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第38話 読書と勉強と
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返事を待つしかない私はただ、どこか遠くを見つめる辻先生の目をなんとなく眺める。
しばらくするとその目は私に戻ってきて、視線が合うと優しく微笑みかけてくれた。
「……世の中にはね、その時その時にしか経験できないこと、感じられない思い、抱けない感情がたくさんあるのよ。あなたたちにはそれを逃さないでほしい」
そう言った辻先生の声は、さっきまでとは打って変わって静かだった。
さっきまで友達のお姉ちゃんだったはずの辻先生が、今では大人の女性に見える──こう言ってはなんだけど、少しやつれ気味の大人の女の人に。
「先生は……それを手に入れられなかった、んですか?」
聞いていいものか少し迷ったけど、結局私はそう尋ねた。私相手になら簡単にはぐらかせるだろうし、辻先生がそれを選ぶなら追及しないつもりだった。
でも辻先生は少し考えて、それからこう言った。
「そうね……そうなのかもしれない。どんなにたくさん本を読んでも、漫画を読んでも映画を見ても、それは全部ニセモノだから。本物の経験ではないから」
「──!」
それは私の読書観ととてもよく似ていた。とてもよく似ているのに全然違う──まるで正反対にも思えるような見方だった。
「私は……疑似体験のために本を読んでいるような感じです。おこがましいのかもしれないですけど、自分が本当には経験していないことを、作中の人物を通して経験できたような……」
辻先生の考えに異を唱えようなんて思ったわけではなかった。それでもつい口にしてしまったのだ。
余計なことを言ってしまったかと不安になり始めた時、辻先生が微笑んだ。
「私もそう思うわ。一人の人間が一生のうちに全てを経験するなんて無理だし、だからこそ読書体験は貴重で価値がある。でも……実体験にはかなわない」
辻先生の言うことは正しい。昔から「百聞は一見に如かず」なんて言葉が連綿と受け継がれてくるくらいなのだから。
「私は今こうして、高校という場所で一日の大半の時間を過ごしてる。富永さんや他のみんなと同じように。でもどんなに近くにいたって、私が高校生に戻れるわけじゃない。高校生としての経験を積めるわけでもない。だから──」
辻先生は、そこで我に返ったようにはっと言葉を止めた。
「ごめんなさい、こんなこと現役の高校生に言っても仕方ないわよね。忘れて」
忘れて、と言われて忘れられるものではないのでは……思ったところで、これは「この話はもう終わり」の意味だと気づく。
でももう少し辻先生と話していたくて、というか辻先生の話が聞きたくて、私は質問を投げかけることにした。
「辻先生は……どんな学生時代だったんですか?」
あまり話題を変えられていない気がしないでもないけれど、辻先生は機嫌よく「あら」と身を乗り出した。
「もうたった一言で言えちゃうわ。『勉強漬け』よ」
笑いながらそう言って、我に返ったように上体を元に戻す。辻先生に上半身を預けられた椅子の背が軋んだ。
「地元の進学校で勉強して勉強して、なんとか現役で国立大に滑り込んで。でもそこでも勉強勉強勉強。とにかく授業料の元はとらなきゃって、とれる授業は全部とってた感じ」
比較的最近だと思うのに、辻先生はまるで遠い過去の話をするかのような調子で語り始めた。
私はそれをどこか不思議な気持ちで聞いていく。
「ほんとは教職──教員免許の取得も目指してたんだけど、語学や文学の授業が大変すぎて諦めたの。それとは別に、いくつも余分な単位を取ってようやく司書の資格だけはとった。でも卒業間際に気づいちゃってね──もっと偏差値の低い大学に入っていれば、教職も司書もずっと簡単に取得できたんだって」
それは仮にも学校側──教員に近い側にいる辻先生が生徒である私に対して口にする内容としては、適切とは言えないのかもしれない。
それでも辻先生が何を言わんとしているのかはなんとなくわかった。中学の時の同級生にも、指定校推薦の校内選抜で有利になるようわざと進学する高校のレベルを下げた子がいたから。
「それで、もうなんのために頑張ってきたのかわかんなくなっちゃって。でも、こんな大変な思いをしてとったんだから意地でもこの資格は使ってやるって学校司書になったわけだけど。まあ、教職に関しては……今こうして高校で働いてて、とても私には務まらないってわかったからもう割り切れてるけどね」
ややおどけて言う辻先生に、私は曖昧にうなずいた。辻先生に務まらないとは思わないけど、教師というのは生徒である私から見ても大変な職業だと思う。
「もちろん、勉強が大事じゃないって言ってるわけじゃないわ。教師が異口同音に言う『学生の本分は勉強』には実が伴ってる。知識は身を助ける──最強の矛にも盾にも化ける知識を身につける手段こそが勉強。私自身たくさん勉強してきたからこそ、勉強の大切さは自信をもって宣言できる。もちろん、富永さんならわかってくれてると思うけど」
これにはしっかりとうなずくことができた。
勉強することには、多くの人が考えているよりもはるかに大きな意義と価値がある。幼いころはただ言われてやるだけだったけど、勉強は単純に選択肢の幅を大きく広げるのだということが今ではよくわかっている。
辻先生の言う通り、知識は一番手軽に身につけられる鎧だと思う。
しばらくするとその目は私に戻ってきて、視線が合うと優しく微笑みかけてくれた。
「……世の中にはね、その時その時にしか経験できないこと、感じられない思い、抱けない感情がたくさんあるのよ。あなたたちにはそれを逃さないでほしい」
そう言った辻先生の声は、さっきまでとは打って変わって静かだった。
さっきまで友達のお姉ちゃんだったはずの辻先生が、今では大人の女性に見える──こう言ってはなんだけど、少しやつれ気味の大人の女の人に。
「先生は……それを手に入れられなかった、んですか?」
聞いていいものか少し迷ったけど、結局私はそう尋ねた。私相手になら簡単にはぐらかせるだろうし、辻先生がそれを選ぶなら追及しないつもりだった。
でも辻先生は少し考えて、それからこう言った。
「そうね……そうなのかもしれない。どんなにたくさん本を読んでも、漫画を読んでも映画を見ても、それは全部ニセモノだから。本物の経験ではないから」
「──!」
それは私の読書観ととてもよく似ていた。とてもよく似ているのに全然違う──まるで正反対にも思えるような見方だった。
「私は……疑似体験のために本を読んでいるような感じです。おこがましいのかもしれないですけど、自分が本当には経験していないことを、作中の人物を通して経験できたような……」
辻先生の考えに異を唱えようなんて思ったわけではなかった。それでもつい口にしてしまったのだ。
余計なことを言ってしまったかと不安になり始めた時、辻先生が微笑んだ。
「私もそう思うわ。一人の人間が一生のうちに全てを経験するなんて無理だし、だからこそ読書体験は貴重で価値がある。でも……実体験にはかなわない」
辻先生の言うことは正しい。昔から「百聞は一見に如かず」なんて言葉が連綿と受け継がれてくるくらいなのだから。
「私は今こうして、高校という場所で一日の大半の時間を過ごしてる。富永さんや他のみんなと同じように。でもどんなに近くにいたって、私が高校生に戻れるわけじゃない。高校生としての経験を積めるわけでもない。だから──」
辻先生は、そこで我に返ったようにはっと言葉を止めた。
「ごめんなさい、こんなこと現役の高校生に言っても仕方ないわよね。忘れて」
忘れて、と言われて忘れられるものではないのでは……思ったところで、これは「この話はもう終わり」の意味だと気づく。
でももう少し辻先生と話していたくて、というか辻先生の話が聞きたくて、私は質問を投げかけることにした。
「辻先生は……どんな学生時代だったんですか?」
あまり話題を変えられていない気がしないでもないけれど、辻先生は機嫌よく「あら」と身を乗り出した。
「もうたった一言で言えちゃうわ。『勉強漬け』よ」
笑いながらそう言って、我に返ったように上体を元に戻す。辻先生に上半身を預けられた椅子の背が軋んだ。
「地元の進学校で勉強して勉強して、なんとか現役で国立大に滑り込んで。でもそこでも勉強勉強勉強。とにかく授業料の元はとらなきゃって、とれる授業は全部とってた感じ」
比較的最近だと思うのに、辻先生はまるで遠い過去の話をするかのような調子で語り始めた。
私はそれをどこか不思議な気持ちで聞いていく。
「ほんとは教職──教員免許の取得も目指してたんだけど、語学や文学の授業が大変すぎて諦めたの。それとは別に、いくつも余分な単位を取ってようやく司書の資格だけはとった。でも卒業間際に気づいちゃってね──もっと偏差値の低い大学に入っていれば、教職も司書もずっと簡単に取得できたんだって」
それは仮にも学校側──教員に近い側にいる辻先生が生徒である私に対して口にする内容としては、適切とは言えないのかもしれない。
それでも辻先生が何を言わんとしているのかはなんとなくわかった。中学の時の同級生にも、指定校推薦の校内選抜で有利になるようわざと進学する高校のレベルを下げた子がいたから。
「それで、もうなんのために頑張ってきたのかわかんなくなっちゃって。でも、こんな大変な思いをしてとったんだから意地でもこの資格は使ってやるって学校司書になったわけだけど。まあ、教職に関しては……今こうして高校で働いてて、とても私には務まらないってわかったからもう割り切れてるけどね」
ややおどけて言う辻先生に、私は曖昧にうなずいた。辻先生に務まらないとは思わないけど、教師というのは生徒である私から見ても大変な職業だと思う。
「もちろん、勉強が大事じゃないって言ってるわけじゃないわ。教師が異口同音に言う『学生の本分は勉強』には実が伴ってる。知識は身を助ける──最強の矛にも盾にも化ける知識を身につける手段こそが勉強。私自身たくさん勉強してきたからこそ、勉強の大切さは自信をもって宣言できる。もちろん、富永さんならわかってくれてると思うけど」
これにはしっかりとうなずくことができた。
勉強することには、多くの人が考えているよりもはるかに大きな意義と価値がある。幼いころはただ言われてやるだけだったけど、勉強は単純に選択肢の幅を大きく広げるのだということが今ではよくわかっている。
辻先生の言う通り、知識は一番手軽に身につけられる鎧だと思う。
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