純情リターンマッチ

里崎雅

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1巻

1-1

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   1


 パソコンのモニターを見つめながら、前島理乃まえじまりのはパチパチと二、三度まばたきを繰り返した。
 最近なんだか疲れ目がひどいのは、やっぱり年のせいだろうか。三十路みそじを間近に控えた二十八歳。業界の中でも比較的若い社員が多いと言われているこの「こみやま証券」だと、もう決してその若い部類には入れない。
 視力は悪くないけれど、ブルーライトをカットするパソコン用メガネをかけた方がいいかもと、ふと思う。

「前島さん! 会議室の予約取れてる?」

 目頭を指で押さえてうーんとうなっていると、背後からいきなり声をかけられた。愛想笑いを貼り付けて椅子ごと振り返ると、肩まで伸ばした理乃の栗色の髪がふわりと揺れる。

「はい、大丈夫です。伺っていた通り、十四時から第二会議室を押さえてありますが」
「え、十五時からって俺言ったよね?」

 声をかけてきたスーツ姿の彼は、わざとらしい困り顔で理乃を見下ろした。その表情は、自分のミスだとわかっていながらそれを通そうとしている顔だ。
 ――またかよ。
 内心毒づきながらも、理乃は急いでモニターへと向き直り、会議室の使用状況確認画面にアクセスする。

「わかりました。使用時間は一時間で大丈夫でしょうか? 次の予定が入ってなかったので、時間延長の申請をしておきます」
「うん。それで頼むよ。次はちゃんと俺に確認してね」
「はい、わかりました。すみません」

 申し訳なさそうに軽く頭を下げてみせると、男性社員は満足気に微笑み、いそいそと自分のデスクへと戻っていった。

(お前が言ったんだよ! 十四時だって!)

 海外の顧客を相手にすることも多いこの課では、通例として二十四時間表記で時間を言い合う。
 十四時。確かに彼は一週間前にそう言った。
 チッと舌打ちしたいのをこらえて、理乃はデスクに置きっぱなしにしていた冷えたコーヒーに手を伸ばす。納得はいかないが、こういうことはよくある。声高に相手の非を追及するより、こうやって自分の苛立いらだちをやり過ごす方がずっとかしこい。
 それは長年派遣社員のポジションにいた理乃が身につけた、最低限の処世術でもある。
 北海道の地方出身で専門学校しか卒業してない自分が、東京のこんな大手証券会社で正社員として働いているなんて夢のような話だと思う。実際、地元の友達に話すと、皆が目を丸くする。

「理乃、こみやま証券で働いてるの? 派遣とかバイトとかじゃなくて?」
「うん。ヒラだけど、一応正社員だよ」

 一様に皆、すごーいと感嘆かんたんの声を上げる。でも実際は、全然すごくもなんともない。大卒組でスペシャリストの社員と違って、こっちはいたってノーマルな事務仕事をしているにすぎないのだから。
 理乃の仕事は、こみやま証券の中でも花形営業部署といえるエクイティ・キャピタル・マーケット、通称ECM第一課の渉外しょうがい員たちのアシスタント業務だ。届いた郵便物の仕分けからメールの内容チェック、出張の手配や精算など、雑用ばかりで専門的な仕事はほとんどない。ただ、アシスタント一人につき担当する社員は十人以上になるので、仕事は山ほどある。
 とはいえ、雑用ばかりでも正社員であることに変わりはなく、数学も苦手で英会話だってろくにできない理乃がこみやま証券に入社できたのは、まったくのラッキーだった。

(あの時の金融ショックがなければ、派遣社員のままだっただろうし。今頃どこで働いてるかもわかんないんだから、雑用ばっかでも感謝しないとね……)

 数年前にこの業界、いや社会全体が歴史的な金融ショックに襲われた。世の中は投資に対して慎重かつ臆病おくびょうになり、会社の業績はガタ落ちだった。その時たまたまこの会社に派遣されていた理乃は、他の派遣社員とともに次の契約更新はないだろうとささやきあっていた。
 会社は大幅な立て直しを行うと発表し、早期退職者をつのった。それも一段落して次はいよいよ派遣切りだと思われたころ、会社側から告げられたのは意外な提案だった。
 派遣会社を通して雇用していると、派遣会社への支払い分が上乗せになる。それなら、やる気と未来のある若い人材を育てるために、直接正社員として雇用する道筋を作るというものだった。数ヶ月単位で契約を結ぶ派遣社員と正社員とでは、待遇も扱いもまったく違う。二つ返事でその話に乗っかった理乃は、晴れて一流証券会社「こみやま証券」のOLとなったのだ。
 椅子に座ったままぐるりと周りを見渡し、理乃は小さく息を吐く。

(アシスタントはともかく……渉外員のエリートたちは、道産子どさんこの私でも知ってるような有名大学の卒業生ばっかだもんね。信じられないようないい環境にいるわ)

 これで社内に彼氏でもできたら、人生万々歳ばんばんざいなのだけど。

「前島さん」

 今度は別の社員に声をかけられ、理乃はぴくっと眉を上げた。

坂下さかしたさん」

 自分の中ではとびっきりの、それでいてわざとらしくない程度の笑顔で振り向く。

「ごめんね、このデータなんだけど……明日までに打ち込んで、先方に渡せるように製本しておいてもらえないかな?」
「え、明日までって……この量を、ですか?」

 渡された資料を見て、一瞬ひるむ。

「うん。急に必要になって。だけど、どうしても自分でやるだけの時間がないんだ」

 確かに、こういった雑用はアシスタントの仕事ではある。とはいえ、この量を明日までと言われたらさすがに戸惑う。他のアシスタントに手伝ってもらおうかなとも思ったが、突然の残業に巻き込むのは気がひけた。
 一瞬考え込んだ後、理乃は覚悟を決めて坂下を見上げて微笑んだ。

「わかりました。なんとかします」
「本当!? 助かるなあ! 僕はこれからちょっと外に出て、何時に帰れるかわからないんだけど……よろしくね」

 坂下は理乃のデスクに腕をつき、身体をかがめて近付いた。

「この埋め合わせ、今度必ずするね。じゃあ」

 理乃の耳元でそうささやき、坂下はいそいそと自分のデスクへと戻っていった。

「あー、理乃残業決定。またいいように使われたの?」

 坂下がいなくなると、すかさずうしろの席の同僚が理乃の方へとスチール椅子を転がしてきた。理乃と同じく派遣上がりで社員になり、アシスタント業務についているりょうだ。

「派遣上がりだからってめられてるんじゃないの? いくらアシスタントって言ったって、限度があるじゃん。もう立場的には同じ社員なんだから断ればいいのに」
「んー、まあ仕方ないよ。今日は別になんの予定もないしさ。残業手当もつくし!」

 へへっと笑ってみせる。

(坂下さんから頼まれた仕事だし、ね)

 他の誰にも話したことはないけれど、理乃の中で坂下はほんの少し特別な存在だった。一度だけのつもりで坂下から無理な残業を引き受けてしまったら、いつの間にかそれが当たり前になって他の担当社員よりも少しだけ強引に仕事を押し込んでくるようになった。その代わりに彼は、『埋め合わせ』と称しては理乃を食事に連れていってくれるのだ。
 付き合っているなんて、思ってもいない。それでも、社内では有望株として上司にも注目されている坂下から、二人っきりの食事に誘われることは理乃に大きな優越感を与えてくれていた。
 もしかして、残業が必要な仕事を理乃に度々頼んでくるのは二人で食事に行くためのきっかけ作りなのかもしれない。
 そう思えば、急なお願いだってまったく苦にはならなかった。

「うげ、すごい量……大丈夫? それを打ち込みだけじゃなく製本まで? 手伝おうか?」
「ううん! 大丈夫だよ。さ、ちゃっちゃと仕事しよー」

 残業は確定したが、理乃は鼻歌でも歌い出しそうな勢いでパソコンの前に座り直した。


 翌日。
 遅くまで残業をしたせいで、欠伸あくびを噛み殺しながら理乃はビルのセキュリティゲートに社員証をあてて通り過ぎた。
 鞄の中には、栄養ドリンクが入っている。

(さすがに昨日は疲れたな……)

 さっさと終えられると思った入力作業に案外手こずり、会社を出たのは終電ギリギリの時間だった。おかげで今朝の化粧ノリはイマイチだ。多少の不摂生ふせっせいはものともしなかった若い頃とは違って、最近は生活の乱れがすぐ肌に出る。これが二十八歳の現実か。
 ふあ、と再び欠伸あくびが込み上げてくる。口元を手で隠しながらフロアに足を踏み入れた時、理乃はなんだかいつもと少し様子が違うことに気づいた。上司の机の周りに皆が集まっていて、どこか華やいだ雰囲気だ。よくよく見ていると、その輪の中心に坂下がいる。

(あれ、坂下さんどうしたんだろう……)

 しきりに照れた様子の彼の隣に、一人の女性社員が寄り添うように立っている。一瞬脳裏をかすめたのは転勤のことだったが、こんな中途半端な時期にそれはありえないとすぐに否定する。

「どうしたの? 坂下さん何かあったの?」

 デスクに荷物を置いてから、集まっていたアシスタントの女子社員たちに声をかける。

「あー、理乃。あんた坂下さんのアシスタントだよね? わりと仲良さげに見えたけど、知ってたの?」
「何が?」
「結婚するんだってー、坂下さん。秘書室の真田さなださんと」
「え」

 言葉を失った。

「秘書室の真田さんってさー、確かこの会社のお偉いさんの親戚かなんかじゃなかったっけ?」
「そうそう。んで、小学校から大学まで女子校の、エスカレーター式のお嬢様学校出身!」
「うえ、小学校から女子だけなんてそんな世界があるのー?」

 ケラケラと騒ぐ同僚たちを尻目に、理乃は上司と談笑をしている坂下に目が釘付けだった。
 坂下は理乃が出勤してきたことに気づく様子もなく、穏やかに微笑んでいる。隣にたたずんでいる秘書室の真田は、お嬢様女子大出身の美女として社内でも有名だ。受付に配属されそうになったところを上層部の口利きにより花形の秘書室になったという噂も聞いたことがある。

「あー、なんだか残念。やっぱ坂下さんくらいの有望株は、結局奥さんになる人もああいうレベルの高い女性なんだねー」
「そりゃあそうだって。なんだかんだいって、ここの課の人は皆そうじゃん?」

 第一課のメンツは皆、そろいも揃って結婚をするのが早い。それがまるで出世の条件とでもいうように、家柄や学歴が優秀な女性社員や、はたまたお見合いなどで知り合った良家の女性とさっさと結婚を決めてしまう。

「独身族の最後の希望だったのにね、坂下さん。とはいってもなにも期待なんてしてなかったけどさー。でも理乃とはちょっといい感じに見えてたし、これはもしかしてもしかすると……なんて思ってたのになあ」

 同僚の手が、ぽんと理乃の肩にのる。それがひどく重く思えたけれど、理乃はなんとか引きった笑みを浮かべた。

「社内で相手探すのなんかあきらめて、今度合コンでもしよっかあ」
「なになに、あんたここのエリートたち狙ってたのー? 甘い甘い」

 あっけらかんとした笑い声が響く中で始業開始のベルが鳴り、皆はぞろぞろと自分の席に戻っていった。その波に乗って、理乃もノロノロと椅子に座る。上司に報告が終わったのか、坂下と真田は並んで頭を下げると理乃のうしろを通ってフロアを出ていった。一瞬理乃の背中に緊張が走ったけれど、坂下は悲しいくらい平然としていた。
 数回二人きりで食事に行っただけで、付き合ってるなんて過信したことはなかったけれど。
 坂下が連れていってくれるのは今まで理乃が一度も行ったことがないような、そして一人では到底行けないハイクラスな店ばかりだった。今まで付き合ってきた彼氏にさえそんなところに連れていってもらったことがなかったから、正直舞い上がった。

(あれって全部……私をいいように使うため、だけだったのかな……)

 昨日坂下は、得意先から直接帰宅するとホワイトボードに書いてあった。アシスタント業務についている女子社員は大抵定時で上がれるが、世界中を相手にしている渉外しょうがい員はそうもいかず、課のフロアには四六時中誰かがいる。坂下が予定外とはいえ夜遅くに顔を出したとしても、何も不自然じゃない。
 もしかして、遅くまで残業している自分を気遣い様子を見にきてくれるかも――なんて思ってフロアの入り口をチラチラと気にしていたのが、滑稽こっけいで仕方ない。

「理乃? どうしたの?」

 椅子に座って黙ったままの理乃をおかしく思ったのか、うしろの涼子が声をかけてきた。

「あ、ううん。なんでもない」

 慌てて笑みを浮かべて、荷物を片付けパソコンのモニターのスイッチを入れる。けれど、手も頭も凍ったように動かなかった。


「あー! 理乃やっときた~!」

 メールで指定された居酒屋の引き戸を恐る恐る開けると、店の奥からは懐かしい声が聞こえてきた。

「うわっ、ホント理乃だー!」
「久しぶりぃ。あんたいつ誘っても来ないんだもん。付き合い悪い!」

 坂下の結婚を知ってから数日後。理乃の携帯に、高校時代の友人から飲み会のお誘いメールが届いた。
 北海道から上京してきた同級生たちで、年に何度か飲み会を開いているのは知っていた。しかし今まではあまり参加する気もおきず、なんだかんだと理由をつけては断ってばかりだったのだ。
 今回も、坂下のことがなければ参加していなかっただろう。あれ以来、どうしても一人でいると気持ちが沈んでしまって、何か些細ささいなことでもいいから気分転換がしたかった。

「ごめん。なんだか忙しくて」

 温かく迎えてもらったことにどこか罪悪感を覚えつつ、理乃は座敷に上がるためにブーツを脱いだ。

「仕方ないよー。理乃、あのこみやま証券のOLなんだもん。すっごいよねー」

 屈託くったくなく微笑まれ、またズキリと胸が痛む。

「すごくないよ別に……。たまたま派遣上がりでタイミングよく採用してもらえただけでさ。運がよかっただけだもん。全然すごくないんだ、実際」

 いつもなら肯定も否定もせずに愛想笑いを浮かべる場面だけれど、弱音が素直に出てくる。それは、相手が昔から知っている同級生だからだろうか。

「なんか疲れてる? 仕事帰りなんでしょ。まあ上がんなって」
「うん」

 促されるままに、個室の小上がりへと足を踏み入れた。

「よっ、おせえぞ前島!」

 理乃が参加するのは初めてだが、皆は定期的に集まっているらしくたまに報告と称して写真がメールで送られてくることがあった。来ているのは、きっといつものメンバー……そう思ってぐるりと席を見渡した理乃は、ある人を見つけて視線が釘付けになった。

「え……!?」
「おう」

 お酒の入ったグラスを口にあてたまま、目だけをちらりと上げてこちらを見た彼。
 懐かしい、やや細くて涼しげな目元に、一気に心臓がドクンと跳ね上がった。
 真っ黒でやや長めの前髪が額にかかっていて、そのせいかあの頃の彼よりずっと大人に見える。落ち着けと言い聞かせても、一旦速まった鼓動はまったく治まる気配がない。

恵介けいすけ……。どうしたの、一体。いつこっちに来たの?」

 高校時代一番仲の良かった男友達のひいらぎ恵介が、そこにいた。高校時代どころか、卒業した後も彼以上の友達ができたことはない。今でも彼を友達と言い切れるかどうかは、微妙に怪しいけれど。

「なんだよ恵介、理乃に何も言ってなかったのか?」

 傍にいた同級生の言葉に、理乃は驚いた。

「え、皆は恵介がこっちに来てること、知ってたの?」
「知ってるも何も……今日は恵介の上京祝いだぞ。あれ、前島は知らないで今日来たの?」
「あ、ごめーん。メールに書かなかったっけか」

 理乃に今日のことをメールで知らせてくれた友人が、ぺろりと舌を出した。

「だって理乃、知ってると思ったんだもん。恵介が直接教えてると思ってた。あんたら、高校時代は超仲良かったじゃん」

 微妙な質問に、ぎくりと身体がこわばる。なんて答えようかと躊躇ちゅうちょしている理乃をよそに、恵介はしれっと言い放った。

「高校時代の友達なんて、そんなもんだろ。しかも専門学校からこっちに出てきた理乃と地元に残った俺じゃ、生活環境が全然違うし交流もなかったよ」

 慌てて、理乃もその話題に乗っかる。

「そ、そうそう。別に何かあったわけじゃないんだけど……なんとなくね。ほら、新しい生活に慣れるのに精一杯だったし……」

『何かあったわけじゃない』のくだりで、恵介の眉がぴくりと動いたのがわかった。けれど、こんな大勢がいる場所で、へたな反応を見せるわけにいかない。

「冷たいなー、理乃。あ、でも私もこの定例会で再会するまで皆に連絡取ってなかったかも」
「でしょでしょ? そんなもんだってば」

 いい具合に自分達二人の話題が流れていきそうで、理乃はほっとして、ひとまず空いている席に腰を下ろした。その途端――

「前島~、おめーはイイトコで働いてるからってよ、俺ら同胞のことなんてもうすっかり忘れてるんだろ!」
「わっ!」

 すでにアルコールが回っているのか、隣の男がいきなり理乃の肩を抱いてきた。吐く息はかなりアルコール臭くて、目もすわっている。
 確か、高校時代はほとんど絡むことのなかった同級生だ。驚いて必死に身体を離す。

「ちょっとちょっと、近いってば……」
「あーん? こんなのOLなら慣れっこだろ?」

 ブチンと切れて男の身体を押し返し反論しようとしたら、その前にガバッと離れた。

「お前、何やってんだよ。飲み過ぎだ!」

 三人くらい向こうにいたはずの恵介が、あっという間に隣にきてその男の腕を力強く引っ張っていた。

「っんだよ恵介! お前の彼女でもあるまいし!」
「そういう問題じゃねえだろ!」
「もー、渡辺わたなべ飲み過ぎだってば! 理乃が初めて参加してくれたのに、そんなんじゃもう来なくなっちゃうじゃん!」

 恵介の行動にハッとしたように、周りの友人たちも慌てて酔っ払った彼を理乃から遠ざけた。自然と、空席になった理乃の隣に恵介が座る形になる。

「……ひ、久しぶり」
「おう」

 あの頃は、どんな風に話していたっけ? 
 当然ながら記憶よりもずっと大人で、心なしか筋肉もついてたくましくなった恵介を直視できない。彼が座っている方の左腕を、ビリビリに意識してしまう。
 高校の時から、周囲にカッコイイと噂をされるような人だった。下級生や他校の生徒に告白されることもあったし、背が高いせいでバスケ部やバレー部から勧誘されていたのも知っている。そんな彼が特に目立つところのない平凡な自分と一番仲がいいというのは不思議だったけれど、話しているとめちゃくちゃウマが合って居心地が良かった。恵介にとっても、理乃はそんな相手だったのだと思う。
 大人になった恵介はあの頃よりもカッコよくて、東京に出てきてそれなりにイイ男を見慣れた理乃から見ても充分すぎるくらいに魅力的だった。
 ちらりと隣をうかがってみると、心なしか彼の顔が赤い。

「あれ恵介、結構飲んでるの? 酔ってる?」
「全然酔ってねーよ。ばーか」

 ふいに伸びてきた手が、理乃のおでこをピンと弾いた。

「いったっ!」
「でた! 理乃ってよく恵介にデコピンされてたよねー」

 高校時代を思い出した周りの友人達から、どっと笑い声が起こった。

「だってこいつのおでこ、デコピンしたくなるんだもん」
「わかる! つるんとしていてゆで卵みたい! 理乃、相変わらずお肌キレー」

 笑い声が起こったおかげで、理乃の緊張がほんのすこし和らいだ。額を押さえてほっとしたのと同時に、複雑な気持ちが込み上げる。
 会いたかった。でも、会いたくなかった。

「理乃、とりあえずビールでいい?」
「あ、よろしく」
「理乃がビールとか、笑えるわ」

 恵介とは、高校を卒業して以来一度も会ったことがなかった。むしろ、意識して避けていたと言ってもいい。上京して、こちらでの生活に慣れるのに必死だった専門学校時代はあまり実家に帰ることもなかったし、地元での成人式にもあえて出席しなかった。

「十年ぶり、かあ……」

 集まったメンバーを見渡し、そしてこっそりと隣の恵介に目をやる。どことなく不機嫌そうではあるけれど、そんなのは高校時代にもよくあった。理乃は彼がデコピンしてきた額をゴシゴシと指でこすりつつ、深呼吸をひとつした。

(恵介……あの時のこと、もう忘れているのかな)

 理乃にとってはずっと忘れられなかった思い出。でも、十年もたってしまえば記憶も随分とあやふやになる。ずっと後悔しながら胸をきゅんと痛めてきた出来事も、こうやって時がたつと、なんでもないようなことのように思えてくる。
 理乃がそうなら、恵介はとっくに過去のこととして忘れているに違いない。

(そうでもなきゃ、こうやって普通に私の隣になんか座れないよね)

 込み上げてくるのは、甘酸っぱいような苦しいような、説明しがたい感情だ。

「じゃあ~! 今日は久々の恵介と理乃の再会に! かんぱーい!」

 運ばれてきたジョッキを手に、同級生が音頭をとる。理乃は苦笑しつつも隣の恵介とカチンとジョッキを合わせた。


 高校時代の友人が久々に集まったとなれば、話題はやっぱり当時のことになる。学校祭や修学旅行、はたまた誰と誰がこっそり付き合っていたなど、話題は事欠かない。

「そういや、恵介と理乃は本当に付き合ってなかったの?」

 唐突とうとつに自分たちに話題が振られ、理乃は二杯目に差しかかったビールを盛大にブッと噴き出した。

「うっわ、汚いだろ!」

 そう言いつつ、恵介は慌てておしぼりを手に取り理乃の前のテーブルを拭く。

「そこは『大丈夫か?』って、そのおしぼりを私に手渡すとこなんじゃないの?」
「お前なんて後でもいいだろ。人様の店を汚したことの方が問題じゃ!」

 理乃はふてくされた顔をしつつ、別のおしぼりで自分の口の周りをぬぐう。

「付き合ってないよ。このやりとり見たらわかるでしょ? 恵介は悪友だね、悪友」
「悪友ってなんだよ。俺は別に悪いことなんて何もしてねえぞ!」

 今度は横から、どしんとヒジ鉄がきた。

「いたーい! ほら見てよ。恵介に女扱いされたことなんてないもん! 暴力はんたーい!」

 ケラケラと笑って見せながら、心の中ではまったく別のことを考える。
 女の子扱いなら、皆の見ていないところでいつもされていた。さり気なくだけど、はっきりと。
 下校途中に街へ遊びに行こうと二人きりになった時、恵介はいつも無言で理乃を歩道側へと押しやった。掃除の時に重いバケツを運んでいると、うしろから追いかけてきてはすぐに奪う。そんな些細ささいな気遣いなら、挙げればキリがない。
 恵介が自分以外には見せたことのない女の子扱いをしてくれた時に、真っ赤になってどうしていいかわからずお礼もろくに言えなかったのは理乃の方だ。
 そんな歯がゆい当時の記憶がよみがえる。理乃はそれを振り払うかのように手を伸ばして焼き鳥を手に取った。

「でもさー、恵介もこんな年になってこっちに出てくるなんてさ。彼女とかいないの?」

 同級生の女子が焼き鳥の串をぶんぶんと振りながら恵介に問いかけた。

「いねえよ」

 たった一言の返事に、随分ほっとしている自分がいる。はたとそれに気づいて、またビールをあおる。

「じゃあ理乃はー?」
「え? 私は……」

 言われて、ハッと坂下のことを思い出した。居酒屋に足を踏み入れてからはすっかり忘れていたくせに、思い出した途端にずんと気持ちが沈む。わずかに陰った理乃の表情に気づき、同級生は首を傾げて顔を覗き込んできた。

「あれ。なんか、聞いたらマズかった?」
「いや……大丈夫だよ」

 そうは言ったものの、続く言葉が口から出ない。どうやって取りつくろえばいいかわからず、仕方なく再びジョッキに口をつけると一気に飲み干した。

「理乃、ペース早くない? 何かあったの?」
「あー、うん。会社でイヤなことがちょっとあってね」

 苦笑いを浮かべつつ、三杯目のビールを注文する。忘れようと思っていた数日前の出来事がイヤでも頭に浮かび、段々とむしゃくしゃしてくる。

(恵介に久々に会えた嬉しさで、さっきまでは忘れてたのになあ……)

 ここのところ坂下の結婚のことで頭がいっぱいで、それを忘れるためにほんの気まぐれで参加した飲み会だった。恵介と再会できたことを、素直に喜べばいいのかどうかはまだわからない。
 はふ、と小さくため息をつく様子を隣の恵介がじっと見つめていることに、理乃は気づきもしなかった。


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