【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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今さら愛を誓われても

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 復讐心から俺に近づいたのは、ヒューゴだった。義姉を奪った異母兄を憎み、同じ痛みを味合わせようとした。
 奇しくも――意味は違えど、彼は復讐を果たしてしまったのかもしれない。この結末に、彼は満足するのだろうか。
 ……いや。俺の知るヒューゴは、もうそんなことで笑う男じゃない。

「あいつが遊び人だということを忘れかけている君に思い出させるため、何人か女をけしかけた。その現場を、ロランも見ただろう?」

 目を、見開く。

「軽蔑するに値する男だと分かっただろう?……声を失うほどショックを受けるとは思わなかったけれど」

 あの光景。
 寄り添う影。甘ったるい匂い。胸を抉るような感覚。
 ――あれも、彼が描いた絵だったのか。

 衝撃で、思考が止まる。

「このまま君が何も気付かなければ、全部私の計画通りだったのになぁ…」

 くすり、と喉の奥で笑う。

「みっつ目の誤算は、ピートが小屋に痕跡を残したこと。よっつ目の誤算は、君が思った以上に行動的だったこと。そして最後の誤算は……」

 瞳が、絡め取るように俺を捕まえる。

「――君が、私を信じてくれなかったこと」

 彼の言葉は、ぽつんと氷の欠片を落としたように、俺の心を冷たくした。
 彼は俺を、ただ是と頷く人形にしたかったのだろうか。彼の言葉だけを真実とし、彼の望む方向に歩く、従順な影に。

「ねぇ、ロラン」

 指先が、するりと首元へ滑る。

「私をこんな風にしたのは君なのに、私を責めるつもりかい?」

 喉が、ひくりと震える。

「君が私の言うことを聞いて、ヒューゴと関わらなければ、チロが死ぬことも、ピートが手を汚すこともなかった。……君が、私をおかしくさせたんだよ」

 指が、首にかかる。じわり、と圧が強まる。空気が、薄くなる。
 視界がぐらりと傾き、背中に冷たい衝撃。石床の感触が、骨を通して伝わる。
 見上げた先に、教会の天井。その手前に、彼の顔。俺は押し倒され、首を絞められている。

「全部、私とロランの未来のために必要だったんだ」

 力が、さらに増す。

「私と君が、心置きなく平和に、いつまでも共に過ごせるように。ずっとずっと、私のそばには君がいる。その未来を、君も待ち望んでいたじゃないか」

 優しい彼に、恋をした。誰にでも優しいその笑顔に、胸を焦がした。
 恋人になりたいと思ったことは、一度もない。ただ、彼の家令として隣に立ち、支え、誇りを持って仕えたかった。それだけだった。

 けれど恋は、想像よりもずっと苦しく、醜いものだった。夢と両立などできないと知った。
 何度も何度も、彼への恋心を捨てようとした。それさえ捨てれば、明るい未来が待っていると信じて。

「ねぇ、私が憎い?」

 指が食い込む。

「私が怖い?君の大切なものを奪った、私が」

 視界の端が白く霞む。

「君が私を憎む眼を向けてくるくらいなら……いっそ、その眼を奪ってしまおうか」

 酸素が肺にまで回らない。

「君が私のものにならず、ヒューゴのものになるくらいなら……いっそ、いっそのこと……」

 ぼた。こめかみから耳へ、俺の涙が流れる。
 ぼた。頬に落ちた、別の雫。温かい。

 フィリオン様の、涙だった。

 歪んだ顔。怒りでも嘲りでもなく、壊れかけた子どものような表情。息ができない。
 それでも――胸の奥で、はっきりとした感情が灯る。これは、鎖だ。

 そして俺は、その鎖を、愛とは呼ばない。

「ふぃ……り、ぉ……ん、さま……」

 喉が潰れたみたいに、音が歪む。首に食い込む指に、震える手をかける。爪が、彼の皮膚を引っかく。
 息が、続かない。視界が、白く明滅する。それでも。

「ぉ、れ…はじ、め…て、あなた、に……会った、とき…から……」

 言葉がちぎれる。肺が悲鳴を上げる。
 遠のく意識を、必死に掴む。ここで離せば、きっと全部終わる。

「あなた、を…――愛、して…ました……」

 かすれきった声。音にもならない告白。
 一生、言わないつもりでいた言葉。一生、明かさないつもりでいた初恋。
 彼の目が、見開かれる。首を締めていた手から、力が抜ける。一気に、空気が流れ込む。

「っ、は……っ、はぁ……!ごほっ…」

 咳が爆ぜる。喉が焼ける。胸が裂ける。石床に爪を立てながら、必死に息を吸う。
 目からは生理的なものなのか、感情的なものなのか分からない涙が、どばどばと流れていく。

 視界が滲む。ぼやけた輪郭の向こうで、彼が見下ろしている。魂が抜けたような顔。
 俺を見ているはずなのに、焦点が合っていない。まるで今、初めて俺の存在を知ったかのように。

 俺は、荒い呼吸のまま、彼を見上げる。
 ずっと言えなかった言葉。言えばすべてが壊れると分かっていたから、飲み込んできた想い。もう、思い出にした初恋。

 恋人になりたいわけじゃなかった。ただ、あなたを尊敬して、あなたの役に立ちたくて、その背中を、誇りに思っていた。

 それが、俺の初恋だった。

 言葉を途切れさせながら、合間に咳き込みながら、必死に伝える。今にも沈みそうな意識を、細い糸で必死に繋ぎ止める。

「…っ…でも」

 声はまだ震える。喉は裂けそうに痛い。
 鎖のような愛。奪うことで守ろうとする未来。そんなものは、望んでいない。

 涙で滲む視界の向こう。彼は、呆然としたまま、壊れた人形のように、ただ俺を見下ろしていた。

「あなたへの恋は……思い出に、しました」

 まだ焼けるように痛む喉で、それでもはっきりと告げる。

「今の俺は……ヒューゴを、愛しています」

 恋に嫌悪感を抱く男たち。
 ひとりは、向けられた感情そのものへの拒絶。ひとりは、理性を奪い、命さえ投げ出させる狂気への恐怖。

 けれど、ヒューゴの義姉は、恋に狂って死んだわけじゃない。もしそれを彼に伝えられたなら。恋は破滅だけではないと、伝えられたなら。

 ヒューゴも、いつか、恋と向き合えるだろうか。

「あなたの……俺への感情が、っ…どんなものなのか…こほっ……正直、よく分かりません…」

 ゆっくりと息を整える。

「でも……最初はきっと、本当に純粋なものだったと、信じています。だって…俺が好きになったあなたは、とても……優しい人だったから」

 あの優しさは、確かに本物だった。たとえ裏に打算や思惑が混じっていたとしても。それでも俺は、あたたかいと感じた。そのあたたかい優しさに、俺は救われた。それは、事実だ。

「俺は……あなたの幸せを、心から願ってました。あなたの婚約を、心から祝福しました。あなたへの恋心を、思い出にすることと……引き換えに」

 少しずつ、呼吸が整う。滲んでいた視界が、はっきりと彼を捉える。伝われ。どうか。

「あなたは……きっと、恋も愛も、知らない」

 けれど、と続ける。

「優しさは、持っている。だから多くの人を惹きつけた。ピートが、最後まであなたは何も知らないと庇ったのも……きっと、あなたを好きだったからです」

 フィリオン様は、恋や愛を憎みながら、その輪郭を知ろうともしなかった。孤独だったのだ。ずっと。

「それがあなたには、理解できないとしても…否定しないでください」

 喉の奥がまた痛む。

「あなたも……俺のために、ここまでしてしまえるほどの激情を、持っているんですから」

 富も、名声も、地位も、すべてを持つ男。けれど自分の手では抱えきれない感情を向けられたとき、彼は悟ったのだろう。持てないものは、捨てればいいと。
 そのとき一緒に――心の一部も、切り捨ててしまったのかもしれない。

「もしかしたら、あなたも……ただ、普通に恋をしたかったのかもしれないですね…」

 誰かを愛し、誰かに愛される。
 そんな、当たり前の幸福。

「あなたにも、その権利があるんです」

 孤独の中で、無駄だと思った感情を削ぎ落とした男。けれど捨てたのは、上澄みだけだった。奥底に沈んだ暗い感情は、そのまま残った。
 嫉妬。恐怖。独占欲。
 それが、俺とヒューゴによって、揺さぶられ、浮かび上がってしまった。

 俺は、ゆっくりと息を吸う。

「でも……それは、奪うことで手に入るものじゃない」

 ミルクチョコレート色の瞳を、まっすぐに見つめる。

「愛は、鎖じゃない」

 静かな声で、けれど確かに。

「俺は、あなたを憎みたくない」

 だから、と心の奥で続ける。
 どうか――正気に戻ってほしい。

「………はは」

 乾いた音だった。喉の奥でひび割れたそれは、笑いというより、壊れた楽器が無理に鳴らされたときの雑音に近い。

「そっか……そうか……そうだったんだね…」

 彼は俺を見ているようで、どこか遠く、己の内側を覗き込むような目をしていた。小刻みに頷くたび、まつ毛に溜まった雫がこぼれ落ち、俺の頬にひやりと触れる。

「私はロランを……愛していたのか」

 その言葉に、胸が強く打たれた。
 彼が、俺への執着に、名を与えようとしている。彼が、あの歪んだ激情を、"愛"と呼ぼうとしている。

 かつての俺なら、彼の隣にいるだけで息が詰まりそうになるほど恋焦がれていた頃の俺ならきっと、泣いて喜んだ。何度もその名を呼び返し、彼の胸に縋りついただろう。
 けれど今、胸に広がるのは甘美ではなく、鈍い痛みだった。その言葉を聞きたかったのは、あの頃の俺だ。今の俺ではない。

「あぁ、あぁ、私は……なんて愚かなんだろう」

 彼は額に手を当て、震える声で笑う。

「私があんな低俗で汚いものを持つはずがないと、信じきってしまっていた。そのせいで……君への感情に、気付けなかった。君とずっと一緒にいたいなら、君に愛していると言えば良かっただけなのに」

 その声音は、難問を解いた子供のように弾んでいた。長い迷路の出口を見つけたと、無邪気に喜ぶ声。

「私が愛していると言わなかったから……ロランは、ヒューゴを身代わりにしようとしたんでしょう? 私のせいで辛い思いをさせてしまったね……本当にすまない。でももう、ヒューゴを好きだなんて思い込む必要などないよ」

 彼の瞳が、熱を帯びて俺を射抜く。

「私はロランを愛している。これ以上にないほど、深く。あぁ、すごくしっくりくる。私の本来の感情を取り戻したみたいだ。だから……君も、もう隠さなくていい。思い出にしたつもりでいる私への愛を、隠さなくていい」

 血の気が、すっと引いた。違う。そうじゃない。それは救いではない。それは赦しでも、理解でもない。
 彼は、自分の答えに酔っている。俺の言葉を、俺の決意を、すべて"自分の物語"の中に組み込んでしまっている。
 喉がひりつく。さきほど絞められた跡が、まだ熱を持っている。否定しなければ。今、ここで。

 けれど――もし否定すれば。
 もし「違う」と突きつければ。

 彼の瞳に宿るその脆い光が、ぱきりと音を立てて砕けるのが、容易に想像できた。そして砕けたあとに残るのは、何だ。
 理性を失った激情か。それとも、空洞のような絶望か。どちらに転んでも、きっと俺は、無事ではいられない。

「……っ」

 声が出ない。否定の言葉は、喉元まで込み上げているのに。唇は震えるだけで、音にならない。
 目の前で、彼は微笑んでいる。希望に満ちた、救われた人間の顔で。けれどその微笑みの奥にあるのは、まだ名付けられたばかりの、未熟で、危うい"愛"。
 それは祝福ではなく、爆ぜる寸前の火薬のように、静かに、熱を孕んでいた。

 俺は、恐怖に震える心で彼を見上げる。違う、と叫びたい。壊したくない、とも思ってしまう。
 その矛盾に喉を締め付けられながら、俺は、息を吸うことしかできなかった。

「私のかわいいロラン……あぁ、認めてしまえばこんなに楽だったなんて…早く君と、愛し合いたい」

 撫でられる頭皮が、じわりと熱を持つ。けれどそこに宿るのは安堵ではない。逃げ場を失った獣が、檻の中で背を撫でられているような、奇妙な錯覚だった。

 もう涙は落ちてこない。
 代わりに落ちてくるのは、彼の影。

 高い天井から差すはずの光を遮るように、美しい顔がゆっくりと近づいてくる。整った鼻梁、薄く形の良い唇、陶器のような肌。誰もが羨むその姿が、今はただ、息苦しい。ただ、怖い。

「愛しているよ、ロラン……ちょうどここは、教会だ。愛を誓うにはふさわしい場所。ここで、誓いのキスをしよう」

 光を映さない瞳が、すぐそこにある。首は絞められていない。腕も押さえつけられていない。なのに、体が動かない。声も出ない。
 まるで自分の魂だけが、少し高いところへ浮かび上がり、遠くからこの光景を見下ろしているようだった。祭壇の前で、祝福を待つかのように佇む男と、その腕の中で凍りつく自分。

「私のロラン。ずっとそばにいて。愛している」

 ああ。
 その言葉を、どれだけ欲しただろう。

 胸が張り裂けるほどに焦がれ、夜ごと枕に顔を埋めては想像した。もし彼が一度でも、そう言ってくれたなら、と。
 あの頃の俺なら、きっと目を閉じていた。心臓を破裂させそうなほど暴れさせながら、震える指で彼の服を掴んでいただろう。
 けれど今、その甘美なはずの言葉は、氷のように胸を冷やすだけだった。

 動け。動け、俺。
 そう念じるのに、恐怖で体は硬直したまま。唇は、ただ震えるだけ。心と体がちぐはぐに引き裂かれ、やがて諦めが、じわじわと思考を侵食していく。
 彼の唇が、俺の唇に触れようとした、刹那。

 ―――バンッ!!!

 轟音が、静寂を引き裂いた。
 正面扉が、内側へ弾け飛ぶように開く。凍りついた空気を切り裂き、鋭い風が吹き込んだ。冷気が、俺たちの間を一直線に駆け抜ける。

 はっと、意識が引き戻される。
 光だ。逆光の中に立つ影。

 荒く肩で息をし、怒りをその身に燃やす男。

「……ッ…ソイツに、触んじゃねぇ!!!」

 怒号と同時に、影が光の速さで駆ける。
 次の瞬間。

 衝撃。

 フィリオン様の体が、横から叩きつけられる。頑丈に見えるはずのその体が、信じられない勢いで吹き飛んだ。

 ヒューゴだった。

 迷いのない飛び蹴りが、フィリオン様の脇腹を正確に捉えた。床に叩きつけられる鈍い音。祭壇が倒れ、教会に不協和音が響く。

 俺の視界に、初めて、確かな光が差し込んだ。
 息を荒げたヒューゴが、俺の前に立つ。背中越しに伝わる熱。怒りと恐怖と焦燥が混ざった、荒い呼吸。

 その背は、怒りからなのか、震えていた。俺を庇うように立ちはだかる、大きな背中。
 床に倒れたフィリオン様が、ゆらりと顔を上げる。乱れた髪の隙間から覗く瞳は、先ほどまでの甘さを失い、静かに、暗く、燃えていた。
 濁った沼の底で、何かがゆっくりと腐っているような瞳だった。
 壊れかけた均衡が、音を立てて崩れ始める。教会の中に満ちるのは、祈りでも、神聖な空気でもなく。

 ―――嵐の、前触れだった。


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