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episode.10 父親を知らない少女達
しおりを挟む一休憩した私はパドルを手に取り、空に向かって体を伸ばしてから一度脱力した。そんな私をまじまじ見つめるミベロに笑いかける。
「そろそろ行こっか」
こくりと頷くミベロに頷き返し、パドルを持つ手を前から後ろへ動かし始めた。
ゆったりとした動きで羊のフードも真横についてきた。フードの下からは青みがかったグレーの双眸がこちらをじっと覗いている。
その瞳に私は何か話した方がいいのかな、と義務感に似た焦りを覚える。ぱっと口をついて出たのは家族の話題だった。
「そういえばさ、ミベロはお母さん探してるって言ってたけど、お父さんはどうしてるの?」
私はカヤックを漕ぐ手は止めずに彼女に話しかけ、ちらとそちらに目を向けた。
羊を被った頭が少し持ち上がり、揺れる波間からミベロの薄い唇が見え隠れする。
「オ父サン、居ナイ。オ母サン、ダケ」
「そうなんだ……一緒だ」
「ナオ?」
遠慮がちに呟いた私をミベロが不思議そうに見上げた。私は曖昧に笑ってみせる。
「私もね、お父さん居ないんだ」
「ナオ、オ母サン、ダケ?」
「うん、私が三歳の時に離婚したんだって。だからお父さんの事はあんまり覚えてないんだ」
「リコン?」
「別れちゃったって事。たぶん、私のせいなんだよね」
『私のせい』の詳細を語ろうと口を開きかけて途中で止めてしまった。
重すぎる話題に、話す必要があるのか逡巡してしまう。
両親の離婚の理由を説明しようとするなら、自分の重大な秘密──心身の性の不一致──を話さなくてはならない。
友達になったと言っても、会って一日も経たない子にそんな込み入った話をするのは気が引ける。
それにこの事を知ったら、ミベロは友達じゃなくなってしまうかもしれない。
そんな恐怖から私の開きかけた口が閉じるのは仕方のない事だった。
ミベロが私の言葉を待っているのは分かっていたが、上手い話題転換も思いつかず沈黙が続く。
パドルが波を切る音だけが耳についた。水の跳ねる音が青く広がる空と海に吸い込まれる。
落ち着かないくらい静かな世界だった。
「……ナオ、大丈夫?」
静寂の中ぽつりと落とされた言葉はやけによく聞こえた。
しかしその質問の意図が分からずミベロに目を向けると、その藍鼠色の瞳が私を真っ直ぐ射抜いた。
どきりと心臓が飛び跳ね、パドルを漕ぐ手も一瞬止まる。
カヤックのスピードが落ちる前に慌てて手の前後運動を再開しながら、私はなんとか笑みを作ってみせた。
「だ、大丈夫だよ、どうして?」
「ナオ、泣キソウ」
「えっ」
ミベロの予想しなかった返しに言葉が詰まる。
たしかに顔も思い出せない父親の事を思い出す時、言葉には言い表せない複雑な気持ちになっていた。
私が『普通』の子供だったら、お父さんは受け入れてくれたのかもしれない。両親は離婚せずに済んだのかもしれない。
今更子供が何と言おうが変わらないだろうけど。
でも私さえ『普通』だったなら。こんな身体でなければ。
家族はバラバラにならずに済んだかもしれない。
日夜あの優しい母を働かせずに済んだかもしれない。
そんな事を考えずにはいられなかった。その思いが『泣きそう』という形で出ているとは気づかなかった。
私は顔の筋肉に集中して口角を上げてみせる。でもその下手くそな笑みは見せれたものではないだろう。
だから私は進行方向を真っ直ぐ見つめたまま、心配そうな視線を送るミベロに応えた。
「心配かけてごめんね、でも大丈夫だよ。ありがとう」
努めて明るく返そうと私は声を張る。
ミベロの何か言いたげな視線をずっと横目に感じつつ、私はカヤックを漕ぐのを止めなかった。
ぽちゃん、と隣で何かが沈む音が聞こえた。
ちらと目だけを動かすと白い頭がいなくなっている。少し待っても彼女は出てこず、さすがにパドルを持つ手も止まった。
「ミベロ?」
私の声だけがしんとした海上に伝う。周囲の穏やかな深い青は突然の孤独感を煽った。
私がちゃんと答えなかったから怒ったのだろうか。
もしこのままミベロがいなくなって、こんな広い海の中に独り残されてしまったらどうしよう。
沈んだ感情はどんどんと不安を作り上げていく。
恐怖に似た孤独感に押し潰されそうになりながら、もう一度彼女の名を呼ぼうと大きく息を吸いこんだ時──私の乗るカヤックは突然の揺れに襲われた。
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