悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています

かきんとう

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 ――あなたの婚約者に、立候補させてください。

 ルシアン・ヴァルフォード公爵の言葉は、あまりにも真剣で、あまりにも唐突だった。
 私はしばらく瞬きを繰り返し、ようやく声を絞り出した。

「……え?」

 間の抜けた返事になってしまったのは、許してほしい。
 だって、いきなりそんなことを言われるなんて、誰が想像するだろうか。

 ルシアン様は、一歩も退かずに私を見つめている。
 銀色の髪が窓から差し込む光を受けて、きらりと輝いた。整った顔立ち、落ち着いた物腰、そして社交界でも屈指の人気を誇る若き公爵。
 女性たちが夢中になる理由は、私にもよくわかる。

「……あの、冗談でしょうか?」

 恐る恐る尋ねると、彼は即座に首を振った。

「いいえ。本気です」

 迷いのない声だった。
 その真剣さに、私は言葉を失う。

「ですが……」

 ようやく口を開く。

「私はつい数日前に、婚約破棄されたばかりの身です」

「承知しています」

「悪役令嬢と噂されておりますし」

「存じています」

「社交界での評判も……」

「問題ありません」

 ……すべて即答だった。

 私は思わず、まじまじと彼を見つめてしまう。

「どうして……そこまで?」

 その問いに、ルシアン様は少しだけ視線を逸らし、そして小さく笑った。

「昨日の夜会で、あなたを拝見しました」

「……はい」

「堂々と、婚約破棄を受け入れる姿を」

 彼はゆっくりと続ける。

「誰よりも誇り高く、美しかった」

 胸が、どくりと鳴った。

 不意打ちだった。
 そんなふうに言われるとは、思ってもいなかった。

「私は……」

 彼は少しだけ声を低くする。

「あなたが泣き叫ぶ姿を、期待していた一人です」

「……」

「ですが、違った」

 再び、まっすぐに私を見つめる。

「あなたは、最後まで優雅で、冷静で、そして……とても寂しそうだった」

 言葉が、胸の奥に落ちてくる。

 誰にも気づかれないと思っていた。
 あのときの気持ちは、きっと誰にも見えていないと。

 なのに。

「……見ていらしたのですね」

「ええ」

 彼は頷いた。

「だから思ったのです」

 一歩、近づく。

 距離が、ぐっと縮まる。

「この方を、独りにしてはいけない、と」

 ――ずるい。

 そんなふうに言われたら。
 心が、少しだけ揺れてしまう。

「ですが」

 私はなんとか平静を保ちながら言った。

「私は今、誰とも婚約するつもりはございません」

 はっきりと、告げる。

「しばらくは、静かに暮らしたいのです」

「……なるほど」

 ルシアン様は、意外にもすぐに頷いた。

「では」

 そして、さらりと言った。

「婚約ではなく、求婚という形にいたしましょう」

「違いがよくわかりません」

 思わず即答してしまった。

 彼は少しだけ笑う。

「つまり」

 柔らかな声で続ける。

「今すぐ答えを求めるつもりはない、ということです」

「……」

「あなたが、もう一度誰かを好きになれるまで」

 静かに、しかし確かな声で言う。

「私は待ちます」

 胸が、じんわりと温かくなる。

 こんなふうに言われたのは、初めてだった。

 レオナルド殿下との婚約は、幼い頃から決められていたもの。
 恋愛というより、義務に近かった。

 だから――

 “待つ”
 という選択肢があること自体、新鮮だった。

「……ありがとうございます」

 私は小さく頭を下げた。

「ですが、本当に待たせてしまうかもしれません」

「構いません」

「何年も」

「何十年でも」

 さらりと言う。

 ……この方、なかなか重たいことを言う。

 私は思わず、少しだけ笑ってしまった。

「では」

 ルシアン様は満足そうに微笑んだ。

「まずは、お友達から始めましょう」

「お友達……」

「ええ」

 彼は軽く手を差し出した。

「私と、仲良くしていただけますか?」

 その仕草は、とても自然で。
 押しつけがましさがまったくない。

 私は少しだけ迷ってから――

 その手を、そっと取った。

「……はい」

 その瞬間。
 彼の表情が、ほんのわずかに柔らいだ。

 まるで、とても嬉しそうに。

 ――コンコン。

 そのとき、扉がノックされた。

「失礼いたします!」

 侍女のリナが慌てた様子で顔を出した。

「お嬢様、大変です!」

「どうしたの?」

「また王城から使者が……!」

 私は思わず、額に手を当てた。

「今度は、どなた?」

 リナは、困った顔で言った。

「王太子殿下です……」

 ……また。

 私は小さくため息をついた。

 応接室の扉が開き、レオナルド殿下が姿を現した。

 そして――

「……ルシアン?」

 ぴたりと足を止めた。

 その視線は、私とルシアン様の間で交互に揺れる。
 ちょうど今、私たちは手を取り合っていたのだから、無理もない。

 数秒の沈黙。

 そして。

「……何をしている?」

 低く、抑えた声。

 明らかに不機嫌だった。

 ルシアン様は、まったく動じない。

「ご覧の通りです」

 穏やかに答える。

「エレノア嬢と、親交を深めております」

「親交……?」

 殿下の眉がぴくりと動く。

「はい」

 ルシアン様は、さらりと言った。

「求婚いたしました」

 その瞬間。

 空気が凍った。

「……は?」

 殿下の顔が、信じられないほど固まる。

「求婚……?」

「ええ」

「なぜだ」

 殿下は、ゆっくりと私を見る。

「君は……婚約を破棄されたばかりだぞ」

「はい」

「それなのに……もう次の相手を?」

 ……その言い方は、少しだけ引っかかる。

 私は静かに答えた。

「私は、まだお返事をしておりません」

「……」

「お友達として、お付き合いすることになっただけです」

 すると殿下の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 だが、すぐにまた険しくなる。

「それでも早すぎる」

「そうでしょうか?」

「そうだ」

 殿下はきっぱりと言った。

「君は今、心が弱っている」

「……」

「そんなときに判断を下すべきではない」

 その言葉は、どこか必死だった。

 私は静かに尋ねる。

「では、殿下」

「何だ」

「私は、いつまで弱っていなければならないのでしょう?」

 殿下は、言葉に詰まった。

 私は続ける。

「婚約を破棄された以上、私は前に進まなければなりません」

「……」

「それとも」

 ほんの少しだけ首を傾げる。

「殿下は、私がいつまでも悲しんでいるほうが都合がよろしいのですか?」

 沈黙。

 重い沈黙。

 やがて、殿下は苦しそうに口を開いた。

「……違う」

 低い声。

「私はただ」

 言葉を探すように、視線を落とす。

「君が……」

 そして。

「誰かのものになるのが」

 かすかに震える声で。

「こんなにも、嫌だとは思わなかった」

 胸が、大きく揺れた。

 ルシアン様も、静かに息を呑んだのがわかる。

 私は、しばらく何も言えなかった。

 だが。

 ゆっくりと、言葉を選ぶ。

「殿下」

「……」

「私は、もう殿下の婚約者ではございません」

 静かに、しかしはっきりと告げる。

「それでも」

 殿下は顔を上げた。

 その瞳は、今まで見たことがないほど真剣だった。

「それでも、君を手放したくない」

 空気が、ぴんと張り詰める。

 私は息を止めた。

 そして――

 自分の心が、まだ完全には整理できていないことを、はっきりと自覚した。

 新しい想いが芽生え始めているのか。
 それとも、過去がまだ消えていないのか。

 わからない。

 ただ一つ、確かなのは。

 婚約破棄をあっさり受け入れたあの日から。
 なぜか周囲の人々は、ますます困り。
 そして――

 私の心もまた、静かではいられなくなっている、ということだった。

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