18 / 29
第2章
第18話:孤立の聖女、甘い誘惑の罠
昨夜の激昂が嘘のように、離宮は深い静寂に包まれていた。 だが、その静寂は穏やかなものではない。窓の外を見れば、いつも以上に厳重に配置された黒狼騎士団の姿がある。シリウス様は公務で不在だが、その目に見えない「鎖」が私を幾重にも縛り付けているのを感じた。
「……私は、また鳥籠の中に戻っただけなの?」
机に用意された朝食には、一口も手を付けられなかった。 心理学で言う「心理的リアクタンス」――自由を奪われ、強制されるほど、人はその支配から逃れたくなる。シリウス様が私を守ろうとしているのは分かる。けれど、昨夜の「確保した」という言葉が、鋭い棘となって私の心に突き刺さったままだ。
私の価値は、私の「正体」にあるのか。それとも、私の「心」にあるのか。 その境界線が見えなくなり、私は自分の指先を見つめた。この「神の糸」を編む力があるから、私は誰かの所有物で居続けなければならないのだろうか。
その時、部屋の空気が微かに震えた。 シリウス様が自ら編み上げ、鉄壁を誇るはずの離宮の結界。そのごく僅かな「糸の乱れ」を、私の指先が鋭敏に捉えたのだ。
「……誰?」
私がバルコニーへ出ると、庭の植え込みの影に、昨日の老女が立っていた。 彼女は結界の隙間から、慈愛に満ちた、けれどどこか空虚な微笑みを私に向けていた。
「可愛そうな聖子様。狼の牙に怯え、震えていらっしゃるのですね」 「……貴女は、聖教国の……」 「ええ。私たちは貴女を奪いに来たのではありません。貴女を『本来あるべき場所』へお返ししたいだけなのです」
老女の言葉は、孤独に苛まれる私の心に、甘い蜜のように染み込んできた。 カルト的な勧誘にも似た「ラブ・ボミング」――過剰なまでの肯定と、選民意識の植え付け。彼女は私に、聖教国へ行けば私の力の全てが解明され、真の自由が得られると囁いた。
「帝国は貴女を兵器としてしか見ていない。けれど、我が国には貴女を『神』として敬う人々が待っています。一度、貴女の本当の故郷を見てから、どちらの側につくか決めても遅くはないのではありませんか?」
その提案は、あまりにも魅力的だった。 今の私にとって、それはシリウス様への疑念から逃げ出すための、もっともらしい「自己正当化」の口実になったのだ。
私は、シリウス様から贈られた指輪をそっとなぞった。 この指輪の温もりさえも、今は彼による監視の装置に思えてしまう。
「……本当の、私を知りたい。彼が何を隠しているのか、自分の目で見極めたい」
私は決意を固めると、空中に指を滑らせた。 皮肉なものだ。シリウス様に守られ、彼と共に戦う中で磨き上げたこの「編纂」の技術を、私は彼の手から逃れるために使うのだから。
シリウス様が編んだ強固な結界。その波長を逆算し、極小の「綻び」を編み上げる。 私の魔力が結界と触れ合い、音もなく光の門が開いた。
部屋を去る直前、机の上に置かれた、私が初めて直した魔導具が目に入った。 思い出が胸を締め付ける。けれど、昨夜の彼の冷たい瞳を思い出し、私は唇を噛んで背を向けた。
「……さようなら、シリウス様」
私は老女が差し出した手を取り、夕闇の中に溶け込むように、帝都を後にした。
一時間後。 公務を強引に切り上げ、離宮へと戻ったシリウスは、凍りついたような静寂の中に立ち尽くしていた。
「……ウェンディ?」
返事はない。 部屋の窓は開け放たれ、夜風がカーテンを冷たく揺らしている。 机の上には、一通の短いメモだけが残されていた。
『真実を知りに行きます。私を見つけないでください』
「…………あ」
シリウスの口から、掠れた声が漏れた。 彼はその紙を、指先が白くなるほどに握りつぶした。 黄金の瞳から光が消え、代わりに底知れぬ暗い独占欲と、自分自身への激しい怒りが渦を巻く。
「……逃げられると、思ったのか? ウェンディ」
彼の背後から溢れ出した魔圧が、離宮の床に深い亀裂を走らせる。 「地の果てまで追い詰めてやる。……貴様を誑かした鼠共を皆殺しにして、今度こそ、二度と外の世界など見られない場所に閉じ込めてやる!」
皇帝の咆哮が、主を失った離宮に虚しく響き渡った。 聖教国という偽りの聖域へ向かうウェンディと、狂気的な愛を加速させるシリウス。 二人の絆は、かつてないほど無惨に引き裂かれようとしていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
👑 EMPEROR'S DECREE:黒狼皇帝からの勅命
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「よくぞ最後まで読み遂げた。
ウェンディの功績を称え、貴様らにも『いいね』を許す。
……さあ、その指先で俺の女を喜ばせてみせろ。
貴様の忠誠、確かに受け取るぞ」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「……私は、また鳥籠の中に戻っただけなの?」
机に用意された朝食には、一口も手を付けられなかった。 心理学で言う「心理的リアクタンス」――自由を奪われ、強制されるほど、人はその支配から逃れたくなる。シリウス様が私を守ろうとしているのは分かる。けれど、昨夜の「確保した」という言葉が、鋭い棘となって私の心に突き刺さったままだ。
私の価値は、私の「正体」にあるのか。それとも、私の「心」にあるのか。 その境界線が見えなくなり、私は自分の指先を見つめた。この「神の糸」を編む力があるから、私は誰かの所有物で居続けなければならないのだろうか。
その時、部屋の空気が微かに震えた。 シリウス様が自ら編み上げ、鉄壁を誇るはずの離宮の結界。そのごく僅かな「糸の乱れ」を、私の指先が鋭敏に捉えたのだ。
「……誰?」
私がバルコニーへ出ると、庭の植え込みの影に、昨日の老女が立っていた。 彼女は結界の隙間から、慈愛に満ちた、けれどどこか空虚な微笑みを私に向けていた。
「可愛そうな聖子様。狼の牙に怯え、震えていらっしゃるのですね」 「……貴女は、聖教国の……」 「ええ。私たちは貴女を奪いに来たのではありません。貴女を『本来あるべき場所』へお返ししたいだけなのです」
老女の言葉は、孤独に苛まれる私の心に、甘い蜜のように染み込んできた。 カルト的な勧誘にも似た「ラブ・ボミング」――過剰なまでの肯定と、選民意識の植え付け。彼女は私に、聖教国へ行けば私の力の全てが解明され、真の自由が得られると囁いた。
「帝国は貴女を兵器としてしか見ていない。けれど、我が国には貴女を『神』として敬う人々が待っています。一度、貴女の本当の故郷を見てから、どちらの側につくか決めても遅くはないのではありませんか?」
その提案は、あまりにも魅力的だった。 今の私にとって、それはシリウス様への疑念から逃げ出すための、もっともらしい「自己正当化」の口実になったのだ。
私は、シリウス様から贈られた指輪をそっとなぞった。 この指輪の温もりさえも、今は彼による監視の装置に思えてしまう。
「……本当の、私を知りたい。彼が何を隠しているのか、自分の目で見極めたい」
私は決意を固めると、空中に指を滑らせた。 皮肉なものだ。シリウス様に守られ、彼と共に戦う中で磨き上げたこの「編纂」の技術を、私は彼の手から逃れるために使うのだから。
シリウス様が編んだ強固な結界。その波長を逆算し、極小の「綻び」を編み上げる。 私の魔力が結界と触れ合い、音もなく光の門が開いた。
部屋を去る直前、机の上に置かれた、私が初めて直した魔導具が目に入った。 思い出が胸を締め付ける。けれど、昨夜の彼の冷たい瞳を思い出し、私は唇を噛んで背を向けた。
「……さようなら、シリウス様」
私は老女が差し出した手を取り、夕闇の中に溶け込むように、帝都を後にした。
一時間後。 公務を強引に切り上げ、離宮へと戻ったシリウスは、凍りついたような静寂の中に立ち尽くしていた。
「……ウェンディ?」
返事はない。 部屋の窓は開け放たれ、夜風がカーテンを冷たく揺らしている。 机の上には、一通の短いメモだけが残されていた。
『真実を知りに行きます。私を見つけないでください』
「…………あ」
シリウスの口から、掠れた声が漏れた。 彼はその紙を、指先が白くなるほどに握りつぶした。 黄金の瞳から光が消え、代わりに底知れぬ暗い独占欲と、自分自身への激しい怒りが渦を巻く。
「……逃げられると、思ったのか? ウェンディ」
彼の背後から溢れ出した魔圧が、離宮の床に深い亀裂を走らせる。 「地の果てまで追い詰めてやる。……貴様を誑かした鼠共を皆殺しにして、今度こそ、二度と外の世界など見られない場所に閉じ込めてやる!」
皇帝の咆哮が、主を失った離宮に虚しく響き渡った。 聖教国という偽りの聖域へ向かうウェンディと、狂気的な愛を加速させるシリウス。 二人の絆は、かつてないほど無惨に引き裂かれようとしていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
👑 EMPEROR'S DECREE:黒狼皇帝からの勅命
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「よくぞ最後まで読み遂げた。
ウェンディの功績を称え、貴様らにも『いいね』を許す。
……さあ、その指先で俺の女を喜ばせてみせろ。
貴様の忠誠、確かに受け取るぞ」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
あなたにおすすめの小説
義妹が聖女を引き継ぎましたが無理だと思います
成行任世
恋愛
稀少な聖属性を持つ義妹が聖女の役も婚約者も引き継ぐ(奪う)というので聖女の祈りを義妹に託したら王都が壊滅の危機だそうですが、私はもう聖女ではないので知りません。
試験でカンニング犯にされた平民ですが、帝国文官試験で首席合格しました
あきくん☆ひろくん
恋愛
魔法学園の卒業試験で、私はカンニング犯に仕立て上げられた。
断罪してきたのは、かつて好意を寄せてくれていた高位貴族の子息。そしてその隣には、私を嫌う貴族令嬢が立っていた。
平民の私には弁明の余地もない。私は試験の順位を辞退し、その場を去ることになった。
――だが。
私にはもう一つの試験がある。
それは、帝国でも屈指の難関といわれる帝国文官試験。
そして数日後。
その結果は――首席合格だった。
冤罪で断罪された平民が、帝国の文官として身を立てる物語。
自業自得って言葉、知ってますか? 私をいじめていたのはあなたですよね?
長岡更紗
恋愛
庶民聖女の私をいじめてくる、貴族聖女のニコレット。
王子の婚約者を決める舞踏会に出ると、
「卑しい庶民聖女ね。王子妃になりたいがためにそのドレスも盗んできたそうじゃないの」
あることないこと言われて、我慢の限界!
絶対にあなたなんかに王子様は渡さない!
これは一生懸命生きる人が報われ、悪さをする人は報いを受ける、勧善懲悪のシンデレラストーリー!
*旧タイトルは『灰かぶり聖女は冷徹王子のお気に入り 〜自業自得って言葉、知ってますか? 私をいじめていたのは公爵令嬢、あなたですよ〜』です。
*小説家になろうでも掲載しています。
短編)どうぞ、勝手に滅んでください。
黑野羊
恋愛
二度も捨てられた聖女です。真実の愛を見つけたので、国は救いません。
あらすじ)
大陸中央にあるルオーゴ王国で、国を守る結界を維持してきた聖女ロザリア。
政略のため王太子と婚約していた彼女は、突如『真の聖女』が現れたとして婚約を破棄され、聖女の座を追われてしまう。さらに、代わりに婚姻しろと命じられた聖騎士からも拒絶され、実家にも見捨てられたロザリアは、『最果ての修道院』へと追放された。
けれど彼女はそこで、地位や栄光、贅沢などとはほど遠い、無条件に寄り添ってくれる『真実の愛』と穏やかな日々を手にいれる。
やがて聖女を失った王国は、崩壊へ向かっていき――。
ーーー
※カクヨム、なろうにも掲載しています
現聖女ですが、王太子妃様が聖女になりたいというので、故郷に戻って結婚しようと思います。
和泉鷹央
恋愛
聖女は十年しか生きられない。
この悲しい運命を変えるため、ライラは聖女になるときに精霊王と二つの契約をした。
それは期間満了後に始まる約束だったけど――
一つ……一度、死んだあと蘇生し、王太子の側室として本来の寿命で死ぬまで尽くすこと。
二つ……王太子が国王となったとき、国民が苦しむ政治をしないように側で支えること。
ライラはこの契約を承諾する。
十年後。
あと半月でライラの寿命が尽きるという頃、王太子妃ハンナが聖女になりたいと言い出した。
そして、王太子は聖女が農民出身で王族に相応しくないから、婚約破棄をすると言う。
こんな王族の為に、死ぬのは嫌だな……王太子妃様にあとを任せて、村に戻り幼馴染の彼と結婚しよう。
そう思い、ライラは聖女をやめることにした。
他の投稿サイトでも掲載しています。
聖女の力を妹に奪われ魔獣の森に捨てられたけど、何故か懐いてきた白狼(実は呪われた皇帝陛下)のブラッシング係に任命されました
AK
恋愛
「--リリアナ、貴様との婚約は破棄する! そして妹の功績を盗んだ罪で、この国からの追放を命じる!」
公爵令嬢リリアナは、腹違いの妹・ミナの嘘によって「偽聖女」の汚名を着せられ、婚約者の第二王子からも、実の父からも絶縁されてしまう。 身一つで放り出されたのは、凶暴な魔獣が跋扈する北の禁足地『帰らずの魔の森』。
死を覚悟したリリアナが出会ったのは、伝説の魔獣フェンリル——ではなく、呪いによって巨大な白狼の姿になった隣国の皇帝・アジュラ四世だった!
人間には効果が薄いが、動物に対しては絶大な癒やし効果を発揮するリリアナの「聖女の力」。 彼女が何気なく白狼をブラッシングすると、苦しんでいた皇帝の呪いが解け始め……?
「余の呪いを解くどころか、極上の手触りで撫でてくるとは……。貴様、責任を取って余の専属ブラッシング係になれ」
こうしてリリアナは、冷徹と恐れられる氷の皇帝(中身はツンデレもふもふ)に拾われ、帝国で溺愛されることに。 豪華な離宮で美味しい食事に、最高のもふもふタイム。虐げられていた日々が嘘のような幸せスローライフが始まる。
一方、本物の聖女を追放してしまった祖国では、妹のミナが聖女の力を発揮できず、大地が枯れ、疫病が蔓延し始めていた。 元婚約者や父が慌ててミレイユを連れ戻そうとするが、時すでに遅し。 「私の主人は、この可愛い狼様(皇帝陛下)だけですので」 これは、すべてを奪われた令嬢が、最強のパートナーを得て幸せになり、自分を捨てた者たちを見返す逆転の物語。
【完結】捨てられた聖女は王子の愛鳥を無自覚な聖なる力で助けました〜ごはんを貰ったら聖なる力が覚醒。私を捨てた方は聖女の仕組みを知らないようで
よどら文鳥
恋愛
ルリナは物心からついたころから公爵邸の庭、主にゴミ捨て場で生活させられていた。
ルリナを産んだと同時に公爵夫人は息絶えてしまったため、公爵は別の女と再婚した。
再婚相手との間に産まれたシャインを公爵令嬢の長女にしたかったがため、公爵はルリナのことが邪魔で追放させたかったのだ。
そのために姑息な手段を使ってルリナをハメていた。
だが、ルリナには聖女としての力が眠っている可能性があった。
その可能性のためにかろうじて生かしていたが、十四歳になっても聖女の力を確認できず。
ついに公爵家から追放させる最終段階に入った。
それは交流会でルリナが大恥をかいて貴族界からもルリナは貴族として人としてダメ人間だと思わせること。
公爵の思惑通りに進んだかのように見えたが、ルリナは交流会の途中で庭にある森の中へ逃げてから自体が変わる。
気絶していた白文鳥を発見。
ルリナが白文鳥を心配していたところにニルワーム第三王子がやってきて……。
【完結】 ご存知なかったのですね。聖女は愛されて力を発揮するのです
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
本当の聖女だと知っているのにも関わらずリンリーとの婚約を破棄し、リンリーの妹のリンナールと婚約すると言い出した王太子のヘルーラド。陛下が承諾したのなら仕方がないと身を引いたリンリー。
リンナールとヘルーラドの婚約発表の時、リンリーにとって追放ととれる発表までされて……。