【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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おかえり、待っていたよ

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 学園に戻った日の空は、不思議なほど澄み切っていた。
 最近まで世界を覆っていた白の重みが嘘のように消え、空気はきんと張り詰め、吸い込むたび肺の奥が冷える。低い冬の陽はまだ力弱く、淡い光を空一面に薄く引き延ばしている。
 雲は少なく、あっても雪を降らせた名残のように、ほろほろと千切れた白が高く流れていくだけだった。

 年末年始休暇が終わるこの日、俺とヒューゴは学園へと戻ってきた。
 学園がまだ完全に日常の顔を取り戻す直前、正門前や寮の周囲には、帰省していた生徒たちが次々と姿を現し、それを迎える友人たちの声が重なって、久々の賑やかさが広がっている。

 荷物を抱えて笑い合う者、再会を喜んで肩を叩き合う者。あちこちに弾んだ声が飛び交い、冬の冷たい空気の中に、人の熱だけが確かに満ちていた。
 静まり返っていた学園が、少しずつ息を吹き返していく。その過程に立ち会っているようで、俺は無意識のうちに周囲を見渡した。
 この喧騒が、やがていつもの日常へと溶けていくのだろう。そう思いながら、俺はヒューゴと並んで、再び動き出した学園の中へ足を踏み入れた。

「いいか、アイツがあんたの前に姿を現して何かされそうな気配を察知したらすぐに逃げろ。遠慮なんてすんな。股間蹴り飛ばしてでも逃げろよ」
「それはさすがに無理だよ……フィリオン様には多大な失礼を働いて逃げてきちゃったんだから、きちんと話し合わないと。彼の家令になるという約束はまだ有効だろうし」
「あ?……まだアイツの家令を続けるつもりじゃねぇだろーな?」
「もう、その話は平行線になるからしないって言ったでしょ」
「チッ…仕方ねーな」

 ヒューゴとは、学園へ向かう道すがら、何度も同じ話題で押し問答を繰り返した。フィリオン様の家令になるか、ならないか。

『いつまた性欲処理に使われるか分からない奴の家令なんて、絶対に断れ』

 苛立ちを隠そうともしないヒューゴの言葉は、何度も俺に突き刺さる。それでも俺は首を振った。

『もうしないでとお願いはした。今後はそんなふうには使われないと思う。それに、兄たちも喜んでる将来の勤め先を、そんな理由で失うわけにはいかないだろ』

 感情をぶつける彼と、理屈で抗おうとする俺。
 互いに譲る気はなく、話は何度繰り返しても同じ場所を行き来するだけだった。怒りと心配、意地と現実が絡まり合い、結論には辿り着かない。
 そうしているうちに、遠くに学園の姿が見えてきて結局、正門をくぐるその瞬間まで、答えは出なかった。残ったのは、未消化の言葉と、胸の奥に沈んだままの不安だけだった。

 ヒューゴは、あれからたまに俺の唇を何の予告もなく塞ぐことがあった。その意味も理由も、彼は言わないし、俺も聞かない。彼自身が自分の行動の理由に説明がつけられないと分かっているから。
 ただ俺にキスをしたいからしているだけ、きっと彼の中では本当にこれだけで行動する理由になるのだ。欲望に忠実で、その欲望がどこから来るのかは追求しない。
 義姉を自死へ追い込んだ恋心が自分の中にもあるだなんて、彼は認めたくないのだろう。けれど俺にキスはしたい。だから名前も理由も意味もつけず、思うがままに行動するのだ。

 今はそれでいいと覚悟したはずだが、やはり不意に触れられることに慣れていない俺は、そのたびに胸が苦しくなるほどの動悸に襲われ、俺の中の感情を持て余している。
 しかし俺たちの関係性に名前をつけるのは、今ではないと分かっている。フィリオン様のことが、あるから。

 男爵家に身を寄せているあいだ、不気味なほど、フィリオン様からの接触はなかった。兄たちとも何度か文を交わしたが、実家に彼が姿を現した様子もないという。
 あれほど執拗だった影が、まるで最初から存在しなかったかのように、すっと引いている。その沈黙が、かえって胸をざわつかせた。

 男爵家の土地を踏めないから大人しくしているだけなのか。それとも、俺を追いかけるほどの興味を失ったのか。
 あるいは――前回のように、エヴァドネ様に頼まれていないから、追ってこなかっただけなのか。

 考えれば考えるほど、どれも否定しきれず、どれも不安を孕んでいる。理由が何であれ、この静けさが永遠に続くはずがないことだけは、嫌というほど分かっていた。
 次に彼と顔を合わせるとき。
 その瞬間を思い浮かべただけで、胸の奥がひやりと冷える。気まずさと、それ以上に拭えない恐怖が、影のように心にまとわりついて離れなかった。

***

 ヒューゴと別れて、俺は自分の部屋に向かう。もちろん、ピートとの同室部屋だ。
 彼は毎年、ギリギリになって帰ってくるがもう帰っているだろうか。それともまだだろうか。
 そんな思いを抱えて開けた部屋は、伽藍堂でひどく冷たい空気に出迎えられた。まだだったか、と思いながら荷物を置くと、俺はすぐにまた部屋の外に出る。ずっと会いたくて会えなかった、フクロウのチロに会いに行くためだ。

 フィリオン様に実家から連れ戻され、ヒューゴと学園から逃げ出すまでのあいだに一度、チロの世話をしたがそれっきり1週間以上も会えていないのだ。
 実家に帰っていたあいだも世話を別の人に任せっきりにしてしまったし、チロの姿を見れる機会が最近は減っていた。
 フクロウは冬の寒さに強い生き物だが、それでも体調を崩したりしていないか心配だし、冬だからこそ羽を少し逆立てて、もふっと膨らむ姿を眺める時間は至高の幸福感を味わえる。

 学園に戻ってきたその足で、石壁の外に建つ小屋に向かう。つい最近まで続いていた大雪の影響を受けていないだろうかと、歩きながら胸の奥が落ち着かなかった。
 だが近づいてみると、雪はきれいに除かれている。きっと学園に残った世話係の生徒たちが、毎日交代で雪掻きをしていたのだろう。その痕跡を目にして、ようやく息をついた。

 小屋の扉を静かに開け、中をそっと覗き込む。
 そこには、羽にくちばしを埋めるようにして眠るチロの姿があった。
 身を丸くしたその佇まいは、久方ぶりに見るせいか、胸の奥をじんわりと温める。言葉にするのが惜しいほどの、静かで確かな癒しが、俺の内側に広がっていった。
 やがて目を覚まし、活動を始める時間が来る。その前にすべてを終わらせなければ。俺は音を立てぬよう動きながら、小屋の掃除に取りかかった。

 掃除は思ったほど時間を取らずに終わった。俺はいつものように、そのまましばらくチロを眺めて過ごす。羽毛に身を埋め、静かに眠る姿を見ているだけで、胸の奥が自然と緩んでいくのが分かった。
 ここ最近、あまりにも怒涛のように非現実的な出来事が重なり、気を張り詰めたままの日々を送っていた。
 その反動だろうか。このひとときが、俺にとって失いかけていた日常と安心を、そっと取り戻してくれる。

 十分に癒しを味わったあと、俺は音を立てないよう気をつけながら小屋を出た。
 そして石壁の内側に広がる学園へ戻ろうと、鉄柵を通った、そのときだった。

 そこに――フィリオン様が立っていた。

 立ち位置も、佇まいも、まるでかつてのあの日と同じ。だが、決定的に違うものがひとつだけあった。
 彼の唇に浮かんでいるのは、感情の温度を感じさせない、仮面のような笑顔だった。

「やぁ、ロラン。おかえり、待っていたよ」

 その声は、一見すると穏やかで、柔らかさすら帯びていた。けれど耳に届いた瞬間、背筋をなぞるような冷たさが、はっきりと伝わってくる。底が見えない。そう直感させる声音だった。

 つい先ほどまで胸を満たしていた癒しが、砂が零れ落ちるように、全身から抜けていくのが分かる。代わりに、じわじわと広がっていくのは、抗いようのない恐怖だった。
 視線を向けることすら躊躇われるのに、逃げ場はない。彼の存在そのものが、空気を支配し、俺の呼吸を縛りつけてくる。

 ――ああ、やはり。
 この静けさは、終わりではなかったのだと、俺は遅すぎる理解とともに、身を固くした。

「男爵家に連れて行かれるなんて…可哀想に。ヒューゴにどんな不当な扱いを受けたのかな。私は君が心配で心配で……ずっと、眠れなかったんだよ」

 そう言って微笑む彼の目の下には、確かに薄く影が落ちていた。言われてみれば、疲労の名残のような隈が、消えきらずに滲んでいる。
 心なしか、彼の容貌の要だったはずの涙黒子までもが、いつもより濃く、重たく見えた。

 穏やかな笑み。少なくとも、形だけを見ればそうだった。だが、その笑顔は温度を欠いている。
 慈しみの仮面を被りながら、実のところ、それは俺を咎め、縛りつけるためのものだと、本能が告げていた。

 ――君のせいで眠れなかった。
 ――君がいなくて苦しんだ。

 言葉にされていないその責めが、笑みの裏から滲み出し、静かに俺の胸を締めつける。
 逃げ場のない視線に捉えられたまま、俺はただ立ち尽くし、喉の奥で固まった息を、どうにか飲み込むことしかできなかった。

「さぁ、帰ろう。私たちの部屋へ」

 さも当然のことのように、彼は俺へ手を伸ばしてきた。その動きには一片の疑いもなく、俺がその手を拒むはずがないと、疑いようもなく信じ切っている強さがあった。

 差し出された手を前に、俺は視線を左右に泳がせ、気づけば半歩、後ろへ退いていた。無意識の動きだった。
 彼の家令になるはずの身で、なんということか――そう頭では理解しているのに、体は正直すぎるほど明確に、拒絶を示していた。

 その手を取ってはいけない。取った瞬間、何が起きるか分からない。
 胸の奥で、警鐘がけたたましく鳴り響く。理屈では抑えきれない恐怖が、神経を張り詰めさせ、足を地面に縫い留める。
 伸ばされた手と、わずかに開いた距離。その隙間に、俺は越えてはならない境界線を、はっきりと見てしまっていた。

 距離を取った俺を、手を取ろうとしない俺を、彼はミルクチョコレート色のどろりとした瞳で不思議そうに見つめていた。
 その眼差しには、拒絶された怒りも、苛立ちもない。ただ、理解できないものを前にしたような、無邪気で無垢な色がある。
 まるで「なぜ?」と、純粋な疑問をそのまま投げかけてくるかのようで――その温度差が、かえって恐ろしかった。

 俺は声を失っていた。
 何か言わなければならない。そう頭では分かっているのに、声は喉の奥に張り付いたまま、びくともしない。息だけが浅く行き来し、言葉にならない。
 結局、俺にできたのは、彼を見上げながら、首を小さく横に振ることだけだった。それが拒絶だと、はっきり伝わってしまうことを、祈るような気持ちで。

 そんな気持ちが伝わったのだろうか。彼はやがて、フッと諦念にも似た息を吐き、薄く笑った。
 その表情には、先ほどまでの不可解な無垢さも、湿った執着も影を潜めている。ただ、あまりにも整いすぎた、作り物めいたほどに綺麗な笑顔だった。

「今はヒューゴの色が多くても、いずれ君は私の色に染まる。私の元に帰ってくるよ」

 そう告げる声は穏やかで、断定的で、疑う余地を許さない。意味深な言葉だけを残し、彼はそのまま踵を返した。背中が遠ざかっていくのを、俺は追うこともできず、ただ立ち尽くして見送るしかなかった。

 彼の言葉は、残響のように耳の奥にこびりつき、いつまでも消えない。
 これから彼が何をしようとしているのか。その揺るぎない自信は、どこから来るのか。何ひとつ分からなかった。
 分からない。分からないからこそ、恐怖だけが、じわじわと膨らみ続けていった。


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