音符と恋の色

4時間移動の無職

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音符と恋の色

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昼下がりの音楽室には、かすかにモーツァルトの旋律が流れていた。
窓から差し込む木漏れ日が、古い譜面台の埃を照らしている。
僕はその光景の中で、楽譜を前に頭を抱えていた。

「……もう無理。これは人間に読ませる気ないだろ」

つい本音が漏れ、隣の美咲がくすっと笑う。
彼女の黒髪が光を反射して、線の細い影を机に落としていた。

「また頼ってる。ごめん」

「いいよ。まあ、シャープ多すぎだけどね。これ、楽器に恨みがある人が作ってるでしょ」

文句を言いながらも、美咲の手は滑らかに鉛筆を動かしていた。
整った五線譜。狂いなく並んだ音符。
まるで機械のようなのに、不思議と温かい。

ほんの少し胸が痛む。
彼女と比べると、自分は何ひとつ上手くできない気がして。

「……すごいよ、美咲。ほんとに」

そう言うと、美咲は少し視線を逸らした。
頬にかかる髪を耳にかける仕草が、妙に大人っぽかった。

「じゃあさ。今度、お礼に例のラーメン屋さん教えてよ。駅前の、前に話してたやつ」

「え? ラーメン?」

「うん。あなたが“めっちゃ美味い”って言ってたから」

僕は心臓が跳ねる音を聞いた。
ラーメンが目的じゃないことくらい、すぐに分かった。

美咲ともっとたくさん話すための理由。
それが、自分にも与えられたんだと気づくと、胸の奥が温かくなった。

それからの音楽の授業は、少しだけ色が変わった。
楽譜は苦手なままだったが、美咲の横顔を見る時間が増えた。

「ここ、ヘ音記号だよ? 見落としてるよ」

「あっ……ほんとだ。俺、向いてないな」

「そんなことないよ。諦めるのが早いだけ」

からかいの中に、ほんの少しの優しさが混じる。
その混じり方が、僕にはたまらなく心地よかった。

そして放課後、僕は美咲をあのラーメン屋へ誘った。
断られる可能性を考えると胃が痛くなったが、それでも言わずにはいられなかった。

「いいの? ほんとに。楽譜の代わりに教えてって言っただけだったのに」

「いいんだよ。……美咲と話したいから」

湯気に包まれながら並んで食べるラーメンは、妙にしょっぱく感じた。
それが店の味なのか、緊張のせいなのかは分からなかった。

沈黙を破ったのは美咲だった。

「ねえ」

箸を止めた横顔は、思ったより真剣だった。

「もしかして……私のこと、好き?」

避けてもどうせ伝わる。
なら、正面から言うしかない。

「まぁ……好きだよ。ずっと」

美咲は驚き、それからゆっくり笑った。
「まぁ、って何(笑)」
でもその笑顔は、いつもの“なんでもできる美咲”の顔ではなかった。

「ほんとはね、怖かったんだよ。私、あなたに頼られるの、嬉しすぎて。勘違いしてたらどうしようって」

胸が締めつけられた。
美咲は完璧で、強くて、手が届かない人だと思っていたのに。

こんな不安を抱えてたなんて、気づけなかった。

「……嫌いじゃないよ。むしろ、もっと知りたいって思ってた」

店のざわめきの中で、その言葉だけがはっきり届いた。
モーツァルトよりも、ラーメンの湯気よりも、
ずっと鮮やかに、僕の胸を震わせた。

音楽室で始まった小さな恋は、まだ不協和音だらけでぎこちない。
でも、不器用な音が混ざり合うことでしか生まれない旋律だってある。

これから僕たちがどんな音を奏でていくのか。
それを思うと、未来が少しだけ眩しく見えた。

〈了〉
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