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トリイ・ストーリー ~後編~
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「トリイ・ストーリー」 ~後編~
~前編からのつづき。
お寺の門を山門と呼ぶ。お寺が山の中になくても山門と言う。平安時代、町中の仏教が衰退を始めたとき、危機を抱いた密教系の僧侶たちは修業の場を人里離れた地に求めて、山の中に寺院を建立し、しだいに栄えていった。それに倣って、町中の寺の門も山門と呼ぶようになったからだ。
二望寺の山門は手入れがされないまま荒れ果てていた。木の柱にはひびが入り、引っかき傷や落書きの跡が目立ち、周りの雑草も伸び放題になっている。寺を守るはずの仁王像は色が落ち、ヒビが入り、いかついどころか、返って哀れに見える。
四人のニセ山伏たちは山門の下で一礼をすることも合掌をすることもなく、ズカズカと寺内に入り込んだ。中の草花は枯れ果てていた。木々も元気がなく枝がやせ細っている。その異様な光景に声も出ない。
そして、傍らにある手水舎の中を覗き込んで顔をしかめた。手と口を清めるはずの水が干からびて一滴も入ってなかったからだ。代わりに緑色と茶色が混在した苔がビッシリと繁殖していて、小さな虫が多数飛び交っている。
さらに四人は本堂を見て愕然とする。
建物全体が金色に塗られていたからだ。
仏のことを金人と言う。そのため、本堂を金堂とも呼ぶ。
「金堂を本当に金色にするとは悪い冗談だ」金髪の東王が嘆く。
「ふん。うわさ通りだったというわけか」長髪の南王がつぶやく。
「フミ殿もご趣味が悪い。なぜ、こうなったかのう、北王よ」坊主頭の西王があきれる。
北王と呼ばれたのは、ミコがアマガエルと称した大きな四人の中でとりわけ背が低い山伏だ。しかし、ジッちゃんの見立て通り、この男の念が一番強く、他の三人が束になってもかなわない。
「まあ、そういうな。あの女の悪趣味は今に始まったことじゃない。それに仕事が終わったらたんまり謝礼をもらってさっさと帰るまでよ。次の祭礼は二十年後よ。あの女も生きてないだろ」
リーダー格の北王は四人の雇い主である女住職のフミをボロカスにけなす。そして、呆れる。
「隣の神社に逆恨みをしているんだ、あの女は」
「まさか、神仏判然令のことを言っているのか」東王が北王に問う。
「そうだ。明治に起きたことをまだ根に持っておる。もちろん、本人はまだ生まれとらんかったが」
江戸幕府が崩壊し、明治の時代になったとき、政府は天皇を神格化し、天皇の元、国民を統一して国家の近代化を図ろうと計画した。そのために、神と仏が入り混じっていた風習を改めて、どちらを選ぶように強制した。その際、神を仏の上に位置付けたため、一部の民衆は仏教を排除するものと勘違いし、寺院を襲い、仏像を破壊して回った。これを廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)という。その結果、全国の寺の約半分が廃寺になったと言われ、無理矢理、神社へと変更させられた寺院もあった。
そして、ここ二望寺もその標的にされ、たくさんの仏像や経典を略奪、焼却され、寺院もあちこちを傷つけられた。しかし、何とか廃寺は免れ、かろうじて存続している。
その話を代々聞かされていた住職のフミは、こうなったのも神社が悪いと思い込み、満願神社が二十年に一度行う祭礼を何とか邪魔しようと企んでいた。それは前住職である今は亡き夫の悲願でもあった。
「しつこいのう、女というものは」
南王が笑うと、他の三人も釣られて笑った。
シャリン、シャリン、シャリン――。
四人は金色の本堂を目指して苔むした石畳の上をゆっくりと歩いて行く。ところどころ、石が剥がれ地面がむき出しになっているが、そのまま放置されている。錫杖の六つの輪の音が寺院内に響くが、誰も現れる気配はない。
――怨、オーン、オーン。
「北王よ。なんだこの邪気は?」南王が突然立ち止まった。
西王も東王も異変を感じて立ち止まって北王を見やる。
北王は眉間に力を込めて周囲を見渡した。
「――あれだ」
北王が指差したのは目の前に見えている大きな本堂の横のあたりだが、そこには何も見当たらない。
しかし、三人は北王が言う方向に念を向けた。
やがて、ぼんやりと邪気の正体が現れた。
「な、なんじゃ、あれは!」東王が大声をあげた。
南王と西王はあまりにも驚愕したためか声も出ない様子だ。
一人冷静な北王がつぶやく。「どうやら船のようだな」
我に返った西王が言う。「フミ殿はあんなものを作りおったのか」
――怨、オーン、オーン。
そこには一艘の船が置いてあった。異様な声はその船が発している。西洋の帆船をモデルにしたのだろうか、全長は五十メートル、高さは三十メートルほどあり三本のマストには大きな帆が張ってある。
現実にあるのではない。霊体船と呼ばれている船で、常人には見えない。修業を積んだこの山伏たちのような人物が念を凝らして初めて見えるものだ。
地縛霊や浮遊霊を組み合わせて作り上げる。材料は死んだ人間、つまりは仏だ。よく見ると何人もの素っ裸の人間が複雑に絡み合って船を形成していることが分かる。ところどころで霊体がいかにも窮屈そうにウネウネと動いている。すべての霊体はやせ衰え、あばら骨が浮き、顔は青白く、眼窩は窪み、髪は抜け落ちている。ここから出してくれと言わんばかりに、虚空に手を伸ばしたり、歯が一本も見当たらない口で何かを叫んだりしている霊もいる。
――ボォ、ボォ、ボォ。
三本のマストのてっぺんに火が灯った。とがった物の尖端に起きる発光放電で、セントエルモの火と呼ばれているものだ。
夕暮れ時の空に、三つのともし火がユラユラと揺れ出す。
さすがの四人も遠巻きに霊船をながめていた。
「これだけ大きいと気味が悪いな」東王が今にも嘔吐しそうな表情で言う。
「邪気がすさまじい」南王は目をふせている。
「北王よ、フミ殿はこれを使って何をするつもりだ」西王も嫌な顔をして問う。
「前回は満願神社の地下にミミズの大群を送り込んで散々な目にあったらしいからな。今回は小細工なしで、この霊体船ごと真正面から突っ込んでいくのだろう。――それにしてもこれだけの霊体をよく集めたものよ」
「この寺の墓地から掘り起こしたものか?」
「いや、それだけじゃ足らんだろう。あちこちの墓地に行っては、かっさらって来たものだろう」
「老婆一人でここまでできるものなのか」西王が問う。
「もちろん、朽ち果てた肉と骨を掘り出すんじゃない。墓地の周辺からでも念を飛ばせば、霊体だけを引き出せる。この私でも可能だが、相当の念力を必要とする。それと邪気にやられた草花を見たろ。あのアマ、また霊力を向上させやがった」
西王はフミが必死の形相で墓の下からやせ衰えた霊体をズルズルと引き抜く様を想像して顔をしかめる。
「ふん。邪霊に魂を売ったのだろうよ」東王が吐き捨てるように言う。
――怨、オーン、オーン。
フミに無理矢理連れて来られた霊たちが四人を見つけて騒いでいる。
ここから出してくれと騒いでいる。早く帰してくれと騒いでいる。
やはり静かな墓地の方が、気が休まるのだろう。しかし、霊体同士がビッシリと組み合わされて身動きは取れない。かろうじて動かせる手を伸ばし、空に向って叫んでいる。
――怨、オーン、オーン。
それは泣いている声にも聞こえる。恨みの声にも聞こえる。しかし、この声も常人には聞こえていない。さすがの四人もいたたまれなくなり、集中していた念をはずして、目の前の霊体船を自分たちの視界から消した。
三つのセントエルモの火が残像として目の奥に残った。
二望寺の巨大な本堂。外観のみならず内部まで金色に塗られてたたため、四人の山伏はまた呆れた。しかし、そんなことはおくびにも出さない。ご機嫌を損ねると、儲けがなくなるからだ。この塗りたくった金を見ても分かる。この寺の財力はまだまだ衰えてはいない。
四人は女住職に向い、横一列に並んで冷たい板場に座っていた。すぐ脇にはそれぞれの錫杖を寝かせてある。床はもう何年も磨かれていないのだろう。艶はすっかり消え去り、ベトついている。
リーダー格の北王が挨拶代わりに申し出た。
「フミ殿。われわれ四人が来たからには、もうご安心くだされ」
「わしは、おまえらを呼んだ覚えはない」
フミと呼ばれた老女は背中を向けたままそう答えた。背中には長い灰色の髪が垂れ下がっている。尼といえども、髪を切るつもりはなさそうだ。髪は欲望をあらわす。欲を断ち切るために出家者は髪を切る。
北王は表情に出さず思った。
このアマは全身が欲でできているからな、長くて灰色をした髪がお似合いだ。
「しかし、ご主人殿より、何かあったときにはすぐに駆けつけてくれと言われておりましたので」西王が継ぐ。
「何かあったとき? 何もないわ。このわし一人で十分じゃ」
「いいえ。西王の言う通りです。われわれは約束に従ってここに参ったまで。どうか協力をさせていただきたい」東王が座ったまま、フミに一歩にじり寄る。「隣にはあの神職がおります。二十年前、痛い目にあったあの庭師も健在です。先ほど出会いましたが、その力は衰えてござらん」
「痛い目か。確かに痛かったわ。あれからこの寺の凋落が加速したと言っても過言じゃないわい。あのときは前代の住職とわしくらいしか、おらなんだ」
フミが振り返った。顔中に刻まれたいくつもの深い皺が長くて暗い年月を偲ばせる。
「おまえらがおると勝てるというのか!」
うっすらと紅をひいた口で叫ぶ。
北王がさらに進み出る。
「もちろんでございます、フミ殿。我々は勝つためにわざわざ山中より参ったのでございますから」
「ふん。何が山中だ。しょっちゅう街中に出てきては悪さをしておろうよ。――わしはこのときが来るのを二十年待っておったのよ。その間に前住職は亡くなり、檀家は離れて行き、寺はこのように荒廃していった。今度のいくさには勝たねばならん。勝って、この青竹家を守るんじゃ」
「御意にござります」北王が頭を下げる。
「ふん。来てもらった輩を無下に追い返すわけにはいかんな。――謝礼はおまえたちが十分に納得するくらいは渡すとしよう」
そう言って、ニタリと笑う。溶けかけた歯が数本見えた。
四人は頭の中を見透かされたようで気まずくなる。前住職との縁や恩などは関係ない。義理を果たす必要はない。金さえもらえればそれでいい。頭の中はそれしかない。
「まっ、勝手にいたせ。ねぐらは用意してある」
住職であるフミはそう言うと、あの奇妙なお経を上げ始めた。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
得体の知れないお香が金色に塗られた柱を伝って天井へ流れ出す。
四人はまた顔をしかめた。
その後、回廊の外に離れのようにポツンと存在する講堂にニセ山伏の四人は追いやられた。
講堂とは僧侶が集まって修業をする場であるが、このように離れに設置してあるということは、この寺ではあまり修業を重要視していなかったことになる。しかも、ここも荒れ放題ときている。
四人は薄っすらと埃が溜まった床の上に車座になって座っている。
「北王よ。まったく丁重な扱いだな」
毛の先が床にまで達している長髪の南王が、薄暗い講堂内を見渡しながら皮肉を言う。
「まあ、そういうな。我々が加勢しないと勝てないことくらいあの女も知っているだろうよ」
北王は酒を片手に言うが、西王は納得できない様子だ。
「北王よ。あの霊体船だけで十分勝てるとだと思うがのう。我々は本当に期待をされとるのか?」
「当たり前だ。目の前をよく見ろ。この馳走の数々。それにこの酒。一級品じゃ。すぐに出てきたということは、我々が来ると知って、用意をしておいたのだろうよ」
「しかし、この馳走はどうだ? なぜ、寺で酒が出る。この寺には不飲酒の戒律はないのか。それに、なぜ、寺で肉を喰らう。なぜ、魚を喰らう。なぜ、鳥を喰らう。期待されているとしても、寺のもてなしとは思えん」
「これがあの女のややこしいところよ」
北王はそう言って、大きめの杯に入った酒を一気にあおる。
「満願神社の心御柱の交換は既に終わったらしい」ぽつりと言う。
「何! その神事を妨害すれば神社には多大なる影響があったろうに」南王がいきり立つ。
神が宿るとされる依代の交換は祭礼では最も大切な行事であった。
「北王よ。フミ殿はそのとき何をしておったのだ?」西王が問う。
「気づかなかったらしい。いや、どうやら、フミ殿に気づかれないよう、深夜に最少の人数で行われたらしい」
「まったく気づかないとはな。なあ南王よ」西王はあきれる。
「深夜に行われたのか。あのバアサン、飲んだくれて、爆睡でもしていたのであろうよ。せっかくの機会を逃すとはな」
「まあ、そう言うな南王よ。祭礼当日を潰せばいいまでよ」北王がいさめる。「あの気味の悪い船でな」
三人はあの霊体船を思い出し、また気分が悪くなる。
「それにしてもあんな船を使わないと勝てないとは、そんなに敵は手ごわいのか?」
南王が北王に問うが、割り込んできた西王が手首の金のブレスレットをチャラリと鳴らして答える。
「先ほど、鳥居の下で会っただろうが」
「確か二人の人物に会ったが、手ごわいのはどっちだ? あの年老いた庭師か、それとも竹ぼうきを持っていた巫女さんか?」
南王が茶化したので一同は大笑いをする。
「いや、あの巫女さんの目はキリッとしていて怖かったぞ」
東王が追い討ちをかけるが、
「何だ、東王はあの竹ぼうきで叩かれたいのか?」南王がまた茶化す。
「ふん。そんな趣味はないわ――それよりも、南王よ。あの金堂の仏像の数々は絶景だったな。あれは全部、本物かね」
「贋物に決まっておろうよ。如来、菩薩、明王、天部が入り混じり、寸法といい、年代といい、様式といい、統一性がまったくないわ。四天王が三体しかない。八部衆が六体しかない。それに見たか、あの三尊形式の仏像たちを。阿弥陀三尊の左脇侍は本来、観音菩薩であり、右脇侍は勢至菩薩だ。それが逆に設置されておった。それに、先ほどあの女が熱心に拝んでおった釈迦三尊。左脇侍の文殊菩薩は象に乗り、右脇侍の普賢菩薩は獅子に乗っておったわ。わしは噴出しそうになったぞ。――ははは。逆じゃ。象と獅子がさかさまじゃ」
「ははは」西王も笑い出す。「そういえば、変だと思ったんだ。あの孔雀明王の像。乗っかっているのは、孔雀ではなく、どう見てもニワトリだったからな。あれは素人の仕事だろうよ。小学生の夏休みの宿題の工作の方がうまいぞ」
ニワトリはよかったなと四人は笑う。
「西王よ。本堂の隅に置いてあった紙の束を見たか?」
「ああ、北王よ。あれはなんだったんだ?」
「呪符よ。本来は災禍厄難を避けるための札だが、あれは違う。その名のとおり、呪いの札よ」
「それにしても、かなりの数だったな」
「ああ、あれだけの呪符を作るには、かなりの霊力がいるはずだ。あのババア、一筋縄ではいかん。――それにしても、仏像といい、呪符といい、数を集めれば何かご利益でもあると思っておるのだろうよ。欲に取り憑かれた浅はかな女よ。仏像などは、どうせ、チンケな盗人にでも頼んで集めさせているのだろう」
「盗品か。不偸盗の戒律もこの寺には関係ないな。――あの女、そのうちに天罰を喰らうぞ」
西王はそう言って笑ったが、
「いや、ちゃんと覚悟はできているようだ。おまえたちも見たであろう、あのババアの着ておった袈裟を。真っ赤だったろう。茶色などの壊色こそが出家人の証だというのに、あの真っ赤な原色はなんだ。俗人の色じゃないか。あいつは現代の破戒僧だ。もはや、出家人に戻るつもりはないのであろう。――過度な欲望は人を変える。かつては仏に帰依していた人間をも、あっさりとな」
その欲に取り憑かれた女から金をたんまり頂こうとするのだから、ニセ山伏たちも欲に取り憑かれていると言えよう。しかし、本人たちはそれに気づくほど繊細な心は持ち合わせていない。いや、あるのかもしれないが、欲という黒雲が覆い隠しているのであろう。
山伏たちの笑い声が講堂に響く。酔いが回ってきたためか、北王以外の三人も“フミ殿”から、“あの女“や”あのアマ“呼ばわりに変わっている。ここは離れだ。いくら悪口を言おうと本堂にまでは届かない。
しかし、笑いが収まった頃、北王が静かに言い放った。
「誰しも強欲に取り憑かれると、すさまじい邪力を発揮するものだ。あの女は特にな。霊体船を見たろう。あんなもの、中途半端な霊力では作れん。老婆とはいえ、見くびってはいかん。いつ我々も寝首を掻かれるか分からん。十分に気をつけろ」
――深夜。
講堂からは九字を切る声が聞こえてきた。
臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 列! 在! 前!
九字護身法。この九文字の呪を唱え、指で空中に縦に四線、横に五線を書くときは、どんな強敵も恐れるに足りないという護身の法。四人の山伏たちも今度の敵が手強いという事を十分に熟知していた。
満願神社の神殿内には古来より絶えることなく灯されている神聖な火がある。ミコは毎日、その火を神主からもらい受けて、それぞれの灯籠に火を付けて回る。
参道の脇には相撲部の香川が激突した立て灯籠が数基立っていて、神殿、拝殿、社務所の四隅には吊り灯籠が数基下がっている。
最初は軽い気持ちで、まるでオリンピックの聖火ランナーのような気持ちで、火を付けて回った。しかし慣れとは恐ろしいもので、今や、とても厳かな気分でこの仕事をしている。ミコは良い意味でこの雰囲気に飲まれてしまったのだ。
変われば変わるものだと自分でも不思議に思う。ついこの前まではヤンキーだったというのに。
もうすぐ、この神社で祭礼が行われる。それを邪魔しようと、隣の寺が攻撃を仕掛けてくるという。バトルは楽しみだが、このきれいな神社を汚されたくないと切に願う。
見上げた鎮守の森は濃い緑色をしてうっそうと茂り、深い青色をした空と見事に融合していた。
同じ頃、ジッちゃんは鳥居の真下にいた。既に今日の仕事は終えていたが、庭師の格好のままだ。拝殿と神殿に向かって目を向ける。拝殿の前ではミコが鎮守の森を見上げている。
「はて、お嬢さんは先ほどからあそこで何を思っておるのかな」
ジッちゃんは目を細めてつぶやく。
祖父から父、父から自分へと三代に渡って丹精込めて手入れした聖域を、感慨深げに眺めてもらうのは気持ちのいいものだ。特に若い人に関心を持ってもらえるとうれしいものだ。
きっと祖父も父もあの世で喜んでくれていることだろう。
そして2人は祭礼当日になると、あの世からお祝いに駆けつけてくれるに違いない。
やがて、すべての火を付けて回ったミコは社務所へと戻って行った。あたりはかなり暗くなってきた。そろそろバイトの時間も終わりだ。
「さあ、取り掛かるとするか」
ジッちゃんが気合を入れると、カラスが一声鳴いた。
声の先を見ると鳥居の上だった。
「ほう、そんなところにおったか。闇夜のカラスとはよく言ったもんだ。気づかんかったわ」
カラスは飛び立つと、ジッちゃんの肩に乗っかった。鋭い爪を立てて掴まっているが、ジッちゃんは平気な顔をしている。肩にカラスがいつ止まってもいいように特殊なパッドを入れているからだ。三本足のカラスは老人の耳元でカチカチとくちばしを鳴らした。
「うむ、やはりな。あの四人の山伏もどきが加勢したか。それと……。なに、仏像が増えておる。そうか。何か得体の知れない霊力でも使うつもりかのう。しかし、どうやって集めておるのか、あんなところに集められた仏像も迷惑しておることじゃろ」
カラスはジッちゃんに知り得た情報を提供するとバサリと飛び立った。
敵は三本カラスの存在をまだ知らない。祭礼の日には十分活躍してもらう予定だった。
ジッちゃんは鳥居の両脇にいる狛犬を見つめた。狛犬の正体は犬ではなく、邪気を払うとされている獅子だ。口を開いている方が“阿(あ)”、閉じている方を“吽(うん)”と呼ぶ。
阿吽が一対になって神社を守ってくれている。
満願神社には拝殿の両脇と合わせて二対、四匹の狛犬がいる。
「いつも守護してくれてありがとよ。もうすぐ大切な祭礼じゃ。頼んだぞ。あの二十年前のときのようにな」
そういって、二匹の狛犬の頭をそれぞれ撫でた。狛犬も共に戦う大切な仲間たちだ。
ジッちゃんは一礼すると参道に踏み出した。
その背中に二匹の狛犬が大きな目をギョロリと向けて、太いシッポをブルンと振った。この二匹と対を成す拝殿脇の狛犬の目も開かれ、遠くに確認できるジッちゃんの姿に向ってシッポを振った。
彼らも祭礼を待ち遠しく思っているようだ。
満願神社の参道の脇にはそれぞれ十基、合計二十基の立て灯籠が並んでいて、すべての灯籠にはミコが入れた火がユラユラ灯っている。そして、二望寺の薄汚れた石畳と違い、ていねいに清掃されている道を薄っすらと照らしていた。
ジッちゃんは灯籠の丸い穴の中へ手を入れて小さな和紙を燃やして回っていた。和紙には三行の呪文が書いてある。この古くからの儀式により、一基の灯籠の中に三匹の式神が宿る。つまり、灯籠の中には合わせて六十匹の式神がいて、祭礼の日には変幻自在に姿を変えながらジッちゃんの仲間として働いてくれるはずだ。
二十年前の祭礼時にはコウベモグラとなって、二望寺が放ってきたミミズの集団を退治してくれた。お陰で最後の結界が破られることはなかった。
儀式により、つぎつぎと息を吹き返していく式神たち。境内に彼らがざわめく声が流れ出す。
「久しぶりだな、おまえたち。お隣さんは相変わらずこの神社を恨んでおる。祭礼の日には妨害を仕掛けてくるじゃろう。それを防いでくれるのが、おまえたちの役目だ。神様のお役に立てるぞ。十分に働いてくれ。もちろん、このわしも老体にムチ打って働くし、若もお元気でいらっしゃる。いや、若の場合は二十年前よりもさらに神力を増しておられる。もしかしたら、おまえたちの出番はないかもしれんぞ」
そういって、ジッちゃんは笑った。すべての灯籠で無事に儀式を終えた安堵感が笑い声に含まれている。ジッちゃんの言葉が理解できる式神たちもクスクスと笑う。
参道の両脇からも笑い声が沸き起こった。二十年ぶりに蘇った六十匹の式神の笑い声だ。彼らは祭礼当日までこの灯籠の中で静かに出番を待つことになる。
ひとまずの仕事を終えた参道を振り返ったジッちゃんは拝殿の脇にいる狛犬たちの頭も撫でた。
「鳥居脇にいる二匹と協力して、どうかこの神社を守ってくれよ」
参道の初めと終わりにいる四匹の狛犬はそれぞれが目を開き、それぞれが呼応しあった。
拝殿、社務所、それぞれの建物の四隅には吊り灯籠が下がっている。ジッちゃんは新しい和紙の束を取り出すとその灯籠の中の火にも焼べはじめた。先ほどとは違う呪文が書いてある。ここでも次々に数匹の式神たちが目を覚ます。
そして、最も重要な建物である日吉造りの神殿は、三重の垣根で覆われていて、垣根にはたくさんの鈴が取り付けられていた。この鈴の中にはすでに式神が潜んでいる。祭礼のときだけでなく、神殿は常に守護しなければならないからだ。
――チリン。チリン。
ジッちゃんが通りかかると、式神が騒ぐ。
「ここは神様を守る最後の砦じゃ。お前たちは、言ってみれば旗本というわけだ。当日は存分に働いてくれよ。――いや、仕事がない方がいいか。ヒマということは平和な証拠だからな。しかし、そうも言っておれん。敵さんが傍観を決め込むとは思えんからな。四人の山伏も仲間として引き入れたようだし、他にもいろいろと策略を練っていよう」
満願神社と二望寺の境界にある白くて長い土塀には無数の式神を塗り込んであり、塀際にたくさんの榊の木を植えてあった。前回はこの境界から攻めてこられた、重要なポイントだ。
「まさか、正面の鳥居側から攻めてくることはあるまい。やはり決戦地はここだろう」
ジッちゃんはそう睨んでいる。
いったん社務所に寄ったジッちゃんは軽トラックにたくさんの注連縄を積み込んで戻ってきた。注連縄とは本来、ここからは神聖な地であるとの標識の役目を果たすが、邪悪なものを退ける力をも秘めている。ここで使われるのは最も細い縄でできている前垂れ注連縄と言われる物で、それに白紙で作った紙垂をたらす。ここで用いられるのは式神を宿らせた特殊な注連縄だ。
ジッちゃんは手に抱えた何本もの注連縄を器用に土塀に取り付けていく。ぶつぶつと口で唱えているのはお経か呪文か。それとも、注連縄に潜んだ式神に話しかけているのか。
二望寺に近い境界のため、聞かれないように声も小さくしているようだ。
すべての注連縄を張り終えたころ、若が両手には数本の棒を抱えてやってきた。
「やあ、ジッちゃん、ご苦労さん」
「ああ、これは若」
いつもの神主衣装ではなく、ラフな格好をしている。
「前回は敵さんがミミズに変化させた邪霊を地中から送り込んできたから、今回はこれを使おうと思ってね」
「ほう、いいですな」
若が手に持っているのは、結界棒と呼ばれる細い金属製の棒だ。その名の通り、等間隔に地中に刺していき、結界を作り上げる。地中にはジッちゃんが植えた榊が根を張っている。
「さすが、若。よく気が付かれた。榊の根だけでも心強いというのに、それでは、鬼に金棒どころか、鬼に結界棒ですな」
二人は小さな声で笑うと、結界棒を地中に立てて回った。
満願神社のすべての要塞化が終わったのは、深夜二時のことだった。
それから三時間後、まだ早朝だというのに、業者のトラックとクレーン車が神社の入り口に乗りつけた。古い鳥居の解体と新しい鳥居の建立を行うためだった。
それは二望寺に邪魔されないように、たった数時間の突貫作業で行われた。
「わーっ、すげー!」小森が絶叫した。
「おおっ!」「うひゃっ!」吉田も香川もすっかり新しくなった鳥居を見上げて感心している。あたりには、まだペンキの香りが漂っていた。
「どうだい、すげーだろう?」三人の後ろには、いつの間にかジッちゃんが立っていて、小森の口真似をしてからかった。
「あっ、これは、これは、庭師の親方ではありませんか」
小森が恐縮して頭を下げる。他の二人もそれに倣って深々と頭を下げる。
「学生さんは大げさだな。わしはそんなに偉くないよ。弟子はとっていないから親方でもないしな」
小森はあわてて頭を上げる。
「立派なものが完成して、われわれ相撲部一同もうれしく思います」
「いや、これは未完成じゃ。ほら見てごらん」
ジッちゃんは三人を鳥居の横に連れて行って、柱を指差した。
「何も書いてないだろう。ここにはこの鳥居を建立するにあたって尽力をいただいた方々の名前を書くんじゃ。こうやって鳥居が建った後も、寄付をしていただく方がたくさんいらっしゃる。祭礼が終わってからその方たちの名入れをしてはじめて、本当の完成となるんじゃ」
「そうですか。ではさっそく相撲部からも寄付させていただきます」
小森は張り切って言ったが、三人の所持金を集めても六百円にしかならなかった。
しょんぼりする三人にジッちゃんが言った。
「ははは。その気持ちだけでうれしいよ。みんなは奉納相撲をしてくださるのだろ。今日もそのための稽古に来てくれてるのだろ。それだけで十分だよ。きっと神様は喜んでくださる」
たちまち小森の顔が明るくなる。
「はい、分かりました。俺たちには金はないけど、相撲への情熱があります。がんばりますよ、なあ、吉田!」
「おう、神様にい良い取り組みを見せて喜んでもらうぞ! なあ、香川!」
「あっ。さっき、みんな合わせて六百円しかなかったんですけど、今、左のポケットから五十円玉が出てきました。これで六百五十円です」
みんなが黙り込んだ。
小森は香川を無視すると、一礼して鳥居をくぐった。
「あれっ、ジッちゃん、何ですかこれは?」
そこには大きな輪が立っていた。
ジッちゃんが説明する。
「それは茅の輪といってな、藁を紙で包んで輪っかにしたもんじゃ。三回くぐるとお祓いとお清めの効果があるんじゃ。本来は夏のものだが、今回は特別に作ってもらったんじゃ。さあ、みんなも三回くぐりなさい」
小森と吉田はいちいちお辞儀をしながら三回、茅の輪くぐりをした。
香川は十回くぐったところで息が切れてへたり込んだ。
「ボ、ボク、人より穢れが多そうなのでいっぱいくぐってみました」
三人はジッちゃんと別れると、土俵に向って歩き出した。ミコに言われた通り、参道の端を歩いている。途中で自分たちの名前が書かれた興行のぼりを見つけると、気分よく胸を張った。今日も実りのある稽古ができそうだった。
三十分間ぶっ通しのぶつかり稽古を終えて、いったん休憩を取ることにした。三人の息は上がっていて、体中が砂だらけになっているが、稽古にはあまり身が入らなかった。稽古中、ずっと流れていた音楽に気を取られていたからだ。その音楽も休憩に合わせるかのように止んでいた。
やがて、ミコがいつものように巫女さんの格好で大きなお盆を持ってやって来た。
「ミコ先輩! ごっちゃんでーす」
三人があわてて体の砂を払って整列する。
「おう、相撲部。がんばってるな。これ、お茶と手作りまんじゅうの差し入れ。あたしの手作りじゃなくて悪いけどな」
「いえ、とんでもないです!」「喜んでいただきます!」「いつも楽しみにしてます!」
「ところでミコ先輩、さっきの音楽ですけど」
小森が気になっていたことを訊く。他の二人も耳をそばだてる。ミコが何かをやってるんじゃないかと思っていたのだ。
「ああ、お神楽の練習だよ。音楽はテープだけどな。当日は本物の演奏者が来てやってくれるんだ。ほら、これ見て」
ミコはまんじゅうが乗ったお盆とお茶が入ったポットを傍らに置くと、薄いノートのようなものを取り出して、小森に見せた。
――神楽口上台本。
「へえ、これを見て練習されているんですか。でも先輩、漢字に全部フリガナが振ってありますよ」
「小森、なんか言ったか?」ミコが長身の小森を睨み上げる。
「い、いえ、何も。お、俺は無口ですから。――あっ、そうだ。先輩、喜んでください。相撲部に新しい部員が一人入ってきたんですよ」
ミコはあたりを見渡す。
「――どこにもいないじゃん」
「あっ、今日は模試で休んでます」
「なんだと、こらっ! 奉納相撲と模試とどっちが大事なんだ。それに一人じゃまだ足らないだろうが。みんなで四人じゃ、三回取り組みをやって終わりだろ。神さん、がっかりだぞ。模試なんか平気でスッポかす奴を連れて来いよ」
「は、はい、分かりました。時間がないことは重々承知しておりますので」
「それに、顧問の静乃先生も来てないじゃないか。まだ一度も会ってないんだぞ」
小森が小さくなる。その横で二人も小さくなる。
大きな三人があまりにも小さくなったので、ミコは返って気まずくなる。
あっ、そうだ。こいつらに訊くことがあったんだ。
「あのさ、この中でピッチャーをやっていた人いない? 実はさあ、祭礼の日に餅投げやるんだよ」
「えっ、餅ですか!?」食べ物の話題が出てきて、香川がさっそく喰らいつく。
「縁起もんだよ。参拝客に向って投げるんだ」
「ああ、節分によくやっているやつですか?」
「あれは豆だよ。うちで投げるのはお餅さ。でも、あたしは野球の経験なんかないから、ちゃんと投げられるか心配なんだよ。できれば、後ろの方にいる人たちにも放ってあげたいしね」
ミコは三人を見渡すが、小森も吉田も子供の頃から相撲しかやって来ていない。二人とも球技は不得意だった。
しかし、ただ一人、目を輝かせた男がいた。
「ミコ先輩! ボク、ピッチャーの経験者です!」香川だった。
準備周到用意してあった野球のボールを持って、ミコが巫女の格好のままで立つ。その横には香川がうれしそうな顔をして立っている。やっと自分の出番が来たといったような顔だ。その二人を見守る小森と吉田。小森は心配そうな表情で、吉田の方はすでに伏せ目がちだ。
香川がボールを持ちながらミコにアドバイスをする。
「野球のボールはお餅よりも大きいですが投げる基本は同じです。こう握って、こう構えて、こう投げます。見ててください。――それっ!」
ボールは確かに前へ向って、数メートル先まで飛んで行った。
しかし、小森も吉田のように目を伏せた。
そして、ミコの怒号が飛んだ。
「なんで、下手投げなんだよ!」
香川がなぜ怒られたのだろうという顔をして答える。
「はい、中学までソフトボールをやってましたので」
「上から投げた方が遠くに飛ぶだろうが!」
「へっ、そうですか?――ねえ、そうなの?」
香川は小森と吉田に救いを求めるが、ずっと下を向いたままだ。
「でも、ボク、今まで上から物を投げたことないですけど」
「あのな。――じゃあ、見ててよ」
ミコがぎくしゃくしたフォームでボールを投げた。
それは、香川が投げたボールよりも遠くへ飛んだ。
「わっ、先輩すごいですねー。ボクを越えましたよー」
叫びながら香川がボールを取りに走る。
「しかも巫女さんの格好でですよー。ミコ先輩は野球の才能がありますよ。やっぱり腕力が抜群ですね。さすが、ヤンキー時代に自転車のチェーンを振り回していただけのことはありますよー」
香川が振り返ったとき、ミコは社務所に向って歩き、小森と吉田はまんじゅうにカブリついていた。
「なあ、小森。相変わらず、このまんじゅうはうまいな」吉田が口をモゴモゴさせながら言う。
「そうだな、まんじゅう一筋六十年のおばあちゃんが作っているらしいからな」小森も幸せそうな顔で言う。
「これ、新入部員へお土産に持って帰ってやろうぜ」
「身長百五十センチ、体重百五十キロの球体にか?」
「そうだよ。いいこと思い付いたんだ。まず、第一にこのまんじゅううまいだろ。第二にミコ先輩はきれいだろ。第三にこの境内は風通しが良くて昼寝に適してるだろ」
「なんだ、なぞなぞか?」
「つまりさ。ここに来ると食欲と性欲と睡眠欲がいっぺんに満たされるってわけだ」
「おお、模試VS人間の三大欲望か。そりゃ、今度から模試なんかに行かないで、こっちに来るな。それに、まんじゅうも手作りだって言えば、俺たちみたいにミコ先輩の手作りだと勘違いして喜ぶかもな」
「――だろ? 思春期の男子なんて三大欲望の前にはイチコロだよ」
「そうだな、まだ一年坊主だもんな。でもあいつ、何ていう苗字だっけ?」
「小森がスカウトしたんだろうが」
「うーん、忘れた。まあ、球体でいいだろ。ミコ先輩が付けたニックネームだからな」
なぜかボールの上手投げの練習をしていた香川がようやく戻ってきた。
「だいぶうまく投げられるようになったよ。――あれっ、ボクのおまんじゅうは?」
小森と吉田がすべて平らげていて、お皿の上には何もなかった。二人はすでにお茶をすすっている。
吉田は球体にあげるお土産用のおまんじゅう三個をそっと隠した。
ミコは社務所に戻って、縁起物の製作にかかった。縁起物といっても餅だけではない。祭礼当日に配布したり販売したりする商品は他にもたくさんある。オッチャンこと神主さんに言われた仕事は福玉作りだ。竹で編んだ、さっき投げた野球のボールよりもやや大きな玉に和紙を貼り付けていくのがミコの役目だ。水に溶いた糊を小さな刷毛を使って和紙の表面に薄く伸ばしていく。そして、和紙を破らないようにそっと持ち上げて玉に重ね貼りをしていく。これは販売用の縁起物だ。二百個作らなければならないらしい。慣れない仕事でミコの両手はすでにベトベトだった。お客さんが来ると、急いで両手をタオルで拭いて相手をする。しかし、すぐにベトベトになる。その繰り返しだった。
こんなときに電話が鳴った。
ジッちゃんは鎮守の森の中にいた。ここはただの森ではない。古代、神社には建物はなく、森そのものが神の降臨する場であった。だから、人々は森や木を大切にして、森や木に祈りを捧げた。
この神聖な森の樹木の手入れもジッちゃんの大事な仕事の一つだ。三代に渡って見守ってきた木々を見上げながら、手に触れながら、声を掛けながら、長年歩き慣れた細い道をゆっくりと歩く。枝葉がざわめき、ジッちゃんに返事をしているようにも聞こえる。この森の木々も祭礼を楽しみに待っていることだろう。
そのとき、ミコが森の中に駆け込んで来るのが見えた。ジッちゃんは思わずズボンのポケットに手をやった。用事があったらスマホに連絡が入ることになっているのだが。
ああ、軽トラックの中に忘れてしもうたか。これでは携帯にならんな。
「おーい、お嬢さん、わしはここだ」
ジッちゃんが木の陰から姿を現す。
「あっ、ジッちゃーん!」
ミコの声が鎮守の森にこだまする。
「なんだい。若からの伝言かい?」言ったとたん、ジッちゃんの顔が曇った。
ミコの表情が尋常でなかったからだ。
「社務所に電話なんだけど、ジッちゃんの娘さんみたい」
ジッちゃんには嫌な予感がした。
“祭礼の日。この神社で親子三人が二十年ぶりに再会する”
その約束の日が近づいている。きっと妻は約束を覚えてくれていると思う。だから、もしかしたら事前に連絡が入るのではないかと思っていた。
しかし――。
連絡をしてきたのが、なぜ妻ではなく娘なのか?
答えは一つしかない。妻の身に何かあったのだ。お嬢さんは娘から詳細は聞いていないだろう。わしの娘からの電話なら喜んでくれるはずだがこの表情だ。おそらく、娘の声を聞いて、何か悪いことが起きたことを悟ったに違いない。お嬢さんは若いが、そこまで聡い女性だ。
「そうか。ありがとう」
ジッちゃんはお礼を言うと社務所に向って歩き出した。
ミコは寂しそうなジッちゃんの背中を急いで追いかけた。
「はっけよい、のこった! のこった!」
大きな歓声とともに大きな男が小さな男に押し出された。
「柔よく剛を制するとはこのことだな」
「山椒は小粒でもぴりりと辛いだな」
「ブタもおだてりゃ木に登るだな」
焚き火の周りで男たちが笑い転げている。
ブンさんがダンボールの切れ端で作った軍配団扇をかざして勝者を示した。物言いはつかない。
橋の下の相撲大会。相撲好きのホームレスが集まって、定期的に開かれているらしい。行司役はいつもブンさんだ。
今日の勝者は元ラグビー部のハッちゃん。準優勝は仲間内で一番体が大きいピーちゃん。三位は小さな体なのにとても強いアリちゃん。この三人がいつも優勝を争っている。優勝商品はその日に収穫できた物の在庫によって変わる。
今日はワンカップ三本。日本酒が大好きなハッちゃんは大喜びだ。応援していた仲間たちもその顔を見て大喜びしていた。
ブンさんは拾って来た服で作った行司さんの衣装を脱いで、土手を下りてくる男を指差した。
「ほら、あの人が木川さんだ」
横笛を持っていた森河と鼓を抱えていた本山と多田が振り返って、新しく入ってきた男を見た。男は軽く自己紹介をすると、持っていた風呂敷包みを広げて、担当している楽器を見せた。
「ほう。これは“ひちりき”ですか?」パン屋の多田が訊いてくる。
「いや、これは笙(しょう)というものです。間違える人が多いのですが、ひちりきという
のは言ってみれば縦笛ですね」大手電機メーカーに勤務する木川が答える。
「あっ、そうですか。雅楽の楽器なんて馴染みがないもので」
「いや、私も実物を見たのは初めてでして」
「何だか、芸術的な形をしてますね」
「これは羽を休めた鳳凰に似せて作られたものなんですよ。だから、別名、鳳笙(ほうしょう)とも言います。仕組みはこういう風になってます」木川は周りにいる人たちに説明する。
「お椀の上に十七本の竹の筒が立ててあります。そのうち二本は音がしないのですけどね。そして、このお椀の穴から吹くか吸うかして音を出します。原理はハーモニカみたいなもんです。しかし、この楽器は結露しやすいんですね。だから、こうやって演奏前に温めるんです」木川は笙を焚き火にかざした。
「しかし、よく笙のことをご存知ですね」多田が感心する。
「いやいや、全然知らなかったもので、ネットでいろいろと調べて覚えたのですよ。だから誰にも習っていないので演奏はまったくの自己流です。最初はまともに音が出なかったので苦労しました。――じゃあ、ちょっとやってみますね」
木川が両手で笙を包み込んで息を吹き込む。
笙の音が橋の下に響く。
「ああ、この音ですか。着物のCMで聞いたことありますよ」文具屋の本山が言う。
「そうか、そうか。これが笙ですか」パン屋の多田も納得する。
「なんだか厳かな気分になりますね」高校教師の森河が言う。
ブンさんもそばにやってきた。「何だか懐かしい響きだな」
「えっ、ブンさんは笙をご存知ですか?」木川が演奏を止めて問う。
「いや、そういう意味じゃなくて、古代に思いを馳せるというか、わしも前世では宮中で演奏しておったかもしれんな」
そう言って、ブンさんは歯が一本しか残っていない口で笑う。
「おいおい、ブンさんが宮中だってよ」
「金がなくて、きゅうきゅうしているのによ」
周りに集まっていたホームレス仲間も声を上げて笑う。
「おめえらは黙ってろ。――さて、笙が温まったのなら、さっそく橋の下コンサートを始めてもらいましょうかな」
ブンさんが宣言すると、あちこちから拍手が起きて声援が飛んだ。
「よっ、待ってました大統領!」「おまえ、掛け声が昭和だぞ」
みんなは相撲大会を見に来ていたのか、それとも、このコンサートを聞きに来ていたのか。四人は少しプレッシャーを感じる。特に今日初参加の木川さんはあまりの観客の多さに驚いている。
当初は森河がここで一人、横笛の練習をしていた。やがて、大鼓の多田さんと小鼓の本山さんが加わり、今日から笙の木川さんが加わった。木川さんも練習場所を求めてこの橋の下にたどり着いたのだ。
そして、ブンさんの計らいで一緒に練習することになった。もちろんブンさんには言ってないが、みんなあの黒尽くめの男の被害者だった。新入りの木川さんも三百万円を賽銭箱の中に入れてきたらしい。四人とも、なぜこんな楽器を渡されて、練習をさせられているのか、いまだに分からないが、いずれ連絡が来るはずだ。それまで腕を磨いていなければならない。
四人のセッションが始まった。観客はブンさんが動員してくれた約三十人のホームレスの人たちだ。森河に横笛の吹き方を教えてくれた元吹奏楽部の若者も来てくれている。みんなはダンボールの上に座り込んだり、川の土手に腰掛けたり、思い思いの格好で音楽を楽しんでいた。ただし、雅楽のことが分かる人など一人もいない。しかし、それは仕方がない。演奏している四人もよく知らないのだから。
横笛、大鼓、小鼓、笙――四人が奏でる四つの古くからの楽器の音色が橋の下で反響する。
ブンさんが言ったとおり、みんなにも懐かしく聞こえるのだろうか、静かに目を閉じて聞いてくれている。
演奏に慣れて少し余裕が出てきた森河がふと見上げると、橋の上にもたくさんの人たちが鈴なりに並んで聞いてくれていた。通りすがりの人たちだ。
横に座っている多田さんに合図を送る。多田さんが見上げて驚く。上にも三十人ほどの人たちがいて、こちらを覗き込んでいたからだ。思わず大鼓の調子が乱れる。それに合わせるかのように本山さんの小鼓も調子が狂う。
森河は見下ろしている観客の中に奇妙な二人を見つけた。格好が派手で、どう見ても反社の人間だった。ヤクザ者が音楽を楽しんだらいけないという法律はないが、この場に相応しくなく、二人だけが浮いている。一般人が決して着ないような紫色のスーツを着ていたからだ。
表情を見ても、他の観客のように楽しんでいるとは思えない。ヤクザ者があんなところでいったい何をやっているのだろう。集まっているホームレスの人に用があるのだろうか。さっき、ブンさんも橋の上を見上げていた。あの二人に気づいたはずだ。しかし、何の反応もなかった。きっと面識はないのだろう。だとすると、やっぱりわれわれ四人を見ているのか。
まさか、あの黒尽くめの男の仲間で、ちゃんと練習をしているかの確認に来たのだろうか。その可能性は高い。そう考えると、今度は森河の笛が乱れだした。
他の三人がそれに気づいて、わざと大きく楽器を鳴らして笛の音を打ち消す。観客には気づかれていない、いいチームワークだった。
演奏が終わると橋の上と下の双方から盛大な拍手が起きた。それは決してお世辞の拍手ではなかった。しかも、さっきの相撲大会のときよりも大きな拍手だったので、四人はとてもうれしそうだ。
特に横笛担当の森河は感慨深い。最初にここで笛を吹いたとき、十分後にはブンさん以外の人たちがみんないなくなっていたのだから。今は誰も途中で帰ることはなく、ちゃんと最後まで聞いてくれている。ときには終わったあとにホームレスの連中がアドバイスをしてくれることもある。それが役に立つか立たないかは別として、うれしいものだ。
それに仲間がまた増えた。あの黒尽くめの男からの連絡を戦々恐々として待っている毎日だったが、四人になったことでだいぶ気も楽になった。同類相憐れむといったところだが、他のメンバーたちも同じ思いでいることだろう。しかし、近いうちに男から連絡が来ることは間違いない。
練習をしておいてください。時期が来れば連絡します。
男はそう言った。そして、あの男はきちんと約束を守るはずだった。
木川さんは演奏を終えて、笙をまた焚き火で温めている。本山さんと多田さんは鼓の麻のヒモを調整している。
ブンさんがどこから調達してきたのか、缶コーヒーを四本持ってきてくれた。
「お疲れさん。これ飲んで休んでよ」
四人は恐縮しながら、土手に腰掛ける。
「でもよ。今演奏を聞いて思ったんだけど、何か足らないんだよな」
四人はコーヒーを飲むのをやめてブンさんを見る。
「ずっと考えてたんだけど、今、分かった。太鼓がないんだな。でっかい太鼓があればもっと迫力が出るだろ」
森河はもっともだと思った。
しかし、ブンさんはそう言ったが、みんなは自分の楽器で精一杯だ、また新たに太鼓を覚えろと言われても無理だった。それとも、われわれと同じようにあの男の被害に遭い、どこかで太鼓の練習をしている人がいるのだろうか。いつかどこかでその人と合流して五人一緒に演奏する日が来るのだろうか。
ヤクザ者の格好をした二人はまだこちらを見下ろしていた。
橋の下から聞こえていた音楽が止んでも、若頭の百舌は動こうとしなかった。金のネックレスと金のブレスレットで着飾っているジュンは何度か声を掛けようと思ったが、表情がいつもより怖いのでやめることにした。いつも怖いのに、今はもっと怖いのだ。
ここを通りかかったとき、音楽が聞こえてきた。何の楽器か分からなかったが、百舌は急に足を止めた。それから三十分、二人並んで橋の欄干を持ってたたずんでいる。一緒に並んで音楽を聞いていた人たちはもう一人もいない。しかし、百舌はずっと橋の下を見つめたままだ。
やがて、百舌はジュンの顔を見て、ポツリと言った。
「わしはここで生まれたんだ」
「えっ?」ジュンはもう一度、橋から下を覗き込む。
「捨て子って、知ってるか?」百舌さんの目は悲しい。
「は、はい。捨てられた子供ですか」
「そうだ。今時、流行らんがな。わしの時代にはあった。わしはここに捨てられた。どこかの家で生まれたのだろうが、それは分からん。ここで生まれたも同然だ」
ジュンは橋の下を見渡す。かなり広い川が流れている。コンクリートでできた土手はホームレスたちがねぐらにしている。当時はコンクリートではなく、地面がむき出しのままだったのかもしれない。地面の上に百舌さんが捨てられていた。
「気がついたら施設だった。名前が書いた紙切れが一緒に添えられていたらしい。下の名前だけだ。本当の苗字は分からん」
「百舌さんという名前は?」
「百舌というのはわしが勝手に名乗っているだけで、本名じゃない」
「だったら、親も分からないですよね」
「そうだ。生きているのか死んでいるのかという以前に、自分の親はどこの誰かということが分からん」
かなり強い風が橋の下を通り過ぎてゆく。川の流れは急だ。生まれたばかりの赤ん坊が何かの拍子で川に落ちていたら、あるいは親切な誰かが拾って施設に届けてくれなかったら、百舌さんはこの世にいない。俺とこうして仕事をすることもない。
アニキが、百舌さんにはかわいそうな過去があると言っていたのはこのことか。
だから、百舌さんは決して笑わないのか。
「わしはな、小さなダンボール箱に入れられていたんだ」
生まれたての赤ん坊は暖かい服を着せられ、お母さんの柔らかい手と胸に抱かれて大切にされている。でも、百舌さんはこんなところに一人ぼっちでいた。
「わしは犬猫と一緒だったんだ」
ジュンは、寂しそうな百舌の横顔を見つめる。
「ジュン、これはわしの独り言だ。聞かなかったことにしてくれ」
「分かりました。――みんなは?」
「いや。このことを知っているのはアニキだけだ」
やがて、埃を含んだ強い風が橋の上にも吹きはじめた。
ジュンは思わず目をつぶった。
夜、スコットが漫喫内のシャワーを浴びているときに首から下げていたスマホが鳴った。あわてて画面を見るとボスからだった。すぐにシャワーを止めて、タオルでゴシゴシと顔の周りのしずくを拭う。
「おう、異邦人のスコットくんか。明日、奴らが港から仏像を本国に送る」
そう言って、場所と時間を教えてくれた。そして、明日は戦争だとボスは言った。
言われた港はスコットも何度か足を運んでいた、ここから程遠くないところだ。あの辺りは何人もの人に聞き込みをしたが、そんな情報は入って来なかった。
やっぱり外国人だから教えてくれなかったのだろうか。それとも、ボクの努力が足らなかったのだろうか。ボスに雇ってもらってからというもの、有意義な情報は何も提供できなかった。それでも日当はもらっていた。最近、焦りはじめていたところだ。だから、ボスからの電話はうれしいのと辛いのが入り混じっている。できれば、自分で情報を得たかったのだが。
これで、奴らを生け捕りにするともらえるという百万円のボーナスがなくなったのは確かだ。
そのとき、またスマホが鳴った。今度はジュンだ。
「聞いたか、スコット!」
「はい。只今、ボスから電話がありました」
「明日、奴らをボコボコにやっつけるぞ。お宝も取り戻すぞ」
「でも、見習いのジュンさん、ボスはどこからその情報を得たのですか?」
「ああ、渡しの細川さんといって、ヤクザな漁師がいるんだよ。港から母船までブツを運んでくれるんだ。いつも世話になっている人なんだけど、あの東南亜細亜諸国犯罪連合の連中がよりによって、その細川さんに仕事を依頼したんだよ。俺たちの仲間だと知らずにな。たちまち細川さんからアニキに連絡が来て大騒ぎよ。俺達が取られたお宝以外にもお宝があるだろうから、それもみんないただきだ。高価な仏像がいっぱいあるぜ。ウハウハだぜ」
ウハウハか。そういえば、変な日本語だなと思って、辞書で意味を調べてみたことがある。確か、うれしくて、浮ついた気持ちでいると書いてあった。ジュンさんは明日死ぬかも知れないというのに、浮ついているのか。やっぱり、ジャパニーズマフィアは怖い。
「あの観光バスも分捕って二階でカラオケを歌おうぜ。スコットも歌うんだぞ!」
明日、死ぬかもしれないのに歌のお話か。でも、それどころじゃない。
「あのう、明日、ジュンさんたちは何人で敵と戦うのですか?」
「スコットを入れると七人だ」
「えっ、ボクも入ってるんですか!?」
「当たり前だろ。スコットはデカイ体してるんだから強いだろ。一気に汚名を返上するんだ」
おめいをへんじょう?
意味がよく分からないけど、きっとボクが給料だけもらって、ボスにいい情報を持って行けなかったので、この機会にがんばれという意味なのだろう。
「相手は何人くらいですか?」
「二十人くらいだろうな。だから、一人で三人やっつければいいんだよ」
七人×三人=二十一人。確かにジュンさんの計算は合っている。
「あの、相手はピストルを持っているんでしょ。ボクたちの武器はなんですか?」
「――これよ」
「見えませんけど」
「こぶしよ」
「拳骨ですか。他にはないのですか?」
「コンジョーがあるぜ」
「あのう、メッチャ怖いです」
「スコット、メッチャゃなんて日本語をよく覚えたな」
「はい、関西のジョシコーセーがよく使ってます」
そんなことどうでもいいんだけど。ああ、どうしよう。
日本には困ったときの神頼みということわざがあったっけ。
「あの、ボク、これからお祈りしますから、おやすみなさいです」
「おう、明日、集合場所に遅れるなよ。いいか、よく聞け。俺たちは七人の侍だぜ!」
ああ、何ということになったんだ。デカイ体してるんだから強いって言われたけど、デカイだけで本当は弱いなんて今更言えない。今から逃げてもジャパニーズマフィアは追いかけてくるだろう。ボスもジュンさんもいい人だけど、ナンバー2の笑わない百舌さんは怖い。
ネス湖のそばの村に、「ただいまー」と帰ったら、あの顔で「おお、おかえり」と待っていそうだ。
スコットはスマホと一緒に首から下げている十字架を握り締めた。
アーメン。
アマテラスオオミカミさま~。
イングランドとジャパン、どっちの神様でもいいので助けてください。神様のご守護と大愛をボクにください。相手の東南亜細亜なんとかかんとかに天罰をお与えください。
しばらく祈った後、元気を出すため、無理に歌を口ずさんだ。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
この歌はあの二階建てバスのカラオケには入っているのだろうか。やっぱり、練習をしておいた方がいいのだろうか。いや、歌の心配をする前に明日は戦争だ。ボスに迷惑をかけてきた分、ちゃんと働かないと。ジュンさんが、俺たちは七人の侍だと言った。よく考えたら、イギリスに侍はいないじゃないか。――ああ、でも、騎士がいる。
そうだ、ボクは勇敢なナイトだ! 六人の侍と一人の騎士が悪者をやっつけてやる!
ああ、でも、こっちも悪者なんだ。ジャパニーズマフィアだもの。
考えているうちに、クシャミを連発した。シャワー中だったスコットはあわてて体を拭いて、パンツをはいた。
竹ぼうきで参道を掃いているミコはご機嫌だった。朝一番で一番大きなお守りが二つも売れたからだ。その参拝客はミコが出勤してきたときから拝殿の前にひざまずいて、長い間お祈りをしていた。祈り終わると、社務所にやって来ておみくじを引いた。引いたのは大吉だった。意味を訊かれたので、ベリーラッキーという意味だと教えてあげた。
お客さんは白かった顔をポッと赤くして喜んでくれた。
次に所狭しと並んでいるお守りを見つめた。
安産祈願、合格祈願、交通安全祈願、病気平癒祈願、心願成就……。
これらの中で、身の危険から守ってくれるのはどれかと訊かれて、安全祈願のお守りをすすめた。大きさは三種類あるけど、どれが一番効果があるのかと訊かれて、一番大きなお守りをすすめた。お客さんはそれを二つ買うと、大事そうにポケットに入れ、ていねいにお辞儀をして帰って行った。
ミコは不思議に思った。その参拝客の胸には十字架がぶら下がっていたからだ。
なんで教会じゃなくて、神社に来るのだろう。
ミコは変わった人もいるものだと、やたらと背の高い金髪の外国人を見送った。
漁船が出て行った後の夜の港は静かだ。
奴らがここに現れるのは十一時。今は二時間前の九時だった。
アニキたち七人は鍵のかかっていない小さな倉庫を見つけると、そこで待ち伏せをすることにした。長年使われていない倉庫には錆びたコンテナや形が崩れたダンボールが山積みになっていて、隠れる場所はたくさんある。奴らがここに気づいて入ってきても、すぐには見つからないだろう。ただ、あちこちに蜘蛛の巣があるのと、やたらと天井が低いのが難点だった。
壁の上の方にある小さな換気扇が風に吹かれてカラカラと回っている。通気性がよくなく、息苦しいところからすると、あの換気扇はあまり役に立っていないのだろう。
天井の蛍光灯は消えている。敵襲に備えて消してあるのではなく、電気が止められていて点かないだけだ。万が一のことに備えて、ボスからはタバコを吸うのも禁止されていた。
こんな戦争はすぐに終わる。ちょっとの辛抱だから我慢しろとボスは言った。
スコットは窓から差し込む月明かりの元、隣に座っているジュンを盗み見た。天井が低いため、みんなは座って待機している。
ジュンは顔こそ平気な表情だが、手はズボンのポケットに入れたままだ。そこには、さっきスコットがあげた安全祈願のお守りが入っている。朝一番に神社へ行って買ってきたものだ。ジュンはとても喜んでくれた。そして、おみくじの結果はベリーラッキーだったと教えるとまた喜んでくれた。
俺たちは絶対に勝てるぜ! 勝って、歌って、今夜は忙しいぜ!
ジュンは先ほどまでテンションを上げて狂喜していたが、時間が近づくにつれて大人しくなっていく。そのとき……。
コン、コン、コン。
扉がノックされた。何人かが体をビクつかせる。スコットは半分立ち上がりかけて、あわてて座りなおす。
ボスに睨まれたからだ。「あわてるな。三回ノックは合言葉だ」
百舌がゆっくり立ち上がると入り口に向かい、一人の男を連れてきた。
「これはカリノ組長。いつも世話になっとります」
渡しの細川が小さな声で挨拶をする。この闇の中でも日焼けしているのが分かる。
「おお、細川さん、ご苦労。ここに座ってくれ。――まず、これが今日の情報の謝礼だ」
仮の組長ことアニキが分厚い封筒を渡す。
たぶん中身は百万円の札束だ。
スコットは、あれはボクがもらうはずだったのになあと悔しがる。
「今夜のおさらいだ。全員、もう一度聞いておいてくれ」
みんながボスの周りに集まって車座になる。
「奴らが現れるのは十一時の予定だ。あいつらは馬鹿だから、きっと二階建てサルーンの大型観光バスに乗ってくるだろう。人数は前と同じだったら二十人ほどだ。拳銃も持っているだろう」
質量ともにこちらが圧倒的に不利だ。ボスの説明を聞いて誰かがゴクリと唾を飲み込む。
「細川さんは奴らに言われた通り、ブツを受け取って船に乗せてくれ」鋭い視線を送られた細川は小さな声で返事をする。「船が岸を離れたところで俺たちが飛び出す。奴らと乱闘している隙にUターンして隣の港につけてくれ。そこにワゴン車が用意してある。俺たちは、奴らを仕留めたら、すぐそこに向ってお宝を積み込む。――みんな、分かったな?」
「おう」小さな声が倉庫に響く。「はい」細川さんもまた返事をする。
「うまくいけば、細川さんにはこの謝礼の他に成功報酬を渡す」
「はい、ありがとうございます」
「うまくいけばと言ったが心配するな。きっとうまくいく」
細川はここまで来ると、もう後戻りができないことを知っていた。
えーい、ヤケクソだ。こうなりゃ、とことんカリノ組長について行くぞ。
「よしっ、みんな。気合の杯だ。別れの杯じゃないぞ」
ボスは杯に持参した日本酒を注ぐと一気に飲み干した。それを順番に回し飲みする。日本酒に慣れていないスコットは思わず顔をしかめたが、薄暗かったので、みんなには気づかれなかった。
「もっと飲みたいだろうが、今は一杯だけで我慢してくれ。終わったら、たらふく飲ませてやる。樽ごと買って事務所に届けさせてやる。事務所でどんちゃん騒ぎだ。末端価格四億のお宝だからな。――あの桃竜組長も文句は言えまい」
取り立て人の桃竜組長のことを思い出すと、ジュンの怒りが再び込み上げてきた。
同期のくせにうちのアニキを上から目線で見やがって。アニキの顔にタバコの煙を吹きかけやがって。絶対、今夜の仕事を成功させて、奴のデカい鼻を明かしてやる。
あいつ、乗り物に弱いとか言ってたな。だったら、二階建てサルーンバスに押し込んで、市中引き回しにして、ゲーゲー吐かせてやるのもいいな。
――ブワーン。
「野郎、来やがったぜ!」アニキがうれしそうに叫ぶ。「あの馬鹿ども、こんなところでも派手にクラクション鳴らしやがって」
アニキは腕時計の横にあるボタンを押してランプを点灯させ、時刻を見た。
「ジャスト十一時だ。――いいか、みんな」
仲間を見渡す。細川はすでに船に戻っているから、ここにいるのは全員で七人だ。
――ドドドドッ。
大型バスが轟音を上げて近づいてくる。
――ザッ。
みんなが内ポケットから拳銃を取り出した。
驚くスコット。
えっ? これじゃ、本当に戦争じゃないですか。
アニキがスコットに目を向ける。
「心配するな。モデルガンだ。暗いから分からんだろ。脅すにはこれで十分だ。向こうは本物を持っている。とはいえ、こんな所でぶっ放すわけにはいかないからな。奴らを取り囲んで、これを見せてやればこっちの勝ちだ。ああ、スコットくんの武器は用意してない。――そうだな、あそこにチェーンが落ちてるな。あれ持ってがんばれ」
あれ持ってがんばれと言われても、敵はピストルなんですけど。
ぶっ放さないと言われても、ぶっ放してきたらどうするの?
チェーンを振り回して、弾丸を叩き落すの?
無理でしょ。映画じゃあるまいし。
「そうだ。007というのはスコットくんの国の映画だろ。ジェームズボンドになった気分でがんばってくれ。――よしっ、日本男児と英国スパイ連合軍と東南亜細亜諸国犯罪連合の一大決戦のはじまりだぜ」
六人は屈んだ姿勢で静かに入り口に向かい、外の気配を伺いはじめた。勝手にスパイにされて、一人取り残されたスコットはチェーンをダラリと持って立ち尽くす。荷物を吊り下げるときに使っていたであろう錆びたチェーンを持っても、ジェームズボンドの気分になんか浸れない。ボンドの秘密兵器にこんな古風な物はないし、ボンドガールなんてどこにもいないじゃないか。
とりあえず戦況を見守るとして、ここにいることにしよう。ボスからはがんばれと言われただけで、具体的に何の指示もないのだから動けない。むやみに動くと、返ってみなさんの邪魔になるだろう。ここはプロに任せて後から声援を送ろう。
もし敵とバッタリ遭遇したら、そのときは――。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
倉庫のドアの隙間から六人が覗いている。
「まちがいない、あの三人だ。拳銃をぶっ放しやがったのが、あいつだ」アニキがアゴで細身の男を指して言う。
「先日と同じフォーメーションだな。まず、拳銃を持った三人が最初に出てきて暴れる。そのあとは、ほら、バスの中にけっこう人が乗っていやがるだろ。あいつらが余裕かまして出てくるってわけだ」
バスの中で数人が動く姿がシルエットになって映し出される。
隣にいるジュンがアニキに言う。
「二階にまたカラオケのマイクを持った奴がいます。何か歌っている様子ですよ」
「あのボケ。後でマイクをその汚い口に突っ込んでやるぜ」
三人はあたりに異常がないことを確認すると、バスの中で待機している連中に声をかけた。たちまち、十数人の男たちが降りてくると、バスの脇腹のトランクから木箱や白い布でグルグル巻きにされた物を取り出しはじめた。
「やっぱり、お宝はバスの土手っ腹に入ってたぜ」
アニキが言う。みんなは無言でうなずく。
小さな木箱は一人で、大きなものは四人がかりで運び出して、海岸へと歩き出した。そこには、渡しの細川がすでに待っていた。遠くには母船が停泊している。さらにその沖には数隻の漁船がいさり火を灯して航行しているが、ここで行われる取引に気づくほど近くはない。
「細川さん、緊張してんじゃないか? 海に落ちなきゃいいがな。あの人、漁師のクセに泳げないからな」
アニキがこんなときに冗談を言う。みんなはこんなときなのにクスリと笑う。
こんなときに……。死ぬかもしれないのに……。
スコットに聞こえていたら、口をあんぐり開けたまま固まるだろう。
細川は船の上でブツを受け取ると、ていねいに甲板へ並べはじめた。母船はすぐそこに来ていて、すぐに降ろすのだから、わざわざ船体の中にまで入れる必要はない。もっとも、今日は母船になんか行くつもりはないのだが。
もちろん、大きな木箱はそのまま船の上まで運んでもらった。一人で持てる小さな木箱は一つ。二人でないと運べない大きな木箱は六つ。木箱に入らないほど大きなものが二つ。合計九つのブツの積み込みが完了した。
細川はペコペコと頭を下げながら謝礼を受け取っている。
三人のうちの一人が母船に向けて懐中電灯を振り回した。今からそちらに向うという合図だろう。
「まだだぞ」アニキが押し殺した声でみんなに言う。
やがて、係留のためのロープが解かれて細川の船が沖へと滑り出した。真っ直ぐに母船に向っている。このあと、到着直前になってUターンする予定だ。
船を見送った東南亜細亜諸国犯罪連合の連中は無事に仕事を終えて、バスに乗り始めた。
「まだだ……」
拳銃を持ってると思われる三人だけが残った。あたりを見渡しているが、こちらには気づいていない。
「よしっ、行くぞ。まずはあの三人をボコボコにする。次に、異変に気づいてバスから降りてきた奴を順番に片付ける。乗降口は狭いから一人ずつしか降りて来れないはずだ。――おい、スコットくん。行くぞ!」
――ダダッ!
六人が駆け出した。
勝手に後方支援を担当しようと企んでいたスコットは、暗闇からボスに名前を呼ばれてビクッとした。
うう、やっぱり行かないとダメなのか……。
えーい。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
スコットは錆びたチェーンを手に駆け出した。
――ドゴッ!
低い天井に頭をぶつけて卒倒した。
六人は三人を目掛けて飛び出した。二人がかりで一人を仕留める。任侠道を歩む者としてはちょっと卑怯だが、向こうはホンモノの武器を持っている。こっちはよく見るとバレてしまうモデルガンだ。任侠と言えども、ときには見栄を捨てる。任侠と言えども、命は惜しいからだ。
しかし、走っていた六人の足はピタリと止まった。
たちまち周りを囲まれたからだ。
三人の周りを六人が囲んだ。すぐにその六人の周りを二十人近い奴らが囲んだ。
作戦がすっかりバレていたのだ。
六人を囲んだ奴らの哄笑する声が闇の中に響く。
アニキが回りに注意を払いながら、落ち着いた声で闇に訊いた。
「なぜ、俺たちのことが分かった?」
しかし、闇の中にいる連中は誰一人として答えようとしない。
こんなに圧倒的不利な状況でも、ヤクザはなめられたら終わりだ。
もう一度、アニキは同じセリフを、今度は大きな声で叫んだ。
「なぜ、俺たちのことが分かった!?」
だが、闇は静まったまま動かない。
こいつら、日本語が分からないな。
情報が漏れていたとは思えない。きっと俺達が倉庫に潜んでいるところか、倉庫から覗いているところを見られたのだろう。そして、バスの中に入ったフリをして反対側の非常扉から外に出て、周って来やがったのだろう。――くそっ、不覚だ。
――ザザッ。
闇の一人が動いた。
「みんな、気合を入れて歯をくいしばれ。――来るぞ!」
二十人の敵がいっせいに六人を目掛けて跳びかかってきた。
どうやら拳銃を使うつもりはないらしい。肉弾戦とあらば、望むところだ。
アニキと百舌は次々に相手を蹴散らしていく。闇の中、相打ちだけには気をつけないとマヌケなことになってしまう。
六人はできるだけ分散して戦っている。武器はモデルガン。弾を撃っているヒマなんかないため、モデルガンそのもので殴りつける。
――ガッ!
日本刀も乱闘のときはこのように使ったらしい。時代劇のようにバサリバサリと流暢に斬っていくヒマはない。日本刀そのもので殴りつける。
――ガッ!
倒れこんだ奴に足を取られないように向っていく。二十人のうち六人が倒れこんだまま動かなくなった。
ちっ、まだ六人かよ。
アニキには人数を数える余裕があった。
まったく、こいつら後から後から湧いて来やがるぜ。
そのとき、足元に拳銃が転がってきた。
仲間の一人が手に持っていたモデルガンを叩き落されて丸腰になった。しかし……。
「ウォー!」雄叫びを上げると、ひるむことなく丸腰のまま、頭から突っ込んでいく。
アニキはその仲間を助けようとしたが、自分の周りの敵で精一杯だ。頼りの百舌も三人を相手に奮闘中だ。ジュンは一人の男の上に乗っかかり殴りつけている。
やがて、丸腰の男が引き倒された。アニキが駆け寄ろうとしたとき、倒れていたはずの男が起き上がり、足を?んできた。思わずよろめいたアニキに違う男が襲い掛かる。
「アニキー!」
ジュンの叫び声が埠頭を渡る。その瞬間、組み伏していた男からカウンターパンチが飛んできて、ジュンのアゴの先に炸裂する。百舌も気を取られた隙に、数人の奴らに取り囲まれて、姿が見えなくなる。
相手はただのチンピラではなかった。こんな手馴れた連中が相手なら、何事も計算どおりにはいかない。
――多勢に無勢か。
アニキをはじめとする六人は、たちまち冷たいコンクリートに転がされて、両手を上げた姿勢でうつ伏せにさせられた。
そして、体中を調べられて、唯一の武器であったモデルガンはすべて没収された。
体勢を整えた約二十人の犯罪連合軍が倒れている六人を取り囲む。
三人は手に拳銃を持ったままだ。
アニキはうつ伏せの体勢で仲間を見た。無傷な奴は一人もいない。ジュンの手首は折れ曲がり、百舌の顔面は血だらけになっていた。
こんな場所で撃つことはないだろうと思っていたが、今は分からない。このままぶっ放して、逃げる可能性もある。明日の朝、身元不明の六人の遺体が見つかって大騒ぎになるだろう。
くそっ、こんなことじゃ、気合の杯をもう一杯飲んでおくんだった。
何とか、反撃する方法はないか。
目だけをキョロキョロと動かす。そのとき、視界の隅に小さな光が映った。
沖合から奴らの母船が合図を送ってきている。懐中電灯を振り回しているようだ。
しかし、俺たちを見下ろしている二十人はまったく合図に気づいていない。
こいつらバカか。なぜ、ケータイや無線を使わない。
渡しの細川が荷物を降ろすことなくUターンを始めたため、あわてて後を追いかけているようだ。しかし、所詮は大きいだけの船だ。地元の海を知り尽くした漁師である細川が操る改造エンジンを積んだ漁船には到底追いつけない。
ざまみろ。お宝はこっちのものだ。
細川の船は約束どおり、まっすぐ隣の港へ向っている。
アニキは奴らへの反撃をあきらめて、ここを脱出する方法を模索しはじめた。
取り囲んでいる二十人はこの六人をどう処理するか迷っているようだ。
ときどき、向こうの言葉が交わされるが、意味は分からない。
ただ、言葉に怒気を含んでいるようなので、素敵なおもてなしは期待できない。
それに、いつ母船の合図に気づかれるか分からない。急がなければ。
誰か動ける奴はいないのか?
かすかに頭を動かして、一人ずつケガの状況を垣間見る。
なに、六人……? 一人足らないじゃねえか。スコットはどうした?
倉庫を出るときに声をかけたはずだ。確か、あいつは返事をする代わりに、レット・イット・ビーの歌を口ずさんだはずだ。
アニキは思い切って倉庫の方を振り返った。
――ギギッ。
ドアが開き、ゆっくりとスコットが姿を現した。
月の光に浮かび上がるスコットの巨大なシルエット。
それはとてつもなく不気味で異様な雰囲気を漂わせている。
――そうだ!
アニキがひらめいた。「おい、おまえら、よく聞け」這いつくばったまま指示を出す。「ああ、かまわん。こいつらに聞こえても日本語は分からんだろ。――いいか、俺が合図をしたら、みんないっせいに笑え」
五人は思わず黙り込む。ジュンがおずおずと尋ねる。
「あのう、アニキ、笑えと言われても、百舌さんは……」
アニキはすぐ横にいる笑わない男、百舌を見る。
「百舌、どうだ。笑えるか?」
「いえ。無理です。最後に笑ったのはいつなのか記憶にありません。いくらアニキの命令でもこれだけは。わし、生理的に無理なんです。笑えんのです」
「百舌、今までの人生で楽しかったこと。うれしかったこと。感激したことがあるだろ。それを思い出すんだ」
「アニキ、わしにはそういうもんはありません。今までの人生は辛いことばかりで、笑えることなんか、これっぽちもありません」
アニキは地に顔を伏せた。
百舌の生い立ちはよく知っている。確かに辛いことばかりだ。今まで笑ったことがない人生を送ってきたのも確かだ。あの橋の下。おまえはあそこで生まれたんだよな。あの暗い橋の下で生まれた百舌。寒かっただろうな、百舌。あんとき、おまえはまだ赤ちゃんだったのだからな。
おまえをこの冷たいコンクリートの上で死なせてたまるかっ!
アニキは顔を上げると、くぐもった声で言った。
「分かった、百舌。おまえはその姿勢のまま、肩を震わせて忍び笑いをしているフリをしろ」
そばに立っていた男が、話を止めようとしないアニキの横腹を蹴り上げた。
――ググゥ。
アニキは痛がるフリをして、倉庫を振り返った。
スコットがゆっくりとした足取りで歩き出した。
真っ黒な巨体が闇をかき分けながら進んでくる。
ジャリ、ジャリ、ジャリ。
右手には太くて長いチェーンを持っている。
よしっ、いまだ!
「みんな、あそこを見てみろっ! ターミネーターが助けに来てくれたぞ! わはははは」
アニキが叫ぶと、五人が笑い出した。
百舌も身を伏せたまま笑っているフリをする。
「やったー。バンザーイ!」ジュンが叫ぶ。
二十人の犯罪連合軍の顔がいっせいに凍りついた。
ジャリ、ジャリ、ジャリ。
二メートル近い外国人の大男がチェーンを片手にこちらに向ってくる。
ゆっくりとした足取りがその不気味さを増幅している。
大きなシルエットはその歩みを止めない。
闇夜に浮かんだ顔は無表情で、一心にこちらを見つめている。
ターミネーターだって!?
みんなはその単語の意味を知っている。――処刑される!
一人の男が奇声を発するとバスの中へ逃げ込んだ。犯罪連合軍はパニックになり、釣られてつぎつぎに逃げ込む。拳銃を持った三人も、足をもつれさせながら彼らにつづく。最後に小柄な運転手役の男が窓から乗り込むと、ブワーンとクラクションを一つ鳴らして走り去ってしまった。お宝を掠め取られたことも知らずに。
大型バスが見えなくなったとたん、スコットは頭を押えて倒れこんだ。
アニキが自分のケガを押して駆け寄る。
「大丈夫か、スコットくん」
「はい、ボス。大丈夫です。すいません、迷惑ばかりかけまして」
「そんなことはない。お陰で助かったぜ」
スコットはアニキに声をかけられて倉庫から外に出ようとして、天井に頭をぶつけて、そのまま気を失った。気がついたら、周りには誰もいない。あわててチェーンを手にした。そして、脳震盪を起こしてふらつく足取りで外に出てみると、ボスに、ターミネーターだと叫ばれた。何のことか分からないが、早くボスたちの元へ行かなければと思ったのだが、足に力が入らず、ゆっくりとしか歩けない。ぶつけた頭の痛さで顔も無表情のままだった。そのうち、なぜか敵はバスに乗って逃げてしまった。
何が起きたか分からないが、ボスをはじめ、みんながボクに感謝をしていた。
ジュンがスコットに肩を貸して歩いている。かなりの身長差があるので歩きにくそうだ。今からみんなで隣の港へ行くところだ。渡しの細川さんからはうまく母船をまいて、すでに港で待っていますとの連絡が入っていた。
「見習いのジュンさん、いつもすいませんです。腕は大丈夫ですか」
「ああ、心配するな。腕の一本や二本や三本、どうってことない。それよりも助かったぜ。最高のタイミングで現れてくれたのだからな。あれは作戦だったのか?」
「いえ、あの……」今さら失神していたなんて言えない。
「偶然です」素直にそう言ったが、ジュンさんは勘違いをした。
「スコットはいつも謙虚だな。みんなの命を助けたんだから、もっと威張っていいんだぞ。――あっ、そうだ。アニキからたんまりとボーナスをもらえよ。俺からも言っておくからな。なんといっても、取り戻したお宝はすぐ目の前だから、金は腐るほどあるんだ」
全身が傷だらけの七人が海辺の道を歩いて行く。まだ、血がしたたっている者もいれば、ざっくりと傷が開いている者もいる。しかし、すっかり夜は更けて誰も歩いていない。異様な風体の集団だが、誰かに見られることはなさそうだ。
やがて細川の船が見えてきた。
なかなか来ないので心配になっていたのか、細川はアニキたちを見つけると、うれしそうに手を振ってきた。
「カリノ組長。お待ちしておりました」
「おお、細川さん、よくやってくれたな。今頃、奴らは悔しがってるだろうよ。のんきにカラオケなんか歌っているからバチが当たるんだ」
船の甲板には木箱と白い布に包まれた仏像がそのまま置いてある。
ジュンが隠してあったワゴン車を片手で運転してきて、船に横付けする。
「アニキ、これ全部、車に乗りますか?」
「そうだな。工夫しないと積めんな。とりあえず、ブツを岸に上げてくれ。――ああ、ジュンはいい。片手で持って、海に落とされたら大変だからな。まず、もともとは俺たちのものだった小さな木箱からだ」
小さな木箱は一つだけあった。それは以前、アニキがスコットに説明したとおり、紫色の風呂敷で包まれていて、長さは五十センチほどだった。大きな木箱は六つ。うち二つはアニキたちが奪われたものだった。
「三つだったお宝が九つに増えて戻ってきたんだから、ありがたいな。さすが仏さんだぜ。――さて、これはいったい全部でいくらになるんだろうかな。あの小さいのだけでも四億だからな」アニキがうれしそうに言う。
やがて、大小七つの木箱と布で巻かれた二つの仏像が陸揚げされた。
スコットはジュンの肩を借りて立ちながら、お宝を見下ろしている。ずっと捜し求めてきた風呂敷包みの木箱が目の前にある。百舌も拭い終えた血だらけの顔をしかめながらも、感慨深げに見ている。他の仲間たちもうれしそうだ。
これであの桃竜組長に支払いができるし、デカイ顔もできる。事務所の応接セットは新調して、トイレをウォシュレットに変えて、アニキは黒いベンツを乗り回す。本部からは一目置かれる存在になるだろう。
これで渡し人の仕事は無事に終わった。細川は今日二度目の謝礼を受け取ると、何度もお辞儀をして、意気揚々と海の彼方へ引き揚げていった。
「けっこうな儲けだろうから、細川さんもうれしそうだな」アニキは笑顔で見送っている。
さて、あとはこれをワゴンに積み込んで売りさばくだけだ。売却のルートは既に確保してある。それ専門の奴らが今や遅しと待ち構えていることろだろう。ここから先、自分たちの手は汚れない。売った奴らが捕まったとしても、所詮は末端の奴らだ。
これはどこかで見た光景だな。
外国語で、デジャなんちゃらと言うのだったな。あのときと違うのは東南亜細亜諸国犯罪連合のバカどもが現れないことだ。今さら引き返してきたところでもう遅いぜ。あの港には何の痕跡も残してないからな。もし、ここにたどり着いたところで、俺たちは仕事を終えて、すでにいないってわけだ。
「よしっ、積み込むか。まず、デカイのからな。肝心の四億のブツは一番後だ」
そのとき……。
――ヒュン!
何かの音がした。
――シュル、シュル、シュル。
何だろう?
スコットは周りを見渡した。そして、空を見上げたとき月光に反射して何かが光った。右から左へと何かが一直線に伸びている。やがて、左の視覚内に白い小さな物が飛び込んできた。
――まさか!?
あのときと同じ光景がここでも起きている。デジャ・ビュだ。
あの人がここにも現れたのか!?
スコットが瞬間に思い浮かべたことは見事に当たっていた。仏像の入った木箱が夜空を飛んでいたからだ。
その飛んで行く先を見て、「あっ、かなちょろだ!」スコットが叫んだ。
ああ、このセリフはあのとき、刑事さんが叫んだんだ。
叫んだ相手は倉庫の陰にたたずんでいた釣りスタイルのかなちょろだった。かなちょろは両足を踏ん張って釣竿で仏像を手繰り寄せていた。あのときと同じように、相当の距離から木箱に針を命中させて、一気に釣り上げている。
――ブーン!
やがて、かなちょろの元に猛スピードで釣り上げた小さな木箱が飛んで行った。それは、まさに末端価格四億円の覚せい剤が仕込まれた仏像が入った木箱だった。ここに来てやっと、何が起きたのかアニキたちが気づいた。
しかし……。
――バシッ。
「大漁、大漁! ほっほっほーっ!」
かなちょろは奇声を発しながら白い布で包まれた小さな箱を見事にキャッチして、一目散に逃げ出した。しかし満身創痍の七人には、もはや走って追いかける力が残っていなかった。
釣りにもっとも必要なのは忍耐力である。いつ動き出すか分からない浮きを一心に見つめていなければならないからだ。仲間とおしゃべりするわけにはいかない。大きな音で音楽を鳴らすわけにはいかない。だいたい、周りには気を紛らすものは何もないという場所で釣りをすることが多い。だから、自分自身に集中するしかない。では、釣り人たちは気長な人が多いのかというと、決してそうではない。逆に短気な人が多いという。短気な人が気長な趣味を持っているとは不思議だ。
この男がこのポイントに糸を垂らして十分は経過しているはずだった。しかし、まだ引きはない。夜は更けてきている。夜釣りは得意なはずだが、どうしたのだろう。こんなに調子が悪いのは初めてだ。
さっきの件で今日の運をすでに使い果たしたか。
いや、この俺様には尽きることのない運があるはずだ。運の良さだけで世間を渡ってきたんだ。
なのに、何だ、さっきは! 何が、シイタケの栽培だ!
先ほどのできごとを思い出すと怒りが治まらない。怒りと焦りが入り混じり、焦れてきた男は竿を左右に動かし始めた。短気な性格がもぞもぞと動き出す。しかし、もぞもぞを懸命に抑え、指の先に全神経を集中させて獲物を探る。
月は雲に隠れ、明かりはない。己の感覚だけを頼りに大物に狙いを定めようとする。
しかし、また怒りが込み上げる。
あの、くそばばあ! 誰がシイタケなんか作るか!
釣り糸から目を離し、見えなくなった月に吠える。
そのとき――。
「釣れますか?」
背中から声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。思わず落としそうになった竿を握りなおす。気配を消して俺様の後ろに忍び寄ったのかと思ったが考えすぎだった。自分の独り言の声が大きくて、感づかなかっただけだ。
「ここは何が釣れるのですか?」
後ろの人物がまた訊いてきた。
「えっ、ああ」
――ググッ。
答えずにいると、背中に何か堅い物を押し付けられた。
ピストルか!?
いや、違うようだ。たぶん、違う。
しかし、確信はない。なぜなら、背中にピストルを押し付けられた経験がないからだ。ほとんどの人たちがそんな経験をしないで一生を終えるのだろうが。
男はピストルじゃないと決め付けて、後ろに立つ人物に気づかれないよう、背中に神経を集中したまま、ゆっくりとリールを巻き始めた。反撃に備えるためだ。今、使える武器と言えば、この釣竿しかない。しかし、釣竿なら自分の手足のように操る自信はある。
やがて、後ろの人物が言った。
「釣れるのはお金でしょう」
瞬間、男は振り向き、その人物に向けて頭上から釣竿を投げ下ろした。
たとえ、相手が若い女であっても容赦はしない。声からして、女だとは分かっていたことだ。それに女がピストルを持っているとは思えない。きっと、棒切れか何かだと思っていた。だから、遠慮はしないで渾身の力を込めた。
――ガッ。
しかし、女は男の釣竿を頭上で受け止めた。竹ぼうきで。
ほうきの柄だったのか!
「貴様、何者だ!?」男が釣竿を押し付けたまま言う。
「見て分からんの?」女も竹ぼうきを押し上げながら言う。
「――巫女さんか?」
「そうだよ」
「だったら、俺様の邪魔をしないで、大人しくお守りでも売ってろ!」
「黙れ、賽銭泥棒の分際で! しかも、こんな遅い時間に社務所は開いてない」
男はザッと一歩後退して、いったん釣竿を持ち直すと、釣り糸を伸ばして振り回し始めた。
――ヒュン、ヒュン。
ミコも竹ぼうきを構え直して、男の頭の上で回っている釣竿に狙いをつける。男の背は自分よりもかなり低い。二人の距離と高低差を測りながら間合いを詰めていく。
男はバトルに慣れてるようだけど、こっちも修羅場をくぐってきたんだ。
――元ヤンを舐めんなよ!
月の明かりが闇の中に釣り糸を浮かび上がらせる。その先には針が光っている。
――ヒュン!
男が動いた。
ミコはすばやく逆に持ち替えた竹ぼうきの先で、伸びてきた竿を釣り糸ごと絡め取って、力任せに引き寄せた。そして、男がよろめいて手から釣竿が離れた瞬間、ダッシュして体当たりを喰らわせた。
唯一の武器をなくした小柄な男は背中からコロンと境内に転がった。体が小さいのでゴロンじゃなくて、本当にコロンという可愛い音がした。
しかし笑っているヒマはない。ミコはすぐに体勢を整えて、すぐ横の手水舎へ走った。草履は走りにくかったが気にしていられない。男もすぐに立ち上がった。手には何も持っていない。何か戦える物はないかとキョロキョロ探しているうち、
――カコーン!
境内に軽快な音が響き、頭頂部に強烈な痛みが走った。
目の前に、ひしゃくを持ったミコが立っていた。
男はそこで気を失った。
「あーあ、神聖なひしゃくをこんなことに使っちゃった。柄がひん曲がってるし」
男が目を覚ましたとき、神主と庭師の格好をした二人の男が見下ろしていて、あの過激な巫女さんの姿はなかった。
騒ぎを聞いて二人が駆けつけたとき、男が気を失って倒れていて、近くに釣竿が放ってあった。そして、賽銭泥棒を捕まえたよと巫女姿のミコが誇らしげに言った。
そんな格好でよくも捕まえられたねと若が感心した。
そして……。
ああ、これか。若には賽銭箱の中からお金だけが消えた訳がやっと分かった。釣竿でお金を釣り上げて、不用な名刺は元に戻しておいたのだ。
若はニタリと笑いながら思った。
その名刺の人物を脅せばもっとお金が取れたのになあ、そこまで頭が回らなかったか。
すでに日が暮れて遅くなっていたため、ここは二人に任せるよう言って、ミコは家に帰した。
「ジッちゃん、この人をどうしましょうか?」若が問う。
「うーん。そうですなあ。やはり警察ですかな。現行犯逮捕は手間がかからず、喜ばれますからな」
ジッちゃんはニタニタしながら言う。
男は逃げもせず、うずくまったまま二人の会話を聞いていたが、
「け、警察だけは」弱弱しい声をあげた。
「しかし、ジッちゃん。祭礼も近いことですから、あまり騒動は起こしたくないのですがね」
「そうですなあ。何かの役に立つかもしれませんから、このままにしておきましょうか」
それを聞いて男はペコペコと頭を下げた。さっきの勢いはなく、ただの小さなオヤジになっていた。
「名刺はお持ちですか?」若が男に訊いた。「ああ、お持ちじゃないですか。では、連絡先を教えていただけますか? はい、電話番号でいいですよ」
男は答えるつもりはなかった。しつこく訊かれたら、いい加減な番号を教えようと思っていた。
――しかし。
じっと目を見つめられたとたん、本当の番号がスラスラと口をついて出てきてしまった。
この神主はいったい何者なんだ。なんでこの俺がこんな簡単に懐柔させられるんだ。
男は驚いて若の顔をみつめた。
しかし、男の事情聴取をつづけているうちに、今度は二人が驚くことになる。
この男は物心ついた頃から、盗みを働いて、生計を立てていたという。そして、最近のメシの種は仏像なんだと自慢げに言った。
特に隣の寺は高価な値段で買い取ってくれるんだ。もちろん、盗品だと分かってて買ってくれる。仏像なら何でもだ。デカイのも、小さいのも、お不動さんも、弁天さんも。そりゃ、すごい数の仏像だぜ。本堂ってのかい。あそこにズラッと並んでる。足の踏み場もないというのはあのことだな。それに向って、住職の女が変な香を焚いて、変なお経をあげてるんだ。山伏みたいな連中? いなかったな。離れの講堂にいるんじゃないか。食事を運ぶとか言ってたからな。正直に言うと、いや、言うつもりはないんだが、なんかしゃべっちまう。どうなってるんだか。
それでよ、今日も盗んだ仏像を持って行って来たんだ。盗んだ相手は東南亜細亜諸国犯罪連合の奴らさ。知ってるかい? 有名な窃盗団さ。奴らの取引現場に行って、一番大事そうにしてやがった小さいのを釣竿で引っ掛けてやった。ピューンてな。
へへっ、窃盗団から窃盗だぜ。まあ、奴らの情報は得ていたからな。蛇の道は蛇ってやつだ。分かるんだよ、それくらいは。
男は調子に乗ってしゃべる、しゃべる。
ところがよ……。
男の顔が曇った。
「入りなさい」女住職のフミはいつものように愛想なく言った。
男は本堂に上がると、掠め取った仏像が入った木箱を、両手で抱えながら、もったいぶって差し出した。少しでもいい値をつけてもらうための駆け引きだ。先日、百貨店の搬入口からかっぱらった観音像はかなりの値段で買ってもらい、さっそく住職がいつも座っている場所のすぐ正面に安置されていた。
「今回の品はこちらでございます。東南アジアの某国でオークションにかけられる予定の由緒ある仏像でございます」
「ほう」
フミは一声感心すると、紫色の風呂敷を解き、木箱のふたを開けた。
瞬間、眉間に深い皺が寄ったのを男は見逃さなかった。
良い意味の皺か、悪い意味の皺か。
とたんに怒号が飛んできた。どうやら、悪い意味だったようだ。
フミは木箱を抱えると、ドスドスと歩き出し、あろうことか庭へ放り投げた。
どうしてだ? 今までどれだけ出来が悪い仏像でも、いくらかで買ってもらえたのに。
男はあわてて庭先に出た。木箱から転がり出ていたのは、仏像ではなく、仏が彫られる前の原木だった。そして、フミは男にこう叫んだ。
「その木でシイタケの栽培でもしておれっ!」
まあ、確かにその木は長さといい幅といい、シイタケ栽培には打って付けだったんだけどよ、なんで原木が入っていたか分からん。確かにあいつらは大事そうに扱ってやがったんだけどな。まあ、それでよ、ババアの剣幕に驚いて逃げ出したわけよ。逃げる途中で、そういえば、以前、隣の神社の賽銭箱に大金が入っていて、大儲けたしたことを思い出して、憂さ晴らしにここで一仕事やっておったわけだな。するとあの巫女さんが現れて、ひしゃくでカコーンと……。
男はそのときの痛みを思い出したのか、急にしゅんとなる。
頭のてっぺんには見事なコブができていた。
「最後にあなたのお名前は?」若が訊く。
「みなさんからは、かなちょろと呼ばれてます」
「みなさんの中には警察も含まれていますね」
かなちょろはまた驚いて若の顔を見つめた。
その後、かなちょろは警察に通報されることなく解放された。
後日、連絡が来るという。何を頼まれるかのか分からないが、あの神主からは逃げられないだろうなと思った。
「かなちょろだけに蛇の道は蛇というわけか。かなちょろが奴らの動きを知っていたということは、向こうもかなちょろの動きを知っているということだね」
若がジッちゃんに言う。
「そうですなあ。困りましたな」
「その窃盗団はいずれ隣の寺にたどり着くだろうからね」
「祭礼に影響しなければいいですがね」
「それにしても、お隣さんの力の入れようには参りますね。仏像を集めて、山伏を雇って、本堂を金色に塗って」
「本当ですな。その執念を仏道に活かせないものですかねえ」
「そうなると、いいお寺に戻れるのになあ。いがみ合っていたら、人は救えませんからね」
ジッちゃんは深くうなずいた。
やっと静けさが戻った深夜の満願神社の境内。
隣の寺からはニセ山伏たちが九字を切る声が聞こえていた。
臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 列! 在! 前!
四人が寺に着任してから毎晩聞こえてくる九字護身法。わざと神社に聞こえるように唱えているのであろう。
若が遠くに見える寺の大きな屋根を見上げながらジッちゃんに訊く。
「盗んだ仏像が原木だったとはどういうことでしょうかね?」
「うーん、そうですなあ。原木に見せかけた何か大切な物かもしれませんね」
すでに日付は変わろうとしていた。祭礼の日は近い。
満願神社に設けられた土俵での稽古は今日が最後だった。あとは祭礼の日の本番を待つだけだ。相撲部の三人は土俵に向って深々とお辞儀をすると、隅々まで丁寧に掃除をし、雨風避けのシートをかぶせて、風に飛ばされないよう四隅に重しを乗せた。
一度でいいから、本物の土俵に上がってみたいという小森たちの夢は叶ったし、ここで稽古をはじめてから数段強くなったという実感もある。
「香川、どうだった?」小森が目を輝かせて待っていた。
土俵での最終稽古が終わったとき、今日は一向に現れないミコを香川が神楽殿まで偵察に行っていたのだ。
「ミコ先輩はフリ仮名だらけの神楽口上台本を片手にお神楽の練習をしてたよ。なんかきれいな服を着て、お化粧して、いつもの百倍くらいきれいだったよ」
「じゃ、次は俺が行ってくるな」
小森がうれしそうに駆け出した。デブでも目的が明確なら早く走れるようだ。
「別にみんなが行かなくてもいいんだけどな」吉田が言う。
「覗きに行くんじゃなくて応援に行くんだよ。じゃあ、吉田は行かないわけ?」
「いや、行くよ。ただの見物だったら行かないけど、応援だったら行かないとミコ先輩に怒られるかも知れないからな」
副主将は変な理屈をつけて自分を正当化する。もっとも、応援といっても、神楽殿の脇からこっそりと見ているだけなのだが。
「練習が終わったらここに呼んで来ないといけないからね」香川が少し憂鬱な表情で言う。
「やっぱり、ミコ先輩を呼ぶのか?」吉田の表情も暗くなる。
「そうだよねえ。でも、どうしようか。やめる?――ああ、でも、約束だからねえ」
香川はどうしたものかと逡巡する。
やがて、小森がうれしそうに帰ってきた。
「いやあ、香川が言う通り、いつもの千倍くらいきれいだった」
しかし、すぐに小森の表情は曇った。
「でも、あとであの顔が鬼の形相になるぜ」
「普段でも怖いのにねえ」香川が追い討ちをかけた。
今日、稽古に来てみると、すでにいつものおまんじゅうとお茶が用意されて拝殿の脇に置いてあった。おまんじゅうはいつもより数が多く特盛になっていて、湯呑みも五つ用意されている。相撲部顧問の静乃先生と新入部員の球体のお披露目の日だったからだ。
しかし、ミコの姿が見えなかったので、近くでなぜか金属の棒を刺したり、引っこ抜いたりしていたジッちゃんに訊いてみると、お神楽の練習らしい。練習が終わったらここに来るとの伝言を授かっていて、かれこれ一時間ほど経つから、もうすぐ終わるだろうと言った。
ところが、球体はおまんじゅうを食べ過ぎたため、腹痛を起こしていきなり早退してしまった。
「じゃあ、俺も先輩の応援に行ってくるわ」吉田がうれしそうに駆け出す。
香川はいつもの百倍きれいだと言った。小森は千倍きれいだと言った。どちらが正しいか自分の目で確かめてやるんだ。
しかし、吉田はすぐに戻ってきた。ちょうどミコの練習が終わったためだった。
残念そうな顔をして吉田が言う。
「すぐに来るそうだ。静乃先生は?」
「――ダメだ」小森が首を振る。「全然、起きん」
「放っておいて帰るか?」
「そりゃ、無理だろ。ミコ先輩に会わせる約束をしたんだからな」
「言い訳はどうするんだよ」
「そんなのねえよ。正直に言うしかないだろ」
「あっ、先輩が来たよ」香川が小さな声で言った。
そこへ、白い上衣に緋色の袴といういつもの格好に着替えたミコがやって来た。
「やあ、お疲れさん。――あれっ、球体と先生は?」
主将の小森が一歩前に出て説明責任を果たす。
「はい。球体くんは腹痛で早退しました。静乃先生はあそこです」
小森が指差す方向――拝殿で静乃先生が大の字になって寝ていた。サラサラの長い黒髪がバサッと広がっている。
「何やってんだ、おまえらの相撲部顧問は!?」
今日、三人は確かに球体くんと静乃先生を連れてここへ来た。球体くんはさっそく出された手作りまんじゅうを、案の定、美人のミコ先輩の手作りだと勘違いし、パクパク食べ始めた。
やがて、ウッという声を発すると、お腹を押えたままトイレに駆け込み、三十分後、真っ青な顔で出てきた。
「なんか、当たったみたいですぅ」苦しそうな顔で言う。
「ウソつけ! 先輩のおまんじゅうが当たるわけないだろ」副主将の吉田の怒りが爆発した。
「今食べて急に腹痛起こすの?」香川までも怒り出す。
「そうだよ。昨日の夜は何を食べたんだ?」主将の小森も負けじと後輩を追求する。
「はあ、家族で回転寿司へ行って、回転していたデザートを全部食べました」
「それは邪道だろっ! 寿司屋へ行ったら寿司を喰えよ。だからバチが当たったんだよ。デザートを食べたかったら、ケーキ屋さんへ行って、回転してないデザートを買えよ」
「はあ、すいません」
球体くんは前屈みになって、大きなお腹を押えたままヨタヨタと帰って行った。
一方、静乃先生は……。
おまんじゅうとお茶を運んできた神主に一目惚れ。そして、特別に出された祭礼の日に配る予定の振舞い酒を一気飲み。さらに、風通しのいい拝殿でグースカと大いびき。三人がいくら起こしても起きないという体たらく。
球体くんを引っ掛けようとした性欲と食欲と睡眠欲の三大欲望作戦の前にあっけなく撃沈したのが、静乃先生だったとは……。
「静乃先生はいくつなんだ?」ミコが呆れて訊く。
「はい、もうすぐ三十歳だそうです」小森が直立不動で答える。
せっかく連れて来た顧問が酔っ払って寝てしまうなんて思いも寄らず、三人揃って恐縮している。
「独身か?」
「はい、そうみたいです」
「彼氏は?」
「二年間、いないそうです」
「崖っぷちか。その歳になったらいろいろあるんだろ。酒に逃げる気持ちも分からんでもない。そっとしておいてあげるか。まあ、後で毛布でも掛けておいてあげるから、みんなは心配しなくてもいいよ。ただし、夕方になっても起きなければ、顧問と言えども、これで叩き起こすからね」
ミコはそう言って、竹ぼうきを一振りした。
顧問の先生を置いての稽古からの帰り道、相撲部の三人は神社を出てすぐのところで、大きな外国人とすれ違った。
「おい、今の外国人見たか? おまえよりデカかったぜ」吉田が小森に言う。
「うん。二メートル近いな。まったく羨ましいぜ」
「おまえは高校生にしては十分デカイだろうが」
「いや。まだまだ大きくなって、あんなデカイ人をトリャーって投げてみたい。大相撲の上のほうの番付は外国人力士が占めているからな、俺たち日本人ががんばらないとダメなんだよ」
小森は自分が幕内力士のように言う。
「でも、今の人、力士じゃないだろ」
「いや、だから俺が言いたいのは日本人の心意気が乏しくなっているということなんだよ。相撲は日本の国技なんだぞ。それなのに強いのは外国人ばっかりじゃないかよ。――分かるか、吉田?」
「分からん」
「分かれよ。将来は俺たち三人が大相撲を背負って行くんだぞ」小森の夢は大きい。
「あっ、あの外国人さん、満願神社に入っていくよ」香川が振り返って言った。
「いいのか。イエス様に叱られないのか?」小森が心配をする。
「そうだよな。タタリでイナゴの大群が襲ってきたらどうするんだ?」吉田も余計な心配をする。
「そんなタタリがあるのかよ」
「聖書に載ってたぜ。イナゴの大群の話」
「そうなのか。イナゴの団体さんに因縁つけられたら怖いな」
「捕まえて甘露煮にするにも限度があるからな」
小森と吉田は不安そうに空を見上げたが、そんな昆虫は飛んでなかった。
「あの外国人さん、教会と間違えてるのかなあ」香川がボソリという。
「いくら何でも神社と教会は似てないだろ。新品の鳥居はあるけど十字架はないし」
「パイプオルガンもないぞ」小森と吉田が香川を攻める。
三人は不思議そうにスコットの大きな背中を見送った。
スコットは誰にも教えられたわけではないが、鳥居をくぐるとき自然と頭を下げた。それが礼儀だと知ったのは後になってからだ。お辞儀をしたとき、首から下げていた十字架がチラッと見えて、少し罪の意識を感じたが、イエス様も日本の神様同様、心の広いお方なので大丈夫だと自分に言い聞かせた。
先日、ここで安全祈願の一番大きなお守りを買った。その効果はあったのかどうかよく分からない。仏像を取り返したと思ったら、かなちょろに取り返された。殺されると思ったら助かった。しかも、ボクがみんなを助けたことになっている。
おみくじではベリーラッキーと言われたけど、果たしてそうだったのかも、よく分からない。分からないことだらけのまま、ボスから新しいミッションが下された。
かなちょろを探し出せ。
ジャパニーズマフィアと世界一優秀な日本の警察が見つけられないのに、ネス湖のそばの村からポッとやって来た外国人のボクが見つけられるはずがない。
でも、ボスは言う。
あいつ、チビだっただろ。小さいおっさんを探せばいい。
でも、ボクの身長は二メートルくらいある。九十九パーセント以上の日本人がボクより小さいと思うんですが。
相変わらずボスの命令は無茶すぎる。やはり、ここは困ったときの神頼み。
念のためにもう一つお守りを買いに来たスコット。鈴を鳴らしてお祈りをして、社務所に行くと、先日の巫女さんがいた。一番大きな安全祈願のお守りを買って、百円でおみくじを引いた。
――小吉。
「これはどういう意味ですか?」
「これはプチラッキーだね」
「プチじゃ困るのでもう一つ買っていいですか?」
「ああ、それはダメ。おみくじは二回連続で買ったらダメなんだ。でも、ほら、あの木にくくり付けば、ベリーラッキーに変わるよ」
巫女さんが指差した木にはたくさんのおみくじが結び付けられていた。スコットは長身を生かして一番高いところにプチラッキーのおみくじを結んだ。より高い所にと思って背伸びまでしてがんばってみた。高い所の方が神様に近い気がしたからだ。先ほどから、白い土塀に取りつけてある注連縄を整えていた庭師の男がこちらを見て笑っている。
そして、さっきお祈りをしたけど神様は聞いてくれたのか。お守りは本当に効果があるのか。おみくじは本当に当たるのかを、先日の九死に一生を得た仏像事件のことを話さないで、巫女さんに訊いてみた。
「外国人さん、ちゃんと生きてるでしょ。だったら心配することないよ。生きてるだけでもベリーラッキーだと思わなくっちゃ」巫女さんは笑ってそう言う。
「世界には戦争をやってる国もいっぱいあるというのに、日本は平和だしね。外国人さんの国はどうだか知らないけど」
「ボクの国はイギリスです。ときどきフーリガンが暴れてますけど、だいたい平和です」
「だったらいいじゃん。外国人さんは何歳?」
「ボクは二十五歳です」
「あっ、厄年じゃん!」
「ヤクドシって何ですか?」
「アンラッキーな歳だよ。何をやってもうまくいかないんだ。ここで厄払いができるからやっていく?」
スコットはその値段を聞いて、ちょうど手持ちのお金で間に合ったのでお願いすることにした。
巫女さんは、外国人さん、やっぱりラッキーな人だよと言った。
なんでも近々祭礼という、言ってみればフェスティバルがあるらしい。そのために神主さんが多忙で厄払いも今日はこれが最後だという。
スコットは祓殿に連れて行かれて、神主のお祓いを受けた。低頭している上を大幣が行き来するたびに、紙が触れ合う音がシャカシャカと祓殿に響く。やがて、頭上で鈴を鳴らす音も聞こえてくる。
なんだか体中から穢れが祓われて、清々しい気分になってきた。日本に来て、生活のためとはいえ、たくさん悪いことをして、この体もすっかり穢れていたからに違いない。
きっとベリーラッキーなパワーがボクの体に染み渡っているだろう。これで盗まれた仏像も見つけられそうだ。
スコットは厄払いを終えると、手水舎へ行って口をすすいだ。緊張のあまり喉が渇いていたからだ。そしてふと横を見たとき、何か長くて光るものが落ちていることに気づいた。
よく見ると釣り糸だった。ここまで付いて来てくれた巫女さんが言った。
「あっ、かなちょろの忘れ物じゃん。あいつ、商売道具を忘れやがって」
「えっ、かなちょろ!?」
「あれっ、外国人さん、かなちょろを知ってるの?」
「い、いえ、何も知りません」
スコットはトボけてそう答えたが、さっきの厄払いの効果がたちまち出たのでビックリした。
さっそく、かなちょろの手がかりを教えてくれるなんて、イエス様もすごいが日本の神様もすごい。でも、かなちょろのことを話すわけにはいかない。ボクが悪い仕事をしていることがバレてしまうからだ。でも、ここにかなちょろが来ていたなんてベリーラッキーだ。
「あの、かなちょろというのは、どういう人ですか?」心臓はドキドキしていたが冷静さを装って訊く。
「賽銭泥棒だよ。きのうの夜、ここで盗みを働こうとしていたところを捕まえたんだ。ほら、この釣り糸でお金を引っ掛けようとしたんだよ。時間が遅くなったから、あたしは帰ったけどね。自分でかなちょろだと名乗ったらしいよ」
「警察に連絡したのですか?」スコットは心配して尋ねる。警察に先を越されたかもしれないと思ったからだ。
「それがさ、うちの神主さん、そのまま逃がしてあげたんだって。牢屋にぶち込んでやればいいのにね」
まだ警察の手に渡っていないとは、やっぱりベリーラッキーだ。
「ジッちゃんの仕事も増やしてくれたしね」
巫女さんはそう言って、土塀に掛けた注連縄を直している庭師の方を見た。
「ほら、隣からあの塀を乗り越えて入ってきたんだ。そのとき、注連縄と地面に刺してある結界棒をグチャグチャにしやがったんだ」
スコットは不思議に思った。
「鳥居がある玄関じゃなくて、なぜあの塀を越えて来たのですか?」
「あいつ、盗んだ仏像を隣に売りつけてるんだ。――ああ、隣は二望寺というインチキ寺だよ」
「ええーっ!」
スコットは思わず叫んでしまった。逆に巫女が驚く。
「何かあったの?」
「い、いえ、何もないのです。何も知らない英国人なのです」
日本語がヘタなフリをしてごまかす。
お宝がすぐ隣にあったなんて。ああ神様、ありがとうです。
さっそく、事務所に帰ってボスに報告だ。きっとボスは喜ぶぞ。
みんなで、あの末端価格四億円の覚せい剤が入った仏像を取り戻すんだ。
でも、神様が犯罪に加担していいのだろうか?
「どうも、いろいろとありがとうございました」
スコットは長身を折り曲げて巫女に礼を言った。
「外国人さん、生きてりゃ、そのうち良いことあるから、がんばんなよ。――あっ、これもあげるよ。セブン、ファイブ、スリーの残り物で悪いけどね」
スコットは渡されたおみやげを持って、ボスの元へ急ぐ。
これでやっとボスにもジュンさんにも恩返しができる。もしかして、ボーナスが出るかもしれない。
うれしくて、顔が思わずニヤけてしまう。ニヤけながら歩いてるからだろうか、いつもよりみんながジロジロ見ていく。
二メートル近い長身の金髪外国人が歩いているのだから注目されるのは仕方ないか。
しかし、注目の理由はそれだけではなかった。巫女さんからもらったかわいい袋を持って歩いていたからだ。それには小さな男の子と女の子が仲良く笑っている絵が描かれていた。
巫女さんに、セブン、ファイブ、スリーと言われても分からなかった。イギリスには七五三の習慣はなかったからだ。
ミルク味の千歳飴を舐めながらボスが言う。
「よくやった、スコットくん!」
隣に座っているジュンもうれしそうだ。反対側に座っている百舌も無表情に飴を舐めているが、こんなに飴が似合わない連中も珍しい。もっとも、千歳飴が似合う大人はあまりいないだろうが。
「寺に売り渡していたとはな。あの仏像が日本にあるということは、我々にはまだまだ運があるぜ」
ボスは右手で本革張りのソファをポンポン叩く。
先日、東南亜細亜諸国犯罪連合からかっぱらった仏像を売った金で買ったものだ。高値が付くと思われた仏像だったが、すべてが最近彫られたもので歴史的価値はなかった。しかし、職人の腕がよく、いい仕事をしていたようで高級応接セットを買うくらいの金にはなった。これで桃竜組長に、はみ出た綿を毟られる心配もない。
「さて、お宝をどうやって取り戻すかだな。まさか、金を持って行って売ってくださいはないだろ。向こうも盗品と分かってて買ってるんだろうからな。――強引にやるか」
ボスは百舌を見る。百舌は静かにうなずく。
「まあ、任侠の世界に生きる俺たちとしては、ちょっと納得できないが、背に腹はかえられないからな。――かっぱらうぜ」
ジュンが驚いて訊く。「じゃあ、寺へ盗みに入るということですか?」
「そうよ。――よしっ、善は急げだ!」
スコットは、これは善なのだろうかと思ったが、みんな真剣な表情だったので黙っていた。日本では善でも悪でも急ぐときは急ぐのだろう。
「早くしないと東南亜細亜諸国犯罪連合の奴らに先を越されるからな。今夜でどうだ?」
あっ、そうだ!
スコットは大切なことを思い出した。
「ボス、近いうちに隣の神社でフェスティバルがあるそうです」
「お祭りか!?――ということは、人がたくさん集まるな。そうか、隣が賑やかに盛り上がってる隙にどさくさに紛れて忍び込めばいいんだな。いや、待てよ、もしその情報を得ていたなら、東南亜細亜諸国犯罪連合の奴らも同じことを考えてるかもしれんな」
「アニキ、ばったり出会ったら、そのときはそのときで、奴らをぶちのめしてやりましょう!」ジュンが気炎を上げる。
「おお、そうだな。お宝を取り返して、奴らをぶちのめすと一石二鳥になるな。ジュンの折られた手首と百舌のボコボコにされた顔面の代償も払ってもらわないとな。あいつらとやるのは三度目だからな。三度目の正直で俺たちの勝ちよ」
百舌が口から千歳飴を離して低い声で言う。
「アニキ、満願神社の祭りと言えば、火祭りですよ。民衆は燃やすための木を持って集まるはずです」
木に願い事を書いて燃やすとそれが叶うという満願神社の伝統行事だ。毎年、冬に開かれているが、今回の祭礼でも特別に行われることになっていた。
「そうか。俺達が武器を持っていてもごまかせるわけだな」
「はい。うまくやれば、凶器準備集合罪の心配はないかと」
「よしっ、ジュン。祭りの夜までに、堅くて太い樫の木の棒をたくさん用意しておけ。ホームセンターに行けば手に入るだろ。できるだけ、殴られたら痛そうなものを選んで買って来い。それで俺たちに逆らう奴らはみんなボッコボコにしてやるぜ。いいか、樫の木が折れるまでぶん殴るんだぞ。スコットくん、キミも英国スパイの名を汚さないようにがんばるんだ」
「えっ、ボクもバトルに参加するんですか?」
そう尋ねてみたが、みんなは当たり前のように頷いただけだった。
ジャパニーズマフィアのタバコ臭い事務所に、千歳飴の甘い香りがいつまでも漂っていた。
祭礼の日まであと数日。若の修業がつづいていた。満願神社の境内の一角に古井戸がある。古いといっても、もちろん水は湧き出ている。毎日、若はその井戸を使って水垢離をしていた。
水垢離というのは、祭礼に備えて冷水を浴び、身体の穢れを洗い落として、清浄にするための儀式だ。
水垢離が終わると、祝詞を唱えて、神を宿す心御柱に向って祈り続ける。飲食や言行を控えての参籠はたいへん厳しく、ここ数日で若の頬の肉がげっそりと落ちてきていた。
そして、祭礼当日。まだ夜が明けたばかりの早朝。
満願神社には樹齢百年を越える木が三本ある。いずれもジッちゃんたち親子が三代に渡って手入れをしてきたものだ。そのうちの一本の木の下に、お籠りが終わった若とジッちゃんがたたずんでいる。
「若、こんな大事な時期に留守をして申し訳ありませんでした」
「いや、順調に事は進みましたので心配は無用です。――奥様はどうでしたか?」
「はい、きれいな死に顔でした」
「そうですか。それは良かった」
「二十年前と変わらない表情をしておりました」
「娘さんには?」
「会いました。こちらは二十年前とは大きく変わってましたが」
ジッちゃんはそう言って笑った。
二十年前、娘はまだ生まれたばかりの赤ん坊だった。今は大学に通い、来年には社会人になろうとしている。
「わしのことは微かに覚えているらしいです」
「ほう、そうですか」
「いや、最初は疑っていたのですがね。生まれて初めての記憶などというものは、物心がついてからの体験が元になっているものでしょう。ところが、妻の背に負われて、わしと話している情景を覚えているというのです。詳しく聞いてみると、確かに、当日は澄み切った青空が印象的で、近くで事件でもあったのか、テレビ局のヘリコプターが何度も行き来していました。その音を覚えているそうです。それに、この木の幹の形、ちょっと右に傾いていますでしょう」
ジッちゃんは育ててきた木をやさしく撫でた。
「これも娘の記憶と合ってるのですよ」
「へえ、不思議なこともあるものですね」
若もジッちゃんたちが育ててくれた大きな木を見上げる。
「今日、娘さんは?」
「はい、午後になりますが、来てくれる予定です。連絡先も聞きましたので、これからはときどき会って、親子二人で仲良くやっていこうと思っております。妻のお墓も、ちょうどわしたちの住まいの中間あたりにある霊園に建てるつもりでおります」
「では、一緒にお墓参りができるわけですね」
「はい。生前は辛い思いをさせてしまったので、それだけは毎月かかさないようにしたいと思っております」
「奥さんも喜んでくれるでしょう」
「そのことですが、わしについての思いを、娘には何も語ってなかったようです。ですから、若が言われたように、妻がわしのことを許してくれていたのかどうかは分からずじまいで」
「いや、ジッちゃん、奥さんは今日、ここに来ようとされていたのでしょう。でしたら、何ら、わだかまりは持っておられなかったということですよ」
「そうなりますかね」
「奥さんはきっとジッちゃんに会いたかったに違いありませんよ」
ジッちゃんはまた木の幹を撫でる。
陽が昇り、しだいに辺りが明るくなってきた。鎮守の森を住処にしている鳥たちが歌いだす。
そのとき、突然、強い風が吹き始めた。枝葉が揺れて、境内がざわめく。相撲ののぼりが千切れそうにはためく。
やがて、突風は二人を包み込んだ。立っていられないほどの強さだ。枝から離れた何枚もの葉が宙を舞う。埃が入らないよう目を半開きにして、ジッちゃんが若に訊く。
「若、まさか、これは神の戒めでは?」
しかし、若は笑って言う。
「ジッちゃん、そんなことを言うと奥さんに怒られますよ」
「えっ!?」
とたんに風は止んだ。宙を舞っていた葉が静かに地へ下りてくる。
「では、この風はわしの妻が?」
神が見えて、神と語らうことができる二代目の神主。
見えているというのか?
この場に来ているというのか?
ジッちゃんは死化粧を施した妻の顔を鮮明に思い出す。
若はあらぬ方向を見て、ジッちゃんに言う。
「あそこに奥さんが、――浮かんでおられる」
そこはジッちゃんが先日、剪定したばかりの松の木の上。
「妻は、わしの妻は?」
「ジッちゃん、奥さんは今、二十年前の約束を守ってくれたのですよ」
「わしの妻は何と?」
「ジッちゃん、心配いらないよ。奥さんは、――笑っておられます」
やがて、樹齢百年を越えるクスノキの枝の隙間から二人の背中に陽が差し込んできた。
ユウは長身のシンを見上げた。満願神社につづく道の両脇に並んだたくさんの露店。その中にある一軒のタコ焼き屋さんで、六個入りのタコ焼きを買った。
二人で一つを仲良く食べながら歩こうと思っていたのに、シンの奴、一人で一つというか、舟の形をしているので一舟というか、お互い、一つずつ食べようと主張して譲らない。だから、二つ買った。お腹が空いていて、タコ焼きが大好きというだけなんだけど、一つを食べ終わると、別のタコ焼き屋さんでまた買って、そして、また見つけたタコ焼き屋さんで買って、結局、今食べているのが三つ目。私、まだ一つ目というか、いくらおいしくても一つが限度。シンは三軒のタコ焼き屋さん全部制覇したと自慢している。アホだ。日本人はお祭りも露店も大好きなのは認めるけどね。
さっきは、私のお母さんがよく行く美容室のオーナーが、リンゴ飴を買ってはしゃいでいた。二十年前に食べ損ねたらしい。そんな昔のことを覚えているなんて、食べ物の恨みは怖い。
シンが口をハフハフさせながら私を呼んだ。
どうせ、熱いタコ焼きを急いで食べたから、口の中がベロンベロンになったと言いたいんでしょ。
「ユウ、あれ、あれ見て!」
何、ベロンベロンの話じゃないの?
満願神社の二十年に一度の祭礼。境内に設けられた特別ステージの上では神様への奉納演奏が行われていた。
「ユウ、ほら、あれ。じゃなくて、あの人!」
ステージの上で一人の男性が太鼓を叩いていた。
「お父さん!」
ユウは思わず爪楊枝に刺したタコ焼きを落としそうになった。
「なんでユウのお父さんがあんな所に上がって太鼓を叩いているわけ?」
「そんなのこっちが知りたいよ!」
ユウが歯についた青海苔の心配もしないで大きな声で叫んだ。
ズラリと並べられたパイプイスに座って静かに音楽を鑑賞していた数人の人々が迷惑そうな顔をして振り返る。
「すいません」ユウは小さな声であやまる。シンも並んで頭を下げる。
なんでお父さんがゲーセンで太鼓の達人なんかをやっていたのかが、今分かった。今日の日のために練習をしていたんだ。
きれいな和服を着せてもらったお父さんが力いっぱい太鼓を叩いている。あんな服持ってないからきっと借り物なんだろうけど。でも、なんで太鼓の担当がずぶの素人のお父さんなんだろう。
シンが今度は小さな声で叫んだ。
「ユウ、あの横笛を吹いてる人!」
「げっ、森河じゃん!」
二人のクラスの担任の森河先生が真剣な眼差しで横笛を吹いている。
そして、今度はユウが見つけた。
「あっ、その隣で大きい方の鼓を叩いてる人」
「えっ、誰?」
「うちの近所のパン屋のオヤジじゃん。うちのお父さんだけが素人だと思ったけど、みんな初心者なんだよ。なんだか、動作がぎこちないし、おどおどしてるし、普段聞かない音楽だからよく分からないけど、たぶん、聞く人が聞いたらヘタッピだよ」
娘にヘタッピと言われたお父さんは汗だくになって太鼓を連打している。
黒尽くめの男から会社へ連絡が入ったのは三日前だった。
男は低い声で言った。
「長谷さんですね。太鼓の練習は進んでますか?」
周りの同僚に気づかれないように答えた。
「あっ、はい。進捗状況のご確認ですね。計画通り進んでますからご安心くださいませ」
男は集合日時と場所を指定してきた。
「長谷さん、満願神社はご存知ですね。来週、二十年に一度の大切な祭礼が行われます。そこで奉納演奏を行っていただきます。当日は神主を訪ねてください。話はすでに整っていますので。しかし、神主は演奏以外のことは何も知りませんので、いろいろ詮索しても無駄ですよ」
神社に集まったのは自分を入れて五人だった。横笛、小鼓、大鼓、しょうを担当する人たちがいた。みんな一緒に偶然会った橋の下で練習をしていたらしい。
私も練習場所を探したのですが、なかなか見つからないし、何と言っても、太鼓は運びにくかったので、若者に交じってゲームセンターで練習をしていたと言ったら、ひどく同情された。
神主はていねいに挨拶を済ませた後、五人に奇妙なことを言った。
「奉納演奏のボランティアの方々ですね」
大鼓を担当するパン屋の多田さんが、「あの、ボランティアじゃなくて」と言いかけたが、小鼓の本山さんに睨まれて黙ってしまった。成り行きにまかせようというのだろう。
神主はつづける。
「みなさんは練習をはじめて間もないと聞いておりますが、あまり緊張なさらずに、演奏している側も、聞いている側も一緒に楽しもうという気持ちで、大いに場を盛り上げてください。もちろん、音楽を捧げる一番の相手は神様です。皆さんには寸志程度のお礼しかできませんが、神様は音楽が大好きですから、きっと多大なるご守護があることでしょう」
脅迫の主でもあった神主は、駅のトイレで脅すときも、先日の電話で話すときも、わざと声を低くしていた。今日は、やや声を高くして話している。だから、五人はあの脅迫犯が目の前の神主だとは気づいていないはずだ。それに、まさか、神事を行う神主があんな卑劣なことをするはずがないという思い込みがあるから尚更のことだった。
そして、今日、今まで着たことのないきらびやかな和服に身を包んだ五人は、神様に捧げるつもりで演奏を行っている。
しかし、長谷はこんなにたくさんの観客が集まるとは思ってもみなかった。太鼓を叩きながらも観客が気になる。演奏の前、バチを持って太鼓のそばに立った長谷を見つけた近所の顔見知りの人たちが、こちらを見てヒソヒソと話していた。
何も悪いことをしているわけではないのだが、恥ずかしくて仕方がない。他のメンバーも同じ思いでいるようで、やや俯き加減で演奏している。
五人はほぼ同じ時期に痴漢をやらかして、あの黒尽くめの男に捕まった。
そして、三つのお願いをされた。一つ目はお金を賽銭箱に入れること。二つ目はこの奉納演奏だった。痴漢をやった罰がこんな演奏とは思いも寄らなかった。きっと祭礼が終わった後もしばらくは近所でも話題になるだろう。マスコミも何社か来ているようなので、全国にTV報道されるかもしれない。
今更ながら、なんて馬鹿な行為をしてしまったのだろうと思う。まさか、このメンバーは痴漢をやって捕まったオヤジたちです。どうぞ笑ってくださいとは、どこにも書いてないだろうが。
今日、妻は仕事があって来てないはずだった。それだけが救いと言えた。
娘はと言うと……。
そのとき、たくさんの観客の中でひときわ背が高い若者が目に入った。後ろの方で立ったまま聞いている。
あれは確か、娘の友人のシン君じゃなかったか。では、隣に娘が立っているはずだ。しかし、背が低い娘は人々の陰に隠れてよく見えない。娘に見つかってしまったかもしれない。そう思うと太鼓のリズムが乱れてきてしまった。横にいた大鼓の多田さんが怪訝そうに見上げてくる。
娘の方は見ないでおこう。後で訊かれたら、パン屋の多田さんから無理に誘われたことにしよう。多田さんには申し訳ないが、また食パンを買ってあげますよ。
「なんでユウのお父さんがいるのか分かったよ。今流行のオヤジバンドだよ。若い頃、バンドを組んでいた人たちが、当時のメンバーを集めて演奏するって、よくあるじゃん」
シンがユウを見下ろして言う。
「うちのお父さん、バンドなんかやってなかったよ」
ユウがシンを見上げて言う。
「それはユウが知らないだけでさ。ホントはリーゼント頭のバリバリのロックンローラーだったんだよ」
「まさかね。そんな面影まったくないし、若い頃の写真を見たことあるけど、髪は七三分けだったし、それにバンドを再結成するにしても、なんで雅楽の演奏なわけ? お父さんの年代からするとフォークソングあたりだよ。こんな奇妙なオヤジバンドなんて、どこ探してもないよ」
観客は静かに演奏を聞いている。みんな、雅楽の生演奏など初めて聞く人たちばかりだが、神社の境内という場所もあいまって、どことなく神聖で厳かな気分に浸っていた。
やがて、奉納演奏は終わった。万雷の拍手が五人を包み込んだ。右端に陣取っていたブンさんたちも大きな声援を送ってくれている。“橋の下バンド”の成功にブンさんも歯が一本しか残っていない口を大きく開けて笑っている。きっと、自分の息子たちがうまく演奏したような気持ちでいるのだろう。
満足げな顔をして立ち上がった人々がぞろぞろと歩き出した。すぐ横には火祭りの際にお札やお守り、願い事が書かれた木を投げ込む火炉が作られていた。竹で枠を作った円柱形のそれは直径、高さともに五メートルほどもある“入れ物”だ。夜になると神殿内で古来より灯されている神聖な火が入れられて、お焚き上げが始まる。
火炉を迂回すると、そこには立派な土俵が設えてあった。もうすぐ奉納相撲が始まる。いよいよ小森たちの出番だった。
まだ陽が高いというのに、二望寺の隣にある専用駐車場にアニキたちが既に集まっていた。行動を起こすのは夜になってからだが、もしかしたら、東南亜細亜諸国犯罪連合の連中が陽の高いうちから来るかもしれない。先手必勝とばかりに、早いうちから到着して準備をしておくことにしたのだ。
寺の関係者に何か咎められるのではという懸念もあったが、駐車場は無駄に大きく、他の訪問客が来たとしても、十分に止められるスペースがあった。しかし、長い間使っていないようで、ひび割れたアスファルトの隙間から雑草が伸びていて、車を止める場所を示す白線のペンキも、ところどころが剥げていた。
かなり広い駐車場だというのに車は一台も止まっていない。どうぞ、反社の抗争に使ってくださいと言わんばかりのロケーションだった。
アニキたちはいつものヤクザファッションではなく、もしもの戦闘に備えて、動きやすい格好をしていた。百舌の凶悪面さえ見られなければ、出入りを控えたヤクザの一行には見えない。
ジュンがワゴン車に積まれた長方形の木箱のフタを開けた。
アニキが自慢げに言う。
「スコットくん、見てみな。ジュンが選りすぐってきた俺たちの武器だ。どうだ、殴られたら痛そうな樫の木だろ」
そこには、長短、太細など数本の樫の木が並べて入っていた。
「ボス、なぜ、この棒切れはピカピカに光っているのですか?」
「おお、スコット君、それはいい質問だ。樫の木に金メッキを施しておいたんだ。これだと闇の中でも光って見えるから、敵と味方の区別がつくだろ。同士討ちは避けたいからな。――どうだ、スターウォーズのライトセーバーみたいでカッコいいだろ。みんなの体格に合わせて、使い勝手が良さそうなのを選んでくれ」
「でも、なんだかたくさんありますね」
「おお、またいい質問だ。東南亜細亜の奴らは二十人くらいいる。こっちは精鋭が揃っているとはいえ七人だ。しかも、みんなケガが完治してない。しかたなく桃竜組長に応援を頼んだ。十数人が来る予定だ。そいつらが使う棒もここに入っている。これで数では引けを取らないってわけだ。――ああ、そうだ。この棒に各自、願い事を書いておけ。もし、警察に見つかっても大丈夫なようにカムフラージュしておくんだ」
準備してあった黒色サインペンが全員に回された。
みんなは真剣な表情で願い事を書いていく。願い事を書いた木を火炉に入れて燃やしてもらうと、その願いが叶うと言われている。
「おう、みんな、何て書いたんだ?」
組員たちは順番にアニキへ樫の木を見せる。
そこには同じ願いが書かれていた。
“アニキが早く正式な組長に戻れますように”
組員の思いは一つだったのだ。アニキはそれを読んで泣きそうな顔になった。そして、自分でも、早く戻れるようにとの願いを書いていた。早く戻って、みんなを楽させてやりたかったからだ。
「スコットくんは何を書いたんだ?」
「ああ、ボクですか。あの、ボクも同じくボスが元に戻れますようにと書きました」
そう答えたが、実は違った。
“今夜、東南亜細亜諸国犯罪連合が現れませんように”と書いたのだ。
もうあんな怖い目に遭いたくなかったからだ。さっさと仏像を取り返してさっさと帰りたい。でも、みんなの前では言えなかった。勘違いしたボスは涙ぐんでるし。
うまくみんなを騙すことができた。願い事を全部英語で書いておいて良かった。
やがて、遠くからアニキを呼ぶ声がした。
「おう。桃竜組長の護衛の奴らじゃないか。やっと来やがったか」
アニキが手をかざして見ている方向から、いつもの三人がやって来る。
三人を嫌っているジュンが言う。
「あいつら馬鹿じゃないのか。出入りかもしれないのに、なんで縦縞のスーツを着てるんだ。背中にリュックを背負ってるし」
アニキも笑いを堪えながら言う。
「おまけに、三人揃って電動機付き自転車で来やがった」
三人の護衛はアニキのすぐ前で自転車を止めて、自慢げに言った。
「やあ、仮の組長。これが先日言ってた、一番高い電動機付き自転車さ。いやあ、楽チンだぞ。そこの坂道もスイスイだぜ。――なあ」
他の二人もうなずく。三人とも小太りなので、さぞかし楽なのだろう。
「ところで、桃竜組長は歩きか?」
「そうだ。相変わらず、うちのオヤジは乗り物がダメだからな。ここから南に四キロの地点を他の組員たちとテクテク歩いてる。あと二時間くらいで着くだろ。――ああ、あのワゴン車、借りるぞ。今から着替えるからな」
そう言って背中のリュックを見せた。着替えが入っているらしい。三人はペチャクチャとおっしゃべりをしながらワゴン車に入って行った。その背中に向ってアニキが毒づく。
「まったく、今日の仕事を何だと思ってるんだ。現地に着いてから着替えるだって? まるで、海水浴気分じゃないかよ。人手不足とはいえ、あんな奴らに頼んで損したぜ。こんなことじゃ、また電信柱に張り紙でもして戦闘員を募集するんだったな。――ああ、そうだ。スコットくん、ちょっと、満願神社の偵察に行って来てくれないか? 神社の駐車場に二階建てサルーンの大型観光バスが停まってたら、大至急報告を頼むわ」
神社の奉納演奏の音が風に乗ってこの駐車場にまで聞こえていた。
相撲部員が新人を入れて四人しかいなくて取り組み数が少ないと、ミコから文句を言われていた主将の小森だったが、今日来てみると、ミコ先輩はニコニコとした顔で出迎えてくれた。ほぼ人数が揃って、十数回の取り組みができるという。小森もたくさんの観客を見てほっとした。こんなに大勢の前で三番の取り組みだと、ぜったい竹ぼうきで滅多打ちにされる。
「でもさ、小森。あと一人足らないんだよ。今のところ、出場予定者数が奇数なんだ。偶数にするとうまく対戦が組めるだろ。だから、あと一人探してきてよ」
土俵の周りで念入りに仕上げの掃除をしていた部員たちにミコが言う。
「えっ、今から探せと言われても、今日は日曜日で学校も休みだし」
「部員を増やすんじゃないんだよ。今日の奉納相撲にだけ参加してくれればいいの。これだけ人が集まってるんだから、探せばデカイ奴がいるだろ」
小森はあたりを見渡す。
「なんだか、お年寄りが多いですが」
「いざとなれば、じいちゃん、ばあちゃんでもいいから上げちゃってよ」
「そりゃ無茶ですよ。俺の張り手を喰らったら死にます。俺たち、相撲には手加減しませんから」
「そうか。じゃあ、神社に集まってる人たちの中から若くて一番デカイのを連れてきてよ。これ、大先輩からの命令ね」
ミコは小森に最終通告すると、お神楽の奉納があるからと言って、さっさと神楽殿に行ってしまった。吉田と香川と球体くんも唖然と見送る。
「はあ~、相変わらず、ミコ先輩は強引ですよねえ」香川はため息をつく。
「いや、これが最後の試練だから。俺、主将の名誉に賭けて探してくる。ああ、球体くん、一緒に行こうぜ」
小森は新入部員を連れてたくさんの人々が集まっている境内へ向って歩き出した。
「先生、あと一人、見つかりますかねえ?」
副主将の吉田が顧問の静乃先生に訊く。
「あ~、う~、何か言った? 吉田君」
静乃先生はまた振舞い酒を飲みすぎて、ベロンベロンの状態でだらしなくパイプイスに座り込んでいた。長い黒髪が顔を半分覆っていて、昼間に見る貞子のようで、その表情は見えなかった。
十五分後、小森は球体くんを連れて帰ってきた。
相撲のために着替える特設テントが土俵のそばに建てられている。周囲からは見えないように幕が下ろされていて、関係者以外は立ち入り禁止だった。数十人が収容できるほど広いテント内は、着替えをするコーナーといろいろな準備をするコーナーに分けられていて、ボランティアを買って出た町内の相撲好きが、取り組み表を持ってせわしなく行き来していた。
「吉田、喜んでくれ。一人、デカイ人を見つけて来たよ。これで十六人になったから、取り組みは十五番もあるよ」
「へえ、すごいね。どんな人が来るわけ?」
「いや、それは言えない。あとのお楽しみだな」
相撲部員たちは取り組み表を見ていない。いつ誰が誰と対戦するかも、そのときのお楽しみになっている。
「あれっ、香川はどこへ行った?」
吉田は無言で小森を出入り口へ呼んで、幕をめくり上げた。
「あそこ」指を差す。
初老の男と香川がマイクの置かれた長い机を前に並んで座っていた。
初老の男がマイクに向かって話し始めた。
「皆さん、お待たせいたしました。只今から、満願神社の奉納相撲を開催させていただきます。実況アナウンサーは、わたくし、中学時代に放送部だったという理由だけでここに呼ばれた高橋です。本業は農協勤務ですから、相撲のことはさっぱりでして」
境内が笑い声に包まれる。
「でも、ご安心ください。強力な助っ人に来ていただいてます。国常高校相撲部の香川くんです。――香川くん、よろしくね」
「はい。どうぞ、よろしく」
小森は唖然とする。
「おい、吉田。なんで香川が解説やるんだよ」
「それがさ。ニセアナウンサーの農協の高橋がテントに来て、誰か相撲にくわしい人はいませんかって訊かれて」
「あいつが手を挙げたってわけか。確かにくわしいけど、俺たちも今から取り組みだぜ。取り組みをする力士が解説も兼任するか? 集中がいるだろ。気持ちも整えなきゃならないだろ。国常高校相撲部の名誉がかかってるんだぜ」
小森はふと横に目をやる。相変わらず、顧問の静乃先生はパイプイスで爆睡中だ。
「まったく、日本の国技である相撲を何だと思ってるんだ。――トリャー!」
小森はテントを支えている柱に向って張り手を喰らわした。
大きなテントがグラリと揺れた。
「え~。只今、練習中です。――西ィ~、小森ィ~。ゲボッ、ゲボッ」
名前が木村庄之助と同姓同名というだけの理由で行司役にされてしまった町内会長のおじいさんは、いつの間にか、呼び出しと土俵上のお掃除係も兼任することになってしまっていた。取り組み表を見ながら呼び出しの練習をしているが、途中で声が裏返ってしまい、痰もからみ、咳き込んで、関係者の失笑を誘っている。
「おいおい、俺たちの名前、ちゃんと呼んでよね」
せっかく気合を入れた小森も変な呼び出しを聞いて、気が抜けそうになった。ゼイゼイと肩で息をしているじいさんを見て、力も抜けそうになる。
決勝戦まで寿命は持つのか、あのじいさん。
無事に太鼓を叩き終えて着替えを済ませた長谷たち五人の元に神主がやって来た。先ほど、誰からか分からないが、神社に電話が入り、五人の皆さんに伝言を頼まれたという。
これが三つ目のお願いだからと言ってもらえれば分かると言われたという。
もちろん、神主の自作自演だが、五人はまったく疑っていない。それどころか、三枚の名刺と引き換えに出された最後のお願いだから、表情もややホッとしたように見える。やはり、仲間がいるということで安心している部分もあるのだろう。
そして、三つ目のお願いというのが……。
「西ィ~、長谷ェ~」
土俵上に長谷がまわしを巻いて立っていた。
「お父さん!」
ユウが素っ頓狂な声を上げた。
さっき太鼓を叩いていたと思ったら、今度はなんで相撲を取るわけ?
「東ィ~、森河ァ~」
裏返った声がまた境内に響く。
「相手は先生じゃん!」
震える手で軍配を持った木村さんが掛け声をかけた。
「はーけよーい、残った! 残った!」
ブカブカの衣装を着た行司がヨタヨタしながら相撲を裁いていく。
細身の長谷は押されていた。森河先生も素人だが、中年太りで体重がある分、有利なようだ。ズンズンと押し込んでくる。しかし、長谷はチョコマカと動き回って、相手をかく乱している。
娘のユウが突然叫んだ。
「お父さーん、がんばってー!」
普段はあまり好きじゃないお父さんだけど、これ以上醜態は晒してほしくない。
しばらく小康状態が続いていたが、ユウの声援が届いたのか、お父さんは森河のまわしを?むと、ソリャーと一気に放り投げた。担任の先生は膝から崩れて、ゴロリと転がった。
大逆転を演じた素人力士に、観客から大きな拍手と声援が起きる。
「やったー。お父さん、すごいじゃーん!」
ユウは大声をあげて拍手を繰り返している自分自身に気づいて、とても驚いた。
横でシンも目を丸くしている。
ユウの奴、やっぱりお父さんが好きなんだな。
長谷は肩で息をしながらも、足元で転がっている森河を起こしてあげた。
三つ目のお願いが奉納相撲への参加とは五人全員が驚いた。みんな相撲の経験などなかったからだ。それどころか、偶然だろうが、五人ともスポーツの経験すらなかった。
まわしが全然似合わないヒョロヒョロの体、あるいはブヨブヨの体。おまけに汚いお尻をご近所の皆様方にお見せしなければならない。
奉納演奏につづいて奉納相撲で恥をかかされるとは。これじゃしばらく近所を歩けない。
パン屋の多田さんと文具屋の本山さんは恥ずかしいので、しばらくは店番を妻に任せて、自分は店頭に立たないつもりらしい。
大手電機メーカーの木川さんは部下に見られてるんじゃないかとヒヤヒヤしているし、高校教師の森河さんも、月曜日、生徒にからかわれるに違いないと危惧されている。
五人はもう二度と痴漢なんかやらないと再び心に誓った。
「西ィ~、ハッちゃん~」
五人と違って、体の大きな男が土俵に上がった。
実況席の農協の高橋アナが資料を見て言う。
「立派な体格をされてますが、この方は元ラグビー部だそうです。所属は橋の下部屋とありますが、解説の香川くん、ご存知ですか?」
「へっ? そんな部屋はないと思います。いや、あったかなあ。どうかなあ。新しくできた部屋かなあ」
相変わらす、香川はいい加減だ。
ハッちゃんへ大きな声援が飛んだ。歯が一本しか残っていないブンさん達一行だ。奉納相撲があると聞いて、橋の下のメンバーから選りすぐりの三人を送り込んでいた。いわば、ブンさんは部屋の親方と言えよう。
「東ィ~、球体ィ~」
身長と体重がほぼ同じ数字の球体くんが上がり、会場は俄然と盛り上がる。
「いよいよ国常高校相撲部の登場ですね。解説の香川くん、この球体くんの得意手はなんですか?」農協の高橋アナが訊く。
「へっ? えーと、あの、新入部員なので、よく知らないというか、何というか、体型からして、押し出しあたりじゃないかなあ、たぶん。まあ、見ててください。見事に押し出しで勝ちますよ」
境内に流れる香川のとんでもない解説を聞いて、小森と吉田がこっちに戻ってくるように手招きをしている。しかし、香川は何を勘違いしたのか、二人に両手でピースサインを送ってきた。
相撲部の期待を一身に背負った球体くんだったが、あっけなく、押し出しで負けた。
土俵下まで転がった球体くんに惜しみない拍手が送られる。
しかし、そのときの衝撃で土俵の一角が崩れてしまった。関係者がスコップを手にあわてて駆け寄る。やはり、ミコがかっぱらってきた児童公園の砂は土俵に向いてない。
その頃、盗んできた張本人は神楽殿でいつになく神妙な顔をしながら、お神楽を舞っていた。フリガナだらけだった神楽口上台本はやっとのことで丸暗記してある。
娘の晴れ舞台を、お母さんがリンゴ飴を齧りながらながめていた。
「西ィ~、小森ィ~」
境内がざわめく。元ラグビー部のハッちゃんよりもさらに大きな小森の体格を見て驚いたのだ。解説席も盛り上がる。
「解説の香川くん、いきなり相撲部主将の登場ですね」
「はい、小森は優勝を狙ってますから、きっとやってくれると信じてます」
香川が珍しくまともな発言をする。
「相手はというと、あれっ、外国人力士ですよ」
「へっ?」
香川が身を乗り出す。
「東ィ~、スコットォ~」
あっ、あのとき神社のそばですれ違った外国人さんだ。
「えー、イギリス出身だそうです。小森くんは大きいですが、スコットさんはもっと大きいですね。二メートル近くあるでしょうか。香川くん、この取り組みをどう見ますか?」
「そうですね。確かに体格差はありますが、小森には相撲の経験と情熱がありますから、きっと勝ちますよ。だから、あのう、えーと、小森がんばれー!」
香川は解説を放り出して、席から立ち上がると、大きな声で声援を送り始めた。
あんなデカイ人をトリャーて投げてみたいという小森の夢が叶いそうだから、応援にも気合が入る。解説なんかやってる場合ではない。
さっき負けたばかりの球体くんが、ひしゃくで小森に力水をあげている。ミコがかなちょろをぶん殴ったひしゃくだったため、柄の部分が少し曲がっていた。
スコットはなぜ自分が相撲をするハメになったのかよく分からない。
ボスに偵察に行って来いと言われて、フェスティバル中の神社の中をうろうろしていると、
「ハーイ、フレンド!」と声をかけられた。
フレンド? ボクが日本に来てお友達になったのは、ジャパニーズマフィアのジュンさんだけだ。もっとまともなお友達がほしいと思っていたので、思わず、ハーイと返事をしてしまった。
ヘイ、カモン! と言われて付いて行ったら、テントの中でジャパニーズパンツを付けられて、土俵に上げられた。
声をかけてきた小森くんは目の前に立っていて、ボクをすごい目で睨みつけている。
さっきの愛嬌のあるハイスクールスチューデントの顔はどこへ行ったんだ?
取り組む前の儀式がよく分からなかったので、対戦相手のマネをして、ソルトを投げたり、タオルで顔を拭いたりした。
それにしてもジャパニーズパンツ姿は恥ずかしいなと思っているうちに試合は始まってしまった。
レフリーの合図とともに、猛ダッシュした小森はスコットの下に潜り込んで上体を浮かせた。背が高い力士に対する定石通りの作戦だ。立会いに成功すると、左右に揺さぶって、すぐに上手を取った。これで磐石の態勢だ。そのまま豪快に上手投げを決めて、小森の圧勝に終わった。
自分よりも大きな外国人を投げ飛ばした小森に観客からは惜しみない拍手が送られた。愛嬌のあるハイスクールスチューデントの顔に戻った小森は、スコットの背中についた砂を払ってあげている。
スコットは何が起きたかよく分からず、土俵を下りたときに、よくがんばりましたね、これ敢闘賞ですと日本酒を渡されると、さっさとその場から帰って行った。
もっと相撲を見たかったのだが、早く戻らないとボスに怒られるからだ。
「西ィ~、パン屋さん~」
パン屋の主人の多田が土俵に上がった。
近所でも有名な老舗のパン屋だけに驚きの声が上がる。
「東ィ~、かなちょろ~」
再び会場がどよめいた。
あまりにも小さなおじさんが上がってきたからだ。
かなちょろも何でこんな目に遭うのか自分でもよく分からなかった。賽銭箱から盗みを働こうとして神主に捕まった。しかし、警察には通報されないまま解放された。そして、後日、連絡をすると言われた。連絡が来たのは昨日のことだ。明日、奉納相撲に参加してほしい。神主は電話でそう言った。まったく威圧的な声ではなかったが、なぜか素直に従ってしまった。
土俵に上がってみると、四股名はそのままの“かなちょろ”だった。
客の中にオマワリが紛れ込んでたらどうするんだよ。それでなくても、敵が多い俺様なんだぜ。
――エイヤッ!
やり場のない怒りのために、塩を思い切り土俵へ叩きつけるかなちょろ。
しかし、気合を見せたと勘違いしたのか、意に反して会場が沸く。
素人行司の木村さんが叫んだ。
「はっけよーい。残った!」
かなちょろが飛んだ。
パン屋さんの頭上を飛び越え、後ろに回りこんで腰に抱きついた。そして、そのまま、土俵の真ん中でパン屋さんを引き倒した。パン屋さんはパン生地のように伸びてしまった。
ほんの十秒くらいでの決着だった。往年の舞の海を見ているようで、境内からは今までで一番大きな拍手が沸き起こった。
なぜ、こんなことをしなきゃならないんだと思いながらも、かなちょろは声援に答えて片手をあげた。
あっ、相撲じゃ勝ったときにガッツポーズをしたらダメなんだっけ?
そういえば、朝青龍が怒られてたな。まあ、いいや。
ほっほっほーっ。俺がかなちょろ様だぜー。今の取り組みを見てくれたかーい。天より高く飛んだだろう。警察がなんだー。窃盗団がなんだー。いつでもかかって来いやーっ!
かなちょろへの拍手は止まない。生まれて初めて拍手というものをもらったかなちょろは鼻高々だった。
もし、スコットがボスの元へ急いで戻らなければ、このとき捜しているかなちょろに出会えたのだが、二人の再会はもう少し後になる。
「西ィ~、杉田ァ~」
呼び出しを聞いて、相撲部一同が驚いた。小森が小さな目を思いっきり大きくして土俵上を見上げている。そこには学校で二番目に大きい杉田さんが立っていたからだ。観客も驚いた。古くからのしきたりに反して、土俵へ女性が上がっていたからだ。しかもうら若き女子高生だ。杉田さんは短パンの上からマワシを巻いて、なぜか、上はゾウの顔の正面ドアップの絵が描かれたTシャツを着ている。つまり、人間とゾウ、二つの顔が上下で並んでいたのだ。
確か、ミコ先輩が言ってたっけ。
米一俵をもらえるから相撲大会に出ないかと誘われて、喜んでついてくる十七歳の純情乙女がいるか?
先輩いましたよ。俺たちの目の前に。
そして、相撲部一同は土俵に上がろうとしている相手の力士を見て、もっと驚いた。
「静乃先生!」
小森たちがあわてて駆け寄る。
「あら、みんな、お揃いで応援に来てくれたの?」息が酒臭い。
「そうじゃなくて、何で先生が出るんですか!?」小森が代表して疑問をぶつける。
静乃先生は酔っ払いとは思えない口調で話し始めた。
「学校に土俵がないから、みんなが運動場の心霊スポットや体育館の隅で稽古をしていることを知っています。周りの生徒たちに顰蹙を買いながら稽古をしていることも聞いてます。なのに先生は、相撲部の顧問として何もしてあげられない。だから、土俵が買えないのなら、せめて毎月の予算を増やしてもらおうと教頭先生に何度も直訴していたの」
「そうだったのですか」小森も吉田も泣きそうになる。
今まで陰でさんざんバカにしていた静乃先生が、実は相撲部のためにがんばっていてくれてたんだ。
「なのに、なのに、あの教頭のハゲ野郎! うちの相撲部は実績がないとか何とか言いやがって、頭を縦に振らないんだぜ! それで、先生、頭に来て、あいつの自宅に百回くらい無言電話をかけやったんだよ!」
突如豹変した静乃先生にみんなが驚く。やっぱり酔っ払いだ。
「いや、先生、それは教師としてあるまじき行為で……」小森がいさめる。
「ううん、大丈夫よ。正体がバレないように公衆電話からかけていたから。でも、全然、効果がないんだよね。教頭のハゲは進行しないし、精神的に追い詰められて痩せることもないの。だから、せめてこの奉納相撲に出場して、国常高校相撲部のPRをしようと思ったの」
「確かに、相手は同じ学校の女子生徒の杉田さんですから、盛り上がるとは思いますが」
「杉田さんは先生が連れて来たんだよ。香川くんが誘いに行って、張り手を喰らったと聞いてかわいそうになったからね。先生と一緒に出ないって言ったらOKだったんだ」
「えっ、そうなんですか!?」いつの間にか香川がいる。
「あら、香川くん、解説はどうしたの?」
「そんなことしていられません。杉田さんVS静乃先生なんて、かぶりつきで応援します」
「あら、ありがとう」そう言ったとたん先生がふらついた。あわてて小森が支える。
「先生、かなりお酒が入ってませんか?」
「当たり前でしょ。シラフで出れるわけないでしょ。わたしは恥ずかしくて力士のお尻も見れないのよ」
「確か、おっぱいも見れませんよねえ」香川がバカを言って、小森ににらまれる。
「先生、酔ってて危ないから止めておいた方がいいと思いますが」
「私は家で猫を三匹も飼ってるのよ」
「はい?」小森が太い小首をかしげる。
「猫だましは得意だから、きっと勝てるよ」
先生はうれしそうに言う。
香川が解説者ぶって忠告をする。
「先生、猫だましは大相撲の決まり手に入ってませんので、やっぱり止めた方が」
しかし、先生はきっぱりと言った。
「いいえ。ここまで来たからには引き返せません。もうこんな格好をしているし」
修学旅行の引率で京都へ行ったときに買ってきたという、胸に“I LOVE KYOTO”と書かれた白いTシャツを着て、
「ほら、下は短パンの上からフンドシを締めてるし」
静乃先生は木村行司に急かされて、足元をふらつかせながら土俵に上がっていく。
長い黒髪は背中で一つにまとめられている。
「先生!」小森が呼び止めた。
「なに? 愛の告白なら後にしてよ」
「違います。フンドシじゃなくてまわしと呼んでください」
小森はしきたりや礼節にうるさい。先ほども、かなちょろが土俵上で得意げにガッツポーズを決めていたのを見て、今にも殴りかかりに行きそうになったので、吉田に後ろから羽交い絞めにされていた。
木村行司のヘロヘロ声が響く。
「東ィ~、静乃先生ィ~。ゲボッ、ゲボッ」
相撲部の四人はどっちを応援すればいいのか分からず、主語を抜かして、がんばれーという声援だけを送っている。
「はっけよーい。残った!」
しかし、あまりにも体格差があり過ぎたために、猫だましを出すまでもなく、勝負は一瞬についた。杉田さんも素人だったので、手加減の仕方を知らなかった。静乃先生は土俵の下まで投げ飛ばされて、小森たちの足元に転がってきた。
「先生!」相撲部が駆け寄る。「大丈夫ですか?」
「――うん。大丈夫よ」先生は頭を振りながら言う。
「先生、相撲の土俵というのは下に落ちてもケガをしないように、高さや角度を考えて作られているんですよ」香川が得意そうに言う。
「お前はバカか!」小森が怒鳴る。「嫁入り前の先生が大股広げて、仰向けに倒れている横で、うんちくを傾けてるんじゃない」
先生は小さな声で言った。
「でも、これでまた婚期が遅れそう」
小森たちは静乃先生を相撲部顧問として認めてあげようと思った。
「おう、スコットくん、遅かったじゃないか。桃竜組長たちもお見えだぜ」ボスが言う。
総勢二十人のヤクザがワゴン車の陰に隠れるように座り込んで待機していた。三台の電動機付き自転車もそばに置いてある。全員、動きやすいジャージやポロシャツ姿だ。警官に職質されたときのために、各自、お願い事が書かれた金メッキの棒を傍らに置いていた。
スコットは隣の神社で相撲大会に出て高校生に負けたとは言えず、怪しい人物や観光バスは見当たらなかったので、気合の杯のために、フェスティバルで日本酒を手に入れてきたと言った。先ほど敢闘賞でもらった日本酒だ。
「おお、越乃寒梅じゃないか」ボスが驚く。
「有名なお酒なのですか?」
「日本を代表する酒だ。特に大吟醸はプレミアがついて、なかなか手に入らないんだ。スコットくんは気が利くな。――よしっ、杯がないから、また順番に回し飲みだ。二十人もいるからな。みんな、ちょっとずつだぞ。まず、桃竜組長から見本を見せてやってください」
「おお、そうか。出入りの前の杯はこうしてググッとあおってだな」
組長は豪快に一升瓶を持ち上げた。
「――ゲホッ。すまん、むせちゃったぜ」
こうして全員に気合入れの酒が回された。日本酒が苦手なスコットだったが、越乃寒梅は香りといい、味といい、まろやかでおいしく感じた。アニキたち一行はここで日が暮れるのを待って、二望寺へ仏像を盗みに入る予定だった。
「仮の組長よ」桃竜組長が言う。「東南亜細亜の連中は今夜、来るのか?」
「さあ、どうでしょうか? 来ないなら来ないで、さっさとお宝を盗み出して帰るだけです。来たときは来たときで、ボコボコにしてやるだけです。――まあ、しかし、隣の祭りに便乗して来るでしょう」
アニキは賑やかな声が聞こえてくる隣の神社を見た。みんなも釣られて目を向けた。神社の向こうに太陽が沈もうとしている。空にはきれいな夕焼けが出ていた。総勢二十人のヤクザが夕焼けに見とれている。
ゆっくり夕焼けを眺めるなんてガキの頃以来だ。みんなそう思っている。
スコットも夕焼けを見て、故郷に思いを馳せる。いつか見たイギリスの夕焼けと同じような光景だったからだ。どこの国から見ても太陽はきれいだなと思うが、日出づる国日本の太陽は世界で一番きれいなのかもしれない。
日本に来て良かったと思った。ますます日本が好きになった。
凶悪なジャパニーズマフィアに囲まれているのに、なぜか平和なひととき。
これからここで激しい乱闘が起きるとは思えない。
このまま何事もなく、緩やかな時間が過ぎてくれないかなあとスコットは思った。
奉納相撲は順調に取り組みをこなしていく。心配された木村行司の寿命も安泰だ。
副主将の吉田は文具屋の本山さんを豪快に投げ飛ばしたが、橋の下部屋で一番体が大きいピーちゃんに寄り切られた。
小森は、娘が大きな声で応援していた長谷を簡単にすくい投げで倒した。解説者を兼任していた香川は大手電機メーカーの木川を内掛けで倒したが、ハッちゃんに押し出されて、すごすごと解説席に戻って行った。農協の高橋アナが暖かく出迎える。
「香川くん、今の取り組みはどうでしたか?」
「ハア、ハア、ハア……」まだ息切れが止まらない。「ボクとは体格差がかなりありまして、技を繰り出す間もなく、押し出されてしまいました。ハア、ハア……」
「やはり、取り組みと解説を同時にやるのは無理でしたね」
「でも、ハア、ハア。取り組みは残ってますので、解説は続けます。ハア」
その後、かなちょろがまた頭上を飛び越え、女子高生力士の杉田さんの後ろに回りこんで送り出した。
準決勝では小森がピーちゃんを上手投げで破り、ハッちゃんが動き回るかなちょろに張り手を浴びせて土俵に沈めた。
決勝は相撲部主将の小森と元ラグビー部のハッちゃんになった。
「西ィ~、小森ィ~。東ィ~、ハッちゃん~。この相撲一番にて本日の打ち止め~。ゴホッ、ゴホッ」
完全に声がかすれてしまっている行司兼呼び出しの木村さんが最後の呼び込みを行う。
大柄同士の対決に、境内に敷かれたゴザの上に座って応援している観客も大いに盛り上がっていた。
曲がった柄のひしゃくから力水をもらった小森は最後の戦いに気合を入れる。
勝てば優勝だ。国常高校相撲部の知名度とともに、部の予算も上がるかもしれない。
ぜったいに勝って、二度と静乃先生に無言電話はさせない。
その静乃先生はというと、
「小森くーん。がんばってェ~」
勝手に引っこ抜いてきた小森の興行のぼりを左右に振って大声を上げている。まとめられていた長い黒髪はほどかれて、左右に揺れている。
小森は見て見ぬフリをして、相撲に集中することにした。吉田はかぶりつき席に陣取って主将を見上げている。香川は解説席に座ったまま、マイクの前で応援を始める。
「解説の香川くん。いよいよ決勝戦ですね。この取り組みをどう見ますか?」
「もちろん、小森の勝ちです。豪快に上手投げで決めてくれるはずです。いや、下手投げかなあ。でも、小手投げも得意だし、すくい投げもいいし、二丁投げと言う変わった技も使えるし、うーん。相撲は筋書きのないドラマと申しますので、やってみないと分かりませんからねえ。土俵には魔物が住んでると言いますし。ああ、魔物がいるのは甲子園でしたか、F1のサーキットでしたかねえ。とにかく、がんばれー」
「相変わらず、キレのない解説ですが、二人の対戦を見守ることにしましょう」
木村行司が最後の力を振り絞って叫ぶ。
「見合って、見合って、はーけよーい、残った!」
小森は突進してくるハッちゃんをかろうじて、分厚い胸で受け止めた。
――ぐぐぅ。
これがラグビー仕込みのパワーかよ。
でも、俺も負けられないんだよ!
一気に体を近づけてまわしを?みに行く。
ハッちゃんは?ませないように両手を突っ張って体を離す。
こいつ、相撲の経験があるな。
じゃあ、これはどうだ。
小森は左に回りこんでハッちゃんを慌てさせる。圧力に負けてハッちゃんの左足が浮いたところで一気に攻めにかかる。しかし、ハッちゃんは土俵際で踏みとどまった。下半身がしっかりしている。日頃から鍛えているようだ。
二人の攻防に境内から割れんばかりの拍手が起きる。
このとき小森の両手はすでにまわしを捉えていた。あとは全体重をかけて押し出すだけだ。
吉田が土俵下から必死の形相で睨みつけている。香川は立ち上がってマイクでわめく。のぼりを持った静乃先生の悲鳴が響く。ハッちゃんを応援しているブンさんたちも大声を上げている。
小森のこめかみに血管が浮き出る。汗も滴り落ちる。歯をくいしばって全身に力を込めた。押されているハッちゃんも負けじと押し返してくる。
なんだよ、この馬鹿力は!
両者が組み合ったまま数十秒が経過した。
再び大きな拍手が沸く。
やがて、焦れたハッちゃんが引いた。小森はこの瞬間を待っていた。
そろそろハッちゃんの体力も限界だろう。鍛えているとはいえ、持久力はないと見ていた。だから、どこかできっと引く。
小森はこれが最後のチャンスとばかりに、全身の力をハッちゃんの巨体にぶつけた。ハッちゃんは一気に押される。しかし、土俵に足をかけた状態でとどまった。
小森は全身全霊を込めて、さらに押す。だが、両者は膠着したまま時間が過ぎる。
三回目の拍手が起きる。
――うぅ、動かない。なんでこんなに重いんだ。
小森は頭の血管が切れそうになる。
元ラグビー部のハッちゃんはどこかで相撲の練習もしていたのかもしれない。だが、俺も負けるわけにはいかない。俺は主将として国常高校相撲部を背負ってるんだ。小さな相撲部だけど、二人の仲間と一緒に運動場の心霊スポットで毎日懸命に稽古をしてきたんだ。そして、俺たちには顧問の静乃先生もついている。負けるはずがない。
「はーけよーい、残った、残った。ゼイゼイ……」
木村庄之助さんも自分の体力と戦っている。
――これで、どうだ!
小森はこの日一番の力を、ハッちゃんにぶつけた。
二人はもつれ合うように土俵下まで転がり落ちた。
「小森ィ~。――わあっ!」
小森に軍配を上げたとたん、木村さんが酸欠で倒れた。
土俵下で待機していた救護班が酸素缶を持って駆けつける。
勝ったのは小森主将だった。相撲部の面目にかけて見事に優勝を果たした。ようやく土俵に上がってきた二人に対して、小森側からもハッちゃん側からも大きな拍手が起きる。
(やったぜ! 優勝だ。相撲サイコー!)
小森はそう叫びたかったが、ここは神聖な土俵の上だ。そんな品のない事をしてはいけない。横綱には品格も必要だ。グッと我慢をして、ハッちゃんとともに礼をかわし、お互いに検討をたたえ合う。
(土俵を下りてから、喜びを爆発させてやるぜ)
同じく酸素缶を手にヨロヨロと立ち上がった行司の木村さんにも、町内のみなさんから拍手が起きた。大役を終えてほっとしたのか、脳にまで酸素が行き届かなくなったのか、木村のじいさんが両手を上げて声援に答えた。
「イエーイ!」
最後に行司自らが相撲の厳粛なルールを破るという前代未聞の奉納相撲の取り組みは、こうして無事に終えることができた。
土俵上に優勝力士の小森が立っている。土俵下からは相撲部一同と女力士の杉田さん、静乃先生もうれしそうに見上げている。
やがて、関係者から表彰状が読み上げられ、大きなトロフィーが授与された。まるで本物の大相撲の表彰シーンのようだ。境内からは大きな拍手が沸き上がる。
三つのお願い事を果たせてほっとしている痴漢の五人組がいる。ブンさん率いる橋の下部屋の一行もいる。
静乃先生がかついでいる興行のぼりは、自身の長い黒髪とともに、境内を流れる穏やかな風に揺れていた。
その頃、満願神社の拝殿前でも祭礼は大きな盛り上がりを見せていた。二人の巫女さんが縁起物のお餅を参拝客に向けて投げていたからだ。
お餅はこの日のために、まんじゅう一筋六十年の趣月堂のおばあちゃんが一つ一つ手作りで作ってくれたものだ。受け損なって下に落ちてもいいように、ビニールで包まれている。
そして、お餅の中にはさらに小さなビニールで包まれた硬貨が仕込まれていた。ほとんどはご縁がありますようにとの願いを込めた五円玉だが、中には五百円玉も含まれている。受け取った人の中にはさっそくお餅を割って中身の硬貨を確かめている人もいて、五百円玉を見つけた人からは歓喜の声が上がっていた。
二人の巫女の脇から神主が一生懸命にゼスチャーを送ってきている。先ほどから、まるで競うようにして、遠くにいる客ばかりに投げている二人へ、もっと近くの人にも、お餅を投げてあげなさいと言っているようだ。
神主が隣で立っているジッちゃんに苦笑いをして言う。
「やっぱり、あれはジッちゃんの娘さんだ。性格がそっくりだ」
「えっ、どういう意味です?」
「負けず嫌いなところがジッちゃん譲りだという意味です」
「そうですか。うーん、言われてみれば、そんな気もしてきましたな」
「しかし、あの二人、気が合うとは思いませんでしたよ」
「そうですな。年齢は一緒でも性格は正反対のようですからな」
「動と静といった感じですからね」
「やはり、若い人はそんな壁も簡単に乗り越えて仲良くなれるのですかなあ」
「ははは。ジッちゃんも若い頃があったろうに」
午後、ミコは福玉の販売やお神楽の舞など、やることがたくさんあって、てんてこ舞いをしていた。そこへ到着したのが、ジッちゃんの娘のサユリだった。挨拶もそこそこに無理矢理巫女の衣装を着せられると、餅投げの儀式に参加させられた。ミコが境内で練習をしたというピッチングフォームで遠くの人にお餅を投げると、サユリも腕力には自信があると言い出して、負けじと遠くへ投げはじめた。お餅は前の方で待ち構えていた人たちの頭上を越えて、はるか後ろの方へ飛んで行く。やがて、前の人たちが私たちの方にも投げてくださいと騒ぎ出した。
騒ぎに気づいた神主は両手を振り回して二人に指示を送っている。やっと、神主のメッセージが届いたのか、二人の巫女はすぐ下で手を伸ばしている人たちにも、お餅をポンポンと投げ始めた。
やがて、奉納相撲を見学していた人たちが移動して来て、拝殿前はさらに多くの人で溢れる。もちろん、その中には着替えを済ませた相撲部員たちもいた。しかし、山のように作ってもらったお餅はまだまだ残っている。すべてを投げ終わる頃、二人の自慢の二の腕はパンパンに腫れ上がっていることだろう。
――ブワーン。
大きなクラクションの音に、真っ先に反応したのはアニキだった。
「バスだ! あいつら来やがったぜーっ!」
座り込んでいた仲間たちに緊張が走る。
「あの馬鹿ども、お約束通り、大型バスに乗ってやがる」
すっかり日が落ちた二望寺の駐車場をヘッドライトが照らす。闇の中から二階建てサルーンの大型観光バスの巨体が現れた。
アニキたちはエンジンを切ったワゴン車の陰で一塊になって身を隠している。
なんだか、寒さをしのいでいるサルの集団みたいだなとスコットは笑いそうになる。こんなときに笑いたくなるのは緊張の裏返しなんだろうなと自分を冷静に分析する。
空を見上げるが、そこには月が光っているだけで、頭をぶつける障害物はない。前回のようなドジはもう二度とごめんだ。しかし、今日の方が、少し気が楽なのも確かだ。なんといってもこれだけの大人数だ。
スコットは闇に潜む仲間を見た。目をギラギラさせているのは二十人の精鋭たちだ。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
大型観光バスが止まった。
アニキがみんなにだけ聞こえるくらいの小さな声で言う。
「見てろよ、まず三人が出てくる。そいつらが手に拳銃を持った偵察部隊だ。安全と分かると仲間が下りてくる。出口はあのドアと反対側にある非常口。その二ヶ所だ」
桃竜組長があとを引き継ぐ。
「よしっ、計画通り、わしの護衛の三人があの偵察の三人に飛び掛かれ。拳銃を奪ってしまえばこっちのもんだ。非常口を固めるのは仮の組長にまかせたぞ。奴らも二十人ほどだからな、一人で一人をやっつければ勝ちだ。――ところで、仮の組長。あのバスの運転手は小柄な奴だと言ったな」
「はい、二度見かけましたが、ちっこくて貧相で小学生のようなオヤジでしたよ」
「よしっ、そいつは俺に任せろ。みんな、俺の獲物に手を出すんじゃねえぞ」
護衛の三人が身を屈めて金メッキの樫の棒を手にバスへ近づいていく。一方、非常口側に向って、アニキたちが歩みを進める。
やがて、前方のドアが開いてアニキの予想通り、偵察の三人が出てきた。
護衛たちは目配せをすると、音もなく獲物に近づき、それぞれの後ろから首を抱え込んだ。声も上げられずにもがいていた三人だったが、しばらくすると、全身から力が抜けて、その手から拳銃が落下した。
護衛の三人は拳銃を蹴飛ばしてバスの下に隠すと、気を失っている偵察の三人をワゴン車の方にズルズルと引き摺ってきた。
状況を見守っていたスコットが桃竜組長に問う。
「あのピストルを奪わないのですか?」
組長は怒ったように言う。
「当たり前だ。あんな武器を使っての出入りなんか、極道の恥さらしだ。あんな外道ども、素手で十分ってわけだ」組長はそう言って、拳を見せる。
スコットはジャパニーズマフィアの心意気を感じて少しだけ感心する。
偵察の三人が戻ってこないことに気づいたのか、バスの中から二人の男が出てきた。
それを見て、桃竜組長が叫んだ。
「よしっ、みんな行けー! 奴らは丸腰だ。樫の木の餌食にしてやるんだ」
その声はバスの裏で待機していたアニキたちにも届いた。
総勢二十人のヤクザが大型バスを取り囲んだ。バスから出てきたばかりの二人の男はすでに滅多打ちにされている。次に外へ出て来たのは運転手役の小さなオヤジだった。
「待て待て、子どもオヤジよ、どこへ行く。組長自らがお相手してやるぜ」
桃竜組長は小柄な男の頭上めがけて樫の棒を振りかざした。闇の中で月の光を受けた金メッキが輝く。しかし、男は軽々とそれを避けて、ズボンのポケットからナイフを取り出した。
「外道の分際で光り物を使うのか! よしっ、護衛の三人。こいつは任せた。わしは違う獲物を追いかける」
組長はそういい残してワゴン車の方に去って行く。
その間に、運転席の窓を破り、バスに乗り込んだのはジュンだった。エンジンを止めて、刺さっていたキーを引っこ抜くと、寺の敷地内に向って放り投げた。
それを見ていたアニキ。
「ジュン、よくやった。みんな、これでバスも動けんぞ。ボコボコに壊してやれっ!」
そのとき、出入り口と非常口が同時に開いた。東南亜細亜諸国犯罪連合の連中がつぎつぎと下りてくる。
一人で一人をやっつけることを目安にして、奴らに襲い掛かるジャパニーズマフィア。
個人の力では圧倒的に有利だ。数々の修羅場を潜り抜けてきたヤクザとはレベルが違う。
しかし、どうもおかしい。
倒しても倒しても、敵の人数が減らない。
アニキが叫ぶ。
「奴ら、二十人どころじゃねえ。五十人、いや、六十人はバスに詰め込んであるぜ。――いいか、みんな、作戦変更だ。一人で三人をやるんだ。桃竜組長、そっちの組員への連絡も頼むぞ」
しかし、組長からの返事はない。
その頃、桃竜組長はスコットとともにワゴン車の中で待機していた。運転席にのんびりと座っている組長。同じく助手席にいるスコット。乗り物に弱い組長だったが、動いてなければ平気らしい。
「精鋭たちを集めたから、すぐにケリはつくだろ。終わった頃に出て行って、瀕死の状態の奴を一発蹴飛ばして、自分の手柄にすればいいだろ。それまで、ここで高みの見物といこうや」
「でも、組長。それじゃ、今戦っている人たちに申し訳ないです」
「だったら、なんでお前はここにいるんだ。臆病風に吹かれたか?」
「いや、ボクはマフィアじゃないので、あの……」
そのとき、一人の伝令が走って来た。
「桃竜組長、大変です! 敵は六十人もいて、われわれが押されてます。現場に戻って、早く指揮を取ってください」
「何! よしっ、スコットくん、すぐに行って、みんなを助太刀するんだ」
「――えっ!? ボクですか?」
スコットは言葉を詰らせたまま去って行く伝令の男の背中を見つめる。
敵は二十人と聞いていたのに、その三倍もいたなんて。――ああ、どうしよう。
そのとき、車のドアがガンガンと叩かれた。
「誰だ。乱暴なことをする奴は!?」
怒った組長がウィンドウを下げて顔を出してみると――。
「わっ、何だお前たちは!」
ワゴン車が数十人の敵に囲まれていた。
あわててボタンを押してウィンドウを上げる組長。
しかし、敵の一人が強引に腕を突っ込んできてガラスを押し下げる。
「何をするかっ!」
組長は体重をかけてボタンを押す。しかし、敵も両手で押し下げる。
――ガガッ。
いきなりモーターが止まった。
「このポンコツ車が! スコットくん、行くぞ!」
組長は足でドアを蹴り開けると、外に転がり出た。スコットも反対側のドアから飛び出す。
スコットは外の光景を見て、息を飲んだ。そこで倒されていたのは、みんな自分の仲間たちだったからだ。かろうじて立っている数人が敵を相手にして孤軍奮闘している。
もっとも多くの敵を引きつけているのは百舌だ。全身から血が噴出していると言ってもおかしくない。敵と味方が入り乱れていて、ボスもジュンも護衛の三人もどこにいるのか分からない。月の光を受けて輝くはずの金メッキの樫の棒もあちこちに散乱し、逆に敵に奪い取られて滅多打ちにされている者もいる。
ああ、ボクの仲間たちが大変だ。みんな、ボクに良くしてくれたのに。たくさんの思い出ができたというのに。こんなに日本人が好きになったというのに。日本の旅がこんなことで終わってほしくない。
スコットは飛び出すときに?んだ金メッキの樫の棒を、もう一度強く握り締めた。
――騎士(ナイ)道(トス)精神(ピリット)!
スコットが駆け出した。
「ターミネーターだ!」敵の一人が叫んだ。
ワゴン車から飛び出て来た男があのターミネーターと分かり、蜘蛛の子を散らすように数人が逃げ出した。
「どけ、どけっ! ボクの名はスコット。スコット・トレーシーだ!」
巨体のスコットは樫の棒を頭上でビュンビュン振り回しながら、敵を追い掛け回す。
「ボクはサンダーバード1号のスコットと同じ名前なんだぞ! みんな、やっつけてやる」
「おお、いいぞ、スコットくん!」
見かけに寄らず足の速い桃竜組長が逃げ回りながら声援を送る。だが、声援を送るだけで、誰とも戦おうとしない。
そのうち、勇気のある敵の一人が奪った樫の棒を片手にスコットへ向ってきた。
――ガッ!
スコットは頭に一撃を喰らって、あっという間に倒された。
ターミネーターが見かけだけで、実は弱かったと知った敵はスコットを取り囲み、つぎつぎに蹴りはじめる。先日の仇を討とうとしているに違いない。
スコットはアスファルトの上を転がりながらなんとか攻撃を交わそうとしていたが、敵の人数が多すぎてすぐに捕まってしまう。
やがて、ポケットから木彫りのネッシーが転がり出た。
「ピーコック?」敵が言う。
「違う! クジャクなんかじゃない。触るんじゃない」
スコットの悲痛な叫びも届かず、ネッシーは踏み付けられて、細い首が折れてしまった。
ああ、ボクが彫ったネッシーが。ジュンさんが良くできていると褒めてくれたネッシーが。
スコットの目から涙が溢れる。
ネッシーの横には一冊の文庫本も落ちていた。カバーがめくれかかっているその本は、スコットが日本に来て初めて買った本である枕草子だった。
その頃、かなちょろは二望寺の敷地内にいた。相撲が終わったと思ったら、神主がやって来てお願い事をされた。先日の賽銭泥棒のことは他言しないという条件でのお願いは相撲大会へ出場することと、二望寺へ盗みに入ることの二つだった。
「盗みって、あんた、神主だぜ。神に仕える人が、俺みたいなコソ泥に盗みを指図してもいいのかい?」
「かなちょろさんが隣に持ち込んだという仏像、いや、原木がどうしても気になってね」
「その原木を手に入れて、何をしようってんだ?」
「実は以前から私はシイタケ栽培に興味がありましてね。一度でいいから自分で育てたシイタケを食してみたいと思っていたのですよ」
「シイタケのために俺が盗んだ木をもう一度盗み返せというのかい。確かにあれはシイタケ栽培にピッタリなんだが、もし俺が捕まったらどうするんだ?」
「捕まるようなかなちょろさんじゃないでしょ」
「――えっ? まあ、そうだな。俺様がつかまるわけないな。ただし、その木を盗んできたら、もうあんたとの縁はこれっきり無しだぜ」
そういい残して、かなちょろは軽々と塀を越えた。今度は叱られないよう注連縄に注意して隣へと飛び降りた。
日が落ちて辺りはすでに暗くなっている。
かなちょろはポケットがたくさんついたベストを着て、手には釣竿を持っている。いつものように獲物を釣り上げようというわけだ。原木は女住職が投げ捨てたまま放置されているに違いない。だから、場所はだいたい分かっている。
あたりは暗くなっているが、かなちょろ様は夜目が効くのさ。
かなちょろは腰を低くしてそろりそろりと歩いて行く。
そのとき……。
――ゴーン。
寺の鐘が鳴った。
かなちょろはあわてて身を縮めた。
――ガーン。
その拍子に庭の石に頭をぶつけた。
「あ~、痛ェ。なんだい、鐘かよ。びっくりさせやがる」
――ボワーン。
つづいて、法螺貝が吹かれた。
「なんで法螺貝なんだ?」
かなちょろには分からなかったが、鐘と法螺貝、これらの二つは隣の満願神社への宣戦布告の合図だった。
何年も鳴らされていない二望寺の鐘の音。この音を聞いて若とジッちゃんが顔を曇らせたことを、かなちょろは知らない。
しばらくの間、かなちょろは行動を起こさず、ぶつけた頭をさすりながら、本堂の脇に潜んでいた。先ほどの鐘と法螺貝の音が不気味に思えてきたからだ。
それに長年の勘も働いていた。しばらくは動かずにここにいた方がいい。神主からいつまでに盗んで来いとは言われていない。だから急ぐことはない。焦るとロクなことが起きないからだ。盗みで生計をたててきたかなちょろは身に染みて感じていることだ。
それにここは異様な気が漂っている。だから、気が晴れるまでしばらく待っていたが、その気配はない。それどころか、その気は濃くなってきている。いったい何が起きようとしているのか?
そのとき……。
かなちょろの右上に光が灯った。
「なんだ、電灯があるなら早く点けろよ。――わっ!」
かなちょろは、思わずのけぞった。
それは電灯ではなく、三つの火が空中で揺れていたからだ。
「ひ、人魂だ。なんでこんな所に出るんだ――ああ、いいのか、ここは寺だからな。いや、いいわけないか。俺様の前には出るなよ。他人の目の前に出ろよ。確かに、今まで何度か寺にも盗みに入ったことがあるけど、人魂なんか出なかったぞ。なんでだ。ああ、さっき頭をぶつけたから変な物が見えるようになったのか」
目をゴシゴシ擦ったが、三つの火はゆらゆらと浮いている。
かなちょろは、それがセントエルモの火と呼ばれている発光放電だとは知らなかった。
――怨、オーン、オーン。
「今度は何だよ、おい。この変な声は?」
かなちょろは見上げていた三つの火から目を下ろした。
そこには一艘の船が隣の神社に向けて置いてあった。
その不気味な声はその船から聞こえていた。
「そうか。あの火は三本のマストのてっぺんで燃えているのか。しかし、なんで、こんな所にでっかい船があるんだ? それにこの船は何だか色が変だな。なんでこんなに青白く……」
かなちょろは仕事も忘れてゆっくり船に近づいていく。
「わーっ!」
船を形成していたのが素っ裸の人間だと分かり、かなちょろは悲鳴を上げた。
「何のオブジェだよ。気持ち悪ィ~。――う、動いてやがる。この船は生きてるのかよっ!」
青白い霊体は複雑に絡み合ってウネウネと動いていた。
――怨、オーン、オーン。
真っ暗な口から絞り出すような声を発している。
やがて、かなちょろを見つけた一体の霊が手首を動かして、おいでおいでをはじめた。
「い、いやだ。行かない。俺はまだ死にたくない」
その霊の周りにいる霊たちもかなちょろの存在に気づき、手や足を動かし出した。
――怨、オーン、オーン。
「そ、そこから出してほしいのか。俺にはできないから、誰か違う人に頼んでくれ。お坊さんでも、神主さんでも、牧師さんでも、神父さんでも。――俺様は、ほら、この通り忙しいから……」
かなちょろは震える手で商売道具の釣竿を持ち上げて見せる。
――ズズッ。ズズッ。
霊体船はズルズルと地面に糸を引きながら動き出した。
船体がしだいに隣の神社の敷地へ入り込んで行く。
通った跡はヌメヌメになって光っている。あたりに腐敗臭が漂い始めた。
その頃、満願神社では若とジッちゃんが白い塀の前で身構えていた。
二望寺は釣鐘と法螺貝の音を合図に、二十年前のときと同じように式神をミミズに変化させて、地中から神社の敷地内に送り込んできたのだ。
式神を塗り込んだ長くて白い塀を傾け、式神が潜む注連縄を切り裂き、神が宿る榊の根を蹴散らし、つぎつぎに入り込んでくるミミズに対して、ジッちゃんは式神をコウベモグラに変化させて対抗した。
しかし、今回のミミズの数は尋常ではなかった。コウベモグラはたちまちミミズに取り囲まれて、圧迫死させられていく。
やがて、境界の最後の砦である結界棒が傾きはじめた。
「ジッちゃん、なんとか踏ん張ってくれ」塀の前で仁王立ちしている若が言う。
「若、こちらはかなりの被害ですが、ミミズどもも相当数が消滅しています」
同じく庭師の衣装のまま邪神に立ち向かっているジッちゃんが答える。
「この結界棒は大丈夫でしょう。きっと、苦しくなった奴らは地表に現れるはずです」
――ニュル、ニュル、ニュル。
やがて、ジッちゃんが言った通り、ミミズたちが這い出してきた。地面を覆いつくした数百匹、数千匹のミミズが、クネクネとのたうち回っている。まるで赤茶色のカーペットのようなミミズの集団が神社の敷地をモゾモゾと移動して行く。恐れを知らぬミミズたちは神をも飲み込もうとしていた。
そのとき、ジッちゃんが動いた。
ジッちゃんはすでに星が瞬いていた空に向って三度鳴いた。その声に呼応し、すぐに鎮守の森が騒がしくなった。深くて青い色をしていた空がたちまち黒くなっていく。
ジッちゃんは若をうながして、急いでミミズの集団から離れた。
空から来た黒い集団がミミズに襲い掛かった。三本足のカラスたちだ。
カラスはつぎつぎにミミズをついばんでいく。逃げ惑うミミズたちだが、結界棒の力が邪魔をして地中には戻れない。赤茶色カーペットはあちこちに黒い穴ができはじめた。
「ほう、ジッちゃんの言った通りだ」遠くから戦況を見守っている若が感心している。
「それにしても、このミミズの数には驚きました。三本足のカラスたちがいなければどうなっていたことやら」
「これで一安心といったところかな」
「そうですな。そうあってほしい……」
――ズシン。
突然、式神を塗り込んだ白い塀の一部が崩壊した。
「どうした、ジッちゃん!?」
――ズズッ。ズズッ。
塀を突き破り、霊体船の船首が姿を現した。
全長五十メートル、高さ三十メートル、三本のマストを持つ帆船。それは月の光を浴びるまでもなく、自ら青白い光を放ち、全身をブルブルと震えさせていた。
突如現れた数百体の霊が組み合わさった霊体船を、若とジッちゃんは驚きのあまり声も出せずに見上げている。
そして、マストの尖端では二人をあざ笑うかのように三つの火の玉が揺れていた。
「あの女住職はこんなものを作っておったのか」
ジッちゃんがやっとのことで声を出す。
「ミミズを蹴散らしたと思ったら、今度はこいつらが相手か」
若もやっとのことで声を絞り出した。
その間も、死体のジグソーパズルのような霊体船はズルズルと敷地内に入り込んでくる。
――怨、オーン、オーン。
不気味な声を上げながら霊体船は移動する。霊たちは命ぜられるまま青白い体を動かして船を進めていた。足で地を蹴る者。手で地を掻く者。
帆を張ってはいるが、風ではこの船は動かない。動力は個々の霊体の手足だ。
そして、その行き先は神殿だった。
かつては神を恐れたであろう霊たちも、もはや邪悪な気の塊となった女住職フミに操られて、神を滅ぼそうとしている。
「ジッちゃん、何としても、こいつを止めよう」
ジッちゃんは直接神殿を守る式神以外の白い塀、注連縄、鈴の中、灯籠の中に潜むすべての式神たちをこの境界へ動員し、ミミズを退治してくれた三本足カラスに新たな指令を発した。
やがて、式神とカラスの集団が一体となり、新たな壁を作り始めた。
ジッちゃんは壁が押されないように彼らに向って懸命に念を送る。
こめかみから流れ出た汗が頬を伝って、ポタポタと地に落ちて行く。
そこにはたくさんのミミズの死骸が横たわっていた。
二人の巫女、ミコとサユリが松明を手に火炉の前に立っている。先ほど、二人は神殿に出向き、古来より絶えることなく灯されている神聖な火を貰い受けて来た。そして、この松明を使って、境内のあちこちにかがり火を灯して回った。そのため、神社全体が幻想的な雰囲気に包まれて、集まった人々は厳かな気分に浸っている。
火炉の中には人々が持ち寄ったたくさんの木やお札が積まれていた。いよいよ火祭りの始まりだ。
「ねえ、ミコちゃん、こんな大役、私でいいのかなあ」サユリが松明を持ちながら小さな声で囁く。
「全然平気だよ」ミコは何食わぬ顔をして答える。
「だって私は今日ここに来たばかりの何も知らない素人だよ。お父さんと神主さんが、ぜひと言うから巫女の格好をして、ちょっとお餅を投げただけなのに、後からこんな大切な儀式をさせられるとは思ってもみなかったよ」
「でも、ジッちゃんはおじいさんの代からこの神社にすごく貢献してるらしいし、そのお孫さんだったら、ド素人でも神様は大歓迎してくれるよ。それに、あたしもここに来たばかりだから素人みたいなものだよ。ついこの前まで、街中でチェーンを振り回して暴れてたんだからね」
「えっ、ホント?」
「ホント。ほら、あの右側にガラの悪そうな女が五人固まってこっち見てるじゃん。あれ、あたしの古くからのダチ。後からもっとたくさん来るけどね。夜遅くにならないと行動しない奴が多いから」
「確かに見た目のガラは悪そうだけど」
「土俵の砂はあの子たちと一緒に用意したんだ。みんな、根はいい奴ばっかりだからさ。後でサユリさんにも紹介するね」
「えっ?」サユリは戸惑うが、
「じゃあ、そろそろ行くよ」ミコは構わずに歩き出す。
二人は集まった人たちによく見えるように、松明を頭上高く上げると、ゆっくり歩調を合わせて歩き始め、途中で二手に分かれた。
そして、境内の真ん中に設置されている火炉に左右からその神聖な火を入れた。
今夜は一晩中、この火炉が燃やされ、その周りを人々が踊って回ることになる。火が火炉に入れられたのを確認すると、人々は古来より伝わる祭り歌を歌いながら、踊りはじめた。
この身よ踊れ、御魂(みたま)よ、震えろ
朝が来るまで、神とともに、火とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
土より出(い)でよ、木霊(こだま)よ響け
鳥が啼くまで 生とともに、土とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
闇を照らせ、天(あま)へと届けよ
命尽きるまで、死とともに、水とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
人の輪が火炉の周りをグルグル回る。火炉からは無数の小さな火の粉が噴き上がり、夜空へ向かって散らばって行く。
みんなの願いが叶いますようにとの思いを込めて、人々は踊る。歌いながら踊る。燃え尽きないで落ちてきた火の粉が体に降りかかるが、みんなは気にしないで踊っている。
神様が見てくれている。神様が守ってくれている。だから、気にしないで踊る。
すべては神とともに、火とともに。
なんちゃってターミネーターのスコットが集団リンチに遭っているとき、ジュンも数人に囲まれて殴りつけられていた。立っているのが精一杯だった。数メートル横ではアニキが数人を相手に戦っている。
ジュンの目にスコットの姿が映った。
「スコット!」
体の大きなスコットには特に多くの敵がハイエナのように群がっている。スコットは何も反撃できないまま丸くなって、蹴られ続けている。奴らは先日、ターミネーターとして騙された仇を討とうとしているのだ。
「スコット、早く逃げろーっ!」
叫んだとたん、ジュンはカウンターパンチを喰らって倒れる。ジュンの声が何度もあたりに響くがスコットには聞こえてないようだ。
代わりにアニキからの返事があった。
「ジュン、自分の敵に集中しろ! あいつは電柱の張り紙を見てやって来た外国人に過ぎん。義理立てをする必要はないだろ」
ジュンは倒れながら大声で叫ぶ。
「でも、アニキ! あいつは金がないのに俺に牛丼の特盛を奢ってくれたんですよ」
アニキは大きな敵をブン投げると、上に乗りかかり、殴りはじめた。しかし、違う敵がアニキの後ろから羽交い絞めにする。
「アニキーッ!」ジュンがまた叫ぶ。
アニキは敵の腕から逃れてジュンに叫ぶ。
「ジュン、何をボケッとしてるんだ! 早くスコットの元へ行ってやらんか!」
「アニキ……」
「ジュン、これをスコットに渡せ」
アニキはそばに落ちていた金メッキの棒を拾って叫んだ。
それは、樫の棒の中でもひときわ長いものだった。
「いいか、ジュン。これをスコットに渡して、マレットと叫べ!」
ジュンは上から乗っかってきた敵を払いのけると、アニキが投げた長い樫の棒を?み、スコットの元へ走ろうとした。
しかし――。
後ろから隙を狙っていた男が仕掛けてきた。気配を感じて振り返ったジュンの目先に、誰のものか分からない樫の棒が迫ってくる。仲間の誰かが奪い取られた樫の棒で、今まさに前頭部を殴られようとしていた。それはほんの一瞬の出来事だったはずだ。しかし、ジュンにはそれがスローモーションではっきりと見えた。
近づいてきた棒に書かれた願い事がはっきりと見て取れる。
“アニキが早く正式な組長に戻れますように”
俺の組の誰かが書いたものだ。でも、俺はもうアニキに会うこともない。このまま頭をかち割られて死んで行んだ。
もう一度、アニキのことを組長と呼びたかった。
そのとき、衝撃が走り、ジュンの体が横に飛ばされた。
――ゴキッ!
転がったジュンは誰かが自分の代わりに樫の棒で殴られてくれたことを知る。
――誰だ!?
振り向いたジュンは、顔面を血みどろにしている百舌を見た。
「百舌さん!」
百舌の額を新たな血の筋がツーッと流れてくる。
「ここはわしに任せろ」
「でも、百舌さん、すごい血が……」
「わしは簡単に死にはせん」
百舌は殴ってきた相手の胴に喰らい付いた。
「ジュン、早くスコットを助けてやれ。あいつはお前の大切な友達なんだろ」
そう言って――百舌が笑った。
「百舌さん!」
ジュンが駆け出した。樫の棒を振り回して、飛び掛かってくる相手を蹴散らして行く。
「どけ、雑魚がーっ! 百舌さんが笑ったんだ。分かるか、お前らにー! 百舌さんは赤ちゃんのとき橋の下に捨てられたんだ。ずっと笑えない人生を送ってきたんだ。でも、今、百舌さんが笑ったんだ。分かるかーっ! 百舌さん、俺、ぜったい、スコットを死なせない。 俺も死なない。だから、百舌さんも生きてください!」
ジュンの目に頭から流れてきた血が入り視界がぼやける。
「スコット、どこだーっ! 返事しろーっ! スコットー!」
出血のため頭がふらついて、方向感覚も鈍くなってきていた。
「見習いのジュンさーん、ボクはここですー」
あのバカ、こんなときに見習いなんて付けやがって!
居場所を確認したジュンは立ち止まって、まともに力が入らない腕で目の中の血を拭った。スコットを殴りつけていた連中がこちらを向いて一列に並ぶ。
お前らはフリーキックに備えるゴール前のサッカー選手かよ。
そう言って毒づいたとたん、いっせいにジュンを目掛けて走って来た。
ジュンは樫の棒を握り締めて構えた。敵をギリギリまで引きつける。
まだだ……。まだだ…。まだだ……。よしっ、今だ!
「スコット、こいつを受け取れーっ!」ジュンは大きく振りかぶった。
金メッキを施した樫の棒が連中の頭上を越えて飛んで行く。
あっけに取られる奴らを尻目に、それはうまくスコットの足元にまで転がった。
「スコット、アニキからの伝言だ。よく聞けーっ!――マレット!」
スコットは転がってきたやや長めの樫の棒を見た。
――マレット。
そうだ。ボクは王者のスポーツ、ポロの選手だったんだ。
そう、ボクは王者なんだ!
スコットは首が折れているネッシーと、踏み付けられてボロボロになっている枕草子の文庫本を拾い上げて、ポケットに突っ込んだ。
ボクのイギリスとボクの日本。両方の神様、ボクを守ってください。
スコットがゆらりと立ち上がった。
手にはジュンからもらった樫の棒を持っている。
マレット――ポロ競技の際に用いられる木槌。
ボクはマレットを自分の手足のように使える。
そうか。この樫の棒をマレットと思えばいいんだ。
ジュンを追いかけていた連中が、息を吹き返したスコットに気づいて引き返してくる。
とどめを刺そうとする総勢約二十人の敵に、スコットは単身で立ち向かって行く。
よくもボクのネッシーと枕草子を!
「覚悟せよーッ! 枕草子第一段、春はあけぼの!」
樫の棒が先頭の男の側頭部に炸裂する。
「ようよう白くなりゆく山ぎわ少しあかりて!」
次にかかって来た男の足の腿に棒を叩きつける。
「紫だちたる雲の細くたなびきたる!」
左から襲って来た敵の攻撃を余裕でかわし……、
「夏は夜!」
右から来た男の手首を棒で打ち付ける。
「月の頃はさらなり!」
腹部に樫の棒をめり込ませる。
「闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる!」
後ろからかかってきた男の額を棒で割り、
「また ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし!」
真正面に現れた男の喉を突く。
「秋は夕暮れーっ!」
スコットの大きな声は、戦場と化している二望寺の駐車場に響き渡り、夜空の遥か彼方にまで届く。
そして、枕草子の第一段、春夏秋冬が終わったとき、スコットの周りには立っている者がいなかった。
駐車場の隅で敵と戦っていたジュンの元へアニキがやって来た。やはり、全身が血だらけだ。
「アニキ、無事ですか?」
「無事な奴はいないだろ。しかし、スコットくんのお陰で形勢は逆転した。彼のデカい声に俺たちは勇気をもらったんだ。流れは俺たちの方に傾いてる。――そこでだ。どさくさに紛れて、桃竜組長をぶん殴って来い。日頃の恨みを晴らしてやるんだ」
「えっ、アニキ。そりゃ、組長は嫌な奴ですが、そんな任侠の道にはずれるようなことを」
「物事には例外ってやつがあるだろ。あたりは暗いし、これだけ人がゴチャゴチャいたらバレんだろ。遠慮はいらんから思いっきり殴って来い」
ジュンは樫の棒を持つと、桃竜組長の後ろからそろりと近づいて行った。卑怯だけど、アニキの命令とあらば仕方がない。組長は大声を上げて組員に声援を送っているだけで、自分は何もしていない。確かに殴るだけの価値はある。都合のいいことに護衛の三人も敵に掛かりっきりで、周りには誰もいない。
ジュンは樫の棒を上段に構えて、
――ボコッ!
組長が声も上げずに倒れた。
ジュンは闇に紛れて逃げ出す。
数分後、アニキが桃竜組長に呼ばれた。
「どうしたんですか!?」
「うぅ、後ろから頭をやられた」組長の頭から血が流れている。
「後ろからとは、極道の風上にも置けない卑怯な奴!」
そこへ何食わぬ顔をしてジュンがやって来た。
「おお、ジュン、いいところに来た。組長がやられたんだ」
「ええっ!? 殴ったのはいったいどんな奴ですか?」
「それが暗くてよく見えんかった」
「――よかった」
「なに?」桃竜組長が睨む。
「いえ、こっちの話です。アニキ、さっそく組長の敵を打ちに行きましょう」
「おお、もちろんだとも。立ってる奴を片っ端からやっつければ犯人に当たるだろ。――よしっ、行くぞ、ジュン!」
二人は白々しく駆け出した。走りながら顔がにやけてしかたがない二人だった。
組長は護衛の三人に言われて、とりあえず安全な場所であるバスの下に隠れることになった。
「おい、バスの下って、わしは野良ネコじゃねえぞ!」
そんな叫びも無視されて、ガスタンク体形の組長は無理矢理サルーンバスの下に押し込まれた。
二望寺の本堂。金色に塗られた建物が闇の中で光っている。女住職のフミが邪気を込めて作っていた何枚もの呪符があちこちに貼られて、より不気味な様相を呈している。
堂内にはフミと四人のニセ山伏が満願神社及び、その祭礼を壊すべく、祈祷をつづけている。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
盗品である無数の仏像たちの前で、フミの呪いのお経がすでに何時間もつづいている。あたりにはタタリがあるという線香のニオイが漂い、天井はもはや白い煙で見えなくなっていた。
四人の山伏はというと、それぞれが本堂内の東西南北の隅に分かれて、満願神社に向けて邪念を発しつづけている。
山伏たちはフミが霊力で作り上げたという霊体船を見たとき非常に驚いたが、それが実際に動き出し、隣の神社に突入していく姿を見たとき、腰を抜かさんばかりに驚いた。あれだけの船をたった女一人の念力で動かせるとは、四人の中でもっとも霊力を秘めた北王でも難しいだろう。
――このわし一人で十分じゃ。
そう言ったフミの言葉もあながち嘘ではなさそうだった。
最初に送り込んだ式神は二十年前と同じくミミズに変化させたが、境界に植えられた榊、壁や注連縄などに潜んだ式神、及び結界棒により後退を余儀なくされ、三本足のカラスにすべて殲滅させられた。
そして、今――。
霊体船がズルズルと神社に入り込んで、神殿に体当たりを喰らわそうとしていた。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン……」
フミの声が止んだ。
真っ赤な袈裟に身を包んだフミが振り返る。長い灰色の髪が背中で踊った。
「北王よ。本堂はまだ動かんのか」
胡坐を組み閉じていた目を開いて北王は言う。
「もう少し待ってくだされ。西王も東王も南王も最大限の霊力を発しております。われら四人の力が融合するまで、いま少し――」
フミは西王、東王、南王の顔を順に眺めていった。
三人ともに本堂の薄暗い隅で、傍らに錫杖を置いて座禅を組み、眉間に皺を寄せて、苦痛の表情を浮かべている。首のあたりは流れ出す汗により、すでに大きな染みができている。
「頼んだぞ」
フミはそう言うと、さらに霊体船を進めるべく、奇妙なお経を唱えはじめた。
スコットが一人で二十人ほどの敵を片付けてくれたおかげで、この出入りも終わりを迎えるかと思われていたが、東南亜細亜諸国犯罪連合の連中は倒しても倒しても立ち上がってくる。
「アニキ、こいつらおかしくないですか?」血だらけの百舌が訊く。
「百舌もそう思うか。俺もそう思っていたところだ」
「やはり、ヤクですか?」
「ああ、やってるだろうな。たかが窃盗団だ。こんなに体が頑丈なわけがない」
見渡してみると、倒れている人数は味方の方が多いようだ。
「くそっ、ゾンビ野郎が! せっかく引き寄せた流れが、また向こうへ行きやがった」
いくら劣勢になったからといっても、同じ相手に三度も負けるわけにはいかない。
百舌よ、どうすれば……。
そう訊こうとしたが、アニキの口からは舌打ちの音がしただけだ。
いつの間にか、アニキと百舌が囲まれていたからだ。
組員に指示を出しているところを見て、この二人が幹部クラスだと見て取ったらしい。
アニキと百舌はじっと構えたまま、目だけを周囲にすばやく動かす。武器は手に持った樫の棒しかないが、アニキのものはすでにヒビが入っている。きっと百舌の方も酷使したために、あと少しで折れることだろう。周りを見渡すが、新たな金メッキ棒は落ちていない。
俺たち二人がやられると、壊滅的な打撃を喰らう。あのガスタンク組長じゃダメだ。
「百舌、まだ体は持つか?」
「はい、わしはまだ平気です」
だが、百舌は決して弱音を吐かないことをアニキは知っている。平気なんかじゃないことは血が滴り落ちている百舌の全身を見れば分かる。早く休ませないと、命は尽きてしまう。
二人を囲む輪がしだいに小さくなってくる。きっと警戒しているのだろう。タイミングを見て、いっせいに来るはずだ。しかし、俺たちを助けに来る余裕がある組員はいない。
どうするか?
俺一人でこいつらに立ち向かって勝てるか?
満身創痍の百舌を守れるのか?
アニキは心を決めた。
「百舌、またどこかで会おうな」アニキが笑った。
「アニキ、世話になりました」百舌は頷いた。
銃声が二発鳴った。
そして、ガラスの砕ける音がした。
霊体船は死人の手足で地面を掻きながら、ズルズルと神社の中を進んでくる。船が通り過ぎた跡は流れ出た体液でテカテカと光り、糸を引き、腐乱した臭気をまき散らしている。
船の底から伸びている何本もの青白い手が、ジッちゃんの植えた榊の木を根こそぎ抜き取っていく。
白い塀は大きく壊れ落ちた。注連縄は切られた。結界棒もなぎ倒された。
それでも立ち向かっていく式神と三本足のカラスたちであったが、霊体船の邪気と毒気によって、つぎつぎに跳ね返されて墜落していく。地面にはミミズの死骸とともに、苦しみもがいているカラスたちでいっぱいだった。
――怨、オーン、オーン。
霊体船は止まらない。
若は死体が絡み合った船を崩すために、両手を向けて念波を送っている。
その隣でジッちゃんも式神を操るために念波を送りつづけている。
かなりの集中力を要するため、二人とも体力を消耗していて、ここを突破されるのは時間の問題だった。しかし、ここを越えられると、霊体船は火祭りが行われている境内へと向かい、さらにその先には神殿がある。
何としても止めなければならない。
若は目に入ってきた汗を嫌がり、意識を船に向けたまま天を見上げた。
空にはたくさんの星が瞬いているはずだった。
「ジッちゃん!」
若の悲鳴のような声がした。
ジッちゃんは驚いた。いつも冷静な若が取り乱している。
いったい何が……?
ジッちゃんはあわてて若の目の先を追う。
「ジッちゃん、この霊体船はダミーだ! 私たちの本当の敵はあそこだ」
夜空に二望寺の本堂が浮いていた。それは月の光を浴びて金色に輝いていた。
満願神社の神殿上空に黒くて巨大な影を落としている。
「あの本堂ごと墜落させて、神殿を押しつぶすつもりだ」
「そんなバカな……」ジッちゃんが絶句する。
「ジッちゃん、ここは式神とカラスに任せよう。私たちはあの本堂に念波を送る」
宙に浮かんでいる本堂は満願神社の敷地の三分の一ほどもある大きさだ。
「建物全体に念波を送っても効果は期待できない。東西南北のうちの一ヶ所に集中させよう。――ジッちゃん、犬をお願いします」
「はっ!」
ジッちゃんは短く返事をすると、暗い道を駆け出した。
そして、参拝客がひっきりなしに通る鳥居の下に来た。
その脇にいる二匹の狛犬と遠く拝殿の脇に見える二匹の狛犬、合わせて四匹の狛犬に念を送る。
「お前たち、待たせたな。今、奴らはお前たちの主人である神を蹂躪しようとしている。あの空を見よ。あそこに浮かぶ本堂が敵だ。四匹が協力して、南の一角を狙い打ちにするのじゃ!」
四匹の狛犬の目がギョロリと動いた。そして、体をブルリと震わせると、しだいに頭頂部が膨れ上がってきた。
やがて、狛犬のてっぺんから犬の形をした光が飛び出て、空に舞い上がった。そして、四つの光は空中で交わり、一つの大きな光となり、宙に浮かんでいる本堂の南側に突入して行く。
「さあ、お前たちも頼むぞ!」
さらにジッちゃんは待ちわびているであろう式神たちにも念を送った。
参道の脇に設置されている二十基の立て灯籠から六十匹の式神が飛び立ち、四匹の狛犬の後につづいた。
突然の二発の銃声に、アニキも百舌も二人を囲んでいた連中も、音がした方向を振り向いた。
桃竜組長が両手に拳銃を持って立っていた。
バスのフロントガラスが割れている。
「おいおいおいおい! 東南亜細亜の諸君、動くんじゃねえぞ! へへっ、こいつが目に入らねえか」
組長は二丁の拳銃を見せる。さらに、お腹のベルトに挟んでいたもう一丁の銃を見せる。全部で三丁。護衛の三人が偵察部隊の三人を倒して奪い取り、バスの下に隠したものだ。
それを野良ネコのように押し込まれたバスの下で偶然見つけた組長は、ガンマン気取りでポーズを付けている。――ネコに拳銃。
「手下ども、わしの写真を撮るのなら今のうちだぞ。ジョン・ウェインのようなカッコいいガンマンに見えるように、ちゃんとSNS映えを意識して撮るんだぞ。いいね! も忘れるなよ。はっはっは」
武器を使っての出入りなんか極道の恥さらしだとスコットに言ったことなんかすっかり忘れて、二挺拳銃を構え、手下どものスマホのレンズに向けて、愛想を振りまいている。
「よお、仮の組長と百舌くんじゃないか。待たせたな。いよいよ真打の登場だぜ」
アニキと百舌は顔を見合わせて呆れ返る。
何がジョン・ウェインだよ。
だが、調子に乗った組長はサルーンバスに向って、つぎつぎに拳銃を発射する。
派手な音が響くが、神社から聞こえてくる火祭りのざわめきに掻き消される。
駐車場内で戦っていた者たち全員が桃竜組長に目を向ける。倒れている者もなんとか顔を上げて、状況を確認しようとしている。
たちまち、一階と二階のフロントガラスが粉々に砕けてしまった。このとき、のんきに二階のカラオケでテレサ・テンを歌っていた東南亜細亜諸国犯罪連合のボスは銃弾がお尻に当たって失神した。
桃竜組長は三丁の拳銃を使ってバスのすべてのガラスを粉砕して回った。そして、弾が尽
きると、あっけに取られて突っ立っている犯罪連合の連中をつぎつぎに拳銃で殴りつけ、ひび割れたコンクリートの上に倒していった。
「どうよどうよ。俺を後ろから殴りつけたバチだぜ。見たか、この大和魂。土壇場での大逆転勝利だぜ」
ガスタンク体型の桃竜組長は高らかに笑って、空になった拳銃をバスの中に投げ入れた。
桃竜組長のパフォーマンスは極道として情けないものであったが、たちまち形勢が逆転して、アニキ側に有利となったのは事実だった。
本堂で経を唱えている南王の体が大きく傾いた。
四人のニセ山伏は、ここ本堂の“実”にこもったまま、“虚”である本堂を東西南北の四方から強力な念で意のままに操り、満願神社の上空に出現させると、そのまま落下させて神殿を押しつぶそうとしていた。
「どうした!」西王が叫ぶ。
「わしの持ち場である南方に一点集中で攻撃を仕掛けてきたようだ。体の底から持ち上げられるほどの力だ。全身の肉と骨がギシギシと悲鳴をあげておる。――悪いが、どうやら長くは持ちそうにない」
心配した東王が問う。
「奴らはフミ殿の霊体船を防ぐのにかなりの力を消耗しているはずだ。あの神主と庭師にそんな力が残っておるのか」
「いや、あの二人じゃなさそうだ。もっと違う念だ。しかも複数いる。かなりの霊力を使って体当たりを繰り返して来やがる」
「では、わしが……」西王が南王を助けようとしたが、
「待て、念を切るな!」北王が吠えた。「南王よ。耐えよ。われわれがお主に加勢することはできん。四隅の力のバランスが取れて融合してこそ、虚の本堂は邪悪な力となる。一角でも念を切ることはできん」
「承知……いたしておる」南王が苦し気に答える。
北王が話しかける間も、南王の体はさらに傾き、顔は苦渋に満ちたものに変わっていく。
「しかし、北王よ」東王も南王を心配する。「今、そのバランスが崩れようとしておる」
「うるさい!」突如、フミのダミ声が響いた。「早く神殿を潰すのじゃ!」
節操もなく並べられた仏像に向ったまま、フミは霊体船を動かすための奇妙な経を、必死の形相で唱えつづけている。
四人はさらに念を込めて巨大な虚の本堂を動かしていく。
しかし、神使である狛犬と式神の捨て身の波状攻撃は止まない。
やがて、南王の口の脇からドス黒い血がツッーと流れ出し、床に広がり始めた。
「――フミ殿。北王よ。西王よ。東王よ。世話になった」
南王は血だらけの口元を袖で拭うとゆっくり立ち上がり、錫杖を支えにして、ヨロヨロと歩き出した。
シャリン、シャリン、シャリン……。
新たに吐き出した血の滴がポツポツと床にこぼれて、南王の後を追いかける。
やがて引き戸を開け、石段を二歩三歩と下りて行くと、その長い髪を振り乱しながら、庭に向って倒れこんだ。その横に錫杖もシャリンと音を立てて落下した。
西王があわてて助けに向おうとするが、北王が叫ぶ。
「待て、西王! 念を切るなと言っておろう。自分の持ち場を離れるな。南王はもう助からん。奴もそれが分かっていたはずだ」
かなちょろは暗闇の中、原木を探してウロウロしていた。
「さっきの船は気持ち悪かったなあ。モゾモゾ動いているし、おいでおいでをするし、人魂も浮いてるし、あれは何だったんだろうな。さあ、気を取り直して原木、原木っと。神主さんが待ってるからな。――夜目が効くといっても、真っ暗じゃ全然見えねえじゃないか」
そのとき、本堂の戸が開いて庭に光が差し込んだ。
「おお、よく見える。って、誰か出てきたじゃねえか」
かなちょろは、あわてて低い身をさらに低くした。
突如現れた山伏の格好をした男が室内からの光を背景に立っている。逆光で表情は見えないがかなりの長髪だった。男は石段を下り始めると、ガクンと腰を落とし、そのまま頭から真っ逆さまに転げ落ちて、手に持っていた錫杖とともにかなちょろの足元に横たわった。
「わっ! 何だよ、この人。――おい、山伏さんよ、大丈夫か?」
恐る恐る背中を揺らしてみるが反応はない。
かなちょろは回り込んで顔を覗いてみた。
両目はカッと開いたままで、呼吸は停止していた。
「死んでるのかよ。今まで歩いてたのに突然死かよ。――おい、ダンナ、しっかりしな。寺で死んだら洒落にならねえぞ。山伏だったら念力とか超能力を出して生き返らないのか?」
そのとき、開け放たれている本堂の中から声がした。
「南王はもう助からん」
「こらっ、誰だか知らねえが、簡単にあきらめるなよ。ああ、まずいよ、まずい。この辺にAEDはないのかよ。ないか、ないな。こんなボロ寺に設置されてるわけないな。じゃあ、人工呼吸か。嫌だなあ。こんな奴とチュウなんて」
かなちょろはキョロキョロしているうち、石につまずいて大きな音を立ててしまった。
「誰だ!」本堂から声がした。
「ニャー、ニャー」かなちょろがネコの物まねをするが、あまりにも下手すぎた。
「おい、北王よ。庭に誰かいるぞ」東王が立ち上がろうとする。
あわてて逃げようとするかなちょろだったが、
「放っておけ! 自分の念に集中せよ。虚の本堂が崩れるぞ」
とりわけ大きな声がその場を制した。
“実”の本堂の中では、フミの経を上げる声がさらに大きくなり、奇妙な線香のニオイがさらに濃くなっていた。
かなちょろは絶命した山伏をしばらく観察していたがどうしようもなく、庭に漏れてきた明かりで原木の位置を確認すると、釣竿を伸ばして狙いをつけた。
香川は願い棒に祈りを込めて、火炉の中に放り投げた。
これからもおいしいご飯が食べられますように。おいしいお肉も食べられますように。おいしいお野菜も食べられますように。大きな文字で三行書いたところで、書くスペースがなくなってしまった。だが、諦め切れず、端の方に極細の文字で、おいしいスイーツも食べられますようにと書いておいた。
失敗したなあ。スイーツのお願いはもっと大きく書きたかったなあ。
「俺はもっと相撲が上達するようにと書いたんだけど、吉田は何て書いたんだ?」小森が訊く。
「もちろん、相撲が強くなれますようにだよ」
「球体くんは?」
「ボクも相撲部に入ったからには強くなりたいと書きました」
「香川は?」
「へっ?――ああ、ボクも相撲のことだよ」
「へえ、そうか。お前のことだから、てっきり食い物のお願いだと思ったよ」
「そ、そんなことないさ」香川は焦って言うが、願い棒はすでに火の中だった。
ああ、みんなに見られなくてよかった。
「あら、みなさんは踊らないの?」
人ごみの中から声をかけてきたのは、新しい巫女のサユリさんだった。ジッちゃんの娘さんらしい。今日一日だけの短期バイトらしいができればずっといてほしいと三人は思っている。ミコ先輩は今時の美人だがサユリさんは古風な純日本美人だからだ。
「さあ、こんなに盛り上がってるんだから、相撲部のみんなも来なさいよ」
そう言ってサユリは右手で小森の手を?んだ。
女性の免疫がない小森は驚いて手を引っ込めようとしたが、がっちり繋がれて離れない。
あっ、いいなあ、小森は。
吉田が羨ましそうに見ていると、サユリは左の手で吉田の手を?んできた。
「ほら、おいでよ」
サユリは小森と吉田を両脇に従えると、踊りの輪の中に入っていく。
「ああ、待ってください!」球体くんが三人を追いかける。
一人残された香川。
ボク、存在感が希薄だからなあ。
そのとき、香川の手がやさしく握られた。
――もしかして、ミコ先輩!?
「やあ、香川くん。相撲の解説はなかなかよかったよ。一緒に踊ろうかね」
香川たちも輪の中に入って踊り出した。
目の前では、サユリさんと三人が楽しそうに踊っている。
あいつらは、あんなきれいな人と。
なのに、なんで、ボクはこの人と……。
「ホレ、ホレ、ホレ、ホレ!」
香川の隣では、木村庄之助さんが行司の衣装のまま楽しそうに踊っていた。今度は倒れないように、手にはしっかりと新しい酸素缶を握り締めていた。
そんな二人の横を背の高い男性が追い抜いて行く。若い女性が後ろから声をかける。
「シン、ちょっと待ってよ。ほら、あそこにお父さんを見つけたから、一緒に行こうよ」
今日のお父さんはどうなっているんだろう。太鼓を叩いていたと思ったら、奉納相撲に出て、今度はうれしそうに踊っている。前の方で踊っているお父さんのそばには森河先生やパン屋の多田さんたちもいる。
シンの言う通り、オヤジバンドのメンバーなのか訊いてみようとユウは思った。そして、もしそうなら、なぜ今まで黙っていたのか、お母さんを追及しようと思う。
シンが振り向いて、ユウに言った。
「今、お父さんには会わない方がいいよ」
「えっ、なんで?」
「たぶん、太鼓も相撲も無理にやらされたんだ。そんな顔をしてたよ」
「でも、今はうれしそう踊ってるよ」
「たぶん重圧から解放されたからだよ。何かの罰ゲームでやらされたのか、会社の研修なのか分からないけど、今はユウと顔を会わせたくないと思うよ」
「私がお祭りに来てること知ってるのかなあ」
「そりゃ、知ってるさ。ユウはあんな大きな声で相撲の応援をしてたのだから」
「ええっ? 私はそんな大きな声を出してたかなあ」
「まあ、とにかくお父さんには、家に帰っても何食わぬ顔をして接してあげる方がいいと思うよ。男心を察してあげてよ」
「男心!?」
巨大な火炉から吹き出た火の粉が夜空に舞い上がる。
その周りをたくさんの参拝客が何重にも取り囲んで踊っている。
そのはるか上空には神殿を押しつぶそうとする本堂が浮いている。
人々が仲良く集い、祈りを捧げ、踊りを踊る場には神柱が立つ。
そして、その神柱の上に神が降臨する。
今まさに満願神社の上には神柱が立とうとしている。
虚の本堂が宙に停滞し、神殿に向って降りて来られない理由は、若たちの念や狛犬や式神たちの働きにもよるが、神柱の形成の影響も大きい。しかし、その巨大で邪悪な黒い影は楽しく踊っている常人の目に見えていない。
「若。本堂が傾きはじめました」ジッちゃんがホッとしたような声で言う。
「どうやら、作戦通り南側が崩れたようだね」若の表情にも余裕が窺われる。
お互いは言葉を発しながらも、宙に浮かぶ虚の金色の本堂に向けての念は強く送り続けている。
「ジッちゃん、狛犬と式神たちはどうだい?」
若は光の玉となって本堂に突撃を繰り返している彼らを心配する。
「かなり体力を消耗しておりますが、まだ少し持つようです。――あっ、若、あれは?」
傾いた本堂の屋根から何か光るものが滑り落ちてくる。
「――ほう、あれは瓦のようだね」
「あの女住職は瓦まで金色に塗っておったのか」
神社に瓦はない。瓦は仏教建築の象徴のため、あえて瓦を用いずに、藁葺を使ったと言われている。
寺の象徴でもある瓦がキラキラと輝きながら落ちてくる。
それは、虚の本堂と巨大な火炉の間で火の粉と交じり合い、一段と輝きを増していた。
やがて、本堂にフミが邪気を込めて貼り付けた呪符も剥がれ出し、火炉や神殿に向けて降りそそぐ。
空中に乱舞する金色の瓦と呪符。
虚の本堂はさらに傾き出した。
「ジッちゃん、もうちょっとだ」若はジッちゃんを気遣う。
「はい。あと少し神柱が強くなってくれれば助かるのですが」
「かなりの人数が火祭りに参加してくださっているが、まだ足らないようですね。なんとかあと少し人数が増えないものか……」
境内で踊っている人々の歓喜やざわめきが聞こえてくる。
それらの音に交じって、何台ものけたたましいエンジン音が聞こえてきた。
「ジッちゃん、どうやら間に合ったようだよ」
若が目を細めて笑った。
火炉からやや離れたところに建つ満願神社の社務所の前に二人の巫女が立っている。無事に大役を終えたミコとサユリだ。
そばには柄の悪そうな五人の女性が集まっている。サユリに紹介すると言っていたミコの古くからの仲間たちだ。
ミコは約束通り、紹介をしてあげた。サユリはちょっと迷惑そうな顔をしていた。
やがて、神社の駐車場から聞こえていた車やバイクのエンジン音が止むと、数十人の女性たちが境内を駆け抜けて、社務所前にやって来た。全員がきれいに整列する。
一人の金髪の女性がミコの前に出てくると、
「華来(かぐ)夜(や)秘女(ひめ)八代目総長杉原麻代より七代目総長へ! 総員九十二名。集結完了いたしました!」
ミコはみんなを見渡して言う。
「七代目総長椿原美湖よりメンバー全員へ! 今日はここ満願神社の火祭りだ。大いに祭りを盛り上げてくれ。それと、あたしの隣にいる方は日頃から世話になってるサユリさんだ。よろしく頼む。――以上だ!」
――押忍!
九十二名の女子にいっせいに頭を下げられて戸惑うサユリ。
あまり見た目がよろしくない女性によろしく頼むと紹介されても困るんだけど。
それに何だか、芝居がかってません? 団体のネーミングもおかしいし。
でも、そんなこと言えない。みんなこっちを見てるし。ミコちゃんも真剣な顔をしているし。
「あっ、はい、私、サユリと申します。こちらこそ、よろしくね」
とりあえず、頭を下げておいた。
火炉の回りで踊る人々の輪の中にミコが集めた百人ほどの女性が加わった。
人々の願い、祈り、情熱、活気、気力、生命力が一体となり、より高度で澄み切った神柱を作り上げていく。それは若の期待通り、以前にも増して巨大になっていた。
この身よ踊れ、御魂よ、震えろ
朝が来るまで、神とともに、火とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
土より出(い)でよ、木霊(こだま)よ響け
鳥が啼くまで 生とともに、土とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
闇を照らせ、天(あま)へと届けよ
命尽きるまで、死とともに、水とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
神々は神柱に降臨をはじめた。それは輝きを放ちながら天に向って真っ直ぐに伸びていく。
その力に押されて虚空に漂う虚の本堂はもはや壊滅の危機と化していた。
桃竜組長に拳銃で殴りつけられて倒れていた犯罪連合の連中がムクムクと起き上がり、大
型バスへ向かって、ヨロヨロと歩いて行く。
「まるで、ゾンビだな」アニキが百舌に言う。
「奴らを放っておいてもいいのですか?」百舌がアニキの顔を見つめる。
「ああ、かまわん。バスのキーはジュンが抜いて投げ捨てたから動けんだろう」
だが、そのとき。
――ドドドドッ。
闇の中の巨大なシルエットが震えた。
「なに! 奴ら、スペアキーを持ってやがったのか!」
仲間の回収を終えた二階建てサルーンの大型観光バスがゆっくりと動き出した。
「バスを止めろ!」アニキが叫ぶ。「駐車場から出すなよ!」
傷だらけの組員が立ち上がり、バスを追い始める。何とか動ける組員がバスと並走して、ガラスが割れて枠だけになった窓に手を掛けて乗り込もうとしている。だが、組員たちは体力を消耗していて、思うように走れない。敵は枠にかけた手をバスの中から殴り付けてくる。
しかし、広大な駐車場から外に出るまでにはまだ時間がかかりそうだ。
一方、バスの中ではカラオケ中、お尻に銃弾を受けて失神していた東南亜細亜諸国犯罪連合のボスが目を覚ました。ズボンが破れて、半ケツが出ている。
「急いでここを出ろ! ああ、お尻が痛い。一般道に出れば、他の車も走ってるから紛れることができるぞ。ああ、やっぱりお尻が痛い。がんばれ、ドライバー。それ行け、ドライバー。ああ、確実にお尻が痛い。ここを出たら、病院に向かってくれ。ああ、お尻が持たない」
大型バスに取り付く組員たちは、まるで手負いのクジラを襲うシャチの群れのようだ。
かろうじて窓に喰らいついていた組員たちだったが、殴られたり、蹴られたりして、次々と地面へ落下していく。
「よーし、いいぞ! 出口が見えてきた。もう少しだ、がんばれ。ああ、お尻が痛い」
犯罪連合のボスは一階へ下りて来て、運転席の横に立ち、お尻を押さえながら、ドライバ
ーに指示を出している。フロントガラスがなくなっているため、暗くても前方はよく見える。
「どうやら、窓に取り付いていた連中はみんな落ちてしまったようだな。さて、バスを修理してから、体勢を整えて、またブツゾウをかっぱらうとするか。ああ、お尻が痛い」
あと十メートルほどで駐車場から出られるというとき、ガラスのないフロントからドライバーのすぐ目の前に、一人の男がヌッ顔を出した。バスの側面にしがみ付ていた連中とは違い、この男はバスの正面から立ち向かって来たのだ。
「わぁー!」
ドライバーはその男のあまりの強面に驚愕した。
目と鼻と口と耳が大きく、眉毛がない、顔面血だらけの百舌であった。
百舌は外から両手を伸ばし、バスのハンドルを握ると、思いっきり左へ切った。
猛スピードで走っていた大型観光バスは急ハンドルにより、車体を傾け、乗っていた連中が倒された。二階のカラオケ装置も倒れて、コードが千切れ、車内の電気がいっせいに消えた。犯罪連合のボスもすっ飛ばされて頭を強打した。「痛ェ。頭もお尻も痛いよう」
大型バスの巨体はゆっくりと傾き、
――ドドドーッ。
地響きを立てながら横転した。火花を散らしながら、ズズッと滑って行く。
砂埃が舞い上がり、ガラスのない窓から数人が外へ投げ出された。
大型バスは様々な破片をまき散らしながら、コンクリートの塀に激突して止まった。
出口まであと三メートルの地点だった。
「百舌ー!」アニキの叫び声が駐車場に響いた。
桃竜組長は自分の手柄をさんざん組員に自慢した後、あとは任せたぞと言って、元気に徒歩で帰って行く。いっさい戦いに加わらなかったため、元気なのである。その周りを傷だらけの組員が取り囲み、三台の電動機付き自転車が護衛する。
護衛の一人が振り返って叫んだ。
「よお、仮の組長! やっぱり電動機付き自転車はいいぞ。俺たちみたいなケガ人にもやさしいぞ。何と言っても一番高いやつだからな。だがな、クーポンがあったから、少しだけ安く買えたんだ。コスパがいいんだ。それと、うちの親分の写真は撮ったか? スマホの待ち受けにしてもいいぞ。俺が許してやるぞ。――じゃあな」
アニキは呆れて見送る。隣には百舌がかろうじて立っている。急ハンドルを切り、大型バスを横転させたが、下敷きになる寸前のところをかわし、巻き込まれずに済んだのだ。
「護衛の野郎ども、どんな顔をしてクーポンを使いやがったんだ。最後までくだらない自慢をしやがって」アニキが睨み付ける。「それにしても、桃竜組長ときたら、相変わらず悪運だけは超一流だな。これだけ派手に出入りをやらかしたというのに、あいつだけは元気だ。ジュンに殴られた傷もかさぶたになってる頃だろうな。まあ、助っ人に来てくれたのは感謝しないとな」
百舌が黙ってうなずく。
自分の組員を見渡すが無事な人間はいない。しかし、みんな、なんとか命は取り留めたようだ。
バスの窓から投げ出された犯罪連合の連中は、桃竜組長にまたもや執拗に拳銃で殴られて、全員が頭から血を流して倒れているが、命には別状がないようだ。
弱い人間にはとことん強い桃竜組長だった。
アニキは足元に倒れている男のポケットをさぐってスマホを取り出した。
「あー、もしもし。警察ですか。こちら、二望寺の駐車場なんですが、たくさんの外国人が暴れてます。たぶん、不法滞在している不良外国人みたいです。はい、ピストルの音も聞こえましたし、大きなバスが転がってます。実に怪しいでしょう。それに、何だか挙動不審な奴らが多いので、変な薬をやってるに違いありません。尻を押さえてウンウン唸っている奴がボスのようです。早く捕まえに来てください。――えっ、私ですか? 偶然ここを通りかかった一般市民です。では、ごきげんよう」
一方的にしゃべってスマホを投げ捨てたアニキは組員たちを連れてワゴン車に向って歩き出した。そのスマホも優秀な警察がしっかり解析して、奴らの余罪を暴くことになるだろう。
その頃、ジュンとスコットはアニキの指示で二望寺の敷地内に入り込んでいた。
「分かってるな、ジュン。俺たちの本当の仕事はこれからだ。しかし、俺たちの仲間でまともに動けるのはお前とスコットくんと桃竜組長ぐらいだ。さっさと帰った組長は放っておくとして、二人で俺たちのお宝を奪い返してくるんだ。――頼んだぞ」
アニキからそう命じられた二人は、やっとのことで塀を乗り越えて、異様な雰囲気が漂う本堂に向って歩いている。
「スコット、仏像はきっとこの建物の中だ。でかいから二手に分かれよう。俺は左に回るから、スコットは右側から行ってくれ。もし、中に入り込める場所があったら呼びに来てくれ。お前は背が高いからくれぐれも見つからないようにな」
「ラジャーです」スコットは身を屈めながら歩き出した。
今まではアニキやジュンさんの手伝いをしていたのだが、こうして直接盗みを働くことになるとは、いったいボクは日本に何をしに来たのだろうと思う。
しだいに悪の道を突き進む自分に対して、スコットは少しずつ後悔を始めていた。
でも、もう後には戻れない。ああ、ボクは不良外国人になってしまった。エリザベス女王様になんとお詫びすればいいのか。
左側に曲がったジュンは隣の神社との境にある白い土塀が大きく壊れているのに気づいた。霊体船が通るときに破壊された跡だが、ジュンには知る由もない。自分が泥棒に入ってきたことも忘れて、早く修理をしないと物騒じゃないかと思って眺めていると、突然、目の前に一人の女性が現れた。
「な、なんだ、お前は!?」
「見て分からんの?」
「ああ、巫女さんか?」
「そうだよ。あんたこそ何者だ?」
「俺は見ての通りのヤクザもんさ」
「見習いだろ」
「何言ってんだ! こう見えても将来の幹部候補生だ」
「それにしちゃ、オーラがしょぼいな」
「オーラなんかどうでもいいだろ。お前はこんなところで何をしてるんだ?」
「巫女が神社にいたらおかしいのか? あんたこそ、ここで何をしてるわけ?」
「えっ、ああ、俺はこの土塀が壊れてるんで見てたんだ」
「土塀のセールスマンか? だったら他所を当たってよ。うちの神社、あんまりお金がないから」
そう言いながらミコがジュンに近づいた。
「あんた、ケガしてるじゃん」
「えっ、たいしたことねえよ」
「これ使いなよ」ミコは袖から取り出したものを放り投げる。
それをキャッチしたジュン。
「マキロンじゃねえか」
「そう。傷によく効くよ」
「何でこんなものを持ってるんだ」
「今日はたくさんの人が集まる祭礼だから、転んだりする子供も出るわけ。だから、救護担当者として、バンソウコウとかを携帯してるんだ。なんだったら、包帯もあるよ」
耳を澄ませば、神社の方から歌や人々の歓声が聞こえてくる。願い棒やお札を燃やしている火炉が夜空を赤く照らしている。
「いや、これで十分……」
そのとき、ジュンの後ろがざわついて、スコットの叫び声がした。
「見習いのジュンさーん、かなちょろを見つけましたー!」
「何!」ジュンが振り返る。
「やっぱり見習いじゃん」ミコが笑うが、「――えっ、かなちょろだって!? しかも、あの外国人さんじゃん」
二人の横を、原木を抱えたかなちょろがトカゲのようにすり抜けて行く。
「大漁、大漁! ほっほっほーっ!」
「あいつ、俺たちのお宝を……」ジュンが駆け出す。
「わっ、なんだか面白そう!」ミコも駆け出す。
「待ってくださーい!」スコットも後を追う。
その後、絶命した山伏の南王の霊体も組み込んだ霊体船であったが、式神と三本足のカラスの壮烈な反撃に押されていた。動力になっていた船底の霊体はもはや手足を動かすこともなく、セントエルモの三つの火も消えかかっている。
虚の本堂も、そそり立つ神柱と狛犬や式神たちのパワーにより、南王が欠けた南側を下にして斜めに傾いたまま、墜落寸前の状態にあった。
もはや、金色に塗られた瓦はすべてずり落ち、呪符もすべてが剥がれ落ち、丸裸の状態でかろうじて神殿の上に浮いていた。
「ジッちゃん、あと少しだ」
「はっ!」
二人は地に足をふんばり、何とか自分の体を支えて立っている。目は充血し、手足は震えている。もはや、口の中はカラカラに乾き、汗は枯れ果てて、流れ出ることもない。
今、二人の念は尽きようとしていた。
「こちらも苦しいが、敵も限界に来ているはずです」
「どうやら、降下が止まったようですな」
そのとき、本堂がさらに大きく傾き、北側を真上に南側を真下にして垂直の体勢となった。
もっとも霊力がある山伏である北王の実の本堂からの遠隔操作により、かろうじて虚の本堂を宙で支えている。
――ズズッ。
縦型の本堂がまるで大型獣のようにその全身を震わせた。小さな木片がつぎつぎに落下してくる。木片を繋ぎ止めていた金具も弾け飛び、パラパラと地を目指す。
やがて建物全体に塗布されていた金も剥がれ落ちてきた。
「おのれ、狛犬、狛犬、狛犬、式神、式神、式神……」
フミは恐ろしい形相で念を飛ばしている。灰色をした長い髪が、生き物のように背中でうねる。
それを横目で見ていた北王は、日本昔話に出てくる鬼ババアはこんな感じだと思った。
その瞬間、傍らに置いてあった法螺貝が狛犬と式神の攻撃により、木っ端みじんに砕け、各自が左手首にはめていた数珠もバラバラになり、西王が手首に付けていた金のブレスレットのチェーンも引き千切られて、床の上に散乱した。
「北王よ!」フミが叫ぶ。「何をしておるのか。本堂を支えよ!」
宙に浮く虚の本堂は垂直のまま、立て直すことができない。
南王が倒されて、力のバランスが崩れた三人の山伏たちはずっと押されている。ズルズルと地を這っていた霊体船は、式神と三本足のカラスの働きによってバラバラに解体された。
そのとき、実の本堂が揺れた。
「北王よ、これは新手の攻撃か!?」
「いや、どうだか……」
駐車場で大型バスが横転したときの衝撃波だったのだが、この者たちが知る由はない。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン……」フミの呪いのお経が激しくなる。
目は血走り、手は震え、頭は前後に激しく揺れ、口からダラダラとヨダレが流れ出す。
灰色だった髪が一瞬にして真っ白に変わった。
「北王よ、支えんか! 西王よ、東王よ。お前たちも本堂を支えよ、支えよ、支えよ!」
フミにどやされた北王は西王と東王を見て、力なく首を振ると、ニタリと笑った。
西王と東王もそれがどういう意味かを察しして、薄ら笑いを浮かべた。
そのとき、フミは目を閉じて、眉間に力を入れながら、必死の念を飛ばしていたため、三人の表情には気づかなかった。
やがて、薄っすらと空一面にたなびいていたはずの白い雲が、本堂の周辺に集まり出した。白い雲は本堂をすっぽり取り囲むと黒い雲に変化し、グルグルとその周りで回転をはじめた。
やがて、黒い雲の中から幾筋もの雷光が現れて本堂を取り囲んだ。
――神の裁きだった。
「若、あれを!」ジッちゃんが悲鳴をあげる。
「まずい、落下する。ジッちゃん、すぐに狛犬たちを呼び戻してください」若も叫ぶ。
ジッちゃんが本堂に向けていた念を狛犬と式神に飛ばす。光の玉となり体当たりを繰り返していた彼らは攻撃を止めて、それぞれ石造の狛犬と二十基の立て灯籠の中に戻って行く。
夜空に轟音が響いて、垂直になっていた本堂がボォと燃え上がった。
炎に包まれて、黒煙を上げながら垂直に落ちてくる虚の本堂。
――ズズズッ。
その下では神殿が厳かに座し、周りでは人々が楽しそうに踊っている。
急落下していた虚の本堂は神殿に激突する寸前、神柱の中に飲み込まれて、バラバラに解体され、細かな灰と化した。
空から降りそそぐ灰が見えていない人々は、何事もなかったかのように踊りつづける。歌いつづける。叫びつづける。笑いつづける。
戦い済んだ狛犬と式神は元のねぐらへ帰って行った。
「ああ、みんな、無事だったか。よくやってくれた」ジッちゃんが大きな声で褒めた。
実の本堂内では、すべての仏像がなぎ倒され、光背や持物が散らばっていた。文殊菩薩が乗っていた象の鼻は折れ、ニワトリと嘲笑された孔雀の羽も根元から取れていた。
真っ赤な袈裟に実を包んだフミは泡を吹いて倒れ、目は見開いたままだった。真っ白になった髪がしだいに灰色へと変化し、体から腐敗臭が漂い始めた。
そばには引きちぎれた数珠の玉が乱れて転がっている。異様なニオイを発していた線香はことどとく折れ、火は消えていた。
三人の山伏たちの姿はもうそこにはいない。
こんなこともあろうかと、たんまりと前金で謝礼を受け取っていた彼らは、仲間の南王が倒されたあげく、本堂が黒い雲に囲まれて勝ち目がなくなったと分かったとたん、怒り狂うフミを置いてさっさと逃げ出したのだ。
シャリン、シャリン、シャリン――。
満願神社の賑やかな火祭りを横目に、錫杖を鳴らしながら、三人は大通りへと急いでいる。
「寺と神社の喧嘩なんかに付き合ってられるか」北王はニヤニヤして言う。「あんな強欲ババアに義理立てする必要はないわ。もらうものはもらったから、後はどうなっても知らん」
「しかし、南王は気の毒なことをしましたな」西王が残念そうに言う。
「そうだな。どうやら奴は死期を悟っていたようだが」東王も残念がる。
「かまうものか」北王は金さえ入ればいいと思っている。「またどこかで新しい南王を探すまでのことよ」
シャリン、シャリン、シャリン――。
その頃、かなちょろは走っていた。
万引きが見つかったときも。
引ったくりに成功したときも。
窃盗団から掠め取ったときも。
かなちょろはいつも走っていた。
物心ついたときから盗みを生業としてきた。
小さな体は雑踏を駆け抜け、群集に紛れ込み、追っ手を振り切った。
生きるために走っていた。明日も喰っていくためには走らざるを得なかった。
止まったときに待っているのは絶望の二文字だった。今までそうやって生きてきた。
――走り続けて四十年!
運送会社のCMみたいだけど、それがかなちょろ様よ!
かなちょろは林の中を走りながら後ろを振り返った。
「追っ手はヤクザに巫女さんに外国人だって!? 何だあのヘンテコリンな組み合わせは? あの三人、どこでどうやって知り合ったんだ?」
しかし、かなちょろは三人を簡単に振り切る。林の中で足元が悪くても平気だ。
先頭を走っていたジュンが躓いて転んだ。すぐ後ろを走っていたミコもジュンの足に躓いて、膝をついてしまう。
「おい、見習い。こんな所で転ぶなよ」座り込んだミコが文句を言う。
「イテテ。すいません、巫女さん」ジュンの顔が歪む。
「さっきマキロンを渡しただろ。それを塗っておけよ」
「へえ、そうします」ようやくスコットが追い付いた。「スコット、足元に何かあるぞ。気を付けろ」
「ラジャー!」
駆けつけたスコットはスピードを緩めることなく、マレット代わりの樫の棒を振り落とした。
――ビーン。
地面すれすれに張ってあった釣り糸が切れた。
「かなちょろの野郎、いつの間にこんな仕掛けを」ジュンが腰を押さえて立ち上がる。
「見習い、行くよ!」同じく立ち上がったミコが駆け出す。
「ああ、待ってください、巫女さん」
やがて、かなちょろの前方にたくさんの人々が見えてきた。火炉を中心にして、老若男女が入り乱れて踊っている。かなちょろが笑い出す。
「しめた! 今日は火祭りだ。あの中に入り込めば、大丈夫だろ。まず、追いかけてくる得体の知れない三人組を撒いてから、ゆっくり神主さんを探すとするか」
かなちょろは雑踏の中に頭から突っ込んでいった。こんなときは小柄な体型が役に立つ。
群衆からの熱気と火炉からの熱気が小さな身を包む。
「どいた、どいたー! かなちょろ様のお通りだぜーい。神主さんはどこだー。原木を盗って来たぜー。これでシイタケ栽培もできるぜー」
キョロキョロするかなちょろの前に、突然、三四人のガラの悪そうな若い女性が現れて通せんぼをされた。
「おっさん、何持ってんだ?」
「だめだよ、持ったままじゃ」
「そうだよ。願い棒はこうして燃やさないと。――それっ!」
「待てこら! それは願い棒なんかじゃない。何をするか、不良少女!」
無理矢理奪われた原木は火炉の中へ投げ込まれて、たちまち炎に包まれた。
唖然とするかなちょろ。
「あーあ。神主さんに怒られても知らないぞ」
やっとのことで、ミコ、ジュン、スコットがやって来た。
「おい、かなちょろ。俺たちのお宝をどうした!?」
ジュンが、原木を手にしてないかなちょろに詰め寄る。
「あそこだ」かなちょろは、まだ息を切らしているジュンにアゴで火炉を示すと、外国人のように肩をすくめた。「遅かったな、変な三人組さん」
火炉は激しく燃えている。
「まさか、この中かよ……」ジュンが膝から崩れ落ちた。
「オオ、マイガッ!」スコットはもはや助からないお宝を諦め、手に持っていた最後の樫の棒を投げ込んだ。
ミコも開いた口がふさがらない。
三人は燃え盛る火炉を、熱で顔が火照ることも気にせず、いつまでも見つめていた。
周りでは何事もなかったかのように人々が歌唱し、乱舞している。
火の粉は尽きることなく空に舞い上がっていく。しかし、その空にはもはや虚の本堂は見当たらない。いつものように月と星が輝いているだけだった。
かなちょろはどさくさに紛れて雑踏を抜け出して、出口の鳥居へと向う。
鳥居の下に立っていたのは神主だった。
「おお、神主さん、捜したぜ。こんな所にいたのかよ。ちゃんと、お隣さんから原木は盗んできたぜ。でもよ、不良のネエちゃんに取られて、燃やされちゃったんだ。悪いな、シイタケ栽培ができなくてよ」
「ああ、いいですよ。シイタケはスーパーで買うことにしますから」
実はこっそりと一部始終を見ていた若は笑いながら言う。
窃盗団が追い求めていた原木だから、もしや覚醒剤でも仕込まれているのではと、ジッちゃんと笑いながら話していたのだが、灰となってしまっては確かめようもない。しかし、争いの種がなくなってよかったと思う。
「そうかい。せいぜい、安くておいしいシイタケを買ってくれ。じゃあ、約束は守ったから、これでお別れだな」
「はい。いつまでもお元気で」
「ありがとよ。ああ、それとな、神主さんは自分で気づいちゃいないだろうけど、かなちょろ様をまんまと手玉に取ったのだから、アンタはとんでもない悪党だぞ」
「はい。承知しております」
「ああ、そうかい。神主さんとはもう会うこともないだろうけど、達者でな」
かなちょろは商売道具の釣竿を担いで、鳥居の下を走り抜けた。
そして……。
「神主さんよー、相撲も盗みも楽しかったぜ。あばよっ!」
振り返って叫ぶと、闇の中に消えて行った。
数日後、スコットは満願神社で三度目のおみくじを引いた。
「巫女さん、これはどういう意味ですか?」
ミコはスコットが持つおみくじを背伸びして覗き込む。
「末吉。ああ、これは英語でラストラッキーだね」
「ラストって、ボクにはもう幸運が一個しか残ってないのですか? これからイギリスに帰ろうと思っているのですが」
「ほら、前にも言ったじゃない。おみくじをあの木に括りつければ、ベリーラッキーに変わるって」
「ああ、そうでした。やってみます」
スコットは前回と同じく長身を生かして一番高いところにおみくじを結びつけた。
その光景を遠く鳥居の下から若とジッちゃんが笑いながら見ている。
新しい鳥居の側面には寄贈者及び功労者として数人の名前が彫られていた。
森河高彦
長谷幸造
木川勤次
本山良三
多田邦彦
国常高校相撲部
椿原美湖
華来夜秘女
スコット・トレーシー
ブンさん
ハッちゃん
木村庄之助
農協の高橋アナ
かなちょろ
・
・
・
若は鳥居を見上げた。ジッちゃんも同じように見上げる。
青い空に真っ赤な鳥居がよく映えている。
二十年後、ふたたびこの鳥居は新調される。
「今度の祭礼のとき、わしはもう八十三歳ですよ」
「ほう。まだ八十三歳ですか」若が笑う。
「ご迷惑でしょうが、また、ご一緒させていただきます」
「そうですか。ついて来てくださいますか。それはうれしいことですが、私は満願神社の発展のためなら、平気で法を犯す悪い人間ですよ。神をも恐れない犯罪者ですよ。それに、ときどき嘘をつきます」
ジッちゃんは鳥居を見上げながら言った。
「はい、承知しております」A
鳥居はグニャリと曲がることなく、天に向って真っ直ぐに伸びていた。
(了)
~前編からのつづき。
お寺の門を山門と呼ぶ。お寺が山の中になくても山門と言う。平安時代、町中の仏教が衰退を始めたとき、危機を抱いた密教系の僧侶たちは修業の場を人里離れた地に求めて、山の中に寺院を建立し、しだいに栄えていった。それに倣って、町中の寺の門も山門と呼ぶようになったからだ。
二望寺の山門は手入れがされないまま荒れ果てていた。木の柱にはひびが入り、引っかき傷や落書きの跡が目立ち、周りの雑草も伸び放題になっている。寺を守るはずの仁王像は色が落ち、ヒビが入り、いかついどころか、返って哀れに見える。
四人のニセ山伏たちは山門の下で一礼をすることも合掌をすることもなく、ズカズカと寺内に入り込んだ。中の草花は枯れ果てていた。木々も元気がなく枝がやせ細っている。その異様な光景に声も出ない。
そして、傍らにある手水舎の中を覗き込んで顔をしかめた。手と口を清めるはずの水が干からびて一滴も入ってなかったからだ。代わりに緑色と茶色が混在した苔がビッシリと繁殖していて、小さな虫が多数飛び交っている。
さらに四人は本堂を見て愕然とする。
建物全体が金色に塗られていたからだ。
仏のことを金人と言う。そのため、本堂を金堂とも呼ぶ。
「金堂を本当に金色にするとは悪い冗談だ」金髪の東王が嘆く。
「ふん。うわさ通りだったというわけか」長髪の南王がつぶやく。
「フミ殿もご趣味が悪い。なぜ、こうなったかのう、北王よ」坊主頭の西王があきれる。
北王と呼ばれたのは、ミコがアマガエルと称した大きな四人の中でとりわけ背が低い山伏だ。しかし、ジッちゃんの見立て通り、この男の念が一番強く、他の三人が束になってもかなわない。
「まあ、そういうな。あの女の悪趣味は今に始まったことじゃない。それに仕事が終わったらたんまり謝礼をもらってさっさと帰るまでよ。次の祭礼は二十年後よ。あの女も生きてないだろ」
リーダー格の北王は四人の雇い主である女住職のフミをボロカスにけなす。そして、呆れる。
「隣の神社に逆恨みをしているんだ、あの女は」
「まさか、神仏判然令のことを言っているのか」東王が北王に問う。
「そうだ。明治に起きたことをまだ根に持っておる。もちろん、本人はまだ生まれとらんかったが」
江戸幕府が崩壊し、明治の時代になったとき、政府は天皇を神格化し、天皇の元、国民を統一して国家の近代化を図ろうと計画した。そのために、神と仏が入り混じっていた風習を改めて、どちらを選ぶように強制した。その際、神を仏の上に位置付けたため、一部の民衆は仏教を排除するものと勘違いし、寺院を襲い、仏像を破壊して回った。これを廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)という。その結果、全国の寺の約半分が廃寺になったと言われ、無理矢理、神社へと変更させられた寺院もあった。
そして、ここ二望寺もその標的にされ、たくさんの仏像や経典を略奪、焼却され、寺院もあちこちを傷つけられた。しかし、何とか廃寺は免れ、かろうじて存続している。
その話を代々聞かされていた住職のフミは、こうなったのも神社が悪いと思い込み、満願神社が二十年に一度行う祭礼を何とか邪魔しようと企んでいた。それは前住職である今は亡き夫の悲願でもあった。
「しつこいのう、女というものは」
南王が笑うと、他の三人も釣られて笑った。
シャリン、シャリン、シャリン――。
四人は金色の本堂を目指して苔むした石畳の上をゆっくりと歩いて行く。ところどころ、石が剥がれ地面がむき出しになっているが、そのまま放置されている。錫杖の六つの輪の音が寺院内に響くが、誰も現れる気配はない。
――怨、オーン、オーン。
「北王よ。なんだこの邪気は?」南王が突然立ち止まった。
西王も東王も異変を感じて立ち止まって北王を見やる。
北王は眉間に力を込めて周囲を見渡した。
「――あれだ」
北王が指差したのは目の前に見えている大きな本堂の横のあたりだが、そこには何も見当たらない。
しかし、三人は北王が言う方向に念を向けた。
やがて、ぼんやりと邪気の正体が現れた。
「な、なんじゃ、あれは!」東王が大声をあげた。
南王と西王はあまりにも驚愕したためか声も出ない様子だ。
一人冷静な北王がつぶやく。「どうやら船のようだな」
我に返った西王が言う。「フミ殿はあんなものを作りおったのか」
――怨、オーン、オーン。
そこには一艘の船が置いてあった。異様な声はその船が発している。西洋の帆船をモデルにしたのだろうか、全長は五十メートル、高さは三十メートルほどあり三本のマストには大きな帆が張ってある。
現実にあるのではない。霊体船と呼ばれている船で、常人には見えない。修業を積んだこの山伏たちのような人物が念を凝らして初めて見えるものだ。
地縛霊や浮遊霊を組み合わせて作り上げる。材料は死んだ人間、つまりは仏だ。よく見ると何人もの素っ裸の人間が複雑に絡み合って船を形成していることが分かる。ところどころで霊体がいかにも窮屈そうにウネウネと動いている。すべての霊体はやせ衰え、あばら骨が浮き、顔は青白く、眼窩は窪み、髪は抜け落ちている。ここから出してくれと言わんばかりに、虚空に手を伸ばしたり、歯が一本も見当たらない口で何かを叫んだりしている霊もいる。
――ボォ、ボォ、ボォ。
三本のマストのてっぺんに火が灯った。とがった物の尖端に起きる発光放電で、セントエルモの火と呼ばれているものだ。
夕暮れ時の空に、三つのともし火がユラユラと揺れ出す。
さすがの四人も遠巻きに霊船をながめていた。
「これだけ大きいと気味が悪いな」東王が今にも嘔吐しそうな表情で言う。
「邪気がすさまじい」南王は目をふせている。
「北王よ、フミ殿はこれを使って何をするつもりだ」西王も嫌な顔をして問う。
「前回は満願神社の地下にミミズの大群を送り込んで散々な目にあったらしいからな。今回は小細工なしで、この霊体船ごと真正面から突っ込んでいくのだろう。――それにしてもこれだけの霊体をよく集めたものよ」
「この寺の墓地から掘り起こしたものか?」
「いや、それだけじゃ足らんだろう。あちこちの墓地に行っては、かっさらって来たものだろう」
「老婆一人でここまでできるものなのか」西王が問う。
「もちろん、朽ち果てた肉と骨を掘り出すんじゃない。墓地の周辺からでも念を飛ばせば、霊体だけを引き出せる。この私でも可能だが、相当の念力を必要とする。それと邪気にやられた草花を見たろ。あのアマ、また霊力を向上させやがった」
西王はフミが必死の形相で墓の下からやせ衰えた霊体をズルズルと引き抜く様を想像して顔をしかめる。
「ふん。邪霊に魂を売ったのだろうよ」東王が吐き捨てるように言う。
――怨、オーン、オーン。
フミに無理矢理連れて来られた霊たちが四人を見つけて騒いでいる。
ここから出してくれと騒いでいる。早く帰してくれと騒いでいる。
やはり静かな墓地の方が、気が休まるのだろう。しかし、霊体同士がビッシリと組み合わされて身動きは取れない。かろうじて動かせる手を伸ばし、空に向って叫んでいる。
――怨、オーン、オーン。
それは泣いている声にも聞こえる。恨みの声にも聞こえる。しかし、この声も常人には聞こえていない。さすがの四人もいたたまれなくなり、集中していた念をはずして、目の前の霊体船を自分たちの視界から消した。
三つのセントエルモの火が残像として目の奥に残った。
二望寺の巨大な本堂。外観のみならず内部まで金色に塗られてたたため、四人の山伏はまた呆れた。しかし、そんなことはおくびにも出さない。ご機嫌を損ねると、儲けがなくなるからだ。この塗りたくった金を見ても分かる。この寺の財力はまだまだ衰えてはいない。
四人は女住職に向い、横一列に並んで冷たい板場に座っていた。すぐ脇にはそれぞれの錫杖を寝かせてある。床はもう何年も磨かれていないのだろう。艶はすっかり消え去り、ベトついている。
リーダー格の北王が挨拶代わりに申し出た。
「フミ殿。われわれ四人が来たからには、もうご安心くだされ」
「わしは、おまえらを呼んだ覚えはない」
フミと呼ばれた老女は背中を向けたままそう答えた。背中には長い灰色の髪が垂れ下がっている。尼といえども、髪を切るつもりはなさそうだ。髪は欲望をあらわす。欲を断ち切るために出家者は髪を切る。
北王は表情に出さず思った。
このアマは全身が欲でできているからな、長くて灰色をした髪がお似合いだ。
「しかし、ご主人殿より、何かあったときにはすぐに駆けつけてくれと言われておりましたので」西王が継ぐ。
「何かあったとき? 何もないわ。このわし一人で十分じゃ」
「いいえ。西王の言う通りです。われわれは約束に従ってここに参ったまで。どうか協力をさせていただきたい」東王が座ったまま、フミに一歩にじり寄る。「隣にはあの神職がおります。二十年前、痛い目にあったあの庭師も健在です。先ほど出会いましたが、その力は衰えてござらん」
「痛い目か。確かに痛かったわ。あれからこの寺の凋落が加速したと言っても過言じゃないわい。あのときは前代の住職とわしくらいしか、おらなんだ」
フミが振り返った。顔中に刻まれたいくつもの深い皺が長くて暗い年月を偲ばせる。
「おまえらがおると勝てるというのか!」
うっすらと紅をひいた口で叫ぶ。
北王がさらに進み出る。
「もちろんでございます、フミ殿。我々は勝つためにわざわざ山中より参ったのでございますから」
「ふん。何が山中だ。しょっちゅう街中に出てきては悪さをしておろうよ。――わしはこのときが来るのを二十年待っておったのよ。その間に前住職は亡くなり、檀家は離れて行き、寺はこのように荒廃していった。今度のいくさには勝たねばならん。勝って、この青竹家を守るんじゃ」
「御意にござります」北王が頭を下げる。
「ふん。来てもらった輩を無下に追い返すわけにはいかんな。――謝礼はおまえたちが十分に納得するくらいは渡すとしよう」
そう言って、ニタリと笑う。溶けかけた歯が数本見えた。
四人は頭の中を見透かされたようで気まずくなる。前住職との縁や恩などは関係ない。義理を果たす必要はない。金さえもらえればそれでいい。頭の中はそれしかない。
「まっ、勝手にいたせ。ねぐらは用意してある」
住職であるフミはそう言うと、あの奇妙なお経を上げ始めた。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
得体の知れないお香が金色に塗られた柱を伝って天井へ流れ出す。
四人はまた顔をしかめた。
その後、回廊の外に離れのようにポツンと存在する講堂にニセ山伏の四人は追いやられた。
講堂とは僧侶が集まって修業をする場であるが、このように離れに設置してあるということは、この寺ではあまり修業を重要視していなかったことになる。しかも、ここも荒れ放題ときている。
四人は薄っすらと埃が溜まった床の上に車座になって座っている。
「北王よ。まったく丁重な扱いだな」
毛の先が床にまで達している長髪の南王が、薄暗い講堂内を見渡しながら皮肉を言う。
「まあ、そういうな。我々が加勢しないと勝てないことくらいあの女も知っているだろうよ」
北王は酒を片手に言うが、西王は納得できない様子だ。
「北王よ。あの霊体船だけで十分勝てるとだと思うがのう。我々は本当に期待をされとるのか?」
「当たり前だ。目の前をよく見ろ。この馳走の数々。それにこの酒。一級品じゃ。すぐに出てきたということは、我々が来ると知って、用意をしておいたのだろうよ」
「しかし、この馳走はどうだ? なぜ、寺で酒が出る。この寺には不飲酒の戒律はないのか。それに、なぜ、寺で肉を喰らう。なぜ、魚を喰らう。なぜ、鳥を喰らう。期待されているとしても、寺のもてなしとは思えん」
「これがあの女のややこしいところよ」
北王はそう言って、大きめの杯に入った酒を一気にあおる。
「満願神社の心御柱の交換は既に終わったらしい」ぽつりと言う。
「何! その神事を妨害すれば神社には多大なる影響があったろうに」南王がいきり立つ。
神が宿るとされる依代の交換は祭礼では最も大切な行事であった。
「北王よ。フミ殿はそのとき何をしておったのだ?」西王が問う。
「気づかなかったらしい。いや、どうやら、フミ殿に気づかれないよう、深夜に最少の人数で行われたらしい」
「まったく気づかないとはな。なあ南王よ」西王はあきれる。
「深夜に行われたのか。あのバアサン、飲んだくれて、爆睡でもしていたのであろうよ。せっかくの機会を逃すとはな」
「まあ、そう言うな南王よ。祭礼当日を潰せばいいまでよ」北王がいさめる。「あの気味の悪い船でな」
三人はあの霊体船を思い出し、また気分が悪くなる。
「それにしてもあんな船を使わないと勝てないとは、そんなに敵は手ごわいのか?」
南王が北王に問うが、割り込んできた西王が手首の金のブレスレットをチャラリと鳴らして答える。
「先ほど、鳥居の下で会っただろうが」
「確か二人の人物に会ったが、手ごわいのはどっちだ? あの年老いた庭師か、それとも竹ぼうきを持っていた巫女さんか?」
南王が茶化したので一同は大笑いをする。
「いや、あの巫女さんの目はキリッとしていて怖かったぞ」
東王が追い討ちをかけるが、
「何だ、東王はあの竹ぼうきで叩かれたいのか?」南王がまた茶化す。
「ふん。そんな趣味はないわ――それよりも、南王よ。あの金堂の仏像の数々は絶景だったな。あれは全部、本物かね」
「贋物に決まっておろうよ。如来、菩薩、明王、天部が入り混じり、寸法といい、年代といい、様式といい、統一性がまったくないわ。四天王が三体しかない。八部衆が六体しかない。それに見たか、あの三尊形式の仏像たちを。阿弥陀三尊の左脇侍は本来、観音菩薩であり、右脇侍は勢至菩薩だ。それが逆に設置されておった。それに、先ほどあの女が熱心に拝んでおった釈迦三尊。左脇侍の文殊菩薩は象に乗り、右脇侍の普賢菩薩は獅子に乗っておったわ。わしは噴出しそうになったぞ。――ははは。逆じゃ。象と獅子がさかさまじゃ」
「ははは」西王も笑い出す。「そういえば、変だと思ったんだ。あの孔雀明王の像。乗っかっているのは、孔雀ではなく、どう見てもニワトリだったからな。あれは素人の仕事だろうよ。小学生の夏休みの宿題の工作の方がうまいぞ」
ニワトリはよかったなと四人は笑う。
「西王よ。本堂の隅に置いてあった紙の束を見たか?」
「ああ、北王よ。あれはなんだったんだ?」
「呪符よ。本来は災禍厄難を避けるための札だが、あれは違う。その名のとおり、呪いの札よ」
「それにしても、かなりの数だったな」
「ああ、あれだけの呪符を作るには、かなりの霊力がいるはずだ。あのババア、一筋縄ではいかん。――それにしても、仏像といい、呪符といい、数を集めれば何かご利益でもあると思っておるのだろうよ。欲に取り憑かれた浅はかな女よ。仏像などは、どうせ、チンケな盗人にでも頼んで集めさせているのだろう」
「盗品か。不偸盗の戒律もこの寺には関係ないな。――あの女、そのうちに天罰を喰らうぞ」
西王はそう言って笑ったが、
「いや、ちゃんと覚悟はできているようだ。おまえたちも見たであろう、あのババアの着ておった袈裟を。真っ赤だったろう。茶色などの壊色こそが出家人の証だというのに、あの真っ赤な原色はなんだ。俗人の色じゃないか。あいつは現代の破戒僧だ。もはや、出家人に戻るつもりはないのであろう。――過度な欲望は人を変える。かつては仏に帰依していた人間をも、あっさりとな」
その欲に取り憑かれた女から金をたんまり頂こうとするのだから、ニセ山伏たちも欲に取り憑かれていると言えよう。しかし、本人たちはそれに気づくほど繊細な心は持ち合わせていない。いや、あるのかもしれないが、欲という黒雲が覆い隠しているのであろう。
山伏たちの笑い声が講堂に響く。酔いが回ってきたためか、北王以外の三人も“フミ殿”から、“あの女“や”あのアマ“呼ばわりに変わっている。ここは離れだ。いくら悪口を言おうと本堂にまでは届かない。
しかし、笑いが収まった頃、北王が静かに言い放った。
「誰しも強欲に取り憑かれると、すさまじい邪力を発揮するものだ。あの女は特にな。霊体船を見たろう。あんなもの、中途半端な霊力では作れん。老婆とはいえ、見くびってはいかん。いつ我々も寝首を掻かれるか分からん。十分に気をつけろ」
――深夜。
講堂からは九字を切る声が聞こえてきた。
臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 列! 在! 前!
九字護身法。この九文字の呪を唱え、指で空中に縦に四線、横に五線を書くときは、どんな強敵も恐れるに足りないという護身の法。四人の山伏たちも今度の敵が手強いという事を十分に熟知していた。
満願神社の神殿内には古来より絶えることなく灯されている神聖な火がある。ミコは毎日、その火を神主からもらい受けて、それぞれの灯籠に火を付けて回る。
参道の脇には相撲部の香川が激突した立て灯籠が数基立っていて、神殿、拝殿、社務所の四隅には吊り灯籠が数基下がっている。
最初は軽い気持ちで、まるでオリンピックの聖火ランナーのような気持ちで、火を付けて回った。しかし慣れとは恐ろしいもので、今や、とても厳かな気分でこの仕事をしている。ミコは良い意味でこの雰囲気に飲まれてしまったのだ。
変われば変わるものだと自分でも不思議に思う。ついこの前まではヤンキーだったというのに。
もうすぐ、この神社で祭礼が行われる。それを邪魔しようと、隣の寺が攻撃を仕掛けてくるという。バトルは楽しみだが、このきれいな神社を汚されたくないと切に願う。
見上げた鎮守の森は濃い緑色をしてうっそうと茂り、深い青色をした空と見事に融合していた。
同じ頃、ジッちゃんは鳥居の真下にいた。既に今日の仕事は終えていたが、庭師の格好のままだ。拝殿と神殿に向かって目を向ける。拝殿の前ではミコが鎮守の森を見上げている。
「はて、お嬢さんは先ほどからあそこで何を思っておるのかな」
ジッちゃんは目を細めてつぶやく。
祖父から父、父から自分へと三代に渡って丹精込めて手入れした聖域を、感慨深げに眺めてもらうのは気持ちのいいものだ。特に若い人に関心を持ってもらえるとうれしいものだ。
きっと祖父も父もあの世で喜んでくれていることだろう。
そして2人は祭礼当日になると、あの世からお祝いに駆けつけてくれるに違いない。
やがて、すべての火を付けて回ったミコは社務所へと戻って行った。あたりはかなり暗くなってきた。そろそろバイトの時間も終わりだ。
「さあ、取り掛かるとするか」
ジッちゃんが気合を入れると、カラスが一声鳴いた。
声の先を見ると鳥居の上だった。
「ほう、そんなところにおったか。闇夜のカラスとはよく言ったもんだ。気づかんかったわ」
カラスは飛び立つと、ジッちゃんの肩に乗っかった。鋭い爪を立てて掴まっているが、ジッちゃんは平気な顔をしている。肩にカラスがいつ止まってもいいように特殊なパッドを入れているからだ。三本足のカラスは老人の耳元でカチカチとくちばしを鳴らした。
「うむ、やはりな。あの四人の山伏もどきが加勢したか。それと……。なに、仏像が増えておる。そうか。何か得体の知れない霊力でも使うつもりかのう。しかし、どうやって集めておるのか、あんなところに集められた仏像も迷惑しておることじゃろ」
カラスはジッちゃんに知り得た情報を提供するとバサリと飛び立った。
敵は三本カラスの存在をまだ知らない。祭礼の日には十分活躍してもらう予定だった。
ジッちゃんは鳥居の両脇にいる狛犬を見つめた。狛犬の正体は犬ではなく、邪気を払うとされている獅子だ。口を開いている方が“阿(あ)”、閉じている方を“吽(うん)”と呼ぶ。
阿吽が一対になって神社を守ってくれている。
満願神社には拝殿の両脇と合わせて二対、四匹の狛犬がいる。
「いつも守護してくれてありがとよ。もうすぐ大切な祭礼じゃ。頼んだぞ。あの二十年前のときのようにな」
そういって、二匹の狛犬の頭をそれぞれ撫でた。狛犬も共に戦う大切な仲間たちだ。
ジッちゃんは一礼すると参道に踏み出した。
その背中に二匹の狛犬が大きな目をギョロリと向けて、太いシッポをブルンと振った。この二匹と対を成す拝殿脇の狛犬の目も開かれ、遠くに確認できるジッちゃんの姿に向ってシッポを振った。
彼らも祭礼を待ち遠しく思っているようだ。
満願神社の参道の脇にはそれぞれ十基、合計二十基の立て灯籠が並んでいて、すべての灯籠にはミコが入れた火がユラユラ灯っている。そして、二望寺の薄汚れた石畳と違い、ていねいに清掃されている道を薄っすらと照らしていた。
ジッちゃんは灯籠の丸い穴の中へ手を入れて小さな和紙を燃やして回っていた。和紙には三行の呪文が書いてある。この古くからの儀式により、一基の灯籠の中に三匹の式神が宿る。つまり、灯籠の中には合わせて六十匹の式神がいて、祭礼の日には変幻自在に姿を変えながらジッちゃんの仲間として働いてくれるはずだ。
二十年前の祭礼時にはコウベモグラとなって、二望寺が放ってきたミミズの集団を退治してくれた。お陰で最後の結界が破られることはなかった。
儀式により、つぎつぎと息を吹き返していく式神たち。境内に彼らがざわめく声が流れ出す。
「久しぶりだな、おまえたち。お隣さんは相変わらずこの神社を恨んでおる。祭礼の日には妨害を仕掛けてくるじゃろう。それを防いでくれるのが、おまえたちの役目だ。神様のお役に立てるぞ。十分に働いてくれ。もちろん、このわしも老体にムチ打って働くし、若もお元気でいらっしゃる。いや、若の場合は二十年前よりもさらに神力を増しておられる。もしかしたら、おまえたちの出番はないかもしれんぞ」
そういって、ジッちゃんは笑った。すべての灯籠で無事に儀式を終えた安堵感が笑い声に含まれている。ジッちゃんの言葉が理解できる式神たちもクスクスと笑う。
参道の両脇からも笑い声が沸き起こった。二十年ぶりに蘇った六十匹の式神の笑い声だ。彼らは祭礼当日までこの灯籠の中で静かに出番を待つことになる。
ひとまずの仕事を終えた参道を振り返ったジッちゃんは拝殿の脇にいる狛犬たちの頭も撫でた。
「鳥居脇にいる二匹と協力して、どうかこの神社を守ってくれよ」
参道の初めと終わりにいる四匹の狛犬はそれぞれが目を開き、それぞれが呼応しあった。
拝殿、社務所、それぞれの建物の四隅には吊り灯籠が下がっている。ジッちゃんは新しい和紙の束を取り出すとその灯籠の中の火にも焼べはじめた。先ほどとは違う呪文が書いてある。ここでも次々に数匹の式神たちが目を覚ます。
そして、最も重要な建物である日吉造りの神殿は、三重の垣根で覆われていて、垣根にはたくさんの鈴が取り付けられていた。この鈴の中にはすでに式神が潜んでいる。祭礼のときだけでなく、神殿は常に守護しなければならないからだ。
――チリン。チリン。
ジッちゃんが通りかかると、式神が騒ぐ。
「ここは神様を守る最後の砦じゃ。お前たちは、言ってみれば旗本というわけだ。当日は存分に働いてくれよ。――いや、仕事がない方がいいか。ヒマということは平和な証拠だからな。しかし、そうも言っておれん。敵さんが傍観を決め込むとは思えんからな。四人の山伏も仲間として引き入れたようだし、他にもいろいろと策略を練っていよう」
満願神社と二望寺の境界にある白くて長い土塀には無数の式神を塗り込んであり、塀際にたくさんの榊の木を植えてあった。前回はこの境界から攻めてこられた、重要なポイントだ。
「まさか、正面の鳥居側から攻めてくることはあるまい。やはり決戦地はここだろう」
ジッちゃんはそう睨んでいる。
いったん社務所に寄ったジッちゃんは軽トラックにたくさんの注連縄を積み込んで戻ってきた。注連縄とは本来、ここからは神聖な地であるとの標識の役目を果たすが、邪悪なものを退ける力をも秘めている。ここで使われるのは最も細い縄でできている前垂れ注連縄と言われる物で、それに白紙で作った紙垂をたらす。ここで用いられるのは式神を宿らせた特殊な注連縄だ。
ジッちゃんは手に抱えた何本もの注連縄を器用に土塀に取り付けていく。ぶつぶつと口で唱えているのはお経か呪文か。それとも、注連縄に潜んだ式神に話しかけているのか。
二望寺に近い境界のため、聞かれないように声も小さくしているようだ。
すべての注連縄を張り終えたころ、若が両手には数本の棒を抱えてやってきた。
「やあ、ジッちゃん、ご苦労さん」
「ああ、これは若」
いつもの神主衣装ではなく、ラフな格好をしている。
「前回は敵さんがミミズに変化させた邪霊を地中から送り込んできたから、今回はこれを使おうと思ってね」
「ほう、いいですな」
若が手に持っているのは、結界棒と呼ばれる細い金属製の棒だ。その名の通り、等間隔に地中に刺していき、結界を作り上げる。地中にはジッちゃんが植えた榊が根を張っている。
「さすが、若。よく気が付かれた。榊の根だけでも心強いというのに、それでは、鬼に金棒どころか、鬼に結界棒ですな」
二人は小さな声で笑うと、結界棒を地中に立てて回った。
満願神社のすべての要塞化が終わったのは、深夜二時のことだった。
それから三時間後、まだ早朝だというのに、業者のトラックとクレーン車が神社の入り口に乗りつけた。古い鳥居の解体と新しい鳥居の建立を行うためだった。
それは二望寺に邪魔されないように、たった数時間の突貫作業で行われた。
「わーっ、すげー!」小森が絶叫した。
「おおっ!」「うひゃっ!」吉田も香川もすっかり新しくなった鳥居を見上げて感心している。あたりには、まだペンキの香りが漂っていた。
「どうだい、すげーだろう?」三人の後ろには、いつの間にかジッちゃんが立っていて、小森の口真似をしてからかった。
「あっ、これは、これは、庭師の親方ではありませんか」
小森が恐縮して頭を下げる。他の二人もそれに倣って深々と頭を下げる。
「学生さんは大げさだな。わしはそんなに偉くないよ。弟子はとっていないから親方でもないしな」
小森はあわてて頭を上げる。
「立派なものが完成して、われわれ相撲部一同もうれしく思います」
「いや、これは未完成じゃ。ほら見てごらん」
ジッちゃんは三人を鳥居の横に連れて行って、柱を指差した。
「何も書いてないだろう。ここにはこの鳥居を建立するにあたって尽力をいただいた方々の名前を書くんじゃ。こうやって鳥居が建った後も、寄付をしていただく方がたくさんいらっしゃる。祭礼が終わってからその方たちの名入れをしてはじめて、本当の完成となるんじゃ」
「そうですか。ではさっそく相撲部からも寄付させていただきます」
小森は張り切って言ったが、三人の所持金を集めても六百円にしかならなかった。
しょんぼりする三人にジッちゃんが言った。
「ははは。その気持ちだけでうれしいよ。みんなは奉納相撲をしてくださるのだろ。今日もそのための稽古に来てくれてるのだろ。それだけで十分だよ。きっと神様は喜んでくださる」
たちまち小森の顔が明るくなる。
「はい、分かりました。俺たちには金はないけど、相撲への情熱があります。がんばりますよ、なあ、吉田!」
「おう、神様にい良い取り組みを見せて喜んでもらうぞ! なあ、香川!」
「あっ。さっき、みんな合わせて六百円しかなかったんですけど、今、左のポケットから五十円玉が出てきました。これで六百五十円です」
みんなが黙り込んだ。
小森は香川を無視すると、一礼して鳥居をくぐった。
「あれっ、ジッちゃん、何ですかこれは?」
そこには大きな輪が立っていた。
ジッちゃんが説明する。
「それは茅の輪といってな、藁を紙で包んで輪っかにしたもんじゃ。三回くぐるとお祓いとお清めの効果があるんじゃ。本来は夏のものだが、今回は特別に作ってもらったんじゃ。さあ、みんなも三回くぐりなさい」
小森と吉田はいちいちお辞儀をしながら三回、茅の輪くぐりをした。
香川は十回くぐったところで息が切れてへたり込んだ。
「ボ、ボク、人より穢れが多そうなのでいっぱいくぐってみました」
三人はジッちゃんと別れると、土俵に向って歩き出した。ミコに言われた通り、参道の端を歩いている。途中で自分たちの名前が書かれた興行のぼりを見つけると、気分よく胸を張った。今日も実りのある稽古ができそうだった。
三十分間ぶっ通しのぶつかり稽古を終えて、いったん休憩を取ることにした。三人の息は上がっていて、体中が砂だらけになっているが、稽古にはあまり身が入らなかった。稽古中、ずっと流れていた音楽に気を取られていたからだ。その音楽も休憩に合わせるかのように止んでいた。
やがて、ミコがいつものように巫女さんの格好で大きなお盆を持ってやって来た。
「ミコ先輩! ごっちゃんでーす」
三人があわてて体の砂を払って整列する。
「おう、相撲部。がんばってるな。これ、お茶と手作りまんじゅうの差し入れ。あたしの手作りじゃなくて悪いけどな」
「いえ、とんでもないです!」「喜んでいただきます!」「いつも楽しみにしてます!」
「ところでミコ先輩、さっきの音楽ですけど」
小森が気になっていたことを訊く。他の二人も耳をそばだてる。ミコが何かをやってるんじゃないかと思っていたのだ。
「ああ、お神楽の練習だよ。音楽はテープだけどな。当日は本物の演奏者が来てやってくれるんだ。ほら、これ見て」
ミコはまんじゅうが乗ったお盆とお茶が入ったポットを傍らに置くと、薄いノートのようなものを取り出して、小森に見せた。
――神楽口上台本。
「へえ、これを見て練習されているんですか。でも先輩、漢字に全部フリガナが振ってありますよ」
「小森、なんか言ったか?」ミコが長身の小森を睨み上げる。
「い、いえ、何も。お、俺は無口ですから。――あっ、そうだ。先輩、喜んでください。相撲部に新しい部員が一人入ってきたんですよ」
ミコはあたりを見渡す。
「――どこにもいないじゃん」
「あっ、今日は模試で休んでます」
「なんだと、こらっ! 奉納相撲と模試とどっちが大事なんだ。それに一人じゃまだ足らないだろうが。みんなで四人じゃ、三回取り組みをやって終わりだろ。神さん、がっかりだぞ。模試なんか平気でスッポかす奴を連れて来いよ」
「は、はい、分かりました。時間がないことは重々承知しておりますので」
「それに、顧問の静乃先生も来てないじゃないか。まだ一度も会ってないんだぞ」
小森が小さくなる。その横で二人も小さくなる。
大きな三人があまりにも小さくなったので、ミコは返って気まずくなる。
あっ、そうだ。こいつらに訊くことがあったんだ。
「あのさ、この中でピッチャーをやっていた人いない? 実はさあ、祭礼の日に餅投げやるんだよ」
「えっ、餅ですか!?」食べ物の話題が出てきて、香川がさっそく喰らいつく。
「縁起もんだよ。参拝客に向って投げるんだ」
「ああ、節分によくやっているやつですか?」
「あれは豆だよ。うちで投げるのはお餅さ。でも、あたしは野球の経験なんかないから、ちゃんと投げられるか心配なんだよ。できれば、後ろの方にいる人たちにも放ってあげたいしね」
ミコは三人を見渡すが、小森も吉田も子供の頃から相撲しかやって来ていない。二人とも球技は不得意だった。
しかし、ただ一人、目を輝かせた男がいた。
「ミコ先輩! ボク、ピッチャーの経験者です!」香川だった。
準備周到用意してあった野球のボールを持って、ミコが巫女の格好のままで立つ。その横には香川がうれしそうな顔をして立っている。やっと自分の出番が来たといったような顔だ。その二人を見守る小森と吉田。小森は心配そうな表情で、吉田の方はすでに伏せ目がちだ。
香川がボールを持ちながらミコにアドバイスをする。
「野球のボールはお餅よりも大きいですが投げる基本は同じです。こう握って、こう構えて、こう投げます。見ててください。――それっ!」
ボールは確かに前へ向って、数メートル先まで飛んで行った。
しかし、小森も吉田のように目を伏せた。
そして、ミコの怒号が飛んだ。
「なんで、下手投げなんだよ!」
香川がなぜ怒られたのだろうという顔をして答える。
「はい、中学までソフトボールをやってましたので」
「上から投げた方が遠くに飛ぶだろうが!」
「へっ、そうですか?――ねえ、そうなの?」
香川は小森と吉田に救いを求めるが、ずっと下を向いたままだ。
「でも、ボク、今まで上から物を投げたことないですけど」
「あのな。――じゃあ、見ててよ」
ミコがぎくしゃくしたフォームでボールを投げた。
それは、香川が投げたボールよりも遠くへ飛んだ。
「わっ、先輩すごいですねー。ボクを越えましたよー」
叫びながら香川がボールを取りに走る。
「しかも巫女さんの格好でですよー。ミコ先輩は野球の才能がありますよ。やっぱり腕力が抜群ですね。さすが、ヤンキー時代に自転車のチェーンを振り回していただけのことはありますよー」
香川が振り返ったとき、ミコは社務所に向って歩き、小森と吉田はまんじゅうにカブリついていた。
「なあ、小森。相変わらず、このまんじゅうはうまいな」吉田が口をモゴモゴさせながら言う。
「そうだな、まんじゅう一筋六十年のおばあちゃんが作っているらしいからな」小森も幸せそうな顔で言う。
「これ、新入部員へお土産に持って帰ってやろうぜ」
「身長百五十センチ、体重百五十キロの球体にか?」
「そうだよ。いいこと思い付いたんだ。まず、第一にこのまんじゅううまいだろ。第二にミコ先輩はきれいだろ。第三にこの境内は風通しが良くて昼寝に適してるだろ」
「なんだ、なぞなぞか?」
「つまりさ。ここに来ると食欲と性欲と睡眠欲がいっぺんに満たされるってわけだ」
「おお、模試VS人間の三大欲望か。そりゃ、今度から模試なんかに行かないで、こっちに来るな。それに、まんじゅうも手作りだって言えば、俺たちみたいにミコ先輩の手作りだと勘違いして喜ぶかもな」
「――だろ? 思春期の男子なんて三大欲望の前にはイチコロだよ」
「そうだな、まだ一年坊主だもんな。でもあいつ、何ていう苗字だっけ?」
「小森がスカウトしたんだろうが」
「うーん、忘れた。まあ、球体でいいだろ。ミコ先輩が付けたニックネームだからな」
なぜかボールの上手投げの練習をしていた香川がようやく戻ってきた。
「だいぶうまく投げられるようになったよ。――あれっ、ボクのおまんじゅうは?」
小森と吉田がすべて平らげていて、お皿の上には何もなかった。二人はすでにお茶をすすっている。
吉田は球体にあげるお土産用のおまんじゅう三個をそっと隠した。
ミコは社務所に戻って、縁起物の製作にかかった。縁起物といっても餅だけではない。祭礼当日に配布したり販売したりする商品は他にもたくさんある。オッチャンこと神主さんに言われた仕事は福玉作りだ。竹で編んだ、さっき投げた野球のボールよりもやや大きな玉に和紙を貼り付けていくのがミコの役目だ。水に溶いた糊を小さな刷毛を使って和紙の表面に薄く伸ばしていく。そして、和紙を破らないようにそっと持ち上げて玉に重ね貼りをしていく。これは販売用の縁起物だ。二百個作らなければならないらしい。慣れない仕事でミコの両手はすでにベトベトだった。お客さんが来ると、急いで両手をタオルで拭いて相手をする。しかし、すぐにベトベトになる。その繰り返しだった。
こんなときに電話が鳴った。
ジッちゃんは鎮守の森の中にいた。ここはただの森ではない。古代、神社には建物はなく、森そのものが神の降臨する場であった。だから、人々は森や木を大切にして、森や木に祈りを捧げた。
この神聖な森の樹木の手入れもジッちゃんの大事な仕事の一つだ。三代に渡って見守ってきた木々を見上げながら、手に触れながら、声を掛けながら、長年歩き慣れた細い道をゆっくりと歩く。枝葉がざわめき、ジッちゃんに返事をしているようにも聞こえる。この森の木々も祭礼を楽しみに待っていることだろう。
そのとき、ミコが森の中に駆け込んで来るのが見えた。ジッちゃんは思わずズボンのポケットに手をやった。用事があったらスマホに連絡が入ることになっているのだが。
ああ、軽トラックの中に忘れてしもうたか。これでは携帯にならんな。
「おーい、お嬢さん、わしはここだ」
ジッちゃんが木の陰から姿を現す。
「あっ、ジッちゃーん!」
ミコの声が鎮守の森にこだまする。
「なんだい。若からの伝言かい?」言ったとたん、ジッちゃんの顔が曇った。
ミコの表情が尋常でなかったからだ。
「社務所に電話なんだけど、ジッちゃんの娘さんみたい」
ジッちゃんには嫌な予感がした。
“祭礼の日。この神社で親子三人が二十年ぶりに再会する”
その約束の日が近づいている。きっと妻は約束を覚えてくれていると思う。だから、もしかしたら事前に連絡が入るのではないかと思っていた。
しかし――。
連絡をしてきたのが、なぜ妻ではなく娘なのか?
答えは一つしかない。妻の身に何かあったのだ。お嬢さんは娘から詳細は聞いていないだろう。わしの娘からの電話なら喜んでくれるはずだがこの表情だ。おそらく、娘の声を聞いて、何か悪いことが起きたことを悟ったに違いない。お嬢さんは若いが、そこまで聡い女性だ。
「そうか。ありがとう」
ジッちゃんはお礼を言うと社務所に向って歩き出した。
ミコは寂しそうなジッちゃんの背中を急いで追いかけた。
「はっけよい、のこった! のこった!」
大きな歓声とともに大きな男が小さな男に押し出された。
「柔よく剛を制するとはこのことだな」
「山椒は小粒でもぴりりと辛いだな」
「ブタもおだてりゃ木に登るだな」
焚き火の周りで男たちが笑い転げている。
ブンさんがダンボールの切れ端で作った軍配団扇をかざして勝者を示した。物言いはつかない。
橋の下の相撲大会。相撲好きのホームレスが集まって、定期的に開かれているらしい。行司役はいつもブンさんだ。
今日の勝者は元ラグビー部のハッちゃん。準優勝は仲間内で一番体が大きいピーちゃん。三位は小さな体なのにとても強いアリちゃん。この三人がいつも優勝を争っている。優勝商品はその日に収穫できた物の在庫によって変わる。
今日はワンカップ三本。日本酒が大好きなハッちゃんは大喜びだ。応援していた仲間たちもその顔を見て大喜びしていた。
ブンさんは拾って来た服で作った行司さんの衣装を脱いで、土手を下りてくる男を指差した。
「ほら、あの人が木川さんだ」
横笛を持っていた森河と鼓を抱えていた本山と多田が振り返って、新しく入ってきた男を見た。男は軽く自己紹介をすると、持っていた風呂敷包みを広げて、担当している楽器を見せた。
「ほう。これは“ひちりき”ですか?」パン屋の多田が訊いてくる。
「いや、これは笙(しょう)というものです。間違える人が多いのですが、ひちりきという
のは言ってみれば縦笛ですね」大手電機メーカーに勤務する木川が答える。
「あっ、そうですか。雅楽の楽器なんて馴染みがないもので」
「いや、私も実物を見たのは初めてでして」
「何だか、芸術的な形をしてますね」
「これは羽を休めた鳳凰に似せて作られたものなんですよ。だから、別名、鳳笙(ほうしょう)とも言います。仕組みはこういう風になってます」木川は周りにいる人たちに説明する。
「お椀の上に十七本の竹の筒が立ててあります。そのうち二本は音がしないのですけどね。そして、このお椀の穴から吹くか吸うかして音を出します。原理はハーモニカみたいなもんです。しかし、この楽器は結露しやすいんですね。だから、こうやって演奏前に温めるんです」木川は笙を焚き火にかざした。
「しかし、よく笙のことをご存知ですね」多田が感心する。
「いやいや、全然知らなかったもので、ネットでいろいろと調べて覚えたのですよ。だから誰にも習っていないので演奏はまったくの自己流です。最初はまともに音が出なかったので苦労しました。――じゃあ、ちょっとやってみますね」
木川が両手で笙を包み込んで息を吹き込む。
笙の音が橋の下に響く。
「ああ、この音ですか。着物のCMで聞いたことありますよ」文具屋の本山が言う。
「そうか、そうか。これが笙ですか」パン屋の多田も納得する。
「なんだか厳かな気分になりますね」高校教師の森河が言う。
ブンさんもそばにやってきた。「何だか懐かしい響きだな」
「えっ、ブンさんは笙をご存知ですか?」木川が演奏を止めて問う。
「いや、そういう意味じゃなくて、古代に思いを馳せるというか、わしも前世では宮中で演奏しておったかもしれんな」
そう言って、ブンさんは歯が一本しか残っていない口で笑う。
「おいおい、ブンさんが宮中だってよ」
「金がなくて、きゅうきゅうしているのによ」
周りに集まっていたホームレス仲間も声を上げて笑う。
「おめえらは黙ってろ。――さて、笙が温まったのなら、さっそく橋の下コンサートを始めてもらいましょうかな」
ブンさんが宣言すると、あちこちから拍手が起きて声援が飛んだ。
「よっ、待ってました大統領!」「おまえ、掛け声が昭和だぞ」
みんなは相撲大会を見に来ていたのか、それとも、このコンサートを聞きに来ていたのか。四人は少しプレッシャーを感じる。特に今日初参加の木川さんはあまりの観客の多さに驚いている。
当初は森河がここで一人、横笛の練習をしていた。やがて、大鼓の多田さんと小鼓の本山さんが加わり、今日から笙の木川さんが加わった。木川さんも練習場所を求めてこの橋の下にたどり着いたのだ。
そして、ブンさんの計らいで一緒に練習することになった。もちろんブンさんには言ってないが、みんなあの黒尽くめの男の被害者だった。新入りの木川さんも三百万円を賽銭箱の中に入れてきたらしい。四人とも、なぜこんな楽器を渡されて、練習をさせられているのか、いまだに分からないが、いずれ連絡が来るはずだ。それまで腕を磨いていなければならない。
四人のセッションが始まった。観客はブンさんが動員してくれた約三十人のホームレスの人たちだ。森河に横笛の吹き方を教えてくれた元吹奏楽部の若者も来てくれている。みんなはダンボールの上に座り込んだり、川の土手に腰掛けたり、思い思いの格好で音楽を楽しんでいた。ただし、雅楽のことが分かる人など一人もいない。しかし、それは仕方がない。演奏している四人もよく知らないのだから。
横笛、大鼓、小鼓、笙――四人が奏でる四つの古くからの楽器の音色が橋の下で反響する。
ブンさんが言ったとおり、みんなにも懐かしく聞こえるのだろうか、静かに目を閉じて聞いてくれている。
演奏に慣れて少し余裕が出てきた森河がふと見上げると、橋の上にもたくさんの人たちが鈴なりに並んで聞いてくれていた。通りすがりの人たちだ。
横に座っている多田さんに合図を送る。多田さんが見上げて驚く。上にも三十人ほどの人たちがいて、こちらを覗き込んでいたからだ。思わず大鼓の調子が乱れる。それに合わせるかのように本山さんの小鼓も調子が狂う。
森河は見下ろしている観客の中に奇妙な二人を見つけた。格好が派手で、どう見ても反社の人間だった。ヤクザ者が音楽を楽しんだらいけないという法律はないが、この場に相応しくなく、二人だけが浮いている。一般人が決して着ないような紫色のスーツを着ていたからだ。
表情を見ても、他の観客のように楽しんでいるとは思えない。ヤクザ者があんなところでいったい何をやっているのだろう。集まっているホームレスの人に用があるのだろうか。さっき、ブンさんも橋の上を見上げていた。あの二人に気づいたはずだ。しかし、何の反応もなかった。きっと面識はないのだろう。だとすると、やっぱりわれわれ四人を見ているのか。
まさか、あの黒尽くめの男の仲間で、ちゃんと練習をしているかの確認に来たのだろうか。その可能性は高い。そう考えると、今度は森河の笛が乱れだした。
他の三人がそれに気づいて、わざと大きく楽器を鳴らして笛の音を打ち消す。観客には気づかれていない、いいチームワークだった。
演奏が終わると橋の上と下の双方から盛大な拍手が起きた。それは決してお世辞の拍手ではなかった。しかも、さっきの相撲大会のときよりも大きな拍手だったので、四人はとてもうれしそうだ。
特に横笛担当の森河は感慨深い。最初にここで笛を吹いたとき、十分後にはブンさん以外の人たちがみんないなくなっていたのだから。今は誰も途中で帰ることはなく、ちゃんと最後まで聞いてくれている。ときには終わったあとにホームレスの連中がアドバイスをしてくれることもある。それが役に立つか立たないかは別として、うれしいものだ。
それに仲間がまた増えた。あの黒尽くめの男からの連絡を戦々恐々として待っている毎日だったが、四人になったことでだいぶ気も楽になった。同類相憐れむといったところだが、他のメンバーたちも同じ思いでいることだろう。しかし、近いうちに男から連絡が来ることは間違いない。
練習をしておいてください。時期が来れば連絡します。
男はそう言った。そして、あの男はきちんと約束を守るはずだった。
木川さんは演奏を終えて、笙をまた焚き火で温めている。本山さんと多田さんは鼓の麻のヒモを調整している。
ブンさんがどこから調達してきたのか、缶コーヒーを四本持ってきてくれた。
「お疲れさん。これ飲んで休んでよ」
四人は恐縮しながら、土手に腰掛ける。
「でもよ。今演奏を聞いて思ったんだけど、何か足らないんだよな」
四人はコーヒーを飲むのをやめてブンさんを見る。
「ずっと考えてたんだけど、今、分かった。太鼓がないんだな。でっかい太鼓があればもっと迫力が出るだろ」
森河はもっともだと思った。
しかし、ブンさんはそう言ったが、みんなは自分の楽器で精一杯だ、また新たに太鼓を覚えろと言われても無理だった。それとも、われわれと同じようにあの男の被害に遭い、どこかで太鼓の練習をしている人がいるのだろうか。いつかどこかでその人と合流して五人一緒に演奏する日が来るのだろうか。
ヤクザ者の格好をした二人はまだこちらを見下ろしていた。
橋の下から聞こえていた音楽が止んでも、若頭の百舌は動こうとしなかった。金のネックレスと金のブレスレットで着飾っているジュンは何度か声を掛けようと思ったが、表情がいつもより怖いのでやめることにした。いつも怖いのに、今はもっと怖いのだ。
ここを通りかかったとき、音楽が聞こえてきた。何の楽器か分からなかったが、百舌は急に足を止めた。それから三十分、二人並んで橋の欄干を持ってたたずんでいる。一緒に並んで音楽を聞いていた人たちはもう一人もいない。しかし、百舌はずっと橋の下を見つめたままだ。
やがて、百舌はジュンの顔を見て、ポツリと言った。
「わしはここで生まれたんだ」
「えっ?」ジュンはもう一度、橋から下を覗き込む。
「捨て子って、知ってるか?」百舌さんの目は悲しい。
「は、はい。捨てられた子供ですか」
「そうだ。今時、流行らんがな。わしの時代にはあった。わしはここに捨てられた。どこかの家で生まれたのだろうが、それは分からん。ここで生まれたも同然だ」
ジュンは橋の下を見渡す。かなり広い川が流れている。コンクリートでできた土手はホームレスたちがねぐらにしている。当時はコンクリートではなく、地面がむき出しのままだったのかもしれない。地面の上に百舌さんが捨てられていた。
「気がついたら施設だった。名前が書いた紙切れが一緒に添えられていたらしい。下の名前だけだ。本当の苗字は分からん」
「百舌さんという名前は?」
「百舌というのはわしが勝手に名乗っているだけで、本名じゃない」
「だったら、親も分からないですよね」
「そうだ。生きているのか死んでいるのかという以前に、自分の親はどこの誰かということが分からん」
かなり強い風が橋の下を通り過ぎてゆく。川の流れは急だ。生まれたばかりの赤ん坊が何かの拍子で川に落ちていたら、あるいは親切な誰かが拾って施設に届けてくれなかったら、百舌さんはこの世にいない。俺とこうして仕事をすることもない。
アニキが、百舌さんにはかわいそうな過去があると言っていたのはこのことか。
だから、百舌さんは決して笑わないのか。
「わしはな、小さなダンボール箱に入れられていたんだ」
生まれたての赤ん坊は暖かい服を着せられ、お母さんの柔らかい手と胸に抱かれて大切にされている。でも、百舌さんはこんなところに一人ぼっちでいた。
「わしは犬猫と一緒だったんだ」
ジュンは、寂しそうな百舌の横顔を見つめる。
「ジュン、これはわしの独り言だ。聞かなかったことにしてくれ」
「分かりました。――みんなは?」
「いや。このことを知っているのはアニキだけだ」
やがて、埃を含んだ強い風が橋の上にも吹きはじめた。
ジュンは思わず目をつぶった。
夜、スコットが漫喫内のシャワーを浴びているときに首から下げていたスマホが鳴った。あわてて画面を見るとボスからだった。すぐにシャワーを止めて、タオルでゴシゴシと顔の周りのしずくを拭う。
「おう、異邦人のスコットくんか。明日、奴らが港から仏像を本国に送る」
そう言って、場所と時間を教えてくれた。そして、明日は戦争だとボスは言った。
言われた港はスコットも何度か足を運んでいた、ここから程遠くないところだ。あの辺りは何人もの人に聞き込みをしたが、そんな情報は入って来なかった。
やっぱり外国人だから教えてくれなかったのだろうか。それとも、ボクの努力が足らなかったのだろうか。ボスに雇ってもらってからというもの、有意義な情報は何も提供できなかった。それでも日当はもらっていた。最近、焦りはじめていたところだ。だから、ボスからの電話はうれしいのと辛いのが入り混じっている。できれば、自分で情報を得たかったのだが。
これで、奴らを生け捕りにするともらえるという百万円のボーナスがなくなったのは確かだ。
そのとき、またスマホが鳴った。今度はジュンだ。
「聞いたか、スコット!」
「はい。只今、ボスから電話がありました」
「明日、奴らをボコボコにやっつけるぞ。お宝も取り戻すぞ」
「でも、見習いのジュンさん、ボスはどこからその情報を得たのですか?」
「ああ、渡しの細川さんといって、ヤクザな漁師がいるんだよ。港から母船までブツを運んでくれるんだ。いつも世話になっている人なんだけど、あの東南亜細亜諸国犯罪連合の連中がよりによって、その細川さんに仕事を依頼したんだよ。俺たちの仲間だと知らずにな。たちまち細川さんからアニキに連絡が来て大騒ぎよ。俺達が取られたお宝以外にもお宝があるだろうから、それもみんないただきだ。高価な仏像がいっぱいあるぜ。ウハウハだぜ」
ウハウハか。そういえば、変な日本語だなと思って、辞書で意味を調べてみたことがある。確か、うれしくて、浮ついた気持ちでいると書いてあった。ジュンさんは明日死ぬかも知れないというのに、浮ついているのか。やっぱり、ジャパニーズマフィアは怖い。
「あの観光バスも分捕って二階でカラオケを歌おうぜ。スコットも歌うんだぞ!」
明日、死ぬかもしれないのに歌のお話か。でも、それどころじゃない。
「あのう、明日、ジュンさんたちは何人で敵と戦うのですか?」
「スコットを入れると七人だ」
「えっ、ボクも入ってるんですか!?」
「当たり前だろ。スコットはデカイ体してるんだから強いだろ。一気に汚名を返上するんだ」
おめいをへんじょう?
意味がよく分からないけど、きっとボクが給料だけもらって、ボスにいい情報を持って行けなかったので、この機会にがんばれという意味なのだろう。
「相手は何人くらいですか?」
「二十人くらいだろうな。だから、一人で三人やっつければいいんだよ」
七人×三人=二十一人。確かにジュンさんの計算は合っている。
「あの、相手はピストルを持っているんでしょ。ボクたちの武器はなんですか?」
「――これよ」
「見えませんけど」
「こぶしよ」
「拳骨ですか。他にはないのですか?」
「コンジョーがあるぜ」
「あのう、メッチャ怖いです」
「スコット、メッチャゃなんて日本語をよく覚えたな」
「はい、関西のジョシコーセーがよく使ってます」
そんなことどうでもいいんだけど。ああ、どうしよう。
日本には困ったときの神頼みということわざがあったっけ。
「あの、ボク、これからお祈りしますから、おやすみなさいです」
「おう、明日、集合場所に遅れるなよ。いいか、よく聞け。俺たちは七人の侍だぜ!」
ああ、何ということになったんだ。デカイ体してるんだから強いって言われたけど、デカイだけで本当は弱いなんて今更言えない。今から逃げてもジャパニーズマフィアは追いかけてくるだろう。ボスもジュンさんもいい人だけど、ナンバー2の笑わない百舌さんは怖い。
ネス湖のそばの村に、「ただいまー」と帰ったら、あの顔で「おお、おかえり」と待っていそうだ。
スコットはスマホと一緒に首から下げている十字架を握り締めた。
アーメン。
アマテラスオオミカミさま~。
イングランドとジャパン、どっちの神様でもいいので助けてください。神様のご守護と大愛をボクにください。相手の東南亜細亜なんとかかんとかに天罰をお与えください。
しばらく祈った後、元気を出すため、無理に歌を口ずさんだ。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
この歌はあの二階建てバスのカラオケには入っているのだろうか。やっぱり、練習をしておいた方がいいのだろうか。いや、歌の心配をする前に明日は戦争だ。ボスに迷惑をかけてきた分、ちゃんと働かないと。ジュンさんが、俺たちは七人の侍だと言った。よく考えたら、イギリスに侍はいないじゃないか。――ああ、でも、騎士がいる。
そうだ、ボクは勇敢なナイトだ! 六人の侍と一人の騎士が悪者をやっつけてやる!
ああ、でも、こっちも悪者なんだ。ジャパニーズマフィアだもの。
考えているうちに、クシャミを連発した。シャワー中だったスコットはあわてて体を拭いて、パンツをはいた。
竹ぼうきで参道を掃いているミコはご機嫌だった。朝一番で一番大きなお守りが二つも売れたからだ。その参拝客はミコが出勤してきたときから拝殿の前にひざまずいて、長い間お祈りをしていた。祈り終わると、社務所にやって来ておみくじを引いた。引いたのは大吉だった。意味を訊かれたので、ベリーラッキーという意味だと教えてあげた。
お客さんは白かった顔をポッと赤くして喜んでくれた。
次に所狭しと並んでいるお守りを見つめた。
安産祈願、合格祈願、交通安全祈願、病気平癒祈願、心願成就……。
これらの中で、身の危険から守ってくれるのはどれかと訊かれて、安全祈願のお守りをすすめた。大きさは三種類あるけど、どれが一番効果があるのかと訊かれて、一番大きなお守りをすすめた。お客さんはそれを二つ買うと、大事そうにポケットに入れ、ていねいにお辞儀をして帰って行った。
ミコは不思議に思った。その参拝客の胸には十字架がぶら下がっていたからだ。
なんで教会じゃなくて、神社に来るのだろう。
ミコは変わった人もいるものだと、やたらと背の高い金髪の外国人を見送った。
漁船が出て行った後の夜の港は静かだ。
奴らがここに現れるのは十一時。今は二時間前の九時だった。
アニキたち七人は鍵のかかっていない小さな倉庫を見つけると、そこで待ち伏せをすることにした。長年使われていない倉庫には錆びたコンテナや形が崩れたダンボールが山積みになっていて、隠れる場所はたくさんある。奴らがここに気づいて入ってきても、すぐには見つからないだろう。ただ、あちこちに蜘蛛の巣があるのと、やたらと天井が低いのが難点だった。
壁の上の方にある小さな換気扇が風に吹かれてカラカラと回っている。通気性がよくなく、息苦しいところからすると、あの換気扇はあまり役に立っていないのだろう。
天井の蛍光灯は消えている。敵襲に備えて消してあるのではなく、電気が止められていて点かないだけだ。万が一のことに備えて、ボスからはタバコを吸うのも禁止されていた。
こんな戦争はすぐに終わる。ちょっとの辛抱だから我慢しろとボスは言った。
スコットは窓から差し込む月明かりの元、隣に座っているジュンを盗み見た。天井が低いため、みんなは座って待機している。
ジュンは顔こそ平気な表情だが、手はズボンのポケットに入れたままだ。そこには、さっきスコットがあげた安全祈願のお守りが入っている。朝一番に神社へ行って買ってきたものだ。ジュンはとても喜んでくれた。そして、おみくじの結果はベリーラッキーだったと教えるとまた喜んでくれた。
俺たちは絶対に勝てるぜ! 勝って、歌って、今夜は忙しいぜ!
ジュンは先ほどまでテンションを上げて狂喜していたが、時間が近づくにつれて大人しくなっていく。そのとき……。
コン、コン、コン。
扉がノックされた。何人かが体をビクつかせる。スコットは半分立ち上がりかけて、あわてて座りなおす。
ボスに睨まれたからだ。「あわてるな。三回ノックは合言葉だ」
百舌がゆっくり立ち上がると入り口に向かい、一人の男を連れてきた。
「これはカリノ組長。いつも世話になっとります」
渡しの細川が小さな声で挨拶をする。この闇の中でも日焼けしているのが分かる。
「おお、細川さん、ご苦労。ここに座ってくれ。――まず、これが今日の情報の謝礼だ」
仮の組長ことアニキが分厚い封筒を渡す。
たぶん中身は百万円の札束だ。
スコットは、あれはボクがもらうはずだったのになあと悔しがる。
「今夜のおさらいだ。全員、もう一度聞いておいてくれ」
みんながボスの周りに集まって車座になる。
「奴らが現れるのは十一時の予定だ。あいつらは馬鹿だから、きっと二階建てサルーンの大型観光バスに乗ってくるだろう。人数は前と同じだったら二十人ほどだ。拳銃も持っているだろう」
質量ともにこちらが圧倒的に不利だ。ボスの説明を聞いて誰かがゴクリと唾を飲み込む。
「細川さんは奴らに言われた通り、ブツを受け取って船に乗せてくれ」鋭い視線を送られた細川は小さな声で返事をする。「船が岸を離れたところで俺たちが飛び出す。奴らと乱闘している隙にUターンして隣の港につけてくれ。そこにワゴン車が用意してある。俺たちは、奴らを仕留めたら、すぐそこに向ってお宝を積み込む。――みんな、分かったな?」
「おう」小さな声が倉庫に響く。「はい」細川さんもまた返事をする。
「うまくいけば、細川さんにはこの謝礼の他に成功報酬を渡す」
「はい、ありがとうございます」
「うまくいけばと言ったが心配するな。きっとうまくいく」
細川はここまで来ると、もう後戻りができないことを知っていた。
えーい、ヤケクソだ。こうなりゃ、とことんカリノ組長について行くぞ。
「よしっ、みんな。気合の杯だ。別れの杯じゃないぞ」
ボスは杯に持参した日本酒を注ぐと一気に飲み干した。それを順番に回し飲みする。日本酒に慣れていないスコットは思わず顔をしかめたが、薄暗かったので、みんなには気づかれなかった。
「もっと飲みたいだろうが、今は一杯だけで我慢してくれ。終わったら、たらふく飲ませてやる。樽ごと買って事務所に届けさせてやる。事務所でどんちゃん騒ぎだ。末端価格四億のお宝だからな。――あの桃竜組長も文句は言えまい」
取り立て人の桃竜組長のことを思い出すと、ジュンの怒りが再び込み上げてきた。
同期のくせにうちのアニキを上から目線で見やがって。アニキの顔にタバコの煙を吹きかけやがって。絶対、今夜の仕事を成功させて、奴のデカい鼻を明かしてやる。
あいつ、乗り物に弱いとか言ってたな。だったら、二階建てサルーンバスに押し込んで、市中引き回しにして、ゲーゲー吐かせてやるのもいいな。
――ブワーン。
「野郎、来やがったぜ!」アニキがうれしそうに叫ぶ。「あの馬鹿ども、こんなところでも派手にクラクション鳴らしやがって」
アニキは腕時計の横にあるボタンを押してランプを点灯させ、時刻を見た。
「ジャスト十一時だ。――いいか、みんな」
仲間を見渡す。細川はすでに船に戻っているから、ここにいるのは全員で七人だ。
――ドドドドッ。
大型バスが轟音を上げて近づいてくる。
――ザッ。
みんなが内ポケットから拳銃を取り出した。
驚くスコット。
えっ? これじゃ、本当に戦争じゃないですか。
アニキがスコットに目を向ける。
「心配するな。モデルガンだ。暗いから分からんだろ。脅すにはこれで十分だ。向こうは本物を持っている。とはいえ、こんな所でぶっ放すわけにはいかないからな。奴らを取り囲んで、これを見せてやればこっちの勝ちだ。ああ、スコットくんの武器は用意してない。――そうだな、あそこにチェーンが落ちてるな。あれ持ってがんばれ」
あれ持ってがんばれと言われても、敵はピストルなんですけど。
ぶっ放さないと言われても、ぶっ放してきたらどうするの?
チェーンを振り回して、弾丸を叩き落すの?
無理でしょ。映画じゃあるまいし。
「そうだ。007というのはスコットくんの国の映画だろ。ジェームズボンドになった気分でがんばってくれ。――よしっ、日本男児と英国スパイ連合軍と東南亜細亜諸国犯罪連合の一大決戦のはじまりだぜ」
六人は屈んだ姿勢で静かに入り口に向かい、外の気配を伺いはじめた。勝手にスパイにされて、一人取り残されたスコットはチェーンをダラリと持って立ち尽くす。荷物を吊り下げるときに使っていたであろう錆びたチェーンを持っても、ジェームズボンドの気分になんか浸れない。ボンドの秘密兵器にこんな古風な物はないし、ボンドガールなんてどこにもいないじゃないか。
とりあえず戦況を見守るとして、ここにいることにしよう。ボスからはがんばれと言われただけで、具体的に何の指示もないのだから動けない。むやみに動くと、返ってみなさんの邪魔になるだろう。ここはプロに任せて後から声援を送ろう。
もし敵とバッタリ遭遇したら、そのときは――。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
倉庫のドアの隙間から六人が覗いている。
「まちがいない、あの三人だ。拳銃をぶっ放しやがったのが、あいつだ」アニキがアゴで細身の男を指して言う。
「先日と同じフォーメーションだな。まず、拳銃を持った三人が最初に出てきて暴れる。そのあとは、ほら、バスの中にけっこう人が乗っていやがるだろ。あいつらが余裕かまして出てくるってわけだ」
バスの中で数人が動く姿がシルエットになって映し出される。
隣にいるジュンがアニキに言う。
「二階にまたカラオケのマイクを持った奴がいます。何か歌っている様子ですよ」
「あのボケ。後でマイクをその汚い口に突っ込んでやるぜ」
三人はあたりに異常がないことを確認すると、バスの中で待機している連中に声をかけた。たちまち、十数人の男たちが降りてくると、バスの脇腹のトランクから木箱や白い布でグルグル巻きにされた物を取り出しはじめた。
「やっぱり、お宝はバスの土手っ腹に入ってたぜ」
アニキが言う。みんなは無言でうなずく。
小さな木箱は一人で、大きなものは四人がかりで運び出して、海岸へと歩き出した。そこには、渡しの細川がすでに待っていた。遠くには母船が停泊している。さらにその沖には数隻の漁船がいさり火を灯して航行しているが、ここで行われる取引に気づくほど近くはない。
「細川さん、緊張してんじゃないか? 海に落ちなきゃいいがな。あの人、漁師のクセに泳げないからな」
アニキがこんなときに冗談を言う。みんなはこんなときなのにクスリと笑う。
こんなときに……。死ぬかもしれないのに……。
スコットに聞こえていたら、口をあんぐり開けたまま固まるだろう。
細川は船の上でブツを受け取ると、ていねいに甲板へ並べはじめた。母船はすぐそこに来ていて、すぐに降ろすのだから、わざわざ船体の中にまで入れる必要はない。もっとも、今日は母船になんか行くつもりはないのだが。
もちろん、大きな木箱はそのまま船の上まで運んでもらった。一人で持てる小さな木箱は一つ。二人でないと運べない大きな木箱は六つ。木箱に入らないほど大きなものが二つ。合計九つのブツの積み込みが完了した。
細川はペコペコと頭を下げながら謝礼を受け取っている。
三人のうちの一人が母船に向けて懐中電灯を振り回した。今からそちらに向うという合図だろう。
「まだだぞ」アニキが押し殺した声でみんなに言う。
やがて、係留のためのロープが解かれて細川の船が沖へと滑り出した。真っ直ぐに母船に向っている。このあと、到着直前になってUターンする予定だ。
船を見送った東南亜細亜諸国犯罪連合の連中は無事に仕事を終えて、バスに乗り始めた。
「まだだ……」
拳銃を持ってると思われる三人だけが残った。あたりを見渡しているが、こちらには気づいていない。
「よしっ、行くぞ。まずはあの三人をボコボコにする。次に、異変に気づいてバスから降りてきた奴を順番に片付ける。乗降口は狭いから一人ずつしか降りて来れないはずだ。――おい、スコットくん。行くぞ!」
――ダダッ!
六人が駆け出した。
勝手に後方支援を担当しようと企んでいたスコットは、暗闇からボスに名前を呼ばれてビクッとした。
うう、やっぱり行かないとダメなのか……。
えーい。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
スコットは錆びたチェーンを手に駆け出した。
――ドゴッ!
低い天井に頭をぶつけて卒倒した。
六人は三人を目掛けて飛び出した。二人がかりで一人を仕留める。任侠道を歩む者としてはちょっと卑怯だが、向こうはホンモノの武器を持っている。こっちはよく見るとバレてしまうモデルガンだ。任侠と言えども、ときには見栄を捨てる。任侠と言えども、命は惜しいからだ。
しかし、走っていた六人の足はピタリと止まった。
たちまち周りを囲まれたからだ。
三人の周りを六人が囲んだ。すぐにその六人の周りを二十人近い奴らが囲んだ。
作戦がすっかりバレていたのだ。
六人を囲んだ奴らの哄笑する声が闇の中に響く。
アニキが回りに注意を払いながら、落ち着いた声で闇に訊いた。
「なぜ、俺たちのことが分かった?」
しかし、闇の中にいる連中は誰一人として答えようとしない。
こんなに圧倒的不利な状況でも、ヤクザはなめられたら終わりだ。
もう一度、アニキは同じセリフを、今度は大きな声で叫んだ。
「なぜ、俺たちのことが分かった!?」
だが、闇は静まったまま動かない。
こいつら、日本語が分からないな。
情報が漏れていたとは思えない。きっと俺達が倉庫に潜んでいるところか、倉庫から覗いているところを見られたのだろう。そして、バスの中に入ったフリをして反対側の非常扉から外に出て、周って来やがったのだろう。――くそっ、不覚だ。
――ザザッ。
闇の一人が動いた。
「みんな、気合を入れて歯をくいしばれ。――来るぞ!」
二十人の敵がいっせいに六人を目掛けて跳びかかってきた。
どうやら拳銃を使うつもりはないらしい。肉弾戦とあらば、望むところだ。
アニキと百舌は次々に相手を蹴散らしていく。闇の中、相打ちだけには気をつけないとマヌケなことになってしまう。
六人はできるだけ分散して戦っている。武器はモデルガン。弾を撃っているヒマなんかないため、モデルガンそのもので殴りつける。
――ガッ!
日本刀も乱闘のときはこのように使ったらしい。時代劇のようにバサリバサリと流暢に斬っていくヒマはない。日本刀そのもので殴りつける。
――ガッ!
倒れこんだ奴に足を取られないように向っていく。二十人のうち六人が倒れこんだまま動かなくなった。
ちっ、まだ六人かよ。
アニキには人数を数える余裕があった。
まったく、こいつら後から後から湧いて来やがるぜ。
そのとき、足元に拳銃が転がってきた。
仲間の一人が手に持っていたモデルガンを叩き落されて丸腰になった。しかし……。
「ウォー!」雄叫びを上げると、ひるむことなく丸腰のまま、頭から突っ込んでいく。
アニキはその仲間を助けようとしたが、自分の周りの敵で精一杯だ。頼りの百舌も三人を相手に奮闘中だ。ジュンは一人の男の上に乗っかかり殴りつけている。
やがて、丸腰の男が引き倒された。アニキが駆け寄ろうとしたとき、倒れていたはずの男が起き上がり、足を?んできた。思わずよろめいたアニキに違う男が襲い掛かる。
「アニキー!」
ジュンの叫び声が埠頭を渡る。その瞬間、組み伏していた男からカウンターパンチが飛んできて、ジュンのアゴの先に炸裂する。百舌も気を取られた隙に、数人の奴らに取り囲まれて、姿が見えなくなる。
相手はただのチンピラではなかった。こんな手馴れた連中が相手なら、何事も計算どおりにはいかない。
――多勢に無勢か。
アニキをはじめとする六人は、たちまち冷たいコンクリートに転がされて、両手を上げた姿勢でうつ伏せにさせられた。
そして、体中を調べられて、唯一の武器であったモデルガンはすべて没収された。
体勢を整えた約二十人の犯罪連合軍が倒れている六人を取り囲む。
三人は手に拳銃を持ったままだ。
アニキはうつ伏せの体勢で仲間を見た。無傷な奴は一人もいない。ジュンの手首は折れ曲がり、百舌の顔面は血だらけになっていた。
こんな場所で撃つことはないだろうと思っていたが、今は分からない。このままぶっ放して、逃げる可能性もある。明日の朝、身元不明の六人の遺体が見つかって大騒ぎになるだろう。
くそっ、こんなことじゃ、気合の杯をもう一杯飲んでおくんだった。
何とか、反撃する方法はないか。
目だけをキョロキョロと動かす。そのとき、視界の隅に小さな光が映った。
沖合から奴らの母船が合図を送ってきている。懐中電灯を振り回しているようだ。
しかし、俺たちを見下ろしている二十人はまったく合図に気づいていない。
こいつらバカか。なぜ、ケータイや無線を使わない。
渡しの細川が荷物を降ろすことなくUターンを始めたため、あわてて後を追いかけているようだ。しかし、所詮は大きいだけの船だ。地元の海を知り尽くした漁師である細川が操る改造エンジンを積んだ漁船には到底追いつけない。
ざまみろ。お宝はこっちのものだ。
細川の船は約束どおり、まっすぐ隣の港へ向っている。
アニキは奴らへの反撃をあきらめて、ここを脱出する方法を模索しはじめた。
取り囲んでいる二十人はこの六人をどう処理するか迷っているようだ。
ときどき、向こうの言葉が交わされるが、意味は分からない。
ただ、言葉に怒気を含んでいるようなので、素敵なおもてなしは期待できない。
それに、いつ母船の合図に気づかれるか分からない。急がなければ。
誰か動ける奴はいないのか?
かすかに頭を動かして、一人ずつケガの状況を垣間見る。
なに、六人……? 一人足らないじゃねえか。スコットはどうした?
倉庫を出るときに声をかけたはずだ。確か、あいつは返事をする代わりに、レット・イット・ビーの歌を口ずさんだはずだ。
アニキは思い切って倉庫の方を振り返った。
――ギギッ。
ドアが開き、ゆっくりとスコットが姿を現した。
月の光に浮かび上がるスコットの巨大なシルエット。
それはとてつもなく不気味で異様な雰囲気を漂わせている。
――そうだ!
アニキがひらめいた。「おい、おまえら、よく聞け」這いつくばったまま指示を出す。「ああ、かまわん。こいつらに聞こえても日本語は分からんだろ。――いいか、俺が合図をしたら、みんないっせいに笑え」
五人は思わず黙り込む。ジュンがおずおずと尋ねる。
「あのう、アニキ、笑えと言われても、百舌さんは……」
アニキはすぐ横にいる笑わない男、百舌を見る。
「百舌、どうだ。笑えるか?」
「いえ。無理です。最後に笑ったのはいつなのか記憶にありません。いくらアニキの命令でもこれだけは。わし、生理的に無理なんです。笑えんのです」
「百舌、今までの人生で楽しかったこと。うれしかったこと。感激したことがあるだろ。それを思い出すんだ」
「アニキ、わしにはそういうもんはありません。今までの人生は辛いことばかりで、笑えることなんか、これっぽちもありません」
アニキは地に顔を伏せた。
百舌の生い立ちはよく知っている。確かに辛いことばかりだ。今まで笑ったことがない人生を送ってきたのも確かだ。あの橋の下。おまえはあそこで生まれたんだよな。あの暗い橋の下で生まれた百舌。寒かっただろうな、百舌。あんとき、おまえはまだ赤ちゃんだったのだからな。
おまえをこの冷たいコンクリートの上で死なせてたまるかっ!
アニキは顔を上げると、くぐもった声で言った。
「分かった、百舌。おまえはその姿勢のまま、肩を震わせて忍び笑いをしているフリをしろ」
そばに立っていた男が、話を止めようとしないアニキの横腹を蹴り上げた。
――ググゥ。
アニキは痛がるフリをして、倉庫を振り返った。
スコットがゆっくりとした足取りで歩き出した。
真っ黒な巨体が闇をかき分けながら進んでくる。
ジャリ、ジャリ、ジャリ。
右手には太くて長いチェーンを持っている。
よしっ、いまだ!
「みんな、あそこを見てみろっ! ターミネーターが助けに来てくれたぞ! わはははは」
アニキが叫ぶと、五人が笑い出した。
百舌も身を伏せたまま笑っているフリをする。
「やったー。バンザーイ!」ジュンが叫ぶ。
二十人の犯罪連合軍の顔がいっせいに凍りついた。
ジャリ、ジャリ、ジャリ。
二メートル近い外国人の大男がチェーンを片手にこちらに向ってくる。
ゆっくりとした足取りがその不気味さを増幅している。
大きなシルエットはその歩みを止めない。
闇夜に浮かんだ顔は無表情で、一心にこちらを見つめている。
ターミネーターだって!?
みんなはその単語の意味を知っている。――処刑される!
一人の男が奇声を発するとバスの中へ逃げ込んだ。犯罪連合軍はパニックになり、釣られてつぎつぎに逃げ込む。拳銃を持った三人も、足をもつれさせながら彼らにつづく。最後に小柄な運転手役の男が窓から乗り込むと、ブワーンとクラクションを一つ鳴らして走り去ってしまった。お宝を掠め取られたことも知らずに。
大型バスが見えなくなったとたん、スコットは頭を押えて倒れこんだ。
アニキが自分のケガを押して駆け寄る。
「大丈夫か、スコットくん」
「はい、ボス。大丈夫です。すいません、迷惑ばかりかけまして」
「そんなことはない。お陰で助かったぜ」
スコットはアニキに声をかけられて倉庫から外に出ようとして、天井に頭をぶつけて、そのまま気を失った。気がついたら、周りには誰もいない。あわててチェーンを手にした。そして、脳震盪を起こしてふらつく足取りで外に出てみると、ボスに、ターミネーターだと叫ばれた。何のことか分からないが、早くボスたちの元へ行かなければと思ったのだが、足に力が入らず、ゆっくりとしか歩けない。ぶつけた頭の痛さで顔も無表情のままだった。そのうち、なぜか敵はバスに乗って逃げてしまった。
何が起きたか分からないが、ボスをはじめ、みんながボクに感謝をしていた。
ジュンがスコットに肩を貸して歩いている。かなりの身長差があるので歩きにくそうだ。今からみんなで隣の港へ行くところだ。渡しの細川さんからはうまく母船をまいて、すでに港で待っていますとの連絡が入っていた。
「見習いのジュンさん、いつもすいませんです。腕は大丈夫ですか」
「ああ、心配するな。腕の一本や二本や三本、どうってことない。それよりも助かったぜ。最高のタイミングで現れてくれたのだからな。あれは作戦だったのか?」
「いえ、あの……」今さら失神していたなんて言えない。
「偶然です」素直にそう言ったが、ジュンさんは勘違いをした。
「スコットはいつも謙虚だな。みんなの命を助けたんだから、もっと威張っていいんだぞ。――あっ、そうだ。アニキからたんまりとボーナスをもらえよ。俺からも言っておくからな。なんといっても、取り戻したお宝はすぐ目の前だから、金は腐るほどあるんだ」
全身が傷だらけの七人が海辺の道を歩いて行く。まだ、血がしたたっている者もいれば、ざっくりと傷が開いている者もいる。しかし、すっかり夜は更けて誰も歩いていない。異様な風体の集団だが、誰かに見られることはなさそうだ。
やがて細川の船が見えてきた。
なかなか来ないので心配になっていたのか、細川はアニキたちを見つけると、うれしそうに手を振ってきた。
「カリノ組長。お待ちしておりました」
「おお、細川さん、よくやってくれたな。今頃、奴らは悔しがってるだろうよ。のんきにカラオケなんか歌っているからバチが当たるんだ」
船の甲板には木箱と白い布に包まれた仏像がそのまま置いてある。
ジュンが隠してあったワゴン車を片手で運転してきて、船に横付けする。
「アニキ、これ全部、車に乗りますか?」
「そうだな。工夫しないと積めんな。とりあえず、ブツを岸に上げてくれ。――ああ、ジュンはいい。片手で持って、海に落とされたら大変だからな。まず、もともとは俺たちのものだった小さな木箱からだ」
小さな木箱は一つだけあった。それは以前、アニキがスコットに説明したとおり、紫色の風呂敷で包まれていて、長さは五十センチほどだった。大きな木箱は六つ。うち二つはアニキたちが奪われたものだった。
「三つだったお宝が九つに増えて戻ってきたんだから、ありがたいな。さすが仏さんだぜ。――さて、これはいったい全部でいくらになるんだろうかな。あの小さいのだけでも四億だからな」アニキがうれしそうに言う。
やがて、大小七つの木箱と布で巻かれた二つの仏像が陸揚げされた。
スコットはジュンの肩を借りて立ちながら、お宝を見下ろしている。ずっと捜し求めてきた風呂敷包みの木箱が目の前にある。百舌も拭い終えた血だらけの顔をしかめながらも、感慨深げに見ている。他の仲間たちもうれしそうだ。
これであの桃竜組長に支払いができるし、デカイ顔もできる。事務所の応接セットは新調して、トイレをウォシュレットに変えて、アニキは黒いベンツを乗り回す。本部からは一目置かれる存在になるだろう。
これで渡し人の仕事は無事に終わった。細川は今日二度目の謝礼を受け取ると、何度もお辞儀をして、意気揚々と海の彼方へ引き揚げていった。
「けっこうな儲けだろうから、細川さんもうれしそうだな」アニキは笑顔で見送っている。
さて、あとはこれをワゴンに積み込んで売りさばくだけだ。売却のルートは既に確保してある。それ専門の奴らが今や遅しと待ち構えていることろだろう。ここから先、自分たちの手は汚れない。売った奴らが捕まったとしても、所詮は末端の奴らだ。
これはどこかで見た光景だな。
外国語で、デジャなんちゃらと言うのだったな。あのときと違うのは東南亜細亜諸国犯罪連合のバカどもが現れないことだ。今さら引き返してきたところでもう遅いぜ。あの港には何の痕跡も残してないからな。もし、ここにたどり着いたところで、俺たちは仕事を終えて、すでにいないってわけだ。
「よしっ、積み込むか。まず、デカイのからな。肝心の四億のブツは一番後だ」
そのとき……。
――ヒュン!
何かの音がした。
――シュル、シュル、シュル。
何だろう?
スコットは周りを見渡した。そして、空を見上げたとき月光に反射して何かが光った。右から左へと何かが一直線に伸びている。やがて、左の視覚内に白い小さな物が飛び込んできた。
――まさか!?
あのときと同じ光景がここでも起きている。デジャ・ビュだ。
あの人がここにも現れたのか!?
スコットが瞬間に思い浮かべたことは見事に当たっていた。仏像の入った木箱が夜空を飛んでいたからだ。
その飛んで行く先を見て、「あっ、かなちょろだ!」スコットが叫んだ。
ああ、このセリフはあのとき、刑事さんが叫んだんだ。
叫んだ相手は倉庫の陰にたたずんでいた釣りスタイルのかなちょろだった。かなちょろは両足を踏ん張って釣竿で仏像を手繰り寄せていた。あのときと同じように、相当の距離から木箱に針を命中させて、一気に釣り上げている。
――ブーン!
やがて、かなちょろの元に猛スピードで釣り上げた小さな木箱が飛んで行った。それは、まさに末端価格四億円の覚せい剤が仕込まれた仏像が入った木箱だった。ここに来てやっと、何が起きたのかアニキたちが気づいた。
しかし……。
――バシッ。
「大漁、大漁! ほっほっほーっ!」
かなちょろは奇声を発しながら白い布で包まれた小さな箱を見事にキャッチして、一目散に逃げ出した。しかし満身創痍の七人には、もはや走って追いかける力が残っていなかった。
釣りにもっとも必要なのは忍耐力である。いつ動き出すか分からない浮きを一心に見つめていなければならないからだ。仲間とおしゃべりするわけにはいかない。大きな音で音楽を鳴らすわけにはいかない。だいたい、周りには気を紛らすものは何もないという場所で釣りをすることが多い。だから、自分自身に集中するしかない。では、釣り人たちは気長な人が多いのかというと、決してそうではない。逆に短気な人が多いという。短気な人が気長な趣味を持っているとは不思議だ。
この男がこのポイントに糸を垂らして十分は経過しているはずだった。しかし、まだ引きはない。夜は更けてきている。夜釣りは得意なはずだが、どうしたのだろう。こんなに調子が悪いのは初めてだ。
さっきの件で今日の運をすでに使い果たしたか。
いや、この俺様には尽きることのない運があるはずだ。運の良さだけで世間を渡ってきたんだ。
なのに、何だ、さっきは! 何が、シイタケの栽培だ!
先ほどのできごとを思い出すと怒りが治まらない。怒りと焦りが入り混じり、焦れてきた男は竿を左右に動かし始めた。短気な性格がもぞもぞと動き出す。しかし、もぞもぞを懸命に抑え、指の先に全神経を集中させて獲物を探る。
月は雲に隠れ、明かりはない。己の感覚だけを頼りに大物に狙いを定めようとする。
しかし、また怒りが込み上げる。
あの、くそばばあ! 誰がシイタケなんか作るか!
釣り糸から目を離し、見えなくなった月に吠える。
そのとき――。
「釣れますか?」
背中から声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。思わず落としそうになった竿を握りなおす。気配を消して俺様の後ろに忍び寄ったのかと思ったが考えすぎだった。自分の独り言の声が大きくて、感づかなかっただけだ。
「ここは何が釣れるのですか?」
後ろの人物がまた訊いてきた。
「えっ、ああ」
――ググッ。
答えずにいると、背中に何か堅い物を押し付けられた。
ピストルか!?
いや、違うようだ。たぶん、違う。
しかし、確信はない。なぜなら、背中にピストルを押し付けられた経験がないからだ。ほとんどの人たちがそんな経験をしないで一生を終えるのだろうが。
男はピストルじゃないと決め付けて、後ろに立つ人物に気づかれないよう、背中に神経を集中したまま、ゆっくりとリールを巻き始めた。反撃に備えるためだ。今、使える武器と言えば、この釣竿しかない。しかし、釣竿なら自分の手足のように操る自信はある。
やがて、後ろの人物が言った。
「釣れるのはお金でしょう」
瞬間、男は振り向き、その人物に向けて頭上から釣竿を投げ下ろした。
たとえ、相手が若い女であっても容赦はしない。声からして、女だとは分かっていたことだ。それに女がピストルを持っているとは思えない。きっと、棒切れか何かだと思っていた。だから、遠慮はしないで渾身の力を込めた。
――ガッ。
しかし、女は男の釣竿を頭上で受け止めた。竹ぼうきで。
ほうきの柄だったのか!
「貴様、何者だ!?」男が釣竿を押し付けたまま言う。
「見て分からんの?」女も竹ぼうきを押し上げながら言う。
「――巫女さんか?」
「そうだよ」
「だったら、俺様の邪魔をしないで、大人しくお守りでも売ってろ!」
「黙れ、賽銭泥棒の分際で! しかも、こんな遅い時間に社務所は開いてない」
男はザッと一歩後退して、いったん釣竿を持ち直すと、釣り糸を伸ばして振り回し始めた。
――ヒュン、ヒュン。
ミコも竹ぼうきを構え直して、男の頭の上で回っている釣竿に狙いをつける。男の背は自分よりもかなり低い。二人の距離と高低差を測りながら間合いを詰めていく。
男はバトルに慣れてるようだけど、こっちも修羅場をくぐってきたんだ。
――元ヤンを舐めんなよ!
月の明かりが闇の中に釣り糸を浮かび上がらせる。その先には針が光っている。
――ヒュン!
男が動いた。
ミコはすばやく逆に持ち替えた竹ぼうきの先で、伸びてきた竿を釣り糸ごと絡め取って、力任せに引き寄せた。そして、男がよろめいて手から釣竿が離れた瞬間、ダッシュして体当たりを喰らわせた。
唯一の武器をなくした小柄な男は背中からコロンと境内に転がった。体が小さいのでゴロンじゃなくて、本当にコロンという可愛い音がした。
しかし笑っているヒマはない。ミコはすぐに体勢を整えて、すぐ横の手水舎へ走った。草履は走りにくかったが気にしていられない。男もすぐに立ち上がった。手には何も持っていない。何か戦える物はないかとキョロキョロ探しているうち、
――カコーン!
境内に軽快な音が響き、頭頂部に強烈な痛みが走った。
目の前に、ひしゃくを持ったミコが立っていた。
男はそこで気を失った。
「あーあ、神聖なひしゃくをこんなことに使っちゃった。柄がひん曲がってるし」
男が目を覚ましたとき、神主と庭師の格好をした二人の男が見下ろしていて、あの過激な巫女さんの姿はなかった。
騒ぎを聞いて二人が駆けつけたとき、男が気を失って倒れていて、近くに釣竿が放ってあった。そして、賽銭泥棒を捕まえたよと巫女姿のミコが誇らしげに言った。
そんな格好でよくも捕まえられたねと若が感心した。
そして……。
ああ、これか。若には賽銭箱の中からお金だけが消えた訳がやっと分かった。釣竿でお金を釣り上げて、不用な名刺は元に戻しておいたのだ。
若はニタリと笑いながら思った。
その名刺の人物を脅せばもっとお金が取れたのになあ、そこまで頭が回らなかったか。
すでに日が暮れて遅くなっていたため、ここは二人に任せるよう言って、ミコは家に帰した。
「ジッちゃん、この人をどうしましょうか?」若が問う。
「うーん。そうですなあ。やはり警察ですかな。現行犯逮捕は手間がかからず、喜ばれますからな」
ジッちゃんはニタニタしながら言う。
男は逃げもせず、うずくまったまま二人の会話を聞いていたが、
「け、警察だけは」弱弱しい声をあげた。
「しかし、ジッちゃん。祭礼も近いことですから、あまり騒動は起こしたくないのですがね」
「そうですなあ。何かの役に立つかもしれませんから、このままにしておきましょうか」
それを聞いて男はペコペコと頭を下げた。さっきの勢いはなく、ただの小さなオヤジになっていた。
「名刺はお持ちですか?」若が男に訊いた。「ああ、お持ちじゃないですか。では、連絡先を教えていただけますか? はい、電話番号でいいですよ」
男は答えるつもりはなかった。しつこく訊かれたら、いい加減な番号を教えようと思っていた。
――しかし。
じっと目を見つめられたとたん、本当の番号がスラスラと口をついて出てきてしまった。
この神主はいったい何者なんだ。なんでこの俺がこんな簡単に懐柔させられるんだ。
男は驚いて若の顔をみつめた。
しかし、男の事情聴取をつづけているうちに、今度は二人が驚くことになる。
この男は物心ついた頃から、盗みを働いて、生計を立てていたという。そして、最近のメシの種は仏像なんだと自慢げに言った。
特に隣の寺は高価な値段で買い取ってくれるんだ。もちろん、盗品だと分かってて買ってくれる。仏像なら何でもだ。デカイのも、小さいのも、お不動さんも、弁天さんも。そりゃ、すごい数の仏像だぜ。本堂ってのかい。あそこにズラッと並んでる。足の踏み場もないというのはあのことだな。それに向って、住職の女が変な香を焚いて、変なお経をあげてるんだ。山伏みたいな連中? いなかったな。離れの講堂にいるんじゃないか。食事を運ぶとか言ってたからな。正直に言うと、いや、言うつもりはないんだが、なんかしゃべっちまう。どうなってるんだか。
それでよ、今日も盗んだ仏像を持って行って来たんだ。盗んだ相手は東南亜細亜諸国犯罪連合の奴らさ。知ってるかい? 有名な窃盗団さ。奴らの取引現場に行って、一番大事そうにしてやがった小さいのを釣竿で引っ掛けてやった。ピューンてな。
へへっ、窃盗団から窃盗だぜ。まあ、奴らの情報は得ていたからな。蛇の道は蛇ってやつだ。分かるんだよ、それくらいは。
男は調子に乗ってしゃべる、しゃべる。
ところがよ……。
男の顔が曇った。
「入りなさい」女住職のフミはいつものように愛想なく言った。
男は本堂に上がると、掠め取った仏像が入った木箱を、両手で抱えながら、もったいぶって差し出した。少しでもいい値をつけてもらうための駆け引きだ。先日、百貨店の搬入口からかっぱらった観音像はかなりの値段で買ってもらい、さっそく住職がいつも座っている場所のすぐ正面に安置されていた。
「今回の品はこちらでございます。東南アジアの某国でオークションにかけられる予定の由緒ある仏像でございます」
「ほう」
フミは一声感心すると、紫色の風呂敷を解き、木箱のふたを開けた。
瞬間、眉間に深い皺が寄ったのを男は見逃さなかった。
良い意味の皺か、悪い意味の皺か。
とたんに怒号が飛んできた。どうやら、悪い意味だったようだ。
フミは木箱を抱えると、ドスドスと歩き出し、あろうことか庭へ放り投げた。
どうしてだ? 今までどれだけ出来が悪い仏像でも、いくらかで買ってもらえたのに。
男はあわてて庭先に出た。木箱から転がり出ていたのは、仏像ではなく、仏が彫られる前の原木だった。そして、フミは男にこう叫んだ。
「その木でシイタケの栽培でもしておれっ!」
まあ、確かにその木は長さといい幅といい、シイタケ栽培には打って付けだったんだけどよ、なんで原木が入っていたか分からん。確かにあいつらは大事そうに扱ってやがったんだけどな。まあ、それでよ、ババアの剣幕に驚いて逃げ出したわけよ。逃げる途中で、そういえば、以前、隣の神社の賽銭箱に大金が入っていて、大儲けたしたことを思い出して、憂さ晴らしにここで一仕事やっておったわけだな。するとあの巫女さんが現れて、ひしゃくでカコーンと……。
男はそのときの痛みを思い出したのか、急にしゅんとなる。
頭のてっぺんには見事なコブができていた。
「最後にあなたのお名前は?」若が訊く。
「みなさんからは、かなちょろと呼ばれてます」
「みなさんの中には警察も含まれていますね」
かなちょろはまた驚いて若の顔を見つめた。
その後、かなちょろは警察に通報されることなく解放された。
後日、連絡が来るという。何を頼まれるかのか分からないが、あの神主からは逃げられないだろうなと思った。
「かなちょろだけに蛇の道は蛇というわけか。かなちょろが奴らの動きを知っていたということは、向こうもかなちょろの動きを知っているということだね」
若がジッちゃんに言う。
「そうですなあ。困りましたな」
「その窃盗団はいずれ隣の寺にたどり着くだろうからね」
「祭礼に影響しなければいいですがね」
「それにしても、お隣さんの力の入れようには参りますね。仏像を集めて、山伏を雇って、本堂を金色に塗って」
「本当ですな。その執念を仏道に活かせないものですかねえ」
「そうなると、いいお寺に戻れるのになあ。いがみ合っていたら、人は救えませんからね」
ジッちゃんは深くうなずいた。
やっと静けさが戻った深夜の満願神社の境内。
隣の寺からはニセ山伏たちが九字を切る声が聞こえていた。
臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 列! 在! 前!
四人が寺に着任してから毎晩聞こえてくる九字護身法。わざと神社に聞こえるように唱えているのであろう。
若が遠くに見える寺の大きな屋根を見上げながらジッちゃんに訊く。
「盗んだ仏像が原木だったとはどういうことでしょうかね?」
「うーん、そうですなあ。原木に見せかけた何か大切な物かもしれませんね」
すでに日付は変わろうとしていた。祭礼の日は近い。
満願神社に設けられた土俵での稽古は今日が最後だった。あとは祭礼の日の本番を待つだけだ。相撲部の三人は土俵に向って深々とお辞儀をすると、隅々まで丁寧に掃除をし、雨風避けのシートをかぶせて、風に飛ばされないよう四隅に重しを乗せた。
一度でいいから、本物の土俵に上がってみたいという小森たちの夢は叶ったし、ここで稽古をはじめてから数段強くなったという実感もある。
「香川、どうだった?」小森が目を輝かせて待っていた。
土俵での最終稽古が終わったとき、今日は一向に現れないミコを香川が神楽殿まで偵察に行っていたのだ。
「ミコ先輩はフリ仮名だらけの神楽口上台本を片手にお神楽の練習をしてたよ。なんかきれいな服を着て、お化粧して、いつもの百倍くらいきれいだったよ」
「じゃ、次は俺が行ってくるな」
小森がうれしそうに駆け出した。デブでも目的が明確なら早く走れるようだ。
「別にみんなが行かなくてもいいんだけどな」吉田が言う。
「覗きに行くんじゃなくて応援に行くんだよ。じゃあ、吉田は行かないわけ?」
「いや、行くよ。ただの見物だったら行かないけど、応援だったら行かないとミコ先輩に怒られるかも知れないからな」
副主将は変な理屈をつけて自分を正当化する。もっとも、応援といっても、神楽殿の脇からこっそりと見ているだけなのだが。
「練習が終わったらここに呼んで来ないといけないからね」香川が少し憂鬱な表情で言う。
「やっぱり、ミコ先輩を呼ぶのか?」吉田の表情も暗くなる。
「そうだよねえ。でも、どうしようか。やめる?――ああ、でも、約束だからねえ」
香川はどうしたものかと逡巡する。
やがて、小森がうれしそうに帰ってきた。
「いやあ、香川が言う通り、いつもの千倍くらいきれいだった」
しかし、すぐに小森の表情は曇った。
「でも、あとであの顔が鬼の形相になるぜ」
「普段でも怖いのにねえ」香川が追い討ちをかけた。
今日、稽古に来てみると、すでにいつものおまんじゅうとお茶が用意されて拝殿の脇に置いてあった。おまんじゅうはいつもより数が多く特盛になっていて、湯呑みも五つ用意されている。相撲部顧問の静乃先生と新入部員の球体のお披露目の日だったからだ。
しかし、ミコの姿が見えなかったので、近くでなぜか金属の棒を刺したり、引っこ抜いたりしていたジッちゃんに訊いてみると、お神楽の練習らしい。練習が終わったらここに来るとの伝言を授かっていて、かれこれ一時間ほど経つから、もうすぐ終わるだろうと言った。
ところが、球体はおまんじゅうを食べ過ぎたため、腹痛を起こしていきなり早退してしまった。
「じゃあ、俺も先輩の応援に行ってくるわ」吉田がうれしそうに駆け出す。
香川はいつもの百倍きれいだと言った。小森は千倍きれいだと言った。どちらが正しいか自分の目で確かめてやるんだ。
しかし、吉田はすぐに戻ってきた。ちょうどミコの練習が終わったためだった。
残念そうな顔をして吉田が言う。
「すぐに来るそうだ。静乃先生は?」
「――ダメだ」小森が首を振る。「全然、起きん」
「放っておいて帰るか?」
「そりゃ、無理だろ。ミコ先輩に会わせる約束をしたんだからな」
「言い訳はどうするんだよ」
「そんなのねえよ。正直に言うしかないだろ」
「あっ、先輩が来たよ」香川が小さな声で言った。
そこへ、白い上衣に緋色の袴といういつもの格好に着替えたミコがやって来た。
「やあ、お疲れさん。――あれっ、球体と先生は?」
主将の小森が一歩前に出て説明責任を果たす。
「はい。球体くんは腹痛で早退しました。静乃先生はあそこです」
小森が指差す方向――拝殿で静乃先生が大の字になって寝ていた。サラサラの長い黒髪がバサッと広がっている。
「何やってんだ、おまえらの相撲部顧問は!?」
今日、三人は確かに球体くんと静乃先生を連れてここへ来た。球体くんはさっそく出された手作りまんじゅうを、案の定、美人のミコ先輩の手作りだと勘違いし、パクパク食べ始めた。
やがて、ウッという声を発すると、お腹を押えたままトイレに駆け込み、三十分後、真っ青な顔で出てきた。
「なんか、当たったみたいですぅ」苦しそうな顔で言う。
「ウソつけ! 先輩のおまんじゅうが当たるわけないだろ」副主将の吉田の怒りが爆発した。
「今食べて急に腹痛起こすの?」香川までも怒り出す。
「そうだよ。昨日の夜は何を食べたんだ?」主将の小森も負けじと後輩を追求する。
「はあ、家族で回転寿司へ行って、回転していたデザートを全部食べました」
「それは邪道だろっ! 寿司屋へ行ったら寿司を喰えよ。だからバチが当たったんだよ。デザートを食べたかったら、ケーキ屋さんへ行って、回転してないデザートを買えよ」
「はあ、すいません」
球体くんは前屈みになって、大きなお腹を押えたままヨタヨタと帰って行った。
一方、静乃先生は……。
おまんじゅうとお茶を運んできた神主に一目惚れ。そして、特別に出された祭礼の日に配る予定の振舞い酒を一気飲み。さらに、風通しのいい拝殿でグースカと大いびき。三人がいくら起こしても起きないという体たらく。
球体くんを引っ掛けようとした性欲と食欲と睡眠欲の三大欲望作戦の前にあっけなく撃沈したのが、静乃先生だったとは……。
「静乃先生はいくつなんだ?」ミコが呆れて訊く。
「はい、もうすぐ三十歳だそうです」小森が直立不動で答える。
せっかく連れて来た顧問が酔っ払って寝てしまうなんて思いも寄らず、三人揃って恐縮している。
「独身か?」
「はい、そうみたいです」
「彼氏は?」
「二年間、いないそうです」
「崖っぷちか。その歳になったらいろいろあるんだろ。酒に逃げる気持ちも分からんでもない。そっとしておいてあげるか。まあ、後で毛布でも掛けておいてあげるから、みんなは心配しなくてもいいよ。ただし、夕方になっても起きなければ、顧問と言えども、これで叩き起こすからね」
ミコはそう言って、竹ぼうきを一振りした。
顧問の先生を置いての稽古からの帰り道、相撲部の三人は神社を出てすぐのところで、大きな外国人とすれ違った。
「おい、今の外国人見たか? おまえよりデカかったぜ」吉田が小森に言う。
「うん。二メートル近いな。まったく羨ましいぜ」
「おまえは高校生にしては十分デカイだろうが」
「いや。まだまだ大きくなって、あんなデカイ人をトリャーって投げてみたい。大相撲の上のほうの番付は外国人力士が占めているからな、俺たち日本人ががんばらないとダメなんだよ」
小森は自分が幕内力士のように言う。
「でも、今の人、力士じゃないだろ」
「いや、だから俺が言いたいのは日本人の心意気が乏しくなっているということなんだよ。相撲は日本の国技なんだぞ。それなのに強いのは外国人ばっかりじゃないかよ。――分かるか、吉田?」
「分からん」
「分かれよ。将来は俺たち三人が大相撲を背負って行くんだぞ」小森の夢は大きい。
「あっ、あの外国人さん、満願神社に入っていくよ」香川が振り返って言った。
「いいのか。イエス様に叱られないのか?」小森が心配をする。
「そうだよな。タタリでイナゴの大群が襲ってきたらどうするんだ?」吉田も余計な心配をする。
「そんなタタリがあるのかよ」
「聖書に載ってたぜ。イナゴの大群の話」
「そうなのか。イナゴの団体さんに因縁つけられたら怖いな」
「捕まえて甘露煮にするにも限度があるからな」
小森と吉田は不安そうに空を見上げたが、そんな昆虫は飛んでなかった。
「あの外国人さん、教会と間違えてるのかなあ」香川がボソリという。
「いくら何でも神社と教会は似てないだろ。新品の鳥居はあるけど十字架はないし」
「パイプオルガンもないぞ」小森と吉田が香川を攻める。
三人は不思議そうにスコットの大きな背中を見送った。
スコットは誰にも教えられたわけではないが、鳥居をくぐるとき自然と頭を下げた。それが礼儀だと知ったのは後になってからだ。お辞儀をしたとき、首から下げていた十字架がチラッと見えて、少し罪の意識を感じたが、イエス様も日本の神様同様、心の広いお方なので大丈夫だと自分に言い聞かせた。
先日、ここで安全祈願の一番大きなお守りを買った。その効果はあったのかどうかよく分からない。仏像を取り返したと思ったら、かなちょろに取り返された。殺されると思ったら助かった。しかも、ボクがみんなを助けたことになっている。
おみくじではベリーラッキーと言われたけど、果たしてそうだったのかも、よく分からない。分からないことだらけのまま、ボスから新しいミッションが下された。
かなちょろを探し出せ。
ジャパニーズマフィアと世界一優秀な日本の警察が見つけられないのに、ネス湖のそばの村からポッとやって来た外国人のボクが見つけられるはずがない。
でも、ボスは言う。
あいつ、チビだっただろ。小さいおっさんを探せばいい。
でも、ボクの身長は二メートルくらいある。九十九パーセント以上の日本人がボクより小さいと思うんですが。
相変わらずボスの命令は無茶すぎる。やはり、ここは困ったときの神頼み。
念のためにもう一つお守りを買いに来たスコット。鈴を鳴らしてお祈りをして、社務所に行くと、先日の巫女さんがいた。一番大きな安全祈願のお守りを買って、百円でおみくじを引いた。
――小吉。
「これはどういう意味ですか?」
「これはプチラッキーだね」
「プチじゃ困るのでもう一つ買っていいですか?」
「ああ、それはダメ。おみくじは二回連続で買ったらダメなんだ。でも、ほら、あの木にくくり付けば、ベリーラッキーに変わるよ」
巫女さんが指差した木にはたくさんのおみくじが結び付けられていた。スコットは長身を生かして一番高いところにプチラッキーのおみくじを結んだ。より高い所にと思って背伸びまでしてがんばってみた。高い所の方が神様に近い気がしたからだ。先ほどから、白い土塀に取りつけてある注連縄を整えていた庭師の男がこちらを見て笑っている。
そして、さっきお祈りをしたけど神様は聞いてくれたのか。お守りは本当に効果があるのか。おみくじは本当に当たるのかを、先日の九死に一生を得た仏像事件のことを話さないで、巫女さんに訊いてみた。
「外国人さん、ちゃんと生きてるでしょ。だったら心配することないよ。生きてるだけでもベリーラッキーだと思わなくっちゃ」巫女さんは笑ってそう言う。
「世界には戦争をやってる国もいっぱいあるというのに、日本は平和だしね。外国人さんの国はどうだか知らないけど」
「ボクの国はイギリスです。ときどきフーリガンが暴れてますけど、だいたい平和です」
「だったらいいじゃん。外国人さんは何歳?」
「ボクは二十五歳です」
「あっ、厄年じゃん!」
「ヤクドシって何ですか?」
「アンラッキーな歳だよ。何をやってもうまくいかないんだ。ここで厄払いができるからやっていく?」
スコットはその値段を聞いて、ちょうど手持ちのお金で間に合ったのでお願いすることにした。
巫女さんは、外国人さん、やっぱりラッキーな人だよと言った。
なんでも近々祭礼という、言ってみればフェスティバルがあるらしい。そのために神主さんが多忙で厄払いも今日はこれが最後だという。
スコットは祓殿に連れて行かれて、神主のお祓いを受けた。低頭している上を大幣が行き来するたびに、紙が触れ合う音がシャカシャカと祓殿に響く。やがて、頭上で鈴を鳴らす音も聞こえてくる。
なんだか体中から穢れが祓われて、清々しい気分になってきた。日本に来て、生活のためとはいえ、たくさん悪いことをして、この体もすっかり穢れていたからに違いない。
きっとベリーラッキーなパワーがボクの体に染み渡っているだろう。これで盗まれた仏像も見つけられそうだ。
スコットは厄払いを終えると、手水舎へ行って口をすすいだ。緊張のあまり喉が渇いていたからだ。そしてふと横を見たとき、何か長くて光るものが落ちていることに気づいた。
よく見ると釣り糸だった。ここまで付いて来てくれた巫女さんが言った。
「あっ、かなちょろの忘れ物じゃん。あいつ、商売道具を忘れやがって」
「えっ、かなちょろ!?」
「あれっ、外国人さん、かなちょろを知ってるの?」
「い、いえ、何も知りません」
スコットはトボけてそう答えたが、さっきの厄払いの効果がたちまち出たのでビックリした。
さっそく、かなちょろの手がかりを教えてくれるなんて、イエス様もすごいが日本の神様もすごい。でも、かなちょろのことを話すわけにはいかない。ボクが悪い仕事をしていることがバレてしまうからだ。でも、ここにかなちょろが来ていたなんてベリーラッキーだ。
「あの、かなちょろというのは、どういう人ですか?」心臓はドキドキしていたが冷静さを装って訊く。
「賽銭泥棒だよ。きのうの夜、ここで盗みを働こうとしていたところを捕まえたんだ。ほら、この釣り糸でお金を引っ掛けようとしたんだよ。時間が遅くなったから、あたしは帰ったけどね。自分でかなちょろだと名乗ったらしいよ」
「警察に連絡したのですか?」スコットは心配して尋ねる。警察に先を越されたかもしれないと思ったからだ。
「それがさ、うちの神主さん、そのまま逃がしてあげたんだって。牢屋にぶち込んでやればいいのにね」
まだ警察の手に渡っていないとは、やっぱりベリーラッキーだ。
「ジッちゃんの仕事も増やしてくれたしね」
巫女さんはそう言って、土塀に掛けた注連縄を直している庭師の方を見た。
「ほら、隣からあの塀を乗り越えて入ってきたんだ。そのとき、注連縄と地面に刺してある結界棒をグチャグチャにしやがったんだ」
スコットは不思議に思った。
「鳥居がある玄関じゃなくて、なぜあの塀を越えて来たのですか?」
「あいつ、盗んだ仏像を隣に売りつけてるんだ。――ああ、隣は二望寺というインチキ寺だよ」
「ええーっ!」
スコットは思わず叫んでしまった。逆に巫女が驚く。
「何かあったの?」
「い、いえ、何もないのです。何も知らない英国人なのです」
日本語がヘタなフリをしてごまかす。
お宝がすぐ隣にあったなんて。ああ神様、ありがとうです。
さっそく、事務所に帰ってボスに報告だ。きっとボスは喜ぶぞ。
みんなで、あの末端価格四億円の覚せい剤が入った仏像を取り戻すんだ。
でも、神様が犯罪に加担していいのだろうか?
「どうも、いろいろとありがとうございました」
スコットは長身を折り曲げて巫女に礼を言った。
「外国人さん、生きてりゃ、そのうち良いことあるから、がんばんなよ。――あっ、これもあげるよ。セブン、ファイブ、スリーの残り物で悪いけどね」
スコットは渡されたおみやげを持って、ボスの元へ急ぐ。
これでやっとボスにもジュンさんにも恩返しができる。もしかして、ボーナスが出るかもしれない。
うれしくて、顔が思わずニヤけてしまう。ニヤけながら歩いてるからだろうか、いつもよりみんながジロジロ見ていく。
二メートル近い長身の金髪外国人が歩いているのだから注目されるのは仕方ないか。
しかし、注目の理由はそれだけではなかった。巫女さんからもらったかわいい袋を持って歩いていたからだ。それには小さな男の子と女の子が仲良く笑っている絵が描かれていた。
巫女さんに、セブン、ファイブ、スリーと言われても分からなかった。イギリスには七五三の習慣はなかったからだ。
ミルク味の千歳飴を舐めながらボスが言う。
「よくやった、スコットくん!」
隣に座っているジュンもうれしそうだ。反対側に座っている百舌も無表情に飴を舐めているが、こんなに飴が似合わない連中も珍しい。もっとも、千歳飴が似合う大人はあまりいないだろうが。
「寺に売り渡していたとはな。あの仏像が日本にあるということは、我々にはまだまだ運があるぜ」
ボスは右手で本革張りのソファをポンポン叩く。
先日、東南亜細亜諸国犯罪連合からかっぱらった仏像を売った金で買ったものだ。高値が付くと思われた仏像だったが、すべてが最近彫られたもので歴史的価値はなかった。しかし、職人の腕がよく、いい仕事をしていたようで高級応接セットを買うくらいの金にはなった。これで桃竜組長に、はみ出た綿を毟られる心配もない。
「さて、お宝をどうやって取り戻すかだな。まさか、金を持って行って売ってくださいはないだろ。向こうも盗品と分かってて買ってるんだろうからな。――強引にやるか」
ボスは百舌を見る。百舌は静かにうなずく。
「まあ、任侠の世界に生きる俺たちとしては、ちょっと納得できないが、背に腹はかえられないからな。――かっぱらうぜ」
ジュンが驚いて訊く。「じゃあ、寺へ盗みに入るということですか?」
「そうよ。――よしっ、善は急げだ!」
スコットは、これは善なのだろうかと思ったが、みんな真剣な表情だったので黙っていた。日本では善でも悪でも急ぐときは急ぐのだろう。
「早くしないと東南亜細亜諸国犯罪連合の奴らに先を越されるからな。今夜でどうだ?」
あっ、そうだ!
スコットは大切なことを思い出した。
「ボス、近いうちに隣の神社でフェスティバルがあるそうです」
「お祭りか!?――ということは、人がたくさん集まるな。そうか、隣が賑やかに盛り上がってる隙にどさくさに紛れて忍び込めばいいんだな。いや、待てよ、もしその情報を得ていたなら、東南亜細亜諸国犯罪連合の奴らも同じことを考えてるかもしれんな」
「アニキ、ばったり出会ったら、そのときはそのときで、奴らをぶちのめしてやりましょう!」ジュンが気炎を上げる。
「おお、そうだな。お宝を取り返して、奴らをぶちのめすと一石二鳥になるな。ジュンの折られた手首と百舌のボコボコにされた顔面の代償も払ってもらわないとな。あいつらとやるのは三度目だからな。三度目の正直で俺たちの勝ちよ」
百舌が口から千歳飴を離して低い声で言う。
「アニキ、満願神社の祭りと言えば、火祭りですよ。民衆は燃やすための木を持って集まるはずです」
木に願い事を書いて燃やすとそれが叶うという満願神社の伝統行事だ。毎年、冬に開かれているが、今回の祭礼でも特別に行われることになっていた。
「そうか。俺達が武器を持っていてもごまかせるわけだな」
「はい。うまくやれば、凶器準備集合罪の心配はないかと」
「よしっ、ジュン。祭りの夜までに、堅くて太い樫の木の棒をたくさん用意しておけ。ホームセンターに行けば手に入るだろ。できるだけ、殴られたら痛そうなものを選んで買って来い。それで俺たちに逆らう奴らはみんなボッコボコにしてやるぜ。いいか、樫の木が折れるまでぶん殴るんだぞ。スコットくん、キミも英国スパイの名を汚さないようにがんばるんだ」
「えっ、ボクもバトルに参加するんですか?」
そう尋ねてみたが、みんなは当たり前のように頷いただけだった。
ジャパニーズマフィアのタバコ臭い事務所に、千歳飴の甘い香りがいつまでも漂っていた。
祭礼の日まであと数日。若の修業がつづいていた。満願神社の境内の一角に古井戸がある。古いといっても、もちろん水は湧き出ている。毎日、若はその井戸を使って水垢離をしていた。
水垢離というのは、祭礼に備えて冷水を浴び、身体の穢れを洗い落として、清浄にするための儀式だ。
水垢離が終わると、祝詞を唱えて、神を宿す心御柱に向って祈り続ける。飲食や言行を控えての参籠はたいへん厳しく、ここ数日で若の頬の肉がげっそりと落ちてきていた。
そして、祭礼当日。まだ夜が明けたばかりの早朝。
満願神社には樹齢百年を越える木が三本ある。いずれもジッちゃんたち親子が三代に渡って手入れをしてきたものだ。そのうちの一本の木の下に、お籠りが終わった若とジッちゃんがたたずんでいる。
「若、こんな大事な時期に留守をして申し訳ありませんでした」
「いや、順調に事は進みましたので心配は無用です。――奥様はどうでしたか?」
「はい、きれいな死に顔でした」
「そうですか。それは良かった」
「二十年前と変わらない表情をしておりました」
「娘さんには?」
「会いました。こちらは二十年前とは大きく変わってましたが」
ジッちゃんはそう言って笑った。
二十年前、娘はまだ生まれたばかりの赤ん坊だった。今は大学に通い、来年には社会人になろうとしている。
「わしのことは微かに覚えているらしいです」
「ほう、そうですか」
「いや、最初は疑っていたのですがね。生まれて初めての記憶などというものは、物心がついてからの体験が元になっているものでしょう。ところが、妻の背に負われて、わしと話している情景を覚えているというのです。詳しく聞いてみると、確かに、当日は澄み切った青空が印象的で、近くで事件でもあったのか、テレビ局のヘリコプターが何度も行き来していました。その音を覚えているそうです。それに、この木の幹の形、ちょっと右に傾いていますでしょう」
ジッちゃんは育ててきた木をやさしく撫でた。
「これも娘の記憶と合ってるのですよ」
「へえ、不思議なこともあるものですね」
若もジッちゃんたちが育ててくれた大きな木を見上げる。
「今日、娘さんは?」
「はい、午後になりますが、来てくれる予定です。連絡先も聞きましたので、これからはときどき会って、親子二人で仲良くやっていこうと思っております。妻のお墓も、ちょうどわしたちの住まいの中間あたりにある霊園に建てるつもりでおります」
「では、一緒にお墓参りができるわけですね」
「はい。生前は辛い思いをさせてしまったので、それだけは毎月かかさないようにしたいと思っております」
「奥さんも喜んでくれるでしょう」
「そのことですが、わしについての思いを、娘には何も語ってなかったようです。ですから、若が言われたように、妻がわしのことを許してくれていたのかどうかは分からずじまいで」
「いや、ジッちゃん、奥さんは今日、ここに来ようとされていたのでしょう。でしたら、何ら、わだかまりは持っておられなかったということですよ」
「そうなりますかね」
「奥さんはきっとジッちゃんに会いたかったに違いありませんよ」
ジッちゃんはまた木の幹を撫でる。
陽が昇り、しだいに辺りが明るくなってきた。鎮守の森を住処にしている鳥たちが歌いだす。
そのとき、突然、強い風が吹き始めた。枝葉が揺れて、境内がざわめく。相撲ののぼりが千切れそうにはためく。
やがて、突風は二人を包み込んだ。立っていられないほどの強さだ。枝から離れた何枚もの葉が宙を舞う。埃が入らないよう目を半開きにして、ジッちゃんが若に訊く。
「若、まさか、これは神の戒めでは?」
しかし、若は笑って言う。
「ジッちゃん、そんなことを言うと奥さんに怒られますよ」
「えっ!?」
とたんに風は止んだ。宙を舞っていた葉が静かに地へ下りてくる。
「では、この風はわしの妻が?」
神が見えて、神と語らうことができる二代目の神主。
見えているというのか?
この場に来ているというのか?
ジッちゃんは死化粧を施した妻の顔を鮮明に思い出す。
若はあらぬ方向を見て、ジッちゃんに言う。
「あそこに奥さんが、――浮かんでおられる」
そこはジッちゃんが先日、剪定したばかりの松の木の上。
「妻は、わしの妻は?」
「ジッちゃん、奥さんは今、二十年前の約束を守ってくれたのですよ」
「わしの妻は何と?」
「ジッちゃん、心配いらないよ。奥さんは、――笑っておられます」
やがて、樹齢百年を越えるクスノキの枝の隙間から二人の背中に陽が差し込んできた。
ユウは長身のシンを見上げた。満願神社につづく道の両脇に並んだたくさんの露店。その中にある一軒のタコ焼き屋さんで、六個入りのタコ焼きを買った。
二人で一つを仲良く食べながら歩こうと思っていたのに、シンの奴、一人で一つというか、舟の形をしているので一舟というか、お互い、一つずつ食べようと主張して譲らない。だから、二つ買った。お腹が空いていて、タコ焼きが大好きというだけなんだけど、一つを食べ終わると、別のタコ焼き屋さんでまた買って、そして、また見つけたタコ焼き屋さんで買って、結局、今食べているのが三つ目。私、まだ一つ目というか、いくらおいしくても一つが限度。シンは三軒のタコ焼き屋さん全部制覇したと自慢している。アホだ。日本人はお祭りも露店も大好きなのは認めるけどね。
さっきは、私のお母さんがよく行く美容室のオーナーが、リンゴ飴を買ってはしゃいでいた。二十年前に食べ損ねたらしい。そんな昔のことを覚えているなんて、食べ物の恨みは怖い。
シンが口をハフハフさせながら私を呼んだ。
どうせ、熱いタコ焼きを急いで食べたから、口の中がベロンベロンになったと言いたいんでしょ。
「ユウ、あれ、あれ見て!」
何、ベロンベロンの話じゃないの?
満願神社の二十年に一度の祭礼。境内に設けられた特別ステージの上では神様への奉納演奏が行われていた。
「ユウ、ほら、あれ。じゃなくて、あの人!」
ステージの上で一人の男性が太鼓を叩いていた。
「お父さん!」
ユウは思わず爪楊枝に刺したタコ焼きを落としそうになった。
「なんでユウのお父さんがあんな所に上がって太鼓を叩いているわけ?」
「そんなのこっちが知りたいよ!」
ユウが歯についた青海苔の心配もしないで大きな声で叫んだ。
ズラリと並べられたパイプイスに座って静かに音楽を鑑賞していた数人の人々が迷惑そうな顔をして振り返る。
「すいません」ユウは小さな声であやまる。シンも並んで頭を下げる。
なんでお父さんがゲーセンで太鼓の達人なんかをやっていたのかが、今分かった。今日の日のために練習をしていたんだ。
きれいな和服を着せてもらったお父さんが力いっぱい太鼓を叩いている。あんな服持ってないからきっと借り物なんだろうけど。でも、なんで太鼓の担当がずぶの素人のお父さんなんだろう。
シンが今度は小さな声で叫んだ。
「ユウ、あの横笛を吹いてる人!」
「げっ、森河じゃん!」
二人のクラスの担任の森河先生が真剣な眼差しで横笛を吹いている。
そして、今度はユウが見つけた。
「あっ、その隣で大きい方の鼓を叩いてる人」
「えっ、誰?」
「うちの近所のパン屋のオヤジじゃん。うちのお父さんだけが素人だと思ったけど、みんな初心者なんだよ。なんだか、動作がぎこちないし、おどおどしてるし、普段聞かない音楽だからよく分からないけど、たぶん、聞く人が聞いたらヘタッピだよ」
娘にヘタッピと言われたお父さんは汗だくになって太鼓を連打している。
黒尽くめの男から会社へ連絡が入ったのは三日前だった。
男は低い声で言った。
「長谷さんですね。太鼓の練習は進んでますか?」
周りの同僚に気づかれないように答えた。
「あっ、はい。進捗状況のご確認ですね。計画通り進んでますからご安心くださいませ」
男は集合日時と場所を指定してきた。
「長谷さん、満願神社はご存知ですね。来週、二十年に一度の大切な祭礼が行われます。そこで奉納演奏を行っていただきます。当日は神主を訪ねてください。話はすでに整っていますので。しかし、神主は演奏以外のことは何も知りませんので、いろいろ詮索しても無駄ですよ」
神社に集まったのは自分を入れて五人だった。横笛、小鼓、大鼓、しょうを担当する人たちがいた。みんな一緒に偶然会った橋の下で練習をしていたらしい。
私も練習場所を探したのですが、なかなか見つからないし、何と言っても、太鼓は運びにくかったので、若者に交じってゲームセンターで練習をしていたと言ったら、ひどく同情された。
神主はていねいに挨拶を済ませた後、五人に奇妙なことを言った。
「奉納演奏のボランティアの方々ですね」
大鼓を担当するパン屋の多田さんが、「あの、ボランティアじゃなくて」と言いかけたが、小鼓の本山さんに睨まれて黙ってしまった。成り行きにまかせようというのだろう。
神主はつづける。
「みなさんは練習をはじめて間もないと聞いておりますが、あまり緊張なさらずに、演奏している側も、聞いている側も一緒に楽しもうという気持ちで、大いに場を盛り上げてください。もちろん、音楽を捧げる一番の相手は神様です。皆さんには寸志程度のお礼しかできませんが、神様は音楽が大好きですから、きっと多大なるご守護があることでしょう」
脅迫の主でもあった神主は、駅のトイレで脅すときも、先日の電話で話すときも、わざと声を低くしていた。今日は、やや声を高くして話している。だから、五人はあの脅迫犯が目の前の神主だとは気づいていないはずだ。それに、まさか、神事を行う神主があんな卑劣なことをするはずがないという思い込みがあるから尚更のことだった。
そして、今日、今まで着たことのないきらびやかな和服に身を包んだ五人は、神様に捧げるつもりで演奏を行っている。
しかし、長谷はこんなにたくさんの観客が集まるとは思ってもみなかった。太鼓を叩きながらも観客が気になる。演奏の前、バチを持って太鼓のそばに立った長谷を見つけた近所の顔見知りの人たちが、こちらを見てヒソヒソと話していた。
何も悪いことをしているわけではないのだが、恥ずかしくて仕方がない。他のメンバーも同じ思いでいるようで、やや俯き加減で演奏している。
五人はほぼ同じ時期に痴漢をやらかして、あの黒尽くめの男に捕まった。
そして、三つのお願いをされた。一つ目はお金を賽銭箱に入れること。二つ目はこの奉納演奏だった。痴漢をやった罰がこんな演奏とは思いも寄らなかった。きっと祭礼が終わった後もしばらくは近所でも話題になるだろう。マスコミも何社か来ているようなので、全国にTV報道されるかもしれない。
今更ながら、なんて馬鹿な行為をしてしまったのだろうと思う。まさか、このメンバーは痴漢をやって捕まったオヤジたちです。どうぞ笑ってくださいとは、どこにも書いてないだろうが。
今日、妻は仕事があって来てないはずだった。それだけが救いと言えた。
娘はと言うと……。
そのとき、たくさんの観客の中でひときわ背が高い若者が目に入った。後ろの方で立ったまま聞いている。
あれは確か、娘の友人のシン君じゃなかったか。では、隣に娘が立っているはずだ。しかし、背が低い娘は人々の陰に隠れてよく見えない。娘に見つかってしまったかもしれない。そう思うと太鼓のリズムが乱れてきてしまった。横にいた大鼓の多田さんが怪訝そうに見上げてくる。
娘の方は見ないでおこう。後で訊かれたら、パン屋の多田さんから無理に誘われたことにしよう。多田さんには申し訳ないが、また食パンを買ってあげますよ。
「なんでユウのお父さんがいるのか分かったよ。今流行のオヤジバンドだよ。若い頃、バンドを組んでいた人たちが、当時のメンバーを集めて演奏するって、よくあるじゃん」
シンがユウを見下ろして言う。
「うちのお父さん、バンドなんかやってなかったよ」
ユウがシンを見上げて言う。
「それはユウが知らないだけでさ。ホントはリーゼント頭のバリバリのロックンローラーだったんだよ」
「まさかね。そんな面影まったくないし、若い頃の写真を見たことあるけど、髪は七三分けだったし、それにバンドを再結成するにしても、なんで雅楽の演奏なわけ? お父さんの年代からするとフォークソングあたりだよ。こんな奇妙なオヤジバンドなんて、どこ探してもないよ」
観客は静かに演奏を聞いている。みんな、雅楽の生演奏など初めて聞く人たちばかりだが、神社の境内という場所もあいまって、どことなく神聖で厳かな気分に浸っていた。
やがて、奉納演奏は終わった。万雷の拍手が五人を包み込んだ。右端に陣取っていたブンさんたちも大きな声援を送ってくれている。“橋の下バンド”の成功にブンさんも歯が一本しか残っていない口を大きく開けて笑っている。きっと、自分の息子たちがうまく演奏したような気持ちでいるのだろう。
満足げな顔をして立ち上がった人々がぞろぞろと歩き出した。すぐ横には火祭りの際にお札やお守り、願い事が書かれた木を投げ込む火炉が作られていた。竹で枠を作った円柱形のそれは直径、高さともに五メートルほどもある“入れ物”だ。夜になると神殿内で古来より灯されている神聖な火が入れられて、お焚き上げが始まる。
火炉を迂回すると、そこには立派な土俵が設えてあった。もうすぐ奉納相撲が始まる。いよいよ小森たちの出番だった。
まだ陽が高いというのに、二望寺の隣にある専用駐車場にアニキたちが既に集まっていた。行動を起こすのは夜になってからだが、もしかしたら、東南亜細亜諸国犯罪連合の連中が陽の高いうちから来るかもしれない。先手必勝とばかりに、早いうちから到着して準備をしておくことにしたのだ。
寺の関係者に何か咎められるのではという懸念もあったが、駐車場は無駄に大きく、他の訪問客が来たとしても、十分に止められるスペースがあった。しかし、長い間使っていないようで、ひび割れたアスファルトの隙間から雑草が伸びていて、車を止める場所を示す白線のペンキも、ところどころが剥げていた。
かなり広い駐車場だというのに車は一台も止まっていない。どうぞ、反社の抗争に使ってくださいと言わんばかりのロケーションだった。
アニキたちはいつものヤクザファッションではなく、もしもの戦闘に備えて、動きやすい格好をしていた。百舌の凶悪面さえ見られなければ、出入りを控えたヤクザの一行には見えない。
ジュンがワゴン車に積まれた長方形の木箱のフタを開けた。
アニキが自慢げに言う。
「スコットくん、見てみな。ジュンが選りすぐってきた俺たちの武器だ。どうだ、殴られたら痛そうな樫の木だろ」
そこには、長短、太細など数本の樫の木が並べて入っていた。
「ボス、なぜ、この棒切れはピカピカに光っているのですか?」
「おお、スコット君、それはいい質問だ。樫の木に金メッキを施しておいたんだ。これだと闇の中でも光って見えるから、敵と味方の区別がつくだろ。同士討ちは避けたいからな。――どうだ、スターウォーズのライトセーバーみたいでカッコいいだろ。みんなの体格に合わせて、使い勝手が良さそうなのを選んでくれ」
「でも、なんだかたくさんありますね」
「おお、またいい質問だ。東南亜細亜の奴らは二十人くらいいる。こっちは精鋭が揃っているとはいえ七人だ。しかも、みんなケガが完治してない。しかたなく桃竜組長に応援を頼んだ。十数人が来る予定だ。そいつらが使う棒もここに入っている。これで数では引けを取らないってわけだ。――ああ、そうだ。この棒に各自、願い事を書いておけ。もし、警察に見つかっても大丈夫なようにカムフラージュしておくんだ」
準備してあった黒色サインペンが全員に回された。
みんなは真剣な表情で願い事を書いていく。願い事を書いた木を火炉に入れて燃やしてもらうと、その願いが叶うと言われている。
「おう、みんな、何て書いたんだ?」
組員たちは順番にアニキへ樫の木を見せる。
そこには同じ願いが書かれていた。
“アニキが早く正式な組長に戻れますように”
組員の思いは一つだったのだ。アニキはそれを読んで泣きそうな顔になった。そして、自分でも、早く戻れるようにとの願いを書いていた。早く戻って、みんなを楽させてやりたかったからだ。
「スコットくんは何を書いたんだ?」
「ああ、ボクですか。あの、ボクも同じくボスが元に戻れますようにと書きました」
そう答えたが、実は違った。
“今夜、東南亜細亜諸国犯罪連合が現れませんように”と書いたのだ。
もうあんな怖い目に遭いたくなかったからだ。さっさと仏像を取り返してさっさと帰りたい。でも、みんなの前では言えなかった。勘違いしたボスは涙ぐんでるし。
うまくみんなを騙すことができた。願い事を全部英語で書いておいて良かった。
やがて、遠くからアニキを呼ぶ声がした。
「おう。桃竜組長の護衛の奴らじゃないか。やっと来やがったか」
アニキが手をかざして見ている方向から、いつもの三人がやって来る。
三人を嫌っているジュンが言う。
「あいつら馬鹿じゃないのか。出入りかもしれないのに、なんで縦縞のスーツを着てるんだ。背中にリュックを背負ってるし」
アニキも笑いを堪えながら言う。
「おまけに、三人揃って電動機付き自転車で来やがった」
三人の護衛はアニキのすぐ前で自転車を止めて、自慢げに言った。
「やあ、仮の組長。これが先日言ってた、一番高い電動機付き自転車さ。いやあ、楽チンだぞ。そこの坂道もスイスイだぜ。――なあ」
他の二人もうなずく。三人とも小太りなので、さぞかし楽なのだろう。
「ところで、桃竜組長は歩きか?」
「そうだ。相変わらず、うちのオヤジは乗り物がダメだからな。ここから南に四キロの地点を他の組員たちとテクテク歩いてる。あと二時間くらいで着くだろ。――ああ、あのワゴン車、借りるぞ。今から着替えるからな」
そう言って背中のリュックを見せた。着替えが入っているらしい。三人はペチャクチャとおっしゃべりをしながらワゴン車に入って行った。その背中に向ってアニキが毒づく。
「まったく、今日の仕事を何だと思ってるんだ。現地に着いてから着替えるだって? まるで、海水浴気分じゃないかよ。人手不足とはいえ、あんな奴らに頼んで損したぜ。こんなことじゃ、また電信柱に張り紙でもして戦闘員を募集するんだったな。――ああ、そうだ。スコットくん、ちょっと、満願神社の偵察に行って来てくれないか? 神社の駐車場に二階建てサルーンの大型観光バスが停まってたら、大至急報告を頼むわ」
神社の奉納演奏の音が風に乗ってこの駐車場にまで聞こえていた。
相撲部員が新人を入れて四人しかいなくて取り組み数が少ないと、ミコから文句を言われていた主将の小森だったが、今日来てみると、ミコ先輩はニコニコとした顔で出迎えてくれた。ほぼ人数が揃って、十数回の取り組みができるという。小森もたくさんの観客を見てほっとした。こんなに大勢の前で三番の取り組みだと、ぜったい竹ぼうきで滅多打ちにされる。
「でもさ、小森。あと一人足らないんだよ。今のところ、出場予定者数が奇数なんだ。偶数にするとうまく対戦が組めるだろ。だから、あと一人探してきてよ」
土俵の周りで念入りに仕上げの掃除をしていた部員たちにミコが言う。
「えっ、今から探せと言われても、今日は日曜日で学校も休みだし」
「部員を増やすんじゃないんだよ。今日の奉納相撲にだけ参加してくれればいいの。これだけ人が集まってるんだから、探せばデカイ奴がいるだろ」
小森はあたりを見渡す。
「なんだか、お年寄りが多いですが」
「いざとなれば、じいちゃん、ばあちゃんでもいいから上げちゃってよ」
「そりゃ無茶ですよ。俺の張り手を喰らったら死にます。俺たち、相撲には手加減しませんから」
「そうか。じゃあ、神社に集まってる人たちの中から若くて一番デカイのを連れてきてよ。これ、大先輩からの命令ね」
ミコは小森に最終通告すると、お神楽の奉納があるからと言って、さっさと神楽殿に行ってしまった。吉田と香川と球体くんも唖然と見送る。
「はあ~、相変わらず、ミコ先輩は強引ですよねえ」香川はため息をつく。
「いや、これが最後の試練だから。俺、主将の名誉に賭けて探してくる。ああ、球体くん、一緒に行こうぜ」
小森は新入部員を連れてたくさんの人々が集まっている境内へ向って歩き出した。
「先生、あと一人、見つかりますかねえ?」
副主将の吉田が顧問の静乃先生に訊く。
「あ~、う~、何か言った? 吉田君」
静乃先生はまた振舞い酒を飲みすぎて、ベロンベロンの状態でだらしなくパイプイスに座り込んでいた。長い黒髪が顔を半分覆っていて、昼間に見る貞子のようで、その表情は見えなかった。
十五分後、小森は球体くんを連れて帰ってきた。
相撲のために着替える特設テントが土俵のそばに建てられている。周囲からは見えないように幕が下ろされていて、関係者以外は立ち入り禁止だった。数十人が収容できるほど広いテント内は、着替えをするコーナーといろいろな準備をするコーナーに分けられていて、ボランティアを買って出た町内の相撲好きが、取り組み表を持ってせわしなく行き来していた。
「吉田、喜んでくれ。一人、デカイ人を見つけて来たよ。これで十六人になったから、取り組みは十五番もあるよ」
「へえ、すごいね。どんな人が来るわけ?」
「いや、それは言えない。あとのお楽しみだな」
相撲部員たちは取り組み表を見ていない。いつ誰が誰と対戦するかも、そのときのお楽しみになっている。
「あれっ、香川はどこへ行った?」
吉田は無言で小森を出入り口へ呼んで、幕をめくり上げた。
「あそこ」指を差す。
初老の男と香川がマイクの置かれた長い机を前に並んで座っていた。
初老の男がマイクに向かって話し始めた。
「皆さん、お待たせいたしました。只今から、満願神社の奉納相撲を開催させていただきます。実況アナウンサーは、わたくし、中学時代に放送部だったという理由だけでここに呼ばれた高橋です。本業は農協勤務ですから、相撲のことはさっぱりでして」
境内が笑い声に包まれる。
「でも、ご安心ください。強力な助っ人に来ていただいてます。国常高校相撲部の香川くんです。――香川くん、よろしくね」
「はい。どうぞ、よろしく」
小森は唖然とする。
「おい、吉田。なんで香川が解説やるんだよ」
「それがさ。ニセアナウンサーの農協の高橋がテントに来て、誰か相撲にくわしい人はいませんかって訊かれて」
「あいつが手を挙げたってわけか。確かにくわしいけど、俺たちも今から取り組みだぜ。取り組みをする力士が解説も兼任するか? 集中がいるだろ。気持ちも整えなきゃならないだろ。国常高校相撲部の名誉がかかってるんだぜ」
小森はふと横に目をやる。相変わらず、顧問の静乃先生はパイプイスで爆睡中だ。
「まったく、日本の国技である相撲を何だと思ってるんだ。――トリャー!」
小森はテントを支えている柱に向って張り手を喰らわした。
大きなテントがグラリと揺れた。
「え~。只今、練習中です。――西ィ~、小森ィ~。ゲボッ、ゲボッ」
名前が木村庄之助と同姓同名というだけの理由で行司役にされてしまった町内会長のおじいさんは、いつの間にか、呼び出しと土俵上のお掃除係も兼任することになってしまっていた。取り組み表を見ながら呼び出しの練習をしているが、途中で声が裏返ってしまい、痰もからみ、咳き込んで、関係者の失笑を誘っている。
「おいおい、俺たちの名前、ちゃんと呼んでよね」
せっかく気合を入れた小森も変な呼び出しを聞いて、気が抜けそうになった。ゼイゼイと肩で息をしているじいさんを見て、力も抜けそうになる。
決勝戦まで寿命は持つのか、あのじいさん。
無事に太鼓を叩き終えて着替えを済ませた長谷たち五人の元に神主がやって来た。先ほど、誰からか分からないが、神社に電話が入り、五人の皆さんに伝言を頼まれたという。
これが三つ目のお願いだからと言ってもらえれば分かると言われたという。
もちろん、神主の自作自演だが、五人はまったく疑っていない。それどころか、三枚の名刺と引き換えに出された最後のお願いだから、表情もややホッとしたように見える。やはり、仲間がいるということで安心している部分もあるのだろう。
そして、三つ目のお願いというのが……。
「西ィ~、長谷ェ~」
土俵上に長谷がまわしを巻いて立っていた。
「お父さん!」
ユウが素っ頓狂な声を上げた。
さっき太鼓を叩いていたと思ったら、今度はなんで相撲を取るわけ?
「東ィ~、森河ァ~」
裏返った声がまた境内に響く。
「相手は先生じゃん!」
震える手で軍配を持った木村さんが掛け声をかけた。
「はーけよーい、残った! 残った!」
ブカブカの衣装を着た行司がヨタヨタしながら相撲を裁いていく。
細身の長谷は押されていた。森河先生も素人だが、中年太りで体重がある分、有利なようだ。ズンズンと押し込んでくる。しかし、長谷はチョコマカと動き回って、相手をかく乱している。
娘のユウが突然叫んだ。
「お父さーん、がんばってー!」
普段はあまり好きじゃないお父さんだけど、これ以上醜態は晒してほしくない。
しばらく小康状態が続いていたが、ユウの声援が届いたのか、お父さんは森河のまわしを?むと、ソリャーと一気に放り投げた。担任の先生は膝から崩れて、ゴロリと転がった。
大逆転を演じた素人力士に、観客から大きな拍手と声援が起きる。
「やったー。お父さん、すごいじゃーん!」
ユウは大声をあげて拍手を繰り返している自分自身に気づいて、とても驚いた。
横でシンも目を丸くしている。
ユウの奴、やっぱりお父さんが好きなんだな。
長谷は肩で息をしながらも、足元で転がっている森河を起こしてあげた。
三つ目のお願いが奉納相撲への参加とは五人全員が驚いた。みんな相撲の経験などなかったからだ。それどころか、偶然だろうが、五人ともスポーツの経験すらなかった。
まわしが全然似合わないヒョロヒョロの体、あるいはブヨブヨの体。おまけに汚いお尻をご近所の皆様方にお見せしなければならない。
奉納演奏につづいて奉納相撲で恥をかかされるとは。これじゃしばらく近所を歩けない。
パン屋の多田さんと文具屋の本山さんは恥ずかしいので、しばらくは店番を妻に任せて、自分は店頭に立たないつもりらしい。
大手電機メーカーの木川さんは部下に見られてるんじゃないかとヒヤヒヤしているし、高校教師の森河さんも、月曜日、生徒にからかわれるに違いないと危惧されている。
五人はもう二度と痴漢なんかやらないと再び心に誓った。
「西ィ~、ハッちゃん~」
五人と違って、体の大きな男が土俵に上がった。
実況席の農協の高橋アナが資料を見て言う。
「立派な体格をされてますが、この方は元ラグビー部だそうです。所属は橋の下部屋とありますが、解説の香川くん、ご存知ですか?」
「へっ? そんな部屋はないと思います。いや、あったかなあ。どうかなあ。新しくできた部屋かなあ」
相変わらす、香川はいい加減だ。
ハッちゃんへ大きな声援が飛んだ。歯が一本しか残っていないブンさん達一行だ。奉納相撲があると聞いて、橋の下のメンバーから選りすぐりの三人を送り込んでいた。いわば、ブンさんは部屋の親方と言えよう。
「東ィ~、球体ィ~」
身長と体重がほぼ同じ数字の球体くんが上がり、会場は俄然と盛り上がる。
「いよいよ国常高校相撲部の登場ですね。解説の香川くん、この球体くんの得意手はなんですか?」農協の高橋アナが訊く。
「へっ? えーと、あの、新入部員なので、よく知らないというか、何というか、体型からして、押し出しあたりじゃないかなあ、たぶん。まあ、見ててください。見事に押し出しで勝ちますよ」
境内に流れる香川のとんでもない解説を聞いて、小森と吉田がこっちに戻ってくるように手招きをしている。しかし、香川は何を勘違いしたのか、二人に両手でピースサインを送ってきた。
相撲部の期待を一身に背負った球体くんだったが、あっけなく、押し出しで負けた。
土俵下まで転がった球体くんに惜しみない拍手が送られる。
しかし、そのときの衝撃で土俵の一角が崩れてしまった。関係者がスコップを手にあわてて駆け寄る。やはり、ミコがかっぱらってきた児童公園の砂は土俵に向いてない。
その頃、盗んできた張本人は神楽殿でいつになく神妙な顔をしながら、お神楽を舞っていた。フリガナだらけだった神楽口上台本はやっとのことで丸暗記してある。
娘の晴れ舞台を、お母さんがリンゴ飴を齧りながらながめていた。
「西ィ~、小森ィ~」
境内がざわめく。元ラグビー部のハッちゃんよりもさらに大きな小森の体格を見て驚いたのだ。解説席も盛り上がる。
「解説の香川くん、いきなり相撲部主将の登場ですね」
「はい、小森は優勝を狙ってますから、きっとやってくれると信じてます」
香川が珍しくまともな発言をする。
「相手はというと、あれっ、外国人力士ですよ」
「へっ?」
香川が身を乗り出す。
「東ィ~、スコットォ~」
あっ、あのとき神社のそばですれ違った外国人さんだ。
「えー、イギリス出身だそうです。小森くんは大きいですが、スコットさんはもっと大きいですね。二メートル近くあるでしょうか。香川くん、この取り組みをどう見ますか?」
「そうですね。確かに体格差はありますが、小森には相撲の経験と情熱がありますから、きっと勝ちますよ。だから、あのう、えーと、小森がんばれー!」
香川は解説を放り出して、席から立ち上がると、大きな声で声援を送り始めた。
あんなデカイ人をトリャーて投げてみたいという小森の夢が叶いそうだから、応援にも気合が入る。解説なんかやってる場合ではない。
さっき負けたばかりの球体くんが、ひしゃくで小森に力水をあげている。ミコがかなちょろをぶん殴ったひしゃくだったため、柄の部分が少し曲がっていた。
スコットはなぜ自分が相撲をするハメになったのかよく分からない。
ボスに偵察に行って来いと言われて、フェスティバル中の神社の中をうろうろしていると、
「ハーイ、フレンド!」と声をかけられた。
フレンド? ボクが日本に来てお友達になったのは、ジャパニーズマフィアのジュンさんだけだ。もっとまともなお友達がほしいと思っていたので、思わず、ハーイと返事をしてしまった。
ヘイ、カモン! と言われて付いて行ったら、テントの中でジャパニーズパンツを付けられて、土俵に上げられた。
声をかけてきた小森くんは目の前に立っていて、ボクをすごい目で睨みつけている。
さっきの愛嬌のあるハイスクールスチューデントの顔はどこへ行ったんだ?
取り組む前の儀式がよく分からなかったので、対戦相手のマネをして、ソルトを投げたり、タオルで顔を拭いたりした。
それにしてもジャパニーズパンツ姿は恥ずかしいなと思っているうちに試合は始まってしまった。
レフリーの合図とともに、猛ダッシュした小森はスコットの下に潜り込んで上体を浮かせた。背が高い力士に対する定石通りの作戦だ。立会いに成功すると、左右に揺さぶって、すぐに上手を取った。これで磐石の態勢だ。そのまま豪快に上手投げを決めて、小森の圧勝に終わった。
自分よりも大きな外国人を投げ飛ばした小森に観客からは惜しみない拍手が送られた。愛嬌のあるハイスクールスチューデントの顔に戻った小森は、スコットの背中についた砂を払ってあげている。
スコットは何が起きたかよく分からず、土俵を下りたときに、よくがんばりましたね、これ敢闘賞ですと日本酒を渡されると、さっさとその場から帰って行った。
もっと相撲を見たかったのだが、早く戻らないとボスに怒られるからだ。
「西ィ~、パン屋さん~」
パン屋の主人の多田が土俵に上がった。
近所でも有名な老舗のパン屋だけに驚きの声が上がる。
「東ィ~、かなちょろ~」
再び会場がどよめいた。
あまりにも小さなおじさんが上がってきたからだ。
かなちょろも何でこんな目に遭うのか自分でもよく分からなかった。賽銭箱から盗みを働こうとして神主に捕まった。しかし、警察には通報されないまま解放された。そして、後日、連絡をすると言われた。連絡が来たのは昨日のことだ。明日、奉納相撲に参加してほしい。神主は電話でそう言った。まったく威圧的な声ではなかったが、なぜか素直に従ってしまった。
土俵に上がってみると、四股名はそのままの“かなちょろ”だった。
客の中にオマワリが紛れ込んでたらどうするんだよ。それでなくても、敵が多い俺様なんだぜ。
――エイヤッ!
やり場のない怒りのために、塩を思い切り土俵へ叩きつけるかなちょろ。
しかし、気合を見せたと勘違いしたのか、意に反して会場が沸く。
素人行司の木村さんが叫んだ。
「はっけよーい。残った!」
かなちょろが飛んだ。
パン屋さんの頭上を飛び越え、後ろに回りこんで腰に抱きついた。そして、そのまま、土俵の真ん中でパン屋さんを引き倒した。パン屋さんはパン生地のように伸びてしまった。
ほんの十秒くらいでの決着だった。往年の舞の海を見ているようで、境内からは今までで一番大きな拍手が沸き起こった。
なぜ、こんなことをしなきゃならないんだと思いながらも、かなちょろは声援に答えて片手をあげた。
あっ、相撲じゃ勝ったときにガッツポーズをしたらダメなんだっけ?
そういえば、朝青龍が怒られてたな。まあ、いいや。
ほっほっほーっ。俺がかなちょろ様だぜー。今の取り組みを見てくれたかーい。天より高く飛んだだろう。警察がなんだー。窃盗団がなんだー。いつでもかかって来いやーっ!
かなちょろへの拍手は止まない。生まれて初めて拍手というものをもらったかなちょろは鼻高々だった。
もし、スコットがボスの元へ急いで戻らなければ、このとき捜しているかなちょろに出会えたのだが、二人の再会はもう少し後になる。
「西ィ~、杉田ァ~」
呼び出しを聞いて、相撲部一同が驚いた。小森が小さな目を思いっきり大きくして土俵上を見上げている。そこには学校で二番目に大きい杉田さんが立っていたからだ。観客も驚いた。古くからのしきたりに反して、土俵へ女性が上がっていたからだ。しかもうら若き女子高生だ。杉田さんは短パンの上からマワシを巻いて、なぜか、上はゾウの顔の正面ドアップの絵が描かれたTシャツを着ている。つまり、人間とゾウ、二つの顔が上下で並んでいたのだ。
確か、ミコ先輩が言ってたっけ。
米一俵をもらえるから相撲大会に出ないかと誘われて、喜んでついてくる十七歳の純情乙女がいるか?
先輩いましたよ。俺たちの目の前に。
そして、相撲部一同は土俵に上がろうとしている相手の力士を見て、もっと驚いた。
「静乃先生!」
小森たちがあわてて駆け寄る。
「あら、みんな、お揃いで応援に来てくれたの?」息が酒臭い。
「そうじゃなくて、何で先生が出るんですか!?」小森が代表して疑問をぶつける。
静乃先生は酔っ払いとは思えない口調で話し始めた。
「学校に土俵がないから、みんなが運動場の心霊スポットや体育館の隅で稽古をしていることを知っています。周りの生徒たちに顰蹙を買いながら稽古をしていることも聞いてます。なのに先生は、相撲部の顧問として何もしてあげられない。だから、土俵が買えないのなら、せめて毎月の予算を増やしてもらおうと教頭先生に何度も直訴していたの」
「そうだったのですか」小森も吉田も泣きそうになる。
今まで陰でさんざんバカにしていた静乃先生が、実は相撲部のためにがんばっていてくれてたんだ。
「なのに、なのに、あの教頭のハゲ野郎! うちの相撲部は実績がないとか何とか言いやがって、頭を縦に振らないんだぜ! それで、先生、頭に来て、あいつの自宅に百回くらい無言電話をかけやったんだよ!」
突如豹変した静乃先生にみんなが驚く。やっぱり酔っ払いだ。
「いや、先生、それは教師としてあるまじき行為で……」小森がいさめる。
「ううん、大丈夫よ。正体がバレないように公衆電話からかけていたから。でも、全然、効果がないんだよね。教頭のハゲは進行しないし、精神的に追い詰められて痩せることもないの。だから、せめてこの奉納相撲に出場して、国常高校相撲部のPRをしようと思ったの」
「確かに、相手は同じ学校の女子生徒の杉田さんですから、盛り上がるとは思いますが」
「杉田さんは先生が連れて来たんだよ。香川くんが誘いに行って、張り手を喰らったと聞いてかわいそうになったからね。先生と一緒に出ないって言ったらOKだったんだ」
「えっ、そうなんですか!?」いつの間にか香川がいる。
「あら、香川くん、解説はどうしたの?」
「そんなことしていられません。杉田さんVS静乃先生なんて、かぶりつきで応援します」
「あら、ありがとう」そう言ったとたん先生がふらついた。あわてて小森が支える。
「先生、かなりお酒が入ってませんか?」
「当たり前でしょ。シラフで出れるわけないでしょ。わたしは恥ずかしくて力士のお尻も見れないのよ」
「確か、おっぱいも見れませんよねえ」香川がバカを言って、小森ににらまれる。
「先生、酔ってて危ないから止めておいた方がいいと思いますが」
「私は家で猫を三匹も飼ってるのよ」
「はい?」小森が太い小首をかしげる。
「猫だましは得意だから、きっと勝てるよ」
先生はうれしそうに言う。
香川が解説者ぶって忠告をする。
「先生、猫だましは大相撲の決まり手に入ってませんので、やっぱり止めた方が」
しかし、先生はきっぱりと言った。
「いいえ。ここまで来たからには引き返せません。もうこんな格好をしているし」
修学旅行の引率で京都へ行ったときに買ってきたという、胸に“I LOVE KYOTO”と書かれた白いTシャツを着て、
「ほら、下は短パンの上からフンドシを締めてるし」
静乃先生は木村行司に急かされて、足元をふらつかせながら土俵に上がっていく。
長い黒髪は背中で一つにまとめられている。
「先生!」小森が呼び止めた。
「なに? 愛の告白なら後にしてよ」
「違います。フンドシじゃなくてまわしと呼んでください」
小森はしきたりや礼節にうるさい。先ほども、かなちょろが土俵上で得意げにガッツポーズを決めていたのを見て、今にも殴りかかりに行きそうになったので、吉田に後ろから羽交い絞めにされていた。
木村行司のヘロヘロ声が響く。
「東ィ~、静乃先生ィ~。ゲボッ、ゲボッ」
相撲部の四人はどっちを応援すればいいのか分からず、主語を抜かして、がんばれーという声援だけを送っている。
「はっけよーい。残った!」
しかし、あまりにも体格差があり過ぎたために、猫だましを出すまでもなく、勝負は一瞬についた。杉田さんも素人だったので、手加減の仕方を知らなかった。静乃先生は土俵の下まで投げ飛ばされて、小森たちの足元に転がってきた。
「先生!」相撲部が駆け寄る。「大丈夫ですか?」
「――うん。大丈夫よ」先生は頭を振りながら言う。
「先生、相撲の土俵というのは下に落ちてもケガをしないように、高さや角度を考えて作られているんですよ」香川が得意そうに言う。
「お前はバカか!」小森が怒鳴る。「嫁入り前の先生が大股広げて、仰向けに倒れている横で、うんちくを傾けてるんじゃない」
先生は小さな声で言った。
「でも、これでまた婚期が遅れそう」
小森たちは静乃先生を相撲部顧問として認めてあげようと思った。
「おう、スコットくん、遅かったじゃないか。桃竜組長たちもお見えだぜ」ボスが言う。
総勢二十人のヤクザがワゴン車の陰に隠れるように座り込んで待機していた。三台の電動機付き自転車もそばに置いてある。全員、動きやすいジャージやポロシャツ姿だ。警官に職質されたときのために、各自、お願い事が書かれた金メッキの棒を傍らに置いていた。
スコットは隣の神社で相撲大会に出て高校生に負けたとは言えず、怪しい人物や観光バスは見当たらなかったので、気合の杯のために、フェスティバルで日本酒を手に入れてきたと言った。先ほど敢闘賞でもらった日本酒だ。
「おお、越乃寒梅じゃないか」ボスが驚く。
「有名なお酒なのですか?」
「日本を代表する酒だ。特に大吟醸はプレミアがついて、なかなか手に入らないんだ。スコットくんは気が利くな。――よしっ、杯がないから、また順番に回し飲みだ。二十人もいるからな。みんな、ちょっとずつだぞ。まず、桃竜組長から見本を見せてやってください」
「おお、そうか。出入りの前の杯はこうしてググッとあおってだな」
組長は豪快に一升瓶を持ち上げた。
「――ゲホッ。すまん、むせちゃったぜ」
こうして全員に気合入れの酒が回された。日本酒が苦手なスコットだったが、越乃寒梅は香りといい、味といい、まろやかでおいしく感じた。アニキたち一行はここで日が暮れるのを待って、二望寺へ仏像を盗みに入る予定だった。
「仮の組長よ」桃竜組長が言う。「東南亜細亜の連中は今夜、来るのか?」
「さあ、どうでしょうか? 来ないなら来ないで、さっさとお宝を盗み出して帰るだけです。来たときは来たときで、ボコボコにしてやるだけです。――まあ、しかし、隣の祭りに便乗して来るでしょう」
アニキは賑やかな声が聞こえてくる隣の神社を見た。みんなも釣られて目を向けた。神社の向こうに太陽が沈もうとしている。空にはきれいな夕焼けが出ていた。総勢二十人のヤクザが夕焼けに見とれている。
ゆっくり夕焼けを眺めるなんてガキの頃以来だ。みんなそう思っている。
スコットも夕焼けを見て、故郷に思いを馳せる。いつか見たイギリスの夕焼けと同じような光景だったからだ。どこの国から見ても太陽はきれいだなと思うが、日出づる国日本の太陽は世界で一番きれいなのかもしれない。
日本に来て良かったと思った。ますます日本が好きになった。
凶悪なジャパニーズマフィアに囲まれているのに、なぜか平和なひととき。
これからここで激しい乱闘が起きるとは思えない。
このまま何事もなく、緩やかな時間が過ぎてくれないかなあとスコットは思った。
奉納相撲は順調に取り組みをこなしていく。心配された木村行司の寿命も安泰だ。
副主将の吉田は文具屋の本山さんを豪快に投げ飛ばしたが、橋の下部屋で一番体が大きいピーちゃんに寄り切られた。
小森は、娘が大きな声で応援していた長谷を簡単にすくい投げで倒した。解説者を兼任していた香川は大手電機メーカーの木川を内掛けで倒したが、ハッちゃんに押し出されて、すごすごと解説席に戻って行った。農協の高橋アナが暖かく出迎える。
「香川くん、今の取り組みはどうでしたか?」
「ハア、ハア、ハア……」まだ息切れが止まらない。「ボクとは体格差がかなりありまして、技を繰り出す間もなく、押し出されてしまいました。ハア、ハア……」
「やはり、取り組みと解説を同時にやるのは無理でしたね」
「でも、ハア、ハア。取り組みは残ってますので、解説は続けます。ハア」
その後、かなちょろがまた頭上を飛び越え、女子高生力士の杉田さんの後ろに回りこんで送り出した。
準決勝では小森がピーちゃんを上手投げで破り、ハッちゃんが動き回るかなちょろに張り手を浴びせて土俵に沈めた。
決勝は相撲部主将の小森と元ラグビー部のハッちゃんになった。
「西ィ~、小森ィ~。東ィ~、ハッちゃん~。この相撲一番にて本日の打ち止め~。ゴホッ、ゴホッ」
完全に声がかすれてしまっている行司兼呼び出しの木村さんが最後の呼び込みを行う。
大柄同士の対決に、境内に敷かれたゴザの上に座って応援している観客も大いに盛り上がっていた。
曲がった柄のひしゃくから力水をもらった小森は最後の戦いに気合を入れる。
勝てば優勝だ。国常高校相撲部の知名度とともに、部の予算も上がるかもしれない。
ぜったいに勝って、二度と静乃先生に無言電話はさせない。
その静乃先生はというと、
「小森くーん。がんばってェ~」
勝手に引っこ抜いてきた小森の興行のぼりを左右に振って大声を上げている。まとめられていた長い黒髪はほどかれて、左右に揺れている。
小森は見て見ぬフリをして、相撲に集中することにした。吉田はかぶりつき席に陣取って主将を見上げている。香川は解説席に座ったまま、マイクの前で応援を始める。
「解説の香川くん。いよいよ決勝戦ですね。この取り組みをどう見ますか?」
「もちろん、小森の勝ちです。豪快に上手投げで決めてくれるはずです。いや、下手投げかなあ。でも、小手投げも得意だし、すくい投げもいいし、二丁投げと言う変わった技も使えるし、うーん。相撲は筋書きのないドラマと申しますので、やってみないと分かりませんからねえ。土俵には魔物が住んでると言いますし。ああ、魔物がいるのは甲子園でしたか、F1のサーキットでしたかねえ。とにかく、がんばれー」
「相変わらず、キレのない解説ですが、二人の対戦を見守ることにしましょう」
木村行司が最後の力を振り絞って叫ぶ。
「見合って、見合って、はーけよーい、残った!」
小森は突進してくるハッちゃんをかろうじて、分厚い胸で受け止めた。
――ぐぐぅ。
これがラグビー仕込みのパワーかよ。
でも、俺も負けられないんだよ!
一気に体を近づけてまわしを?みに行く。
ハッちゃんは?ませないように両手を突っ張って体を離す。
こいつ、相撲の経験があるな。
じゃあ、これはどうだ。
小森は左に回りこんでハッちゃんを慌てさせる。圧力に負けてハッちゃんの左足が浮いたところで一気に攻めにかかる。しかし、ハッちゃんは土俵際で踏みとどまった。下半身がしっかりしている。日頃から鍛えているようだ。
二人の攻防に境内から割れんばかりの拍手が起きる。
このとき小森の両手はすでにまわしを捉えていた。あとは全体重をかけて押し出すだけだ。
吉田が土俵下から必死の形相で睨みつけている。香川は立ち上がってマイクでわめく。のぼりを持った静乃先生の悲鳴が響く。ハッちゃんを応援しているブンさんたちも大声を上げている。
小森のこめかみに血管が浮き出る。汗も滴り落ちる。歯をくいしばって全身に力を込めた。押されているハッちゃんも負けじと押し返してくる。
なんだよ、この馬鹿力は!
両者が組み合ったまま数十秒が経過した。
再び大きな拍手が沸く。
やがて、焦れたハッちゃんが引いた。小森はこの瞬間を待っていた。
そろそろハッちゃんの体力も限界だろう。鍛えているとはいえ、持久力はないと見ていた。だから、どこかできっと引く。
小森はこれが最後のチャンスとばかりに、全身の力をハッちゃんの巨体にぶつけた。ハッちゃんは一気に押される。しかし、土俵に足をかけた状態でとどまった。
小森は全身全霊を込めて、さらに押す。だが、両者は膠着したまま時間が過ぎる。
三回目の拍手が起きる。
――うぅ、動かない。なんでこんなに重いんだ。
小森は頭の血管が切れそうになる。
元ラグビー部のハッちゃんはどこかで相撲の練習もしていたのかもしれない。だが、俺も負けるわけにはいかない。俺は主将として国常高校相撲部を背負ってるんだ。小さな相撲部だけど、二人の仲間と一緒に運動場の心霊スポットで毎日懸命に稽古をしてきたんだ。そして、俺たちには顧問の静乃先生もついている。負けるはずがない。
「はーけよーい、残った、残った。ゼイゼイ……」
木村庄之助さんも自分の体力と戦っている。
――これで、どうだ!
小森はこの日一番の力を、ハッちゃんにぶつけた。
二人はもつれ合うように土俵下まで転がり落ちた。
「小森ィ~。――わあっ!」
小森に軍配を上げたとたん、木村さんが酸欠で倒れた。
土俵下で待機していた救護班が酸素缶を持って駆けつける。
勝ったのは小森主将だった。相撲部の面目にかけて見事に優勝を果たした。ようやく土俵に上がってきた二人に対して、小森側からもハッちゃん側からも大きな拍手が起きる。
(やったぜ! 優勝だ。相撲サイコー!)
小森はそう叫びたかったが、ここは神聖な土俵の上だ。そんな品のない事をしてはいけない。横綱には品格も必要だ。グッと我慢をして、ハッちゃんとともに礼をかわし、お互いに検討をたたえ合う。
(土俵を下りてから、喜びを爆発させてやるぜ)
同じく酸素缶を手にヨロヨロと立ち上がった行司の木村さんにも、町内のみなさんから拍手が起きた。大役を終えてほっとしたのか、脳にまで酸素が行き届かなくなったのか、木村のじいさんが両手を上げて声援に答えた。
「イエーイ!」
最後に行司自らが相撲の厳粛なルールを破るという前代未聞の奉納相撲の取り組みは、こうして無事に終えることができた。
土俵上に優勝力士の小森が立っている。土俵下からは相撲部一同と女力士の杉田さん、静乃先生もうれしそうに見上げている。
やがて、関係者から表彰状が読み上げられ、大きなトロフィーが授与された。まるで本物の大相撲の表彰シーンのようだ。境内からは大きな拍手が沸き上がる。
三つのお願い事を果たせてほっとしている痴漢の五人組がいる。ブンさん率いる橋の下部屋の一行もいる。
静乃先生がかついでいる興行のぼりは、自身の長い黒髪とともに、境内を流れる穏やかな風に揺れていた。
その頃、満願神社の拝殿前でも祭礼は大きな盛り上がりを見せていた。二人の巫女さんが縁起物のお餅を参拝客に向けて投げていたからだ。
お餅はこの日のために、まんじゅう一筋六十年の趣月堂のおばあちゃんが一つ一つ手作りで作ってくれたものだ。受け損なって下に落ちてもいいように、ビニールで包まれている。
そして、お餅の中にはさらに小さなビニールで包まれた硬貨が仕込まれていた。ほとんどはご縁がありますようにとの願いを込めた五円玉だが、中には五百円玉も含まれている。受け取った人の中にはさっそくお餅を割って中身の硬貨を確かめている人もいて、五百円玉を見つけた人からは歓喜の声が上がっていた。
二人の巫女の脇から神主が一生懸命にゼスチャーを送ってきている。先ほどから、まるで競うようにして、遠くにいる客ばかりに投げている二人へ、もっと近くの人にも、お餅を投げてあげなさいと言っているようだ。
神主が隣で立っているジッちゃんに苦笑いをして言う。
「やっぱり、あれはジッちゃんの娘さんだ。性格がそっくりだ」
「えっ、どういう意味です?」
「負けず嫌いなところがジッちゃん譲りだという意味です」
「そうですか。うーん、言われてみれば、そんな気もしてきましたな」
「しかし、あの二人、気が合うとは思いませんでしたよ」
「そうですな。年齢は一緒でも性格は正反対のようですからな」
「動と静といった感じですからね」
「やはり、若い人はそんな壁も簡単に乗り越えて仲良くなれるのですかなあ」
「ははは。ジッちゃんも若い頃があったろうに」
午後、ミコは福玉の販売やお神楽の舞など、やることがたくさんあって、てんてこ舞いをしていた。そこへ到着したのが、ジッちゃんの娘のサユリだった。挨拶もそこそこに無理矢理巫女の衣装を着せられると、餅投げの儀式に参加させられた。ミコが境内で練習をしたというピッチングフォームで遠くの人にお餅を投げると、サユリも腕力には自信があると言い出して、負けじと遠くへ投げはじめた。お餅は前の方で待ち構えていた人たちの頭上を越えて、はるか後ろの方へ飛んで行く。やがて、前の人たちが私たちの方にも投げてくださいと騒ぎ出した。
騒ぎに気づいた神主は両手を振り回して二人に指示を送っている。やっと、神主のメッセージが届いたのか、二人の巫女はすぐ下で手を伸ばしている人たちにも、お餅をポンポンと投げ始めた。
やがて、奉納相撲を見学していた人たちが移動して来て、拝殿前はさらに多くの人で溢れる。もちろん、その中には着替えを済ませた相撲部員たちもいた。しかし、山のように作ってもらったお餅はまだまだ残っている。すべてを投げ終わる頃、二人の自慢の二の腕はパンパンに腫れ上がっていることだろう。
――ブワーン。
大きなクラクションの音に、真っ先に反応したのはアニキだった。
「バスだ! あいつら来やがったぜーっ!」
座り込んでいた仲間たちに緊張が走る。
「あの馬鹿ども、お約束通り、大型バスに乗ってやがる」
すっかり日が落ちた二望寺の駐車場をヘッドライトが照らす。闇の中から二階建てサルーンの大型観光バスの巨体が現れた。
アニキたちはエンジンを切ったワゴン車の陰で一塊になって身を隠している。
なんだか、寒さをしのいでいるサルの集団みたいだなとスコットは笑いそうになる。こんなときに笑いたくなるのは緊張の裏返しなんだろうなと自分を冷静に分析する。
空を見上げるが、そこには月が光っているだけで、頭をぶつける障害物はない。前回のようなドジはもう二度とごめんだ。しかし、今日の方が、少し気が楽なのも確かだ。なんといってもこれだけの大人数だ。
スコットは闇に潜む仲間を見た。目をギラギラさせているのは二十人の精鋭たちだ。
♪レット・イット・ビー。
なるようになるさ。
大型観光バスが止まった。
アニキがみんなにだけ聞こえるくらいの小さな声で言う。
「見てろよ、まず三人が出てくる。そいつらが手に拳銃を持った偵察部隊だ。安全と分かると仲間が下りてくる。出口はあのドアと反対側にある非常口。その二ヶ所だ」
桃竜組長があとを引き継ぐ。
「よしっ、計画通り、わしの護衛の三人があの偵察の三人に飛び掛かれ。拳銃を奪ってしまえばこっちのもんだ。非常口を固めるのは仮の組長にまかせたぞ。奴らも二十人ほどだからな、一人で一人をやっつければ勝ちだ。――ところで、仮の組長。あのバスの運転手は小柄な奴だと言ったな」
「はい、二度見かけましたが、ちっこくて貧相で小学生のようなオヤジでしたよ」
「よしっ、そいつは俺に任せろ。みんな、俺の獲物に手を出すんじゃねえぞ」
護衛の三人が身を屈めて金メッキの樫の棒を手にバスへ近づいていく。一方、非常口側に向って、アニキたちが歩みを進める。
やがて、前方のドアが開いてアニキの予想通り、偵察の三人が出てきた。
護衛たちは目配せをすると、音もなく獲物に近づき、それぞれの後ろから首を抱え込んだ。声も上げられずにもがいていた三人だったが、しばらくすると、全身から力が抜けて、その手から拳銃が落下した。
護衛の三人は拳銃を蹴飛ばしてバスの下に隠すと、気を失っている偵察の三人をワゴン車の方にズルズルと引き摺ってきた。
状況を見守っていたスコットが桃竜組長に問う。
「あのピストルを奪わないのですか?」
組長は怒ったように言う。
「当たり前だ。あんな武器を使っての出入りなんか、極道の恥さらしだ。あんな外道ども、素手で十分ってわけだ」組長はそう言って、拳を見せる。
スコットはジャパニーズマフィアの心意気を感じて少しだけ感心する。
偵察の三人が戻ってこないことに気づいたのか、バスの中から二人の男が出てきた。
それを見て、桃竜組長が叫んだ。
「よしっ、みんな行けー! 奴らは丸腰だ。樫の木の餌食にしてやるんだ」
その声はバスの裏で待機していたアニキたちにも届いた。
総勢二十人のヤクザが大型バスを取り囲んだ。バスから出てきたばかりの二人の男はすでに滅多打ちにされている。次に外へ出て来たのは運転手役の小さなオヤジだった。
「待て待て、子どもオヤジよ、どこへ行く。組長自らがお相手してやるぜ」
桃竜組長は小柄な男の頭上めがけて樫の棒を振りかざした。闇の中で月の光を受けた金メッキが輝く。しかし、男は軽々とそれを避けて、ズボンのポケットからナイフを取り出した。
「外道の分際で光り物を使うのか! よしっ、護衛の三人。こいつは任せた。わしは違う獲物を追いかける」
組長はそういい残してワゴン車の方に去って行く。
その間に、運転席の窓を破り、バスに乗り込んだのはジュンだった。エンジンを止めて、刺さっていたキーを引っこ抜くと、寺の敷地内に向って放り投げた。
それを見ていたアニキ。
「ジュン、よくやった。みんな、これでバスも動けんぞ。ボコボコに壊してやれっ!」
そのとき、出入り口と非常口が同時に開いた。東南亜細亜諸国犯罪連合の連中がつぎつぎと下りてくる。
一人で一人をやっつけることを目安にして、奴らに襲い掛かるジャパニーズマフィア。
個人の力では圧倒的に有利だ。数々の修羅場を潜り抜けてきたヤクザとはレベルが違う。
しかし、どうもおかしい。
倒しても倒しても、敵の人数が減らない。
アニキが叫ぶ。
「奴ら、二十人どころじゃねえ。五十人、いや、六十人はバスに詰め込んであるぜ。――いいか、みんな、作戦変更だ。一人で三人をやるんだ。桃竜組長、そっちの組員への連絡も頼むぞ」
しかし、組長からの返事はない。
その頃、桃竜組長はスコットとともにワゴン車の中で待機していた。運転席にのんびりと座っている組長。同じく助手席にいるスコット。乗り物に弱い組長だったが、動いてなければ平気らしい。
「精鋭たちを集めたから、すぐにケリはつくだろ。終わった頃に出て行って、瀕死の状態の奴を一発蹴飛ばして、自分の手柄にすればいいだろ。それまで、ここで高みの見物といこうや」
「でも、組長。それじゃ、今戦っている人たちに申し訳ないです」
「だったら、なんでお前はここにいるんだ。臆病風に吹かれたか?」
「いや、ボクはマフィアじゃないので、あの……」
そのとき、一人の伝令が走って来た。
「桃竜組長、大変です! 敵は六十人もいて、われわれが押されてます。現場に戻って、早く指揮を取ってください」
「何! よしっ、スコットくん、すぐに行って、みんなを助太刀するんだ」
「――えっ!? ボクですか?」
スコットは言葉を詰らせたまま去って行く伝令の男の背中を見つめる。
敵は二十人と聞いていたのに、その三倍もいたなんて。――ああ、どうしよう。
そのとき、車のドアがガンガンと叩かれた。
「誰だ。乱暴なことをする奴は!?」
怒った組長がウィンドウを下げて顔を出してみると――。
「わっ、何だお前たちは!」
ワゴン車が数十人の敵に囲まれていた。
あわててボタンを押してウィンドウを上げる組長。
しかし、敵の一人が強引に腕を突っ込んできてガラスを押し下げる。
「何をするかっ!」
組長は体重をかけてボタンを押す。しかし、敵も両手で押し下げる。
――ガガッ。
いきなりモーターが止まった。
「このポンコツ車が! スコットくん、行くぞ!」
組長は足でドアを蹴り開けると、外に転がり出た。スコットも反対側のドアから飛び出す。
スコットは外の光景を見て、息を飲んだ。そこで倒されていたのは、みんな自分の仲間たちだったからだ。かろうじて立っている数人が敵を相手にして孤軍奮闘している。
もっとも多くの敵を引きつけているのは百舌だ。全身から血が噴出していると言ってもおかしくない。敵と味方が入り乱れていて、ボスもジュンも護衛の三人もどこにいるのか分からない。月の光を受けて輝くはずの金メッキの樫の棒もあちこちに散乱し、逆に敵に奪い取られて滅多打ちにされている者もいる。
ああ、ボクの仲間たちが大変だ。みんな、ボクに良くしてくれたのに。たくさんの思い出ができたというのに。こんなに日本人が好きになったというのに。日本の旅がこんなことで終わってほしくない。
スコットは飛び出すときに?んだ金メッキの樫の棒を、もう一度強く握り締めた。
――騎士(ナイ)道(トス)精神(ピリット)!
スコットが駆け出した。
「ターミネーターだ!」敵の一人が叫んだ。
ワゴン車から飛び出て来た男があのターミネーターと分かり、蜘蛛の子を散らすように数人が逃げ出した。
「どけ、どけっ! ボクの名はスコット。スコット・トレーシーだ!」
巨体のスコットは樫の棒を頭上でビュンビュン振り回しながら、敵を追い掛け回す。
「ボクはサンダーバード1号のスコットと同じ名前なんだぞ! みんな、やっつけてやる」
「おお、いいぞ、スコットくん!」
見かけに寄らず足の速い桃竜組長が逃げ回りながら声援を送る。だが、声援を送るだけで、誰とも戦おうとしない。
そのうち、勇気のある敵の一人が奪った樫の棒を片手にスコットへ向ってきた。
――ガッ!
スコットは頭に一撃を喰らって、あっという間に倒された。
ターミネーターが見かけだけで、実は弱かったと知った敵はスコットを取り囲み、つぎつぎに蹴りはじめる。先日の仇を討とうとしているに違いない。
スコットはアスファルトの上を転がりながらなんとか攻撃を交わそうとしていたが、敵の人数が多すぎてすぐに捕まってしまう。
やがて、ポケットから木彫りのネッシーが転がり出た。
「ピーコック?」敵が言う。
「違う! クジャクなんかじゃない。触るんじゃない」
スコットの悲痛な叫びも届かず、ネッシーは踏み付けられて、細い首が折れてしまった。
ああ、ボクが彫ったネッシーが。ジュンさんが良くできていると褒めてくれたネッシーが。
スコットの目から涙が溢れる。
ネッシーの横には一冊の文庫本も落ちていた。カバーがめくれかかっているその本は、スコットが日本に来て初めて買った本である枕草子だった。
その頃、かなちょろは二望寺の敷地内にいた。相撲が終わったと思ったら、神主がやって来てお願い事をされた。先日の賽銭泥棒のことは他言しないという条件でのお願いは相撲大会へ出場することと、二望寺へ盗みに入ることの二つだった。
「盗みって、あんた、神主だぜ。神に仕える人が、俺みたいなコソ泥に盗みを指図してもいいのかい?」
「かなちょろさんが隣に持ち込んだという仏像、いや、原木がどうしても気になってね」
「その原木を手に入れて、何をしようってんだ?」
「実は以前から私はシイタケ栽培に興味がありましてね。一度でいいから自分で育てたシイタケを食してみたいと思っていたのですよ」
「シイタケのために俺が盗んだ木をもう一度盗み返せというのかい。確かにあれはシイタケ栽培にピッタリなんだが、もし俺が捕まったらどうするんだ?」
「捕まるようなかなちょろさんじゃないでしょ」
「――えっ? まあ、そうだな。俺様がつかまるわけないな。ただし、その木を盗んできたら、もうあんたとの縁はこれっきり無しだぜ」
そういい残して、かなちょろは軽々と塀を越えた。今度は叱られないよう注連縄に注意して隣へと飛び降りた。
日が落ちて辺りはすでに暗くなっている。
かなちょろはポケットがたくさんついたベストを着て、手には釣竿を持っている。いつものように獲物を釣り上げようというわけだ。原木は女住職が投げ捨てたまま放置されているに違いない。だから、場所はだいたい分かっている。
あたりは暗くなっているが、かなちょろ様は夜目が効くのさ。
かなちょろは腰を低くしてそろりそろりと歩いて行く。
そのとき……。
――ゴーン。
寺の鐘が鳴った。
かなちょろはあわてて身を縮めた。
――ガーン。
その拍子に庭の石に頭をぶつけた。
「あ~、痛ェ。なんだい、鐘かよ。びっくりさせやがる」
――ボワーン。
つづいて、法螺貝が吹かれた。
「なんで法螺貝なんだ?」
かなちょろには分からなかったが、鐘と法螺貝、これらの二つは隣の満願神社への宣戦布告の合図だった。
何年も鳴らされていない二望寺の鐘の音。この音を聞いて若とジッちゃんが顔を曇らせたことを、かなちょろは知らない。
しばらくの間、かなちょろは行動を起こさず、ぶつけた頭をさすりながら、本堂の脇に潜んでいた。先ほどの鐘と法螺貝の音が不気味に思えてきたからだ。
それに長年の勘も働いていた。しばらくは動かずにここにいた方がいい。神主からいつまでに盗んで来いとは言われていない。だから急ぐことはない。焦るとロクなことが起きないからだ。盗みで生計をたててきたかなちょろは身に染みて感じていることだ。
それにここは異様な気が漂っている。だから、気が晴れるまでしばらく待っていたが、その気配はない。それどころか、その気は濃くなってきている。いったい何が起きようとしているのか?
そのとき……。
かなちょろの右上に光が灯った。
「なんだ、電灯があるなら早く点けろよ。――わっ!」
かなちょろは、思わずのけぞった。
それは電灯ではなく、三つの火が空中で揺れていたからだ。
「ひ、人魂だ。なんでこんな所に出るんだ――ああ、いいのか、ここは寺だからな。いや、いいわけないか。俺様の前には出るなよ。他人の目の前に出ろよ。確かに、今まで何度か寺にも盗みに入ったことがあるけど、人魂なんか出なかったぞ。なんでだ。ああ、さっき頭をぶつけたから変な物が見えるようになったのか」
目をゴシゴシ擦ったが、三つの火はゆらゆらと浮いている。
かなちょろは、それがセントエルモの火と呼ばれている発光放電だとは知らなかった。
――怨、オーン、オーン。
「今度は何だよ、おい。この変な声は?」
かなちょろは見上げていた三つの火から目を下ろした。
そこには一艘の船が隣の神社に向けて置いてあった。
その不気味な声はその船から聞こえていた。
「そうか。あの火は三本のマストのてっぺんで燃えているのか。しかし、なんで、こんな所にでっかい船があるんだ? それにこの船は何だか色が変だな。なんでこんなに青白く……」
かなちょろは仕事も忘れてゆっくり船に近づいていく。
「わーっ!」
船を形成していたのが素っ裸の人間だと分かり、かなちょろは悲鳴を上げた。
「何のオブジェだよ。気持ち悪ィ~。――う、動いてやがる。この船は生きてるのかよっ!」
青白い霊体は複雑に絡み合ってウネウネと動いていた。
――怨、オーン、オーン。
真っ暗な口から絞り出すような声を発している。
やがて、かなちょろを見つけた一体の霊が手首を動かして、おいでおいでをはじめた。
「い、いやだ。行かない。俺はまだ死にたくない」
その霊の周りにいる霊たちもかなちょろの存在に気づき、手や足を動かし出した。
――怨、オーン、オーン。
「そ、そこから出してほしいのか。俺にはできないから、誰か違う人に頼んでくれ。お坊さんでも、神主さんでも、牧師さんでも、神父さんでも。――俺様は、ほら、この通り忙しいから……」
かなちょろは震える手で商売道具の釣竿を持ち上げて見せる。
――ズズッ。ズズッ。
霊体船はズルズルと地面に糸を引きながら動き出した。
船体がしだいに隣の神社の敷地へ入り込んで行く。
通った跡はヌメヌメになって光っている。あたりに腐敗臭が漂い始めた。
その頃、満願神社では若とジッちゃんが白い塀の前で身構えていた。
二望寺は釣鐘と法螺貝の音を合図に、二十年前のときと同じように式神をミミズに変化させて、地中から神社の敷地内に送り込んできたのだ。
式神を塗り込んだ長くて白い塀を傾け、式神が潜む注連縄を切り裂き、神が宿る榊の根を蹴散らし、つぎつぎに入り込んでくるミミズに対して、ジッちゃんは式神をコウベモグラに変化させて対抗した。
しかし、今回のミミズの数は尋常ではなかった。コウベモグラはたちまちミミズに取り囲まれて、圧迫死させられていく。
やがて、境界の最後の砦である結界棒が傾きはじめた。
「ジッちゃん、なんとか踏ん張ってくれ」塀の前で仁王立ちしている若が言う。
「若、こちらはかなりの被害ですが、ミミズどもも相当数が消滅しています」
同じく庭師の衣装のまま邪神に立ち向かっているジッちゃんが答える。
「この結界棒は大丈夫でしょう。きっと、苦しくなった奴らは地表に現れるはずです」
――ニュル、ニュル、ニュル。
やがて、ジッちゃんが言った通り、ミミズたちが這い出してきた。地面を覆いつくした数百匹、数千匹のミミズが、クネクネとのたうち回っている。まるで赤茶色のカーペットのようなミミズの集団が神社の敷地をモゾモゾと移動して行く。恐れを知らぬミミズたちは神をも飲み込もうとしていた。
そのとき、ジッちゃんが動いた。
ジッちゃんはすでに星が瞬いていた空に向って三度鳴いた。その声に呼応し、すぐに鎮守の森が騒がしくなった。深くて青い色をしていた空がたちまち黒くなっていく。
ジッちゃんは若をうながして、急いでミミズの集団から離れた。
空から来た黒い集団がミミズに襲い掛かった。三本足のカラスたちだ。
カラスはつぎつぎにミミズをついばんでいく。逃げ惑うミミズたちだが、結界棒の力が邪魔をして地中には戻れない。赤茶色カーペットはあちこちに黒い穴ができはじめた。
「ほう、ジッちゃんの言った通りだ」遠くから戦況を見守っている若が感心している。
「それにしても、このミミズの数には驚きました。三本足のカラスたちがいなければどうなっていたことやら」
「これで一安心といったところかな」
「そうですな。そうあってほしい……」
――ズシン。
突然、式神を塗り込んだ白い塀の一部が崩壊した。
「どうした、ジッちゃん!?」
――ズズッ。ズズッ。
塀を突き破り、霊体船の船首が姿を現した。
全長五十メートル、高さ三十メートル、三本のマストを持つ帆船。それは月の光を浴びるまでもなく、自ら青白い光を放ち、全身をブルブルと震えさせていた。
突如現れた数百体の霊が組み合わさった霊体船を、若とジッちゃんは驚きのあまり声も出せずに見上げている。
そして、マストの尖端では二人をあざ笑うかのように三つの火の玉が揺れていた。
「あの女住職はこんなものを作っておったのか」
ジッちゃんがやっとのことで声を出す。
「ミミズを蹴散らしたと思ったら、今度はこいつらが相手か」
若もやっとのことで声を絞り出した。
その間も、死体のジグソーパズルのような霊体船はズルズルと敷地内に入り込んでくる。
――怨、オーン、オーン。
不気味な声を上げながら霊体船は移動する。霊たちは命ぜられるまま青白い体を動かして船を進めていた。足で地を蹴る者。手で地を掻く者。
帆を張ってはいるが、風ではこの船は動かない。動力は個々の霊体の手足だ。
そして、その行き先は神殿だった。
かつては神を恐れたであろう霊たちも、もはや邪悪な気の塊となった女住職フミに操られて、神を滅ぼそうとしている。
「ジッちゃん、何としても、こいつを止めよう」
ジッちゃんは直接神殿を守る式神以外の白い塀、注連縄、鈴の中、灯籠の中に潜むすべての式神たちをこの境界へ動員し、ミミズを退治してくれた三本足カラスに新たな指令を発した。
やがて、式神とカラスの集団が一体となり、新たな壁を作り始めた。
ジッちゃんは壁が押されないように彼らに向って懸命に念を送る。
こめかみから流れ出た汗が頬を伝って、ポタポタと地に落ちて行く。
そこにはたくさんのミミズの死骸が横たわっていた。
二人の巫女、ミコとサユリが松明を手に火炉の前に立っている。先ほど、二人は神殿に出向き、古来より絶えることなく灯されている神聖な火を貰い受けて来た。そして、この松明を使って、境内のあちこちにかがり火を灯して回った。そのため、神社全体が幻想的な雰囲気に包まれて、集まった人々は厳かな気分に浸っている。
火炉の中には人々が持ち寄ったたくさんの木やお札が積まれていた。いよいよ火祭りの始まりだ。
「ねえ、ミコちゃん、こんな大役、私でいいのかなあ」サユリが松明を持ちながら小さな声で囁く。
「全然平気だよ」ミコは何食わぬ顔をして答える。
「だって私は今日ここに来たばかりの何も知らない素人だよ。お父さんと神主さんが、ぜひと言うから巫女の格好をして、ちょっとお餅を投げただけなのに、後からこんな大切な儀式をさせられるとは思ってもみなかったよ」
「でも、ジッちゃんはおじいさんの代からこの神社にすごく貢献してるらしいし、そのお孫さんだったら、ド素人でも神様は大歓迎してくれるよ。それに、あたしもここに来たばかりだから素人みたいなものだよ。ついこの前まで、街中でチェーンを振り回して暴れてたんだからね」
「えっ、ホント?」
「ホント。ほら、あの右側にガラの悪そうな女が五人固まってこっち見てるじゃん。あれ、あたしの古くからのダチ。後からもっとたくさん来るけどね。夜遅くにならないと行動しない奴が多いから」
「確かに見た目のガラは悪そうだけど」
「土俵の砂はあの子たちと一緒に用意したんだ。みんな、根はいい奴ばっかりだからさ。後でサユリさんにも紹介するね」
「えっ?」サユリは戸惑うが、
「じゃあ、そろそろ行くよ」ミコは構わずに歩き出す。
二人は集まった人たちによく見えるように、松明を頭上高く上げると、ゆっくり歩調を合わせて歩き始め、途中で二手に分かれた。
そして、境内の真ん中に設置されている火炉に左右からその神聖な火を入れた。
今夜は一晩中、この火炉が燃やされ、その周りを人々が踊って回ることになる。火が火炉に入れられたのを確認すると、人々は古来より伝わる祭り歌を歌いながら、踊りはじめた。
この身よ踊れ、御魂(みたま)よ、震えろ
朝が来るまで、神とともに、火とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
土より出(い)でよ、木霊(こだま)よ響け
鳥が啼くまで 生とともに、土とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
闇を照らせ、天(あま)へと届けよ
命尽きるまで、死とともに、水とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
人の輪が火炉の周りをグルグル回る。火炉からは無数の小さな火の粉が噴き上がり、夜空へ向かって散らばって行く。
みんなの願いが叶いますようにとの思いを込めて、人々は踊る。歌いながら踊る。燃え尽きないで落ちてきた火の粉が体に降りかかるが、みんなは気にしないで踊っている。
神様が見てくれている。神様が守ってくれている。だから、気にしないで踊る。
すべては神とともに、火とともに。
なんちゃってターミネーターのスコットが集団リンチに遭っているとき、ジュンも数人に囲まれて殴りつけられていた。立っているのが精一杯だった。数メートル横ではアニキが数人を相手に戦っている。
ジュンの目にスコットの姿が映った。
「スコット!」
体の大きなスコットには特に多くの敵がハイエナのように群がっている。スコットは何も反撃できないまま丸くなって、蹴られ続けている。奴らは先日、ターミネーターとして騙された仇を討とうとしているのだ。
「スコット、早く逃げろーっ!」
叫んだとたん、ジュンはカウンターパンチを喰らって倒れる。ジュンの声が何度もあたりに響くがスコットには聞こえてないようだ。
代わりにアニキからの返事があった。
「ジュン、自分の敵に集中しろ! あいつは電柱の張り紙を見てやって来た外国人に過ぎん。義理立てをする必要はないだろ」
ジュンは倒れながら大声で叫ぶ。
「でも、アニキ! あいつは金がないのに俺に牛丼の特盛を奢ってくれたんですよ」
アニキは大きな敵をブン投げると、上に乗りかかり、殴りはじめた。しかし、違う敵がアニキの後ろから羽交い絞めにする。
「アニキーッ!」ジュンがまた叫ぶ。
アニキは敵の腕から逃れてジュンに叫ぶ。
「ジュン、何をボケッとしてるんだ! 早くスコットの元へ行ってやらんか!」
「アニキ……」
「ジュン、これをスコットに渡せ」
アニキはそばに落ちていた金メッキの棒を拾って叫んだ。
それは、樫の棒の中でもひときわ長いものだった。
「いいか、ジュン。これをスコットに渡して、マレットと叫べ!」
ジュンは上から乗っかってきた敵を払いのけると、アニキが投げた長い樫の棒を?み、スコットの元へ走ろうとした。
しかし――。
後ろから隙を狙っていた男が仕掛けてきた。気配を感じて振り返ったジュンの目先に、誰のものか分からない樫の棒が迫ってくる。仲間の誰かが奪い取られた樫の棒で、今まさに前頭部を殴られようとしていた。それはほんの一瞬の出来事だったはずだ。しかし、ジュンにはそれがスローモーションではっきりと見えた。
近づいてきた棒に書かれた願い事がはっきりと見て取れる。
“アニキが早く正式な組長に戻れますように”
俺の組の誰かが書いたものだ。でも、俺はもうアニキに会うこともない。このまま頭をかち割られて死んで行んだ。
もう一度、アニキのことを組長と呼びたかった。
そのとき、衝撃が走り、ジュンの体が横に飛ばされた。
――ゴキッ!
転がったジュンは誰かが自分の代わりに樫の棒で殴られてくれたことを知る。
――誰だ!?
振り向いたジュンは、顔面を血みどろにしている百舌を見た。
「百舌さん!」
百舌の額を新たな血の筋がツーッと流れてくる。
「ここはわしに任せろ」
「でも、百舌さん、すごい血が……」
「わしは簡単に死にはせん」
百舌は殴ってきた相手の胴に喰らい付いた。
「ジュン、早くスコットを助けてやれ。あいつはお前の大切な友達なんだろ」
そう言って――百舌が笑った。
「百舌さん!」
ジュンが駆け出した。樫の棒を振り回して、飛び掛かってくる相手を蹴散らして行く。
「どけ、雑魚がーっ! 百舌さんが笑ったんだ。分かるか、お前らにー! 百舌さんは赤ちゃんのとき橋の下に捨てられたんだ。ずっと笑えない人生を送ってきたんだ。でも、今、百舌さんが笑ったんだ。分かるかーっ! 百舌さん、俺、ぜったい、スコットを死なせない。 俺も死なない。だから、百舌さんも生きてください!」
ジュンの目に頭から流れてきた血が入り視界がぼやける。
「スコット、どこだーっ! 返事しろーっ! スコットー!」
出血のため頭がふらついて、方向感覚も鈍くなってきていた。
「見習いのジュンさーん、ボクはここですー」
あのバカ、こんなときに見習いなんて付けやがって!
居場所を確認したジュンは立ち止まって、まともに力が入らない腕で目の中の血を拭った。スコットを殴りつけていた連中がこちらを向いて一列に並ぶ。
お前らはフリーキックに備えるゴール前のサッカー選手かよ。
そう言って毒づいたとたん、いっせいにジュンを目掛けて走って来た。
ジュンは樫の棒を握り締めて構えた。敵をギリギリまで引きつける。
まだだ……。まだだ…。まだだ……。よしっ、今だ!
「スコット、こいつを受け取れーっ!」ジュンは大きく振りかぶった。
金メッキを施した樫の棒が連中の頭上を越えて飛んで行く。
あっけに取られる奴らを尻目に、それはうまくスコットの足元にまで転がった。
「スコット、アニキからの伝言だ。よく聞けーっ!――マレット!」
スコットは転がってきたやや長めの樫の棒を見た。
――マレット。
そうだ。ボクは王者のスポーツ、ポロの選手だったんだ。
そう、ボクは王者なんだ!
スコットは首が折れているネッシーと、踏み付けられてボロボロになっている枕草子の文庫本を拾い上げて、ポケットに突っ込んだ。
ボクのイギリスとボクの日本。両方の神様、ボクを守ってください。
スコットがゆらりと立ち上がった。
手にはジュンからもらった樫の棒を持っている。
マレット――ポロ競技の際に用いられる木槌。
ボクはマレットを自分の手足のように使える。
そうか。この樫の棒をマレットと思えばいいんだ。
ジュンを追いかけていた連中が、息を吹き返したスコットに気づいて引き返してくる。
とどめを刺そうとする総勢約二十人の敵に、スコットは単身で立ち向かって行く。
よくもボクのネッシーと枕草子を!
「覚悟せよーッ! 枕草子第一段、春はあけぼの!」
樫の棒が先頭の男の側頭部に炸裂する。
「ようよう白くなりゆく山ぎわ少しあかりて!」
次にかかって来た男の足の腿に棒を叩きつける。
「紫だちたる雲の細くたなびきたる!」
左から襲って来た敵の攻撃を余裕でかわし……、
「夏は夜!」
右から来た男の手首を棒で打ち付ける。
「月の頃はさらなり!」
腹部に樫の棒をめり込ませる。
「闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる!」
後ろからかかってきた男の額を棒で割り、
「また ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし!」
真正面に現れた男の喉を突く。
「秋は夕暮れーっ!」
スコットの大きな声は、戦場と化している二望寺の駐車場に響き渡り、夜空の遥か彼方にまで届く。
そして、枕草子の第一段、春夏秋冬が終わったとき、スコットの周りには立っている者がいなかった。
駐車場の隅で敵と戦っていたジュンの元へアニキがやって来た。やはり、全身が血だらけだ。
「アニキ、無事ですか?」
「無事な奴はいないだろ。しかし、スコットくんのお陰で形勢は逆転した。彼のデカい声に俺たちは勇気をもらったんだ。流れは俺たちの方に傾いてる。――そこでだ。どさくさに紛れて、桃竜組長をぶん殴って来い。日頃の恨みを晴らしてやるんだ」
「えっ、アニキ。そりゃ、組長は嫌な奴ですが、そんな任侠の道にはずれるようなことを」
「物事には例外ってやつがあるだろ。あたりは暗いし、これだけ人がゴチャゴチャいたらバレんだろ。遠慮はいらんから思いっきり殴って来い」
ジュンは樫の棒を持つと、桃竜組長の後ろからそろりと近づいて行った。卑怯だけど、アニキの命令とあらば仕方がない。組長は大声を上げて組員に声援を送っているだけで、自分は何もしていない。確かに殴るだけの価値はある。都合のいいことに護衛の三人も敵に掛かりっきりで、周りには誰もいない。
ジュンは樫の棒を上段に構えて、
――ボコッ!
組長が声も上げずに倒れた。
ジュンは闇に紛れて逃げ出す。
数分後、アニキが桃竜組長に呼ばれた。
「どうしたんですか!?」
「うぅ、後ろから頭をやられた」組長の頭から血が流れている。
「後ろからとは、極道の風上にも置けない卑怯な奴!」
そこへ何食わぬ顔をしてジュンがやって来た。
「おお、ジュン、いいところに来た。組長がやられたんだ」
「ええっ!? 殴ったのはいったいどんな奴ですか?」
「それが暗くてよく見えんかった」
「――よかった」
「なに?」桃竜組長が睨む。
「いえ、こっちの話です。アニキ、さっそく組長の敵を打ちに行きましょう」
「おお、もちろんだとも。立ってる奴を片っ端からやっつければ犯人に当たるだろ。――よしっ、行くぞ、ジュン!」
二人は白々しく駆け出した。走りながら顔がにやけてしかたがない二人だった。
組長は護衛の三人に言われて、とりあえず安全な場所であるバスの下に隠れることになった。
「おい、バスの下って、わしは野良ネコじゃねえぞ!」
そんな叫びも無視されて、ガスタンク体形の組長は無理矢理サルーンバスの下に押し込まれた。
二望寺の本堂。金色に塗られた建物が闇の中で光っている。女住職のフミが邪気を込めて作っていた何枚もの呪符があちこちに貼られて、より不気味な様相を呈している。
堂内にはフミと四人のニセ山伏が満願神社及び、その祭礼を壊すべく、祈祷をつづけている。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン」
盗品である無数の仏像たちの前で、フミの呪いのお経がすでに何時間もつづいている。あたりにはタタリがあるという線香のニオイが漂い、天井はもはや白い煙で見えなくなっていた。
四人の山伏はというと、それぞれが本堂内の東西南北の隅に分かれて、満願神社に向けて邪念を発しつづけている。
山伏たちはフミが霊力で作り上げたという霊体船を見たとき非常に驚いたが、それが実際に動き出し、隣の神社に突入していく姿を見たとき、腰を抜かさんばかりに驚いた。あれだけの船をたった女一人の念力で動かせるとは、四人の中でもっとも霊力を秘めた北王でも難しいだろう。
――このわし一人で十分じゃ。
そう言ったフミの言葉もあながち嘘ではなさそうだった。
最初に送り込んだ式神は二十年前と同じくミミズに変化させたが、境界に植えられた榊、壁や注連縄などに潜んだ式神、及び結界棒により後退を余儀なくされ、三本足のカラスにすべて殲滅させられた。
そして、今――。
霊体船がズルズルと神社に入り込んで、神殿に体当たりを喰らわそうとしていた。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン……」
フミの声が止んだ。
真っ赤な袈裟に身を包んだフミが振り返る。長い灰色の髪が背中で踊った。
「北王よ。本堂はまだ動かんのか」
胡坐を組み閉じていた目を開いて北王は言う。
「もう少し待ってくだされ。西王も東王も南王も最大限の霊力を発しております。われら四人の力が融合するまで、いま少し――」
フミは西王、東王、南王の顔を順に眺めていった。
三人ともに本堂の薄暗い隅で、傍らに錫杖を置いて座禅を組み、眉間に皺を寄せて、苦痛の表情を浮かべている。首のあたりは流れ出す汗により、すでに大きな染みができている。
「頼んだぞ」
フミはそう言うと、さらに霊体船を進めるべく、奇妙なお経を唱えはじめた。
スコットが一人で二十人ほどの敵を片付けてくれたおかげで、この出入りも終わりを迎えるかと思われていたが、東南亜細亜諸国犯罪連合の連中は倒しても倒しても立ち上がってくる。
「アニキ、こいつらおかしくないですか?」血だらけの百舌が訊く。
「百舌もそう思うか。俺もそう思っていたところだ」
「やはり、ヤクですか?」
「ああ、やってるだろうな。たかが窃盗団だ。こんなに体が頑丈なわけがない」
見渡してみると、倒れている人数は味方の方が多いようだ。
「くそっ、ゾンビ野郎が! せっかく引き寄せた流れが、また向こうへ行きやがった」
いくら劣勢になったからといっても、同じ相手に三度も負けるわけにはいかない。
百舌よ、どうすれば……。
そう訊こうとしたが、アニキの口からは舌打ちの音がしただけだ。
いつの間にか、アニキと百舌が囲まれていたからだ。
組員に指示を出しているところを見て、この二人が幹部クラスだと見て取ったらしい。
アニキと百舌はじっと構えたまま、目だけを周囲にすばやく動かす。武器は手に持った樫の棒しかないが、アニキのものはすでにヒビが入っている。きっと百舌の方も酷使したために、あと少しで折れることだろう。周りを見渡すが、新たな金メッキ棒は落ちていない。
俺たち二人がやられると、壊滅的な打撃を喰らう。あのガスタンク組長じゃダメだ。
「百舌、まだ体は持つか?」
「はい、わしはまだ平気です」
だが、百舌は決して弱音を吐かないことをアニキは知っている。平気なんかじゃないことは血が滴り落ちている百舌の全身を見れば分かる。早く休ませないと、命は尽きてしまう。
二人を囲む輪がしだいに小さくなってくる。きっと警戒しているのだろう。タイミングを見て、いっせいに来るはずだ。しかし、俺たちを助けに来る余裕がある組員はいない。
どうするか?
俺一人でこいつらに立ち向かって勝てるか?
満身創痍の百舌を守れるのか?
アニキは心を決めた。
「百舌、またどこかで会おうな」アニキが笑った。
「アニキ、世話になりました」百舌は頷いた。
銃声が二発鳴った。
そして、ガラスの砕ける音がした。
霊体船は死人の手足で地面を掻きながら、ズルズルと神社の中を進んでくる。船が通り過ぎた跡は流れ出た体液でテカテカと光り、糸を引き、腐乱した臭気をまき散らしている。
船の底から伸びている何本もの青白い手が、ジッちゃんの植えた榊の木を根こそぎ抜き取っていく。
白い塀は大きく壊れ落ちた。注連縄は切られた。結界棒もなぎ倒された。
それでも立ち向かっていく式神と三本足のカラスたちであったが、霊体船の邪気と毒気によって、つぎつぎに跳ね返されて墜落していく。地面にはミミズの死骸とともに、苦しみもがいているカラスたちでいっぱいだった。
――怨、オーン、オーン。
霊体船は止まらない。
若は死体が絡み合った船を崩すために、両手を向けて念波を送っている。
その隣でジッちゃんも式神を操るために念波を送りつづけている。
かなりの集中力を要するため、二人とも体力を消耗していて、ここを突破されるのは時間の問題だった。しかし、ここを越えられると、霊体船は火祭りが行われている境内へと向かい、さらにその先には神殿がある。
何としても止めなければならない。
若は目に入ってきた汗を嫌がり、意識を船に向けたまま天を見上げた。
空にはたくさんの星が瞬いているはずだった。
「ジッちゃん!」
若の悲鳴のような声がした。
ジッちゃんは驚いた。いつも冷静な若が取り乱している。
いったい何が……?
ジッちゃんはあわてて若の目の先を追う。
「ジッちゃん、この霊体船はダミーだ! 私たちの本当の敵はあそこだ」
夜空に二望寺の本堂が浮いていた。それは月の光を浴びて金色に輝いていた。
満願神社の神殿上空に黒くて巨大な影を落としている。
「あの本堂ごと墜落させて、神殿を押しつぶすつもりだ」
「そんなバカな……」ジッちゃんが絶句する。
「ジッちゃん、ここは式神とカラスに任せよう。私たちはあの本堂に念波を送る」
宙に浮かんでいる本堂は満願神社の敷地の三分の一ほどもある大きさだ。
「建物全体に念波を送っても効果は期待できない。東西南北のうちの一ヶ所に集中させよう。――ジッちゃん、犬をお願いします」
「はっ!」
ジッちゃんは短く返事をすると、暗い道を駆け出した。
そして、参拝客がひっきりなしに通る鳥居の下に来た。
その脇にいる二匹の狛犬と遠く拝殿の脇に見える二匹の狛犬、合わせて四匹の狛犬に念を送る。
「お前たち、待たせたな。今、奴らはお前たちの主人である神を蹂躪しようとしている。あの空を見よ。あそこに浮かぶ本堂が敵だ。四匹が協力して、南の一角を狙い打ちにするのじゃ!」
四匹の狛犬の目がギョロリと動いた。そして、体をブルリと震わせると、しだいに頭頂部が膨れ上がってきた。
やがて、狛犬のてっぺんから犬の形をした光が飛び出て、空に舞い上がった。そして、四つの光は空中で交わり、一つの大きな光となり、宙に浮かんでいる本堂の南側に突入して行く。
「さあ、お前たちも頼むぞ!」
さらにジッちゃんは待ちわびているであろう式神たちにも念を送った。
参道の脇に設置されている二十基の立て灯籠から六十匹の式神が飛び立ち、四匹の狛犬の後につづいた。
突然の二発の銃声に、アニキも百舌も二人を囲んでいた連中も、音がした方向を振り向いた。
桃竜組長が両手に拳銃を持って立っていた。
バスのフロントガラスが割れている。
「おいおいおいおい! 東南亜細亜の諸君、動くんじゃねえぞ! へへっ、こいつが目に入らねえか」
組長は二丁の拳銃を見せる。さらに、お腹のベルトに挟んでいたもう一丁の銃を見せる。全部で三丁。護衛の三人が偵察部隊の三人を倒して奪い取り、バスの下に隠したものだ。
それを野良ネコのように押し込まれたバスの下で偶然見つけた組長は、ガンマン気取りでポーズを付けている。――ネコに拳銃。
「手下ども、わしの写真を撮るのなら今のうちだぞ。ジョン・ウェインのようなカッコいいガンマンに見えるように、ちゃんとSNS映えを意識して撮るんだぞ。いいね! も忘れるなよ。はっはっは」
武器を使っての出入りなんか極道の恥さらしだとスコットに言ったことなんかすっかり忘れて、二挺拳銃を構え、手下どものスマホのレンズに向けて、愛想を振りまいている。
「よお、仮の組長と百舌くんじゃないか。待たせたな。いよいよ真打の登場だぜ」
アニキと百舌は顔を見合わせて呆れ返る。
何がジョン・ウェインだよ。
だが、調子に乗った組長はサルーンバスに向って、つぎつぎに拳銃を発射する。
派手な音が響くが、神社から聞こえてくる火祭りのざわめきに掻き消される。
駐車場内で戦っていた者たち全員が桃竜組長に目を向ける。倒れている者もなんとか顔を上げて、状況を確認しようとしている。
たちまち、一階と二階のフロントガラスが粉々に砕けてしまった。このとき、のんきに二階のカラオケでテレサ・テンを歌っていた東南亜細亜諸国犯罪連合のボスは銃弾がお尻に当たって失神した。
桃竜組長は三丁の拳銃を使ってバスのすべてのガラスを粉砕して回った。そして、弾が尽
きると、あっけに取られて突っ立っている犯罪連合の連中をつぎつぎに拳銃で殴りつけ、ひび割れたコンクリートの上に倒していった。
「どうよどうよ。俺を後ろから殴りつけたバチだぜ。見たか、この大和魂。土壇場での大逆転勝利だぜ」
ガスタンク体型の桃竜組長は高らかに笑って、空になった拳銃をバスの中に投げ入れた。
桃竜組長のパフォーマンスは極道として情けないものであったが、たちまち形勢が逆転して、アニキ側に有利となったのは事実だった。
本堂で経を唱えている南王の体が大きく傾いた。
四人のニセ山伏は、ここ本堂の“実”にこもったまま、“虚”である本堂を東西南北の四方から強力な念で意のままに操り、満願神社の上空に出現させると、そのまま落下させて神殿を押しつぶそうとしていた。
「どうした!」西王が叫ぶ。
「わしの持ち場である南方に一点集中で攻撃を仕掛けてきたようだ。体の底から持ち上げられるほどの力だ。全身の肉と骨がギシギシと悲鳴をあげておる。――悪いが、どうやら長くは持ちそうにない」
心配した東王が問う。
「奴らはフミ殿の霊体船を防ぐのにかなりの力を消耗しているはずだ。あの神主と庭師にそんな力が残っておるのか」
「いや、あの二人じゃなさそうだ。もっと違う念だ。しかも複数いる。かなりの霊力を使って体当たりを繰り返して来やがる」
「では、わしが……」西王が南王を助けようとしたが、
「待て、念を切るな!」北王が吠えた。「南王よ。耐えよ。われわれがお主に加勢することはできん。四隅の力のバランスが取れて融合してこそ、虚の本堂は邪悪な力となる。一角でも念を切ることはできん」
「承知……いたしておる」南王が苦し気に答える。
北王が話しかける間も、南王の体はさらに傾き、顔は苦渋に満ちたものに変わっていく。
「しかし、北王よ」東王も南王を心配する。「今、そのバランスが崩れようとしておる」
「うるさい!」突如、フミのダミ声が響いた。「早く神殿を潰すのじゃ!」
節操もなく並べられた仏像に向ったまま、フミは霊体船を動かすための奇妙な経を、必死の形相で唱えつづけている。
四人はさらに念を込めて巨大な虚の本堂を動かしていく。
しかし、神使である狛犬と式神の捨て身の波状攻撃は止まない。
やがて、南王の口の脇からドス黒い血がツッーと流れ出し、床に広がり始めた。
「――フミ殿。北王よ。西王よ。東王よ。世話になった」
南王は血だらけの口元を袖で拭うとゆっくり立ち上がり、錫杖を支えにして、ヨロヨロと歩き出した。
シャリン、シャリン、シャリン……。
新たに吐き出した血の滴がポツポツと床にこぼれて、南王の後を追いかける。
やがて引き戸を開け、石段を二歩三歩と下りて行くと、その長い髪を振り乱しながら、庭に向って倒れこんだ。その横に錫杖もシャリンと音を立てて落下した。
西王があわてて助けに向おうとするが、北王が叫ぶ。
「待て、西王! 念を切るなと言っておろう。自分の持ち場を離れるな。南王はもう助からん。奴もそれが分かっていたはずだ」
かなちょろは暗闇の中、原木を探してウロウロしていた。
「さっきの船は気持ち悪かったなあ。モゾモゾ動いているし、おいでおいでをするし、人魂も浮いてるし、あれは何だったんだろうな。さあ、気を取り直して原木、原木っと。神主さんが待ってるからな。――夜目が効くといっても、真っ暗じゃ全然見えねえじゃないか」
そのとき、本堂の戸が開いて庭に光が差し込んだ。
「おお、よく見える。って、誰か出てきたじゃねえか」
かなちょろは、あわてて低い身をさらに低くした。
突如現れた山伏の格好をした男が室内からの光を背景に立っている。逆光で表情は見えないがかなりの長髪だった。男は石段を下り始めると、ガクンと腰を落とし、そのまま頭から真っ逆さまに転げ落ちて、手に持っていた錫杖とともにかなちょろの足元に横たわった。
「わっ! 何だよ、この人。――おい、山伏さんよ、大丈夫か?」
恐る恐る背中を揺らしてみるが反応はない。
かなちょろは回り込んで顔を覗いてみた。
両目はカッと開いたままで、呼吸は停止していた。
「死んでるのかよ。今まで歩いてたのに突然死かよ。――おい、ダンナ、しっかりしな。寺で死んだら洒落にならねえぞ。山伏だったら念力とか超能力を出して生き返らないのか?」
そのとき、開け放たれている本堂の中から声がした。
「南王はもう助からん」
「こらっ、誰だか知らねえが、簡単にあきらめるなよ。ああ、まずいよ、まずい。この辺にAEDはないのかよ。ないか、ないな。こんなボロ寺に設置されてるわけないな。じゃあ、人工呼吸か。嫌だなあ。こんな奴とチュウなんて」
かなちょろはキョロキョロしているうち、石につまずいて大きな音を立ててしまった。
「誰だ!」本堂から声がした。
「ニャー、ニャー」かなちょろがネコの物まねをするが、あまりにも下手すぎた。
「おい、北王よ。庭に誰かいるぞ」東王が立ち上がろうとする。
あわてて逃げようとするかなちょろだったが、
「放っておけ! 自分の念に集中せよ。虚の本堂が崩れるぞ」
とりわけ大きな声がその場を制した。
“実”の本堂の中では、フミの経を上げる声がさらに大きくなり、奇妙な線香のニオイがさらに濃くなっていた。
かなちょろは絶命した山伏をしばらく観察していたがどうしようもなく、庭に漏れてきた明かりで原木の位置を確認すると、釣竿を伸ばして狙いをつけた。
香川は願い棒に祈りを込めて、火炉の中に放り投げた。
これからもおいしいご飯が食べられますように。おいしいお肉も食べられますように。おいしいお野菜も食べられますように。大きな文字で三行書いたところで、書くスペースがなくなってしまった。だが、諦め切れず、端の方に極細の文字で、おいしいスイーツも食べられますようにと書いておいた。
失敗したなあ。スイーツのお願いはもっと大きく書きたかったなあ。
「俺はもっと相撲が上達するようにと書いたんだけど、吉田は何て書いたんだ?」小森が訊く。
「もちろん、相撲が強くなれますようにだよ」
「球体くんは?」
「ボクも相撲部に入ったからには強くなりたいと書きました」
「香川は?」
「へっ?――ああ、ボクも相撲のことだよ」
「へえ、そうか。お前のことだから、てっきり食い物のお願いだと思ったよ」
「そ、そんなことないさ」香川は焦って言うが、願い棒はすでに火の中だった。
ああ、みんなに見られなくてよかった。
「あら、みなさんは踊らないの?」
人ごみの中から声をかけてきたのは、新しい巫女のサユリさんだった。ジッちゃんの娘さんらしい。今日一日だけの短期バイトらしいができればずっといてほしいと三人は思っている。ミコ先輩は今時の美人だがサユリさんは古風な純日本美人だからだ。
「さあ、こんなに盛り上がってるんだから、相撲部のみんなも来なさいよ」
そう言ってサユリは右手で小森の手を?んだ。
女性の免疫がない小森は驚いて手を引っ込めようとしたが、がっちり繋がれて離れない。
あっ、いいなあ、小森は。
吉田が羨ましそうに見ていると、サユリは左の手で吉田の手を?んできた。
「ほら、おいでよ」
サユリは小森と吉田を両脇に従えると、踊りの輪の中に入っていく。
「ああ、待ってください!」球体くんが三人を追いかける。
一人残された香川。
ボク、存在感が希薄だからなあ。
そのとき、香川の手がやさしく握られた。
――もしかして、ミコ先輩!?
「やあ、香川くん。相撲の解説はなかなかよかったよ。一緒に踊ろうかね」
香川たちも輪の中に入って踊り出した。
目の前では、サユリさんと三人が楽しそうに踊っている。
あいつらは、あんなきれいな人と。
なのに、なんで、ボクはこの人と……。
「ホレ、ホレ、ホレ、ホレ!」
香川の隣では、木村庄之助さんが行司の衣装のまま楽しそうに踊っていた。今度は倒れないように、手にはしっかりと新しい酸素缶を握り締めていた。
そんな二人の横を背の高い男性が追い抜いて行く。若い女性が後ろから声をかける。
「シン、ちょっと待ってよ。ほら、あそこにお父さんを見つけたから、一緒に行こうよ」
今日のお父さんはどうなっているんだろう。太鼓を叩いていたと思ったら、奉納相撲に出て、今度はうれしそうに踊っている。前の方で踊っているお父さんのそばには森河先生やパン屋の多田さんたちもいる。
シンの言う通り、オヤジバンドのメンバーなのか訊いてみようとユウは思った。そして、もしそうなら、なぜ今まで黙っていたのか、お母さんを追及しようと思う。
シンが振り向いて、ユウに言った。
「今、お父さんには会わない方がいいよ」
「えっ、なんで?」
「たぶん、太鼓も相撲も無理にやらされたんだ。そんな顔をしてたよ」
「でも、今はうれしそう踊ってるよ」
「たぶん重圧から解放されたからだよ。何かの罰ゲームでやらされたのか、会社の研修なのか分からないけど、今はユウと顔を会わせたくないと思うよ」
「私がお祭りに来てること知ってるのかなあ」
「そりゃ、知ってるさ。ユウはあんな大きな声で相撲の応援をしてたのだから」
「ええっ? 私はそんな大きな声を出してたかなあ」
「まあ、とにかくお父さんには、家に帰っても何食わぬ顔をして接してあげる方がいいと思うよ。男心を察してあげてよ」
「男心!?」
巨大な火炉から吹き出た火の粉が夜空に舞い上がる。
その周りをたくさんの参拝客が何重にも取り囲んで踊っている。
そのはるか上空には神殿を押しつぶそうとする本堂が浮いている。
人々が仲良く集い、祈りを捧げ、踊りを踊る場には神柱が立つ。
そして、その神柱の上に神が降臨する。
今まさに満願神社の上には神柱が立とうとしている。
虚の本堂が宙に停滞し、神殿に向って降りて来られない理由は、若たちの念や狛犬や式神たちの働きにもよるが、神柱の形成の影響も大きい。しかし、その巨大で邪悪な黒い影は楽しく踊っている常人の目に見えていない。
「若。本堂が傾きはじめました」ジッちゃんがホッとしたような声で言う。
「どうやら、作戦通り南側が崩れたようだね」若の表情にも余裕が窺われる。
お互いは言葉を発しながらも、宙に浮かぶ虚の金色の本堂に向けての念は強く送り続けている。
「ジッちゃん、狛犬と式神たちはどうだい?」
若は光の玉となって本堂に突撃を繰り返している彼らを心配する。
「かなり体力を消耗しておりますが、まだ少し持つようです。――あっ、若、あれは?」
傾いた本堂の屋根から何か光るものが滑り落ちてくる。
「――ほう、あれは瓦のようだね」
「あの女住職は瓦まで金色に塗っておったのか」
神社に瓦はない。瓦は仏教建築の象徴のため、あえて瓦を用いずに、藁葺を使ったと言われている。
寺の象徴でもある瓦がキラキラと輝きながら落ちてくる。
それは、虚の本堂と巨大な火炉の間で火の粉と交じり合い、一段と輝きを増していた。
やがて、本堂にフミが邪気を込めて貼り付けた呪符も剥がれ出し、火炉や神殿に向けて降りそそぐ。
空中に乱舞する金色の瓦と呪符。
虚の本堂はさらに傾き出した。
「ジッちゃん、もうちょっとだ」若はジッちゃんを気遣う。
「はい。あと少し神柱が強くなってくれれば助かるのですが」
「かなりの人数が火祭りに参加してくださっているが、まだ足らないようですね。なんとかあと少し人数が増えないものか……」
境内で踊っている人々の歓喜やざわめきが聞こえてくる。
それらの音に交じって、何台ものけたたましいエンジン音が聞こえてきた。
「ジッちゃん、どうやら間に合ったようだよ」
若が目を細めて笑った。
火炉からやや離れたところに建つ満願神社の社務所の前に二人の巫女が立っている。無事に大役を終えたミコとサユリだ。
そばには柄の悪そうな五人の女性が集まっている。サユリに紹介すると言っていたミコの古くからの仲間たちだ。
ミコは約束通り、紹介をしてあげた。サユリはちょっと迷惑そうな顔をしていた。
やがて、神社の駐車場から聞こえていた車やバイクのエンジン音が止むと、数十人の女性たちが境内を駆け抜けて、社務所前にやって来た。全員がきれいに整列する。
一人の金髪の女性がミコの前に出てくると、
「華来(かぐ)夜(や)秘女(ひめ)八代目総長杉原麻代より七代目総長へ! 総員九十二名。集結完了いたしました!」
ミコはみんなを見渡して言う。
「七代目総長椿原美湖よりメンバー全員へ! 今日はここ満願神社の火祭りだ。大いに祭りを盛り上げてくれ。それと、あたしの隣にいる方は日頃から世話になってるサユリさんだ。よろしく頼む。――以上だ!」
――押忍!
九十二名の女子にいっせいに頭を下げられて戸惑うサユリ。
あまり見た目がよろしくない女性によろしく頼むと紹介されても困るんだけど。
それに何だか、芝居がかってません? 団体のネーミングもおかしいし。
でも、そんなこと言えない。みんなこっちを見てるし。ミコちゃんも真剣な顔をしているし。
「あっ、はい、私、サユリと申します。こちらこそ、よろしくね」
とりあえず、頭を下げておいた。
火炉の回りで踊る人々の輪の中にミコが集めた百人ほどの女性が加わった。
人々の願い、祈り、情熱、活気、気力、生命力が一体となり、より高度で澄み切った神柱を作り上げていく。それは若の期待通り、以前にも増して巨大になっていた。
この身よ踊れ、御魂よ、震えろ
朝が来るまで、神とともに、火とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
土より出(い)でよ、木霊(こだま)よ響け
鳥が啼くまで 生とともに、土とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
闇を照らせ、天(あま)へと届けよ
命尽きるまで、死とともに、水とともに
トーダ ラーバ トーダ ラーバ
神々は神柱に降臨をはじめた。それは輝きを放ちながら天に向って真っ直ぐに伸びていく。
その力に押されて虚空に漂う虚の本堂はもはや壊滅の危機と化していた。
桃竜組長に拳銃で殴りつけられて倒れていた犯罪連合の連中がムクムクと起き上がり、大
型バスへ向かって、ヨロヨロと歩いて行く。
「まるで、ゾンビだな」アニキが百舌に言う。
「奴らを放っておいてもいいのですか?」百舌がアニキの顔を見つめる。
「ああ、かまわん。バスのキーはジュンが抜いて投げ捨てたから動けんだろう」
だが、そのとき。
――ドドドドッ。
闇の中の巨大なシルエットが震えた。
「なに! 奴ら、スペアキーを持ってやがったのか!」
仲間の回収を終えた二階建てサルーンの大型観光バスがゆっくりと動き出した。
「バスを止めろ!」アニキが叫ぶ。「駐車場から出すなよ!」
傷だらけの組員が立ち上がり、バスを追い始める。何とか動ける組員がバスと並走して、ガラスが割れて枠だけになった窓に手を掛けて乗り込もうとしている。だが、組員たちは体力を消耗していて、思うように走れない。敵は枠にかけた手をバスの中から殴り付けてくる。
しかし、広大な駐車場から外に出るまでにはまだ時間がかかりそうだ。
一方、バスの中ではカラオケ中、お尻に銃弾を受けて失神していた東南亜細亜諸国犯罪連合のボスが目を覚ました。ズボンが破れて、半ケツが出ている。
「急いでここを出ろ! ああ、お尻が痛い。一般道に出れば、他の車も走ってるから紛れることができるぞ。ああ、やっぱりお尻が痛い。がんばれ、ドライバー。それ行け、ドライバー。ああ、確実にお尻が痛い。ここを出たら、病院に向かってくれ。ああ、お尻が持たない」
大型バスに取り付く組員たちは、まるで手負いのクジラを襲うシャチの群れのようだ。
かろうじて窓に喰らいついていた組員たちだったが、殴られたり、蹴られたりして、次々と地面へ落下していく。
「よーし、いいぞ! 出口が見えてきた。もう少しだ、がんばれ。ああ、お尻が痛い」
犯罪連合のボスは一階へ下りて来て、運転席の横に立ち、お尻を押さえながら、ドライバ
ーに指示を出している。フロントガラスがなくなっているため、暗くても前方はよく見える。
「どうやら、窓に取り付いていた連中はみんな落ちてしまったようだな。さて、バスを修理してから、体勢を整えて、またブツゾウをかっぱらうとするか。ああ、お尻が痛い」
あと十メートルほどで駐車場から出られるというとき、ガラスのないフロントからドライバーのすぐ目の前に、一人の男がヌッ顔を出した。バスの側面にしがみ付ていた連中とは違い、この男はバスの正面から立ち向かって来たのだ。
「わぁー!」
ドライバーはその男のあまりの強面に驚愕した。
目と鼻と口と耳が大きく、眉毛がない、顔面血だらけの百舌であった。
百舌は外から両手を伸ばし、バスのハンドルを握ると、思いっきり左へ切った。
猛スピードで走っていた大型観光バスは急ハンドルにより、車体を傾け、乗っていた連中が倒された。二階のカラオケ装置も倒れて、コードが千切れ、車内の電気がいっせいに消えた。犯罪連合のボスもすっ飛ばされて頭を強打した。「痛ェ。頭もお尻も痛いよう」
大型バスの巨体はゆっくりと傾き、
――ドドドーッ。
地響きを立てながら横転した。火花を散らしながら、ズズッと滑って行く。
砂埃が舞い上がり、ガラスのない窓から数人が外へ投げ出された。
大型バスは様々な破片をまき散らしながら、コンクリートの塀に激突して止まった。
出口まであと三メートルの地点だった。
「百舌ー!」アニキの叫び声が駐車場に響いた。
桃竜組長は自分の手柄をさんざん組員に自慢した後、あとは任せたぞと言って、元気に徒歩で帰って行く。いっさい戦いに加わらなかったため、元気なのである。その周りを傷だらけの組員が取り囲み、三台の電動機付き自転車が護衛する。
護衛の一人が振り返って叫んだ。
「よお、仮の組長! やっぱり電動機付き自転車はいいぞ。俺たちみたいなケガ人にもやさしいぞ。何と言っても一番高いやつだからな。だがな、クーポンがあったから、少しだけ安く買えたんだ。コスパがいいんだ。それと、うちの親分の写真は撮ったか? スマホの待ち受けにしてもいいぞ。俺が許してやるぞ。――じゃあな」
アニキは呆れて見送る。隣には百舌がかろうじて立っている。急ハンドルを切り、大型バスを横転させたが、下敷きになる寸前のところをかわし、巻き込まれずに済んだのだ。
「護衛の野郎ども、どんな顔をしてクーポンを使いやがったんだ。最後までくだらない自慢をしやがって」アニキが睨み付ける。「それにしても、桃竜組長ときたら、相変わらず悪運だけは超一流だな。これだけ派手に出入りをやらかしたというのに、あいつだけは元気だ。ジュンに殴られた傷もかさぶたになってる頃だろうな。まあ、助っ人に来てくれたのは感謝しないとな」
百舌が黙ってうなずく。
自分の組員を見渡すが無事な人間はいない。しかし、みんな、なんとか命は取り留めたようだ。
バスの窓から投げ出された犯罪連合の連中は、桃竜組長にまたもや執拗に拳銃で殴られて、全員が頭から血を流して倒れているが、命には別状がないようだ。
弱い人間にはとことん強い桃竜組長だった。
アニキは足元に倒れている男のポケットをさぐってスマホを取り出した。
「あー、もしもし。警察ですか。こちら、二望寺の駐車場なんですが、たくさんの外国人が暴れてます。たぶん、不法滞在している不良外国人みたいです。はい、ピストルの音も聞こえましたし、大きなバスが転がってます。実に怪しいでしょう。それに、何だか挙動不審な奴らが多いので、変な薬をやってるに違いありません。尻を押さえてウンウン唸っている奴がボスのようです。早く捕まえに来てください。――えっ、私ですか? 偶然ここを通りかかった一般市民です。では、ごきげんよう」
一方的にしゃべってスマホを投げ捨てたアニキは組員たちを連れてワゴン車に向って歩き出した。そのスマホも優秀な警察がしっかり解析して、奴らの余罪を暴くことになるだろう。
その頃、ジュンとスコットはアニキの指示で二望寺の敷地内に入り込んでいた。
「分かってるな、ジュン。俺たちの本当の仕事はこれからだ。しかし、俺たちの仲間でまともに動けるのはお前とスコットくんと桃竜組長ぐらいだ。さっさと帰った組長は放っておくとして、二人で俺たちのお宝を奪い返してくるんだ。――頼んだぞ」
アニキからそう命じられた二人は、やっとのことで塀を乗り越えて、異様な雰囲気が漂う本堂に向って歩いている。
「スコット、仏像はきっとこの建物の中だ。でかいから二手に分かれよう。俺は左に回るから、スコットは右側から行ってくれ。もし、中に入り込める場所があったら呼びに来てくれ。お前は背が高いからくれぐれも見つからないようにな」
「ラジャーです」スコットは身を屈めながら歩き出した。
今まではアニキやジュンさんの手伝いをしていたのだが、こうして直接盗みを働くことになるとは、いったいボクは日本に何をしに来たのだろうと思う。
しだいに悪の道を突き進む自分に対して、スコットは少しずつ後悔を始めていた。
でも、もう後には戻れない。ああ、ボクは不良外国人になってしまった。エリザベス女王様になんとお詫びすればいいのか。
左側に曲がったジュンは隣の神社との境にある白い土塀が大きく壊れているのに気づいた。霊体船が通るときに破壊された跡だが、ジュンには知る由もない。自分が泥棒に入ってきたことも忘れて、早く修理をしないと物騒じゃないかと思って眺めていると、突然、目の前に一人の女性が現れた。
「な、なんだ、お前は!?」
「見て分からんの?」
「ああ、巫女さんか?」
「そうだよ。あんたこそ何者だ?」
「俺は見ての通りのヤクザもんさ」
「見習いだろ」
「何言ってんだ! こう見えても将来の幹部候補生だ」
「それにしちゃ、オーラがしょぼいな」
「オーラなんかどうでもいいだろ。お前はこんなところで何をしてるんだ?」
「巫女が神社にいたらおかしいのか? あんたこそ、ここで何をしてるわけ?」
「えっ、ああ、俺はこの土塀が壊れてるんで見てたんだ」
「土塀のセールスマンか? だったら他所を当たってよ。うちの神社、あんまりお金がないから」
そう言いながらミコがジュンに近づいた。
「あんた、ケガしてるじゃん」
「えっ、たいしたことねえよ」
「これ使いなよ」ミコは袖から取り出したものを放り投げる。
それをキャッチしたジュン。
「マキロンじゃねえか」
「そう。傷によく効くよ」
「何でこんなものを持ってるんだ」
「今日はたくさんの人が集まる祭礼だから、転んだりする子供も出るわけ。だから、救護担当者として、バンソウコウとかを携帯してるんだ。なんだったら、包帯もあるよ」
耳を澄ませば、神社の方から歌や人々の歓声が聞こえてくる。願い棒やお札を燃やしている火炉が夜空を赤く照らしている。
「いや、これで十分……」
そのとき、ジュンの後ろがざわついて、スコットの叫び声がした。
「見習いのジュンさーん、かなちょろを見つけましたー!」
「何!」ジュンが振り返る。
「やっぱり見習いじゃん」ミコが笑うが、「――えっ、かなちょろだって!? しかも、あの外国人さんじゃん」
二人の横を、原木を抱えたかなちょろがトカゲのようにすり抜けて行く。
「大漁、大漁! ほっほっほーっ!」
「あいつ、俺たちのお宝を……」ジュンが駆け出す。
「わっ、なんだか面白そう!」ミコも駆け出す。
「待ってくださーい!」スコットも後を追う。
その後、絶命した山伏の南王の霊体も組み込んだ霊体船であったが、式神と三本足のカラスの壮烈な反撃に押されていた。動力になっていた船底の霊体はもはや手足を動かすこともなく、セントエルモの三つの火も消えかかっている。
虚の本堂も、そそり立つ神柱と狛犬や式神たちのパワーにより、南王が欠けた南側を下にして斜めに傾いたまま、墜落寸前の状態にあった。
もはや、金色に塗られた瓦はすべてずり落ち、呪符もすべてが剥がれ落ち、丸裸の状態でかろうじて神殿の上に浮いていた。
「ジッちゃん、あと少しだ」
「はっ!」
二人は地に足をふんばり、何とか自分の体を支えて立っている。目は充血し、手足は震えている。もはや、口の中はカラカラに乾き、汗は枯れ果てて、流れ出ることもない。
今、二人の念は尽きようとしていた。
「こちらも苦しいが、敵も限界に来ているはずです」
「どうやら、降下が止まったようですな」
そのとき、本堂がさらに大きく傾き、北側を真上に南側を真下にして垂直の体勢となった。
もっとも霊力がある山伏である北王の実の本堂からの遠隔操作により、かろうじて虚の本堂を宙で支えている。
――ズズッ。
縦型の本堂がまるで大型獣のようにその全身を震わせた。小さな木片がつぎつぎに落下してくる。木片を繋ぎ止めていた金具も弾け飛び、パラパラと地を目指す。
やがて建物全体に塗布されていた金も剥がれ落ちてきた。
「おのれ、狛犬、狛犬、狛犬、式神、式神、式神……」
フミは恐ろしい形相で念を飛ばしている。灰色をした長い髪が、生き物のように背中でうねる。
それを横目で見ていた北王は、日本昔話に出てくる鬼ババアはこんな感じだと思った。
その瞬間、傍らに置いてあった法螺貝が狛犬と式神の攻撃により、木っ端みじんに砕け、各自が左手首にはめていた数珠もバラバラになり、西王が手首に付けていた金のブレスレットのチェーンも引き千切られて、床の上に散乱した。
「北王よ!」フミが叫ぶ。「何をしておるのか。本堂を支えよ!」
宙に浮く虚の本堂は垂直のまま、立て直すことができない。
南王が倒されて、力のバランスが崩れた三人の山伏たちはずっと押されている。ズルズルと地を這っていた霊体船は、式神と三本足のカラスの働きによってバラバラに解体された。
そのとき、実の本堂が揺れた。
「北王よ、これは新手の攻撃か!?」
「いや、どうだか……」
駐車場で大型バスが横転したときの衝撃波だったのだが、この者たちが知る由はない。
「ガンズ、ゴンザ、ガンユ、ゴンル、ロンビン……」フミの呪いのお経が激しくなる。
目は血走り、手は震え、頭は前後に激しく揺れ、口からダラダラとヨダレが流れ出す。
灰色だった髪が一瞬にして真っ白に変わった。
「北王よ、支えんか! 西王よ、東王よ。お前たちも本堂を支えよ、支えよ、支えよ!」
フミにどやされた北王は西王と東王を見て、力なく首を振ると、ニタリと笑った。
西王と東王もそれがどういう意味かを察しして、薄ら笑いを浮かべた。
そのとき、フミは目を閉じて、眉間に力を入れながら、必死の念を飛ばしていたため、三人の表情には気づかなかった。
やがて、薄っすらと空一面にたなびいていたはずの白い雲が、本堂の周辺に集まり出した。白い雲は本堂をすっぽり取り囲むと黒い雲に変化し、グルグルとその周りで回転をはじめた。
やがて、黒い雲の中から幾筋もの雷光が現れて本堂を取り囲んだ。
――神の裁きだった。
「若、あれを!」ジッちゃんが悲鳴をあげる。
「まずい、落下する。ジッちゃん、すぐに狛犬たちを呼び戻してください」若も叫ぶ。
ジッちゃんが本堂に向けていた念を狛犬と式神に飛ばす。光の玉となり体当たりを繰り返していた彼らは攻撃を止めて、それぞれ石造の狛犬と二十基の立て灯籠の中に戻って行く。
夜空に轟音が響いて、垂直になっていた本堂がボォと燃え上がった。
炎に包まれて、黒煙を上げながら垂直に落ちてくる虚の本堂。
――ズズズッ。
その下では神殿が厳かに座し、周りでは人々が楽しそうに踊っている。
急落下していた虚の本堂は神殿に激突する寸前、神柱の中に飲み込まれて、バラバラに解体され、細かな灰と化した。
空から降りそそぐ灰が見えていない人々は、何事もなかったかのように踊りつづける。歌いつづける。叫びつづける。笑いつづける。
戦い済んだ狛犬と式神は元のねぐらへ帰って行った。
「ああ、みんな、無事だったか。よくやってくれた」ジッちゃんが大きな声で褒めた。
実の本堂内では、すべての仏像がなぎ倒され、光背や持物が散らばっていた。文殊菩薩が乗っていた象の鼻は折れ、ニワトリと嘲笑された孔雀の羽も根元から取れていた。
真っ赤な袈裟に実を包んだフミは泡を吹いて倒れ、目は見開いたままだった。真っ白になった髪がしだいに灰色へと変化し、体から腐敗臭が漂い始めた。
そばには引きちぎれた数珠の玉が乱れて転がっている。異様なニオイを発していた線香はことどとく折れ、火は消えていた。
三人の山伏たちの姿はもうそこにはいない。
こんなこともあろうかと、たんまりと前金で謝礼を受け取っていた彼らは、仲間の南王が倒されたあげく、本堂が黒い雲に囲まれて勝ち目がなくなったと分かったとたん、怒り狂うフミを置いてさっさと逃げ出したのだ。
シャリン、シャリン、シャリン――。
満願神社の賑やかな火祭りを横目に、錫杖を鳴らしながら、三人は大通りへと急いでいる。
「寺と神社の喧嘩なんかに付き合ってられるか」北王はニヤニヤして言う。「あんな強欲ババアに義理立てする必要はないわ。もらうものはもらったから、後はどうなっても知らん」
「しかし、南王は気の毒なことをしましたな」西王が残念そうに言う。
「そうだな。どうやら奴は死期を悟っていたようだが」東王も残念がる。
「かまうものか」北王は金さえ入ればいいと思っている。「またどこかで新しい南王を探すまでのことよ」
シャリン、シャリン、シャリン――。
その頃、かなちょろは走っていた。
万引きが見つかったときも。
引ったくりに成功したときも。
窃盗団から掠め取ったときも。
かなちょろはいつも走っていた。
物心ついたときから盗みを生業としてきた。
小さな体は雑踏を駆け抜け、群集に紛れ込み、追っ手を振り切った。
生きるために走っていた。明日も喰っていくためには走らざるを得なかった。
止まったときに待っているのは絶望の二文字だった。今までそうやって生きてきた。
――走り続けて四十年!
運送会社のCMみたいだけど、それがかなちょろ様よ!
かなちょろは林の中を走りながら後ろを振り返った。
「追っ手はヤクザに巫女さんに外国人だって!? 何だあのヘンテコリンな組み合わせは? あの三人、どこでどうやって知り合ったんだ?」
しかし、かなちょろは三人を簡単に振り切る。林の中で足元が悪くても平気だ。
先頭を走っていたジュンが躓いて転んだ。すぐ後ろを走っていたミコもジュンの足に躓いて、膝をついてしまう。
「おい、見習い。こんな所で転ぶなよ」座り込んだミコが文句を言う。
「イテテ。すいません、巫女さん」ジュンの顔が歪む。
「さっきマキロンを渡しただろ。それを塗っておけよ」
「へえ、そうします」ようやくスコットが追い付いた。「スコット、足元に何かあるぞ。気を付けろ」
「ラジャー!」
駆けつけたスコットはスピードを緩めることなく、マレット代わりの樫の棒を振り落とした。
――ビーン。
地面すれすれに張ってあった釣り糸が切れた。
「かなちょろの野郎、いつの間にこんな仕掛けを」ジュンが腰を押さえて立ち上がる。
「見習い、行くよ!」同じく立ち上がったミコが駆け出す。
「ああ、待ってください、巫女さん」
やがて、かなちょろの前方にたくさんの人々が見えてきた。火炉を中心にして、老若男女が入り乱れて踊っている。かなちょろが笑い出す。
「しめた! 今日は火祭りだ。あの中に入り込めば、大丈夫だろ。まず、追いかけてくる得体の知れない三人組を撒いてから、ゆっくり神主さんを探すとするか」
かなちょろは雑踏の中に頭から突っ込んでいった。こんなときは小柄な体型が役に立つ。
群衆からの熱気と火炉からの熱気が小さな身を包む。
「どいた、どいたー! かなちょろ様のお通りだぜーい。神主さんはどこだー。原木を盗って来たぜー。これでシイタケ栽培もできるぜー」
キョロキョロするかなちょろの前に、突然、三四人のガラの悪そうな若い女性が現れて通せんぼをされた。
「おっさん、何持ってんだ?」
「だめだよ、持ったままじゃ」
「そうだよ。願い棒はこうして燃やさないと。――それっ!」
「待てこら! それは願い棒なんかじゃない。何をするか、不良少女!」
無理矢理奪われた原木は火炉の中へ投げ込まれて、たちまち炎に包まれた。
唖然とするかなちょろ。
「あーあ。神主さんに怒られても知らないぞ」
やっとのことで、ミコ、ジュン、スコットがやって来た。
「おい、かなちょろ。俺たちのお宝をどうした!?」
ジュンが、原木を手にしてないかなちょろに詰め寄る。
「あそこだ」かなちょろは、まだ息を切らしているジュンにアゴで火炉を示すと、外国人のように肩をすくめた。「遅かったな、変な三人組さん」
火炉は激しく燃えている。
「まさか、この中かよ……」ジュンが膝から崩れ落ちた。
「オオ、マイガッ!」スコットはもはや助からないお宝を諦め、手に持っていた最後の樫の棒を投げ込んだ。
ミコも開いた口がふさがらない。
三人は燃え盛る火炉を、熱で顔が火照ることも気にせず、いつまでも見つめていた。
周りでは何事もなかったかのように人々が歌唱し、乱舞している。
火の粉は尽きることなく空に舞い上がっていく。しかし、その空にはもはや虚の本堂は見当たらない。いつものように月と星が輝いているだけだった。
かなちょろはどさくさに紛れて雑踏を抜け出して、出口の鳥居へと向う。
鳥居の下に立っていたのは神主だった。
「おお、神主さん、捜したぜ。こんな所にいたのかよ。ちゃんと、お隣さんから原木は盗んできたぜ。でもよ、不良のネエちゃんに取られて、燃やされちゃったんだ。悪いな、シイタケ栽培ができなくてよ」
「ああ、いいですよ。シイタケはスーパーで買うことにしますから」
実はこっそりと一部始終を見ていた若は笑いながら言う。
窃盗団が追い求めていた原木だから、もしや覚醒剤でも仕込まれているのではと、ジッちゃんと笑いながら話していたのだが、灰となってしまっては確かめようもない。しかし、争いの種がなくなってよかったと思う。
「そうかい。せいぜい、安くておいしいシイタケを買ってくれ。じゃあ、約束は守ったから、これでお別れだな」
「はい。いつまでもお元気で」
「ありがとよ。ああ、それとな、神主さんは自分で気づいちゃいないだろうけど、かなちょろ様をまんまと手玉に取ったのだから、アンタはとんでもない悪党だぞ」
「はい。承知しております」
「ああ、そうかい。神主さんとはもう会うこともないだろうけど、達者でな」
かなちょろは商売道具の釣竿を担いで、鳥居の下を走り抜けた。
そして……。
「神主さんよー、相撲も盗みも楽しかったぜ。あばよっ!」
振り返って叫ぶと、闇の中に消えて行った。
数日後、スコットは満願神社で三度目のおみくじを引いた。
「巫女さん、これはどういう意味ですか?」
ミコはスコットが持つおみくじを背伸びして覗き込む。
「末吉。ああ、これは英語でラストラッキーだね」
「ラストって、ボクにはもう幸運が一個しか残ってないのですか? これからイギリスに帰ろうと思っているのですが」
「ほら、前にも言ったじゃない。おみくじをあの木に括りつければ、ベリーラッキーに変わるって」
「ああ、そうでした。やってみます」
スコットは前回と同じく長身を生かして一番高いところにおみくじを結びつけた。
その光景を遠く鳥居の下から若とジッちゃんが笑いながら見ている。
新しい鳥居の側面には寄贈者及び功労者として数人の名前が彫られていた。
森河高彦
長谷幸造
木川勤次
本山良三
多田邦彦
国常高校相撲部
椿原美湖
華来夜秘女
スコット・トレーシー
ブンさん
ハッちゃん
木村庄之助
農協の高橋アナ
かなちょろ
・
・
・
若は鳥居を見上げた。ジッちゃんも同じように見上げる。
青い空に真っ赤な鳥居がよく映えている。
二十年後、ふたたびこの鳥居は新調される。
「今度の祭礼のとき、わしはもう八十三歳ですよ」
「ほう。まだ八十三歳ですか」若が笑う。
「ご迷惑でしょうが、また、ご一緒させていただきます」
「そうですか。ついて来てくださいますか。それはうれしいことですが、私は満願神社の発展のためなら、平気で法を犯す悪い人間ですよ。神をも恐れない犯罪者ですよ。それに、ときどき嘘をつきます」
ジッちゃんは鳥居を見上げながら言った。
「はい、承知しております」A
鳥居はグニャリと曲がることなく、天に向って真っ直ぐに伸びていた。
(了)
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