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哀れなフィリオンの告白
しおりを挟むしばらく、それぞれの視線だけが行き場を探す、綱渡りのような沈黙が続いた。
フィリオン様は、光を吸い込んで沈殿させた、底の見えない泥水のような目で俺を見つめる。甘く煮詰めすぎた蜜のように、重たく絡みつく瞳を真っ直ぐに受け止めた。
沈黙という均衡を破ったのは、フィリオン様だった。
「……初めてほしいと思ったものなのに……私の唯一すら、ヒューゴに奪われるのか…」
その声には、先ほどまでの粘ついた狂気ではなく、深い、深い悲しみが滲んでいた。ただ、大切なものを失った子どものような響き。
「初めて君を見たときから、純粋で真っ直ぐな瞳に心を掴まれたときから……ロランをそばに置きたいと思っていた」
フィリオン様の視線が、まっすぐ俺を射抜く。濁っていたはずの瞳が、その瞬間だけ、澄んで見えた。
「会うたびに、なんの汚れもない瞳で私を見つめる君が…私の地位や権力ではない、別のものを見ているように感じた君が…どこか一歩引いて、私を見守るような君が…新鮮で、あたたかくて……心惹かれたんだ」
胸が、きゅっと締め付けられる。どうして俺を家令に選んだのか、ずっと分からなかった。
エヴァドネ様のためだと思い込み、お飾りの家令であることに苦しんでいた時期。
けれど、彼女の口から本当の経緯を知らされたあとも、答えは見えなかった。
なぜ、俺だったのか。
今、その理由が、静かに明かされる。
「私の顔を見て黄色い悲鳴をあげることもない。私のしたことに過剰に反応することもない。勝手な理想を押し付けることも、重く自己中心的な感情をぶつけてくることもない」
淡々と、しかし僅かに震えを含んだ声。
「君の顔を見るだけで、声を聞くだけで、言葉を交わすだけで……幸せな気持ちになれたんだ」
その告白は、驚くほど透明だった。さきほどのどろりとした濁りが嘘のように。
胸に、大きな空気の塊が押し込まれたような感覚。息がうまく吸えない。
彼の言葉は、言い訳でも誤魔化しでもない。自分の欲を正当化するための装飾でもない。ただ、素直な気持ち。
孤独な男が、初めて見つけた"安らぎ"を、必死に守ろうとしただけなのだと、分かってしまう。
ヒューゴの腕が、わずかに強くなる。その温もりを感じながらも、俺の視線はフィリオン様から逸らせなかった。
フィリオン様は、確かに俺を求めていた。地位でも権力でもなく。ただ、"俺"という存在を。
その事実が、嬉しくないわけがない。嬉しくないはずが、ないのに。
「……っ」
喉が詰まる。
もし、あの頃に。
もし、あの頃にこの言葉を聞けていたら。
きっと俺は、迷わず彼の手を取っていただろう。
けれど――時間は、戻らない。
彼の告白は透明なのに、俺たちの間に流れた日々は、もう決して透明ではない。
静まり返った教会で、彼の悲しみと、俺の痛みと、ヒューゴの体温が、複雑に絡み合っている。
「ただロランを、誰にも取られたくなかった。ただ、それだけだったんだ。君を傷付けるつもりも、君を怖がらせるつもりもなかった。……本当だ」
震える声。
さきほどまでの傲慢さも、甘ったるい支配欲も消え失せ、そこに立っているのは――途方に暮れた、ひとりの男だった。
「私は君の心を掌握するために、多くの嘘をついてきた。男爵令嬢に髪で編んだ腕輪や、爪入りのクッキーを貰ったのは事実だ。だが、それには続きがあった」
明かされる嘘。ゆっくりと、彼は続ける。
「南部のある地域では、思い人の健康と幸福を祈って、それらを贈る風習があると手紙に書かれていた。決して食べたり身につけたりせず、保管しておいてほしいと……丁寧な文も添えられていたんだ」
やはり、そうだったのか。胸の奥で、納得が静かに落ちる。彼女は、ただ純粋に恋をしていたのだ。
「鳥の死骸やくり貫かれた目玉、受け入れなければヒューゴを殺すと書かれた脅しの手紙が届いたのも事実だ。だが、それはまったくの別人の仕業だったことも、彼女の死後に分かっていた」
フィリオン様に同時期に恋をしていたのは、彼女だけではなかった。その誰かは、恋に狂っていたのかもしれない。しかし彼女は恋に狂ったのではなく、ただ純粋に、フィリオン様を思っていたのだ。
「しかし当時の私は……最後に別れを言いに来た彼女に、否定や弁明の余地すら与えなかった。"気持ち悪い。二度と顔を見せるな"と、言ってしまった」
その言葉は、刃物のように冷たく響く。
「そのせいで……彼女は自殺したのだと思った」
拳が、ぎり、と音を立てる。ヒューゴのものだった。
「彼女の死後に、脅しは彼女ではなかったと公表しても、私が責められるだけだと分かっていた。だから……黙った。私が黙ることで、誤解を真実にしたんだ」
まるで、ひっくり返されたオセロ盤だ。白と黒が反転したのではない。最初から、彼の指で、そっと石がすり替えられていた。
真実は変わっていない。ただ、意図的に、ねじ曲げられていただけだった。
「ロランに、ヒューゴの言葉ではなく、私の言葉を信じてほしかった。たとえそれが真実ではなかったとしても……君がヒューゴを信じることが、許せなかった」
その独白は、痛々しいほど素直だった。
「だから……どんな嘘も、平気でついた。君から同情や哀れみまで引き出せて、優越感に浸っていた」
どこまでも、彼は孤独だったのだと、今なら分かる。地位も、名声も、羨望も持ちながら。誰かの純粋な眼差しを、信じきることができなかった男。
愛されることを望みながら、愛されるに値しないと思い込み、だからこそ、先に壊してしまった。
ヒューゴの腕の中で、俺は静かに目を閉じた。怒りも、憎しみも、確かにある。けれどそれ以上に、胸を締め付けるのは――哀しみだった。
もし、彼がもう少しだけ、自分を信じられていたなら。もし、ほんの少しだけ、他人を信じられていたなら。
俺に嘘を重ねることも、ピートを利用して尊い命を奪うことも、ヒューゴを陥れるようなことも、なかったのかもしれない。
「私は最初から……ロランに、恋をしていたんだね。そんなことにもずっと気付かないなんて……我ながら、愚かすぎて笑えるよ」
乾いた笑いが、静まり返った教会にほどけて落ちた。力のない声だった。ひどく弱々しく、今にも途切れてしまいそうな。
それなのに、高窓から差し込む光に照らされた彼は、息を呑むほど美しかった。
白い光が輪郭を縁取り、伏せられた睫毛に影を落とす。祈りの像のように静かで、触れれば壊れてしまいそうで――目を逸らすことができなかった。
「今からでは、遅いのかな……?もうロランは、私を好きになることはない?」
その問いは、震えていた。強がりも、誇りも、何もかも脱ぎ捨てた声。
やがて、ゆっくりと瞳が持ち上がる。弱々しいはずなのに、逃げ場を与えない眼差し。まっすぐに、俺を射抜く。
「だって――」
一拍の静寂。
「ロランはヒューゴを好きでも、ヒューゴは恋をしないはずでしょう?恋をしない人生を謳歌するんだと言っていたんでしょう?」
はっと、息が止まった。どうしてそれを知っている。誰から聞いた。
思考が一瞬だけざわめく。だがすぐに、そんな疑問は意味を失った。
彼なら、何を知っていてもおかしくない。そう思えてしまう自分がいる。
問題はそこではなかった。その言葉だった。
恋愛が組み込まれていない人生を送る。確かに、ヒューゴそう言った。あれは決意だった。誓いだった。自分を守るための、鎧のような言葉。
なのに今、その鎧が内側から軋む音がする。胸の奥を、何か鋭いものが真っ直ぐに貫いた。
鼓動が不規則に跳ねる。
光に包まれた彼は、祈るような顔でこちらを見ている。救いを乞う者のようでいて、同時に裁きを待つ罪人のようでもあった。
「恋をしない人間を好きで居続けるなんて、苦しいだけだろう?」
低く、掠れた声が胸の奥を震わせる。
「だったら……私にまた、恋をしてほしい。今度こそ、ロランに選んでもらえるよう、ふさわしい人間になるから。今度こそ、君を傷付けず、幸せにすると誓うから」
切実な声音だった。祈りのようで、懺悔のようで、すがるようで。
それが本心だと分かるからこそ、耳に痛い。悲壮感をまとった、まっすぐすぎる純粋さ。
「だから、また私を……愛してほしい」
それでも――それでも、俺は。
隣で、静かに息を吸う音がした。ヒューゴだ。言葉を選ぶように、ゆっくりと。その気配に、胸がきつく締めつけられる。
ヒューゴが何かを口にする前に、俺はほとんど遮るようにして言葉を放った。
「"好き"の形が、俺と違ってもいいんです」
声が震えないよう、必死に押さえ込む。
「たとえ、友情の"好き"でも……ヒューゴのそばにいられるなら、それでいいんです。あなたに3年も片思いしてたんですから……きっと6年は余裕です」
自嘲気味に笑う。軽口のつもりだった。けれど、胸の奥は焼けるように熱い。
「ヒューゴが、他の女に触れても?他の女を抱いていても、同じことが言えるのかい?」
静かで残酷な問い。言葉が、喉に詰まった。脳裏に浮かぶのは、あの二度の光景。
たとえフィリオン様に女を仕向けられ、はめられていたのだとしても――それでも、触れてはいるのだろう。
その事実を想像するだけで、胃の奥がきりきりと痛む。けれど。
それでも、この思いは少しも揺らがなかった。呆れるほどに、愚かなほどに。なら、もう降参するしかない。
「その痛みも含めて……ヒューゴのそばにいたいと思っているので」
ゆっくりと、噛みしめるように。
「もちろん、とっても苦しいし辛いけど……彼には、自由でいてほしいから。衝動と感情で動く自由な彼を、好きになったから」
言い切った瞬間、胸の奥が静かに裂けた気がした。それでも、不思議と後悔はなかった。
「……ッ」
息を呑む音。
視線を向ければ、ヒューゴの拳がわずかに震えている。何かを堪えるように、歯を食いしばって。
そのときだった。
「ははは……そう」
唐突に、フィリオン様の軽やかな声が落ちる。先ほどまでの重苦しい空気を裂くような、明るすぎる声音。
「なら、私がロランを思い続けるのも自由だよね」
微笑んでいる。どこか吹っ切れたような、晴れやかな顔。けれど、その瞳の奥にあるものは、あまりにも深い。
諦めでも、執着でもない。覚悟だ。選ばれなくても、思い続けるという覚悟。
教会の光が3人の間に降り注ぐ。救いのようでいて、残酷なほど平等な光。
俺を諦める気など毛頭ないとでも言わんばかりに、フィリオン様は微笑んでいた。晴れやかで、揺るがず、どこか勝者のような微笑。けれどその裏に、どれだけのものが隠れているかを、俺はもう知っている。
今この瞬間も、ピートは、彼の名を一切出さずに自白している。震える声で、すべてを自分の罪だと。その光景が、脳裏に起こされ、離れない。
「……もし、これからも俺を好きでいたいのなら、自分の罪を認めて、償ってください」
空気が変わった。
教会の光さえ、ひやりと冷えた気がした。
伯爵家の長男が、人を使ってチロを手にかけたと知られれば、大問題では済まない。
エヴァドネ様との婚約は白紙になるだろう。次期当主の座など、限りなくゼロに近づく。積み上げてきた未来が、一瞬で崩れる。
それでも、なかったことになど出来ない。彼のこれまでを少なからず大切に思っているからこそ、目を逸らせない。
「ピートにすべての罪を背負わせず、自分が指示したこと、自分が計画したことをすべて正直に明かして……罪を、償ってください」
喉が焼けるように痛む。
「俺の口からではなく、あなたの口で。正直に、告白してください」
きっと、ピートが認めないかぎり彼の罪は証明されない。証拠はない。俺やヒューゴがどれだけ言葉を尽くそうと、信じてもらえないだろう。
だからこそ、俺は賭けるしかない。
自分の感情に気づき、弱さをさらけ出し、恋を認めた今の彼に。あの切実な声が嘘でないなら。
「……あなたが、本気で俺を思っているのなら」
胸が震える。
「自分の罪から、逃げないでください」
それは糾弾ではない。懇願だった。
かつて好きだったからこそ、堕ちてほしくない。
フィリオン様の微笑が、わずかに揺れる。完璧だったはずの表情に、初めて迷いが入る。
誇りと、恐れと、そして――選択。
教会の光は、誰にも肩入れしない。ただ静かに、彼の顔を照らしている。告白すれば、すべてを失う。黙れば、すべてを守れる。
彼は、どちらを選ぶのだろうか。俺は、祈るような気持ちで、その答えを待っていた。
重く、長い沈黙だった。
空気が張りつめ、呼吸さえ許されないような時間。やがて、ふっと、何かがほどける気配がした。
フィリオン様は一度、静かに目を閉じる。その横顔は、不思議なほど穏やかだった。
そしてゆっくりと目を開く。高窓から差す光が、彼の輪郭をなぞる。迷いを焼き切るように。
「……分かった」
低く、しかし迷いのない声。
「自分のしたことの罪の重さは分かっているから……きちんと、向き合って償うよ。またロランに好きになってもらえるようになるには、絶対に必要なことだから」
胸の奥で張りつめていた糸が、ようやく緩む。安堵が、静かに広がった。祈り続けていた背筋から、力が抜ける。
――よかった。そう思った、その瞬間だった。
「だから……私がこのさき頑張れるように、これくらいは貰っていくね」
言葉の意味を理解するより早く。
ほんの一瞬の隙。
「っ!?」
視界が揺れた。唇に、柔らかな熱。掠めるだけの、触れるだけの――それでも確かな感触。
「……ッ、てめ、!」
ヒューゴの怒声と同時に、体が強く引き寄せられる。
――キスを、された。
ほんの一瞬。
けれど、確かにそれはキスだった。
「うん、これで頑張れる。ありがとう、ロラン」
満足げに微笑むフィリオン様。次の瞬間、ヒューゴの腕が俺を力任せに胸元へと閉じ込める。囲うように、強い抱擁。静かに沈んでいた怒りが、再び燃え上がる気配。
その空気を愉しむように、フィリオン様はにやりと笑った。その顔は――どこか、ヒューゴがよく見せる表情に似ていた。挑発的で、余裕に満ちた笑み。
「私が罪を償っているあいだ、お前にロランを預けておく」
軽やかに告げる。
「私がロランを浚いに行くまで、誰にも取られないよう、どこにも行かないよう見張っておくんだよ。我が弟」
「ッざけやがって……誰がてめぇに…!」
拳が振り上げられる。だがその瞬間、フィリオン様はひょいと身を引き、余裕たっぷりに距離を取る。そして踵を返す。その足は、裏口へと向かっていく。
俺は、唇に触れた指をそっと押さえたまま、その背中を見つめた。視界が、滲む。悔しさか、安堵か、それとも――分からない。
ふいに、彼の歩みが止まる。ゆっくりと振り返ったその顔は、どこまでも晴れやかだった。
「ロラン!」
声が、教会に響く。
「必ず迎えに行くから、私を忘れないで。すべての罪を清算したら……君を私の家令ではなく――伴侶にする」
まっすぐな笑顔。その言葉は、かつての俺なら、涙を流して喜んだだろう。
家令ではなく、伴侶。身分も立場も越えて、隣に立つ未来。それは、長年、夢見てきた言葉だった。
けれど今、俺の口元に浮かんだのは、苦笑だった。あまりにも遅く、あまりにも真っ直ぐで。
そして、あまりにも――勝手だ。
扉が閉まる。彼の姿は、光の向こうへ消えた。
初恋と罪と共に、光のなかへ、消えた。
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