うわさ話は恋の種

篠宮華

文字の大きさ
13 / 22

第十三話 誤解したままで

しおりを挟む
 突然入った矢野くんの出張。
 矢野くんと一緒に過ごす時間は本当に心地よくて、付き合い始めてからというもの、しょっちゅう矢野くんのマンションに入り浸っていた。もはや同じ家に帰るのが当たり前のようになりつつあったから、一緒に過ごす予定がなくなってしまったのはとても残念だった。
 最近は、クライアントの「矢野くんなら」という希望で契約が継続している案件もあるようで、それも致し方ないということはよくわかっているつもりだし、恋愛のせいで仕事に支障が出ないようにしたいとは常々思っているから、出張についてどうこう言うことはないけれど。
 Yシャツを鞄に詰めている矢野くんの隣で、靴下を畳む。
 
「準備、手伝ってもらってありがとうございます」
「手伝うってほどのことしてないよ」
 
 矢野くんは、溜め息をついた。
 
「なんか腑抜けてました 俺。美緒さんと一緒にいるのが当たり前になり過ぎて、出張って聞いたとき『頑張ろう』よりも、心底『面倒臭い』って思っちゃいました」
「それは私もそうだよ。そもそも急過ぎるし」
「……でも、俺がうじうじしてたら駄目ですよね。ちゃんと働いてきます」
 
 ものすごく凹んでいる様子だったけれど、負のオーラをどうにか振り切ろうと頑張っているようだ。
 明日の出張は、まさに矢野くんがとってきた大口案件で、しかも矢野くんが続けて担当するなら契約継続するという相手との打ち合わせと商談だ。会社的にも頑張ってほしいといったところだろう。
 その仕事ぶりの頼もしさに目を細めつつ頭を撫でると、漸く顔を綻ばせて、矢野くんは「そういえば…」と口を開いた。
 
「今日会った夏目さんって、どんな方なんですか?」

 その言葉に一瞬体が強張る。またか、と。
 今週幾度となく答えたその質問が矢野くんから出たということに、内心肩を落としながら答える。

「あー、私の兄の友達。変な絡み方しないでって言っておくね」
「……友達…ほんとにそれだけ?」
「へ?」
「いや……すいません、それだけですよね。忘れてください」
 
 ちょっと気まずそうに口をつぐんだ矢野くんの、らしくない様子を見て、上手く言い表せないもやもやした気持ちになる。
———これはもしかしなくても、ちょっと面倒なことになっている?
 実は、夏目さんが異動してきてから、まだ2日目にも関わらず、その見た目と、妙に社交的な性格と、馴れ馴れしい接し方のせいで、他の社員からあらぬ詮索をされ続け、結構面倒な目に遭ってきた。
 「付き合ってるのでは」とか「元カレなのでは」とか根拠のない噂が立っているらしいと聞いたけれど、それについてはきっぱりと、一生懸命否定し続けて、私の周辺では少しずつ落ち着いてきたと思っている。
 ただ、その噂話がなかなか綺麗になくならないせいで、周りの人たちを適当にあしらい続けるのに疲れ果てているのは事実だった。だからこそ、週末は矢野くんとゆっくりして心も体も休めたいと思っていたのに。
 予定がなくなった上に、当の本人にそんな言葉をかけられて、なんだかやるせない気持ちになる。
 
「…もしかして、なんか疑ってたり、変な風に思ってたりする?」
「え?」
「私と夏目さんに何かあるとか、そういう」
「……いや、まあ、今日実際にお会いして、仲良さそうだなとは思いましたけど、そんな疑いは、」
「私と夏目さんはこれまでもこれからも何もないよ。周りの人からいろいろ噂されるのも嫌だけど、もし矢野くんに誤解されてるならそれが一番嫌」
 
 一気に伝えると、矢野くんの「誤解してるつもりはないですけど…」という小さな返答の後、部屋がしーんと静まり返ってしまった。でも、誰よりも「変な噂が立って災難ですね」と、笑って流してほしい相手だったのだ。
———だって、私は矢野くんの彼女なんだから。
 少しして、矢野くんは、荷物を入れた鞄のジッパーを閉めてから、私の手を握って言った。
 
「…俺の知らない美緒さんのことも知ってるんだろうなと思ったら、なんかちょっと悔しくなっただけです。すいません」
「矢野くんの知らない私?」
「お兄さんのご友人ってことは、今より前の、学生時代の美緒さんとかそういうことも知ってるんだろうなって」
「そりゃ知ってるかもしれないけど…でもそれは逆だってそうでしょ」
「わかってます。だからほんとにただの理不尽な嫉妬」

 ごめんなさいと頭を下げられたけれど、許すとか許さないとかの問題ではないような気がして、小さく頷くことしかできなかった。矢野くんはそんな私の顔をじっと見つめてから、言う。

「明日結構早いんで、今日はちょっと早めに寝ますね。美緒さんもそうしませんか?」
「…うん、そうする」

 幸いなことに、もう入浴も夕飯も終えている。
 本当にこれでいいのかわからないけれど、これ以上微妙な空気の中でいても埒があかないような気もした。

 その日は、同じベッドに横になったけれど、いつものように抱き合って眠ることはなかった。隣に寝息とぬくもりを感じるのに、触れ合うことはない。なんだかじわじわと寂しさが胸に広がっていくようで。
 でも、幸か不幸か体は疲れていたから、静かに眠りに落ちていった。



 次の日の朝、目を覚ますと、もう矢野くんは出発した後だった。
 ダイニングテーブルには矢野くんが握ったのであろう、私の好きな梅のおにぎりが置かれていた。近くに残されていた書き置きには「鍋に味噌汁も入ってます」と書かれている。

「…一人で食べても美味しくない」

 溢れた独り言は床に落ちた。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

嘘をつく唇に優しいキスを

松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。 桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。 だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。 麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。 そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。

残業帰りのカフェで──止まった恋と、動き出した身体と心

yukataka
恋愛
終電に追われる夜、いつものカフェで彼と目が合った。 止まっていた何かが、また動き始める予感がした。 これは、34歳の広告代理店勤務の女性・高梨亜季が、残業帰りに立ち寄ったカフェで常連客の佐久間悠斗と出会い、止まっていた恋心が再び動き出す物語です。 仕事に追われる日々の中で忘れかけていた「誰かを想う気持ち」。後輩からの好意に揺れながらも、悠斗との距離が少しずつ縮まっていく。雨の夜、二人は心と体で確かめ合い、やがて訪れる別れの選択。 仕事と恋愛の狭間で揺れながらも、自分の幸せを選び取る勇気を持つまでの、大人の純愛を描きます。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

氷の上司に、好きがバレたら終わりや

naomikoryo
恋愛
──地方から本社に異動してきた29歳独身OL・舞子。 お調子者で明るく、ちょっとおせっかいな彼女の前に現れたのは、 “氷のように冷たい”と社内で噂される40歳のイケメン上司・本庄誠。 最初は「怖い」としか思えなかったはずのその人が、 実は誰よりもまっすぐで、優しくて、不器用な人だと知ったとき―― 舞子の中で、恋が芽生えはじめる。 でも、彼には誰も知らない過去があった。 そして舞子は、自分の恋心を隠しながら、ゆっくりとその心の氷を溶かしていく。 ◆恋って、“バレたら終わり”なんやろか? ◆それとも、“言わな、始まらへん”んやろか? そんな揺れる想いを抱えながら、仕事も恋も全力投球。 笑って、泣いて、つまずいて――それでも、前を向く彼女の姿に、きっとあなたも自分を重ねたくなる。 関西出身のヒロイン×無口な年上上司の、20話で完結するライト文芸ラブストーリー。 仕事に恋に揺れるすべてのOLさんたちへ。 「この恋、うちのことかも」と思わず呟きたくなる、等身大の恋を、ぜひ読んでみてください。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

冷たい彼と熱い私のルーティーン

希花 紀歩
恋愛
✨2021 集英社文庫 ナツイチ小説大賞 恋愛短編部門 最終候補選出作品✨ 冷たくて苦手なあの人と、毎日手を繋ぐことに・・・!? ツンデレなオフィスラブ💕 🌸春野 颯晴(はるの そうせい) 27歳 管理部IT課 冷たい男 ❄️柊 羽雪 (ひいらぎ はゆき) 26歳 営業企画部広報課 熱い女

〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー

i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆ 最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡ バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。 数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)

処理中です...