短篇集

睦月遥

文字の大きさ
1 / 8

おぼろ岳の鬼

しおりを挟む
 ある山奥の寒村に、名を弥吉という木こりが住んでいた。齢(よわい)三十を過ぎ、未だ独り身であったが、野良仕事の合間に唄を歌い、鳥のように笑う陽気な男であった。

 だが、この村には妙な言い伝えがあった。村の東にそびえる「おぼろ岳」には、人を喰らう鬼が棲むというのだ。村人は誰も近寄らず、山の向こうに何があるのかすら知らぬ。されど、弥吉は笑って言った。

「鬼が出るなら、握り飯の一つも持って迎えてやるさ」

 ある日、弥吉は斧を肩に、おぼろ岳の麓までやって来た。すると、どこからか奇妙な音が聞こえる。

「ぐぉぉん……ぐぉぉん……」

 鐘の音かと思ったが、何かが腹をすかせて呻いているような響きだった。弥吉は音のする方へ進み、やがて一軒の古びた祠を見つけた。扉は壊れかけ、薄闇の中から赤い光が覗いている。

「おい、誰かいるのか?」

 声をかけると、中から低いうなり声が響いた。

「……腹が、減った……」

 見ると、祠の奥には異形の者がいた。二つの大きな角、血のように赤い眼、青黒い肌。まさしく鬼であった。

 弥吉は驚くどころか、懐から握り飯を取り出し、鬼の前に差し出した。

「おお、腹が減ってるのか。ほれ、食え」

 鬼は驚き、恐る恐る飯を口に運んだ。途端に目を丸くし、次々と平らげた。

「う、うまい……こんなに美味いもの、生まれて初めて食った……」

「そんなに腹が減ってるなら、村の飯を分けてやるさ」

 弥吉は笑い、鬼の頭をぽんと叩いた。鬼は狼狽しながらも、目に涙を浮かべていた。


 鬼は涙を流しながら飯を頬張った。その目には、飢えと寂しさが深く刻まれていた。

「お前、いつからここにいるんだ?」

 弥吉の問いに、鬼はしばらく黙った後、ぽつりと答えた。

「……わからぬ。気づけば、ここに独りだった」

 それから鬼は語った。ずっと昔、この山には鬼の一族が住んでいた。しかし、次第に仲間が減り、最後には鬼一人になってしまった。村の人間は皆、自分を恐れて避け、何も食べるものがなく、飢えに苦しんでいたという。

「だから、村に行きたかった。でも、村人が怖がるし……」

「なんだ、そんなことか。だったら俺が連れて行ってやるさ」

 鬼は目を丸くした。

「む、村に?」

「ああ、腹が減ったら飯を食わなきゃならんだろ」

 鬼はしばし考え、やがて震える手で弥吉の袖を掴んだ。

「……怖くないのか?」

「怖いもんか。鬼だろうが、腹を空かせた奴にゃ飯をやる。それが人の道ってもんだ」

 弥吉はそう言って、豪快に笑った。鬼はしばし呆けたように見つめていたが、次の瞬間、ぎゅっと拳を握った。

「……わかった。なら、連れて行ってくれ」

 二人は村へ向かった。鬼はずっと怯えながら弥吉の後ろを歩いていた。

 村の入口に差し掛かると、見張りの男が驚き、叫んだ。

「鬼だ! 鬼が村に来たぞ!」

 たちまち村中が騒ぎ出した。男たちは鍬や鎌を手にし、女たちは子供を抱えて家へ逃げ込んだ。

 それでも弥吉は動じず、鬼の手をぐっと引いた。

「大丈夫だ。お前は何もしないだろ?」

 鬼は震えながら頷いた。

「だったら、飯を食おうぜ」

 弥吉はそう言って、村人の前に立った。

「こいつは腹を空かせただけの鬼だ。人を襲う気なんかねえ。どうか、飯を分けてやってくれ」

 村人たちはざわめいた。鬼を見て怯える者もいれば、弥吉を信じたい者もいた。

 そのとき、一人の老婆がよろよろと前に出た。

「……じゃあ、その鬼に、私の作った団子を食わせてみな」

 老婆は震える手で、味噌団子を差し出した。鬼はおそるおそる、それを口に入れた。そして、目を大きく見開いた。

「う、うまい……!」

 その表情を見て、村人たちの警戒心が少しずつ和らいでいった。


 鬼は涙を浮かべながら味噌団子を食べた。その様子を見ていた村人たちは、互いに顔を見合わせ、次第にざわめきを鎮めていった。

「……ほんとうに、人を喰う鬼なのか?」

「腹をすかせただけの、ただの迷い鬼かもしれん……」

 そう呟く者が現れると、老婆に続いて、一人の青年が焼き魚を差し出した。

「……喰ってみろ」

 鬼は両手で大切そうに魚を受け取り、慎重に口へ運んだ。塩気の効いた焼き魚の味が広がると、鬼の表情はほころびた。

「う、うまい……こんなに美味いものを、俺は……」

 鬼の頬を伝う涙が、ぽたりと地面に落ちた。

 その姿に、村人の一人がぽつりと呟いた。

「なんだか……人間みたいだな」

 弥吉は大きく頷いた。

「当たり前だろうよ。腹が減りゃ泣くし、飯を食えば喜ぶ。鬼も人も、変わらねえさ」

 それを聞いて、村人たちの心に、何かがじんわりと広がっていった。やがて、誰かが漬物を、また誰かが握り飯を差し出した。鬼は信じられないような顔をして、それらを一つひとつ大事そうに食べた。

「……うまい。本当に、うまい……」

 鬼はぽろぽろと涙をこぼした。それを見た村人たちは、ようやく笑い合った。

 それからというもの、鬼は村に住むようになった。力持ちの鬼は、薪割りや畑仕事を手伝い、いつしか村人たちの役に立つようになった。

 ある日、鬼は弥吉の家の前で空を見上げながら呟いた。

「……俺は、こんなにも長いこと、寂しかったんだな」

 弥吉は肩を叩き、笑った。

「じゃあ、これからは寂しくねえさ。お前はもう、この村の仲間だからな」

 鬼は嬉しそうに、けれどどこか照れくさそうに笑った。

 しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。


 ある日、村の西の山から、見知らぬ男たちが現れた。乱れた鎧を身にまとい、鋭い槍を手にした者たちだった。

「この村に鬼がいると聞いたが、本当か?」

 男たちは鋭い目で村人たちを睨みつけた。その中の一人、顔に大きな傷を持つ男が、じろりと村を見渡した。

「俺たちは、山向こうの領主の兵だ。鬼を放っておくわけにはいかねえ。そいつを差し出せ」

 村人たちは顔を見合わせ、沈黙した。誰もが、鬼を売ることなど考えたくもなかった。だが、武装した兵を前に、逆らえば村が焼かれることは明白だった。

 すると、弥吉が前に進み出た。

「鬼は、もう俺たちの仲間だ。こいつは人を喰わねえ。村の仕事を手伝い、俺たちと同じように飯を食って暮らしている」

 傷の男は鼻で笑った。

「戯言を。鬼は鬼だ。人と共には生きられねえ」

 そのとき、後ろで鬼がそっと立ち上がった。

「……俺が、行こう」

 村人たちは驚いて鬼を見た。

「お前、何を言ってるんだ!」

 鬼は寂しげに笑った。

「俺が行けば、村は無事だろう?」

 鬼はゆっくりと兵たちの前へ歩み出た。その巨体が、夕日に長い影を落とした。

「……これまで楽しかった。人と一緒に飯を食べ、笑って生きられるなんて思わなかった。でも、俺のせいで村が滅びるなら、俺は……」

 そのとき、老婆が鬼の手をぎゅっと握った。

「行かせんよ」

 次々に、村人たちが鬼の周りに立ちはだかった。

「鬼は、もうこの村の者だ!」

「仲間を渡すくらいなら、村ごと戦ってやる!」

 弥吉は斧を肩に担ぎ、にやりと笑った。

「俺たちは、こいつを守るぜ」

 兵たちは一瞬、面食らった。鬼ではなく、人間たちが鬼を庇っている。その光景に、しばし言葉を失った。

 だが、傷の男は冷たく笑った。

「ならば、全員斬るまでよ」

 そう言って、槍を構えた――その瞬間だった。

 鬼が一歩前に出た。

「……俺は戦わない。でも、村の者を傷つけるなら――」

 鬼は拳をぎゅっと握りしめた。

「俺が、お前を倒す」

 村人を守るために。鬼は、戦うことを決意した。


 鬼の言葉に、兵たちは一瞬、戸惑った。鬼が人を襲うのではなく、人を守るために戦う。そんな話は聞いたことがない。しかし、傷の男は冷笑を浮かべ、槍を突き出した。

「ほざけ! 鬼は鬼だ! 貴様らもろとも斬り捨ててやる!」

 その瞬間、鬼は地を蹴った。巨体とは思えぬほどの速さで間合いを詰めると、槍の軌道を見切り、片腕でねじ伏せた。

「ぐっ……!」

 傷の男は顔を歪め、腕ごと槍を地面に叩きつけられた。兵たちは驚き、後ずさった。

 しかし、鬼はそれ以上手を出さなかった。

「もう、戦いたくないんだ」

 低く、静かな声だった。その目は怯えではなく、覚悟に満ちていた。

「俺は、ここで生きたい。人と一緒に、飯を食い、笑い合いたい。それがいけないことなのか?」

 兵たちは言葉を失った。鬼は確かに力を持っている。だが、その力を使って人を傷つけることを望まなかった。

 そのとき、弥吉が前に出た。

「なあ、あんたら。鬼が人を害さねえなら、それでいいじゃねえか。村のもんは、皆こいつを仲間だと思ってる」

 兵たちは顔を見合わせた。確かに、村人たちは鬼を恐れてはいない。それどころか、庇い、守ろうとしている。その事実に、次第に剣を収める者が増えていった。

 しかし、傷の男だけは諦めなかった。

「そんなこと、あるはずが――!」

 そのときだった。

 鬼はそっと、手を差し出した。

「お前も、腹が減ってるんだろう?」

 驚いたことに、鬼は懐から握り飯を取り出し、傷の男に差し出した。

「……なんのつもりだ?」

「ただの飯だ。俺も、かつて飢えていた。誰かに分けてもらう飯が、どれほどありがたいものか知っている」

 鬼の声は静かだった。しかし、その真摯なまなざしに、傷の男は唇を噛みしめた。

 しばしの沈黙の後――傷の男は、握り飯を受け取った。そして、一口かじると、ゆっくりと目を閉じた。

「……この味を知ったら、鬼とて、ただの人だな」

 そう呟くと、男は立ち上がった。

「……引き上げるぞ」

 兵たちは驚いたが、誰も逆らうことはなかった。彼らは静かに去っていった。

 村に静けさが戻ると、弥吉は鬼の肩をぽんと叩いた。

「よくやったな」

 鬼は、涙をこぼした。

「俺は……もう、独りじゃないんだな……」

 村人たちは鬼を囲み、笑い、泣き、肩を叩き合った。

 それから鬼は、村の者として生きた。誰もが、彼を仲間として迎え入れた。

 そして、いつしか人々は「おぼろ岳の鬼」と語り継いだ。ただの恐ろしい鬼ではなく――人と共に生きた、優しき鬼として。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...