休憩してください。その間、わたしが参拝客の相手をします」
時間はちょうど三時になっていた。
「休憩後はお神楽の練習をお願いします。明日、三件の予約が入ってますので」
ミコは口から蕎麦まんじゅうを噴き出しそうになった。
明日、三回も舞わなければならないのかよ。
「あのう、神主さん。あたしのヘタッぴな踊りでもいいのですか?」
「それはかまいません。最近、上達してきたので神様も喜んでおられますよ」
「へ~。あたしの踊りをねえ」
「しかし、その、自分のことをあたしと言うのはやめた方がいいですよ」
これも癖になっている。
あたしは傍らに置いてある黒いエクステを見た。髪を短く切りすぎたので、舞うときは付け毛をしてロン毛になる。
あたしの踊りなんか、絶対にご利益なんかねえよなあ。でも、みんな、有難そうに帰って行くし、今まで何の効果もないじゃないかと文句を言われたこともない。
もし、何かあってもあたしはバイトだし、バイトはあたししかいないし、まあ、いいか。
それに、あたしのような品のない元ヤンに神楽なんて神聖なものをさせるオッチャンにも責任がある。いざというときはオッチャンが何とかしてくれるだろう。
小さなお守りとかお札をチマチマ売っていても大した売り上げにはならない。この貧乏神社を助けるという意味でも、がんばって踊ってやるかな。何といっても、商品を仕入れるのと違って、元手は安上がりのバイト女だ。オッチャンは教えてくれないけど、かなりの儲けになっているはずだ。
それに、ディスコには小学六年生のときから厚化粧で年齢をごまかして通っていたからダンスは得意だ。
あっ、ダンスと言っちゃダメなのか。舞だな、神様が出現する有難い舞だ。
どうせ、神さんが出てきているのかどうかなんて、誰にも見えないだろう。舞っているときに写真を撮っている人もいるけど、神さんは写ってないだろう。心霊写真でも写っているのはオバケばっかりで、神さんは登場しないからな。
でも、オッチャンは神さんが見えると言っていた。本当かどうか確かめようはないけど。
まあ、神主だから見えるのだろう。その辺はすごいな、オッチャン神主。
ミコがアルバイトをしている満願神社が貧乏な神社になったのは今から十年ほど前だ。亡父の跡を継いだオッチャンこと現神主がちょっとした手違いでおみくじの中に“凶”を入れすぎて、人が寄り付かなくなってからだ。あわてて“大吉”を大量投入したが、あの神社は不吉だというウワサが流れ出して、一度去って行った参拝客はなかなか戻って来なかった。
しかし、神主が反省をして、朝晩、境内をきれいに掃き清め、神様に向って懸命にお祈りをしているうち、徐々に客が帰ってきた。
神社の神域は広くはないが、地元では歴史のある有名な神社だ。参拝客を初めに迎える鳥居は笠木がなだらかなカーブを描いている明神鳥居であり、その両脇には忠心ヅラをした二匹の狛犬が鎮座している。真っ直ぐに伸びる石畳を挟んで、杉の木と松の木がきれいに並んでいる。その先には立派な日吉造りの神殿、拝殿、社務所が鎮守の森を背景にして厳かに建っている。
それぞれの建物の四隅には吊り灯籠が下がっていて、夕方になると火が入れられる。
火を入れるのもミコの役だ。神殿内で二十四時間絶えることなく灯されている火を神主からもらい受けて、灯籠に火を付けて回る。面倒なので百円ライターを使ってもいいですかと訊いたら、目玉をひんむいて叱られた。とても大切な火らしい。かつてはこの火を狙って盗賊が押し寄せたこともあったという。
最も重要な建物である神殿は三重の垣根で覆われていて、垣根にはたくさんの鈴が取り付けられている。
そして、すべての鈴の中には式神が潜んでいた。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
やがて、境内に奇妙な声が流れてきた。毎日流れてくるこの大きな声。
ミコはこの声を聞くととても憂鬱な気分になった。何かの擬音にも聞こえるが、何を言っているのか意味は分からない。しかし、何とも言えない気持ち悪さがある。オッチャンに相談したが、止める手立てはないという。オッチャンもこの声が大嫌いだそうだ。いつも温和な表情をしているオッチャンも、この声を聞くと顔をしかめるくらいだ。
その声は満願神社の隣から聞こえていた。隣には二望寺というお寺がある。長年住職を務めていた男性が亡くなり、後を継いだ妻のフミがお経を読んでいるのだ。何語かも分からない奇妙なお経だ。そのお経は呪いの効果があるという。お経というのは死者の霊を弔うもののはずだが、その女は隣の神社、つまりここを潰すためにお経をあげている。
以前より両者の仲は良くなかったのだが、昔は人もまばらだった満願神社に参拝客が戻り、それを羨むようになった女は、お寺の仕事もおろそかにして、どこからか見つけ出してきた奇怪なお経を唱え出した。お寺の収入が減ったのは隣の神社のせいだと思い込んでいる。
そして、そのお経の一番の目的は、その呪いにより満願神社で二十年に一度行われる祭礼を潰すことだった。祭礼にはたくさんの人が集まり、当然、相当の収入がある。それがどうしても我慢できないらしい。逆恨みもいいとこだ。
かつて、日本では神社と寺は仲良く建っていた。神社の境内にお墓があったり、お寺に鳥居が立っていたりした。中には二つを兼ねているところがあり、神主と住職が同じ人というケースもあった。神主衣装で地鎮祭をして、袈裟に着替えてお経を読んでいた。神と仏が仲良く共存している状況を神仏習合と言った。
それが変わったのは明治になってからだ。政府が神社と寺を分離したのだ。そのため、しだいに神社と寺は離れて行き、ついには、神様と仏様のどっちが偉いかという論争にまで発展した。しかし、どちらが偉いかは決められない。両方とも見えないのだから決めようがない。
神仏に向って、おたくさんたち、どっちが偉いのですかと訊くこともできない。
いや、こちらから一方的に訊くことはできても、向こうからの返事が聞こえない。
どちらが偉いかは、神のみぞ知る。仏のみぞ知る。
深夜二時。黒っぽいジャンパーを着た男が港の一角で闇に溶けて立っていた。しきりに海に向って大型の懐中電灯を照らしている。頭上高く上げたり、下にさげたりと忙しそうだ。ときどき点滅させたり、ガラス面に手を当てて光の加減をしたりしている。
何らかの合図を送っているようだ。
やがて小さな漁船が、係留されている船の間を縫うように滑り込んで来て、男の足元でユラリと止まった。なかなかのテクニックだ。大金払って雇ったプロの漁師だから、それくらいは当たり前のことなのだろう。
「お待ちどうさまです」
船の中から日焼けした初老の男が顔を出した。
「よお、細川さん。今夜もありがとね」ジャンパー男が気軽に声をかける。
細川と呼ばれた男はイカ釣りを本業としていた。しかし、燃料高騰の煽りを受けて不景気となり、渡しと呼ばれる非合法の仕事を受けるようになった。
仕事は簡単だった。船で荷物の受け渡しをするだけだ。しかも、一回の仕事で本業半月分のお金がもらえる。ただし、荷物の中身は分からないし、知ったとしても決してしゃべってはいけない。しかも、もし海上保安庁や警察に捕まったときには黙秘を貫くという決まりになっている。そして、守れなかったときには過酷な制裁が待っていた。
船が接岸したとたんに、どこかに隠れていたらしい数人の男が足音を殺しながら、懐中電灯の男の元へ走ってきた。全員が暗闇に同化するように黒っぽい服を着ている。
先頭を走って来たリーダーらしき男が漁船を見下ろしながら声を潜めて言った。
「どうやら、うまくいったようだな。――細川さん、ご苦労」
「これは、カリノ組長。いつも世話になっとります」
「よしっ、みんな手伝うんだ」
男たちが漁船に乗り込んだとき、一台のワゴン車がやって来て、リーダー格の男の横に止まった。
「アニキ、やりましたね!」
窓から運転手役の若い男が顔を出してうれしそうに言う。
細川が組長と呼んでいた男を、この若者はアニキと呼んでいる。
「おお、ジュンか。末端価格は四億だぜ、四億」
「俺、そんな金、見たことないです。アニキは何に使うんですか?」
「まずは組の上納金があるだろ。半年も滞納しているんで、本部からうるさく催促されてるからな。それと事務所の内装工事費だな。床も壁もあちこち剥がれているからな。それに、応接セットも欲しいよな。バリバリの革張りのな。あと、車もな。いつまでもこんな中古のワゴンじゃ、格好がつかないからな。やっぱりベンツだな。デカくて黒いベンツな。――まあ、そんなもんか」
「さすがアニキ。自分のためでなく、組のために使うんですね」
「当たり前じゃねえか。残ったら、みんなで山分けだな」
「山分け? マジっすか! みんなの中に俺も入ってるんですか?」
「――さあ」
「ちょっと、アニキ!」
「こらっ、ジュン。つべこべ言わずにお前も外に出て手伝わんかい」
男たちは渡しの細川と協力して漁船からすべての荷物を陸揚げした。荷物は大きな二つの木箱と小さな一つの木箱だった。あとはこれをワゴンに積み込んで売りさばくだけだ。
売却のルートは既に確保してある。それ専門の奴らが今や遅しと待ち構えていることだろう。ここから先、自分たちの手は汚れない。売った奴らが捕まったとしても、所詮は末端の奴らだ。自分たちの元まで捜査の手は及ばない。
「おお、細川さん、約束のこれな」
漁師には十分すぎるほどに分厚い封筒を渡した。
「カリノ組長、ありがとうございます」
細川は船からヌッと大きな手を伸ばして大切そうに受け取る。
沖に止めた母船からここまで運んでくれた謝礼と口止め料だ。
なぜ、こんなに分厚いのか。その理由は何度もこの仕事を請け負っている細川は十分に承知している。今晩のことを誰かに話すと、この冷たい海に沈められる。残された家族に対しても容赦はない。家族揃って仲良く魚のエサになる。そのための保険だ。
細川は真っ暗な水面を眺めて、体をブルッと震わせた。
たった一度の仕事で大儲けした漁船が海のかなたに見えなくなったとき、静かな港に一発の銃声が轟いた。
「伏せろっ!」アニキがとっさに叫んだ。
倉庫の陰から三人の男が飛び出してきた。三人とも手には拳銃を持っている。銃口をこちらに向けたままゆっくりと歩いてくる。三人とも無言だ。
「くそ野郎、こんな場所で派手にブッ放しやがって!」
アニキは地べたに伏せながら吠えた。まったくの予想外だった。こちらは何も武装はしていない。ブツを受け取ることで、仕事の大半は終わる。無事に受け取ったところで緊張感も警戒心も薄れていた。油断をしていたとしか言いようがない。
どこからか付けてきやがったのか。それとも待ち伏せしてやがったのか。
くそっ、どこから情報が漏れたんだ。
アニキは首を少し上げながら、伏せている五人の仲間を順番に見た。その中にはワゴンを運転していた見習いのジュンもいる。信用できるメンバーを揃えたつもりだったが、この中に裏切った奴がいれば、立ち上がるはずだ。
拳銃を手にした三人が狙いを澄ましながらしだいに距離を縮める中、五人は冷たいコンクリートに体を密着したまま微動だにしない。
――どいつだ。
闇はさらに濃くなっていく。そんな中で一人一人の顔を見比べて行く。誰もが両手を頭の後ろで組んだまま地に伏せていて、動こうとはしない。
くそっ、母船の側から漏れたのかよ。せっかく大枚払って手に入れたというのによ。
アニキはカッカしている自分の脳を押さえ込んで冷静になった。
こいつらが裏切っていないとなると、反撃ができるじゃねえか。向こうは三人、こっちは六人。拳銃さえ奪えば何とかなるんじゃねえか。
アニキは地面に向って独り言を言いながらタイミングを計っていた。そのとき、仲間の五人の一人が目で合図を送ってきた。長年一緒に仕事をしてきた若頭の百舌だ。共に何度も修羅場をぐぐってきた。
あいつが考えていることは分かる。みんなでいっせいに飛び掛ろうと言うのだ。
よしっ、分かった!
こちらからも目で返事を送ったとき――。
――ドドドドッ。
闇の中に巨大なシルエットが浮かんだ。
なんだ、こいつは!?
ライトを消した一台のバスがゆっくりと走ってきて、三人の傍らに止まった。
アニキは首を起こしてバスを見上げた。茶色を基調とした二階建てサルーンの大型観光バスだった。二階部分は外の景色や空が眺められるようにガラス張りになっていて、中に派手なシャンデリアが見える。
他の五人もあっけに取れらて、呆けた顔で見上げている。
こんなものを使って犯罪をやるのかよ!?
観光バスの中にも数人の男がいるようで、窓からニヤついた顔でこちらの無様な姿を見下ろしている。
ふん、まったく、大人数でご苦労なことだぜ。
アニキは反撃をあきらめて体中の力を抜いた。仲間にも落ち着くよう合図を送る。先ほど合図を送ってきた百舌も首を小さく横に振って、残念そうな顔をした。相手の人数も分からないし、他にどんな武器を持ってるかも分からない。
何しろ、二階の窓から覗いている奴らの一人は手にカラオケのマイクを持ってる。
何だよ、あの余裕は。カラオケやりながら犯罪かよ。
しかし、ブツさえ渡せば命は助けてくれるだろう。俺たち六人を殺せば大事になるし、組織同士の大きな抗争に発展する。そうなると莫大な損失が発生する。奴らにとって何も得することはない。できれば穏便に済ませたいはずだ。
拳銃を持った三人のうちの一人が観光バスの運転席の窓越しに話しかけた。
「――ブツゾウ」
小柄な運転手役の男が答えた。
それは日本語ではなかった。
バスの中から十人ほどの男が下りてきて、瞬く間に戦利品である三つの木箱をバスの脇腹のトランクに詰め込んだ。
こうして、末端価格四億円の覚せい剤は、後からやって来た東南アジア系の奴らにまんまと掠め取られた。
――ドドドドッ。
六人は這いつくばったまま、轟音を発して去り行く大型観光バスの赤いテールランプを見送っていた。
それは闇夜に溶けていく怪物の目玉のように見えた。
腕を捻られたとき、肘のあたりでビシッと嫌な音がした。筋がおかしくなったのかもしれない。
その会社員は何が起きたのかよく分からないまま、自分の腕の心配をしていた。パソコンを使っての数値管理が主な仕事のため、利き腕が使い物にならなくなったら困ると思ったからだ。左手でキーボードを打つのは大変だなとノンキに思った。
しかし、すぐに腕の心配よりも身の心配の方が重要であると気付かされた。
OLに痴漢行為を働いていた男は、いきなり何者かに腕を取られて、個室トイレへ連行された。そして、金品を要求されたのだ。何者かはスムーズに事をすすめた。今日が初めてではなさそうだった。それはこの駅の個室トイレの多さで分かった。朝のラッシュ時はトイレが混む。普通の駅なら順番待ちの列ができているだろう。しかし、ここは個室の数が非常に多く、必ず空いている箇所がある。後ろに立って脅迫している男はそれを知っていて、ここでの犯行に及んでいるに違いない。
脅迫犯は犯罪者とは思えないほど丁寧で優しげな口調で言った。
「そのままの姿勢で結構ですので、私の質問に答えてください。あなたは新聞に載りたいですか?」
両手を上げて壁を向いている男は消え入りそうな声で答えた。
「いや、それは勘弁していただきたいです」
「では、警察に連行されたいですか?」
「いや。それも勘弁してください」
虫のいい回答だと自分でも思った。しかし、そう答えるしかなかった。
「では、あなたの名刺を渡してください」
男はよく分からないまま、ポケットから名刺を取り出すと、後ろ手に名刺を差し出した。
「もう二枚同じ名刺をください。――人からもらった名刺を渡す人がいるものでね」
男は三枚の名刺を受け取ると静かに言った。
「長谷幸造さん。いい会社にお勤めですね」
いい会社――自分でもそう思っている。
三十年ほど前に就職したときは誰も知らないような小さな会社だったのだが、今では誰でもその名を知っている大手企業に成長していたからだ。収入もそれにつれて上がり、贅沢ではないが、何不自由ない生活を送っている。その会社で中間管理職の任に付いていることは、近所の奥さん連中に対する妻の自慢でもあった。
しかし、いい会社にお勤め――その言葉には強烈な皮肉が込められていた。
その一流会社で中間管理職を務めるような立派な人間がそんな下劣な行為をしてもいいのですか?
社会的影響は大きく、会社のイメージダウンは計り知れないのではないですか?
トイレの個室の冷たいタイルに顔を押し付けられながら長谷は思った。
きっと、私はクビになるだろう。
そして、妻とは離婚することになるだろう。
一流会社に勤務していることだけが夫婦関係を何とか維持していると言っても過言でないからだ。その支えを失ったとき、妻と娘は家を出て行くだろう。いや、私の方が追い出されるだろう。近所でも目立つほどに大きいあの家を、私は出て行かなければならない。家のローンを払い終えるために、今までどれだけの残業や休日出勤をし、どれだけ上司に媚を売り、どれだけ取引先にペコペコと頭を下げてきたことか。
確かに痴漢は卑劣な行為だ。
しかし、その痴漢をしていた人から金を脅し取るなんて、まるでウンコにたかるハエみたいじゃないか。だが、その考えはすぐに改めた。ならば、自分はウンコそのものになってしまうからだ。
後ろの男は耳元に顔を近づけてくると、外に漏れない程度の小さな声で言った。
「私のお願いが三つあります。名刺一枚につき、一つのお願いというわけです。それを聞いてくだされば、今回のことは誰にも言わず黙ってましょう」
男は金の受け渡し場所を指定してきた。期日は一週間後。金額は任せるという。自分のこれからの人生を換算した金額を用意するようにとも言われた。今の年収から計算すると数千万円に相当するだろう。いや、億単位になるかもしれない。
きっと男は最初から、身なりがよく、収入があり、社会的地位が高そうな痴漢を探していたに違いない。そんな奴がいるのかと言うと、ちゃんとここにいる。
私がそうだった。
管理職の手前上、せめて、部下よりも仕立ての良いものを着ようと、オーダーメイドのスーツを着ている。その格好を見て、ターゲットにされたのだろう。私がお金をかけているのはスーツだけだとは知らずに。
しかし、私には家庭がある。家族に内緒で大金を支払うことはできない。
観念した私は、自宅の増改築費用として会社に七百万円の借り入れを申し込んだ。退職金が担保だった。さらに、その日から酒とパチンコとタバコをやめた。せめて自分の小遣いだけでも足して払おうと思ったからだ。痴漢などという情けない行為をした自分に対するペナルティだった。あのときはどうにかしていた。お尻を触られて顔を硬直している若いOLにゾクゾクしている自分がいた。ストレスが溜まっていたのは確かだが、言い訳にもならない。ストレスがない人はいないだろうから。
何も知らない妻は、それ以来、寄り道もしないで毎日まっすぐ家に帰ってくる私をいぶかしんだ。
今まで家庭を顧みずに仕事をしていたから、家族サービスでもしようと早く帰ることにしたんだよ。やっぱり、家で食べるお前の手料理が一番だな。おいしい料理を味わうのも家族サービスの一つだろ?
私はそんなことを言い訳に使ったが、妻は今まで通りゆっくり帰ってくればいいのにと思っていたようだ。いい会社でしっかり稼いでくれるだけで良かったからだ。私の家庭での存在感はその程度のものだった。
六日後、七百万円の融資は希望通り下りた。高校卒業後、長年に渡ってこの会社に貢献してきたという自負があったため、融資はしてもらえると思っていた。しかし、いざ審査が通ったと聞かされたときは、正直ホッとした。もしダメだったら銀行を当たらなくてはならなかったからだ。増改築費用という資金使途は他の人間には漏れないだろうが、念を入れて、同僚たちが家に来ないようにしなければならない。中にはおせっかいでおしゃべりで私のポストを狙っている奴らもいる。男は敷居をまたげば七人の敵がいるというが、私の場合、七人どころではない。
七百万円は妻や娘にバレても言い訳のしようがない大きな金額だった。
結局、用意できたのは七百十五万円。毎月少しずつ給与天引きで払っていかなければならないが、同じ業界でも給料が減っている会社がいくつもある。妻には不景気を理由にごまかせる金額だった。幸いなことに今まで給与明細を妻に見せたことはない。
端数の十五万円は以前より妻に内緒で少しずつ貯め込んでいた小遣いと、ここ一週間の節約分だった。
あの男はこのお金を直接持参するように言った。大きな物が運べる車に乗ってくるようにとも言われた。
「二つ目のお願いですが、あなたは太鼓が叩けますか?」
私の聞き違いではなく、男は確かにそう言った。
「俺って、ユウのお父さんに会ったことあるよな?」
安い外資系チェーン店のコーヒーをすすりながら、中学生の頃から付き合っているシンが訊いてきた。
窓に向って並んで座っていた私は小さなビスケットを前歯で齧りながら答える。
「シンが家に来たとき、一回会ったことあるよ」
「ちょっと白髪があって、背の高い人だったよな」
「そう。今は白髪増えてるけどね。でも、背は高いまんまで縮んでないよ」
「ほら、俺って、人の顔覚えるの得意じゃん」
「ああ、そうだね。何の変哲もない顔の人をよく覚えているよね」
「昨日の夜、ユウのお父さんを見かけたんだよ」
「えっ、どこで?」
「高野町のゲーセンで」
「ゲーセン? そんなところで、うちのお父さん何やってたのよ?」
「太鼓の達人」
「なんで?」
「バチで」
「じゃなくて、どうして?」
「知らん」
「見間違いじゃない?」
「だから、俺は人の顔覚えるのは天才的なんだって。あの人は、絶対、ユウのお父さんだよ。上着を脱いでネクタイはずしてワイシャツ姿で叩いてたよ。なんかもう必死って感じでさ。汗だくなんだよ。こめかみに血管浮いてるし。あの店で年配の人って珍しいじゃん。だから、若い奴らが周りを囲んで応援してるわけ。その中にいた俺のツレに訊いたら、お父さんは最近毎日来てるんだって。あの店じゃ有名人みたいよ。――ホント、親の仇みたいにバチをボコボコ叩きつけてたもんなあ」
「親の仇って、じいちゃん、ばあちゃん、まだ生きてるし」
「そういう意味じゃなくて、なんでユウのお父さんがゲーセンにいるわけ?」
「それはこっちが聞きたいわ!」
――ブシュ!
叫んだとたん、口からビスケットの破片が噴き出した。
しばらく家に帰るのが早くなったと思っていたのに、お父さんは最近また遅くなってきた。お母さんは、家族サービスだなんて、所詮、一週間くらいで終わっちゃったねえと笑っていたけど、お父さんは飲みにも行かないでゲーセンで太鼓を叩いている。
会社で何か嫌なことがあったのかもしれない。中間管理職は上と下に挟まれて大変らしい。でも、直接訊くわけにはいかないし、はっきりしたことが分かるまで、お母さんには黙っておこうと思う。
もちろん、シンには厳重に口止めをしておいた。そして、今度会ったら、ホントにうちのお父さんかよく見ておくように頼んでおいた。私が直接見に行ってもいいのだけど、怖いからやめておこうと思う。自分のお小遣いでゲーセンに通っているのだから、構わないのだけど、でも、なんだか気になる。
どうしちゃったんだろう、うちのお父さん。
長谷幸造は約束の場所に七百十五万円を持参した。用意できるお金が五百万円以上なら、一万円札を五百万円分ごとに分けておくようにと言われた。だから、五百万円と二百十五万円の二つの束にして用意しておいた。なぜ、わざわざ分ける必要があるのかと思っていたが、神社の賽銭箱の前に立ってみて分かった。
なるほど、この隙間では一度に七百十五万円を入れるのは無理だ。
妙なところで感心した。準備周到とはこのことだ。ここまで計算しているということは、こんなことを何度も行っているということになる。いったい何人の痴漢が犠牲になったのだろう。
いや、もう痴漢はいい。懲り懲りだと思う。しかし、こんな目に会わないと止められなかった自分にも腹が立つ。これから何年もかけて返済していかなければならない。その間、ずっと自分に腹を立て続けることになるだろう。
若い巫女さんに渡された本物の大きな和太鼓は、家に持って帰るわけにはいかず、家族に内緒で倉庫会社から収納トランクを一ヶ月間借りて保管した。本番の日まではゲームセンターで練習を続けようと思う。
「それまでにしっかりと練習しておいてくださいね」
あの男は温和な声でそう言った。
男の一つ目の願いであるお金はちゃんと支払った。金額はあれでよかったのだろうかと心配していたが、その後、何も言ってこない。そして、二つ目の願いを聞き届けるために、言われた通り練習をしている。最初はどうやって練習しようかと悩んだ。そもそも和太鼓なんて触ったこともない。
毎週収納トランクから持ち出してどこかの橋の下ででも叩こうかと思ったのだが、ある日、太鼓を叩くゲームがあることを知り、勇気を出してゲーセンという所に行ってみた。本物と同じような太鼓が置いてあり、これなら十分練習になると思い、家族サービスも忘れてせっせと通い始めた。
最近はリズムが体になじんできたし、太鼓の面とフチを叩くコンビネーションもうまくなってきた。運動不足だったからちょうどいいやと開き直って、懸命に叩いている。
かつてはゲームセンターに入り浸っているような若者をバカにしていたが、太鼓をうまく叩くと、彼らは歓声を上げて素直に喜んでくれた。みんな、いい奴らだった。
ありがたいことに娘には出会っていない。確か、ゲームセンターみたいな所は騒がしくて嫌だと言っていたっけ。
ただ、彼らの中に知り合いがいて、娘に密告でもされたら嫌だなと思った。
「おい、こらっ!」
後ろから大きくて険のある声をかけられた小森はとても驚いた。今までそんな口調で話しかけて来た奴なんていなかったからだ。国常高校相撲部主将として学区内に君臨している。プロの力士並みの体格をしているので、この地域内では誰もケンカなど売ってきたりはしない。さらに今日は少し体格が劣るとはいえ、副主将の吉田とヒラの香川を連れて三人で歩いている。それなのにいきなり怒鳴られた。
しかも、声からすると女だった。
三人が振り向くと、声の主は白い上衣に緋色の袴をはいて、竹ぼうきで掃除をしているショートカットの巫女さんだった。
巫女さんは竹ほうきを肩にかつぎあげると、のっしのっしと三人の方に向って来た。
そして、一番背が高い小森の真正面に立つと、見上げて言った。
「おまえら、これが見えんの?」
小森のさらに上にそびえているのは赤い鳥居だった。ところどころ色がはげているかなり年代ものの鳥居だった。
「神社に入るときは鳥居の下で一礼するのが礼節というものだろうが」
「へっ?」
小森は巫女さんにそう言われて、何も言い返せなかった。彼は礼節に弱かったからだ。礼にはじまり、礼に終わるのは何も武道に限ったことではない。相撲もそうだ。そのため、普段から二人の部員には礼節のことをしつこいほどに注意している。
神社もそうらしい。長い歴史により伝えられてきた礼節を守るのは当然のことだった。しかし、鳥居のところで一礼するとは知らなかった。
小森は巫女さんに大きな態度で、しかも汚い言葉遣いで注意された怒りも忘れて、他の二人を整列させると、深々と一礼した。
「よしっ、いいよ。じゃ、次はあそこで手と口を清めること」
巫女さんは竹ぼうきで手水舎を指して、スタスタと歩き出した。
三人は遅れずにミコの後につづいて歩き出した。
吉田が香川に言う。
「なんだよ、あの女。急に出てきて生意気じゃない?」
「そうだよなあ、巫女さんとは思えないねえ。美人だけどねえ」
ミコが振り向いた。
「こらっ、神域に入ったら私語は慎め! ここから先は神さんにお会いするという厳粛な気持ちを持って歩くこと」
「すいません」「はあ、どうも」
大きな体を小さくして小森も一緒に謝った。「以後、気をつけます」
手水舎の前でミコは振り向くと、竹ぼうきを担いだまま言った。
「手順を教えるからよく聞くように。ひしゃくを右手に持って、水をくんで左手を清める。次に左手に持ち替えて右手を清める。その後、また右手に持ち替えて口をすすぐ。――じゃあ、ここまでやってみて」
参拝の作法とは縁もゆかりもない人生を歩んできた三人は、恐る恐るひしゃくを手に持って手順をすすめた。
「こらっ、デブ!」
ミコに怒鳴られてみんなはビクッとした。三人ともデブだったからだ。
「口をすすぐときは、ひしゃくに口をつけるな! 左手に水を受けてやるんだ」
その後、三人はミコからひしゃくの伏せ方。神前での二拝二拍手一拝の仕方などを怒鳴られながらも細かく教わった。
しかし、香川が拝殿の脇にいた狛犬に向って、
「あっ、鳥居の横にもいたワンチャンがここにもいる」と叫んで、またミコに怒られた。
「ワンチャンって何だ! 狛犬と呼べ。狛犬は神様の使いなんだぞ。満願神社には四匹の狛犬がいて守ってくれてるんだ。しかも狛犬というのは、犬ではない。想像上の生き物だ」
さらに、三人ともお賽銭が百二十円ずつしかないと言ったときには、顔を真っ赤にして激怒された。
「あんたたち、神さんをなめてんの!?」
ここに来てからずっと押されていた香川がついに反撃をした。
「あとで缶ジュースを買おうと用意していた大切なお金でして、それに、さっきから神さん神さんと言ってますけど、あのう、神さんなんかいるのかどうか、見えないし……」
ミコが香川の前に立ち塞がった。
「じゃあ、キミは見えないものは信じないわけ? 愛も平和も心も見えないんだけどね」
香川はたちまちシュンと萎んだが、すぐにきっぱりと言った。
「いえ、信じます。ラヴもピースもハートも大好きです」
「なんで英訳するんだ、こらっ! 日本神道をなめてんのか」
ミコが竹ぼうきを上段に構えた。
「待ってください、巫女さん」小森が割って入る。「俺は国常高校相撲部主将の……」
「小森だな」ミコは竹ぼうきを下段にさげた。
「えっ!? なんで俺の名前をご存じなのですか?」
「国常高校に相撲部が出来たんだな」
「はい。去年まで女子高だったのですが少子化の影響で男女共学になりまして……」
「あのときは良かったなあ」
ミコが懐かしそうな顔をして虚空を仰ぐ。
「えっ、巫女さんは、もしかして先輩ですか?」
「――そういうこと」
相撲部の三人は横一列に並んで、先輩に深々と頭を下げた。三人とも、今日はよく頭を下げる日だなと思った。
「近々、この満願神社で二十年に一度の祭礼が行われるんだ」ミコは説明を始める。「そのときに奉納相撲をしてもらおうと思うわけさ。それで今日、みんなを呼んだんだ。奉納の意味は分かる? 神さんに捧げるんだよ。だから、神さんを信じてないというのは問題外なわけ」
小森が直立不動で言う。
「ごっちゃんです、先輩! 先輩が俺たちを推薦して下さったんですね。顧問の先生から昨日その話を聞いたときはうれしくて、夜は眠れませんでした。――なあ、吉田」
「はい、俺たちは土俵も稽古する相手もいないような部ですから、みなさんに取り組みを披露できると思うと眠れなくて、俺も思いっきり睡眠不足です。――なあ香川」
「ボクは爆睡したよ」
「てめえ、裏切るのかよ!」小森が怒り出す。「今日は寝るな。これは神さんからの命令だ」
「わ、分かったよ。大相撲ダイジェストのビデオを見ながら、がんばって朝まで起きているよ」
香川の優柔不断な態度に、ミコもあきれた表情をしている。
「ところで先輩。先輩のことは何と呼べばいいのでしょうか?」
バリバリ体育会系の小森は先輩後輩といった上下関係にもうるさい。生意気な巫女さんだと思ったが、同じ学校の先輩と分かったとたん、尊敬の眼差しを向けてきた。これからもお世話になる先輩の呼び名は大切だ。
「ああ、あたしのことはミコでいいよ」
「はあ、でも、巫女さんじゃ、そのまんまだと思うのですが」
「なに、先輩の言うことが聞けないの?」
「いえ、只今から巫女さんと呼ばせていただきます! なあ、みんな」
「はい!」吉田が元気に返事をする。
「でもなあ……」
「なんだ香川、文句あんのか!」小森が怒鳴る。
「すいません、ボクの巫女さんと呼びます」香川が萎縮する。
「ボクのって何だ? なんで、あたしが香川のものなんだよ、こらっ!」ミコの竹ぼうきが香川の頭上を狙い撃ちする。
小森があわてて間に入り、竹ぼうきの柄を真剣白刃取りで受け止める。
「巫女さん、待ってください! 香川については長い目で見てやってください」
「ああ、分かったよ。あたしは巫女をやってるけど、たまたま名前もミコと言うんだ」
「あっ、そうだったんですか」三人は納得した。
興奮が収まったミコは、竹ぼうきを腰のあたりに落ち着けると、学生服姿で並んで立っている三人を見渡して言った。
「ところで、他の相撲部員はどうしたわけ?」
小森が一礼をして答える。
「部員はこの三人だけです」
「三人!? 奉納相撲はトーナメント方式なんだよ。どうやって戦うんだよ」
「はい。主将の俺はシード選手として一回休みます。まず、吉田と香川が取り組みをします。勝った方が決勝で俺と戦います」
「二回しか取り組みがないじゃん。お客さんはいっぱい来るんだよ。どうすんのよ」
「でも、部員が……」
「顧問の先生は何やっているわけ? 今日が初めての打ち合わせだというのに来てないし」
三人はとても気まずい顔になったが、つづけて小森主将が説明する。
「なんだか、先生は相撲があまり好きじゃないらしくて」
「じゃあ、なんで顧問になったのよ」
「じゃんけんで負けたそうです」
「バカかよ!」
「はあ、元女子高なので女の先生が多いんです。それで、相撲部と聞いてみんなが断ったそうです」
「それで、じゃんけんかよ。どんな先生なんだ、そいつは」
「はい、静乃先生という女の先生なんですけど、今年、短大を出たばかりの恥ずかしがり屋さんで、テレビの相撲中継でも、まわしをしている力士のお尻が見れないそうです」
「……」
呆れて黙り込んだミコに香川が追い討ちをかける。
「力士のオッパイも見れないそうです」
「うるさい!」ミコの声が神社の境内に響いた。
「今後、顧問は当てにするな! 自分たちで部員を増やすこと。せめて、取り組みは十番くらいこなすように」
「でも、みんなサッカーとかテニスとかおしゃれなスポーツに行っちゃって、相撲部には入ってくれないんですよ」
「だったら、小森が学校で一番デカイ奴を脅して連れて来ればいいだろうが」
「一番デカイのは俺です。二番目にデカイのは杉田という奴なんですけど」
「ああ、そいつでいいじゃん」
「女なんです」
「女でもTシャツ着せてやらせろよ」
「そんなの無茶ですよ。でも、三番目にデカイのは男の奴で体重が百五十キロくらいあるんですが」
「そいつでいいだろ」
「身長も百五十くらいなんです」
「ゾロ目で目出度いじゃん。神さんも喜ぶだろ。その球体のような奴も連れて来るとして、奉納相撲の人選は小森に任せたから。――じゃあ、せこい百二十円のお賽銭でお祈りしてくれる?」
三人はもったいなさそうに百二十円をお賽銭箱に入れて、順番に鈴を鳴らした。
ガラン、ガラン、ガラン、ガラン…。
小森と吉田が拝殿の前で相撲部の発展を真剣にお願いしている間も、香川は汗だくになって鈴を鳴らし続けている。
「こらっ、香川、何やってるんだ!」ミコの声が飛ぶ。
「はあ、ボクはあまり相撲部に貢献してませんので、せめて神頼みだけは二人に負けないようにしようと、こうやってガラン、ガランと……」
「あのな、鈴を鳴らすのは三回と決まっているんだ。数多く鳴らせばいいってもんじゃない」
「へっ、三回?」
香川は肩で息をしながら、鈴を見上げて呆然と立ち尽くす。
「へっ?」「へっ?」知らなかった二人も鈴を見上げる。
「家のチャイムをピンポーン、ピンポーンと何回も鳴らされたらうるさいだろ。それと同じ
で神様もいい加減うるさいの。分かった?――じゃあ、今度はこっちに来てくれる」
ミコは再び竹ぼうきを肩に担ぐとサッサと歩き出した。
三人はあわてて後を追う。
振り向いたミコがまた怒鳴り出した。
「こらっ、真ん中を歩くんじゃない! 参道の真ん中は神さんの通り道だ」
へっ?
三人は立ち止まって自分の足元を見た。
「人間は端っこを歩くこと」
ドタバタと脇に駆け寄るが、香川は勢い余ってドゴンと灯籠にぶつかる。
「こらっ、香川。神聖な灯籠を稽古の相手に選んでどうするんだ」
「あのう、ミコ先輩。香川には特別のご配慮をお願いします」
何度も怒られる香川を見かねて、小森がすかさずミコをなだめる。
ミコも香川のドン臭い性格が分かりかけてきたので要望を受け入れる。
四人は静かな境内を、玉砂利の音をザクザクさせながら歩く。途中で庭師が木に登って剪定をしていた。ミコは、こんにちはー、ジッちゃーん! と大きな声で叫んであいさつをする。相撲部の三人も、ごっちゃんでーす! と叫ぶ。年老いた庭師も、おう! と礼を返してきた。
やがて、四人は神殿の前に出た。
「ほら、あれ」
ミコが竹ぼうきで指した所には――。
「おおっ、土俵だ!」
驚いた小森主将の目玉が二倍くらいになった。
「ミコ先輩、こんなところに土俵なんかありましたか? 俺、ガキの頃から何度もこの神社に来てますけど、見たことないです」
そこには立派な土俵が設営されていた。土俵上にはちゃんと俵があるし、脇には水桶と塩箱もある。大きな屋根は四本の柱が支えていた。運動場のド真ん中の心霊スポットに足で描いた土俵とは大変な違いだ。
「びっくりしたでしょ。奉納相撲のために、あたしとさっきの庭師のジッちゃんが力を合わせて作ったんだ。周りにズラッとゴザでも敷けば結構な数のお客さんが座れるだろ。――どう? みんな一躍ヒーローになれるんだぜ」
「すげえ、俺、一度でいいから、本物の土俵に上がってみたかったんですよ」
副主将の吉田も目を輝かせて土俵を見つめている。香川はうれしそうに土俵の周りをクルクル走り回っている。
「何といっても二十年に一度だからな。あたしが掃除をしてるんだ。女は土俵に上がったらダメらしいけど、この神社の掃除係はあたしだからいいだろう。それに、土俵の下には神さんへのお供え物として昆布とスルメとお米を埋めたんだ。お米は魚沼産コシヒカリだぞ。奮発しないと神さんも怒るだろうからな」
「へえ、本格的ですね」小森が感心する。
「待ち遠しいですよ」吉田も喜んでいる。
「それと、行司の役は町内会長のじいさんに頼んだ」
「えっ、もしかして大相撲の関係者ですか?」小森の小さな目が輝いた。
「いや。木村庄之助と同姓同名というだけで行司に選ばれたんだ。昨日、衣装合わせしたけどブカブカで全然似合わん。代わりに式守伊之助という名前の人を探してみたんだけど、そんなレアな名前の人は近所にいなくて、しかたなく、木村のじいさんに決まったわけさ」
小森と吉田は遠くを見つめる。
ザッ、ザッ、ザッ。
香川はまだ走り回っている。
「それと、この土俵の土はあたしが調達したんだ」
ミコは自慢げに土俵の土を指でつまんだ。横から小森と吉田も土をいじる。
「そうなんですか。さすが先輩。確か、土俵の土には粘土質が混じった物を使うんですよね。――これはちょっとサラサラしてるなあ」
「そうなのか、くわしいな小森は」
「はい、その方が型崩れしないんですよ。これはどこの土ですか?」
「いや、まあ、いいじゃんかよ」
「あれ、なんだろう、これは」
吉田が土俵の側面を指差しながら言った。
そこからプラスチック製のスコップの頭が出ていた。
二人はしゃがんで不思議そうに土俵から生えている赤いスコップを見つめた。
その頃、香川は目を回して倒れていた。
神社のそばにある昼下がりの児童公園。二人の女の子がシーソーにまたがって遊んでいる。
一人のお母さんがその脇にある砂場に入って、足で砂をかき分けながら言った。
「ねえ、この砂場おかしくない?」
そう訊かれたもう一人のお母さんも砂場に入り込んだ。
「ホントだ。いつもと違うみたい。やけに底が深くなってない?」
毎日遊びに来るこの公園の異変に気づいたのは、つい先ほどのことだ。
入り口に立ててあるはずの三本の逆U字型の車止めが抜かれて、そばに置いてあったのだ。
二人のお母さんは重い金属のそれらを苦労して穴に差し込んだ。
「誰がこんなイタズラをするんだろうね」
「ホント、何の得にもならないのにねえ」
「これを引っこ抜いて、公園に車を乗り入れたのかしらねえ」
「公園内を走り回って、何が楽しいのかしらねえ」
二人は息を切らしながら文句を言い合った。
そして、公園内に入ってから砂場の異変に気づいた。
「まさか、砂場だけ地盤沈下じゃないよねえ」
「昨日の夕方は何ともなかったのに」
「地震とか……」
「えっ、うちの方、揺れてないでしょ。ここだけってこと?」
「そう。この公園が震源地で沈んだんじゃない?」
「そんな細かいピンポイント地震なんてあるわけ?」
「ほら、今は何が起きてもおかしくない世の中でしょ」
「そうよねえ。だったら、ピンポイント竜巻が巻き上げたとか……」
二人のお母さんが不思議そうな顔をしながら、足で砂場をかき分けているうちに、もう一人の奥さんがやってきた。
「昨日、うちの子がここに赤いスコップを忘れて帰ったのよ。――あら、ないわね」
「さっきからこの砂場にいるけど、スコップなんか見てないわよ」
「それより、今も話してたんだけど、この砂場おかしくない? なんだか深いでしょ」
「深いというか、砂が減ったというか」
二人にそう言われた三人目の奥さんは、スコップを探すのも忘れて、自分の足元をしげしげと見つめた。
「あらホント、変よねえ」
砂場は砂が減って底のコンクリートが見えていた。
「これじゃ、子供たち、砂遊びができないでしょう」
そう言って、シーソーに乗った娘たちを見る。
「そうねえ。市役所に電話しておきましょうか」
三人目の奥さんがスマホを取り出した。
そのとき、四人目の奥さんがイヌを引きずるようにして走って来た。
「ハア、ハア、ちょっとー、大変よー」
普段は大人しい奥さんが、犬よりも早く走ってきたので三人は驚く。
「ハア、ハア、むこうのドッグランの砂場の砂がなくなってるのよー!」
「えっ、そっちも? ほら、ここもそうなのよ。今、市役所に電話しているところよ」
イヌ連れの奥さんは、スマホを操作している奥さんの電話口に大声で割り込んでいった。
「もしもーし、市役所の人。うちのワンちゃんの砂もないのよー!」
大きな声に驚いたトイプードルが興奮して暴れ出した。
ひしゃくで顔に水をかけられて、香川は目を覚ました。
ミコが香川の頬に平手打ちを一発かまして言う。
「デブのくせに長距離走るなよ。マラソンランナーにデブはいないだろうが。だいたい、この神聖なお水はこんなことに使うんじゃないんだからな」
まだボケッとしている香川をひしゃくでぶん殴ろうとかまえたところに、袴姿の神主が大きなお盆を持ってやって来た。
「ああ、オッチャン。こいつらが国常高校相撲部の三人です」
ミコが立ち上がる。小森と吉田もあわてて隣に立つ。香川はのそのそと立ち上がる。
「はじめまして。私が満願神社の神主です」
丁寧に頭を下げられて、三人は恐縮しながら頭を下げる。
「相撲部主将の小森です。こっちが副主将の吉田で、こいつがヒラの香川です」
「ほう、そうですか。小森君はなかなか良い体格ですね。奉納相撲の詳細は巫女さんから説明があったと思います。当日はたくさんの参拝客が来られる予定ですし、神様も期待されてますのでよろしくお願いします」
神主はお茶とお茶菓子が乗ったお盆を置くと、どうぞ、一服してくださいと言って去って行った。
ミコが神主の背中を見送りながら三人に言う。
「さっき、あたしがオッチャンと呼んだけどそれは間違い。神主さんと呼んであげて」
小森はまだ直立不動の姿勢でいる。なんといっても大先輩のミコさんが頭を下げる相手だ。粗相があってはいけない。やっと見えなくなったところでミコ先輩に言った。
「なんだかやさしそうな人ですね。神主さんというともっと気難しそうな人だと思ってました」
ミコはなんだか自慢げに話す。
「まあ、いい人だな。ちょっと変わってるけど。誰にもマネできない生き様をしてる人。でも、誰もマネしたがらないけどね」
小森と吉田がよく分からないまま感心して頷いている横で、香川はさっそくまんじゅうに手を伸ばしていた。
「こらっ、ミコ先輩が先だろうが!」
小森の張り手が香川の右頬に炸裂した。
口から飛び出したまんじゅうが宙を舞う。
「あたしはさっき食べたからいいよ。――とりゃー!」
ミコは竹ぼうきを振り回すと、その柄で空中のまんじゅうをゴミ箱の中に叩き落した。
小森が小さな目を見開いて言う。
「ミコ先輩は何者ですか!?」
「あたしはただの元ヤンだよ。今はちゃんと更生して社会復帰している立派な大人だけどね」
ミコは何事もなかったかのように竹ぼうきを脇に挟んでスクッと立っていた。
「では、お言葉に甘えて、ごっちゃんでーす」
小森、吉田、香川が同時に手を伸ばす。
「そのまんじゅう、うまいだろ。手作りだぞ」
「うまいです!」三人が同時に叫ぶ。
「うまいと思ったら手作りですか!」小森がデカい声で感心する。
三つ目にかぶりついている香川が言う。
「この弾力性がある皮といい、控えめなアンコの甘さといい、程よい大きさといい、言うことないです」
四つ目を口に入れながらつづける。
「でも、一番おいしい理由は愛情です。このおまんじゅうには愛がこもっていると思います」
五つ目を手に取ったところで小森に怒鳴られた。
「香川、その食い物への執念を相撲に生かせよ」
同じく五つ目に手を伸ばそうとしていた吉田がそっと手を引っ込めた。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
やがて、手作りまんじゅうを完食した相撲部の三人が、遠慮もなくお茶をズルズルすすっていると、あの奇妙なお経が聞こえてきた。この神社に隣接する寺で女住職のフミが読んでいるものだ。気味の悪さに三人はお茶を吐き出しそうになる。
「なんだこの呪文みたいなものは」
「どこの国の言葉かも分からないね」
「うう、体の具合が悪くなりそう」
さらに今日は奇妙なニオイが流れてくる。何か特殊な線香を焚いているようだ。三人はたちまち変なニオイに吐き気を覚え出した。
小森の湯飲みを持つ手が震える。「オェ。あの、ミコ先輩、これは何のニオイですか?」
吉田の顔は蒼白だ。「ウェ。今まで嗅いだことのない変なニオイだ」
香川は……。
「ボクは平気だけどね」お茶をおかわりしている。「このニオイは香ばしくて格別だなあ」
隣の寺に目を向けていたミコが振り向いた。
「寺からの嫌がらせだ。寺とここの神社は昔から仲が悪いんだ。特に向こうの住職が死んでから、寺を引き継いだ未亡人のババアが最悪でね、自分が供養だとかをサボっているから収入が減ったというのに、うちの神社があるから悪いと言い出して迷惑してるんだ。で、ああやって毎日、嫌がらせで意味の分からねえ変なお経を上げているわけ。閉め切ってあげればいいものを、こっちに向って声を張り上げてるんだから、たまんねえよな。それにこのニオイ。怪しいアロマの通販店で、タタリがあるというニオイの成分を線香に調合してもらって、それを毎日燃やしているんだってさ」
「なんだか、とばっちりですねえ」小森が流れてきた線香の煙に目をショボショボさせながら言う。「でも、タタリがあるって本当ですか?」
ミコは笑いながら言う。
「そんなもん、ねえよ。あったとしても、あたしがこれで叩き落してやるわ!」
竹ぼうきが宙で踊った。流れていた煙がユラリと揺れた。
ミコが竹ぼうきを肩にかつぎながら、三人の男子生徒を引き連れて玉砂利をザクザクと歩いて来る。
「ははは。相変わらず、活発なお嬢さんだな」
木に登って剪定をしていた庭師は仕事の手を休めて目を細めた。
ミコは庭師を見つけると、「こんにちはー、ジッちゃーん!」と大きな声で叫んであいさつをしてきた。
三人も「ごっちゃんでーす!」と叫ぶ。庭師も「おう!」と礼を返した。
確か、奉納相撲があると言っていたな。三人の体型からすると相撲部だな。お嬢さんの高校の後輩という子供たちか。がんばって神様を喜ばせてもらいたいものだ。そのために苦労してあの土俵を再現したのだからな。昆布とスルメとコシヒカリはわしが用意したが、砂はミコさんが用意したらしい。――はて、どこから調達したのやら。
以前、神社の境内ではよく相撲の取り組みがされていた。神様への奉納という意味もあったが、当時、これといって娯楽がなかった近所の人たちの楽しみでもあった。力自慢が集い、毎週のように大会が開かれていた。しかし、満願神社の参拝客が減るにしたがい、相撲大会の数も減り、いつしか土俵は荒れたままになってしまった。
今年、祭礼が行われるにあたり、神主が中心となって土俵の再建が行われた。昔、この境内で腕を鳴らした近所のお年寄りたちも奉納相撲を楽しみにしているらしい。
二十年に一度の祭礼か……。
年老いた庭師ことジッちゃんは、榊の葉を正確に切り進めながら思う。
わしにとっては三度目の祭礼だ。きっと今回が最後になるだろう。若はその準備に張り切っておられる。やはり、お父様が残してくださった伝統を汚さないようにとの思いが強いのだろう。お父様はすばらしい方だった。満願神社をここまで大きくされた。しかし、それを継いだ若には油断があった。神様の試練と言ってもいいだろう。
閑散とした境内。伸び放題の木々。乱れている玉砂利。荒れ果てた土俵跡。
ある日、若に鳥居が歪んで見えたらしい。夕日を背景にして建っている鳥居がグニャリと曲がって見えたという。
神様が怒っている。神様が嘆いている。神様が悲しんでいる。
自分の不甲斐なさを感じたという若は、かつてお父様と仕事をしていた私を呼び寄せて神社の再建に取り掛かった。
それから数年――。
二十年に一度の祭礼の時期に合わせるようにして神社に活気が戻ってきた。
境内には参拝客が溢れ、樹木や玉砂利の整備もされ、土俵も見事に蘇った。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
奇妙なお経は止まない。ジッちゃんは榊の木に立てかけていたハシゴから降りて隣の寺に目を向けた。せっかくきれいにした木の周りに嫌なニオイが漂っている。半纏にもニオイが染み付いたような気がしたので、埃を落とすように両手でバサバサと払ってみる。あちこちが擦り切れてつぎはぎになっているが、父親から譲ってもらった大切な半纏だ。
お隣さんの前の住職はあまり仕事熱心ではない怠け者だったが、跡を継いだ妻のフミはもっとヒドい。ろくに仕事もしないで、この神社に呪いをかけようとしている。朝な夕なと奇妙なお経を張り上げ、変なニオイの線香の煙をこちらに流してくる。
神社と寺の境界には白くて長い土塀が築かれていた。かなり前に造られたようで、ところどころ壁が剥げ落ちている。だが、その修復もかなり進んできている。
二十年前の祭礼ではこの塀に無数の式神を塗り込んで、寺からの攻撃に備えた。住職夫婦との争いはその頃から続いていたのだ。
しかし、奴らは手下として使っている邪霊をミミズに変化させて、地中から攻め込んできた。神社の神域の半分がミミズに侵食されて、鳥居が斜めに傾いた。最後の結界が破られそうになったとき、ミミズは総崩れした。若のお父様が壁に塗り込んでいた式神をミミズの天敵であるコウベモグラに変化させて地中に送り込んだのだ。
そのときの教訓を生かしてジッちゃんは神社と寺の境である塀際にたくさんの榊の木を植えた。榊には神が宿ると言われている。榊あるいは賢木とも書く。その名の由来は境木から来ているという。根の部分はしっかりと地中を捉えていてミミズの侵入は許さない。
祭礼まであと数日。
ジッちゃんは大きく育った榊の木に一本ずつ話し掛けながら、ゆっくりと歩き出した。
しっかりとこの神社を守ってくれよ。二十年前のあの日のように。邪霊を蹴散らしたあのときのように。祭礼が成功するかしないかで、この先二十年の満願神社の運命が決まる。隣の寺のように朽ち果ててはならない。お父様が築き上げられ、若が引き継がれたこの神社を決して衰退させてはならない。参拝してくださる人々を守っていかなければならない。そして何よりも神様に喜んでもらわなければならない。
やがて、ジッちゃんは神殿に供えていた神様への貢物である卵と酒を持って来ると、榊の木の根元に置いて周った。
隣との境界はこれで防御できる。
神殿の垣根に下がっている鈴がチリンとなった。
ジッちゃんが振り向いた。式神たちが騒いでいるようだった。
「もうちょっと待っておれ。出番はもうすぐだからな」
若がお茶とお茶菓子を乗せたお盆を持って歩いてくるのが見えた。
「ああ、もうこんな時間か」
ジッちゃんは腕時計で三時を確認して、若に頭を下げた。
石畳の傍らに置かれた木製の長いすに座って、ジッちゃんと若がお茶を飲んでいる。ジッちゃんの横には脱いだばかりの半纏と手甲がきちっとそろえて置いてあった。緩やかな風が仕事で汗ばんだ体に心地よさそうだ。
先ほどから聞こえていた奇妙なお経は止んでいた。向こうもティータイムなのかもしれない。二人の足元には数本ののぼりが重ねて置いてあった。奉納相撲のために作ったものだ。これを土俵へつづく参道の脇に立てて盛り上げる予定だ。
「若、いよいよですな」
「そうだね。でも、ここで油断したらいけないよ。最後の最後まできちんとやるか、神様はしっかりと見ておられる」
若の力強い言葉にジッちゃんは目を細めた。数年前には決して聞かれなかった言葉だったからだ。若は別人のように変わった。とても頼もしくなった。きっと祭礼はうまくいくだろう。お父様も天国から褒めてくださるに違いない。
ジッちゃんは遠くに見える鳥居を見つめた。すっかり老朽化している赤い鳥居も祭礼に合わせて新調される予定だ。
二人で早く新しい鳥居をくぐりたいものだ。いや、もう一人いたか。さっきの新米の巫女さんが。
「若、なかなか活発なお嬢さんを採用されましたな」
「ああ、ミコさんのことですか」
「はい、そうです」
若とミコの出会いは二年前にさかのぼる。二十年に一度の祭礼の準備は数年前から既に始まっていた。祭礼には莫大な資金がいる。それは寄付で賄わなければならない。しかし、参拝客がかなり減った現状ではとても厳しい状況下にあった。
そのために若は、その日の朝も満員電車に乗り込んでいた。最初に目をつけた獲物はスーツ姿の中年男性だった。しょぼくれた印象があったが、メガネ、腕時計、ネクタイピンなど、身につけている物は高級品のようだ。落ち着かず、そわそわした様子からして、きっとやるだろうと踏んでいた。
人々の合間を縫って移動し、なんとか男性の後ろにつけた。車内アナウンスがせわしなく流れ、いくつかの駅を通り過ぎ、何人かの人々が入れ替わった。
やがて、中年男性の手が若いOLらしき女性の太ももに伸びたところを確保した。
その駅にある改札付近のトイレはいつも混んでいた。各駅のどこのトイレが空いているかを調査していた若は、その男性をホームにあるトイレの個室に連れ込んだ。そのトイレは小さくて汚れも目立つため利用客は少なかった。その日も予定通り、誰にとがめられることもなく、獲物から三枚の名刺を奪うことに成功した。
若は名刺を見ながら静かに言った。
「代表取締役ということは社長さんですね。社長が痴漢などという卑劣な行為をして信用をなくせば、会社の存続にも影響するんじゃないですか?」
「は、はい。その通りでして……」
「従業員のみなさんは路頭に迷うんじゃないですか?」
「お、おっしゃる通りで……」
中年男性は壁のタイルに顔を押し付けたまま小声で返答している。決して振り返らないようにという命令にも素直に従っている。いったい後ろから脅している人物は何者なのか、頭の中は混乱しているに違いない。男に冷静さが戻る前に、若はその混乱の隙を突いて、質問を畳みかけていく。
「新聞に載りたいですか?」
「い、いえ」
「警察に連行されたいですか?」
「い、いえ」
「ワイドショーで面白おかしく報道されるかもしれませんよ」
「わ、私はどうすれば……」
「いくら用意できますか?」
「えっ? お金ですか。あの、確かに私が社長ですが、会社の経営は厳しくて、あの……」
しどろもどろしている社長の言葉を遮り、若が容赦なく要求を突きつける。
「今日から一週間、努力をしてください。最大限努力をした結果、できたお金ならば金額は問いません。約束を守ってくだされば、警察やマスコミに通報することはしません。一度しか言いませんから、よく聞いてください。お金を持ってきてくださる時間と場所は……」
そのとき、若の体がビクンと反応した。
背中にナイフのようなものを突きつけられたからだ。後ろはまったくの無防備だった。今までこんなケースはなかったからだ。足音はおろか、ドアが開く音さえ気づかなかった。
まさか、脅している後ろから脅されるとは……。
後ろに立つ人物が、ナイフを持った手の力を緩めないまま若の耳元で囁いた。
「命が欲しかったら、さっさと失せな」
若はナイフを背中に当てられたまま、体をずらして素早く個室を出ると、やって来た電車に飛び乗った。相手は後を追って来なかった。ホームを見渡してみたが仲間らしい人物は見当たらなかった。何が目的だったのか分からない。獲物を分捕られたのかもしれない。
トイレを出るときにチラッとその人物の横顔を見た。まだ幼さが残る女性だった。
それがミコとの出会いだった。
トイレ内に残ったミコと中年男性。
「お、おまえ! こんな所で何をやってるんだ」
「ふん、お父さん、まだ生きてたんだ」
夜通し遊んだ帰りの朝。ミコは駅のホームで偶然お父さんを見つけた。ミコとお母さんを残して家を出て行った憎んでも憎みきれないお父さんだ。その顔を忘れるはずはない。
その後、お母さんは小さな美容室を一人で切り盛りしながら女手一つでミコを育てた。
お父さんは小さいながらも会社を興して社長になったと聞いていた。
朝の混雑時にトイレへ入っていく二人の男性を気に留めるようなヒマな人はいない。みんな足早に通り過ぎて行く。だが、ホームのベンチで何もすることがなくボォと座っていたミコは気づいた。
――お父さんだ!
男性と二人でおどおどしながらトイレに入っていく姿を見て後をつけてきた。垣間見えた横顔から、誰かに助けを求めるような表情が読み取れた。しかし、ミコの存在に気づいた様子はない。
個室のドアをそっと開けると、お父さんは無様にバンザイの格好をさせられて金品を要求されていた。ポケットから折りたたみ式ナイフを取り出して黒尽くめの男の背中に突きつけた。男は反撃をすることもなく、何も言わずに去って行った。
「おまえこそ、元気でやってるのか」
お父さんはゆがんだネクタイを直しながらほっとした表情で訊いてきた。
ミコはその姿を見て、とたんに情けなさと怒りがこみ上げてきた。
私とお母さんを見捨てた男。自分が幸せになるためだったら平気で人を見捨てる男。
あたしは確かに人に自慢できる生き様はしていない。でも、人を騙してでも幸せになりたいとは思わない。人を裏切ってでも幸せになりたいとは思わない。そうやって得た幸せは決して長続きしないことを知っている。いくらバカなあたしでも、そのくらいの道理はわきまえている。なのに、こいつときたら……。
こいつのためにどれだけ辛い思いをしてきたことか。
――ガッ!
ミコは正面からお父さんの向こう脛を思いっ切り蹴り上げた。
グゥとカエルがつぶれるような声を出して、お父さんがうずくまった。
「朝っぱらからカツアゲされてんじゃねーよ、バーカ!」
ミコはそう叫ぶとトイレを飛び出した。お父さんはあまりの痛さに声も出せなかったようで何の返事もなかった。
そのままお金を取られてりゃよかったんだよ。身包み剥ぎ取られればよかったんだよ。
あんな奴、助けなきゃよかった。もう一発くらい蹴っておけばよかった。
あのクソオヤジが!
いや、クソオヤジなんかじゃない。ただの他人だ。哀れな他人だ。
それ以来、お父さんとは会っていない。お母さんの元には連絡が入ったかもしれないが、何も言って来ない。自分からお母さんに訊くこともしなかった。
若はその女性の顔を覚えていた。履歴書に貼ってある写真を一目見て間違いないと思った。今どきの女性と違う点が一つあった。目力だ。ちらっと横目で見たにすぎないが、あの目は忘れようとしても忘れられない。脅した側が脅されたのだから。派手な感じはなくなっているが、あのときの子だ。あの後、どうなっなったのかは分からない。今後の仕事にも差しさわりがあるので、すぐに退散した。
まさか、この神社を探り当てて応募してきたのだろうか。
こちらの顔はほとんど見られていないはずだし、声も聞かれてないはずだ。あの日、あの電車にはたまたま乗ったに過ぎないのだし、服装や髪型もできるだけ印象に残らないようにいつも地味な格好で仕事をしている。――偶然だろう。
気になった若は採用を告げる電話を入れて、相手の出方を待った。
翌日、あらためて面接という形を取り、話を聞いてみた。
ただの取り越し苦労だった。単に職を求めていたに過ぎなかったのだ。彼女もこちらのことを覚えていない様子だった。学歴も職歴も資格もないのに、なぜ、採用されたのか不思議に思っているに違いない。
しかし、がんばって仕事をこなしてくれている。お神楽もなかなかの評判だ。あのときナイフを振りかざしていたミコは、今やこの神社の大切な一員になっていた。
ジッちゃんがお茶を飲み干して言った。
「その活発なお嬢さんですが、先日、土俵の砂を調達すると言われたので、わしが仕事で使っている軽自動車とスコップを貸してあげました」
「そうだったのですか。どこからもらってきたのか知りませんが、ちゃんと砂が揃ってましたね」
「はい。車もきれいに掃除した上に、ガソリンも満タンにして戻してくれています」
「言葉使いはあまりよくありませんが、素直でいい子ですから、応援してやってください」
「はい。若が採用されたお方ですから。――ところで、祭礼の資金調達の方はいかがですか?」
「ああ、心配しなくても寄付金は着実に増えつつあります」
「しかし、若。あまり無理せんでください。いや、わしもたくさん寄付できればいいのですが、この歳になってもほとんど蓄えがないというのも情けない限りで……」
「いや、ジッちゃんには父の代から何かと世話になってます。その気持ちだけで十分ですよ。それよりもジッちゃんの方はどうですか。奥さんと娘さんとは久しぶりの再会でしょう」
「はい。奇しくも祭礼と同じく二十年ぶりですが」
「楽しみでしょう」
「そうですねえ。しかし、申し訳ない気持ちの方が大きいですかねえ。私の責任で苦労をかけてしまいましたから」
「いや、ジッちゃん、考えすぎですよ。きっと奥さんは許してくれています」
「そうだといいのですが」
ジッちゃんは照れたのか、自分が剪定した木々を見上げる。
しかし、思い出したことがあって、すぐに若の方を見た。
「ところで、若。ちょっと気になることがあります。三本足カラスからの情報なのですが、お隣さんが本堂を金色に塗りはじめたそうです」
「金色に? いったい何をやらかすつもりだ?」
「いや、それが分かりません。しかし、何かを企んでいることは違いないと思います。それと、さっき木の上から覗いたのですが、お隣さんの庭の花がかなり枯れつつあります」
「邪気にやられたか」
「そうだと思います。何としても祭礼は成功させないといけませんので、引き続き監視をしていきます」
「ジッちゃん、大変だろうが頼んだよ。もう少しの辛抱だからね。――さて、奉納相撲ののぼりでも立てましょうか」
若が腰を上げた。ジッちゃんも手甲をつかんで、半纏をフワリと羽織った。
古びたビルの三階。エレベーターも設置されていないこのビルでは、大人一人がやっと通れるくらいの狭い階段を木製の手すりにつかまりながら上がらなければならない。天井で申し訳なさそうについている電灯は薄暗く、足元まで光が届かない。
見るからに安っぽいビニール製のソファに恰幅のいいスーツ姿の男が深々と腰掛けている。不機嫌そうな顔をしたその男は、破れたソファの穴から太い指で綿を引き出しては床に投げつけていた。あちこち剥がれて黒ずんだところが目立つ古い床の上に白い綿が散乱している。
男の後ろには三人の同じく恰幅のいい男たちが護衛役として立っていて、さほど広くない部屋の中を鋭い目つきで見渡している。
スーツ男の前には黒っぽいジャンパーを着た男がかしこまって座っていた。末端価格四億円の覚せい剤をまんまと東南アジア系の奴らに掠め取られたアニキだった。アニキの後ろにも護衛役のつもりか一人の若者が立ってる。あのときワゴンを運転していた見習いのガキことジュンだった。
半年間も上納金を滞納していたため、本部から取り立て役の桃竜組の組長が三人の子分を連れていきなりやって来たのは三十分前の話。
全員が出払っていて、事務所に残っていたのは、アニキこと組長とジュンの二人だけだった。取引がうまくいけばバリバリの革張りに買い換える予定だったソファに桃竜組長がドカッと腰掛けて、ネチネチとアニキを追求していた。
「そいつらはブツゾウと言ったんだな」
スーツ姿の男が綿を毟るのを止めて低い声で尋ねる。
「はい。確かにブツゾウと聞こえました」アニキが小さな声で答える。
「ふーん、やはりな」気だるそうに言って、スーツ男がポケットからタバコを取り出す。
アニキが百円ライターを探してキョロキョロしているすきに、後ろの男がすかさずポケットから高級ライターを出して火をつける。
「奴らの正体が分かった」
「えっ、どこの組の奴らですか!?」アニキが身を乗り出す。
「そう、慌てるな。ふーぅ」煙をわざとらしくアニキの顔に吹きかける。
ジュンがキッと睨みつけるが、護衛の一人に睨み返され、あわてて視線をそらす。
「組じゃねえ。奴らはガセネタを?まされて、ヤクだと知らずにあれを盗んだんだ」
「では、何が目的で?」
「だから、ブツゾウよ。仏像専門の強盗団よ。どっかの仏像マニアに売り飛ばそうと盗んだんだろうよ。まさか、胎内に四億円のヤクが隠されているとは知らずにな」
「――で、奴らの正体は?」アニキが訊く。
「ちゃんと分かったわ。お前が覚えていた二階建ての大型観光バスのナンバーを元にな」桃竜組長はニヤリと笑う。
「えっ、盗難車じゃなかったのですか?」
「あんな派手なもん、誰が盗むか。街を走るだけで注目の的じゃねえか。奴らの持ち物よ。それだけ余裕があるってことだろ。東南亜細亜諸国犯罪連合の連中だ」
「何ですか、その漢字ばっかりの組織は?」
「つまり、東南アジアの国境なき窃盗団というわけだ」
「じゃあ、さっそく……」アニキが立ち上がる。
「だから、慌てるなと言ってるだろうが!」デカイ声が小さな事務所にこだまする。
「奴らはアジトを構えずに観光バスを使って日本国内を転々としている。しかし、仏像はまだ奴らの手元にある。仏像といってもヤクの入れ物代わりに使った安物だがな。近々、奴らの故郷で大規模な仏像のオークションが行われる。そこで何も知らない収集家に売り飛ばす予定らしい。盗品が集まるので有名なオークションだからな、物が揃うのはいつも開催直前らしい。運ぶに当たり、もし盗難品として届けが出ていれば飛行機だと危険だからな、きっと船を使う。――そこでだ。港で奴らを一網打尽にする。そのインチキ仏像の他にちゃんとした仏像もあるはずだからな。ついでに、それもいただくってわけだ」
「――で、どこの港ですか?」
「それが分からん。本部の情報網を駆使して確かめたが、今分かっていることはここまでだ。あとはお前が探せ。日本の港のどこかだ」
「あの、日本の周りは港だらけですが」
「じゃあ、あと一ヶ月な」桃竜組長はアニキの抗議を無視してつづける。「一ヶ月たっても上納金が払えなければ、この組はうちの桃竜組と統合するからな。それまでこまめに連絡を入れて、途中経過を報告するんだ。それと何かあったら遠慮なく相談してくれ。分かったな。報告、連絡、相談。つまり、ホウレンソウを忘れるなということよ」
ヤクザが報連相かよ。
アニキは頭の中で毒づいた。
半年前、アニキが厳しいヤクザ修業を終えて組を持ったまではよかったが、たちまちお金が逼迫した。上納金の支払いが延滞したため、本部の通達により、「正式な組長」から「仮の組長」に降格させられた。正式と仮とでは身分の差は大きい。
五人の組員は自分たちの親分を最初は“仮の組長”と呼んでいたが、しっくり来ないため、昔ながらの呼び名でアニキと呼んでいる。母船からの渡しをやっている漁師の細川はそのときに聞いた“仮の組長”を苗字と勘違いして“カリノ組長”と呼んでいる。おそらく、狩野組長とでも思っているのだろうが、今更事情を話して訂正してもらうわけにもいかず、そのまま“カリノ組長”と呼ばせている。
組員たちは、上納金を納めることができれば、晴れて“アニキ”を“組長”と呼ぶつもりだった。
不景気の波は任侠の世界にも押し寄せていた。財源が乏しい小さな組では、その波を押し戻すことは難しかった。
桃竜組長はあちこち欠けた安物のガラス灰皿でタバコをもみ消すとゆっくり立ち上がった。
アニキもあわてて立ち上がり、ジュンと並んで直立不動の姿勢で見送る。
「まあ、厳しいだろうがケジメをつけろや。わしも好き好んでこんなサテライトな組に来てるんじゃない。お前に期待してるからだ。分かっているだろうな」
「はっ!」アニキとジュンが深々と頭を下げた。
「じゃ、ちょっと便所借りるぞ」
桃竜組長が便所に入っている間、部屋の中の緊張感は緩和された。
アニキは護衛の中にいる顔見知りの男に小声で話しかける。
「ここまで歩きか?」
「ああ、そうだ。相変わらず、うちの親分は乗り物が大嫌いだからな」
下っ端の護衛といえども、相手が“仮の”組長とあらば、タメ語で話す。
「しかし、電車で八駅となると相当歩くな」
「向こうを出たのは午前中だぜ。今何時だ。もう夕方じゃねえか」
「せめて自転車にでも乗ってもらえないのか?」
「ああ、そう思って、電動機付き自転車の一番いいやつを四台買ったんだけど、どうしても乗ってもらえない。乗れたとしても、人相の悪い縦縞スーツの男四人が仲良くチャリに乗っていたら不気味だろうが。ぜったい職質に会うぜ。とにかく、うちの親分ときたら、自転車どころか、西村京太郎の小説を読むだけで酔うんだからな」
「そりゃ、重症だな」
「東京本部に行くときは四日かけて歩くんだぜ。さすがに嫌になるぜ」
「昔の旅人みたいだな」
「ああ、令和の時代だというのにな」
「しかし、歩きだとCO2も出ないし、日本一地球にやさしいヤクザの親分だな」
護衛はキッと言う表情で仮の組長を睨み返した。アニキはあわてて目を伏せた。冗談は通じなかったようだ。
やがて、本部からの取り立て人たちは大急ぎで帰って行った。早くしないと日が暮れるからだった。
「やっと帰りやがったか、あのガスタンク野郎が」
アニキが不機嫌そうな顔をして吐き捨てる。桃竜組長とアニキはほぼ同時に組長へ昇進した同期だった。組長昇進修業のときは、同じ釜のめしを喰って苦労を共にした。二人揃ってめでたく昇進できたときには、手を取り合って喜んだものだ。しかし、桃竜組長は上部へのゴマスリが上手で、いつの間にか出世して本部勤務になっていた。
不器用なアニキは差をつけられて、地方の“仮の組長”のままだ。
こちらは同期と思っているが、向こうはいまや同期とは思ってないだろう。ウォーキングが好きな桃竜組長は、今日もピクニック気分でここにやってきたに過ぎない。もちろん、奴はアニキが一ヶ月以内に上納金が用意できないことを願っている。そうなると、この組は自分のものになるからだ。一般組員に降格させたアニキとともに、全員をこき使うつもりだろう。
「くそっ、任侠の隅にも置けないおべんちゃら野郎が。いつか思い知らせてやる。何が電動機付き自転車だ。男だったら汗をかけよ。なあ、ジュン、そうだろ、まったく」
こうしてアニキの愚痴が続いていたが、気分が治まってきた頃を見計らって、ジュンが心配そうに訊いた。
「アニキ、どうしますか。あと一ヶ月ですよ」
「心配するな。手は打ってある」アニキはホウキで床に散らばった綿を集めながら言う。
「ホントっすか?」ジュンはチリトリで綿を受けながら言う。
「とりあえず俺たちからお宝をかっさらったのは東南アジア系の奴らだったからな。ガスタンク野郎に説教を喰らう前に、ちゃんと助っ人外国人を用意しておいた」
「えっ、すごいですね、アニキ!」
「ああ、目には目を、外国人には外国人をだ。不良外国人のルートをたどっていけば、そいつらも見つかると思うんだ」
「さすがアニキ。東南アジア系の不良の中には安い金で人殺しを引き受けるような奴らがいるそうですからね。観光バス窃盗団なんか一発で仕留めて、俺たちのお宝を取り返しましょう。ソファも本革のものに新調して、親分に綿を毟られないようにしましょう。早くアニキのことをもう一度、組長と呼びたいっス」
さっきまで震えていたジュンがテンションを上げてはしゃいでいる。
まだ掃除を終えてない綿がフワリと舞い上がる。
「でも、アニキが不良外国人とコネがあるとは知りませんでしたよ」
「おう。こっちへ来て、外を見てみな」
アニキは手招きをして、ジュンを窓際に呼んだ。
「求人広告を出すには金がかかるからな。ほら、見ろ。あそこの電信柱に、“外国人求ム”と書いた紙を貼っておいたんだ」
ドン、ドン、ドン。
ドアを激しく叩かれたので、あわてて開けてみる。
そこには若い従業員が立っていた。
「お客様、ヘッドホンをお使いくださいませ」
「ああ、すいませんです」
漫画喫茶の個室にいたスコットはソファから腰を浮かすと二メートル近い長身を折り曲げて謝った。個室といってもパーティションで区切られているだけなので天井は空いている。音楽を聴いたりビデオを見たりするときには、音が外に漏れないようにヘッドホンを使わなければならない。もし、直接、音が聞こえているようだったら、今のように、すかさず従業員がやってきて注意をされる。
確か、最初に会員になるときに説明を受けた。そのルールを覚えていたが、流れてきた音楽が故郷のものだったので、思わず聞き入ってしまったのだ。
スコットは腕時計を見た。朝の八時。そろそろ出かけなければならない。さっき、自動販売機で買った菓子パンとコーヒーを朝ごはんにした。故郷の朝食を思い出す。焼き立てのパンとスクランブルエッグとアツアツのコーヒー。あの頃の方がよかったかもしれない。でも、ここは日本だ。がんばって稼がないと。
――よしっ!
最近、弱気になってきた自分に喝を入れ、薄い茶色のドアを横にスライドさせて廊下に出た。
「行ってらっしゃい、スコットさん」
この漫画喫茶で寝泊りを始めて一週間。すっかり顔見知りになったアルバイトのカンちゃんがカウンターで見送ってくれる。
職を探すために日本に来て三ヵ月。一流ホテル暮らしからはじまって、ビジネスホテル暮らし、ウィークリーマンション暮らし、場末の旅館暮らしとしだいにランクダウンし、ついにたどり着いたのが漫画喫茶だった。個室ビデオ屋やサウナと比べると、少しこちらの方が安かったからだ。
マンガを読んだり、ビデオを見たりしながら日本語の勉強ができる。ネットもできるし、音楽も聴ける。飲み物は飲み放題で毛布も貸してくれる。有料だがシャワーもあった。日本語がたどたどしい外国人だと信用がないかもしれないと思って、一週間分の代金は前払いで納めてあった。
故郷で読んだ本には日本のことを黄金の国ジパングと紹介していた。お金がほしかったスコットは以前から興味があった日本で働こうと、全財産を隠し持って空港に降り立った。降りてすぐに後悔した。道端に黄金がザクザク落ちていると思ったのに、もはや黄金なんか見当たらなかったからだ。読んだ本があまりにも古かったのだ。
しかも、故郷と同じくらいの不景気で、日本人でさえ仕事が見つからないのに、何の取り得ない外国人にはなかなか仕事が見つからなかった。
三日前の話。たまたま歩いていた街の電信柱に“外国人求ム”の張り紙を見つけた。簡単な漢字が読めたスコットは怪しいと思いながらも、古びたビルの狭い階段を上がって三階のドアを叩いた。なぜか提灯がたくさん吊り下げてある事務所には目つきの悪い男たちがいた。
――ジャパニーズマフィアだ!
気づいたときは遅かった。三人の男たちに囲まれていたのだ。
とっさに逃げようと思ったのだが、
「ジタバタするな!」と怒鳴られた。
ジタバタという日本語の意味はまだ知らなかったが、相手の顔の表情からして、きっと脅しの言葉だろうと検討がついた。
そして、その相手の顔はものすごく怖かった。目と鼻と口と耳が大きく、眉毛がなかったのだ。
後で知ったことだが、この組で一番人相が悪い若頭、つまりナンバー2の百舌という男だった。
しかたなく、スコットはほとんどクッションがきかない硬いビニール製のソファに座った。価値のあるアンティーク家具かと思ったが、ただ古いだけだった。
「張り紙の日本語が読めるんだったら採用だな」
事務所のボスが即座にそう言ったので驚いた。
そんな簡単な仕事なのか?
「仕事の内容は東南アジア系の窃盗団が盗んだ仏像を探して取り返すことだ。もちろん、世間には内緒の仕事だ。目立たないように行動してくれ。奴らの居場所は分からんが、お前は外国人だから見つけられるだろう。それと、たとえ警察に捕まっても俺たちは知らんから、覚悟しておいてくれ」
「ち、ちょっと待ってください、ボス。仏像と言われてもいっぱいあります。名前とかスタイルとかを教えてほしいです」
「仏さんの名前までは知らんな。文殊菩薩とか千手観音とか色々あって難しいからな。仏像は五十センチほどの木の箱に入ってる」
「あの、五十センチと言うと何インチですか?」
「外国の単位なんか知らん。まあ、こんなもんだな」
ボスが手を広げる。
たぶん、二十インチくらいだ。――スコットはそう見積もる。
「木箱は三つ。大きいのが二つと小さいのが一つ。狙いは小さい方だ。その木箱は紫色の風呂敷で包んである」
「風呂敷? お風呂に敷くものですか?」
「いや、風呂には敷かんと思うがな。あんな薄いんじゃ水も吸い取らんし、あれに石鹸つけて体を洗ってる奴なんか見たことないし、バスタオル代わりにもならんしな。いや、頭に巻くのかなあ。――いや、なんで風呂敷というのか知らん」
「それと、目立たないように行動しろと言われても、ボクは見ての通り背が高いのです」
「そうだな。どのくらいあるんだ?」
「六フィート六インチくらいです」
「だから、外国の単位は知らんと言ってるだろ」
「では、日本の単位でいうと六尺六寸くらいです」
「――えっ? ああ、まあ、あれくらいか」
ボスは苦笑いをする。まさか自国の単位を知らないとは言えない。
俺より二十センチ以上は高いから、たぶん二メートル近いだろうな。
「背の低い人は高い靴を履いてごまかせますが、高い人は低くできないのです」
「腰をかがめて歩いたらどうだ?」
「余計に目立つと思います。ボクは老人じゃありませんので。おまけに、ボクは白人だし、金髪だし、目も青いし、相手が東南アジア系なら同じく東南アジアの外国人の方がコネクションもあると思うのですが。ボク、イギリスの人なんですよ」
「そんなにつべこべ言うなよ。同じ外国人じゃねえか。ファイト出してがんばれよ。日給は一万円。ただし、オプションもあるぞ。仏像を取り返して、奴らを生け捕りにすると百万円のボーナスをやる」
「えっ、ほんとうですか! ボク、がんばりますよ」
「おお、その意気だ、スコットくん。――しかし、なんでイギリスからわざわざ日本くんだりまで来たんだ?」
「はい。ボクはネス湖のそばの村でネッシーの木彫りを作って売っていたのですが、あまり売れなかったのです」
そう言ってスコットはポケットから自慢げに木彫りのネッシーを出して見せたが、アニキには首が細いアヒルにしか見えなかった。
「ある日、日本の北海道のクマの木彫りを見て、いつかあそこで修業させてもらおうと思ったのです。やがて、イギリスは不景気になったのですが、日本は景気がよくて黄金がザクザクあると“東方見聞録”に書いてあったので、お金も稼げると思い、一石二鳥をねらってやって来ました」
「確かに、シャケをくわえたクマの木彫りはよくできているし、弟子入りするのもいいだろうがな。しかし、来てみたら、東方なんちゃらというガイドブックに書いてあったのはガセネタで、日本も不景気だったというわけだな」
「その通りです。格安チケットを使ったので、降りたのは地方空港でした。そこから北海道に行くにはかなりの交通費が必要と分かったので、まずは職を見つけてお金を増やすことにしました」
「そうか。あんたのような男前でも苦労するんだなあ。神さまは平等ってわけだ」
「でも、住んでいるうちに日本が大好きになりました。そもそも、イギリスと日本は昔から仲が良かったのですから、好きになるのも当然だと思います。特に日英同盟のときは非常にお世話になりました」
「――えっ? ニチエイ。ああ、あれな。いや、たいしたことはできなかったけどな。俺も俺なりに精一杯がんばった結果があれだからな。まあ、よかったと思うぜ。まあ、スコットくんは世話になっているイギリス人だから、この仕事が成功すれば、ボディガードとして雇ってやってもいいぜ。そんなデカイ体だったら、何か格闘技でもやってたのだろ?」
「はい。ポロをやってました」
「ああ、馬に乗って走り回るやつか」
「はい。イギリスではとても人気がある王者のスポーツなんです」
「あんまり護衛には役に立たんな。うちには馬を世話する金も場所もないしな」
アニキは外国人の真似をして肩をすくめた。
ここで働くにあたって、契約書はないのかという質問はあっさりと無視されて、スコットは豪華な神棚にお祈りをさせられた。胸に下げた十字架を見せて宗教が違うと言ったのだが、日本の神さんは心が広いから祟らないと説得されて無理やり手を合わせてきた
ああ、アマテラスオオミカミさま……。
お賽銭として五百円を取られたのは納得できなかったが、外国人にお祈りをされて神さんも喜んでるぞと言われて、少しうれしい気分になった。
「じゃあ、さっそく今日から働いてくれ」
「はい、分かりました。その前にトイレを貸してほしいです」
緊張のあまり、トイレが近くなってしまったようだ。
そして、スコットがトイレに入って十分。
――ドカッ!
大きな音がした。アニキを先頭に組員たちが駆けつける。
「どうした、異邦人!?」
スコットは便器の横で倒れていた。
「ずっと座っていたら、足がしびれてしまいました」
「悪いな。うちの便所はまだ和式だからな。スコットくんが仏像を見つけてくれたら、ウォシュレット付きの洋式にするから、せいぜいがんばってくれ」
カビがこびりついたタイル壁に手をつきながら、スコットは立ち上がった。
「は、はい。コンジョーを出してがんばります。英国紳士のプライドに賭けてがんばります。こんなボクですがどうぞよろしくお願いします」
「ああ、分かったよ。分かったから、早くパンツを上げろ」
スコットはヨロヨロと足元をふらつかせながら組事務所を後にした。
しかし、日本のどこかの港に行って、仏像が入った木箱を探せというミッションは、あまりにも大雑把すぎた。
「港なんかすぐに見つけられるだろ。イギリスも日本も同じ海洋国家じゃねえか」
ボスの言葉に説得力はなかった。
スコットは地下一階にある漫喫を出て階段を上がりはじめた。見上げる空は鮮やかな青色をしている。
昨日は東南アジア系の窃盗団がアニキたちから仏像を盗んだ港に行ってみた。彼らが盗んだ仏像を本国に送るときも土地勘があるこの近くの港を使うに違いない。そう睨んでいる。
何の情報を取ってこなくても、アニキは日給の一万円をくれた。しかし、それでは申し訳が立たない。こんな見知らぬ外国人をわざわざ雇ってくれたのだから。
今日も情報を求めてヘタな日本語で不良外国人、漁師さん、市場の仲介人さんなどに聞き込みをしてみる予定だった。
♪レット・イット・ビー。なるようになるさ。
先ほど、ヘッドホンをするのを忘れて聞き入っていた歌がまだ耳に残っていた。
スコットの故郷イギリスのスーパースター、ザ・ビートルズの音楽は日本でも大人気だった。
歯が一本しか残っていない口を大きく開けてリーダー格のブンさんが大きく拍手をしてくれた。仲間たちも釣られて盛大な拍手を送る。調子に乗って指笛を吹く人や掛け声をかける人が続出した。拍手の音や大きな声やドカドカと地面を蹴る音が橋の下でこだまする。
高校教師の森河は吹き終わった横笛の出来に満足していた。
痴漢行為を黙認する代わりに出された条件。
横笛の練習をしておいてください。時期が来れば連絡します。
数週間前に黒尽くめの男と交わした奇妙な取引。
社会から見放されることを恐れた森河は、その約束を忠実に守り、ホームレスが住むこの橋の下で練習を重ねてきた。
駅の駐車場、原っぱの真ん中、山の頂といくつかの場所で練習をしてみたがしっくり来ない。やはり、楽器というものは自分で楽しむだけでなく、聞いている人たちにも楽しんでもらわなければならない。
――そう思った。いや、無理にでもそう思おうとした。
何の目的があって横笛の練習をさせられているのかは分からない。しかし、いつか連絡が来てその成果を試されるのであろう。だったら、楽しんでやった方がいいのではないか。半ば、開き直り気味でそういう考えに至った。
ある日、橋の下で歌を歌っているホームレスに出くわした。あそこなら音が響いてよく聞こえるし、なんといってもお客さんがいる。
しかし、素人の笛なんか聞いてくれるのだろうか?
試しに大声で歌を歌っていたその男に声をかけてみた。
ああ、いいよ。ここはみんなの場所だからさ。
それが一本しか歯がないブンさんとの出会いだった。
もう一度夕方に来てみなと言われた森河が約束どおり行ってみると、たくさんの観客が待っていた。ホームレス仲間を集めてくれたらしい。総勢三十人は下らない。焚き火も三ヶ所あり、みんなはワンカップを手に森河の出番を待っている。
「あの、ブンさん、これはやりすぎじゃ……」
「何をいう。客が多いほど盛り上がるだろ。それにみんな娯楽に飢えとるんじゃ。楽しませてやってくれ」
森河は取り出した横笛を震える手で持って吹きはじめた。
十分後、ブンさん以外の人たちはみんないなくなっていた。
「まあ、あれだ。なんだか、みんな用事ができたみたいでな」
ブンさんはそういって慰めてくれたが、ショックは大きかった。
「また明日も来なよ」
ここしか練習場所がない森河はその言葉に甘えて、また橋の下に行ってみた。待っていたのは、中学の吹奏楽部で少しだけ笛を吹いてたことがあるという若者だった。あまりのヘタさ加減に見かねたブンさんが、仲間内から探してきてくれたらしい。
まったく横笛を吹いた経験がない森河に、ホームレス歴二ヶ月という若者は呆れることもなく、基本的なことからていねいに教えてくれた。
「まず、右手は笛と直角になるようにして上から押えて、四本の指で穴をふさぎます。左手は親指で笛の裏側を支えるようにして、三本の指で穴をふさぎます」
森河が横笛の穴が七つあることを知ったのは、つい最近に過ぎない。
「姿勢を正して、笛が体の右側に来るように構えください。下唇を笛にくっつけて、素直に息を吐いてみて下さい」
ピ~、ピ~、ピ~。
情けない音が橋の下に反響した。
「それでいいです。初めてにしては上出来ですよ」若者はニコッと笑った。
それから数日間、特訓はつづいた。やがて、練習の成果が上がり、観客はしだいに戻ってきてくれた。先生役の若者もブンさんもみんなも見事に上達した腕前を自分のことのように喜んでくれた。
森河は学校が終わってからほどんど毎日、この橋の下に来て笛を吹いている。家に帰るのが少し遅くなっているが、妻には最近仕事が忙しいと言ってある。教師が忙しいのは一年中なのだが。
うまくなってくると、横笛にも愛着が湧いてくる。あの黒尽くめの男から借りているものだが、手入れは怠らないようにしようと、笛を掃除する布を自分で作ってみた。布には鉛がついたヒモが結んである。吹いた後、それを笛に通すと唾液で汚れた内部が掃除できる。
「なかなか本格的になってきたねえ」とブンさんが茶化す。「そろそろ三人で金を取ってもいいんじゃねえ?」
「えっ、三人?」
「そうさ。あっ、ちょうど来たな、あの二人……」
二人の中年男性が川の土手の階段を下りてくる。手にはそれぞれ大鼓と小鼓を持っていた。
「お仲間だろ?」
「いえ、私の知らない人たちです」
大小の鼓を持った二人の男性もあの黒尽くめの男の被害者だった。元はというと二人で痴漢を働いていたのだから加害者だったわけだが、一転して被害者となり、それぞれ二百五十万円と三百万円を取られたという。家族や銀行には言えないため、同業者の間を金策に走り回ったらしい。
大鼓担当はパン屋を経営する多田さん、五十三歳。
小鼓担当は文具屋を経営する本山さん、五十三歳。
中学の同級生というから四十年ほどの付き合いになるという。ともに経営難からストレスが溜まり、どちらからともなく、痴漢でもやるかということになったという。他にすることはないのかと思ったが、自分も痴漢をやっていて黒い男に捕まったのだから人のことは言えた義理ではない。
ある日の夜。店を終えた二人は駅で待ち合わせをして、混んでいる車両を目指して乗り込んだ。そして、会社帰りのOLを両脇から挟むように立つと、二人は痴漢行為を始めた。やがて三分ほどが経過した頃、二人の後ろに全身黒尽くめの男がするりと近づいてきたかと思うと、本山の手首を?みながら小さな声で言った。
「次の駅で下りてください」
――警察だ!
本山の顔から血が引いて真っ青になった。
すばやく手を引っ込めた多田も釘をさされた。
「お連れさん、逃げても無駄ですよ」
きっと本山は俺のことを話すだろう。仲間の警官もそばにいるはずだ。確かにこの男の言うとおり逃げても無駄だと思った。
相棒の多田も観念して二人の後をついて行った。駅に降りるとなぜかトイレの個室に連れ込まれた二人は、冷たいタイルに両手をつけたままの姿勢で背後から男に訊かれた。
「明日の朝刊に載りたいですか?」
「いえ、載りたくないです!」
二人は見事にハモッた。四十年も付き合っていると、似てくるらしい。
「では、振り向かないで、あなた方の名刺を渡してください」
二人は何を言われているのか分からないまま名刺を差し出した。
「あと二枚ずつ同じ名刺をください。――いや、人からもらった名刺を渡す人がいるものでね。自分の名刺なら同じものが何枚かあるでしょう」
男たちはそれぞれもう二枚の名刺を差し出した。
「本山良三さんと多田邦和さん。――ほう、お二人ともお店の経営者ですか」
黒尽くめの男が穏やかな声で言った。
「お願いが三つあります。名刺一枚につき、一つのお願いというわけです。それを聞いてくだされば、今回のことは誰にも言わず黙ってましょう」
黒尽くめの男は、その札束に自分の名刺を挟んで、一週間後に満願神社まで持ってくるよう指示した。
そして、用意できるお金が五百万円以上なら、一万円札を五百万円分ごとに分けておくようにと言われた。
「理由は簡単です。五百万円以上の厚さだと、お賽銭箱の入口から入らないからです」
二人は両手をついたまま横目で見つめあった。
なぜ、お金を神社に持って行くのか?
なぜ、そのお金をお賽銭箱に入れるのか?
そもそも、この男は何者なのか?
さっぱり分からなかった。
そして、黒尽くめの男は最後に奇妙な質問をしてきた。
「二つ目のお願いですが、あなた方は鼓が叩けますか?」
「えっ、ツヅミですか? 触ったこともないです」多田が答えた。
「私もないです」本山も続いた。
「では、満願神社へお金を納めに行かれたときに、社務所まで顔を出してください。そこにいる巫女から小鼓と大鼓を受け取ってください。ただし、彼女は何も知りませんから、何を訊いても無駄です。時期がくれば連絡をしますので、一生懸命に練習をしておいてください。私からは以上です。何かご質問はありますか?」
「いえ、ないです」二人はまた見事にハモッた。
二人とも気が動転していて、質問など思い浮かばなかった。
その後、二人はペアを組まされて、毎日大鼓と小鼓の練習をしているという。森河と同じく練習場所には困ったらしい。家の中や近所の公園などは無理だったため、あちこち捜し歩いて、この橋の下に落ち着いたという。
「やっぱりお客がいる方がやる気が出ますからねえ」本山がのんきに言う。
「最初は誰も聞いてくれなかったですが、最近はうまくなったですよ」多田も笑いながら言う。
娯楽がないとはいえ、ヘタな楽器を聴かされてホームレスのみなさんも大変だっただろうなと、森河は自分のことは棚に上げて思った。あの男から連絡が入るまで、同じ境遇の三人はこの橋の下で合同練習をつづけることにした。
コンクリートの上に数枚のダンボールが敷かれている。みなさんが用意してくれたものだ。横笛も鼓も本来は座って演奏するものだからだ。
本山が担当する大鼓は左の膝に乗せて右手で打つ。
多田が担当する小鼓は左手で持った鼓を右肩に載せて右手で打つ。
大鼓、小鼓はともに調緒と呼ばれる麻のヒモで音を調整する。調緒を締めたり緩めたりしながら、革の張力を変えて打つ。
その横で森河が横笛を吹く。
課題曲は「さくら」だった。日本人なら誰でも知っているし、簡単な曲だ。しかし、やってみるとかなり奥が深い。
というか、三人の息を合わせるのが大変だったのだ。
ホームレスのみなさんは忍耐力を最大限に発揮して聞いてくれている。古い橋の下に日本古来の楽器が奏でる音色が響き渡る。焚き火の炎がゆらゆら揺れる。酔った人たちの体もゆらゆら揺れる。ブンさんが腕組みをしながら満足そうな表情で聞き入っている。その場に似つかわしくない和の音が、情緒を伴って聞こえてくるから不思議だった。
庭師のジッちゃんは満願神社の古い鳥居を見上げていた。祭礼の際に新調されるため、もうすぐこの鳥居ともお別れだった。ところどころに赤く塗り直した跡がある。若が大切にしていた証拠だ。
昨晩は二十年に一度の祭礼中でも最も重要だと言ってもいい儀式が執り行なわれた。
神が宿るものを依代をと呼ぶ。小さいものはお守りだ。お守りをバラしても紙や布にしかならない。中に神がいるわけではない。必要に応じて神がお守りに降りてくるのである。
大きなものとなると山がある。山に神が降りる。川にも湖にも神は降りる。その中でも礼拝の対象となっているものをご神体として大切に扱う。多くは鏡であったり、剣であったり、玉であったりする。それらは、普段見ることはできない。御神殿の中に大切に保存されていて、拝殿より祈りを捧げる。山そのものがご神体の神社は山に向って祈りを捧げる。
ここ満願神社の依代の一つは柱だ。神が宿る柱を心御柱という。それは神殿の中央の床の下に埋められていて、建物を支える柱としての役目は担っていない。しかし、神社内では最も神聖なものである。心御柱が痛むと災いが起きるとされている。
そのため二十年に一度、新しいものと取り替える。
昨夜、この柱を取り替える儀式が秘密裏に行われた。儀式に係わったのは神職である若とジッちゃんと有力氏子三名にすぎない。若は身を清めるため数日前より、電車内の仕事を控え、当日は新しい柱に神をお迎えするため、夜が明けるまで数時間に渡って神への祝詞を唱えつづけた。
深夜に行うというのは、古くからの習慣であるが、隣の二望寺に気づかれて、邪魔されないための方策でもあった。
寝不足気味のジッちゃんは小さな声で鳥居の横に彫ってある寄贈者の名前を順番に読み上げた。すでに故人となった方もちらほら見受けられる。下のほうに小さくジッちゃんの名前も刻んである。二十年前にささやかながら寄付させていただいたものだ。
あの頃は離婚問題で大変だった時期だ。苦しい思い出しか蘇ってこない。
あれから二十年か。早いものだ。約束の日までもう少し。二十年ぶりに妻と娘に会える。妻には私がこの神社で働いていることを教えてある。今まで何も連絡がないということは二人とも元気でやっているということだろう。あの乳飲み子が二十歳か……。
妻はいったいどうやって子供を育てていったのだろう。
何の仕事をしていたのか? どこに住んでいたのか? 娘は学生なのか? 社会人なのか? 訊いてみたいことがたくさんあった。
しかし……。
ジッちゃんは思う。妻はきっと再会の約束を覚えているし、きっとここにやって来るに違いない。
しかし……。
妻は私を許してくれるのだろうか?
若は許してくれるだろうと言ってくれたが自信はなかった。それだけ辛い思いをさせてきたのだから。
まず二人に頭を下げよう。許してもらえるまで頭を下げよう。――ジッちゃんはそう思った。
「やあ、ジッちゃん、なに、物思いにふけってんだ?」
ミコがいつの間にか竹ぼうきを持って、そばに立っていた。
「ああ、お嬢さんか」
ふと我に返ったジッちゃんはミコと自分の娘をダブらせた。
「お嬢さんはいくつになるのかね?」
「あたしは二十歳だよ」
「ああ、やっぱりそのくらいかね。いや、わしにも娘がおってな」
「知ってるよ。二十年ぶりの再会でしょ。楽しみだね」
「あれっ、何で知っとるんじゃ?」
「この前、ジッちゃんが自分で話してくれたじゃんか」
「そうだったかの」
「まだボケる歳じゃないだろ、ジッちゃん。仕事に関してはちゃんとしているけど、それ以外はからっきしダメだな。しっかりしないと娘に嫌われるぞ」
小娘が痛いところを突いてくる。反論しようと思ったが、図星をつかれているだけに、気の利いた言葉が浮かんでこない。
「娘さん、きれいになってたらいいね」
小娘はニコリとした表情で言った。
「ああ、お嬢さんのようにな」
「あたしはダメだろうが。だいたいお嬢さんというガラじゃねえし」
ミコが竹ぼうきをかついで笑う。
「ははは、そうかね」
ジッちゃんは日に焼けた人懐こい顔をほころばせる。
そのとき――。
「えっ、どうしたの?」
突然、ジッちゃんの顔から笑いが消えた。
「――何か来る!」
そう言って右側の道路を見渡した。大通りにつづいている細い道だ。両脇に電信柱が立っているだけで誰も歩いていない。
「何も見えないけど」ミコが不安そうに言う。
ジッちゃんはカラスの言葉が理解できて、式神を自由に操ることができることを神主さんから聞いていた。
ああ見えても、ジッちゃんは超能力者なんだよ。今までその能力でずいぶんこの神社も守ってくれたんだ。
神主さんはそう言ってったっけ。その超能力者が目の前であわてている。
やがて、遠くに複数の人影が見えてきた。
シャリン、シャリン、シャリン――。
「――あれだ。この邪悪な気を発しているのはあの四人だ」
薄汚れた山伏の格好をした男たちが大股で歩いてくる。右手には錫杖と呼ばれる六つの輪がついた杖を持っている。杖を地面に突くたびにシャリンという音がする。左手には大きな数珠を持っていて、先頭の男は首から法螺貝を提げていた。
四人のうち、二人は坊主頭。一人は長髪で背中に髪を束ねている。もう一人は髪を金色に染めていて、手首には金色のブレスレットをしていた。
「――山伏?」
「そのようだ。しかし、どう見ても邪道の山伏だ。本来、山伏というのはその名のごとく山で修行をしている。しかし、あの四人はこんな街中をほっつき歩いておる。しかもあんな汚い格好でだ。それに金髪の山伏なんておらん。山伏の姿に似せたヤクザもんじゃな」
やがて四人は満願神社の前に差し掛かった。
ジッちゃんは自然体のまま風景に溶け込んで立っていたが、ミコは戦闘態勢よろしく竹ぼうきを構えた。しかし、彼らは二人に気づかないような素振りで赤い鳥居を見上げると、ニタリと笑い、隣の二望寺へと入って行った。
「――やはりな。お隣さんが雇ったのだろう」
ジッちゃんは四人が入って行った山門を見つめた。
ミコはほっとした表情をしている。
「みんな体がデカかったけど、一人だけチビがいたね。最初、子供かと思ったよ」
「いや、あの御仁の念が一番強く、かつ邪悪だった。きっと他の三人を束ねているのだろう」
「へえ、アマガエルみたいな顔してたのに偉いんだ」
「見かけで判断しては危険じゃ。四人ともすさまじい気を発しておった。油断ならん。ああいう奴を人面獣心と言うんじゃ。顔は人間だが、心は獣に等しい。何をやらかすか分からん」
「でも、ジッちゃん。もしかしてあいつらとケンカするわけ?」
「うーん。そうなるかの。祭礼を邪魔するために雇ったのだろうからな。――お嬢さん、心配せんでよろしい。わしが何とか食い止めるし、若もいらっしゃる」
心配をしているんじゃない。逆だ。久々のケンカにわくわくしているだけだ。でも、そんなことは言えない。ジッちゃんは、あたしと娘さんをダブらせて見ているらしいから。それにあたしをお嬢さんなんて呼んでくれているから。
元ヤンで九十人のレディースを束ねていたとは言えない。この歳になってやっと更生したなんて言えない。ジッちゃんの車を使って仲間五人で公園の砂をパクッて来たなんて言えない。
早く祭礼が始まらないかなあ。血がたぎるなあ。ニセ山伏が四人か。あのアマガエルをぺしゃんこにしてやりたいなあ。他のデカい三人もボッコボコにしてやりたいなあ。
ミコは不謹慎だとは思いながらも、ジッちゃんに見られないようにニタリと笑った。
女性が一人で切り盛りしている小さな美容室。大きなポスターをガラス面に貼ると、中の様子がほとんど見えなくなった。
「やっぱり二枚並べて貼るのは無理があるかなあ」
経営者の女性が一人でつぶやいた。
「あら、何のお知らせなの?」
予約を入れていた常連客がやって来て、貼られたばかりのポスターを見上げる。
「満願神社の祭礼よ。二十年に一度行われるって、先日話してたでしょ」
「ああ、あれね。そういえば前回行ったわよ。露店目当てに」
そう言って茶髪の色が取れかかっている女性が笑う。今日はしっかりと染め直すための来店だった。
「あのときのリンゴ飴の味は忘れられないわよ」
「そうそう、今回もたくさん露店が出るらしいよ」
「楽しみでしょ。あなたは二十年前、お腹が大きくて行けなかったから」
「そうなのよ。リンゴ飴のおいしさをさんざん自慢されたものねえ。ほんと、くやしかったわ。でも、そのときの子供がこの満願神社で巫女さんとして働いているのよ」
「えっ、ミコちゃんが?」
「そうなの。さっきこのポスターを貼ってくれって持ってきたのよ」
「巫女さんて、そんなこともやらされるの?」
「そんなのはここの神社だけでしょうけど。何だか人手不足みたいでね。でも、露店だけじゃなくて、厳かな儀式とか、相撲大会とかいろいろあるらしいから、行ってやってね。ミコも神楽を舞うみたいだから」
「へえ、すごいねえ。でも、あのミコちゃんがもう二十歳か。私たちも歳を取るわけだ」
「一緒にしないでよ。私はまだまだ若いつもりだからね」
「私だって、きれいな茶髪に染め直すために来たんだからね」
お母さんは今までさんざん迷惑をかけられた娘が一人前になったような気がしてとてもうれしそうだった。先日、金髪を黒色の戻してやったと思ったら、巫女さんになっていたとは驚いた。あんたには真逆の職業だと友達に言われたらしい。お母さんもそう思うよと言ったら、すごい顔で睨まれた。ミコは案内ポスターを二枚つきつけると、さっさと帰って行った。神楽を舞うのだけど、絶対見に来ないようにと釘を刺されたが、絶対に行ってやろうと思う。一人娘の初舞台だ。店を臨時休業にしてでも、こっそりと見に行く予定だ。もちろん、二十年前に食べ損ねたリンゴ飴も忘れずに買おう。
「香川、おまえ何だかニヤニヤしてないか? 今から稽古なんだから気合入れろよ」
「そういうけど、小森の足取りも何だか軽やかじゃないか」
頬に大きな絆創膏を貼っている香川が言う。
「それに吉田を見てよ。もうあんなに先を歩いているし」
国常高校相撲部の三人は満願神社の新しい土俵で初稽古をすることになっていた。授業が終わると、てきぱきと支度を終えて神社に向った。いつも運動場の真ん中の心霊スポットで稽古をしている三人の夢は本物の土俵の上で相撲を取ることだった。
今日、その夢が叶う。
しかし、三人が楽しそうなのは、夢が叶うという理由だけではなかった。
「おーい、早くしろよ」
副主将の吉田は先に着いて二人を待っている。
「しょうがねえよな、吉田も」
小森は自分の軽やかな足取りのことも忘れてあきれる。
鳥居の下に三人が揃ったところでいっせいに一礼した。
「よお、相撲部の学生さん」
頭の上の方から声がしたので三人が同時に顔をあげると、木の上に庭師がいた。
「ああ、ジッちゃん!」香川が馴れ馴れしく呼びかける。
「今日からあの土俵で稽古だな」ジッちゃんが木の枝につかまりながら叫ぶ。
「はい、そうです! ジッちゃんがリフォームをして、ミコ先輩が砂を入れた土俵を汚さないように、不肖三人の相撲部員が懇切丁寧に使用させていただく所存でございます」
小森が変な敬語で答える。
「そうかね。せいぜい強くなって、当日の奉納相撲を盛り上げてやってくれ」
「はい!」三人が並んで坊主頭を下げる。
「それと、土俵に行く途中でいいことがあるぞ。楽しみにな」
ジッちゃんが大きなハサミで参道を指しながら笑った。
三人は以前ミコに言われた通り参道の端っこを歩く。真ん中は神さんが通るからだ。香川は灯籠に激突しないよう、特に注意をして歩いている。
突然、小森が素っ頓狂な声をあげた。
「おい、あれを見ろよ!」
吉田と香川が小森の指差す方向を見上げた。
そこには名前が書かれた旗がひるがえっていた。
「興行のぼりだ!」
参道の両脇に相撲場所で立てられているのと同じのぼりが色も鮮やかになびいている。
小森、吉田、香川、三人の分がちゃんと作ってあった。
――ガツッ!
自分の名前に見とれていた香川は灯籠に激突した。
「本格的だぞ、おい! 俺の名前は赤で、吉田が緑で、香川が黄色か。いい色だなあ。何だかプロの力士になった気分だなあ。こんなことじゃ、しこ名を考えておけばよかったなあ」
小森が細い目をさらに細めて見上げている。隣に立った吉田も顔を真っ赤にして喜んでいる。やっと立ち上がった香川も額を撫でながら、うれしそうな顔をしている。
ジッちゃんがいいことあると言っていたのはこのことか。
「ねえ、小森、吉田、知ってる?」香川がうんちくを語り出す。「のぼりの標準サイズは縦が五、四メートルで横が七十センチなんだよ。黒色で名前を書くと黒星につながるからダメなんだ。下に送り主の名前が満願神社って青色で書いてあるけど、下に書くスポンサーの文字の場合、赤色は赤字につながるから禁止なんだ」
「お前は相撲のことになるとよく知ってるなあ」小森が感心する。
「その知識を勉強に生かせたらなあ」吉田がつぶやく。
「そうだよね。ボク、ぜったい、学年で一番になれるよね」香川は自覚している。「でもさ、小森。これ作ってくれたのミコ先輩だよねえ」
「作ったのは業者だろうけど、発注してくれたのは先輩だろうな。俺たち三人の名前を知っているのは先輩だけだからな」
「今日はミコ先輩、見かけないねえ」
「なんだ、香川、気になるのか?」
「当たり前じゃないか。小森も吉田も先輩に会いたくてそわそわしてたじゃないか」
「なんだ、みんなそうだったのか」
「あの手作りまんじゅうがまた食べられるのかと思うと、ボク、生まれてきてよかったと思うよ。ああ、もちろん、稽古はがんばるけどね」
「大げさだな香川は。でも、美人の先輩を持つと苦労するねえ、なあ吉田。――あれっ?」
吉田はまた二人を置いて、スタスタと土俵に向って歩いていた。
「あいつ、一刻も早く先輩に会いたいんだぜ」小森がニヤニヤ笑う。
早足で歩く吉田の両脇では白地に黒文字の「神社のぼり」がたくさん風になびいていた。祭礼のために氏子たちが奉納したものだった。中には十メートルを越える立派なのぼりもあり、祭礼への大きな期待をうかがわせていた。
本物の土俵の上で三人の取り組みがつづく。稽古を始めて一時間。三人とも体中が砂だらけだった。しかし、今日くっついている砂は学校の運動場の安っぽい砂とは違う。お清めの塩がたくさん混じったありがたい砂だ。いつもは嫌そうに払いのける砂だったが、今日は厳しい稽古の証のような気がして、払わずにそのままにしてある。
なんだか高校球児みたいだなと、頭の先から足の先まで砂まみれの三人が笑う。
「よお、デブ三人! 相変わらず部員は三人か?」
三人はうれしそうに振り返った。こんなに言葉遣いが悪いのはミコ先輩に決まっているからだ。
案の定、白い上衣に緋色の袴をはいたミコがお茶とまんじゅうを山盛り乗せたお盆を持って立っていた。
「ごっちゃんです、先輩!」三人が叫ぶ。
「まあ、一息ついてくれ」ミコがお盆を持ち上げて見せる。
香川がさっさと土俵を下りてまんじゅうを目指す。
二番手の吉田が追い抜きざま香川を送り出す。
追いかけてきた小森が二人を豪快に押し出して、ミコの前で直立不動になる。
「本日よりこの土俵で稽古をさせていただくことになりました。これもミコ先輩のおかげです!」
先輩を独り占めされたくない吉田が小森を突き出す。
「興行のぼりをありがとうございました!」
「のぼり? ああ、旗のことか。よく出来てるだろう。この神社御用達の老舗店に頼んだんだ」
ふたたび突進して来た小森を吉田が肩透かしでよける。たたらを踏んだ小森は体勢を立て直して、逆に吉田を寄り切る。吉田はあきらめて隣で大人しく小森の会話を聞くことにする。
「最初にご挨拶をと思ったのですが、お見掛けしませんでしたので先に稽古を始めていたしだいです」
「堅苦しい挨拶なんかいいよ。稽古の方が大切だからな。ちょっと営業に行ってて、今帰ってきたんだ」
「営業なんかやってるのですか?」
吉田に勝った小森はまんじゅうをねらっている香川をけん制しながら訊く。小森にとってはまんじゅうよりもミコ先輩との会話の方が魅了的だからだ。
「ああ、祭礼のポスターを貼ってもらう場所をさがしてきたんだ。おかげで全部貼ってもらったぜ。行きつけのバイク屋に、行きつけの革ジャン屋に、行きつけの木刀屋だ」
「何だか、先輩の人柄がにじみ出てますねえ」
「美容室にも行ったけどな」
「それは違和感があります」
「何だと!」
「す、すいません。平に、平に」
小森が小さくなって謝る。吉田と香川も連帯責任として頭を下げる。
「あたしの母親の店なんだ」
「えっ、御母堂様がご経営されている……」
「御母堂というツラじゃねえよ。オカンだよ、オカン」
香川が一歩前に出て、
「ボクたち美容室には縁がなくてすいません!」と坊主頭を下げる。
「まあ、気にするな。固定客がついてまずまず儲かってるらしいから。それに学生服を着た坊主頭のデブ三人が来たらオカンも困るだろうしな。それよりも香川、頬の絆創膏はどうした?」
口ごもる香川の代わりに吉田が答える。
「こいつ、部員の勧誘のときに張り手を一発喰らってブッ飛んだんです」
「なんでそいつを相撲部に入れないんだ?」
「ですので、そいつが学校で小森の次にデカい杉田さんでして……」
「なんだ。女子を誘ったのか!?」
「ミコ先輩が女子でもTシャツ着せてやらせろって言うから」
「冗談に決まってるだろ!」
「えっ!」
本気にしていた三人がそろって驚く。
気を取り直した香川がうつむき加減で話す。
「あのう、優勝商品のことも話したんですけど、怒って張り手をかまされました。捕り逃がした魚は大きいです」
「はあ? 優勝商品は米一俵だぞ。米一俵をもらえるから相撲大会に出ないかと誘われて、喜んでついてくる十七歳の純情乙女がいるか? しかも経費節減のために送料は出せないんだ。自分でかついで帰るんだぞ。米俵をかついだ女子高生なんか盗撮犯も狙わないぜ」
「すいません。乙女心は相撲心より難しいです」
「まあ、香川のツラじゃ女子には相手にされないだろ。イケメンでもいれば女子を騙して連れて来れるんだけどな」
「はあ、神主さんのようなイケメンだったらいいのですが」香川が肩を落とす。
「オッチャンはイケメンとまではいかないけど、整った顔してるからな。まあ、懲りずにこれからも勧誘はつづけるように。あたしの営業力で当日はわんさか人が集まるはずだからな」
「ごっちゃんです、先輩! 祭礼を盛り上げるために生徒の首に縄をつけてでも連れてくる所存です」
小森主将が高らかに宣言する。
「それよりか小森、早く気づけよ。さっきからこのお盆が重いんだ」
小森はあわててお盆を受け取る。まんじゅうが山盛りになったお盆は確かに重かった。
「じゃあ、頼むぜ。あたしはこれからお神楽の練習があるから」
ミコが緋色の袴のすそをひるがえして颯爽と去っていく。
香川はハイスピードでまんじゅうに手を伸ばすと、
「うん、うまい!」
たちまち元気になってミコの後姿に叫んだ。
「ミコ先輩ーっ! 相変わらず手作りまんじゅうには先輩の愛がこもっててうまいです!」
ミコが不思議そうな顔をして振り向いた。
「えっ、あたしの手作りじゃないよ! ここを出て左に行ったところに趣月堂っていう甘味屋があるじゃん。そこのおばあちゃんの手作りなんだよ。まんじゅう一筋六十年だからうまいはずだぜ」
三人は口からまんじゅうを噴出しそうになったが、ミコがしっかり見ていたのであわてて飲み込んだ。
まんじゅうはいつもより塩っぱかった。
早朝、白い手袋をはめた若は賽銭箱の後ろにある鍵を開けて中身を確かめた。たくさんの小銭に交じってお札が数枚入っている。お賽銭集めは毎朝行っていることで、お金は麻の袋に入れて社務所に持って帰って、備え付けの金庫に保管する。
若は中を覗き込んで怪訝そうな顔をした。
――約束が守られてない。
あの男、確か木川といったはずだ。そうだ、木川勤次……。男の名前をフルネームで言えたのには訳があった。賽銭箱の底に名刺が一枚落ちていたからだ。若は名刺を拾い上げた。
名刺があるだけで約束のお金は見当たらない。一万円札が数枚入っているだけで札束はない。要求する金額は決めていない。一週間で用意できる限界が相場だと言ってある。まさか、一万円しか作れなかったはずはない。取りはぐれのないように身なりのいい人物を狙っているのだから。確か、木川は高級そうなスーツを着ていたはずだ。
「振り向かないであなたの名刺を三枚渡してください。くれぐれも他人の名刺を渡さないでください」
木川は言われた通り名刺を後ろ手に差し出した。お金の要求にも素直にしたがった。ときどき退職しているにもかかわらず、未練があるのか、記念として取っているのか、以前勤務していた会社の名刺を何枚も大切に持っている男がいる。そんな人にはお金の話をすると、正直に事情を話してくれる。
実は既にこの会社は辞めていて、今は無職なので都合がつかない。今から再就職の面接に行くのでいい格好をしている。だから、お金は勘弁してください。
リストラされて求職中だったりする人からはお金は受け取らない。そのまま帰すことにしている。ほんとうは説教の一つでもしてから解放してやりたいのだが、そんな時間はない。さっさと朝の仕事を終えて、神社で本来の神職としての仕事をしなければならないからだ。
木川は名刺から大手電機メーカーに勤務していることが分かった。確かにそのメーカーは数百人規模のリストラを敢行していたが、木川はその対象ではない役職者だった。つまり、社員を切る側だ。しかも、スーツの胸にはちゃんと社章がついていた。
勤務していることは間違いなかった。辞めているのにバッジをつけている人はいないからだ。家族もいると言っていた。嫁入り前の娘が二人いるとも言っていた。
「だから、お金は作るので、このことは他言しないでください」
彼は涙声でそう懇願した。
一週間あれば、ある程度のお金が作れるはずだ。賽銭箱の中に名刺があるということは、約束をすっぽかしたのではなく、ここにちゃんと来ているということだ。
そして、昨日の夕方、ミコさんは帰り際に、オッチャン、風呂敷包みは渡しておいたからと言っていた。風呂敷の中身は笙(しょう)――中国から伝わった管楽器だった。
それは受け取ったらしい。それとなく、ミコにさんに訊いてみたが、男は確かに賽銭箱の前に立ち、鈴を何回も鳴らしていたという。お金を入れないで鈴だけ鳴らして帰ることはしないだろう。つまり、名刺だけ残して中のお金だけが消えていたのだ。
いったい誰が? どうやって?
若は賽銭箱を見下ろしながら、しばらく立ち尽くした。
ゲーセンの店内ではいろいろな電子音が聞こえてくる。ユウはそれが嫌いだった。背が低いため、自分の頭の上で音の波が交錯しているように聞こえるからだ。
自然の音や動物の声なら許せるけど、人間が作った人工音に押しつぶされたくないと思う。だから、ゲーセンは嫌いだ。ときどき、二階にプリクラを撮りに来るが、用が済んだら一階のゲームコーナーを素通りしてさっさと帰る。横にいる彼氏のシンはそんなこと全然気にならないし、考えたこともないという。
そりゃ、シンは背が高いから分からないんだよと言っても、そんなの考えすぎだよ。ここは悩む場所じゃなくて、楽しむ場所だよと言って笑う。
シンが腰をかがめてユウの耳元で囁いた。
「ほら、あそこ」
背伸びをして見た先には、ユウのお父さんがいた。
お父さんが毎日ゲーセンに現れて、太鼓の達人をしている。人の顔を覚えるのが得意なシンが目撃したのだから間違いない。でも、ユウには信じられなかった。あんな堅物なお父さんがゲーセンに行くか? 何の趣味もなく、仕事一筋で生きてきたお父さんがゲームをするか? 悩んだ末に、自分の目で確かめることにした。
自分の目の前にお父さんがいた。太鼓の達人の前に立って、上着を脱いだとたん、周りから人々が集まってきた。お父さんの腕前を見ようというのだ。
お父さんはこんなところですっかり有名になっていた。
やがて、バチ袋から一対のバチを取り出すと、両足を広げて、大きく構えた。目を大きく見開いて、口を真一文字に結んだお父さんなんか、家では見たことがない。
店内に太鼓の音が響く。画面に音符が映し出される。
赤の音符は太鼓の面を叩く。
ドン、ドン、ドン。
青の音符は太鼓の縁を叩く。
カン、カン、カン。
黄色い音符は連打だ。
ドン、ドン、ドン、カッ、カッ、カッ。
大きい音符は強打する。
ドカン、ドカン、ドカン。
お父さんが白髪交じりの頭から汗を飛び散らせながら、両手で連打する。周りには大きな人垣ができている。店の中にいるほとんどのお客さんが集まっている様子だ。お父さんに向って、若者たちの声援が飛び交い、最高に盛り上がる。
シンを見上げると、同じように声を張り上げて応援している。
「どう? ユウのお父さん、すげぇだろ」
――確かにすごい。
真面目が服を着て歩いているようなお父さんがあんなことになっているのだからすごい。会社でもいいポストにいるお父さんは、上司よりも部下の数の方が多いらしい。その部下たちは、お父さんのこんな姿は知らないだろう。お母さんに見せたら、きっと卒倒するだろう。
「大達人も夢じゃないよ」
「何、それ?」
「平均百万点出せたら大達人の称号がもらえるんだ」
「お父さん、それ目指してるのかなあ」
ユウは複雑な気分になる。喜んでいいのか、悲しんでいいのか。
やがて、お父さんは周りで応援をしてくれていた若者に向って、イエーイ! と叫んでゲームを終えた。万雷の拍手がお父さんを包み込む。
「いいぞ、おっさん!」「よっ、中年の星!」
お父さんはますます調子に乗って、体をクルッと一回転させたり、投げキッスを送ったりしている。
ユウは見つからないように、こっそりと逃げ出した。
やっぱり見なかったことにしよう。
シンがあわてて追いかけて来たけど、無視してダッシュした。シンと一緒に追いかけてきた電子音の波も振り切った。
あんなお父さん、全然、格好よくないよ。大達人なんて、勝手になればいいじゃん。
カウンターの上に置かれた木彫りはアニキが言う通り、どう見ても首が細いアヒルにしか見えなかった。しかし、隣から自慢げにこちらの表情をうかがっているスコットの顔を見ると、そんなことは言えなかった。
「うん。どう見てもネッシーだ」
「ジュンさん、ありがとうございます。私が心を込めて彫りました」
スコットはうれしそうに笑う。
見習いヤクザのジュンはウソをついてよかったと思った。
「これ、水に浮かべたらどうなるんだ?」
「はい。ちゃんと首と背中の一部だけが水面に出て、本物のネッシーのように見えます」
「へえ、すごいじゃん」マジで驚いた。「そこまで計算してるんだ。お前は体がデカイくせに手先は器用なんだな」
「試行錯誤の末に完成させました」
「なんだ、難しい四字熟語を知ってるな」
「はい、日本に来てますます日本が好きになったので、いろいろな本を読んで、いろいろな言葉を覚えているのです。きっと見習いのジュンさんよりも漢字を知ってますよ」
スコットはそう言って笑った。
貧乏な組のメシの種だった末端価格四億円の覚せい剤を仕込んだ仏像を盗んでいった東南アジア系窃盗団は、いずれどこかの港からその仏像を本国に送り出す。アニキからその港を見つけて、仏像を奪取しろと言われたスコットであったが、一日中駆けずり回っても、一向に埒が明かなかった。
早くしないと持って行かれちまうじゃねえか!
アニキの怒号が昨日もスコットを直撃した。
しょんぼりして大きな体を小さくしているスコットを見かねたジュンは気分転換にと彼を食事に誘った。朝っぱらから牛丼はどうだろうかと思ったが、外国人だから朝からでも肉をジャンジャン喰うだろうと行きつけの牛丼屋にした。入り口の横には、スコットが宿泊先のアルバイト生から借りてきたという自転車が停めてある。
スコットが組に面接に行ったとき、ジュンは不在だった。使い走りをさせられているため、よく出かけるらしい。ある日の夜、その日の日当を受け取りに行ったとき、階段から下りてくるジュンに出会った。
なんでこんな場所にハイスクールスチューデントが?
労働基準法に違反しているのではないか?
ボスに訊いてみると、彼も組のメンバーだと分かった。
「デカい外国人から見ると子供に見えるかもしれんな」ボスは笑った。「あいつは童顔を気にしてるから面と向って言うなよ」と釘を刺された。
その童顔は派手な紫色のスーツを着て、金のネックレスと金のブレスレットを周りの客に見せつけながら隣に座っている。スーツはボクが探している風呂敷と同じ色だと思った。
木彫りのネッシーを眺める二人の前で、注文を待つ店員がメモ用紙を持ったまま黙って立っている。しだいに朝定食目当ての客が増えてきたため、急かそうと思ったようだが、ジュンのいかにもヤクザでございますといったファッションと、得体の知れない大きな外国人を見て、黙って待つことにしたようだ。周りの客も二人を避けて座っている。店内で二人だけが孤立した存在のように浮き上がって見えていた。
「ああ、俺はあまり腹が減ってないか並みでいいわ」
ジュンが首から下げた金のネックレスをもてあそびながら、目の前の男性店員に言う。
「はい。牛丼の並がお一つと……」
店員が注文を繰り返そうとしたとき、スコットが割り込んだ。
「今のはキャンセルにしてください。牛丼の特盛とお味噌汁と卵とお漬物を二つずつください」
ジュンが驚いて言う。
「おい、待てよ。お前……」
「いいんです。見習いのジュンさんはボクのことを心配して、ここに連れてきてくれたのでしょうから」
「だったら、俺がおごるべきだろう」
「いえ、見習いのジュンさんのその気持ちがとてもうれしいので、ボクにご馳走させてください」
「あのなあ、こう見えても俺も日本のヤクザの端くれだぜ。外国人に施しは受けん」
「店員さん、それでお願いします」スコットはジュンを無視して言う。
店員は二人にあまりかかわりたくないため、さっさと注文を通して、次の客の元へ行ってしまった。
「それに、見習いのジュンさんはボクのネッシーを褒めてくれました」
スコットは大きな手に上にネッシーの木彫りを乗せる。
「このネッシーがあまりうまくできていないことは、ボクが一番よく知ってます。うまくできていれば、もっと売れていたのですから。でも、見習いのジュンさんは褒めてくれたのです」
「ああ、分かったよ。分かったから、見習いと言うのだけはやめてくれ。確かに見習いだけど、ジュンでいいよ」
やがて、二人は運ばれてきた牛丼に生卵をかけておいしそうに食べはじめた。
「スコット、箸の使い方、うまいじゃん」
「ああ、これですか。漫喫にあったビデオを見て覚えました」
「そんなビデオがあるのかよ」
スコットは答える代わりに割り箸をカチカチと交差させて得意げに笑った。
「それにお漬物も大好きになりました」
そう言って、シャキシャキと漬物を食べる。
ジュンはこいつのためにも早く窃盗団が見つからないかなあと思う。
「なあ、スコット。毎日、一生懸命に奴らを探してくれてるじゃん」
「はい、でも、全然見つかりません」
「きっと見つかるって。お前が小さくなっているのを見るのは嫌なんだよ」
「ジュンさんはやさしいです」
「そうか。でもよ、残念ながら、やさしい奴は俺たちの世界じゃ出世できないんだ。だから見習いなんだよな」
ジュンは自虐的な笑いを浮かべて、牛丼をワサワサとかき込む。
「なんだかスコットを見ていると俺自身を見ているようでさ。だから、がんばってほしいわけ。お前は俺と違って男前だし、背も高いし、英語もペラペラじゃん。ファイト出せよ」
「はい、ありがとうございます。ファイトとコンジョー出してがんばってみます」
スコットは食べ過ぎた紅しょうがの辛さに顔をしかめながら、ジュンに感謝をする。
「今日は自転車に乗って、隣の町まで足を伸ばそうと思ってます」
「そうか。アニキのためにも頼むわな。俺も一緒に行ってやりたいけど、今日は百舌さんの仕事を手伝わなきゃならないからな」
「とても怖い顔をしたナンバー2の人ですか?」
「ああ、若頭と言うんだ。でもな、百舌さんは怖い顔を気にしてるから面と向って言うなよ」
ボスに言われたことと同じようなセリフを言われた。
目の前にいる童顔と怖い顔。組のメンバーは魅力的だ。
デジャ・ビュというフランスの国の言葉を思い出す。確か、デジャ・ビュの逆の言葉もあったが思い出せない。あの国の言葉は難しい。のどの奥から音を出さなければならない。以前、マネしてやってみたが、咳き込んだだけだった。
「二人で金を回収する仕事をしてるんだ。でもな、百舌さんは口下手だから俺の横で立ってるだけ。俺が、金返せ、この野郎って怒鳴っている横で、黙って睨みつけてるんだ。怖いぞ、あの顔だもん。そのうち、すごい剣幕で怒り出すんじゃないかって、相手はビクビクしてるわけ。そのうち、百舌さんがタイミングを計って一歩前に出るんだ。とたんに、すいません、払いますだよ。笑っちゃうぜ。そうやって二人で役割分担したら、ほとんど回収できるんだ」
ジュンは得意げになって話すが、所属する自分の組も資金繰りが難しく、取り立ての桃竜組長が来ていることを、スコットは知っている。
「ありゃ、百舌さんの天職だな。無表情でぐっと睨むだけだけどな。俺もみんなも百舌さんが笑うところ見たことがないんだぜ。――でもな、百舌さんも過去にいろいろあったみたいで、本当はかわいそうなんだ」
とぼけているボス。笑わない百舌さん。よくしゃべるジュンさん。スコットは変わった同僚に囲まれていると思った。
そろそろ店を出ようというとき、ジュンがスコットのズボンの後ろポケットに入れている文庫本を見つけた。
「何を読んでるんだ?」
スコットは大事そうに本を取り出してカウンターに置く。
“枕草子”
「まくら くさこ。変わった名前の女だな」
「はい、まあ。あの……」
スコットはそれがジョークだと思った。しかし、ジュンの目は本気だった。どっちか分からない。ここで笑ってしまうと怒られるかもしれない。いくらハイスクールスチューデントと見間違えるほどのベビーフェイスでも、ジャパニーズマフィアのメンバーだ。怒ったら怖いのだろう。こんなところで暴れ出したら困る。応戦する武器は牛肉をすくうお玉くらいしかない。しかたなく、“まくら くさこ”で妥協する。
ジュンは百舌さんと待ち合わせているからと急いで帰って行った。
スコットは道路の左端を自転車で走りながら思った。
枕草子を知らない日本人なんているのか?
ハリーポッターを知らない英国人みたいなものじゃないか?
振り返ると紫スーツのジュンは道の右端をガニ股でノッシノッシと歩いていた。
自転車は左側を走って、人は右側を歩く。そのルールは祖国イギリスを見習って日本が導入したものだった。
三十分後、スコットは百貨店の商品搬入口にいた。朝っぱらから牛丼の特盛を食べて、大急ぎで自転車をこいだのでお腹の辺りが気持ち悪い。外国人だからといって、朝から肉ばっかり食べているわけではないのだ。それに朝からパンじゃなくて、あまり食べ慣れていない粘着性がある白米だったから、余計にお腹に重く感じる。
しかし、そんなことは言っていられない。ここは仏像を専門とする東南アジア系窃盗団が現れる可能性が高い場所だと睨んでいるからだ。そして、そのチャンスは今日しかないはずだ。
盗まれた仏像を求めてあちこちを訪ね歩いていたスコットだったが、手がかりであるパープルの風呂敷包みの木箱や二階建てサルーンの大型観光バスなどは見つからなかった。
いや、こんな少ない情報で見つかる方がおかしい。
ジャパニーズマフィアの本部でも見つけられないのだから、ボクが見つけられるわけない。
数日間、海辺の港町をトボトボ歩いていたが何ら進展もなく、気が滅入るだけだったので、気分転換にと街中に繰り出してみた。そこで、仏像展があることを知った。ある百貨店のビルの屋上から、“国宝 重要文化財級 仏像展開催中”という垂れ幕が下がっているのを見つけたのだ。難しい漢字ばかりだったが、仏像の大きな写真が載っていたので分かった。
八百円の入場料が痛かったので、入り口付近にしばらく立って中を覗いていたが、意外に大勢の人で賑わっていて、マスコミも何社かが取材に来ていた。
これだけ目立っているなら、窃盗団もこの仏像展のことを知っているはずだ。そして、開催期間が終わると高価で大切な仏像たちは、すぐに撤収されて運び出されるに違いない。
そう考えたスコットは期間最終日の翌朝、百貨店の商品搬入口で張り込むことにした。
どこかのお寺か博物館から借りていた仏像を返すために、ここから運び出されるのではないか? もし、窃盗団が故郷のオークションに間に合わせるように、手っ取り早く仏像を盗むとしたら格好の場所じゃないか?
もちろん、ここで奴らを生け捕りになんかはできないし、盗まれた仏像を持ってノコノコとやって来ないだろう。しかし、後をつけてアジトを突き止めることはできる。見つけたときはボスに報告して、あとはお任せしよう。それでも、何らかの謝礼はくれるはずだ。
スコットは漫喫のバイト生のカンちゃんから自転車を借りてここにやって来た。
搬入口は百貨店の裏側の大きな道路沿いにあった。向かいに大きな郵便局があったので人通りは多い。何台ものトラックが荷物の積み下ろしをしていて、百貨店の従業員が大声で指示を出したり、自ら運んだりしている。
スコットは脇にある電信柱の陰に隠れて黄色い色のトラックを待った。
ボスから貴重な情報だといって、もったいぶりながら教えてくれたことがある。
「よく聞けよ、異邦人。仏像を運ぶには細心の注意がいる。梱包するにも特殊な技術がいる。だから、その辺の運送屋じゃできないんだ。以前、テレビで仏像を運んでいるのを見たことがあるんだが、そのときは日本を代表する黄色いトラックの運送屋だった。これを参考にするんだ」
ボスの情報は心もとなかったが、黄色いトラックを待ってみることにする。回りを見渡してみたが怪しい人物はいないようだ。道行く人たちはクリスマスでもないのにみんな忙しそうだ。日本人はなぜこんなにセカセカしているのだろう。そんなに急いでどこへ行くのですかと、一人一人に尋ねてみたい衝動に駆られる。
そんな中、先ほどから郵便ポストの横に背の低いおじさんが立っていた。ポストと同じくらいの身長だから日本人の中でもとりわけ背が低い方なのだろう。五フィートもないようだ。釣りに行くのだろうか。ポケットがたくさんついたベストを着て、肩には釣竿が入ったと思われるケースをかついでいる。しかし、不思議なことにクーラーボックスの類は持っていないようだ。
釣った魚はどうするのだろうか。そのまま逃がすのだろうか。キャッチ・アンド・リリースをするのだろうか。
――ああ、分かった。きっと、待ち合わせだ。ここに友人が車でやって来て、あのおじさんを乗せて行くのだろう。その友人がバッグを持っているのだろう。きっと、そうに違いない。日本は海に囲まれているから釣好きな人も多いのだろう。
スコットは自転車にまたがりながら、あたりを観察し、あれこれと想像をして楽しんでいた。
どのくらいの時間が経過しただろうか。牛丼を特盛で食べたはずなのに、お腹が減ってきたと思った頃、幌付きの黄色い大型トラックがやって来た。
――あれだ! ボスが言ってた特殊な技術を持った運送屋さんだ。
助手席から一人の若者が下りて来て、方向転換をしたトラックの誘導を始めた。バッグから入り込んだトラックの周りを、別の車で駆けつけた運送会社の社員と、搬入口から出てきた百貨店の社員らしき男たちと、数人の警備員が取り囲んで、あたりが物々しくなる。
スコットは自転車から下りて近づいて行った。
やがて、百貨店の搬入口の奥から白い布でグルグル巻きにされた大きな物体が運び出された。
――やっぱり仏像だ!
大きい仏像は木箱になんか入らないので、そのまま包んで運ぶんだ。死んだ人を包帯で巻いたような感じで、何だかミイラみたいだ。死んだ人のことを仏さんと呼ぶのだったか?
だったら、これで違和感はないわけか。
数人がかりで慎重に運ばれる仏像をスコットは傍らで興味深げに見ていた。
すると、運転席から下りて来た男がスコットを見てギョッとする。
二メートル近い長身の金髪外国人がのそっと立っていたら、誰でも驚くだろう。
「ハロー!」しかし男は親しげに挨拶をしてきた。今から大変な仕事だというのにリラックスしている。
「ハロー!」スコットも笑顔で答える。
そして、白い布で包まれた物を指差して、仏像ですか? と尋ねてみる。
「あっ、日本語できるんだ。――その通りだよ。仏像は好き?」
「はい、大好きです」
「へえ、変わった外国人さんだねえ。そんなデッカイ図体なんだから手伝ってもらいたいけど、壊れちゃいけないからね。そこで大人しく見ててね。――さあ、気合入れていくかー!」
そう叫ぶと、運転手さんも運搬を手伝うために仲間の元へ走って行った。背中に会社名が横文字でプリントされている。
スコットは数人の男たちが仏像をトラックに積み込む様子を眺めながらも、窃盗団が現れないかと、さりげなく辺りを見渡していた。しかし、二階建ての大型観光バスがやって来る気配はない。
釣りスタイルの小さなおじさんは相変わらずポストの横に立って、友人を待っているようだ。
やがて、二人の男性がこちらに向って歩いてくるのが見えた。中年の男性と年配の男性の二人だ。彼らの視線は一直線で長身の外国人に向っている。
スコットは直感でポリスだと思った。
――やばい!
いや、やばくないか。
何も悪いことはしてないんだから。ボクは何もしてないのに、お巡りさんを見ると緊張をしてしまうが、日本人はどうなのだろう。やっぱり、警察署とか交番の前は足早で通り過ぎるものなのかなあ。パトロールカーを見るとドキッとするものなのかなあ。――だけど。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
「こんにちは」年配の男性が警察手帳を見せながら言った。「警察ですけど、ここで何をしてますか?」
ほら、やっぱりポリスだ。ピンポーンだ。
日本人は何かが的中したときに、“ピンポーン”と言う。卓球という意味ではないらしい。辞書には載っていない不思議な言葉だ。同じ意味の言葉に“ビンゴ”がある。これは何となく分かったし、辞書にも載っていた。“大当たり”“やったぞ”と書いてあった。でも、今はそんなに喜ぶべき状況ではないのだが。
スコットは、ここ数日、いろいろな人に盗まれた仏像の聞き込みをしていた。中には嫌な顔をしたり、怒り出したりする人もいた。そんなときは、日本語が分からないフリをして逃げるという手を思い付いた。
「WHAT?」年配の刑事の目を見つめて言ってみる。
「えっ、日本語は分からない? えー、あー、ホワッチュ・ア・ネーム?」
スコットは驚いた。刑事さんの英語の発音が完璧だったからだ。
ボクの故郷の素晴らしいキングズ・イングリッシュ!
「マイ・ネーム、あっ……」
釣られてフルネームで名乗るところだった。危ない、危ない。
わざと大げさに首をかしげて、あなたの英語は理解できませんとボディーランゲージで主張した。年配の刑事は困った顔をした。ちょっと良心が痛んだ。
あっ、そうだ。これを見られちゃマズイ。
スコットはズボンの後ろポケットに手をやって、覗いていた文庫本をさりげなく隠す。
まさか、お巡りさんなら知っているだろう、枕草子の本だ。日本語の読み書きはできますがしゃべれませんという言い訳は通用しないだろう。英語の読み書きはできますががしゃべれませんという日本の学生じゃないんだから。
次に中年の刑事が話しかけてきた。
「この自転車はあなたのものですか?」
日本語が分からないフリをしているというのに、しつこく訊いている。日本のポリスは仕事熱心だ。ドイツのポリスみたいに真面目だ。しかし、答えるわけにはいかない。この自転車は借り物だからだ。
中年の刑事は自転車の脇に屈みこむと年配の刑事に言った。
「照会してみますか?」
「ああ、そうだな。頼む」
年配の刑事は無線機に向って言った。
「自転車の防犯登録番号の照会をお願いします」
スコットは焦った。
これは自分が寝泊りしている漫喫のバイト生のカンちゃんから借りてきたのものだ。もちろん、了承を得たものだが、盗んできたと勘違いされたらどうしよう。今更、日本語で弁解すると、なぜ、今まで言葉が分からないフリをしていたのかと問われるかもしれない。
中年刑事がステッカーを読み上げる。
「えーと、いきますよ。あー、ダメだなあ。老眼で、よく見えんな。最初は2かな。2ですわ。次は5だな」
「あ~、もしもーし。え~、最初は2。次は5」年配刑事が復唱しながら無線機に告げる。
スコットの白い顔が青くなっていく。
どうしよう。どうしよう。
そのうち、緊張して赤くなってくる。
ボクがもし日本人だったら、黄色人種だから青赤黄と三色そろって信号ができあがる。
ああ、そんなこと考えているヒマはないんだ。警察に連れて行かれるのかなあ。すぐに解放してくれるのかなあ。せっかく得た仕事なのに、警察に捕まったとなると、きっとクビだろうなあ。ボスもみんなも警察は嫌いだろうからなあ。こうやってボクが焦ってることを二人のポリスは気づいているのだろうか。
スコットは思わず出そうになる貧乏ゆすりを何とか止めて冷静さを装っていた。
「6……、4……」
次々に数字が読み上げられていく。
どうしよう。どうしよう。
そのとき……。
――ヒュン!
何かの音がした。
――シュル、シュル、シュル。
何だろう?
スコットは刑事のことも忘れて周りを見渡した。
そして、空を見上げたとき、何かが光った。右から左へと何かが一直線に伸びている。やがて、左の視覚内に白い小さな物が飛び込んできた。
「刑事さん、お取り込み中、申し訳ありませんが、あれをご覧くださいませ」
中年刑事がスコットを見上げる。
「あんた、日本語がしゃべれる……」
しかし、スコットのさらに上を見上げて、口をあんぐりと開け放った。
仏像の入った木箱が空を飛んでいたからだ。
その飛んで行く先を見て、「あっ、かなちょろ!」年配の刑事が叫ぶ。
中年の刑事も我に返って叫ぶ。
「てめえ、生きていやがったのか!」
叫んだ相手は郵便局のポストの前にたたずんでいた釣りスタイルのおじさんだった。
おじさんは両足を踏ん張って釣竿で仏像を手繰り寄せていた。
あの距離から木箱に針を命中させて、一気に釣り上げるとは。あんな小さな体のどこにそんなパワーがあるというのだ。
スコットは青い目を白黒させて驚いている。
――ブーン!
木箱が道路の上を横切る。
やがて、かなちょろと呼ばれたおじさんの元に猛スピードで釣り上げた仏像が飛んで行った。
「おい、逃がすな!」
「こらーっ、刑事の頭ごしに物を盗むとは何事かーっ!」
二人は道路の反対側に向って駆け出した。
――バシッ。
「大漁、大漁! ほっほっほーっ!」
おじさんは奇声を発しながら白い布で包まれた小さな箱を見事にキャッチして、一目散に逃げ出した。――早い、早い。
騒動を聞きつけて、運送屋さんも百貨店の店員も警備員も、やっと仏像が盗まれたことに気づき、かなちょろの後を追い始める。しかし、日頃の運動不足が祟ってか、遅い、遅い。
かなちょろは木箱を脇に抱えて走りながら釣竿をケースに仕舞うほどの余裕を見せている。
一人取り残されたスコットは、今になって、なぜあのおじさんがクーラーボックスを持っていなかったのか理解した。必要がないし、獲物の他に大きな荷物を抱えたまま走れないからだ。とりあえず、かなちょろという人のおかげで警察には連行される心配がなくなってホッとしていた。しかし、おじさんの後を追おうとはしない。窃盗団は東南アジア系と聞いているが、あの人の顔はどう見ても日本人だ。それに二階建ての大型観光バスなんかには乗らず、走って逃げて行ったからだ。
たぶん、別の窃盗犯だろうな。
日本人は器用だと聞いていたが、あんな芸当ができるなんて。でも、あのおじさんはきっと逃げおおせるだろうと思った。
そして、スコットは数時間後、自分の予想が当たっていたことに気づく。夕刊に大きく報道されていたからだ。
“前代未聞! 仏像を釣竿で釣り上げて盗み出す”
“道路を渡り、伸びていく釣り糸”
“その先には重要文化財に指定された仏像が”
“木箱を抱えたまま徒歩で逃走”
容疑者は“かなちょろ”と異名をとる盗みの常習犯だった。
そして、スコットは辞書を引いてみて、“かなちょろ”というのが、金色(かないろ)の体をしたカナヘビ科のトカゲの異名だと知った。
~後編につづく~
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる