【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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もうひとりの嘘つき

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 冬の夜は、音まで凍りついたかのように静かで、思っていたよりも時間が経っていたことを知る。吐く息は白く、闇は冷え切った空気と溶け合いながら、寮も心も深く包み込んでいく。

 ヒューゴの部屋がある寮棟を出て、フィリオン様の部屋がある寮棟への道を足早に歩く。もう外階段を使わずによくなったため、3つ目の寮の玄関をくぐり、動く箱に乗る。
 毎日、生徒の出入りが増える時間帯に箱を動かすためだけに常駐している筋骨隆々なおじさんに挨拶をし、10階を目指す。
 カチッという音と共に箱が止まり、足を踏み出そうとしたところで、俺は聞き覚えのある声がふたつ聞こえてきて思わず動きを止めた。

「とっくに帰っているはずなのに部屋の中が冷たい。思い当たる節は?」
「図書室の可能性があります。自分が見て参ります」
「すぐに探し出してくれ。私は…考えたくないが、ヒューゴ・ファレルの部屋へ行く。約束を破っていないと信じているが念のために」
「ロランはあなたに心酔しています。時間を忘れて勉強しているだけかと。すぐに見つかります。ご心配には及びません」
「だといいんだけどね」

 心臓が、耳元で鳴る太鼓のようにバクバクと脈打った。血の音が全身を満たし、思考が追いつかない。目の前で交わされる会話に、足が床へ縫い止められたように動かなくなる。衝撃に、立ちすくむしかなかった。
 フィリオン様とピートは、肩を並べているはずなのに、そこには見えない段差があった。
 言葉を選ぶピートの声、わずかに伏せられた視線。それを当然のように受け取る彼の態度――まるで主と従者だ。
 どういうことだ。喉までせり上がった疑問は、音にならずに胸の奥で砕けた。世界が一歩、遠ざかった気がした。

 不意に、暗闇を切り裂くような光が脳裏を走った。点と点が一息に結ばれ、今まで見えなかった輪郭が、はっきりと浮かび上がる。考えたのではない。突然、閃いた。

 初めてピートに嫉妬することになった話を聞かされたあの日。その日以来、彼からフィリオン様に会ったという話は聞いていない。
 基礎学年を終え、学科に進んだら寮の部屋は学科ごとに分かれるのに、俺とピートが同室のままであった理由。
 俺が連日食堂に行かずご飯を食べていないことを心配して、フィリオン様が初めて部屋にやってきた日。食堂に行かないはずの彼が、俺が食堂に来ていないことを知っていた理由。
 放課後探し続けたのに見つけられず、ピートがいないときにタイミングよく部屋に訪ねてきたあの日。俺が彼を探していると食堂でピートに話をした、直後の出来事だった。

 すべてを理解した。俺を包囲していた嘘は、フィリオン様とヒューゴだけではなかった。ピートも、俺には見せない一面を隠し持っていたのだ。
 胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ち、思考は真っ白になる。あまりのショックに、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
 ――コツ、コツ。
 近付いてくる足音が、凍りついた意識を無理やり現実へと引き戻す。逃げ場のない今が、容赦なくそこにあった。

 俺は一度まぶたを閉じ、深呼吸をする。閉じたまぶたの裏で、俺の変顔を見て笑ったヒューゴの顔が思い浮かんだ。それは俺に平静さを取り戻させ、たった今、この階にたどり着いたと思わせる表情を作らせた。
 わざと、下に箱を下ろしてくれと合図するレバーを引き、カチッという音を出させる。箱が動き出す前に、俺は廊下へと足を踏み出した。

「…あれ?ピート、どうしてここに?」
「ロラン!よかった、帰ってきたのか。こんな遅くまでまた図書室にいたのか?」
「うん、思ったより時間経っててびっくりした。俺を訪ねてきたの?」
「あー、そう、なんだ。お気に入りの肌着が行方不明でな。フィリオン様の部屋に移ったときにロランの荷物に紛れ混んだんじゃないかと思って聞きに来たんだ」
「えー?そんなのなかったと思うけどなぁ。一応探してみるよ」
「頼む。俺の勘違いかもしれないから俺ももう一回、探してみるわ。悪いな」

 "でもよくフィリオン様の部屋の場所が分かったね?"と言いそうになったが、寸でのところで呑み込んだ。もう答えは分かっているのに、それを言葉にするのは嫌味を言うみたいで気が引けたのだ。
 3年半も同室者として共に過ごし、気心知れた仲だと思っていた彼にそんなことはしたくなかった。その彼は、どこ吹く風で平然と嘘を述べているけれど。
 そんなピートの背中越しに、フィリオン様の部屋の扉が小さく閉まるのを目の端に捉える。彼が俺に気付き、部屋の中に入ったのだろう。

「見つかったら部屋に持っていくね」
「ありがと。早く部屋に戻りな。大好きなフィリオン様と一緒の部屋で過ごせるなんて貴重なんだから、時間を無駄にすんなよ」
「もちろん。ピートこそ、俺がいなくて寂しいんじゃない?」
「誰にも気を遣わずにすんでせいせいしてるわ。一生ひとり部屋がいいから、帰ってこなくていいぞ。ずっとフィリオン様のお世話になってろよ」
「そんなの無理だよ」

 からかい交じりのやり取りを交わして、笑顔を貼り付けたまま、彼と別れた。言葉の中身は何ひとつ残らない、空虚な会話。それを無事に終えられたことに、胸の奥で小さく安堵する。
 けれど次に待つ緊張を思うと、身体は正直だった。部屋へ向かう廊下で、足元がわずかに震え、歩幅が思うように定まらない。そう遠くないはずの廊下が、やけに長く感じられた。

 ピートは、フィリオン様と繋がっていた。いつから?どこから?そんな疑問がぐるぐると頭の中を巡る。
 きっと、俺を自然に家令にするため、俺の同室者であるピートから俺の話を聞き出していたんだろう。そしてピートも、逐一俺の様子について報告していたんだろう。
 どこからが嘘で、どこまでが本当なのだろうか。まさかピートが修道士を目指していることまで嘘だとは思えない。
 フィリオン様とピートが出会ったときからだろうか。そんなにも前から、フィリオン様の計画は始まっていたのだろうか。

 なぜピートはフィリオン様の言いなりになっているのだろうか。弱味を握られている?もしくはピートもフィリオン様を崇拝している?いや、ああ見えて神を崇拝している彼がひとりの人間に心を寄せる姿が想像つかない。
 もしかしたら、フィリオン様に協力すれば格式の高い良い協会へ斡旋してくれると言われているのかもしれない。
 案外したたかで出世意欲のあるピートのことだ。フィリオン様に協力すれば将来自分の利益になると考えたのかもしれない。友人である俺に隠し事をする罪悪感より、利益を取っただけの話なのか。

 ヒューゴとの密度の濃い時間によって少し回復していた心が、また水気を含んだ布のように重たく湿っていく。
 部屋の扉の前に辿り着いても、しばらく扉を開けようとする手は伸びず、床に向けて垂れ下がっている。
 しかし冬の夜の廊下は、時間とともに冷えていく。灯りの届かない空気が肌にまとわりつき、外でもないのに吐く息さえ白くなりそうなほどだ。

 俺はもう一度、大きく深呼吸をした。冷えた空気が肺の奥まで入り込み、強張った胸を無理やり広げる。
 ――取り繕え。俺。知らないふりをしろ。
 帰りが遅くなった理由は、ピートに話したのと同じでいい。余計なことは言うな。感情を落とせ。大丈夫だ。俺なら出来る。
 そう言い聞かせながら、震えそうになる手に力を込めてドアノブに触れようとした、とき。扉は、中から開いた。

「ロラン…!遅かったじゃないか。あまりにも帰りが遅いから、いま探しに行こうと思っていたんだよ」
「ただいま戻りました。遅くなり申し訳ありません。図書室で勉強をしていたら思っていたより時間が経っていました」
「……身体が冷えているね。早く中に入ってあたたまろう。ココアを淹れるよ」
「ありがとうございます」

 笑顔を取り繕って答えると、彼は一瞬だけ怪訝そうに目を細めた。そのすぐあと、あたたかな指先がそっと俺の頬をなぞる。その温もりとは裏腹に、俺の冷え切った肌に気付いた彼は、小さく眉をしかめた。

 好きな人に触れられている――本来なら胸が高鳴るはずなのに、心は不自然なほど凪いでいる。感情だけが、どこか遠くへ置き去りにされたようだった。
 彼の指に、さりげなく手を引かれる。そのまま促されるように足を運び、ぱちぱちと暖炉の音が響く部屋の中へと入った。
 温もりが満ちる空間で、俺だけがまだ、冬の夜に取り残されているようだった。


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