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翌日、朝食を終えた二人はまず神木の家に行く。突発的な泊まりだったので、荷物も服装も変える必要があった。
準備を整えたら電車で街の中心部へ向かう。外はすっかり盛夏の暑さで、電車を待つ間に二人とも汗だくになってしまった。
「今日は何しましょうか。あんまり外に出たくないですよね」
「そういえば気になってる映画があったんだ。御堂くんさえよければだけど」
「俺けっこう映画好きですよ。なんでも観ます」
駅に着くまでに結論が出たので、二人で上映時間を調べながら映画館に向かって歩く。ちょうど三十分後に始まる回があり、涼しい室内に吸い込まれるように入っていった。
神木はあまり映画を観ない。映画館に来たのは一年ぶりくらいではないだろうか。広告を見て気になることはあるのだが、気になった時にはまだ上映が始まっておらず、ぼんやりしているうちに忘れて結局タイミングを逃してしまう。今日は思い出せたので万々歳である。
対して蓮司はそこそこ観る方だ。といっても最近は映画館を訪れるよりは配信サービスを使う機会が多い。ジャンルは問わず、邦画も洋画も気になったら覗いてみる。勉強や仕事のことを忘れて、誰かの物語に没頭できる二時間が好きなのだ。
神木が気になっていたというのはサスペンスの邦画だった。大ヒットした小説の映画化作品で、見終わってもまだ蓮司の心臓はドキドキとしていた。
涼しい映画館を出ると昼過ぎの一番強い陽射しが二人を襲う。これから更に暑くなるというのだから、夏はもはや人類にとって脅威になりつつある。室内で冷やされた体が温まる感覚を楽しむ間もない。
「うわ、あっつ」
「どこか入ってお昼にしよう。何が食べたい?」
「冷たい麺類とか……あーでももっとしっかり食べたい気分ですね。大学の頃、バイト代が出た日だけ行ってた海鮮丼の店があるんですけど」
「え、高級店?」
「いえ全然。学生だとしょっちゅう行けなかっただけで、むしろ良心的な店ですよ。でも混んでるかもしれません」
「いいよいいよ。行ってみたい」
神木が一人だったら並ばずに入れる適当な店を選んでいたかもしれない。だが蓮司の好きな食べ物を食べてみたいし、たとえ行列があっても一緒に時間を過ごせるのだから嬉しいくらいだ。一人で居る時とは全く思考が違っていて、神木は自分でも不思議に思う。
もし蓮司と番になる機会があれば、いつかのアルファが言っていたことを真に理解できるのだろうか。少し考えてみたが、あのアルファと蓮司は随分と違うので、結局彼に言うべき言葉は同じかもしれないなと神木は結論づけた。
店内は賑わっていたが、最大のピークは過ぎていたようで並ぶほどではなかった。テーブルの片付けが終わるとすぐに案内される。個室ではないが席ごとに仕切りがあり、周りの席の声も気にならない。いい雰囲気の店だと神木は思った。
二人とも空腹だったので、メインの丼に加えてサイドメニューも注文してしまった。
「よくこんな店見つけたね。駅からけっこう歩くのに」
「バイト先が近かったんです。店長にお薦めしてもらいました」
「バイトって何してたの?」
「スーパーです。レジ打ちとか品出しとか」
「へえ、実は僕アルバイトやってみたかったんだよな」
神木の通っていた高校はアルバイト禁止だったので、経験するタイミングが無かったのだ。アルバイトだけではない。世の多くの大学生が体験する長い夏休みやサークル活動など、神木が知らないことはたくさんある。それを思い知らされた気がして、蓮司は少し言葉に詰まった。
「時給は低めでしたけど、楽しかったですよ。あ、でもクレーム対応で怒鳴られるのは嫌でしたね」
「……それって今の僕の仕事とあんまり変わらない?」
「そう言われるとそうかもしれません」
そんな話をしているうちに料理が運ばれてきて、自然と話題は変わっていった。付き合ってまだ二ヶ月で、お互いに知らないことはまだまだ多い。歳は近いのに経験には大きな差があって話は尽きない。
二人が食べ終わる頃には客足もすっかり落ち着き、店内の人もまばらになってきた。急いで出る必要もないので、少しゆっくりさせてもらう。
そんな時、神木がふと口を開いた。
「僕ってオメガにしてはかなり自由に生きてきたんだよ」
「はあ」
いきなり何を言い出すのかと、蓮司は曖昧な相槌しか返せなかった。しかし言いたいことは概ね理解できる。アルファを恐れず生活できるというのは、オメガからしてみれば羨ましくて仕方ない利点だろう。
「自分が不幸だと思ったこともないし、今までも十分幸せな人生を送ってきたと思う」
「はい」
「でもなんか、御堂くんと一緒に居ると自分の中の幸せが更新されていくんだ」
突然の告白に蓮司は舞い上がった。自分の存在が恋人を幸せにしているなんて、これ以上の褒め言葉は無い。
「そう言ってもらえるとすごく嬉しいです」
「御堂くんはどう? 僕と一緒に居て」
神木に聞かれて蓮司も考える。恋人の存在はもちろん蓮司を幸福にしているが、神木との関係はそれだけで片付けるには少々物足りない。もっと蓮司の根底を衝き動かしてくれたのだと知ってもらいたくなった。
「……ちょっと長くなるかもしれませんけど、俺の話も聞いてもらえますか」
「もちろん」
人に話すには多少勇気を必要とする内容なので、蓮司は深呼吸をしてからゆっくり話し始める。
「母さんが居なくなってから、本当に散々でした。クソ親父は俺のことなんか目に入ってないし、生活が壊れて学校にも行けなくて、じいちゃんとばあちゃんが気付いてくれなかったら生きてたかどうかも怪しいくらい」
神木はじっと黙っている。幸乃の事情とある程度の父親の情報は知っているが、置いていかれた子供がどんな人生を送ってきたかは知らない。きっと似たような子供はたくさん居るのだろう。神木たちの手が届く範囲ではないとはいえ、どこか申し訳なさを感じた。
「転校して環境が変わって、何より母さんが居なくなって、俺は塞ぎ込みました。性格も変わったと思います。その頃から、俺はじわじわ落ちこぼれになっていきました」
今でこそそれなりに人と接するようになったが、その頃の蓮司は人とろくに話せなかった。人見知りするようになったわけではなく、それだけの気力が無かったのだ。周囲も何事かあって転校してきたことを察しているので蓮司をそっとしておいてくれた。それが良かったのか悪かったのか、今になってはよく分からない。
「父親が母さんに何をしたか聞かされてからは、アルファってものが分からなくなりました。あいつが母さんを大切にさえしていれば逃げることはなかったし、俺も落ちこぼれにならずに済んだ。今でも恨んでますよ」
世間一般的に、アルファの中で地方公務員はそれほど良い就職先ではないと思われている。自分でビジネスを起こしたり、高度な知識や能力を必要とされる仕事に就く者が多数派だ。表立って馬鹿にされることはないが、変わり者のように扱われることは多い。
蓮司は別にこれといって得意なことも、自力で何かを立ち上げたいという強い欲求も無かった。しかしそれが幼少期に選択肢を奪われたせいではないかという疑念はずっと心の隅にある。
「でも、その過去があったから神木さんに会う機会が得られたのも事実です。だからといって許す気にはなれませんが、俺は母さんが作ってくれた縁を大事にしたい」
原因を作ったのは父親だが、神木との縁を繋いだのは幸乃だ。そして彼女と再会するきっかけを作ってくれたのもまた神木だった。
女王蜂が守る安全な庭を通して、三人はお互いを救い合えた。もし今後二人が別れることがあったとしても、この恩を忘れることはないだろう。
「つまりその、神木さんと会えて俺も幸せだなと思ってます」
「そう……ありがとう」
「お礼を言うのはこっちですよ」
長話をした割には陳腐な言い方に落ち着いてしまったが、結局のところそれが一番シンプルで必要な言葉だった。
二人ともアルファやオメガの枠組みから少しはみ出していて、人と少し違う人生を送ってきた。良いことばかりではなかったが、それらが今日に繋がっているのだと思うだけで未来は明るく見えてくる。蓮司と神木は真反対でいて、とてもよく似ていた。
明日は二人とも仕事があるので、夕飯前には解散することにした。外食ばかりするのは性に合わないのだと蓮司が話すと、ならばまた家に遊びに行くと神木が言う。
「え、いいんですか」
「うん。僕そんなにアウトドアじゃないし、ゲームしたり映画観たりしようよ」
「……ゲーム機置いてるの見ました?」
「それくらいはね」
昨夜の神木は非常に緊張していたが、ワンルームの部屋の中を見回すくらいの余裕はあった。神木も人並みに遊ぶので、一緒にできたら楽しいだろうと思っていたのだ。
その辺りまで話したところで二人は駅に到着した。
「それじゃ、また休みの日を教えてください。あ、母さんの面会にも行きますから」
二人の家はこの駅から反対方向にある。ここでお別れだ。
いつも通りの別れの場面だったはずだが、神木は何か言い忘れているような気がしてならない。思い出せないが言わないとすっきりしないような気がして、蓮司にはっきりと別れの言葉を返せないでいる。
「神木さん?」
「あ!」
不思議に思った蓮司に名前を呼ばれた瞬間、神木は何を言いたかったのかを思い出した。
「ど、どうしました?」
「昨日思ったんだけどさ、下の名前で呼んでくれない?」
「!」
「付き合ってるのに呼び方がよそよそしいなと思ったんだよね」
これは蓮司に告白された日に言われたことへの返答でもある。その時は呼び方などなんとも思っていなかったが、気付くまでに二ヶ月もかかってしまった。
蓮司が頷くわけでもなくたじろいでばかりいるので、神木は少し不安になってくる。
「嫌?」
「嫌じゃないです!」
「じゃあいいよね?」
神木が少し圧をかけるように顔を近付けてみると、蓮司は両手を挙げて降参の意思を見せた。
「わかり、ました……と、冬真、さん」
かなり言わせた感はあるが、神木はそれで満足だった。嫌でないのなら、恥ずかしがっているか遠慮しているかのどちらかだ。ならば無理やりにでも呼ばせた方が早く慣れるというものである。
そもそも昨日あんなことをしておいて名前を呼ぶのを躊躇う必要があるのか。神木は追い打ちをかけてやろうかと思ったが、たどたどしく名前を呼ぶ蓮司が可愛らしく感じられたのでやめておいた。
「じゃあまたね、蓮司くん」
神木が名前を呼ぶと、蓮司は照れていたのも忘れて顔を上げた。しかしその時にはもう神木は歩き出しており、手を伸ばしても届かない距離に居る。神木は目論見が成功して悪戯っぽく笑っていた。
蓮司は追いかけようとしたが、もうすぐ反対側の電車が来る。これを逃せば次は二十分後で、この暑い中でそれだけ待たせるのは気が引けた。そうこうしているうちに神木は手を振って離れていく。その顔があまりに幸せそうで、蓮司はなりふり構っていられなくなった。恥ずかしがっている場合ではない。
「冬真さん! お気を付けて!」
はっきりと名前を呼んでいることを伝えたくて、やや声が大きくなったかもしれない。だが電車の音も聞こえる駅の中ではさほど気にする人は居なかった。
神木は一層笑みを深くしてもう一度手を振り、ホームへの階段を下りていく。蓮司も我に返って自分の電車のホームに向かった。
二人は番になるかどうかを決めていないし、ならずに別れる可能性もある。未来はいつも不確定だ。だがこうして真摯に日々を積み重ねていけば、お互いがお互いの唯一になる日が来るのかもしれない。
準備を整えたら電車で街の中心部へ向かう。外はすっかり盛夏の暑さで、電車を待つ間に二人とも汗だくになってしまった。
「今日は何しましょうか。あんまり外に出たくないですよね」
「そういえば気になってる映画があったんだ。御堂くんさえよければだけど」
「俺けっこう映画好きですよ。なんでも観ます」
駅に着くまでに結論が出たので、二人で上映時間を調べながら映画館に向かって歩く。ちょうど三十分後に始まる回があり、涼しい室内に吸い込まれるように入っていった。
神木はあまり映画を観ない。映画館に来たのは一年ぶりくらいではないだろうか。広告を見て気になることはあるのだが、気になった時にはまだ上映が始まっておらず、ぼんやりしているうちに忘れて結局タイミングを逃してしまう。今日は思い出せたので万々歳である。
対して蓮司はそこそこ観る方だ。といっても最近は映画館を訪れるよりは配信サービスを使う機会が多い。ジャンルは問わず、邦画も洋画も気になったら覗いてみる。勉強や仕事のことを忘れて、誰かの物語に没頭できる二時間が好きなのだ。
神木が気になっていたというのはサスペンスの邦画だった。大ヒットした小説の映画化作品で、見終わってもまだ蓮司の心臓はドキドキとしていた。
涼しい映画館を出ると昼過ぎの一番強い陽射しが二人を襲う。これから更に暑くなるというのだから、夏はもはや人類にとって脅威になりつつある。室内で冷やされた体が温まる感覚を楽しむ間もない。
「うわ、あっつ」
「どこか入ってお昼にしよう。何が食べたい?」
「冷たい麺類とか……あーでももっとしっかり食べたい気分ですね。大学の頃、バイト代が出た日だけ行ってた海鮮丼の店があるんですけど」
「え、高級店?」
「いえ全然。学生だとしょっちゅう行けなかっただけで、むしろ良心的な店ですよ。でも混んでるかもしれません」
「いいよいいよ。行ってみたい」
神木が一人だったら並ばずに入れる適当な店を選んでいたかもしれない。だが蓮司の好きな食べ物を食べてみたいし、たとえ行列があっても一緒に時間を過ごせるのだから嬉しいくらいだ。一人で居る時とは全く思考が違っていて、神木は自分でも不思議に思う。
もし蓮司と番になる機会があれば、いつかのアルファが言っていたことを真に理解できるのだろうか。少し考えてみたが、あのアルファと蓮司は随分と違うので、結局彼に言うべき言葉は同じかもしれないなと神木は結論づけた。
店内は賑わっていたが、最大のピークは過ぎていたようで並ぶほどではなかった。テーブルの片付けが終わるとすぐに案内される。個室ではないが席ごとに仕切りがあり、周りの席の声も気にならない。いい雰囲気の店だと神木は思った。
二人とも空腹だったので、メインの丼に加えてサイドメニューも注文してしまった。
「よくこんな店見つけたね。駅からけっこう歩くのに」
「バイト先が近かったんです。店長にお薦めしてもらいました」
「バイトって何してたの?」
「スーパーです。レジ打ちとか品出しとか」
「へえ、実は僕アルバイトやってみたかったんだよな」
神木の通っていた高校はアルバイト禁止だったので、経験するタイミングが無かったのだ。アルバイトだけではない。世の多くの大学生が体験する長い夏休みやサークル活動など、神木が知らないことはたくさんある。それを思い知らされた気がして、蓮司は少し言葉に詰まった。
「時給は低めでしたけど、楽しかったですよ。あ、でもクレーム対応で怒鳴られるのは嫌でしたね」
「……それって今の僕の仕事とあんまり変わらない?」
「そう言われるとそうかもしれません」
そんな話をしているうちに料理が運ばれてきて、自然と話題は変わっていった。付き合ってまだ二ヶ月で、お互いに知らないことはまだまだ多い。歳は近いのに経験には大きな差があって話は尽きない。
二人が食べ終わる頃には客足もすっかり落ち着き、店内の人もまばらになってきた。急いで出る必要もないので、少しゆっくりさせてもらう。
そんな時、神木がふと口を開いた。
「僕ってオメガにしてはかなり自由に生きてきたんだよ」
「はあ」
いきなり何を言い出すのかと、蓮司は曖昧な相槌しか返せなかった。しかし言いたいことは概ね理解できる。アルファを恐れず生活できるというのは、オメガからしてみれば羨ましくて仕方ない利点だろう。
「自分が不幸だと思ったこともないし、今までも十分幸せな人生を送ってきたと思う」
「はい」
「でもなんか、御堂くんと一緒に居ると自分の中の幸せが更新されていくんだ」
突然の告白に蓮司は舞い上がった。自分の存在が恋人を幸せにしているなんて、これ以上の褒め言葉は無い。
「そう言ってもらえるとすごく嬉しいです」
「御堂くんはどう? 僕と一緒に居て」
神木に聞かれて蓮司も考える。恋人の存在はもちろん蓮司を幸福にしているが、神木との関係はそれだけで片付けるには少々物足りない。もっと蓮司の根底を衝き動かしてくれたのだと知ってもらいたくなった。
「……ちょっと長くなるかもしれませんけど、俺の話も聞いてもらえますか」
「もちろん」
人に話すには多少勇気を必要とする内容なので、蓮司は深呼吸をしてからゆっくり話し始める。
「母さんが居なくなってから、本当に散々でした。クソ親父は俺のことなんか目に入ってないし、生活が壊れて学校にも行けなくて、じいちゃんとばあちゃんが気付いてくれなかったら生きてたかどうかも怪しいくらい」
神木はじっと黙っている。幸乃の事情とある程度の父親の情報は知っているが、置いていかれた子供がどんな人生を送ってきたかは知らない。きっと似たような子供はたくさん居るのだろう。神木たちの手が届く範囲ではないとはいえ、どこか申し訳なさを感じた。
「転校して環境が変わって、何より母さんが居なくなって、俺は塞ぎ込みました。性格も変わったと思います。その頃から、俺はじわじわ落ちこぼれになっていきました」
今でこそそれなりに人と接するようになったが、その頃の蓮司は人とろくに話せなかった。人見知りするようになったわけではなく、それだけの気力が無かったのだ。周囲も何事かあって転校してきたことを察しているので蓮司をそっとしておいてくれた。それが良かったのか悪かったのか、今になってはよく分からない。
「父親が母さんに何をしたか聞かされてからは、アルファってものが分からなくなりました。あいつが母さんを大切にさえしていれば逃げることはなかったし、俺も落ちこぼれにならずに済んだ。今でも恨んでますよ」
世間一般的に、アルファの中で地方公務員はそれほど良い就職先ではないと思われている。自分でビジネスを起こしたり、高度な知識や能力を必要とされる仕事に就く者が多数派だ。表立って馬鹿にされることはないが、変わり者のように扱われることは多い。
蓮司は別にこれといって得意なことも、自力で何かを立ち上げたいという強い欲求も無かった。しかしそれが幼少期に選択肢を奪われたせいではないかという疑念はずっと心の隅にある。
「でも、その過去があったから神木さんに会う機会が得られたのも事実です。だからといって許す気にはなれませんが、俺は母さんが作ってくれた縁を大事にしたい」
原因を作ったのは父親だが、神木との縁を繋いだのは幸乃だ。そして彼女と再会するきっかけを作ってくれたのもまた神木だった。
女王蜂が守る安全な庭を通して、三人はお互いを救い合えた。もし今後二人が別れることがあったとしても、この恩を忘れることはないだろう。
「つまりその、神木さんと会えて俺も幸せだなと思ってます」
「そう……ありがとう」
「お礼を言うのはこっちですよ」
長話をした割には陳腐な言い方に落ち着いてしまったが、結局のところそれが一番シンプルで必要な言葉だった。
二人ともアルファやオメガの枠組みから少しはみ出していて、人と少し違う人生を送ってきた。良いことばかりではなかったが、それらが今日に繋がっているのだと思うだけで未来は明るく見えてくる。蓮司と神木は真反対でいて、とてもよく似ていた。
明日は二人とも仕事があるので、夕飯前には解散することにした。外食ばかりするのは性に合わないのだと蓮司が話すと、ならばまた家に遊びに行くと神木が言う。
「え、いいんですか」
「うん。僕そんなにアウトドアじゃないし、ゲームしたり映画観たりしようよ」
「……ゲーム機置いてるの見ました?」
「それくらいはね」
昨夜の神木は非常に緊張していたが、ワンルームの部屋の中を見回すくらいの余裕はあった。神木も人並みに遊ぶので、一緒にできたら楽しいだろうと思っていたのだ。
その辺りまで話したところで二人は駅に到着した。
「それじゃ、また休みの日を教えてください。あ、母さんの面会にも行きますから」
二人の家はこの駅から反対方向にある。ここでお別れだ。
いつも通りの別れの場面だったはずだが、神木は何か言い忘れているような気がしてならない。思い出せないが言わないとすっきりしないような気がして、蓮司にはっきりと別れの言葉を返せないでいる。
「神木さん?」
「あ!」
不思議に思った蓮司に名前を呼ばれた瞬間、神木は何を言いたかったのかを思い出した。
「ど、どうしました?」
「昨日思ったんだけどさ、下の名前で呼んでくれない?」
「!」
「付き合ってるのに呼び方がよそよそしいなと思ったんだよね」
これは蓮司に告白された日に言われたことへの返答でもある。その時は呼び方などなんとも思っていなかったが、気付くまでに二ヶ月もかかってしまった。
蓮司が頷くわけでもなくたじろいでばかりいるので、神木は少し不安になってくる。
「嫌?」
「嫌じゃないです!」
「じゃあいいよね?」
神木が少し圧をかけるように顔を近付けてみると、蓮司は両手を挙げて降参の意思を見せた。
「わかり、ました……と、冬真、さん」
かなり言わせた感はあるが、神木はそれで満足だった。嫌でないのなら、恥ずかしがっているか遠慮しているかのどちらかだ。ならば無理やりにでも呼ばせた方が早く慣れるというものである。
そもそも昨日あんなことをしておいて名前を呼ぶのを躊躇う必要があるのか。神木は追い打ちをかけてやろうかと思ったが、たどたどしく名前を呼ぶ蓮司が可愛らしく感じられたのでやめておいた。
「じゃあまたね、蓮司くん」
神木が名前を呼ぶと、蓮司は照れていたのも忘れて顔を上げた。しかしその時にはもう神木は歩き出しており、手を伸ばしても届かない距離に居る。神木は目論見が成功して悪戯っぽく笑っていた。
蓮司は追いかけようとしたが、もうすぐ反対側の電車が来る。これを逃せば次は二十分後で、この暑い中でそれだけ待たせるのは気が引けた。そうこうしているうちに神木は手を振って離れていく。その顔があまりに幸せそうで、蓮司はなりふり構っていられなくなった。恥ずかしがっている場合ではない。
「冬真さん! お気を付けて!」
はっきりと名前を呼んでいることを伝えたくて、やや声が大きくなったかもしれない。だが電車の音も聞こえる駅の中ではさほど気にする人は居なかった。
神木は一層笑みを深くしてもう一度手を振り、ホームへの階段を下りていく。蓮司も我に返って自分の電車のホームに向かった。
二人は番になるかどうかを決めていないし、ならずに別れる可能性もある。未来はいつも不確定だ。だがこうして真摯に日々を積み重ねていけば、お互いがお互いの唯一になる日が来るのかもしれない。
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