剣闘士令嬢

春紫苑

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二章

十話 心臓

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 恐ろしい光景だった。
 砂を蹴立てた魔牛が、アラタに向かい足を進める姿は。
 魔牛ははじめから酷く興奮していて、明らかに正気ではない様子。
 前脚で砂を掻き、頭を振って、今にも飛びかかりそうにみえたわ。

「闘技場の臭いのせいだよ……。さっきまであそこで剣闘士たちが血を流していたろう?
 その匂いが充満しているからね……」

 闘技舞台アレナの砂は、本日も多くの血を吸っていたわ。
 人の血で酔う魔獣にとって、それは、最高の興奮剤。

「だから野獣戦は前座として、初戦に組まれることが多い」

 知っているわ。
 私だって学び舎で、そう習ったもの。
 だけどアラタの試合は三戦目。敢えて砂に血を吸わせた上で、挑む戦い。

「アラタは、人とやり合うよりもずっと楽だと、そう言ってたよ……。
 魔獣は本能に準じて行動する。血に酔えば、当然食らうことしか考えない。
 その方が、断然やりやすいんだって……」
「そんなはずないでしょう⁉︎」

 血に酔った魔獣は、恐れを知らないと聞くわ。
 傷を負うことも厭わず、ただ喰らい付いてくる怪物と化すのだと聞いていた。
 それしか考えられないようになるのだって。

 魔獣にとって、人の血は猫のマタタビ……。
 だけどそれは一般的に言われていることで、貴族であるなら違うのだということも、知らされる。

 魔獣にとって、人の血は、猫のマタタビなんかじゃない。魔薬なのだって。

 血に酔った魔獣はさらなる快楽を求めるようになるの。
 食らえば食らうだけ興奮し、痛みを感じなくなるのですって。

 だから、何をしたって止まらない。ひるまない。食欲の限界も無い。死ぬ瞬間まで食らい続けるのだって!
 魔獣の咆哮に、ビクリと身が竦んだわ。
 そうして次の瞬間、その巨体がアラタに向かって突進していったの。砂を蹴散らし、脇目も振らずに!

「アラタ――‼︎」

 ついそう叫んでしまったけれど、それは魔牛の咆哮に掻き消されてしまった。
 いや、止めて、止めさせて!
 アラタが殺されてしまう!
 とっさに座席を立ち、手摺りを越えようとした私を、クルトが掴み引き戻したわ。

「サクラ、落ち着いて!」
「落ち着いていられるわけないでしょう⁉︎ アラタを助けなきゃ……っ」
「君が行ってなんになる⁉︎」

 そう怒鳴られて、余計涙が溢れたわ。
 その様子を見てクルトはしまったと思ったのね……。私をぎゅっと抱きしめた。

「ごめん。怒鳴って悪かった……」

 クルトに怒鳴られるなんて初めてだったから、私も少し、冷静になれた。
 アラタが魔牛の突進をひらりとかわした姿を見て、安心できたというのもあったわ。
 そうね……。私が舞台に乱入したところで、なんの助けにもならない……なら、クルト。

「止めさせてちょうだい……」

 アラタを守って。
 そう言ったのに、クルトは首を横に振ったわ。

「駄目だよ。興奮した魔獣は死ぬまで止まらないって、知っているだろう? どっちにしろもう、仕留めるしかないんだよ」
「ならば皆で倒せば良いじゃない!」
「駄目だ。この試合はアラタの希望で組まれたものだ。それを中止させてしまったら、彼が責任を問われる」

 ……なんですって?

「彼の希望した組合せバールなんだ。そして最近人気の興行でもある。
 興奮した魔獣を、敢えて一人で相手するんだ」

 耳を疑ったわ。
 アラタがあの魔獣との戦いを望んだなんて。

「僕がここに来ることを許されているのはね、アラタの勝ちに賭け金を積む役としてなんだ。アラタの持ち金を全額ね。
 そうすれば、アラタは賞金と共に別の収入も得られる。
 これが、アラタの譲歩の限界だ。僕たちに許されているのはここまでなんだよ」
「許されている限界って、どういう意味なの?」

 ワッと歓声が上がった。
 慌てて会場に視線をやると、魔牛の突進をギリギリで交わしたアラタが、その巨体を浅く小剣で斬りつけていたわ。
 魔牛の身体には赤く長い筋が刻まれた。けれど……それは表面を撫でたに等しいものだった。
 あの小剣を突き立てたところで、魔牛の心臓には到達しないに違いない。

 アラタは一体、あんな小剣二本で、どうやって魔獣を倒す気なの⁉︎

 そんな焦る私の耳に、クルトの苦渋に満ちた声が届いたわ。

「サクラ……僕が言わなかったと思う?
 僕も、アラタに言ったんだ。豺狼剣闘士団の出資者になるって」

 アラタの様子に視線を向けながら、クルトは苦しそうに表情を歪めたわ。
 彼だって本当は止めたいと思っているのだと、それで理解できた。

「だけどアラタは許してくれなかった……。
 彼の父親は、剣闘士団の興行師としての資質を持ち合わせていない。
 出資者の期待に応えられる戦績を積むことは不可能だろうって。
 でもあの男には、それが理解できない……。
 出資者から金を得ようと、どんな無理難題だって受けてしまうだろう。
 そうなれば、その皺寄せは剣闘士らに向くことになる。
 戦績を得ようと、闇雲に無茶な戦いに挑ませることになるのだって」

 そうなれば、彼らはきっと死んでゆく……。

「その代わりに自分を犠牲にするっていうの⁉︎」

 また歓声。
 アラタが魔牛の突進を避けて横をすり抜けざま、尾を切り落としていたわ。
 周りはそれに拍手喝采。
 だけど、魔牛は全く意に介さない様子で、アラタに向き直った。
 血走った眼には、痛みに怯む様子など微塵もうかがえない。
 血の魔薬により、痛みなんて感じていないんだわ……。

「間違ってるわそんなの……。
 今までだって、何度も怪我を負っていたじゃないっ。
 そのうち、怪我では済まなくなってしまう……それが今日じゃない保証なんて無いわ!」

 クルトの胸を、拳で叩いた。
 何度もそうした。
 だけどクルトは私を抱く腕を緩めてくれず、それどころか、微動だにしなかった……。
 私の力では、クルト一人の表情すら崩せない……。

「それでも、挑むと決めたんだ。
 サクラ、これはアラタと、彼の父親との戦いなんだよ。
 アラタは考えがあって、ああしてる」
「どんな考えだって言うのよ!
 自分の身を犠牲にするようなやり方、どんな理由だって納得なんてできないわ!」

 そう叫んだ私に、クルトは言ったの。

「アラタは花形になろうとしてるんだ。
 そうすれば、引退後に興行師となることを望まれるだろうし、彼の父親を団長マスターの座から引き摺り下ろすことも、可能になるだろう。
 だからアラタは、アラトゥス・ゲオルギウスの名で剣闘士になる道を選んだ。
 アラトゥス・ゲオルギウスはね……アラタの祖父の名でもあるんだ」

 アラトゥス・ゲオルギウス。
 その名は、剣闘好きならば必ず知っていると言えるくらい、有名な名であるそう。
 アラタの祖父は元剣闘士で、引退後に興行師となり、そこからさらに伝説を築いた人。

 彼の剣闘士団は、小さいながらも各部門で頂点を取るような花形を、何人も闘技場へと送り出した。
 だから、アラトゥス・ゲオルギウスの名で、アラタ本人が花形と言われるまで上り詰めることができたなら……。
 かつての英雄の孫である彼を、周りは必ず望む。興行師となる道を、強く希望されるだろうって。

 だけどそれを聞いた私には、絶望感しかなかったわ……。
 アラタには無理よ……花形は、無謀な挑戦でしかない。
 だってアラタは……っ。

「…………クルト、アラタはね……アラタは、心臓が弱いの……」

 アラタの秘密。
 彼は心臓が弱くて、長く激しい運動には耐えられない身体なの。

 医務室の男性医師が、私にそう、教えてくれたのよ……。
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