この夢が醒めるまで──図書室から始まる恋の物語

蒼村 咲

文字の大きさ
41 / 52

第41話 勉強会vol.2

しおりを挟む
「わあ……」

 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、私の口からは感嘆の声が漏れた。

「どう? 気に入ってもらえた?」

 隣でにっこりと微笑む佐伯先輩に、私は首をぶんぶんと振ってうなずく。
 ダークブラウンを基調とした店内に絶妙に溶け込んだ観葉植物のグリーン。ソファ席はゆったりと配置されていて、まるでリビングのように寛げそうだった。カウンター席もある。
 そして何より、壁一面が本棚になっていて、何百冊もの本が並べられていた。

「いらっしゃいませ。二名様でしょうか」

 白いシャツにブラウンのエプロンの店員さんが近づいてきて会釈する。手に持っているのはメニューのようだ。

「すみません、二階席って空いてますか?」

 佐伯先輩が天井の方を指さしながら尋ねると、店員さんはにこやかにうなずいた。

「はい、大丈夫ですよ。こちらへどうぞ」

 私が(二階席……?)と思っている間に、店員さんはスタスタと歩き始める。見れば柱や梁と同じくダークブラウンの木材で作られた階段があった。

「足元にお気を付けくださいね」

 店員さんの言葉通り、かなり急な階段だった。佐伯先輩が「お先にどうぞ」と手で示したので、私は店員さんについて階段を上る。

(う、わあ……!)

 上り切った先にはロフト空間が広がっていた。一階にあったソファ席よりは小さな椅子やテーブルの席が四組ほど並べられている。
 こちらも壁一面とはいかないものの本棚が設置されていて、たくさんの本が並んでいた。ちらっと見た限りでは、あまりなじみのないジャンルの本がほとんどかもしれない──背表紙に見覚えがないのだ。

「お好きなお席へどうぞ」

 店員さんがそう言って壁際に避けてくれたので、私は後ろを振り返る。すると佐伯先輩は「あそこにします」と端の席を指さした。店の入り口がちょうど見える場所だ。

「こちらメニューでございます。お決まりのころお伺いに参りますね」

 店員さんはそう言い残し階段を下りて行った。

「すごい! 私こんなお店来たの初めてです!」

 キョロキョロと周囲を見回したながら言うと、佐伯先輩はにっこりと微笑んだ。

「富永さんならきっと気に入ると思ったんだよね」

 佐伯先輩のその考えは正しかったことになる。私は一瞬でこの空間の虜になってしまったから。

「ブックカフェなんて私初めてです!」

 話には聞いていたけれど、こんなにおしゃれで素敵なお店だなんて! そしてこんなお店が、ちょっと電車に乗れば行けちゃうような場所にあるなんて!

「前みたいに図書館だと、自習にはいいんだけどお手伝いには向かないから。でもこの店のこの席なら落ち着けるでしょ?」

 素敵空間すぎて気持ちが高ぶってしまうという意味ではあまり落ち着けないけど、なんて思いながらもうなずく。
 何か勉強のお供になる飲み物をということで、私たちはいっしょに自家製レモネードを注文した。

「……」

 早速テスト範囲の問題集を開いてみたものの、早々に頭が痛くなってくる。絶対値記号だとか不等号だとか、ややこしいことこの上ない。
 もしも本当に「すっきりと答えが出るのが数学」なのだとしたら、解が複数ある方程式だとか、等号以外の式だとかは数学に含めないでほしいと思う。
 でもこの種の主張が共感を得たことはないので、きっと私の感覚が変なのだろう。

(……わからない)

 文字と数字と記号がごちゃごちゃ並んだだけにしか見えない式とにらめっこして数分が経った気がする。なんとなく視線を感じた気がして顔を上げると、驚くほど近くに佐伯先輩の顔があった。

(──! し、心臓に悪い……)

 どきりと大きく跳ねた心臓を落ち着かせる。佐伯先輩はただ私の手元を覗き込んでいただけなのだから。

「この問題……どこでつまづいてるの?」

 私がまさに「わからない」と思った問題を指さして、佐伯先輩が尋ねた。

「最初から……」

「最初?」

 我ながら情けない回答だとは思うけど、事実なのだからしょうがない。

「なんでいきなり解答が分岐するのかわかんなくて……」

 解答例はいきなり「x≧2/3の場合」で始まり、その少し下には対になるように「x<2/3の場合」とある。いったいなんなんだ。

「分岐……? ああ、場合分けか。……うん。頭から順に見ていくと、まずはこの絶対値記号を処理しないといけなくて……」

 佐伯先輩は解答例では省かれている考え方や途中式を中心に、本当に文字通り懇切丁寧に説明してくれた。
 すると驚いたことに、予習はもちろん授業でも復習でも歯が立たなかった問題の「解き方」とでもいうのだろうか──そういうものがわかってきた気がするのだ。

 今まで問題を解くときはただ、過去に登場した似た形の例題の解き方を意味もわからずあてはめていただけだったのに、今では問題ごとに、解く過程でいったい何をしているのかがわかるようになっている。

「佐伯先輩……って、何者なんですか……」

 私自身ですら途中で何度も、いったいどれほど数学的思考に向いていない脳なんだと突っ込みたくはなったほどなのに、佐伯先輩はそれをものともせずに私に「理解」させたのだ。

「そんな大したことじゃないよ。わかる力が富永さんにもともとあっただけ」

 佐伯先輩はそう言って笑うけれど、私の理解力云々ではなく佐伯先輩の教える能力というかセンスというか、そういう何かがものを言ったことは明らかだった。じゃなきゃ私は数学でこんなに苦労せずに済んだはずだから。

「佐伯先輩が数学の先生だったら私ももっと得意になれたかな……」

 まあ、年齢差的にそれはありえないのだけど。でももし本当に佐伯先輩が数学の先生だったとしたら、「絶望的に数学ができない子」と見なされたくない一心で死ぬ気で勉強したんじゃないかという気はする。いわゆる不純な動機というやつだ。

「……どうだろうね」

 佐伯先輩がぽつりと言う。それが私のつぶやきに対する返事だと気づくまでに少し時間がかかった。

「今は富永さん一人のために、富永さんの考え方とか理解とか、得意不得意に合わせて説明できたからわかりやすかったかもしれないけど、教室で数十人を相手に教えるとなればそうはいかない」

 佐伯先輩の言うことは正しい──今までちんぷんかんぷんだった内容が理解できた高揚で忘れかけていたけれど、私はものすごく丁寧な説明をしてもらってようやくその理解にたどり着たのだ。

「もしも全員が完璧に理解できることを授業の条件にしたら、カリキュラムは絶対に終わらない。だから一定数が理解できればそれで授業としては十分と見なされ、理解できない生徒はそのままに進んでいく。学校教育ってそういうものなんだよ」

 珍しく皮肉っぽい物言いをする佐伯先輩を、私はなんだか新鮮な気持ちで眺めた。より正確に言うなら、着地点が気になったのだ。きっとどの科目においても「理解できる一定数」に入ってしまうだろう佐伯先輩の話の結論が。
 けれどそんな私の内心を知ってか知らずか、佐伯先輩はただ冗談めかして締めくくったのだった。

「だから僕は富永さん専属の先生でいることにするよ」

「──!?」

 否が応でも背筋が伸びる──佐伯先輩を先生に迎えてしまった以上、何があっても数学で赤点をとるわけにはいかない。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

“熟年恋愛”物語

山田森湖
恋愛
妻を亡くし、独りで過ごす日々に慣れつつあった 圭介(56)。 子育てを終え、長く封じ込めていた“自分の時間”をようやく取り戻した 佳奈美(54)。 どちらも、恋を求めていたわけではない。 ただ——「誰かと話したい」「同じ時間を共有したい」、 そんな小さな願いが胸に生まれた夜。 ふたりは、50代以上限定の交流イベント“シングルナイト”で出会う。 最初の一言は、たった「こんばんは」。 それだけなのに、どこか懐かしいような安心感が、お互いの心に灯った。 週末の夜に交わした小さな会話は、 やがて食事の誘いへ、 そして“誰にも言えない本音”を語り合える関係へと変わっていく。 過去の傷、家族の距離、仕事を終えた後の空虚—— 人生の後半戦だからこそ抱える孤独や不安を共有しながら、 ふたりはゆっくりと心の距離を縮めていく。 恋に臆病になった大人たちが、 無理をせず、飾らず、素のままの自分で惹かれ合う—— そんな“優しい恋”の物語。 もう恋なんてしないと思っていた。 でも、あの夜、確かに何かが始まった。

俺をフッた幼馴染が、トップアイドルになって「もう一度やり直したい」と言ってきた

夏見ナイ
恋愛
平凡な大学生・藤堂蓮には忘れられない過去がある。高校時代、告白した幼馴染の星宮瑠奈に「アイドルになるから」とこっ酷くフラれたことだ。 数年後、瑠奈は国民的アイドル『LUNA』として輝いていた。遠い世界の住人になった彼女との再会なんて、あるはずもなかった――そう、変装した彼女が俺の前に現れ、「もう一度やり直したい」と泣きつくまでは。 トップアイドルの立場を使い強引に迫る元幼馴染と、過去の傷。揺れ動く俺の日常を照らしてくれたのは、俺の才能を信じてくれる後輩・朝霧陽葵の存在だった。 俺をフッた幼馴染か、俺を支える後輩か。過去の清算と未来の選択を描く、ほろ苦くも甘い、逆転ラブコメディ、開幕。

駆け出しご当地アイドルがヤクザに一目惚れされた話

一ノ瀬ジェニファー
恋愛
ド田舎の道の駅で、持ち歌もグッズもないまま細々と活動を続けるご当地アイドル・桜あかり(16)。 夢は大きく武道館!……と言いたいところだけど、今はレジ打ちもこなす「なんでもできるマルチな地底アイドル」。 そんな彼女に、ある日転機が訪れる。 地元の道の駅がテレビで紹介され、あかりの笑顔が全国放送で流れたのだ。 その映像を東京で目にしたのが、幸村 静(ゆきむら しずか)。 見た目は完璧、物腰も柔らか──けれどその正体は、裏の世界の男だった。 「会いたいから」というシンプルすぎる理由で、あかりに会いに片道10時間を車で会いに来た。 謎のヲタク知識もを引っ提げて、推し活(という名の執着)が始まる……! これは、アイドルを夢見る少女と、厄介オタクなヤクザの、ピュアで不穏でちょっと笑える物語。

モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子
恋愛
 来るもの拒まず去るもの追わずなモテ男、神崎政人。  学歴、仕事共に、エリート過ぎることに悩む同期、橘彩乃。  ただの同期として接していた二人は、ある日を境に接近していくが、互いに近づく勇気がないまま、関係をこじらせていく。  そんなじれじれな話です。 *学歴についての偏った見解が出てきますので、ご了承の上ご覧ください。(1/23追記) *エセ関西弁とエセ博多弁が出てきます。 *拙著『神崎くんは残念なイケメン』の登場人物が出てきますが、単体で読めます。  ただし、こちらの方が後の話になるため、前著のネタバレを含みます。 *作品に出てくる団体は実在の団体と関係ありません。 関連作品(どれも政人が出ます。時系列順。カッコ内主役) 『期待外れな吉田さん、自由人な前田くん』(隼人友人、サリー) 『初恋旅行に出かけます』(山口ヒカル) 『物狂ほしや色と情』(名取葉子) 『さくやこの』(江原あきら) 『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい!』(阿久津)

処理中です...