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第ニ話
罪な口づけ
前島智広。
前島木材店の末っ子で、両親や兄弟から溺愛されて育った。美大生の頃、実家が困窮。前島木材店と長年仕事の付き合いがあった事から、康太郎の愛人となる。康太郎に妻子がいると知りながら、その美しい容姿で誘惑した男妾。それが、慎一郎の抱いていたイメージだった。
(彼が、前島智広?)
慎一郎は、これまで智広と直接会った事はない。一度見かけたぐらいで、彼の人となりを知りはしなかった。これまで自分が抱いていたイメージとあまりにも違いすぎて、正直困惑していた。
「本当に、よく似ていらっしゃいます」
慎一郎にお茶を出しながら、ヨネが感心したように呟く。智広が赤ん坊の頃から使用人をしているという彼女は、年齢の割には肌ツヤがよく動きも俊敏だ。以前は通いで智広の世話をしていたらしいが、最近はずっと泊まり込んでいるという。
「まるで双子みたいでしょ?」
慎一郎の苦笑に、ヨネも笑みを浮かべた。
幼い頃から、康太郎とは双子のように似ていると嫌というほど言われてきた。優秀で活発な康太郎。優秀だが世渡り下手な慎一郎。外見は似ているが中身は違うと、散々陰口を叩かれてきたものだ。
「高村慎一郎といいます。今は、高校で音楽を教えています」
慎一郎が音楽教師になったのは、康太郎への嫌味だった。完璧のような彼だが、音楽はからっきしダメなのだ。音楽に関する話題の時だけは、慎一郎が中心になれた。
「あの、今日はなんのご用でしょう?」
ヨネの質問に、慎一郎は本来の目的を思い出した。鞄から茶封筒を取り出し、テーブルの上を滑らせる。
「兄から、これを預かってきました」
「なんです?」
茶封筒の中身を確認したヨネは、それまでの穏やかさが嘘のように激怒した。
「いい加減にしてくださいっ。お金、お金って…。智広様は物ではありませんっ」
理不尽な怒りに、慎一郎は慌てた。事情も何も知らない自分に言われても、何もできないというのが現状だ。ヨネもハッと口を手で抑えると、慎一郎に謝罪した。
「申し訳ありません。つい…」
ヨネはよほど不満があったのか、かなり息を荒くしていた。チラッと智広が休んでいる部屋を見て、溜め息を吐く。
「智広さんが19歳の誕生日を迎えた頃でした。旦那様の事業が失敗し、多額の負債を抱えたのは…」
智広の父親は、元々商才がなかった男らしい。家業を継いだものの業績は悪化、一家は路頭に迷う寸前だった。
「その時に、高村様から融資のお話があったんです」
元々仕事上の付き合いがあった前島木材店に、康太郎は簡単に二千万の融資を申し出たそうだ。慎一郎は、康太郎の性格をよく知っている。彼が善意で多額の金を出すとは思えない。
「高村様の条件は、智広様でした」
智広は日本舞踊を習っていた。度々舞台で舞うその姿を、康太郎はいたく気に入っていたそうだ。
「旦那様は激怒しました。ですが、智広様は自らその身を差し出したのです」
康太郎と智広が契りを結んだ事は、すぐに父親に知られたそうだ。智広は隠されるようにこの屋敷に閉じ込められた。
「智広様は、純粋に高村様を慕っていました。高村様が妻帯者と知っていても、ただひたすら尽くしていたのです」
ヨネの目から見ても2人は仲睦まじく、お似合いだったそうだ。ヨネの瞳が庭のベンチへと向く。
「智広様は、毎日毎日あそこで高村様を待っていました。電話や手紙さえ許されず、日陰の身だというのに…。ただ高村様が訪れるのを待ちわびていました」
恋を知らないうちに男に抱かれ、その甘い睦事を信じた智広。康太郎の愛をひたすら待ちわびていた。
「数ヶ月前、高村様がここへ来ました。智広様と別れるために…」
ヨネの瞳から大粒の涙が溢れる。
「それからです。智広様の様子が変になったのは…。別れなどなかったように、あのベンチで高村様を待ち続けてるんです」
見るに見かねたヨネは、康太郎に何度か連絡をとったらしい。その度に、『もう終わった事だ』と一蹴されたそうだ。
「あまりにも智広様が不憫で…」
涙を拭うヨネを見ながら、慎一郎は智広の事を思い出していた。抱き上げた身体は細く、綿のように軽かった。金のためだけに男に身売りしたと思っていたが、そうではないらしい。これまで蔑んでいた智広という青年を、慎一郎は初めて知りたいと思った。
長い廊下を進み、慎一郎は智広が眠る寝室へと向かった。八畳ほどの部屋には、机と椅子、そして古いグランドピアノが置かれている。奥にあるダブルベッドで、智広は寝ていた。
(質素な部屋だな)
先程気絶した智広を運んだ時にも思ったが、とても寂しい部屋だと思った。本棚には、スコアがびっしりと並んでいる。智広は椅子をベッド脇に置くと智広の寝顔をジッと見つめた。
(まるで、眠りの森の美女だな)
智広は男なのだから、『美女』という表現はおかしい。だが、長い睫毛や柔らかな頬は彼を男性らしくは見せなかった。
(…我ながら、お人好しだ)
慎一郎は、ヨネからある頼まれごとをされた。康太郎のふりをして、智広と話をしてほしいというのだ。
『一度だけでいいのです。智広様を助けてください』
智広が信じるかどうかはわからないが、ヨネの言葉に慎一郎は逆らえなかった。このままでは、智広の心は康太郎のせいで壊れてしまうかもしれない。しばらく寝顔を見つめていれば、智広がゆっくりと目蓋を開ける。
「高村、様?」
焦点の合っていない瞳が慎一郎を見つめる。ガラス玉のように美しい瞳に、慎一郎は思わず息を呑んだ。戸惑う慎一郎に気付かず、智広が身体を起こす。白く細い指が、慎一郎の前髪を整えた。
「髪型を変えたのですか?いつもと違いますね」
弱々しい智広の笑みに、慎一郎は言葉がスムーズには出なかった。
「クラウンのエンジン音を聞いて、思わず駆け出していました」
クスクスと智広が笑う。その可憐さに、慎一郎は思わず引き込まれそうになった。ふと智広が表情を曇らせる。
「この間、夢を見たのです。高村様から、別れを言われる悲しい夢を…」
「…」
慎一郎には、どう答えたら良いかわからなかった。
「なかなかこれなくて済まない」
慎一郎が話題を変えるように言えば、智広が慌てて首を横に振る。
「とんでもないです。私なんかより、ご家族を大切にしてください」
その言葉が本心でない事ぐらい、慎一郎にもわかる。智広の笑顔は哀しそうで、指は祈るように組まれていた。
「少しだけ、ワガママ、いいですか?」
「え?」
智広の指が頬に触れたかと思った瞬間。智広に唇を塞がれていた。柔らかく暖かな感触に、慎一郎は何も考えられなくなった。
この口づけが慎一郎の全てを変えた。
前島木材店の末っ子で、両親や兄弟から溺愛されて育った。美大生の頃、実家が困窮。前島木材店と長年仕事の付き合いがあった事から、康太郎の愛人となる。康太郎に妻子がいると知りながら、その美しい容姿で誘惑した男妾。それが、慎一郎の抱いていたイメージだった。
(彼が、前島智広?)
慎一郎は、これまで智広と直接会った事はない。一度見かけたぐらいで、彼の人となりを知りはしなかった。これまで自分が抱いていたイメージとあまりにも違いすぎて、正直困惑していた。
「本当に、よく似ていらっしゃいます」
慎一郎にお茶を出しながら、ヨネが感心したように呟く。智広が赤ん坊の頃から使用人をしているという彼女は、年齢の割には肌ツヤがよく動きも俊敏だ。以前は通いで智広の世話をしていたらしいが、最近はずっと泊まり込んでいるという。
「まるで双子みたいでしょ?」
慎一郎の苦笑に、ヨネも笑みを浮かべた。
幼い頃から、康太郎とは双子のように似ていると嫌というほど言われてきた。優秀で活発な康太郎。優秀だが世渡り下手な慎一郎。外見は似ているが中身は違うと、散々陰口を叩かれてきたものだ。
「高村慎一郎といいます。今は、高校で音楽を教えています」
慎一郎が音楽教師になったのは、康太郎への嫌味だった。完璧のような彼だが、音楽はからっきしダメなのだ。音楽に関する話題の時だけは、慎一郎が中心になれた。
「あの、今日はなんのご用でしょう?」
ヨネの質問に、慎一郎は本来の目的を思い出した。鞄から茶封筒を取り出し、テーブルの上を滑らせる。
「兄から、これを預かってきました」
「なんです?」
茶封筒の中身を確認したヨネは、それまでの穏やかさが嘘のように激怒した。
「いい加減にしてくださいっ。お金、お金って…。智広様は物ではありませんっ」
理不尽な怒りに、慎一郎は慌てた。事情も何も知らない自分に言われても、何もできないというのが現状だ。ヨネもハッと口を手で抑えると、慎一郎に謝罪した。
「申し訳ありません。つい…」
ヨネはよほど不満があったのか、かなり息を荒くしていた。チラッと智広が休んでいる部屋を見て、溜め息を吐く。
「智広さんが19歳の誕生日を迎えた頃でした。旦那様の事業が失敗し、多額の負債を抱えたのは…」
智広の父親は、元々商才がなかった男らしい。家業を継いだものの業績は悪化、一家は路頭に迷う寸前だった。
「その時に、高村様から融資のお話があったんです」
元々仕事上の付き合いがあった前島木材店に、康太郎は簡単に二千万の融資を申し出たそうだ。慎一郎は、康太郎の性格をよく知っている。彼が善意で多額の金を出すとは思えない。
「高村様の条件は、智広様でした」
智広は日本舞踊を習っていた。度々舞台で舞うその姿を、康太郎はいたく気に入っていたそうだ。
「旦那様は激怒しました。ですが、智広様は自らその身を差し出したのです」
康太郎と智広が契りを結んだ事は、すぐに父親に知られたそうだ。智広は隠されるようにこの屋敷に閉じ込められた。
「智広様は、純粋に高村様を慕っていました。高村様が妻帯者と知っていても、ただひたすら尽くしていたのです」
ヨネの目から見ても2人は仲睦まじく、お似合いだったそうだ。ヨネの瞳が庭のベンチへと向く。
「智広様は、毎日毎日あそこで高村様を待っていました。電話や手紙さえ許されず、日陰の身だというのに…。ただ高村様が訪れるのを待ちわびていました」
恋を知らないうちに男に抱かれ、その甘い睦事を信じた智広。康太郎の愛をひたすら待ちわびていた。
「数ヶ月前、高村様がここへ来ました。智広様と別れるために…」
ヨネの瞳から大粒の涙が溢れる。
「それからです。智広様の様子が変になったのは…。別れなどなかったように、あのベンチで高村様を待ち続けてるんです」
見るに見かねたヨネは、康太郎に何度か連絡をとったらしい。その度に、『もう終わった事だ』と一蹴されたそうだ。
「あまりにも智広様が不憫で…」
涙を拭うヨネを見ながら、慎一郎は智広の事を思い出していた。抱き上げた身体は細く、綿のように軽かった。金のためだけに男に身売りしたと思っていたが、そうではないらしい。これまで蔑んでいた智広という青年を、慎一郎は初めて知りたいと思った。
長い廊下を進み、慎一郎は智広が眠る寝室へと向かった。八畳ほどの部屋には、机と椅子、そして古いグランドピアノが置かれている。奥にあるダブルベッドで、智広は寝ていた。
(質素な部屋だな)
先程気絶した智広を運んだ時にも思ったが、とても寂しい部屋だと思った。本棚には、スコアがびっしりと並んでいる。智広は椅子をベッド脇に置くと智広の寝顔をジッと見つめた。
(まるで、眠りの森の美女だな)
智広は男なのだから、『美女』という表現はおかしい。だが、長い睫毛や柔らかな頬は彼を男性らしくは見せなかった。
(…我ながら、お人好しだ)
慎一郎は、ヨネからある頼まれごとをされた。康太郎のふりをして、智広と話をしてほしいというのだ。
『一度だけでいいのです。智広様を助けてください』
智広が信じるかどうかはわからないが、ヨネの言葉に慎一郎は逆らえなかった。このままでは、智広の心は康太郎のせいで壊れてしまうかもしれない。しばらく寝顔を見つめていれば、智広がゆっくりと目蓋を開ける。
「高村、様?」
焦点の合っていない瞳が慎一郎を見つめる。ガラス玉のように美しい瞳に、慎一郎は思わず息を呑んだ。戸惑う慎一郎に気付かず、智広が身体を起こす。白く細い指が、慎一郎の前髪を整えた。
「髪型を変えたのですか?いつもと違いますね」
弱々しい智広の笑みに、慎一郎は言葉がスムーズには出なかった。
「クラウンのエンジン音を聞いて、思わず駆け出していました」
クスクスと智広が笑う。その可憐さに、慎一郎は思わず引き込まれそうになった。ふと智広が表情を曇らせる。
「この間、夢を見たのです。高村様から、別れを言われる悲しい夢を…」
「…」
慎一郎には、どう答えたら良いかわからなかった。
「なかなかこれなくて済まない」
慎一郎が話題を変えるように言えば、智広が慌てて首を横に振る。
「とんでもないです。私なんかより、ご家族を大切にしてください」
その言葉が本心でない事ぐらい、慎一郎にもわかる。智広の笑顔は哀しそうで、指は祈るように組まれていた。
「少しだけ、ワガママ、いいですか?」
「え?」
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