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第三話
許されない想い
智広と出会ってから、慎一郎の日常生活はかなり変わっていった。それまでは、ただ淡々と仕事をこなし家には寝に帰るぐらいだった。だが、智広に会いに行くようになってからというもの何もかもが楽しく感じる。
「何かいいことがあったんですか?」
隣の席の橘がコソコソと話しかけてくる。英語教諭で、生徒から絶大の人気を誇っている。イギリス製のスーツを着こなし、柔和な笑みが特徴的だ。
「あ、いえ。何もありません」
慌てて慎一郎が否定をしたものの、橘は誤魔化してはくれなかった。更に声を小さくして、慎一郎に耳打ちをする。
「恋をしてるって、顔に書いてありますよ」
言われた瞬間。慎一郎は耳まで赤くなった。カラカラと笑う橘を見て、やっと自分がからかわれたのだと気がついた。橘は楽しそうに笑うと、ふと真顔になり慎一郎を見る。
「今の高村先生は、以前よりも『生きている』という感じがします」
「は?」
「その方がずっと良いですよ。家柄や立場に縛られる事はない。あなたはあなたでしかないのだから」
ズキッとした。橘は、もしかしたら慎一郎のコンプレックスに気付いているのかもしれない。
(僕は、僕にしかなれない)
帰り支度をした後、廊下の鏡で身だしなみをチェックしながら慎一郎は複雑な気持ちになる。いつもは着ないイタリア製の高級スーツ。前髪の分け目を康太郎と同じ左にする。親しい人でさえも、一瞬で康太郎との違いを見抜く事は難しいだろう。だが、それは外見的な事だけだ。中身までは康太郎になれない。
(いつまで、続けられるだろうか)
あの日以来、慎一郎は度々智広の元を訪れていた。もちろん、康太郎としてだ。
「いらっしゃいませ。高村様」
呼び鈴を鳴らせば、すぐにヨネが開けてくれる。ここのところ智広の体調が回復し、彼女も上機嫌だ。手土産に持ってきた『蜜月堂』の豆大福を渡すと、更に笑みが深くなった。
「いつもすみません」
「いえ。智広さんはお元気ですか?」
「ええ、ええ。週末になるのをソワソワして待っていますよ」
「…そうですか」
今は慎一郎を康太郎だと思っている智広。だがそれは、智広の心が弱っているせいだ。気力を取り戻せば、すぐに康太郎でない事はバレてしまうだろう。
「あの、小切手はまだ受け取ってもらえませんか?」
康太郎から預かった小切手を、ヨネは頑なに受け取ってはくれなかった。
「智広様がお元気になられたら、渡してください。私が受けとるわけにはいきません」
慎一郎としては複雑だった。康太郎には渡したと報告した手前、受け取ってもらわなくては困る。だが、小切手を智広に手渡したら彼には会えなくなる。慎一郎の気持ちは揺らいだ。
「高村様っ」
パタパタと廊下を走る音がして、智広が駆けてくる。そして、幼い子供のように慎一郎の胸へと飛び込んできた。
「智広様。お行儀が悪いですよ」
「うるさいな」
ヨネの言葉に、智広が子供のように頬を膨らませる。そんな智広を、慎一郎は優しく抱き締めた。智広が驚いたように顔を上げ、すぐに破顔する。
愛おしい。
そんな単語が、自然と慎一郎の胸に浮かんできた。
「豆大福を買ってきたよ」
「嬉しい。私の好物を覚えていてくださったんですね」
慎一郎は智広の肩を抱くと、奥の部屋へと向かった。ヨネからある程度の情報は聞いている。智広の好物や、好きな色、康太郎とどのように過ごしてきたのかも…。康太郎は週末になると、智広の家に泊まっていったそうだ。
(そういえば、よく週末はいなかったな)
康太郎と智広が2人っきりでどのように過ごしていたのかは、さすがにヨネもわからないだろう。1人で寝るには広いベッド。このベッドの上で2人は…。
「美味しい」
嬉しそうな声にハッとなれば、智広が豆大福を美味しそうに頬張っていた。時々、彼がひどく幼く見えた。智広の頬についた粉を唇で拭えば、潤んだ瞳が見つめてきた。慎一郎がゆっくりと顔を近づけると、その瞳が静かに閉じられる。
唇は、もう何度重ねたかわからない。ふっくらとした唇は、まるで綿菓子のようだ。甘くて、いつまでも味わいたくなる。遠慮がちに舌を絡ませてくる智広が、かわいくて仕方ない。もし、慎一郎に理性がなかったらとっくにベッドへ押し倒していただろう。
「昨夜も眠れなかったのか?」
長い長いキスの後で、慎一郎は智広の目の下を指でなぞる。
「…なぜか、寝ると嫌な夢を見るんです。高村様が私の元から去っていく、そんな夢を」
慎一郎は智広を抱き締めて、その折れそうな肩に顔を埋めた。智広を知れば知るほど、彼を好きになっていく。
許されないのに、欲しいと願ってしまう。
ヨネの話によると、智広の母親は前島家に後妻として来たらしい。そのため、親族のなかでもかなり立場が危うかった。智広が自ら身を差し出したのは、母親の立場を少しでもよくしたかったからだそうだ。これまで、智広の事を軽蔑していた自分が慎一郎は恥ずかしくてならなかった。
「…高村様?」
智広は康太郎の事を苗字で呼ぶように言われているらしい。万が一外で会った時も、違和感がないように…。社会的地位を気にする康太郎らしい。散々遊んでいながら、彼の醜聞が流れないのはこういう事なのだ。
「高村様。どうかしましたか?」
いつまでも離さない慎一郎を心配して、智広が声をかける。
「その呼び方、やめないか?」
「え?」
身体を離した慎一郎は、できるだけゆったりとした話し方を意識した。康太郎のように…。
「いつまでも他人行儀な気がする」
「ですが、どのように呼べば…」
戸惑ったように智広が視線をさ迷わせる。
「好きなように呼ぶといい。俺もこれからは『智』と呼ぶ事にする」
慎一郎の言葉に、智広がパッと表情を明るくした。本当は、慎一郎が耐えられなかったのだ。智広が呼ぶ『高村様』というのは、康太郎の事だ。呼ばれる度に、智広がどれだけ康太郎を愛しているのかを知る事になった。せめて、違う呼び方をして欲しかった。
「あ、あの。旦那様と呼んでもいいですか?」
躊躇いがちに智広が申し出る。慎一郎は、優しくその前髪をかきあげた。
「ああ。そう呼びたいなら、構わない」
「嬉しいです。とても」
はにかんだ笑みを浮かべる智広に、慎一郎の心は逸った。康太郎より先に智広に会いたかったと慎一郎は思っていた。そうしたら、こんな寂しい想いはさせなかった。心の底から愛したのに…。
「今夜は、泊まっていかれますか?」
智広の声に、僅な期待がこもる。慎一郎は気付かないふりをして首を横に振った。
「すまない。明日は早いんだ」
「そう、ですか」
「疲れたろ?寝なさい」
「…はい」
智広が何を期待しているのかは、慎一郎にもわかっている。だが、このまま一線を越える事はできなかった。智広を、これ以上騙したくなかったから…。
慎一郎は、智広に恋心を抱き始めていた。
「何かいいことがあったんですか?」
隣の席の橘がコソコソと話しかけてくる。英語教諭で、生徒から絶大の人気を誇っている。イギリス製のスーツを着こなし、柔和な笑みが特徴的だ。
「あ、いえ。何もありません」
慌てて慎一郎が否定をしたものの、橘は誤魔化してはくれなかった。更に声を小さくして、慎一郎に耳打ちをする。
「恋をしてるって、顔に書いてありますよ」
言われた瞬間。慎一郎は耳まで赤くなった。カラカラと笑う橘を見て、やっと自分がからかわれたのだと気がついた。橘は楽しそうに笑うと、ふと真顔になり慎一郎を見る。
「今の高村先生は、以前よりも『生きている』という感じがします」
「は?」
「その方がずっと良いですよ。家柄や立場に縛られる事はない。あなたはあなたでしかないのだから」
ズキッとした。橘は、もしかしたら慎一郎のコンプレックスに気付いているのかもしれない。
(僕は、僕にしかなれない)
帰り支度をした後、廊下の鏡で身だしなみをチェックしながら慎一郎は複雑な気持ちになる。いつもは着ないイタリア製の高級スーツ。前髪の分け目を康太郎と同じ左にする。親しい人でさえも、一瞬で康太郎との違いを見抜く事は難しいだろう。だが、それは外見的な事だけだ。中身までは康太郎になれない。
(いつまで、続けられるだろうか)
あの日以来、慎一郎は度々智広の元を訪れていた。もちろん、康太郎としてだ。
「いらっしゃいませ。高村様」
呼び鈴を鳴らせば、すぐにヨネが開けてくれる。ここのところ智広の体調が回復し、彼女も上機嫌だ。手土産に持ってきた『蜜月堂』の豆大福を渡すと、更に笑みが深くなった。
「いつもすみません」
「いえ。智広さんはお元気ですか?」
「ええ、ええ。週末になるのをソワソワして待っていますよ」
「…そうですか」
今は慎一郎を康太郎だと思っている智広。だがそれは、智広の心が弱っているせいだ。気力を取り戻せば、すぐに康太郎でない事はバレてしまうだろう。
「あの、小切手はまだ受け取ってもらえませんか?」
康太郎から預かった小切手を、ヨネは頑なに受け取ってはくれなかった。
「智広様がお元気になられたら、渡してください。私が受けとるわけにはいきません」
慎一郎としては複雑だった。康太郎には渡したと報告した手前、受け取ってもらわなくては困る。だが、小切手を智広に手渡したら彼には会えなくなる。慎一郎の気持ちは揺らいだ。
「高村様っ」
パタパタと廊下を走る音がして、智広が駆けてくる。そして、幼い子供のように慎一郎の胸へと飛び込んできた。
「智広様。お行儀が悪いですよ」
「うるさいな」
ヨネの言葉に、智広が子供のように頬を膨らませる。そんな智広を、慎一郎は優しく抱き締めた。智広が驚いたように顔を上げ、すぐに破顔する。
愛おしい。
そんな単語が、自然と慎一郎の胸に浮かんできた。
「豆大福を買ってきたよ」
「嬉しい。私の好物を覚えていてくださったんですね」
慎一郎は智広の肩を抱くと、奥の部屋へと向かった。ヨネからある程度の情報は聞いている。智広の好物や、好きな色、康太郎とどのように過ごしてきたのかも…。康太郎は週末になると、智広の家に泊まっていったそうだ。
(そういえば、よく週末はいなかったな)
康太郎と智広が2人っきりでどのように過ごしていたのかは、さすがにヨネもわからないだろう。1人で寝るには広いベッド。このベッドの上で2人は…。
「美味しい」
嬉しそうな声にハッとなれば、智広が豆大福を美味しそうに頬張っていた。時々、彼がひどく幼く見えた。智広の頬についた粉を唇で拭えば、潤んだ瞳が見つめてきた。慎一郎がゆっくりと顔を近づけると、その瞳が静かに閉じられる。
唇は、もう何度重ねたかわからない。ふっくらとした唇は、まるで綿菓子のようだ。甘くて、いつまでも味わいたくなる。遠慮がちに舌を絡ませてくる智広が、かわいくて仕方ない。もし、慎一郎に理性がなかったらとっくにベッドへ押し倒していただろう。
「昨夜も眠れなかったのか?」
長い長いキスの後で、慎一郎は智広の目の下を指でなぞる。
「…なぜか、寝ると嫌な夢を見るんです。高村様が私の元から去っていく、そんな夢を」
慎一郎は智広を抱き締めて、その折れそうな肩に顔を埋めた。智広を知れば知るほど、彼を好きになっていく。
許されないのに、欲しいと願ってしまう。
ヨネの話によると、智広の母親は前島家に後妻として来たらしい。そのため、親族のなかでもかなり立場が危うかった。智広が自ら身を差し出したのは、母親の立場を少しでもよくしたかったからだそうだ。これまで、智広の事を軽蔑していた自分が慎一郎は恥ずかしくてならなかった。
「…高村様?」
智広は康太郎の事を苗字で呼ぶように言われているらしい。万が一外で会った時も、違和感がないように…。社会的地位を気にする康太郎らしい。散々遊んでいながら、彼の醜聞が流れないのはこういう事なのだ。
「高村様。どうかしましたか?」
いつまでも離さない慎一郎を心配して、智広が声をかける。
「その呼び方、やめないか?」
「え?」
身体を離した慎一郎は、できるだけゆったりとした話し方を意識した。康太郎のように…。
「いつまでも他人行儀な気がする」
「ですが、どのように呼べば…」
戸惑ったように智広が視線をさ迷わせる。
「好きなように呼ぶといい。俺もこれからは『智』と呼ぶ事にする」
慎一郎の言葉に、智広がパッと表情を明るくした。本当は、慎一郎が耐えられなかったのだ。智広が呼ぶ『高村様』というのは、康太郎の事だ。呼ばれる度に、智広がどれだけ康太郎を愛しているのかを知る事になった。せめて、違う呼び方をして欲しかった。
「あ、あの。旦那様と呼んでもいいですか?」
躊躇いがちに智広が申し出る。慎一郎は、優しくその前髪をかきあげた。
「ああ。そう呼びたいなら、構わない」
「嬉しいです。とても」
はにかんだ笑みを浮かべる智広に、慎一郎の心は逸った。康太郎より先に智広に会いたかったと慎一郎は思っていた。そうしたら、こんな寂しい想いはさせなかった。心の底から愛したのに…。
「今夜は、泊まっていかれますか?」
智広の声に、僅な期待がこもる。慎一郎は気付かないふりをして首を横に振った。
「すまない。明日は早いんだ」
「そう、ですか」
「疲れたろ?寝なさい」
「…はい」
智広が何を期待しているのかは、慎一郎にもわかっている。だが、このまま一線を越える事はできなかった。智広を、これ以上騙したくなかったから…。
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