50 / 70
【10】
「カバンの中も机の中も見つからないなら踊るしかない」③
しおりを挟む
首都、ノミモンドにある、名門ノミモンド学院。
由緒正しいこの学院には、押しも押されもせぬ上流階級の大家の子女らが籍を置いている。
日暮れの放課後――
誰もいない教室に残り、第三王子のマトハ―ヴェンは机に腰をかけ、趣味のギターを弾奏していた。
「いい曲ですな、王子」
ちょうど曲を弾き終えたところに、教室の扉から品の良い口髭の老紳士が声をかけた。
「先生」
マトハ―ヴェンは顔を上げ、笑みを浮かべる。
この老紳士の名は、ハリー=セタ。
ノミモンド学院のベテラン教師で、知る人ぞ知る『名物教師』だ。
「王子は演奏だけではなく作曲の才能もお有りになる。まこと多才ですな。
むろんこれは、王子だから申し上げているのではありませんよ」
「分かってます、先生。先生が打算のある方でない事はよく存じてますから。
ただ、堅苦しい敬語と、『王子』と呼ぶのだけはいつまでたってもやめてはくれませんけどね」
「節度はわきまえねばなりませんからな」
ハリーはにこやかに教室に入ると、ゆったりとした足どりで窓際へと向かった。
「ところで王子。先ほどの曲は、何を思われながら作られたのですかな?」
「え?」
「せつなくも、非常に美しいメロディーでした。
暗愁に支配されていく心の奥深くに、わずかであっても希望の光を留め置いておきたい……
そのような印象を受けましたよ。
まさにこの、黄昏時の空のごとく……」
「ハハッ。さすがは先生。詩人ですね」
マトハ―ヴェンは朗らかに笑った。
「あのメロディーを耳にしていると、王子のお姿がハイマウンゲル様と重なって見えました。
ハイマウンゲル様もよく放課後に一人、そうしてギターを奏でておられましたから……」
ハリーがマトハーヴェンを優しく見つめて言うと、
マトハーヴェンの口元から笑みが消え、どこか憂いを感じさせる表情になった。
「……先生のご推察通りです。
あの曲は、叔父を思いながら作りました。
祖国を追われた際の、ハイマウンゲル叔父上のお気持ちを……」
「やはりそうでしたか……」
マトハーヴェンに向けられたハリーのまなざしが、いっそうゆるやかになる。
「素晴らしいお方でした。多くの者たちに好かれ、愛されておられました」
「……そのようですね」
「常に兄君に気をつかわれ、決して出過ぎたマネはなさらず謙虚であられた。
それでいて、道義にもとる行為については厳しい姿勢を崩されず、必要であればその時は、兄君に意見を申し上げる事も厭われなかった……」
「叔父については、コラルンジェラさんからたびたび話を聞かされていました」
「ああ、確かに。コラルンジェラ様はハイマウンゲル様ととても仲がよろしかったですな。
コラルンジェラ様はご学友とのご関係やご自身の恋の相談などをハイマウンゲル様になさり、ハイマウンゲル様は毎回熱心に相談にのっておられた」
ハリーは窓越しに、校庭の向こうにある緑の小高い丘を眺めた。
その丘は、ノミモンド女学院との境界線になっている。
「あの丘で、お二人が語り合われているのをよくお見かけしたものです……
王族でありながら、誰もが親しみやすいお方でした」
「……先生。そんな叔父とは違い、父はさぞかし扱いにくい生徒だったでしょうね」
マトハーヴェンが唐突に、王である父、ブルヴァオンレの事をきいてきたので、ハリーは一瞬返答にまごついた。
「ほほほ。そうですな。
ブルヴァオンレ様は学生時代より、誰しもうかつに近寄れないケタ違いのオーラがありましたからな。
王になるべくしてお産まれになったと言っても過言ではないかと……
しかし、王子のおっしゃる『扱いにくい』
それとはまた異なりますな。
扱いに手を焼きぶち殺してやりたかったのはむしろ、貴方の兄君たちの方で……
お、おおっ! これはとんだ失礼を……私とした事が……!」
ハリーは振り返り、己のとんでもない失言を悔やみ両手を天井にかかげて天をあおいだ。
「プハッ。
アハハハッ。やっぱり先生は面白いですねっ。『名物教師』と呼ばれる訳ですよっ」
天をあおいで嘆くハリーを前にして、マトハーヴェンは思わず吹き出し高笑いした。
別に驚きはしない。
紳士的で温厚なハリーだが、時にその柔和な仏顔で過激な本音をサラリと口にし、その後はいつも激しく後悔をあらわにする。
よくある事で慣れっこだ。
だが、これもハリーが備える品格、人徳のなせる業なのだろう。
たいていの者は今のマトハ―ヴェンのように彼の過激発言を笑い飛ばすか聞き流すかで特に気にする事はなく、いちいち問題として取り上げたりはしない。
知識人であるハリーの、質の高いきわどいブラックジョークなのだと捉える者さえいるくらいなのだ。
「兄たちが在学中の時の事も、もちろん噂に聞いています。先生方も僕の先輩方も、気苦労の絶えない日々だったでしょう……
『ぶち殺してやりたい』と思うのは当然です」
「あ、いえ、王子……そこの部分はお忘れくださいっ……」
背広の胸ポケットからポケットチーフを引き抜き、ハリーはひたいの冷や汗をぬぐった。
「そういえば先生。下の兄が先日、僕に会いにわざわざ寮まで出向いて来られたんですよ」
「……ドラジャロシー様が……? お珍しいですな」
「何があったのか相当急いでいるようで、上の兄の耳下に飾りらしき物はなかったかどうかと意味不明な質問攻めにあいました」
「飾り……でございますか??」
「ドラジャ兄上は詳細を語られませんでしたが、尋常ではないご様子でした。
ギリザ兄上を蹴落とすための良からぬ策略を巡らせていなければいいのですが……」
「巡らせておられるでしょうな……」
ハリーはボソリとつぶやいた。
「先生……僕は二人の兄には仲良くなってもらいたいのです。
間違っても、父と叔父のようにはなってほしくないのです。
絶対に……」
兄たちを憂慮し、マトハーヴェンはため息をついた。
「ハイマウンゲル様も、兄君の事でたびたび悩んでおられました。
兄君とはもっとじっくり話し合いたいと……
残念ながら叶わぬまま、あのような結果となってしまわれましたが……」
「先生は、叔父上が愛された人間の女性をご存じなんですよね?」
「え、え……?」
またしても唐突な質問だ。
ハリーは口髭をしきりにさすり、あからさまに動揺した。
「ええ。一度だけ、ハイマウンゲル様に紹介された事はございますが……」
「どのような女性だったんですか?」
「どのような……? そ、そうですね。おとなしく物静かな感じだったと記憶していますが……
あの時、王族であるハイマウンゲル様が人間のお嬢さんを、しかも突然連れて来られたもので私は戸惑ってしまい、情けない事に自分がどう応対したのか、どんな会話をしたのかもあまり覚えてはいないのですよ」
「そうなんですか……」
「お会いした時間もほんのわずかだったものですから」
――ハリーは、ウソをついた。
突然の事で戸惑ったのも、彼女と会った時間がわずかだったと言うのも事実なのだが、
だが、ハリーはその時の事をまるで昨日の出来事のように鮮明に覚えていたのだ。
ハイマウンゲルの最愛の彼女は「夏素」という名前で、魔界のセーイ国で育った人間だった。
そしてその時、夏素はお腹にハイマウンゲルの子を身ごもっていた。
『ごく一部の者しか知りません。
先生にはどうしてもナツソに会っていただき、直接お伝えしたかったのです』
ハイマウンゲルは嬉しそうに夏素と顔を見合わせ、二人そろって子供みたいなはにかんだ笑顔になると、つないでいる手に互いにキュッと力を入れた。
仲むつまじい、ほほ笑ましい光景だった。
しかし、喜んでばかりはいられないのが二人の悲しい現実でもあった。
ドリンガデス国の王子が人間の女を正妻にするなど前例がなく、とうてい容認されるはずもない。
容認どころか、ハイマウンゲルの王位継承権を剥奪すべきと訴える声も少なくない状況となっていたのだ。
最も面倒なのは、ハイマウンゲル自身に付いている第二王子派の家臣たちである。
中には粗暴で矯激な者たちも数多く存在する。
彼らにとって、ハイマウンゲルを劣勢に立たせようとしている夏素はジャマな存在でしかなく、
また、ブルヴァオンレ派の家臣にとっても夏素が宿した子は、すでに誕生しているギリザンジェロとドラジャロシー、二人の王子の未来を脅かしかねない目ざわりな存在だった。
産まれてくる子がたとえ人間の血を引く欠点種であろうと、ガフェルズ王家歴代王らの直系である事に変わりはないのだから――
ハイマウンゲルは己の立場より何より、夏素と我が子の身に危険が及ぶかもしれない事を心底恐れ、警戒していた。
それでも、ハイマウンゲルがハリーに彼女の妊娠をわざわざ知らせに来たのは、彼がハリーを慕い尊敬し、信頼している証だった。
――ハリーは願わずにはいられない。
現在、どこでどうしているのか不明ではあるが、かわいい教え子のハイマウンゲルが無事であり、心からの安らぎを得て平和に暮らしているように。
いつか、ハイマウンゲルのあのタイガーアイのごとき種の気高い光輝を、もう一度拝める日がきますようにと……
由緒正しいこの学院には、押しも押されもせぬ上流階級の大家の子女らが籍を置いている。
日暮れの放課後――
誰もいない教室に残り、第三王子のマトハ―ヴェンは机に腰をかけ、趣味のギターを弾奏していた。
「いい曲ですな、王子」
ちょうど曲を弾き終えたところに、教室の扉から品の良い口髭の老紳士が声をかけた。
「先生」
マトハ―ヴェンは顔を上げ、笑みを浮かべる。
この老紳士の名は、ハリー=セタ。
ノミモンド学院のベテラン教師で、知る人ぞ知る『名物教師』だ。
「王子は演奏だけではなく作曲の才能もお有りになる。まこと多才ですな。
むろんこれは、王子だから申し上げているのではありませんよ」
「分かってます、先生。先生が打算のある方でない事はよく存じてますから。
ただ、堅苦しい敬語と、『王子』と呼ぶのだけはいつまでたってもやめてはくれませんけどね」
「節度はわきまえねばなりませんからな」
ハリーはにこやかに教室に入ると、ゆったりとした足どりで窓際へと向かった。
「ところで王子。先ほどの曲は、何を思われながら作られたのですかな?」
「え?」
「せつなくも、非常に美しいメロディーでした。
暗愁に支配されていく心の奥深くに、わずかであっても希望の光を留め置いておきたい……
そのような印象を受けましたよ。
まさにこの、黄昏時の空のごとく……」
「ハハッ。さすがは先生。詩人ですね」
マトハ―ヴェンは朗らかに笑った。
「あのメロディーを耳にしていると、王子のお姿がハイマウンゲル様と重なって見えました。
ハイマウンゲル様もよく放課後に一人、そうしてギターを奏でておられましたから……」
ハリーがマトハーヴェンを優しく見つめて言うと、
マトハーヴェンの口元から笑みが消え、どこか憂いを感じさせる表情になった。
「……先生のご推察通りです。
あの曲は、叔父を思いながら作りました。
祖国を追われた際の、ハイマウンゲル叔父上のお気持ちを……」
「やはりそうでしたか……」
マトハーヴェンに向けられたハリーのまなざしが、いっそうゆるやかになる。
「素晴らしいお方でした。多くの者たちに好かれ、愛されておられました」
「……そのようですね」
「常に兄君に気をつかわれ、決して出過ぎたマネはなさらず謙虚であられた。
それでいて、道義にもとる行為については厳しい姿勢を崩されず、必要であればその時は、兄君に意見を申し上げる事も厭われなかった……」
「叔父については、コラルンジェラさんからたびたび話を聞かされていました」
「ああ、確かに。コラルンジェラ様はハイマウンゲル様ととても仲がよろしかったですな。
コラルンジェラ様はご学友とのご関係やご自身の恋の相談などをハイマウンゲル様になさり、ハイマウンゲル様は毎回熱心に相談にのっておられた」
ハリーは窓越しに、校庭の向こうにある緑の小高い丘を眺めた。
その丘は、ノミモンド女学院との境界線になっている。
「あの丘で、お二人が語り合われているのをよくお見かけしたものです……
王族でありながら、誰もが親しみやすいお方でした」
「……先生。そんな叔父とは違い、父はさぞかし扱いにくい生徒だったでしょうね」
マトハーヴェンが唐突に、王である父、ブルヴァオンレの事をきいてきたので、ハリーは一瞬返答にまごついた。
「ほほほ。そうですな。
ブルヴァオンレ様は学生時代より、誰しもうかつに近寄れないケタ違いのオーラがありましたからな。
王になるべくしてお産まれになったと言っても過言ではないかと……
しかし、王子のおっしゃる『扱いにくい』
それとはまた異なりますな。
扱いに手を焼きぶち殺してやりたかったのはむしろ、貴方の兄君たちの方で……
お、おおっ! これはとんだ失礼を……私とした事が……!」
ハリーは振り返り、己のとんでもない失言を悔やみ両手を天井にかかげて天をあおいだ。
「プハッ。
アハハハッ。やっぱり先生は面白いですねっ。『名物教師』と呼ばれる訳ですよっ」
天をあおいで嘆くハリーを前にして、マトハーヴェンは思わず吹き出し高笑いした。
別に驚きはしない。
紳士的で温厚なハリーだが、時にその柔和な仏顔で過激な本音をサラリと口にし、その後はいつも激しく後悔をあらわにする。
よくある事で慣れっこだ。
だが、これもハリーが備える品格、人徳のなせる業なのだろう。
たいていの者は今のマトハ―ヴェンのように彼の過激発言を笑い飛ばすか聞き流すかで特に気にする事はなく、いちいち問題として取り上げたりはしない。
知識人であるハリーの、質の高いきわどいブラックジョークなのだと捉える者さえいるくらいなのだ。
「兄たちが在学中の時の事も、もちろん噂に聞いています。先生方も僕の先輩方も、気苦労の絶えない日々だったでしょう……
『ぶち殺してやりたい』と思うのは当然です」
「あ、いえ、王子……そこの部分はお忘れくださいっ……」
背広の胸ポケットからポケットチーフを引き抜き、ハリーはひたいの冷や汗をぬぐった。
「そういえば先生。下の兄が先日、僕に会いにわざわざ寮まで出向いて来られたんですよ」
「……ドラジャロシー様が……? お珍しいですな」
「何があったのか相当急いでいるようで、上の兄の耳下に飾りらしき物はなかったかどうかと意味不明な質問攻めにあいました」
「飾り……でございますか??」
「ドラジャ兄上は詳細を語られませんでしたが、尋常ではないご様子でした。
ギリザ兄上を蹴落とすための良からぬ策略を巡らせていなければいいのですが……」
「巡らせておられるでしょうな……」
ハリーはボソリとつぶやいた。
「先生……僕は二人の兄には仲良くなってもらいたいのです。
間違っても、父と叔父のようにはなってほしくないのです。
絶対に……」
兄たちを憂慮し、マトハーヴェンはため息をついた。
「ハイマウンゲル様も、兄君の事でたびたび悩んでおられました。
兄君とはもっとじっくり話し合いたいと……
残念ながら叶わぬまま、あのような結果となってしまわれましたが……」
「先生は、叔父上が愛された人間の女性をご存じなんですよね?」
「え、え……?」
またしても唐突な質問だ。
ハリーは口髭をしきりにさすり、あからさまに動揺した。
「ええ。一度だけ、ハイマウンゲル様に紹介された事はございますが……」
「どのような女性だったんですか?」
「どのような……? そ、そうですね。おとなしく物静かな感じだったと記憶していますが……
あの時、王族であるハイマウンゲル様が人間のお嬢さんを、しかも突然連れて来られたもので私は戸惑ってしまい、情けない事に自分がどう応対したのか、どんな会話をしたのかもあまり覚えてはいないのですよ」
「そうなんですか……」
「お会いした時間もほんのわずかだったものですから」
――ハリーは、ウソをついた。
突然の事で戸惑ったのも、彼女と会った時間がわずかだったと言うのも事実なのだが、
だが、ハリーはその時の事をまるで昨日の出来事のように鮮明に覚えていたのだ。
ハイマウンゲルの最愛の彼女は「夏素」という名前で、魔界のセーイ国で育った人間だった。
そしてその時、夏素はお腹にハイマウンゲルの子を身ごもっていた。
『ごく一部の者しか知りません。
先生にはどうしてもナツソに会っていただき、直接お伝えしたかったのです』
ハイマウンゲルは嬉しそうに夏素と顔を見合わせ、二人そろって子供みたいなはにかんだ笑顔になると、つないでいる手に互いにキュッと力を入れた。
仲むつまじい、ほほ笑ましい光景だった。
しかし、喜んでばかりはいられないのが二人の悲しい現実でもあった。
ドリンガデス国の王子が人間の女を正妻にするなど前例がなく、とうてい容認されるはずもない。
容認どころか、ハイマウンゲルの王位継承権を剥奪すべきと訴える声も少なくない状況となっていたのだ。
最も面倒なのは、ハイマウンゲル自身に付いている第二王子派の家臣たちである。
中には粗暴で矯激な者たちも数多く存在する。
彼らにとって、ハイマウンゲルを劣勢に立たせようとしている夏素はジャマな存在でしかなく、
また、ブルヴァオンレ派の家臣にとっても夏素が宿した子は、すでに誕生しているギリザンジェロとドラジャロシー、二人の王子の未来を脅かしかねない目ざわりな存在だった。
産まれてくる子がたとえ人間の血を引く欠点種であろうと、ガフェルズ王家歴代王らの直系である事に変わりはないのだから――
ハイマウンゲルは己の立場より何より、夏素と我が子の身に危険が及ぶかもしれない事を心底恐れ、警戒していた。
それでも、ハイマウンゲルがハリーに彼女の妊娠をわざわざ知らせに来たのは、彼がハリーを慕い尊敬し、信頼している証だった。
――ハリーは願わずにはいられない。
現在、どこでどうしているのか不明ではあるが、かわいい教え子のハイマウンゲルが無事であり、心からの安らぎを得て平和に暮らしているように。
いつか、ハイマウンゲルのあのタイガーアイのごとき種の気高い光輝を、もう一度拝める日がきますようにと……
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
3
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる