この夢が醒めるまで──図書室から始まる恋の物語

蒼村 咲

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第41話 勉強会vol.2

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「わあ……」

 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、私の口からは感嘆の声が漏れた。

「どう? 気に入ってもらえた?」

 隣でにっこりと微笑む佐伯先輩に、私は首をぶんぶんと振ってうなずく。
 ダークブラウンを基調とした店内に絶妙に溶け込んだ観葉植物のグリーン。ソファ席はゆったりと配置されていて、まるでリビングのように寛げそうだった。カウンター席もある。
 そして何より、壁一面が本棚になっていて、何百冊もの本が並べられていた。

「いらっしゃいませ。二名様でしょうか」

 白いシャツにブラウンのエプロンの店員さんが近づいてきて会釈する。手に持っているのはメニューのようだ。

「すみません、二階席って空いてますか?」

 佐伯先輩が天井の方を指さしながら尋ねると、店員さんはにこやかにうなずいた。

「はい、大丈夫ですよ。こちらへどうぞ」

 私が(二階席……?)と思っている間に、店員さんはスタスタと歩き始める。見れば柱や梁と同じくダークブラウンの木材で作られた階段があった。

「足元にお気を付けくださいね」

 店員さんの言葉通り、かなり急な階段だった。佐伯先輩が「お先にどうぞ」と手で示したので、私は店員さんについて階段を上る。

(う、わあ……!)

 上り切った先にはロフト空間が広がっていた。一階にあったソファ席よりは小さな椅子やテーブルの席が四組ほど並べられている。
 こちらも壁一面とはいかないものの本棚が設置されていて、たくさんの本が並んでいた。ちらっと見た限りでは、あまりなじみのないジャンルの本がほとんどかもしれない──背表紙に見覚えがないのだ。

「お好きなお席へどうぞ」

 店員さんがそう言って壁際に避けてくれたので、私は後ろを振り返る。すると佐伯先輩は「あそこにします」と端の席を指さした。店の入り口がちょうど見える場所だ。

「こちらメニューでございます。お決まりのころお伺いに参りますね」

 店員さんはそう言い残し階段を下りて行った。

「すごい! 私こんなお店来たの初めてです!」

 キョロキョロと周囲を見回したながら言うと、佐伯先輩はにっこりと微笑んだ。

「富永さんならきっと気に入ると思ったんだよね」

 佐伯先輩のその考えは正しかったことになる。私は一瞬でこの空間の虜になってしまったから。

「ブックカフェなんて私初めてです!」

 話には聞いていたけれど、こんなにおしゃれで素敵なお店だなんて! そしてこんなお店が、ちょっと電車に乗れば行けちゃうような場所にあるなんて!

「前みたいに図書館だと、自習にはいいんだけどお手伝いには向かないから。でもこの店のこの席なら落ち着けるでしょ?」

 素敵空間すぎて気持ちが高ぶってしまうという意味ではあまり落ち着けないけど、なんて思いながらもうなずく。
 何か勉強のお供になる飲み物をということで、私たちはいっしょに自家製レモネードを注文した。

「……」

 早速テスト範囲の問題集を開いてみたものの、早々に頭が痛くなってくる。絶対値記号だとか不等号だとか、ややこしいことこの上ない。
 もしも本当に「すっきりと答えが出るのが数学」なのだとしたら、解が複数ある方程式だとか、等号以外の式だとかは数学に含めないでほしいと思う。
 でもこの種の主張が共感を得たことはないので、きっと私の感覚が変なのだろう。

(……わからない)

 文字と数字と記号がごちゃごちゃ並んだだけにしか見えない式とにらめっこして数分が経った気がする。なんとなく視線を感じた気がして顔を上げると、驚くほど近くに佐伯先輩の顔があった。

(──! し、心臓に悪い……)

 どきりと大きく跳ねた心臓を落ち着かせる。佐伯先輩はただ私の手元を覗き込んでいただけなのだから。

「この問題……どこでつまづいてるの?」

 私がまさに「わからない」と思った問題を指さして、佐伯先輩が尋ねた。

「最初から……」

「最初?」

 我ながら情けない回答だとは思うけど、事実なのだからしょうがない。

「なんでいきなり解答が分岐するのかわかんなくて……」

 解答例はいきなり「x≧2/3の場合」で始まり、その少し下には対になるように「x<2/3の場合」とある。いったいなんなんだ。

「分岐……? ああ、場合分けか。……うん。頭から順に見ていくと、まずはこの絶対値記号を処理しないといけなくて……」

 佐伯先輩は解答例では省かれている考え方や途中式を中心に、本当に文字通り懇切丁寧に説明してくれた。
 すると驚いたことに、予習はもちろん授業でも復習でも歯が立たなかった問題の「解き方」とでもいうのだろうか──そういうものがわかってきた気がするのだ。

 今まで問題を解くときはただ、過去に登場した似た形の例題の解き方を意味もわからずあてはめていただけだったのに、今では問題ごとに、解く過程でいったい何をしているのかがわかるようになっている。

「佐伯先輩……って、何者なんですか……」

 私自身ですら途中で何度も、いったいどれほど数学的思考に向いていない脳なんだと突っ込みたくはなったほどなのに、佐伯先輩はそれをものともせずに私に「理解」させたのだ。

「そんな大したことじゃないよ。わかる力が富永さんにもともとあっただけ」

 佐伯先輩はそう言って笑うけれど、私の理解力云々ではなく佐伯先輩の教える能力というかセンスというか、そういう何かがものを言ったことは明らかだった。じゃなきゃ私は数学でこんなに苦労せずに済んだはずだから。

「佐伯先輩が数学の先生だったら私ももっと得意になれたかな……」

 まあ、年齢差的にそれはありえないのだけど。でももし本当に佐伯先輩が数学の先生だったとしたら、「絶望的に数学ができない子」と見なされたくない一心で死ぬ気で勉強したんじゃないかという気はする。いわゆる不純な動機というやつだ。

「……どうだろうね」

 佐伯先輩がぽつりと言う。それが私のつぶやきに対する返事だと気づくまでに少し時間がかかった。

「今は富永さん一人のために、富永さんの考え方とか理解とか、得意不得意に合わせて説明できたからわかりやすかったかもしれないけど、教室で数十人を相手に教えるとなればそうはいかない」

 佐伯先輩の言うことは正しい──今までちんぷんかんぷんだった内容が理解できた高揚で忘れかけていたけれど、私はものすごく丁寧な説明をしてもらってようやくその理解にたどり着たのだ。

「もしも全員が完璧に理解できることを授業の条件にしたら、カリキュラムは絶対に終わらない。だから一定数が理解できればそれで授業としては十分と見なされ、理解できない生徒はそのままに進んでいく。学校教育ってそういうものなんだよ」

 珍しく皮肉っぽい物言いをする佐伯先輩を、私はなんだか新鮮な気持ちで眺めた。より正確に言うなら、着地点が気になったのだ。きっとどの科目においても「理解できる一定数」に入ってしまうだろう佐伯先輩の話の結論が。
 けれどそんな私の内心を知ってか知らずか、佐伯先輩はただ冗談めかして締めくくったのだった。

「だから僕は富永さん専属の先生でいることにするよ」

「──!?」

 否が応でも背筋が伸びる──佐伯先輩を先生に迎えてしまった以上、何があっても数学で赤点をとるわけにはいかない。

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