最推しの義兄を愛でるため、長生きします!

朝陽天満

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1巻

1-8

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 彼女の家は貧しいながらもとても家族思いだった。
 婚姻四年目で未亡人となった彼女には、不治のやまいである『ラオネン病』におかされた子息がいるという。夫を亡くして先も見えず塞いでいたところ、彼女は気晴らしにとご両親に夜会へ送り出されたらしい。
 少しやつれたその顔は、それでも季節外れの花のようだった。見ようによっては薄紅色に見える瞳と、柔らかい薄茶の髪が彼女の雰囲気をとてもふんわりと柔らかなものにしていた。身につけた淡い暖色のドレスはとても彼女に似合っていて、私の視線を釘付けにした。
 少しだけ強引に話を出来る状況を作り彼女と会話をすると、その言葉の端々に子供に対する愛情が見えた。それはまるで、私とは違う世界に生きているようで――
 心を奪われたとは、このことだった。愛情というものがどのようなものなのかを、初めて知った気がした。
 私はそんな愛情をオルシスに持ったことはなかったし、ソフィアもそうだったのだろうと、オルシスと父母の言動から推測できた。
 そして、オルシスの教育を担当してきたホルンには、その冷たい関係性が伝わっていたということだ。
 フローロの愛を一身に受けて育ったアルバには純粋な疑問だったのだと思う。
 答えをもらえなかったことで、聡いアルバはきっと何かに気付いただろう。
 実のところ、ホルンはアルバの教師を引き受ける際、父母から「公爵家に男爵家の血筋は相応しくないということをわからせなさい」と厳命されたらしい。そして何度か父母の命令通りにしようとしたけれど、アルバのあまりの純粋さに音を上げた。

『オルシス君はこのような問題一日で理解しましたよ』
『オルシス君ならその難しい書物を一日で理解します』

 アルバをおとしめようとして発した言葉は、全て「兄様はなんて素晴らしいんだ」と目を輝かせたアルバによってまったく違う意味を持った言葉となってしまったらしい。
 心を折るつもりが、まったく効果はなく、むしろアルバのやる気を引き出してしまっていたことに、ホルンはほんの少しの敗北感と、爽快感を覚え、このままではダメだと私にすべてを報告してきたのだ。
 その話を聞いたときはこの男を即座に辞めさせてしまおうと思ったが、アルバ本人のたっての希望により、ホルンは今もまだアルバの教育係に収まっている。なので、今度は私が秘密裏にホルンを雇い直し、アルバの様子を伝えてもらっていた。

「アルバはとても答えづらい質問をしてくるな」
「そうですね。私から見ても、ソフィア様はオルシス様に対して何かしらの感情も持っていなかったように感じますから。何も答えられませんでした」
「だろうな」
「あの子に嘘を吐くことなど、私には出来そうもありません」

 困ったように眉尻を下げるホルンに、私は笑いがこみ上げてきた。兄様情報嬉しいです! と目を輝かせるアルバの様子が目に浮かぶようだ。あのような目を向けられたら、きっと誰も対抗できないのではないか。
 ここにも一人、アルバの魅力にやられた者がいる、と笑いを堪えながら、更なる報告を促した。


 ホルンが執務室から出ていくと、盛大な溜息が出た。
 ホルンがアルバに対してした仕打ちは、到底許されることではない。けれど、当のアルバ自身はそれを苦などと感じることもなく、むしろ新しいオルシスの情報源ととらえている節がある。
 あの子は最初にうちに来た時から、オルシスをとても慕っていたし、そのおかげでオルシスの顔にも笑顔が見られるようになった。
 男爵令嬢をめとることに苦言を呈した王太子殿下の傍を離れ、公爵家の仕事だけに専念し始めたことにひと欠片の後悔もない程に、家の中が明るく、そして居心地よくなっている。
 それは全て、私の愛したフローロとアルバのお陰であると言っても過言ではない。既にフローロの優しさとアルバの明るさは、私にとってなくてはならないものとなっていた。
 それはオルシスにとっても同じのようで、オルシスがアルバに向ける笑顔は、日に日に明るく優しく素晴らしいものとなっていく。アルバの明るさは、私たち家族だけではなく、ヴァルト侯爵家で冷遇されていた天才児ブルーノをも包み込んでいるようで、彼の表情もまた柔らかくなっていた。

「ブルーノもアルバには甘いからな」

 報告書に目を通しながら、緩む頬をそのままに独りごちる。
 ブルーノは学園と研究の合間に死に物狂いで鍛錬し、必死でアルバのために上級魔法をものにしたようだ。
 アルバの誕生祝いに覚えたばかりの上級魔法を使ってレガーレを増やし、温室をさらに広くしたいと願い出てきたのだ。
 普段の私ではありえないことだが、その真剣な眼差しに損得なしで一も二もなく了承し、ブルーノを全面的に支援する約束をした。


「旦那様がアルバを可愛がってくださって、本当に嬉しいわ」

 身を清めてガウンをり寝室に行くと、まだ起きていたフローロが花のような笑顔を浮かべた。
 愛しいフローロの隣に腰を下ろし、腰に腕を回しほっそりとした身体を引き寄せると、フローロはそっと私に寄り添った。
 うちに来た当初は身体を強張らせていた彼女が、今はとても自然に身を寄せてくれることに、喜びを感じる。

「アルバは私にとってもとても可愛い我が子だよ」

 思ったままを口にすると、フローロはとても嬉しそうに柔らかな笑顔を浮かべた。その笑顔を見て、ソフィアはオルシスにそんな笑顔を向けたことは一度もなかったな、と亡き妻を思い出す。
 きっとあの頃の私はこのような笑顔を浮かべたことはなかったし、今の私はフローロと同じように笑っているのだろう。緩む頬を、自分の意思で通常のものに戻すことが酷く困難だった。

「アルバは、私がオルシスに似ているから怒れないと言っていたよ」
「まあ、旦那様がオルシス君に……あの子ったら、本当にオルシス君が大好きで困りますね」
「困りはしないよ。オルシスもとても嬉しそうにしているからね」
「学園まで追っていってしまって、迷惑ではないかしら」
「あの後、オルシスがぜひアルバにランチを持たせてくれと懇願してきたんだ。だから、子供たちの好きにさせてあげよう」

 それよりも、とフローロの柔らかい髪をひと房手で掬い、キスを贈ると、フローロは嬉しそうにはにかんだ後、少しだけ困ったように眉を下げた。

「あの、旦那様、お伝えしたいことがありまして」

 フローロは躊躇ためらいがちに私の胸元を優しく両手で押し、うつむき加減で私を見ると、頬を染めた。



   四、最推しと天敵の対決!


 母が妊娠しました。義父との子供がようやく出来たようです。
 再婚して実に五年。ようやく妹か弟が出来ました。めでたい!
 ゲームでは俺以外の兄弟は居なかったはずだから、もうこの時点で俺の死亡フラグは回避されたと言っていいよね! ね!
 母の口から「妹か弟が出来る」と聞いて、館全体がお祝いムードになった。
 特に義父の顔がお祭り状態だった。そして朝からずっと母を気遣っては、母に「大げさすぎる」とツッコまれていた。義父よ、あなたの母への愛情はわかったから少し抑えて。
 俺と兄様は、そんな義父の様子に乾いた笑いを零す以外出来なかった。

「兄様、僕もお兄ちゃんになるんですね。僕も兄様みたいな素敵な兄になりたいです」
「大丈夫、アルバなら僕よりもっと素敵な兄になれるよ」
「兄様より素敵な兄様なんて想像もつきません……!」

 ニコッと笑う兄様についついピタッとくっつく。そしてデレっと笑うと、兄様はぷっと吹き出した。

「アルバと父上、同じ顔をしているよ。まさにその顔そっくり」
「まさか。僕があんなかっこいい父様とそっくりなんてそんなわけないじゃないですか」

 兄様の言葉に驚愕していると、母が笑いながら「そのデレデレのお顔がそっくりよ」と俺にも容赦なくツッコんできた。え、俺も顔面お祭りになってるの? そ、それは恥ずかしい……
 思わず両手で頬をむにむにと潰すと、兄様も俺の手の上から俺の頬を潰し始めた。

「柔らかくて気持ちいい」
「にいひゃまお顔つぶれまひゅ」
「そうだね。潰れた顔も可愛いね」

 すると兄様も義父と同じ顔になった。
 その顔を見て、俺は心臓を鷲掴みにされた。ギュン、とひと際心臓が高鳴って、慌ててポケットを探る。兄様が素敵すぎて、毎回発作が起きそうになるのがちょっとつらい。でもそれ以上に幸せだ。急いで薬を口に放り込むと、少しだけ兄様の顔がくもった。
 ひょい、と抱っこされて、背中をさすられる。

「早くアルバのやまいを完全に治せる薬が出来上がるといいのに」
「兄様?」
「アルバが僕を慕ってくれるのは嬉しいけれど、その薬を口にするってことは、発作が起きそうになるってことだよね……僕のせいでアルバの状態が悪くなるのは嫌だ」

 チラリと顔を見ると、沈んだ表情の兄が唇を噛んでいた。
 あれ、もしかして、まだ兄様の過去フラグが回収できてない、のかな? 主に俺のせいで。

「アルバは僕のこの顔が好きなの? 僕の顔がこの顔じゃなくなったら、アルバはもっと飴を舐める頻度を抑えられるかな」

 ああああ、兄様の顔が暗い。闇落ちしそうな雰囲気にかなり焦る。
 急いで振り向いて、兄様の手を握った。

「違う、違うのです兄様。兄様は何も悪くないのです! 僕が兄様を好きすぎるのが悪いのです。だからそんな顔しないでください。それに、たとえ兄様の顔がどんなになっても、僕は絶対に兄様を好きなので、お顔はあまり関係ないです!」

 しかし兄様は黙り込んで、うつむいている。その表情から、俺の声は心に届いていないのがわかった。
 こんな情けない俺のせいで兄様が顔に傷とか作ったりしたら。……傷がある兄様もちょっとワイルドで素敵だけど!
 もし俺に嫌われようと性格悪くなったら。……ブラック兄様もそれはそれでカッコよすぎるけど! あああ、ダメだ。

「どんな兄様もカッコいいがすぎるので! 傷とか火傷痕とかが顔に出来てしまったとしても僕はきっとそのお顔も大好きだと思うので、傷をつけても絶対に変わらないです! たとえすっごく冷たくされても、そんなクール兄様も最高に素晴らしいと思います! つまり何をしても無駄になるので絶対に痛いことはしないでほしい、です!」

 ぎゅっと手を握ってとんでもないことを言ってしまった。
 今日一番の大ダメージだ。恥ずかしすぎる。しかも義父も母もいる前で。
 母よ、肩が滅茶苦茶震えているから。笑ってるのめっちゃバレてるから。義父は何残念な子を見るような目でこっちを見てるんだ。自分でもわかるよ、残念だって。自覚してるよ! こっち見んな!
 恥ずかしさのあまり兄様の肩に顔を埋めると、兄様の手にギュッと力がこもった。

「僕も、どんなアルバでも好きだよ」

 顔を上げると、兄様がくしゃっとした珍しい笑顔を浮かべていた。
 ようやく俺の声が届いたらしい兄様に、またも心臓が止まりそうになったのは言うまでもない。


 それから、調子を取り戻した兄様に連れられて温室に向かった。
 なんだか見せたいものがあるんだって!
 そして、「もっと慣れてもらえば大丈夫なのかな」と呟いた兄様は、トイレ以外はずっと俺と手を繋いでいる。兄様の手から微妙な魔力が流れているのに気付いたのは、心臓が締め付けられたわりには体調が悪くないということを不思議に思ったからだ。
 発作の度に感じていた魔力が、身体を巡ってちょっと心地いい。
 手を繋いでいれば体調も落ち着いているから、俺は今日は兄様に甘えることにした。だって離しがたいんだもん。
 手を繋いで現れた俺たちに、ブルーノ君は案の定、それはそれは呆れた視線を向けてきた。

「はいはい、仲がいいのもほどほどにな。今日は公爵様に温室を広げてもらったから、新しく出来るようになった魔法を試そうと思ったんだ」
「新しい魔法?」

 俺が首を傾げると、ブルーノ君は樹からレガーレの実をもぎ取ってから、新しく出来た二棟目の温室に俺たちを案内した。一つ目の温室も広かったけど、ここもずいぶん広い。
 ただ、まだ何も植わっていないようで、だだっ広い地面だけが広がっている。

「地魔法の系譜で、品種改良や農地拡大に使える魔法だ。結構難しいし魔力を食うから身につけるのに苦労した」

 見てろよ、と言うとブルーノ君は温室の真ん中まで歩いていって、何か呪文を唱えた。
 すると、ブルーノ君が手にしたレガーレが一瞬光ったかと思うと、薄い緑色だった皮がピンクがかった色に変化した。それを土に埋めると魔力を回復する薬を一瓶飲んだブルーノ君がもう一度魔法を使う。
 途端に地面が動き始めて、地響きと共に温室の至る所から樹が生え始めた。
 俺は兄様の手を握りしめながら、そのあまりにもありえないメルヘンな状況をただただ呆然と見ていた。

「す、凄い……」

 樹の急成長とか初めて見た。こんなににょきにょき生えてくるのなんて現実に見ることが出来るとは思わなかった。
 幻想的、と言えば聞こえはいいけれど、要するに想像だにしなかった光景でちょっと怖い。
 温室の隅々まで均等に樹が生え、成長が止まると同時に、ブルーノ君が地面に膝をついた。

「だ、大丈夫⁉」

 慌てて走り寄ってブルーノ君のそばにしゃがみこむと、顔色が悪く肩で息をしていた。

「悪い、心配すんな、単なる魔力枯渇状態」

 それでもブルーノ君はこちらを心配させまいとするように、口元を上げて俺たちを見ている。
 その言葉に、ポケットから急いでブルーノ君お手製の飴を取り出した。
 魔力枯渇って身体の力は抜けるし頭は痛くなるし眩暈めまいがするしで本当につらいんだよ。
 レガーレの飴に魔力を入れたら、一時的に楽になるんじゃないかな。
 でも差し出した飴を、眉間に皺を寄せたブルーノ君は受け取らなかった。

「こんなのは休めば治る。その飴はまた用途が違うからちゃんとアルバが持ってろ。……何年後になるかはわからないけど、レガーレを改良して、ちゃんとお前のやまいが完治できる薬を作るからな。それが、俺からのアルバへのお祝いだ。出来上がるまではひたすらその飴を舐めてろ。九歳になれたアルバのこの先が、もっと輝かしいものであるよう祈ってるよ」

 膝をついたブルーノ君は手を伸ばして、覗き込む俺の頭を優しく撫でてくれた。
 俺のために、ブルーノ君は魔力が枯渇するのも恐れずこんなにすごい魔法を使ってくれたんだ。感動していると、兄様がブルーノ君の身体を持ち上げて、俵のように担いだ。

「兄様、もう少し丁寧な扱いを」

 あまりにも乱雑に担ぎ上げたものだから慌てると、兄様とブルーノ君は困ったような顔になった。

「だそうだ。アルバの要望だから横抱きにしてやるよ」
「やめろ、この方がまだましだ。横抱きはアルバの特権だろ。このまま部屋まで運んでもらっていいか?」
「言われなくても」

 おいでアルバ、と俺に声を掛けた兄様は、ブルーノ君を担いでも揺るぎない歩調で歩き始めた。
「お前もちゃんと手伝えよ」「何当たり前のこと言ってるんだよ」なんて会話が時折交わされるけれど、相変わらずブルーノ君の顔は真っ白で、いつもと違う雰囲気に不安が拭えない。
 俺にも何か出来ないかな?

「そうだ兄様、いつも僕にしてくれるみたいに魔力をブルーノ君に分けるのは」
「それもアルバの特権」
「そんな恥ずかしいことされてたまるかよ」

 俺の思い付きは、一瞬で二人同時に否定された。
 特に小さく呟かれたブルーノ君の一言は、さらなる衝撃を俺に与えていた。
 え、魔力を分けてもらうのって、恥ずかしいことだったの? 
 俺、もっと魔法関係の常識を勉強した方がいいのかもしれない。
 目の前で「お前余計なこと言うなよ!」といきなりワイルド兄様になってブルーノ君を落としたことも、レア兄様を見逃したことにも気付かず、俺はかなりショックを受けていた。
 俺は、最推しに今までずっと恥ずかしいことを強要していたのか……!
 結局、ベッドまで運ばれたブルーノ君はしばらくそこで昏々と眠り、夜になると元気になったと言って研究所の自分の部屋に帰っていった。
 魔力を分けることについて教えてもらう暇はなかったのだけど。
 俺は、早速次の日の学習時間に家庭教師の先生に質問した。

「魔力の譲渡は恥ずかしいことではありません。やり方によりますが」
「そうなんですね! ホッとしました。って、ん? やり方による……?」

 そして返ってきた答えに安堵しかけたのも束の間、ん? と首を傾げる。すると若干先生の顔が引きつった。
 ええと……

「やり方って、手を繋ぐほかにも何かあるんですか?」

 すると先生の表情がホッとしたように緩む。
 それから咳払いをして、先生が続けた。

「アルバ君は今まで、手を繋いで魔力を譲渡されていたのですね。手を繋いでの魔力譲渡は恥ずかしいことではありませんよ。ただ方法は色々あります。中には、大人でなければ出来ない魔力譲渡方法もありますが、アルバ君はまだ幼いので、しっかりと成人してから教えてもらってくださいね」
「成人したら先生が教えてくれますか」

 魔力譲渡も学習のうちに入るのかなと訊いてみれば、先生は少しだけ慌てたように首を横に振った。

「わ、私は教えることが出来ません。その時にアルバ君に相応しい方に教えていただくといいでしょう」
「どうして先生は教えられないんですか」
「色々と理由はありますが……コホン、私はアルバ君が中等学園に上がるまでの家庭教師です。ですので、アルバ君にお教えできるのは、あと二年しかないのですよ。残念ですが」
「そうでした……僕もとても残念に思います……先生の教え子になれて、僕はとても嬉しいです。あと二年、よろしくお願いします」

 僕が改めて頭を下げると、先生は少しだけ涙ぐんで、うんうん頷いた。
 あと二年もあるのに、なぜここで泣くんだ。出来が悪いから、あと二年で学園に上がるほどのことを詰め込むのが涙ぐむほどつらそうだとでも? わかりみしかない。

「出来の悪い生徒ですいません」

 深々と頭を下げると、先生は慌てて「違います!」とフォローに回ってくれた。

「出来が悪いなんてとんでもない。あなたの計算能力はオルシス君をもしのぐ程ですし、苦手な暗記もちゃんと頑張っているではないですか。そうじゃなくて……貴方のような素直な子をあと二年も教えることが出来て、私はとても幸せだと思ったのです」

 先生の言葉に、あはは、と笑う。
 計算はね。多分前世に基礎を習って来ているから今はまだ簡単に出来るってだけで、中等学園になんて通い始めたらもう無理だと思うよ。足し算引き算掛け算割り算あたりの基礎しか出来ないもん。兄様の教科書を見せてもらったけれど、さっぱりわからなかったから。アレ何年生の教科書なの。中学生がやる問題じゃない。
 それに、暗記なんて本当にカスもいいところだもん。全然覚えられないからか、苦肉の策で先生は「今日はここからここまでは何度も復唱して覚えましょう」と一日五人くらいずつ覚えさせてくれたぐらいだ。それも、一週間後に問題を出されるとすっかり上書きされて忘れていたり。
 頭脳も身体もポンコツって、俺なんか取り柄とかあるのかな。

「これは将来画家として身を立てなければ食っていけない……?」

 思わずポツリと漏らすと、先生はとても複雑な顔をしていた。そうだよね。ここの世界の絵は、絵画的な絵しかないもんね。イラスト専門の俺はジャンル違いだよね。
 あまりの自分のとりえのなさに、ちょっとだけ落ち込んだ俺だった。


「でもへこんでばっかりもいられないもんね」

 その落ち込みを解消すべく、すっかり手に馴染んだバスケットを手に提げた。
 まだ週一ランチは続いているので、そこでこの下降気味の気分を上昇しようと思う。
 いつも通り、スウェンと一緒に兄様とブルーノ君の教室に向かい、ランチの場所へ向かう。
 最近ではたまに俺たちの至福のランチに邪魔しようとする奴が出てきているけれど、ことごとく兄様とブルーノ君が撃退していた。
 ……その邪魔する人物っていうのが今目の前に立っているんだけれど。
 俺が見上げると、目の前の人物はニコッと微笑んだ。

「僕がサロンに案内するから、おいで、オルシスの弟君。その重そうな荷物も持ってあげるよ。おいアドリアン、荷物を」
「大丈夫です。僕が持てますし、場所もわかっているので、殿下の手をわずらわせるわけにはいきません」

 俺が住んでいるこの国、テスプリ王国の第二王子殿下であるツヴァイト・サン・テスプリ殿下が、そして彼の側近なのか友人なのか手下なのかわからないけれど、兄の天敵、アドリアン・アン・シェザール騎士団長子息が俺の目の前に立っていた。
 一度不幸な偶然から、スウェンと離れてこの広い学園内で迷子になった俺を、この殿下が兄様の元まで送り届けてくれて以来、殿下はこうして昼時に現れる。
 どうやら兄様とブルーノ君が気に入ったようで、二人に話しかける隙を窺っているみたいだ。
 彼もまた攻略対象者だ。
 ゲーム知識では陽キャと呼ぶのが相応しい明るい性格だった。悪い人じゃなかった気がするんだけど、そこまで詳しくは覚えていない。皆どこかに闇は抱えているので、それはお約束なんだけれども今は関係ないから放置するとして。
 俺はちょっとだけ後ろに立っているスウェンを振り返った。
 お断りしても押しが強い場合は、どうやって王族の要求を退けたらいいんだろう。
 切実にブルーノ君から教えを乞いたい。いつもは入り口で、ブルーノ君が穏やかに撃退してくれていたけれど、こんな風に直接攻撃に出て来られるとは思ってもみなかった。
 かといって、この二人と共に昼を取るのは不本意極まりない。だってお昼は兄様とブルーノ君、そして俺とスウェンの分がこのバスケットに、それから護衛の方たちの分しか持ってきていないのだ。
 二人が来たら、そもそもスウェンは昼食抜きになってしまうし、あとはもう一人分は俺が我慢しないといけなくなりそうだ。絶対に兄様のご飯は確保するとして、一緒に来られても迷惑なんだけど。
 というのが顔に出ていたのか、殿下の後ろに立っていた兄様の天敵が「恐れながら」と口を開いた。

「殿下の昼食は既に食堂に用意されております。殿下がそれを召し上がっていただけないと、食材は廃棄されるだけです。食材を無駄にするなどと噂が立ったら、殿下の名に傷がつきますので、どうか食堂まで足をお運びください」
「えー、たまには違うものが食べてみたいじゃないか。公爵家のランチとか気にならないか?」
「まったく気になりません。それよりも食べられなかった殿下の食材の廃棄事情が気になります」

 目の前のやり取りに、少しだけ驚いていた。ちゃんと騎士団長子息が殿下をいさめている。
 ゲーム内のこの二人の性格ってほとんど知らないんだよなあ。淡々と流していただけだから。
 じっと二人を見上げていると、殿下はやれやれ困ったやつだ、とでも言うように肩をすくめた。俺に言わせれば困ったちゃんは殿下だと思う。

「というわけだから、今日は残念。今度本格的に約束を取り付けてもいいかい?」
「それは、僕に言われてもお答えできません。僕も我が儘でここに通っている身なので、その問いにお答えできる権限がないのです。でも、僕がここに来ることで兄様のかせになるのでしたら、兄様とのランチも取りやめにしなければいけないです……」

 だって兄様がこの二人を見る目はかなり冷たいから、そんなに彼らが好きじゃないんだろう。
 俺のせいでこの二人がついて来て兄様をわずらわせるくらいなら、週一ご褒美ランチなんて我が儘は言ってられない。寂しいけれど、兄様がよくなければ意味がない。そう考えたところで、殿下の手が伸びてきた。思わずビクッと身体を後ろに逃がすと、殿下は困ったように眉を下げた。

「君はあれだね。本当にオルシスが好きなんだね。別に困らせることが本意ではないんだ。だから泣かないで。まるで僕がいじめたみたいじゃないか」

 ほら、僕が怖いならハンカチだけ貸すから、とハンカチを差し出されて、自分が泣いていることに初めて気付いた。
 俺、二年前から全然成長してないじゃないか。泣き落とし状態なんて我ながら情けない。
 大丈夫です、と断って、自分のポケットからハンカチを取り出して目元を拭いた。兄様とおそろいのハンカチに、ホッとする。

「それにしてもさ、僕の身分を知ってもオルシスを優先する君って、大物なのか無知なのか……」
「失礼ながら、見たところまだ幼いようですので、身分を理解していないのではないかと思われます」

 アドリアン――ゲーム内の兄様の天敵は、俺を目の前にしてとても失礼なことをさらっと言ってのけた。
 この人が最推しを激怒させた言葉って、何だっけ。
 あの時は最推しの激怒顔が、最高にカッコよくて綺麗で胸がキュンキュンして他のことが何も頭に入らなかったっけ。
 けれど最推し激怒なんてあんまり気持ちのいいものじゃないから何度も見たくはなくて、その一回以外は全てスキップしたんだ。もちろん一度データを取得すれば、激怒顔スチルはいつでも見られるからだけど。ここまで最推しの感情を揺さぶる天敵がある意味凄いなと怒りと驚きが同時に沸いた、稀有な人物なのだ、天敵は。
 身分のことは一応わかってはいるよ。俺、元は男爵家の子だったけど、今はちゃんと養子縁組をしているから、公爵家の子息という扱いなんだ。
 そして騎士団長のミドルネームは『アン』。つまり天敵は侯爵令息なので、実のところ身分差を無視しているのは、この人の方だ。
 あ、もしかして第二王子殿下の手下になると特権とかついてくるのかな。それとも自分の身分が低いのをあえて無視してこんなことを言ってるのかな。うーん、多分わかっていても俺の身体に公爵家の血が入ってないからってあなどっているとみた。
 出そうになる溜息を呑み込んで、俺は殿下にさらっと流してもらえるよう無知を決め込むことにした。

「ええと、殿下が偉い人なのは知ってます。でも後ろの方が偉い方かは知りません」

 そう微笑んで言うと、すぐ後ろで「フフッ」とスウェンの笑い声が聞こえた気がした。俺にしか聞こえてないと思いたい。どうして笑ったの⁉ 多分俺が、殿下の偉さを知っていてなお兄様を優先することを理解していて笑ったんだろうけど。
 俺の言葉に殿下はちょっと目を見開いてから、それでも笑い返してくれた。

「仕方ない。オルシスの弟君に免じて、今日は引いてあげよう。今度はオルシスに頼むから、頼まれたら僕とアドリアンの分のランチもお願いしてもいいかな。サロンの特別室を用意しておくからさ」
「確約は出来ませんので、失礼します」

 本当は自分からこうやって話を切り上げて、王族の人の前を辞するのは失礼にあたる。大人だったらそれだけでだいぶ不敬でヤバいってことも。でも俺は今、無知で幼いからさ。
 チラリと殿下の後ろを見ると、天敵は少しだけ目を細めて不機嫌そうな顔で俺を見ていた。
 引き留められることもなく王子のバイバイに見送られて、俺は改めて兄様の教室に急いだ。今日は王子のせいで遅くなってしまった。

「あ、そうか。そもそも殿下だって気付かないふりして、この間のお礼だけ言って逃げればよかったんだ……」
「アルバ坊ちゃま、お口から思考が飛び出しておりますよ。そういうことは思っていても口に出すのはよろしくありません」

 スウェンにたしなめられて、独り言を聞かれてしまった恥ずかしさにちょっとだけ頬を熱くしながら「はーい」といい子の返事をした俺は、教室で待っていた兄様の心配顔を見た瞬間足を速めた。
 兄様に抱きついて、ホッと息を吐くと、「アルバ?」という心配そうな兄様の声に瞬時に癒された。
 兄様の天敵のせいでくさくさしていた心も、兄様にギュッとされて一瞬で消火した。やっぱり兄様は誰より偉大で素晴らしいと思う。
 美味しいランチと兄様とブルーノ君によって、さっきのことなんてどうでもよくなった。

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卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

悪役令息の兄って需要ありますか?

焦げたせんべい
BL
今をときめく悪役による逆転劇、ザマァやらエトセトラ。 その悪役に歳の離れた兄がいても、気が強くなければ豆電球すら光らない。 これは物語の終盤にチラッと出てくる、折衷案を出す兄の話である。

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