兄の愛人だった男(ひと)

すいかちゃん

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第一話

美しい人

その日は、うだるような暑さだった。高村慎一郎は、吹き出すような汗を何度もハンカチで拭いながら坂道を上った。見上げた先には、瀟洒な洋館が建っている。兄・康太郎の家だ。
(面倒な人だ)
幼い頃から、慎一郎は康太郎が苦手だった。何事にも慎重な慎一郎とは真逆で、康太郎は後先考えずに行動するタイプだった。父の跡を継いで建築会社の社長になってからは、ますますその行動が目立ってきた。まるで慎一郎を敗者のような目で見て、面倒な事がある度に呼び出してくる。
(今度はなんなんだ)
慎一郎は重くなる足を引きずるようにして、なんとか門をくぐった。
「いらっしゃいませ。慎一郎様」
「久しぶりだね、田沢」
田沢という初老の男は、慎一郎が幼い頃から父に支えていた秘書だった。今年で70歳になるとは思えないぐらい、顔立ちや行動は若々しい。
綺麗に磨かれた廊下を歩きながら、慎一郎は背筋が伸びる思いがした。いつもこうだ。康太郎に会う時には、胸の奥がザワザワする。
「慎一郎様は健やかにされていましたか?」
「よしてくれ。もう子供ではないんだ」
「そうでしたね」
田沢は細い瞳を更に細くすると、慎一郎の顔から足先までをしげしげと見つめた。幼い頃の慎一郎は、田沢によく懐いていた。自転車やスキーを教えてくれたのも彼だ。
「旦那様も会いたがっていましたよ」
「相変わらず、嘘が下手だな」
慎一郎が言えば、田沢は苦笑で返した。慎一郎が覚えているのは、いつも父親の後ろ姿だ。利己主義な父親は、無欲な慎一郎には興味を示さなかった。貪欲な康太郎ばかり可愛がり、1度として笑顔を見せてもらった事はない。そんな父親に嫌気がさし、慎一郎は音楽教師という道を選んだ。ピアノを弾きながら、子供達の歌声を聞いていると心が軽くなる。できたら、父や兄達とは関わりたくない。それが慎一郎の本心だった。
「貴美子さんと克は?」
貴美子というのは、康太郎の妻だ。良家の子女である彼女は、おっとりとしていて優しい。甥っ子となる克は、慎一郎によく懐いていた。克に渡そうと、紙飛行機を折ってきたのだ。
「奥様と坊ちゃまは外出されています。なんでも、東京タワーを見に行くのだとか」
1959年。前年にできた東京タワーには、多くの観光客が詰め寄せていた。克にせがまれたらしく、貴美子はいそいそと出掛けたと田沢が唇を綻ばせる。
「康太郎様は書斎です」
「わかった。後で顔を見せるよ」
慎一郎は田沢にバレないように溜め息を吐いた。康太郎がわざわざ呼ぶという事は、また面倒が起きたのだろう。いつまであの兄の面倒を見なくてはならないのかと、慎一郎は苛立った。
「兄さん。来たよ」
ノックの後でドアを開ければ、不機嫌そうな眼差しが返ってくる。
「社長と呼べ。遅かったな」
「これでも急いできたんだ。兄さん」
慎一郎の言葉に、康太郎はますます不機嫌になった。だが、そんな事で怒っている時間は康太郎にはなかったようだ。乱暴に茶封筒をテーブルに置く。中には、小切手が1枚。
「なんだい?僕への小遣い?」
「そんなわけないだろ。これを智広へ届けてくれ」
『智広』という名前が出た瞬間。慎一郎の目付きが変わった。
前島智広。3年前に康太郎が多額の融資と引き換えに手に入れた青年の名前だ。昔から康太郎は男女問わず遊んでいた。貴美子と結婚して落ち着いたと思っていたら、男の愛人を作ったのだ。
「なんで僕が?」
「あいつとは別れる事にしたんだ。これは、手切れ金だよ」
康太郎は爪の手入れをしながら、なんでもない事のように言った。まるで、「今日の晩めしはカレーにしよう」ぐらいの感覚で…。
「なぜ急に?あんなにご執心だったじゃないか」
慎一郎も一度だけ智広を見かけた事がある。康太郎に肩を抱かれ、幸せそうに微笑んでいた。
(男妾が)
慎一郎にとって、智広のような生き方は信じられなかった。いくら家族のためとはいえ、男相手に足を開くなんて。日本男児としてのプライドはないのだろうか。慎一郎は、ずっと康太郎と智広の関係を軽蔑していた。
「智広の奴。心を壊したらしい」
康太郎が吐き捨てるように言った。
「心を?」
「理由はわからないが。セックスもできないような愛人はいらない」
康太郎の冷たい言葉に、慎一郎は智広へ同情してしまった。康太郎にとって、智広は壊れたオモチャのようなものなのだろう。使えなくなったら、愛情など抱かない。
「俺はこれから貴美子達を迎えに行く。頼んだぞ」
「頼む」と言いながらも、その口調は否定を許さなかった。康太郎にとって、実弟は自分の手足となって動く駒に過ぎないのだ。慎一郎は茶封筒を手に取ると、暑い外へと一歩を踏み出した。
「慎一郎様。康太郎様がこちらのお車を使うようにと」
田沼の声に振り向けば、真新しいクラウンが用意されていた。
「康太郎様が、歩いていくのは難儀だろうと」
「…わかった」
豪華な装飾がされているクラウンは、正直、慎一郎の趣味ではなかった。だが、この暑い中を歩いていく気力は慎一郎にはなかった。乗り心地は、さすがに国産車だと言えた。
郊外にある前島の別邸に、智広はお手伝いのヨネと二人暮らしをしているらしい。心を壊したというのは気になるが、どっちみち慎一郎には関係のない事だ。左右に広がる緑は、都内である事を忘れさせた。
(ここか)
周囲の家から、まるで隠されるように建つ日本家屋。慎一郎は襟を正すと、チャイムへ指を伸ばそうとした。すると、
「高村、様?」
か細い声が聞こえてきた。声がする方を見れば、今にも倒れそうな顔をした青年が立っていた。
「あの、僕は…」
事情を説明しようとした瞬間。智広がフラッとよろめきながら歩いてきた。そして、今にも折れそうな腕を伸ばしてくる。その顔を見た瞬間。慎一郎は、その美しさに言葉を失った。
「会いたかった…っ」
しがみついてくる智広を、慎一郎は戸惑いながらも受け止めた。絹のような黒髪に、陶磁器のような青白い肌。長い睫毛には、涙の雫がちりばめられている。
「智広様?どうか…、高村様?」
手伝いをしているヨネがドアを開ける。そして、訝しげな表情で慎一郎を見た。慎一郎が口を開いた瞬間。ふと、腕が重くなった。
「おい…っ」
「智広様っ」
智広は慎一郎の腕の中で意識を失っていた。


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