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【10】

「カバンの中も机の中も見つからないなら踊るしかない」③

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 首都、ノミモンドにある、名門ノミモンド学院。

 由緒ゆいしょ正しいこの学院には、押しも押されもせぬ上流階級の大家たいか子女しじょらがせきを置いている。

 日暮ひぐれの放課後――

 誰もいない教室に残り、第三王子のマトハ―ヴェンは机に腰をかけ、趣味しゅみのギターを弾奏だんそうしていた。


「いい曲ですな、王子」

 ちょうど曲を弾き終えたところに、教室の扉から品の良い口髭くちひげの老紳士が声をかけた。

「先生」

 マトハ―ヴェンは顔を上げ、笑みを浮かべる。

 この老紳士の名は、ハリー=セタ。

 ノミモンド学院のベテラン教師で、知る人ぞ知る『名物めいぶつ教師』だ。

「王子は演奏だけではなく作曲の才能もお有りになる。まこと多才たさいですな。

 むろんこれは、王子だから申し上げているのではありませんよ」

「分かってます、先生。先生が打算ださんのある方でない事はよく存じてますから。

 ただ、堅苦かたくるしい敬語と、『王子』と呼ぶのだけはいつまでたってもやめてはくれませんけどね」

節度せつどはわきまえねばなりませんからな」

 ハリーはにこやかに教室に入ると、ゆったりとした足どりで窓際まどぎわへと向かった。

「ところで王子。先ほどの曲は、何を思われながら作られたのですかな?」

「え?」

「せつなくも、非常に美しいメロディーでした。

 暗愁あんしゅうに支配されていく心の奥深くに、わずかであっても希望の光をめ置いておきたい……

 そのような印象を受けましたよ。

 まさにこの、黄昏たそがれどきの空のごとく……」

「ハハッ。さすがは先生。詩人ですね」

 マトハ―ヴェンはほがらかに笑った。

「あのメロディーを耳にしていると、王子のお姿がハイマウンゲル様と重なって見えました。

 ハイマウンゲル様もよく放課後に一人、そうしてギターをかなでておられましたから……」

 ハリーがマトハーヴェンを優しく見つめて言うと、

 マトハーヴェンの口元から笑みが消え、どこかうれいを感じさせる表情になった。

「……先生のご推察すいさつ通りです。

 あの曲は、叔父おじを思いながら作りました。

 祖国を追われた際の、ハイマウンゲル叔父上のお気持ちを……」

「やはりそうでしたか……」

 マトハーヴェンに向けられたハリーのまなざしが、いっそうゆるやかになる。
 
「素晴らしいおかたでした。多くの者たちに好かれ、愛されておられました」

「……そのようですね」
 
「常に兄君あにぎみに気をつかわれ、決して出過ぎたマネはなさらず謙虚けんきょであられた。

 それでいて、道義どうぎにもとる行為については厳しい姿勢をくずされず、必要であればその時は、兄君に意見を申し上げる事もいとわれなかった……」

「叔父については、コラルンジェラさんからたびたび話を聞かされていました」

「ああ、確かに。コラルンジェラ様はハイマウンゲル様ととても仲がよろしかったですな。

 コラルンジェラ様はご学友がくゆうとのご関係やご自身の恋の相談などをハイマウンゲル様になさり、ハイマウンゲル様は毎回熱心に相談にのっておられた」

 ハリーは窓越しに、校庭の向こうにある緑の小高い丘を眺めた。

 その丘は、ノミモンド女学院との境界きょうかいせんになっている。

「あの丘で、お二人が語り合われているのをよくお見かけしたものです……

 王族でありながら、誰もが親しみやすいお方でした」

「……先生。そんな叔父とは違い、父はさぞかし扱いにくい生徒だったでしょうね」

 マトハーヴェンが唐突とうとつに、王である父、ブルヴァオンレの事をきいてきたので、ハリーは一瞬返答にまごついた。

「ほほほ。そうですな。

 ブルヴァオンレ様は学生時代より、誰しもうかつに近寄れないケタ違いのオーラがありましたからな。

 王になるべくしてお産まれになったと言っても過言かごんではないかと……

 しかし、王子のおっしゃる『扱いにくい』

 それとはまたことなりますな。

 扱いに手を焼きぶち殺してやりたかったのはむしろ、貴方の兄君たちの方で……

 お、おおっ! これはとんだ失礼を……私とした事が……!」

 ハリーは振り返り、おのれのとんでもない失言をやみ両手を天井てんじょうにかかげて天をあおいだ。

「プハッ。

 アハハハッ。やっぱり先生は面白いですねっ。『名物教師』と呼ばれるわけですよっ」

 天をあおいでなげくハリーを前にして、マトハーヴェンは思わず吹き出し高笑いした。

 別に驚きはしない。

 紳士的で温厚なハリーだが、時にその柔和にゅうわほとけがお過激かげき本音ほんねをサラリと口にし、その後はいつも激しく後悔をあらわにする。

 よくある事で慣れっこだ。

 だが、これもハリーが備える品格ひんかく人徳じんとくのなせるわざなのだろう。

 たいていの者は今のマトハ―ヴェンのように彼の過激発言を笑い飛ばすか聞き流すスルーするかで特に気にする事はなく、いちいち問題として取り上げたりはしない。

 知識人であるハリーの、質の高いきわどいブラックジョークなのだととらえる者さえいるくらいなのだ。


「兄たちが在学中の時の事も、もちろんうわさに聞いています。先生方も僕の先輩方も、気苦労のえない日々だったでしょう……

 『ぶち殺してやりたい』と思うのは当然です」

「あ、いえ、王子……そこの部分はお忘れくださいっ……」

 背広せびろの胸ポケットからポケットチーフを引き抜き、ハリーはひたいの冷や汗をぬぐった。

「そういえば先生。下の兄が先日、僕に会いにわざわざりょうまで出向いて来られたんですよ」

「……ドラジャロシー様が……? お珍しいですな」

「何があったのか相当そうとう急いでいるようで、上の兄の耳下に飾りらしき物はなかったかどうかと意味不明な質問攻めにあいました」

「飾り……でございますか??」

「ドラジャ兄上は詳細しょうさいを語られませんでしたが、尋常じんじょうではないご様子でした。

 ギリザ兄上を蹴落けおとすための良からぬ策略さくりゃくを巡らせていなければいいのですが……」

「巡らせておられるでしょうな……」

 ハリーはボソリとつぶやいた。

「先生……僕は二人の兄には仲良くなってもらいたいのです。

 間違っても、父と叔父のようにはなってほしくないのです。

 絶対に……」

 兄たちを憂慮ゆうりょし、マトハーヴェンはため息をついた。

「ハイマウンゲル様も、兄君の事でたびたび悩んでおられました。

 兄君とはもっとじっくり話し合いたいと……

 残念ながら叶わぬまま、あのような結果となってしまわれましたが……」

「先生は、叔父上が愛された人間の女性をご存じなんですよね?」

「え、え……?」

 またしても唐突な質問だ。

 ハリーは口髭をしきりにさすり、あからさまに動揺どうようした。

「ええ。一度だけ、ハイマウンゲル様に紹介された事はございますが……」

「どのような女性だったんですか?」

「どのような……? そ、そうですね。おとなしく物静かな感じだったと記憶していますが……

 あの時、王族であるハイマウンゲル様が人間のお嬢さんを、しかも突然連れて来られたもので私は戸惑とまどってしまい、情けない事に自分がどう応対したのか、どんな会話をしたのかもあまり覚えてはいないのですよ」

「そうなんですか……」

「お会いした時間もほんのわずかだったものですから」

 ――ハリーは、ウソをついた。

 突然の事で戸惑ったのも、彼女と会った時間がわずかだったと言うのも事実なのだが、

 だが、ハリーはその時の事をまるで昨日の出来事のように鮮明せんめいに覚えていたのだ。

 ハイマウンゲルの最愛の彼女は「夏素なつそ」という名前で、魔界のセーイ国で育った人間だった。

 そしてその時、夏素はおなかにハイマウンゲルの子を身ごもっていた。


『ごく一部の者しか知りません。

 先生にはどうしてもナツソに会っていただき、直接お伝えしたかったのです』

 ハイマウンゲルは嬉しそうに夏素と顔を見合わせ、二人そろって子供みたいなはにかんだ笑顔になると、つないでいる手に互いにキュッと力を入れた。

 仲むつまじい、ほほ笑ましい光景だった。

 しかし、喜んでばかりはいられないのが二人の悲しい現実でもあった。

 ドリンガデス国の王子が人間の女を正妻にするなど前例がなく、とうてい容認ようにんされるはずもない。

 容認どころか、ハイマウンゲルの王位継承権を剥奪はくだつすべきと訴える声も少なくない状況となっていたのだ。

 最も面倒なのは、ハイマウンゲル自身に付いている第二王子派の家臣たちである。

 中には粗暴そぼう矯激きょうげきな者たちも数多く存在する。

 彼らにとって、ハイマウンゲルを劣勢れっせいに立たせようとしている夏素はジャマな存在でしかなく、

 また、ブルヴァオンレ派の家臣にとっても夏素が宿やどした子は、すでに誕生しているギリザンジェロとドラジャロシー、二人の王子の未来をおびやかしかねない目ざわりな存在だった。

 産まれてくる子がたとえ人間の血を引く欠点けってんだねであろうと、ガフェルズ王家歴代王らの直系ちょっけいである事に変わりはないのだから――

 ハイマウンゲルはおのれの立場より何より、夏素と我が子の身に危険が及ぶかもしれない事を心底しんそこ恐れ、警戒けいかいしていた。

 それでも、ハイマウンゲルがハリーに彼女の妊娠をわざわざ知らせに来たのは、彼がハリーをしたい尊敬し、信頼しているあかしだった。


 ――ハリーは願わずにはいられない。

 現在いま、どこでどうしているのか不明ではあるが、かわいい教え子のハイマウンゲルが無事であり、心からの安らぎを得て平和に暮らしているように。

 いつか、ハイマウンゲルのあのタイガーアイのごときカヒだか光輝こうきを、もう一度おがめる日がきますようにと……
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