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40、ララサラーマ(3)
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テロ発生後4時間後 ロンドン・英国
テロ発生当日。
今朝から閉店するまで、ナオミは笑顔を絶やさなかった。
この1ヶ月というもの、ろくに寝ていない。眠れないのだ。
同僚たちが陰で「男に捨てられた」と、憐れんで話しているのを聞いてから、余計に陰鬱な表情になっていた。
その彼女が、朝から明るい。いぶかしがる同僚を横目に、ナオミはひたすら仕事をこなした。
今日を限り、彼女は生きるのをやめると、決めていた。
ロッカーには、大量の睡眠導入剤を持ち込んでいた。
不眠症の同僚が「最近の導入剤は、自殺防止のために成分が抑えてあるのよ。ちょっと飲んだくらいじゃ効かないの」と、ぼやいていたのを聞いたからだ。
いくつかの病院を回り、ネットも使って購入した。
夕方から予約が立て込んでいた日で、「今日は残業ね」と、ナオミとクマリを会わせた同僚がつぶやく。
時間は、午後6時半になろうとしていた。
スマホを見ていた一人の顧客が「大変!」と大声をあげ、突然、立ち上がった。
店中が、叫んだ顧客を注視する。
「ニュース、ニュース!すぐにニュースを見せて!」
カットスペースの鏡の横にある小さめのディスプレイには、いつも昔の映画を流していたが、それをオーナーがBBCにチャンネルに代えた。
そこには、白い大きな建物が煙を上げ、一部は瓦礫のようになった悲惨な映像が映っていた。
BBCのアンカーマンが早口で伝えている。
「アメリカ東部時間、午後1時頃、ワシントンの自然史博物館で大きな爆発が起きたようです。これがテロか、あるいは事故なのかは、現時点で発表はされていません」
悲鳴に近い声は誰のものなのだろう。
もしかしたら、私が上げたのかしら。
それからしばらくは、店中がテレビに釘付けになった。それがどれだけ続いたのか、ナオミは分からない。
ただ、「ワシントンの自然史博物館」という言葉だけが、彼女を支配した。
今日は、今日は何日だっけ。
そう、今日は彼女がクマリに首相の孫二人が自然史博物館に行く日だと漏らした、まさに当日だった。
その後、店には次々とキャンセルの電話が入り、オーナーが閉店を宣言すると、同僚たちは我先にと帰っていった。
ナオミは一人になった。
今日で、生きるのをやめようと思って店にきた。
自分が仕出かした事の大きな代償を払わなければならない。
生きることをやめるのに、さらなる言い訳ができた。
ナオミは、ボーッとして黒皮の回転椅子に座ったままだ。
ロッカーから取ってきた大量の導入剤は、すぐ目の前に置いてある。
あとは、彼女が飲むだけ。
「ナオミ!オーナーが事務所で呼んでる!」
このテロが起きる前に、そう同僚に呼ばれて事務所にいった。その時のことを彼女は思い出す。
ドアをノックすると、広いが整理整頓のなされていないデスクの向こう側で、オーナーが微笑んでいた。
呼ばれた意味が分からないナオミに、「そこに座って」とオーナーがいう。
オーナーは、いつも付けているリストバンドを外して、洗面器にお湯を張り、そこへ右手首をつけていた。見られていることに気づいたオーナーは、苦笑しながら言った。
「温めているのよ。夏でもこうして温めて、それからリハビリよ」
意味が分からないナオミに構わず、彼女は洗面器から手を出し、タオルで拭いて、右手首をナオミに見せながら続けた。
「ここ、ここに白い線があるでしょ。これはね、25歳の時、転んで骨折して手術した跡よ。
バカよね。思わず体をかばって右手を出したの。そしたら、ただの骨折じゃなくて、複雑骨折。もう、参ったわ。
それから約2年、ハサミを握れなかった。ずっとリハビリ。痛くてね。でも動かさないと、動かないまま固まるって医師に脅されたの。痛いけど、それに堪えてリハビリしたわ。
美容師なのに手を怪我するなんて、ほんとバカ。まだまだ駆け出して、さらに技術を磨こうって時に。
辛いリハビリの後は、もう必死でハサミを持った。
骨折前なら難なく出来たことが難しくて。毎日、悔しくて泣いてた。まあ、こういう経験があって、今があるの」
ナオミは、心底驚いた。
恵まれた環境で、何不自由なく育ち、順風満帆の人生を歩んできた、そんな人だと思っていたのだ。
「…全く知りませんでした」
「こんなの、誰かれにでも言う話じゃないでしょ。嫌よ、苦労話を聞かせるなんて。あなたを呼んだのは、こんな辛気臭い話じゃなくて、これよ」
そう言ってオーナーは、デスクの上に書類を出す。
それは、ロンドンでも有名な美容師養成学校の入学書類だった。
オーナーは、それは嬉しそうに言った。
「ナオミは真面目でやる気もある。行きなさいよ、この学校!お金の心配はいらないわ。入学に必要なお金は、私が出す。
私ね、ナイロビに支店を出したいの。この学校に行って、やってみない?」
ナオミは泣いた。
今も泣いているけれど。
卑屈な自分が情けない。この卑屈さから、クマリに情報を流してしまったのだ。
このまま薬を飲んだら、卑屈なうえに、さらに卑怯者にもなってしまう。
ナオミはスマホを取り出し、オーナーに電話した。
「ナオミです」
「どうしたの?」
「わ、私、あ、あのまず謝らないと。一つ目は観葉植物を倒して鉢を割ってしまって」
「まあ、ケガはない?」
「大丈夫です」
「それならいいわ。さあ、救急車を呼んで!労災申請しなさいよ!」
明るく言われて面食らったナオミは、久しぶりに声を上げて笑った。釣られてオーナーもひとしきり笑ったあと、申し訳なさそうに言った。
「あの植物、邪魔だったでしょ。インテリデザイナーが、あの位置が絶対にいいっていうの。上客をよく紹介してくれる人だから、あまり強く言えなくて。でも、これで片付けられるわ!うちの大事な従業員がぶつかって転んだ、これは労災だって言ってやる。あ、ははは」
ナオミは、生まれて初めて、泣きながら笑った。
「あ、あの私、どうしても言わなければいけないことが…」
それから1時間後、オーナーと弁護士に伴われたナオミが、ロンドン市内の警察署にやってきた。
泣きじゃくるナオミに、「ナイロビに支店を出すわよ」と、オーナーは励まし続けていたという。
その後、ナオミのもたらした情報はすぐさま、英国政府から合衆国に伝えられることになる。
テロ発生当日。
今朝から閉店するまで、ナオミは笑顔を絶やさなかった。
この1ヶ月というもの、ろくに寝ていない。眠れないのだ。
同僚たちが陰で「男に捨てられた」と、憐れんで話しているのを聞いてから、余計に陰鬱な表情になっていた。
その彼女が、朝から明るい。いぶかしがる同僚を横目に、ナオミはひたすら仕事をこなした。
今日を限り、彼女は生きるのをやめると、決めていた。
ロッカーには、大量の睡眠導入剤を持ち込んでいた。
不眠症の同僚が「最近の導入剤は、自殺防止のために成分が抑えてあるのよ。ちょっと飲んだくらいじゃ効かないの」と、ぼやいていたのを聞いたからだ。
いくつかの病院を回り、ネットも使って購入した。
夕方から予約が立て込んでいた日で、「今日は残業ね」と、ナオミとクマリを会わせた同僚がつぶやく。
時間は、午後6時半になろうとしていた。
スマホを見ていた一人の顧客が「大変!」と大声をあげ、突然、立ち上がった。
店中が、叫んだ顧客を注視する。
「ニュース、ニュース!すぐにニュースを見せて!」
カットスペースの鏡の横にある小さめのディスプレイには、いつも昔の映画を流していたが、それをオーナーがBBCにチャンネルに代えた。
そこには、白い大きな建物が煙を上げ、一部は瓦礫のようになった悲惨な映像が映っていた。
BBCのアンカーマンが早口で伝えている。
「アメリカ東部時間、午後1時頃、ワシントンの自然史博物館で大きな爆発が起きたようです。これがテロか、あるいは事故なのかは、現時点で発表はされていません」
悲鳴に近い声は誰のものなのだろう。
もしかしたら、私が上げたのかしら。
それからしばらくは、店中がテレビに釘付けになった。それがどれだけ続いたのか、ナオミは分からない。
ただ、「ワシントンの自然史博物館」という言葉だけが、彼女を支配した。
今日は、今日は何日だっけ。
そう、今日は彼女がクマリに首相の孫二人が自然史博物館に行く日だと漏らした、まさに当日だった。
その後、店には次々とキャンセルの電話が入り、オーナーが閉店を宣言すると、同僚たちは我先にと帰っていった。
ナオミは一人になった。
今日で、生きるのをやめようと思って店にきた。
自分が仕出かした事の大きな代償を払わなければならない。
生きることをやめるのに、さらなる言い訳ができた。
ナオミは、ボーッとして黒皮の回転椅子に座ったままだ。
ロッカーから取ってきた大量の導入剤は、すぐ目の前に置いてある。
あとは、彼女が飲むだけ。
「ナオミ!オーナーが事務所で呼んでる!」
このテロが起きる前に、そう同僚に呼ばれて事務所にいった。その時のことを彼女は思い出す。
ドアをノックすると、広いが整理整頓のなされていないデスクの向こう側で、オーナーが微笑んでいた。
呼ばれた意味が分からないナオミに、「そこに座って」とオーナーがいう。
オーナーは、いつも付けているリストバンドを外して、洗面器にお湯を張り、そこへ右手首をつけていた。見られていることに気づいたオーナーは、苦笑しながら言った。
「温めているのよ。夏でもこうして温めて、それからリハビリよ」
意味が分からないナオミに構わず、彼女は洗面器から手を出し、タオルで拭いて、右手首をナオミに見せながら続けた。
「ここ、ここに白い線があるでしょ。これはね、25歳の時、転んで骨折して手術した跡よ。
バカよね。思わず体をかばって右手を出したの。そしたら、ただの骨折じゃなくて、複雑骨折。もう、参ったわ。
それから約2年、ハサミを握れなかった。ずっとリハビリ。痛くてね。でも動かさないと、動かないまま固まるって医師に脅されたの。痛いけど、それに堪えてリハビリしたわ。
美容師なのに手を怪我するなんて、ほんとバカ。まだまだ駆け出して、さらに技術を磨こうって時に。
辛いリハビリの後は、もう必死でハサミを持った。
骨折前なら難なく出来たことが難しくて。毎日、悔しくて泣いてた。まあ、こういう経験があって、今があるの」
ナオミは、心底驚いた。
恵まれた環境で、何不自由なく育ち、順風満帆の人生を歩んできた、そんな人だと思っていたのだ。
「…全く知りませんでした」
「こんなの、誰かれにでも言う話じゃないでしょ。嫌よ、苦労話を聞かせるなんて。あなたを呼んだのは、こんな辛気臭い話じゃなくて、これよ」
そう言ってオーナーは、デスクの上に書類を出す。
それは、ロンドンでも有名な美容師養成学校の入学書類だった。
オーナーは、それは嬉しそうに言った。
「ナオミは真面目でやる気もある。行きなさいよ、この学校!お金の心配はいらないわ。入学に必要なお金は、私が出す。
私ね、ナイロビに支店を出したいの。この学校に行って、やってみない?」
ナオミは泣いた。
今も泣いているけれど。
卑屈な自分が情けない。この卑屈さから、クマリに情報を流してしまったのだ。
このまま薬を飲んだら、卑屈なうえに、さらに卑怯者にもなってしまう。
ナオミはスマホを取り出し、オーナーに電話した。
「ナオミです」
「どうしたの?」
「わ、私、あ、あのまず謝らないと。一つ目は観葉植物を倒して鉢を割ってしまって」
「まあ、ケガはない?」
「大丈夫です」
「それならいいわ。さあ、救急車を呼んで!労災申請しなさいよ!」
明るく言われて面食らったナオミは、久しぶりに声を上げて笑った。釣られてオーナーもひとしきり笑ったあと、申し訳なさそうに言った。
「あの植物、邪魔だったでしょ。インテリデザイナーが、あの位置が絶対にいいっていうの。上客をよく紹介してくれる人だから、あまり強く言えなくて。でも、これで片付けられるわ!うちの大事な従業員がぶつかって転んだ、これは労災だって言ってやる。あ、ははは」
ナオミは、生まれて初めて、泣きながら笑った。
「あ、あの私、どうしても言わなければいけないことが…」
それから1時間後、オーナーと弁護士に伴われたナオミが、ロンドン市内の警察署にやってきた。
泣きじゃくるナオミに、「ナイロビに支店を出すわよ」と、オーナーは励まし続けていたという。
その後、ナオミのもたらした情報はすぐさま、英国政府から合衆国に伝えられることになる。
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