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おぼろ岳の鬼
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ある山奥の寒村に、名を弥吉という木こりが住んでいた。齢(よわい)三十を過ぎ、未だ独り身であったが、野良仕事の合間に唄を歌い、鳥のように笑う陽気な男であった。
だが、この村には妙な言い伝えがあった。村の東にそびえる「おぼろ岳」には、人を喰らう鬼が棲むというのだ。村人は誰も近寄らず、山の向こうに何があるのかすら知らぬ。されど、弥吉は笑って言った。
「鬼が出るなら、握り飯の一つも持って迎えてやるさ」
ある日、弥吉は斧を肩に、おぼろ岳の麓までやって来た。すると、どこからか奇妙な音が聞こえる。
「ぐぉぉん……ぐぉぉん……」
鐘の音かと思ったが、何かが腹をすかせて呻いているような響きだった。弥吉は音のする方へ進み、やがて一軒の古びた祠を見つけた。扉は壊れかけ、薄闇の中から赤い光が覗いている。
「おい、誰かいるのか?」
声をかけると、中から低いうなり声が響いた。
「……腹が、減った……」
見ると、祠の奥には異形の者がいた。二つの大きな角、血のように赤い眼、青黒い肌。まさしく鬼であった。
弥吉は驚くどころか、懐から握り飯を取り出し、鬼の前に差し出した。
「おお、腹が減ってるのか。ほれ、食え」
鬼は驚き、恐る恐る飯を口に運んだ。途端に目を丸くし、次々と平らげた。
「う、うまい……こんなに美味いもの、生まれて初めて食った……」
「そんなに腹が減ってるなら、村の飯を分けてやるさ」
弥吉は笑い、鬼の頭をぽんと叩いた。鬼は狼狽しながらも、目に涙を浮かべていた。
鬼は涙を流しながら飯を頬張った。その目には、飢えと寂しさが深く刻まれていた。
「お前、いつからここにいるんだ?」
弥吉の問いに、鬼はしばらく黙った後、ぽつりと答えた。
「……わからぬ。気づけば、ここに独りだった」
それから鬼は語った。ずっと昔、この山には鬼の一族が住んでいた。しかし、次第に仲間が減り、最後には鬼一人になってしまった。村の人間は皆、自分を恐れて避け、何も食べるものがなく、飢えに苦しんでいたという。
「だから、村に行きたかった。でも、村人が怖がるし……」
「なんだ、そんなことか。だったら俺が連れて行ってやるさ」
鬼は目を丸くした。
「む、村に?」
「ああ、腹が減ったら飯を食わなきゃならんだろ」
鬼はしばし考え、やがて震える手で弥吉の袖を掴んだ。
「……怖くないのか?」
「怖いもんか。鬼だろうが、腹を空かせた奴にゃ飯をやる。それが人の道ってもんだ」
弥吉はそう言って、豪快に笑った。鬼はしばし呆けたように見つめていたが、次の瞬間、ぎゅっと拳を握った。
「……わかった。なら、連れて行ってくれ」
二人は村へ向かった。鬼はずっと怯えながら弥吉の後ろを歩いていた。
村の入口に差し掛かると、見張りの男が驚き、叫んだ。
「鬼だ! 鬼が村に来たぞ!」
たちまち村中が騒ぎ出した。男たちは鍬や鎌を手にし、女たちは子供を抱えて家へ逃げ込んだ。
それでも弥吉は動じず、鬼の手をぐっと引いた。
「大丈夫だ。お前は何もしないだろ?」
鬼は震えながら頷いた。
「だったら、飯を食おうぜ」
弥吉はそう言って、村人の前に立った。
「こいつは腹を空かせただけの鬼だ。人を襲う気なんかねえ。どうか、飯を分けてやってくれ」
村人たちはざわめいた。鬼を見て怯える者もいれば、弥吉を信じたい者もいた。
そのとき、一人の老婆がよろよろと前に出た。
「……じゃあ、その鬼に、私の作った団子を食わせてみな」
老婆は震える手で、味噌団子を差し出した。鬼はおそるおそる、それを口に入れた。そして、目を大きく見開いた。
「う、うまい……!」
その表情を見て、村人たちの警戒心が少しずつ和らいでいった。
鬼は涙を浮かべながら味噌団子を食べた。その様子を見ていた村人たちは、互いに顔を見合わせ、次第にざわめきを鎮めていった。
「……ほんとうに、人を喰う鬼なのか?」
「腹をすかせただけの、ただの迷い鬼かもしれん……」
そう呟く者が現れると、老婆に続いて、一人の青年が焼き魚を差し出した。
「……喰ってみろ」
鬼は両手で大切そうに魚を受け取り、慎重に口へ運んだ。塩気の効いた焼き魚の味が広がると、鬼の表情はほころびた。
「う、うまい……こんなに美味いものを、俺は……」
鬼の頬を伝う涙が、ぽたりと地面に落ちた。
その姿に、村人の一人がぽつりと呟いた。
「なんだか……人間みたいだな」
弥吉は大きく頷いた。
「当たり前だろうよ。腹が減りゃ泣くし、飯を食えば喜ぶ。鬼も人も、変わらねえさ」
それを聞いて、村人たちの心に、何かがじんわりと広がっていった。やがて、誰かが漬物を、また誰かが握り飯を差し出した。鬼は信じられないような顔をして、それらを一つひとつ大事そうに食べた。
「……うまい。本当に、うまい……」
鬼はぽろぽろと涙をこぼした。それを見た村人たちは、ようやく笑い合った。
それからというもの、鬼は村に住むようになった。力持ちの鬼は、薪割りや畑仕事を手伝い、いつしか村人たちの役に立つようになった。
ある日、鬼は弥吉の家の前で空を見上げながら呟いた。
「……俺は、こんなにも長いこと、寂しかったんだな」
弥吉は肩を叩き、笑った。
「じゃあ、これからは寂しくねえさ。お前はもう、この村の仲間だからな」
鬼は嬉しそうに、けれどどこか照れくさそうに笑った。
しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。
ある日、村の西の山から、見知らぬ男たちが現れた。乱れた鎧を身にまとい、鋭い槍を手にした者たちだった。
「この村に鬼がいると聞いたが、本当か?」
男たちは鋭い目で村人たちを睨みつけた。その中の一人、顔に大きな傷を持つ男が、じろりと村を見渡した。
「俺たちは、山向こうの領主の兵だ。鬼を放っておくわけにはいかねえ。そいつを差し出せ」
村人たちは顔を見合わせ、沈黙した。誰もが、鬼を売ることなど考えたくもなかった。だが、武装した兵を前に、逆らえば村が焼かれることは明白だった。
すると、弥吉が前に進み出た。
「鬼は、もう俺たちの仲間だ。こいつは人を喰わねえ。村の仕事を手伝い、俺たちと同じように飯を食って暮らしている」
傷の男は鼻で笑った。
「戯言を。鬼は鬼だ。人と共には生きられねえ」
そのとき、後ろで鬼がそっと立ち上がった。
「……俺が、行こう」
村人たちは驚いて鬼を見た。
「お前、何を言ってるんだ!」
鬼は寂しげに笑った。
「俺が行けば、村は無事だろう?」
鬼はゆっくりと兵たちの前へ歩み出た。その巨体が、夕日に長い影を落とした。
「……これまで楽しかった。人と一緒に飯を食べ、笑って生きられるなんて思わなかった。でも、俺のせいで村が滅びるなら、俺は……」
そのとき、老婆が鬼の手をぎゅっと握った。
「行かせんよ」
次々に、村人たちが鬼の周りに立ちはだかった。
「鬼は、もうこの村の者だ!」
「仲間を渡すくらいなら、村ごと戦ってやる!」
弥吉は斧を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「俺たちは、こいつを守るぜ」
兵たちは一瞬、面食らった。鬼ではなく、人間たちが鬼を庇っている。その光景に、しばし言葉を失った。
だが、傷の男は冷たく笑った。
「ならば、全員斬るまでよ」
そう言って、槍を構えた――その瞬間だった。
鬼が一歩前に出た。
「……俺は戦わない。でも、村の者を傷つけるなら――」
鬼は拳をぎゅっと握りしめた。
「俺が、お前を倒す」
村人を守るために。鬼は、戦うことを決意した。
鬼の言葉に、兵たちは一瞬、戸惑った。鬼が人を襲うのではなく、人を守るために戦う。そんな話は聞いたことがない。しかし、傷の男は冷笑を浮かべ、槍を突き出した。
「ほざけ! 鬼は鬼だ! 貴様らもろとも斬り捨ててやる!」
その瞬間、鬼は地を蹴った。巨体とは思えぬほどの速さで間合いを詰めると、槍の軌道を見切り、片腕でねじ伏せた。
「ぐっ……!」
傷の男は顔を歪め、腕ごと槍を地面に叩きつけられた。兵たちは驚き、後ずさった。
しかし、鬼はそれ以上手を出さなかった。
「もう、戦いたくないんだ」
低く、静かな声だった。その目は怯えではなく、覚悟に満ちていた。
「俺は、ここで生きたい。人と一緒に、飯を食い、笑い合いたい。それがいけないことなのか?」
兵たちは言葉を失った。鬼は確かに力を持っている。だが、その力を使って人を傷つけることを望まなかった。
そのとき、弥吉が前に出た。
「なあ、あんたら。鬼が人を害さねえなら、それでいいじゃねえか。村のもんは、皆こいつを仲間だと思ってる」
兵たちは顔を見合わせた。確かに、村人たちは鬼を恐れてはいない。それどころか、庇い、守ろうとしている。その事実に、次第に剣を収める者が増えていった。
しかし、傷の男だけは諦めなかった。
「そんなこと、あるはずが――!」
そのときだった。
鬼はそっと、手を差し出した。
「お前も、腹が減ってるんだろう?」
驚いたことに、鬼は懐から握り飯を取り出し、傷の男に差し出した。
「……なんのつもりだ?」
「ただの飯だ。俺も、かつて飢えていた。誰かに分けてもらう飯が、どれほどありがたいものか知っている」
鬼の声は静かだった。しかし、その真摯なまなざしに、傷の男は唇を噛みしめた。
しばしの沈黙の後――傷の男は、握り飯を受け取った。そして、一口かじると、ゆっくりと目を閉じた。
「……この味を知ったら、鬼とて、ただの人だな」
そう呟くと、男は立ち上がった。
「……引き上げるぞ」
兵たちは驚いたが、誰も逆らうことはなかった。彼らは静かに去っていった。
村に静けさが戻ると、弥吉は鬼の肩をぽんと叩いた。
「よくやったな」
鬼は、涙をこぼした。
「俺は……もう、独りじゃないんだな……」
村人たちは鬼を囲み、笑い、泣き、肩を叩き合った。
それから鬼は、村の者として生きた。誰もが、彼を仲間として迎え入れた。
そして、いつしか人々は「おぼろ岳の鬼」と語り継いだ。ただの恐ろしい鬼ではなく――人と共に生きた、優しき鬼として。
だが、この村には妙な言い伝えがあった。村の東にそびえる「おぼろ岳」には、人を喰らう鬼が棲むというのだ。村人は誰も近寄らず、山の向こうに何があるのかすら知らぬ。されど、弥吉は笑って言った。
「鬼が出るなら、握り飯の一つも持って迎えてやるさ」
ある日、弥吉は斧を肩に、おぼろ岳の麓までやって来た。すると、どこからか奇妙な音が聞こえる。
「ぐぉぉん……ぐぉぉん……」
鐘の音かと思ったが、何かが腹をすかせて呻いているような響きだった。弥吉は音のする方へ進み、やがて一軒の古びた祠を見つけた。扉は壊れかけ、薄闇の中から赤い光が覗いている。
「おい、誰かいるのか?」
声をかけると、中から低いうなり声が響いた。
「……腹が、減った……」
見ると、祠の奥には異形の者がいた。二つの大きな角、血のように赤い眼、青黒い肌。まさしく鬼であった。
弥吉は驚くどころか、懐から握り飯を取り出し、鬼の前に差し出した。
「おお、腹が減ってるのか。ほれ、食え」
鬼は驚き、恐る恐る飯を口に運んだ。途端に目を丸くし、次々と平らげた。
「う、うまい……こんなに美味いもの、生まれて初めて食った……」
「そんなに腹が減ってるなら、村の飯を分けてやるさ」
弥吉は笑い、鬼の頭をぽんと叩いた。鬼は狼狽しながらも、目に涙を浮かべていた。
鬼は涙を流しながら飯を頬張った。その目には、飢えと寂しさが深く刻まれていた。
「お前、いつからここにいるんだ?」
弥吉の問いに、鬼はしばらく黙った後、ぽつりと答えた。
「……わからぬ。気づけば、ここに独りだった」
それから鬼は語った。ずっと昔、この山には鬼の一族が住んでいた。しかし、次第に仲間が減り、最後には鬼一人になってしまった。村の人間は皆、自分を恐れて避け、何も食べるものがなく、飢えに苦しんでいたという。
「だから、村に行きたかった。でも、村人が怖がるし……」
「なんだ、そんなことか。だったら俺が連れて行ってやるさ」
鬼は目を丸くした。
「む、村に?」
「ああ、腹が減ったら飯を食わなきゃならんだろ」
鬼はしばし考え、やがて震える手で弥吉の袖を掴んだ。
「……怖くないのか?」
「怖いもんか。鬼だろうが、腹を空かせた奴にゃ飯をやる。それが人の道ってもんだ」
弥吉はそう言って、豪快に笑った。鬼はしばし呆けたように見つめていたが、次の瞬間、ぎゅっと拳を握った。
「……わかった。なら、連れて行ってくれ」
二人は村へ向かった。鬼はずっと怯えながら弥吉の後ろを歩いていた。
村の入口に差し掛かると、見張りの男が驚き、叫んだ。
「鬼だ! 鬼が村に来たぞ!」
たちまち村中が騒ぎ出した。男たちは鍬や鎌を手にし、女たちは子供を抱えて家へ逃げ込んだ。
それでも弥吉は動じず、鬼の手をぐっと引いた。
「大丈夫だ。お前は何もしないだろ?」
鬼は震えながら頷いた。
「だったら、飯を食おうぜ」
弥吉はそう言って、村人の前に立った。
「こいつは腹を空かせただけの鬼だ。人を襲う気なんかねえ。どうか、飯を分けてやってくれ」
村人たちはざわめいた。鬼を見て怯える者もいれば、弥吉を信じたい者もいた。
そのとき、一人の老婆がよろよろと前に出た。
「……じゃあ、その鬼に、私の作った団子を食わせてみな」
老婆は震える手で、味噌団子を差し出した。鬼はおそるおそる、それを口に入れた。そして、目を大きく見開いた。
「う、うまい……!」
その表情を見て、村人たちの警戒心が少しずつ和らいでいった。
鬼は涙を浮かべながら味噌団子を食べた。その様子を見ていた村人たちは、互いに顔を見合わせ、次第にざわめきを鎮めていった。
「……ほんとうに、人を喰う鬼なのか?」
「腹をすかせただけの、ただの迷い鬼かもしれん……」
そう呟く者が現れると、老婆に続いて、一人の青年が焼き魚を差し出した。
「……喰ってみろ」
鬼は両手で大切そうに魚を受け取り、慎重に口へ運んだ。塩気の効いた焼き魚の味が広がると、鬼の表情はほころびた。
「う、うまい……こんなに美味いものを、俺は……」
鬼の頬を伝う涙が、ぽたりと地面に落ちた。
その姿に、村人の一人がぽつりと呟いた。
「なんだか……人間みたいだな」
弥吉は大きく頷いた。
「当たり前だろうよ。腹が減りゃ泣くし、飯を食えば喜ぶ。鬼も人も、変わらねえさ」
それを聞いて、村人たちの心に、何かがじんわりと広がっていった。やがて、誰かが漬物を、また誰かが握り飯を差し出した。鬼は信じられないような顔をして、それらを一つひとつ大事そうに食べた。
「……うまい。本当に、うまい……」
鬼はぽろぽろと涙をこぼした。それを見た村人たちは、ようやく笑い合った。
それからというもの、鬼は村に住むようになった。力持ちの鬼は、薪割りや畑仕事を手伝い、いつしか村人たちの役に立つようになった。
ある日、鬼は弥吉の家の前で空を見上げながら呟いた。
「……俺は、こんなにも長いこと、寂しかったんだな」
弥吉は肩を叩き、笑った。
「じゃあ、これからは寂しくねえさ。お前はもう、この村の仲間だからな」
鬼は嬉しそうに、けれどどこか照れくさそうに笑った。
しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。
ある日、村の西の山から、見知らぬ男たちが現れた。乱れた鎧を身にまとい、鋭い槍を手にした者たちだった。
「この村に鬼がいると聞いたが、本当か?」
男たちは鋭い目で村人たちを睨みつけた。その中の一人、顔に大きな傷を持つ男が、じろりと村を見渡した。
「俺たちは、山向こうの領主の兵だ。鬼を放っておくわけにはいかねえ。そいつを差し出せ」
村人たちは顔を見合わせ、沈黙した。誰もが、鬼を売ることなど考えたくもなかった。だが、武装した兵を前に、逆らえば村が焼かれることは明白だった。
すると、弥吉が前に進み出た。
「鬼は、もう俺たちの仲間だ。こいつは人を喰わねえ。村の仕事を手伝い、俺たちと同じように飯を食って暮らしている」
傷の男は鼻で笑った。
「戯言を。鬼は鬼だ。人と共には生きられねえ」
そのとき、後ろで鬼がそっと立ち上がった。
「……俺が、行こう」
村人たちは驚いて鬼を見た。
「お前、何を言ってるんだ!」
鬼は寂しげに笑った。
「俺が行けば、村は無事だろう?」
鬼はゆっくりと兵たちの前へ歩み出た。その巨体が、夕日に長い影を落とした。
「……これまで楽しかった。人と一緒に飯を食べ、笑って生きられるなんて思わなかった。でも、俺のせいで村が滅びるなら、俺は……」
そのとき、老婆が鬼の手をぎゅっと握った。
「行かせんよ」
次々に、村人たちが鬼の周りに立ちはだかった。
「鬼は、もうこの村の者だ!」
「仲間を渡すくらいなら、村ごと戦ってやる!」
弥吉は斧を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「俺たちは、こいつを守るぜ」
兵たちは一瞬、面食らった。鬼ではなく、人間たちが鬼を庇っている。その光景に、しばし言葉を失った。
だが、傷の男は冷たく笑った。
「ならば、全員斬るまでよ」
そう言って、槍を構えた――その瞬間だった。
鬼が一歩前に出た。
「……俺は戦わない。でも、村の者を傷つけるなら――」
鬼は拳をぎゅっと握りしめた。
「俺が、お前を倒す」
村人を守るために。鬼は、戦うことを決意した。
鬼の言葉に、兵たちは一瞬、戸惑った。鬼が人を襲うのではなく、人を守るために戦う。そんな話は聞いたことがない。しかし、傷の男は冷笑を浮かべ、槍を突き出した。
「ほざけ! 鬼は鬼だ! 貴様らもろとも斬り捨ててやる!」
その瞬間、鬼は地を蹴った。巨体とは思えぬほどの速さで間合いを詰めると、槍の軌道を見切り、片腕でねじ伏せた。
「ぐっ……!」
傷の男は顔を歪め、腕ごと槍を地面に叩きつけられた。兵たちは驚き、後ずさった。
しかし、鬼はそれ以上手を出さなかった。
「もう、戦いたくないんだ」
低く、静かな声だった。その目は怯えではなく、覚悟に満ちていた。
「俺は、ここで生きたい。人と一緒に、飯を食い、笑い合いたい。それがいけないことなのか?」
兵たちは言葉を失った。鬼は確かに力を持っている。だが、その力を使って人を傷つけることを望まなかった。
そのとき、弥吉が前に出た。
「なあ、あんたら。鬼が人を害さねえなら、それでいいじゃねえか。村のもんは、皆こいつを仲間だと思ってる」
兵たちは顔を見合わせた。確かに、村人たちは鬼を恐れてはいない。それどころか、庇い、守ろうとしている。その事実に、次第に剣を収める者が増えていった。
しかし、傷の男だけは諦めなかった。
「そんなこと、あるはずが――!」
そのときだった。
鬼はそっと、手を差し出した。
「お前も、腹が減ってるんだろう?」
驚いたことに、鬼は懐から握り飯を取り出し、傷の男に差し出した。
「……なんのつもりだ?」
「ただの飯だ。俺も、かつて飢えていた。誰かに分けてもらう飯が、どれほどありがたいものか知っている」
鬼の声は静かだった。しかし、その真摯なまなざしに、傷の男は唇を噛みしめた。
しばしの沈黙の後――傷の男は、握り飯を受け取った。そして、一口かじると、ゆっくりと目を閉じた。
「……この味を知ったら、鬼とて、ただの人だな」
そう呟くと、男は立ち上がった。
「……引き上げるぞ」
兵たちは驚いたが、誰も逆らうことはなかった。彼らは静かに去っていった。
村に静けさが戻ると、弥吉は鬼の肩をぽんと叩いた。
「よくやったな」
鬼は、涙をこぼした。
「俺は……もう、独りじゃないんだな……」
村人たちは鬼を囲み、笑い、泣き、肩を叩き合った。
それから鬼は、村の者として生きた。誰もが、彼を仲間として迎え入れた。
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