太陽王と蜜月の予言

里崎雅

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1巻

1-1

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   プロローグ


 ――この方は、なぜ私にこんなことをするの?
 突然熱い唇を押し付けられ、崩れ落ちそうな身体に必死に力を入れる。冷えた身体を温めるかのように、大きな身体がライラを包み込んでいた。
 まるで宝物にでも触れるみたいに、彼の柔らかい唇がそこら中に優しくキスをしてくる。
 初めて出会った人にこんなことをされているというのに、不快な気持ちになるどころか、ふわふわと宙にでも浮きそうな心地よさを感じていた。
 男の指がゆっくりと絶妙な強さで全身をなぞり、ライラはふるりと背筋を震わせる。

「ふ、あ……」

 優しい愛撫に頭がぼーっとして、いつしか切なげな息を吐いていた。
 崩れ落ちそうになった身体を、男が力強く支えてくれる。
 熱に浮かされた瞳で見上げると、男は目を細めて再び唇を合わせてきた。
 わずかに開いた唇の隙間から熱いかたまりが差し込まれ、口内をぬるりとめ上げる。熱くうごめくそれが男の舌であると気づく間もなく、ライラはされるがままに自らの舌を吸い上げられていた。
 舌に軽く歯を立てられ、背中がぞくりと粟立あわだつ。
 粘膜同士を触れ合わせる初めての感触に、うっとり酔いしれる。
 ふと、相手の唇が離れたことに気づいて、うっすら目を開けた。
 月明かりの中、目の前の男の顔を見つめて首をかしげる――そんな訳がないと思いながら、ライラはそっとつぶやいた。

「……へい、か……?」

 輝くばかりの金色の髪に、エメラルドのような緑の瞳。一度だけ見た肖像画の記憶が正しければ、彼はこのサマルド国の王に間違いなかった。
 そのような方が、なぜこんな夜更けに川辺にいるのだろう。
 これは夢だろうか。だとしたら、熱く火照ほてったこの身体はなんだろう。

「あ、あ……っ、陛下、なにを」

 首筋に舌をわされ、ライラは今まで上げたこともないような甘い声を上げた。
 恥ずかしくてたまらないが、やはり嫌だという感情は全く湧いてこない。それどころか、まるで求められているみたいに感じて嬉しくなってしまうのだ。
 彼はひどく楽しそうに口元をゆがめ、ライラの身体を舐め上げていく。その感触は不思議と気持ちがよくて、脚の間がむずむずしてくる。たまらず声を上げると、その人はまた嬉しそうに笑った。

「見つけたぞ、やっと」

 男の言葉も耳に届かず、ライラは満月の下でただただ甘い声を上げ続けた。



   1 月の姫と黒髪の娘


 サマルド国の国境に近い辺境に、『奇跡の街』と噂される街があった。
 この十数年、周りの街や村がどんなに日照りや水害に悩まされようが、その街は何かに守られているかのようにずっと豊作が続いている。元は小さな街であったそこは、いつの間にか大きな街へと変貌へんぼうを遂げていた。
 その街が、お祭りでもないのに時期はずれのにぎわいを見せている。街は華やかに飾り付けられ、誰もがどこか浮足だっていた。

「いよいよ、陛下がマーガレット様に会いに来られるってよ!」
「こんな辺境の街に月の姫が現れるなんて、めでたい話だねえ」

 街の人々は顔を合わせれば『月の姫』の話題でもちきりになる。
 月の姫とは、国王の花嫁となりサマルド国に繁栄をもたらすと言われている銀髪の娘のことだ。
 マーガレットは、この街の領主ブルーノの娘で、銀色の髪をしている。この街が『奇跡の街』と呼ばれるようになったのはマーガレットが生まれてからだと言われており、街の人々はマーガレットを『月の姫』だと信じて疑っていなかった。
 そんな『奇跡の街』の噂が王宮まで届き、ついに国王本人がこの街にやって来ることになったのだ。
 国王一行を迎えるとあって、領主ブルーノの屋敷ではあわただしく使用人たちが働いていた。

「ライラ、マーガレット様のお部屋の掃除に行っとくれ! この忙しい時に『私の部屋を一番キレイになさい』ときたもんだ。昨日徹底的に掃除させられたばかりだってのに」

 メイドがしらがうんざりした様子で、台所のすみっこでじゃがいもの皮をいていたライラに声をかけてくる。

「ほら早く! マーガレット様が、あんたをご指名なんだよ」
「は、はい!」

 ライラは慌てて立ち上がった。
 今年で十八になるライラは、赤ん坊の時に川辺に捨てられていた孤児だ。偶然通りかかったブルーノに拾われ、以来物心がつく前よりこの屋敷で下働きをしている。
 どういう理由かはわからないが、マーガレットはそんなライラを何かにつけて呼びつけ、自分がいかに優れた『月の姫』かを思い知らせるのだ。
 ライラは粗相そそうのないように入念に手を洗い、掃除道具を持って階段を駆け上がった。

「マーガレット様、ライラです。お部屋のお掃除に参りました」

 コンコンと控えめにノックをすると、部屋の中からはひどく不愛想な声が響いてくる。

「遅いわよ!」

 身をすくませながら扉を開け、ライラは深々と頭を下げる。
 濃いイエローのドレスを身にまとったマーガレットは、不機嫌そうな表情で長椅子に身体を預けていた。その背に流れる豊かな髪は、美しくつややかな銀色だ。この銀色の髪こそ、彼女が『月の姫』候補であるあかしだった。

「陛下は、私に会うためにこの屋敷にいらっしゃるのよ。だったら私の部屋を一番キレイにするのは当たり前じゃない。本当に皆、気が利かないわね」

 ブラウンの瞳を細めてそう言い放つと、マーガレットは鈍く光る銀色の髪を揺らしながら立ち上がった。

「ほら、さっさと掃除しなさい」
「はい、今すぐに」

 慌ててライラは手に持ったほうきで、ほこりひとつ落ちてはいない床を丁寧に掃き始めた。
 頭を低く垂れたライラを見て、マーガレットが可笑おかしそうに言った。

「汚らしい髪ね……。艶がなくてボサボサで」

 まっ黒で艶のないライラの髪は、くしでとかすとすぐにブチブチと切れて広がってしまう。どうせ手入れをしても無駄だと、いつも髪を無造作に麻紐あさひもで一つに縛っていた。

「その汚い髪を落とさないように、注意しなさいよ」
「は、はい」

 美しいマーガレットに鼻で笑われ、ライラは恥ずかしさにうつむきながら黙々と掃除を続ける。
 多少目元に気の強そうな性格が表れてはいるが、健康的な肌に切れ長の目をしたマーガレットはとても美しい少女である。領主の娘ということもあり縁談も後をたたなかったが、それを全て断っているのはひとえに『月の姫』として王妃になると本人が決意してるからだろう。
 美しいマーガレットに対し、ライラは身寄りのない孤児だ。
 それに、ブルーノに拾われなければ、死んでいたかもしれない。それを思うと、こうして雇ってもらえているだけ幸せだ。
 黙々と掃除を続けていたライラは、ふと寝室の奥に小さな絵画が飾られているのに気づいた。前にマーガレットの部屋に掃除に来た時には、絵など置かれていなかった気がする。
 何気なくその絵画を見た瞬間、ライラの胸がどきんと大きく跳ねた。思わず掃除の手を止め、その絵に見入ってしまう。

「ふふ。あんた、あれがなんの絵か知ってる?」

 掃除の手を止めたライラを叱りつけもせず、マーガレットがなぜか微笑んで話しかけてきた。
 無言で首を横に軽く振ると、マーガレットの笑みはさらに深くなる。

「サマルド国の若き王、アレン様の肖像画よ!」

 そこでライラは、マーガレットが注意しなかった理由を理解した。彼女はこれを見せるために、ライラを部屋の掃除に呼んだに違いない。
 聞いた話によると、マーガレット以外にも月の姫候補の娘はたくさんいるらしい。だが、こうして国王の肖像画が王家より送られてきたのなら、マーガレットが『月の姫』と認められたということを意味しているのだろう。

「おめでとうございます、マーガレット様」

 深々と頭を下げつつも、なぜだかライラはあの肖像画が気になって仕方なかった。自然と視線が引きつけられそうになるのを、必死に耐える。
 そんなライラの様子に気づき、マーガレットは楽しそうに肖像画へと近づいた。

「さすが太陽王と言われるだけあって、アレン様は本当に素敵な方なのよ。見て、この美しい金髪……並ぶときっと、私の髪とつり合いが取れるわね」

 国王に対して「自分とつり合いが取れる」などという発言はどうかと思ったが、この屋敷ではマーガレットが絶対だ。ライラは賢明にも口をつぐみ、再び掃除の手を動かし始めた。
 しかしどうしようもなく肖像画にきつけられてしまう。無意識にチラチラと目線を動かしていたライラの前に、マーガレットが立った。

「そんなに見たいの? 特別に、もっと近くで見せてあげてもいいわよ」
「え……」

 思いがけない言葉に、ライラは思わず掃除の手を止める。
 マーガレットはそんなライラの反応に笑みを浮かべ、寝室から肖像画を持ってきてライラの目の前に掲げた。

「ほら、見てごらんなさい」

 ライラは吸い寄せられるようにその肖像画を見つめた。

(この方が、国王のアレン様……)

 意志の強そうな目でこちらをじっと見据えている王は、黄金の髪に王冠を載せ、白い正装に身を包んでいる。森林を思わせる緑の瞳に、すっと通った鼻筋をした高貴な顔立ち。ライラは自然と、ほおっと感嘆ともとれるため息をついていた。

「素晴らしいお姿でしょう。アレン様は、先代の王が亡くなられた時にはまだ二十歳にも満たなかったのに、このサマルド国を立派に治められているの。今や先代を超える名君と言われているんだから」

 マーガレットは興奮した面持ちで言うと、絵画を胸に抱えた。そして、絵画に目を奪われていたライラに向かって勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「この方が、私の未来の夫なのよ」

 マーガレットが「未来の夫」と口にした瞬間、ライラの胸がずくりと締め付けられるように痛んだ。表情を曇らせたライラを見て、マーガレットがくすくすと笑った。

「さあ、いつまでぼーっと突っ立ってるの。自分の仕事をしなさい。ぐずね」
「申し訳ありません」

 ライラは小さな声で謝ると、再び手を動かし始めた。無理やり気持ちを切り替えて、ライラは丁寧にマーガレットの部屋の掃除を終える。

「失礼いたします」

 気怠けだるそうに長椅子に腰掛けているマーガレットに声をかけ、ライラは静かに部屋を後にした。

(陛下が、マーガレット様を迎えに来られる……)

 ――白銀の輝きを髪に閉じ込め生まれてきた娘は月の姫と呼ばれ、太陽王の花嫁となる。
 伝説とも予言とも言えるその話は、サマルド国の者なら誰でも知っていた。銀の髪を持ちこの街に奇跡を起こしていると言われているマーガレットが、月の姫として国王に迎えられるのは当然だ。
 それに、ライラには関係のない世界のこと。
 皮をかなければならないじゃがいもは山ほど残っているし、下働きのライラがやらなければならないことはたくさんある。
 日々を生きるだけで精一杯のライラには、所詮別世界のことなのだ。
 頭の片隅にちらつく国王の姿に気づかないフリをしながら、ライラは小走りで台所へと戻った。


 国王の一行がやって来る前夜、屋敷の使用人たちは全員食堂に集まるようにと指示された。ライラも、育ての親であるザラと一緒に食堂へ向かう。
 ライラより二十歳年上のザラは、捨てられていた自分に、『ライラ』と名を付けて娘のように育ててくれた女性だ。
 しばらくすると、口ひげをたくわえたブルーノが威厳たっぷりに食堂へ姿を現した。

「明日、いよいよ陛下がこの屋敷にお見えになる。皆、くれぐれも粗相そそうのないように。明日は全員、新しく配った服を身に着けるんだぞ」

 国王がこんな辺境の領地を訪れることなど滅多にない。本来なら一生目にすることなどない国王を見られるかもしれないとあって、使用人たちの間に言葉にならない興奮が広がっていく。
 そんな中、ライラは沈んだ顔で冷たい石の床に目を落とした。特別なお客様が来る時、ライラは必ず地下室に閉じ込められるからだ。

『お前のような者をお客様の前に出して粗相そそうされては大変だ』

 ブルーノはいつもそう言って、有無を言わさずライラに地下室行きを命じるのだ。
 確かにライラはそれほど仕事ができるわけでもないし、バサバサでみすぼらしい髪をしている。こんなみっともない使用人がいては、陛下の印象を悪くしてしまうのかもしれない。

(でも……遠くからでもいいから、一目陛下を見てみたい)

 ライラが祈るように胸の前で手を握っていると、それに気づいたザラが優しく背中をさすってくれた。

「おい、ライラ」

 しかし、低いダミ声に呼ばれ、ライラはザラの傍でびくりと身体を震わせる。声をかけてきたのは、この屋敷のあるじであるブルーノだ。

「わかっているな?」

 確認するように、ブルーノの指が下に向けられる。

「……はい」

 か細い声でそう答えると、ブルーノは肥えた身体を揺らしながら二、三度頷いた。
 わかってはいたが、悲しくなってライラの気持ちが沈んでいく。

「いいか。拾ってやった恩を忘れて言いつけを守らない時には、この屋敷から追い出してやるからな」

 そう言うとブルーノは食堂から去っていった。その後ろ姿を見送りつつ、ザラがため息をつく。

「可哀想に。またあんな暗い地下室に行かなきゃならないなんて……」

 ライラはザラに心配をかけまいと、無理に笑顔を作った。

「大丈夫。ほんの数日のことだもの」

 ザラは悲しそうに眉を寄せて、ライラの髪の毛を優しく撫でてくれる。黒くてパサパサにいたんだ髪を、こんな風に優しく撫でてくれるのはザラだけだった。
 必ず毎日様子を見に行くと力強く手を握るザラに見送られ、ライラは静かに部屋を出ると地下へ続く階段に向かった。コツコツと靴音を立てながらじめりとした地下に向かうのは、いやおうでも気が滅入めいる。
 見張りもいない。鍵もかけられていない。逃げようと思えばどこにでも逃げられる。だが、この屋敷しか知らないライラにとって外の世界は未知の世界だ。逃げ出すことなど想像もできない。
 ――でも……このまま、ここで一生を終えるのかしら。
 そんな考えに囚われていたからだろうか。背後からブルーノが近づいてきているのに、ライラは全く気づかなかった。

「何をしている。さっさと中に入らないか」

 突然すぐ後ろから低いダミ声が聞こえてきて、ライラは飛び上がらんばかりに驚いた。

「す、すみません……」
「お前が隙を見せるのは珍しいな」

 にやりと嫌らしい笑みを浮かべたブルーノが、ライラにさらに近づいてくる。さっと背筋に寒気が走り、ライラは数歩後ずさった。

「川の傍に捨てられていた赤ん坊のお前を、拾ってこの屋敷に連れてきてやったのは誰だ?」
「ブ、ブルーノ様です」

 ライラは震える声でそう答えた。
 ブルーノは舌なめずりをしながら、おびえるライラに近づいてくる。

「ふん。せっぽちでかかしのような子供だったのに、年頃になって多少肉付きがよくなってきたじゃないか」

 じろじろと胸元を見つめられ、ライラは咄嗟とっさに両腕で胸を隠した。細い身体とは裏腹に、ライラの胸は服の上からでもはっきりわかるほど大きくなっていた。
 ブルーノにそれを見られていると思うと、背筋が凍り付く。

「お前を拾ってやったのは俺だ。俺がいなければ、お前はあのまま野垂のたんでいたかもしれないのだぞ。……命の恩人である俺がお前をどうしようとも、なんの問題もないな」

 間近から酒臭い息を吹きかけられて、ライラは必死にブルーノから顔をそむけた。
 彼の女癖の悪さは街中に知れ渡っていて、酒場で女をもてあそぶ様子はよく噂されている。さらにブルーノはライラが成長するに従い、たびたびこうして気持ちの悪い言葉をかけてくるようになっていた。
 青ざめてぶるぶると首を振るライラの胸元へ、遠慮のないブルーノの指が伸ばされる。背中に冷たい地下室の扉があたり、これ以上は逃げ場がない。ブルーノの指に触られそうになったその瞬間、ライラの身体の中に不思議な感覚が湧き起こった。

「うわぁっ!」

 地下室に光がはじけたと同時に、バチンと大きな音が響いた。
 ブルーノが大きくのけぞってライラから距離を取る。驚いて目を見張っていると、指をさすっているブルーノににらみ付けられた。

「チッ……いつもいつもこうだ。本当に気味の悪い娘だな」

 忌々いまいましそうに吐き捨てたブルーノが恐ろしくて、ライラは壁際で小さくなって震えていた。

「いいか! 明日から俺がいいと言うまで、絶対にそこから出てくるなよ! お前のような気味の悪い娘を陛下のお目にかけるわけにはいかないからな!」

 ブルーノはくるりときびすを返すと、そのままカツカツと靴音を響かせながら足早に階段を上っていった。
 一人残されたライラの周りに、一気に静寂が漂う。ブルーノの気配が完全に消えたところで、ようやくライラはほっと安堵の息を吐いた。

「よくわからないけど……また助かったみたい」

 屋敷の使用人は女性だけではなく、むしろ男性の方が多い。そんな男性たちが、使用人の中で一番若いライラに目をつけるのは自然なことだ。
 数年前からライラはブルーノだけでなく他の男たちからも何度も襲われそうになっていた。けれどその度に、不思議な力が男たちをはねのけてくれたのだ。
 けれど、それが原因でライラは「気味の悪い子ども」だと噂されるようになり、ザラ以外の使用人からは距離を置かれるようになってしまった。だが、それにより男たちが近づいてこなくなるのならライラにとっては好都合だ。
 不思議な力が働く理由はわからないけれど、ありがたいとさえ思っていた。

「ライラの心が優しくて一生懸命だから、月の神様がライラを守ってくださってるのかもしれないわね」

 いつだったか、皆に距離を置かれる原因を恐る恐るザラに打ち明けると、彼女は気味悪がることもなくそう言ってくれた。唯一の味方であるザラにそう言われ、どれほどほっとしたことだろう。
 その時、なぜザラが月の神と言ったのかはわからないが、ライラはそれ以来必ず月に向かって祈りを捧げるようになっていた。

「ありがとうございます、月の神様」

 暗く閉ざされた地下室から夜空に浮かぶ月が見えるはずはない。けれど目をつぶって祈りを捧げると、まるですぐ傍で月が光輝いているような気がするのだ。
 まぶたの裏で銀色の光を感じながら、ライラは深く息を吐いた。
 ゆっくり瞼を開いても、そこに広がるのは暗く湿った地下室だ。
 ライラはどこか寂しさを覚えつつ、部屋の隅に置かれた堅いベッドに近づきそっと身体を横たえた。
 そうして思い出されるのは、明日やって来る国王のこと。
 けれども国王は、ライラが暗い地下室で過ごしている間に、マーガレットを連れてこの地を去ってしまう。そう思うと、なぜか胸が痛くて仕方なかった。
 ただ一度肖像画を見ただけの相手なのに、どうしてこうも気になってしまうのか、ライラ自身にもわからない。
 きっと、こんな胸のざわめきは、一時いっときのものですぐに忘れるに違いない。
 ライラは無理やり自分を納得させると、そっと目を閉じた。


   * * * * *


 戦でもなければ外交でもないのに、こんなに長く馬車に揺られる必要などあるのだろうか。
 サマルド国の若き王アレンは、革張りの馬車の座席に背を預け不機嫌そうに腕を組んだ。
 馬車の中にいるのは側近のクレイグだけだ。心を許し全てを話せる相手を前に、アレンは内心の苛立ちを隠そうともしない。

「月の姫なんてくだらない、そんな感じのお顔ですね」

 向かい側の座席に座るクレイグが、そんなアレンに苦笑いしながら言った。

「……くだらないとは言わない。必要ないと思っているだけだ」

 父である先代の王が早くに亡くなったため、アレンが即位したのは十五歳の時。あれから、もうすぐ十年が経とうとしている。
 確かに二十四歳ともなれば、王妃を迎え跡取りがいてもおかしくない年齢ではある。だが、わざわざ『月の姫』を探しだし王妃とする意味がアレンにはわからなかった。

「皆、早くアレン様に跡取りが欲しいと心配しているのですよ」
「だったら、どの娘だって構わないだろう」
下手へたに貴族の娘を王妃に迎えるよりも、伝説の月の姫をめとった方がはくがつくでしょう? 何より、王家お抱えの予言者ブラウン様があんな予言をされたとあってはね」

 アレンはふんと鼻を鳴らして、馬車の窓から外を眺める。
 ――白銀の輝きを髪に閉じ込め生まれ出た娘は、月の姫と呼ばれて太陽王の花嫁となる。そして、サマルド国にさらなる繁栄をもたらすだろう――
 この国の民なら誰もが知っている伝承だが、実はこれはただのおとぎ話ではない。月の姫とは伝説でも夢物語でもなく、王家の正式な歴史書にも記されている存在なのだ。
 現実的なアレンと違って、父である先代は信心深く伝承やならわしをひどく重んじていた。その父が絶大なる信頼を寄せていた予言者ブラウンを、父の死後、王宮から追い出さなかったのをこれほど後悔したことはない。
 ここ数年、相談役として王宮で静かに暮らしていたブラウンが、突然『月の姫は既にこの世に生を受けている。近い将来、太陽王とめぐり合うだろう』と予言したのだ。

「あのジジイ……ゆっくり余生を楽しめと言ったのに、ここにきて面倒なことをしてくれたものだ。おかげで『月の姫』を名乗る不届き者が後を絶たなくなったではないか」

 予言者として前王の信頼が厚かったブラウンの言葉だけに、特に年配の家臣たちは喜びに沸き、こぞって『月の姫』探しを始めた。
 おかげで『月の姫』を探す王家の動きは国内にれてしまい、月の姫を名乗る娘が何人も城を訪ねてくるようになってしまったのだ。

「まあまあ。そんな風に言いながらも、結局はブラウン様を城から追い出したりなさらないですもんね。陛下はお優しい方ですよ」

 そう微笑みながら言われ、益々不機嫌そうにアレンは横を向いた。
 家臣という立場であるが、クレイグは血のつながったアレンの従兄いとこだ。同じ乳母うばにつき共に学び育ってきただけあって、気心は知れすぎるほど知れている。ゆえに、なんでも言いたい放題だ。

「大変ですねえ。王ともなると、結婚相手も自分で決められず……本当にいるかどうかもわからない『月の姫』を探し出さなきゃいけないなんて」


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