本條玲子とその彼氏

ミダ ワタル

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14.悲愴

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 ベートーヴェン、ピアノソナタ第8番ハ短調作品13、“大ソナタ悲愴”――。
 全部弾いてと言えば、本当に、三章全部を玲子は弾いた。
 俺に言われてというよりは、彼女自身が夢中になってといった方が正しい。
 その名の通り、明るい旋律となっても底にどこか重みのある曲を実に楽しそうに弾いていた。
 あんなに楽しそうに弾くのに、玲子の指が奏でる音には暗さが、いや暗さではなく……透明な陰鬱いんうつさとでもいった響きが宿っていた。
 まさに曲に相応しい。
 特に、一般的に人気の高い第二楽章、明るい物哀しさは秀逸だった。
 目を閉じていたから、玲子が弾いていることを一瞬忘れて響きに没頭したほどだ。
 第三楽章のややドラマチックな出だしがなければ、しばらく我に返らなかったかもしれない。
 技巧の程度はしらない。
 たぶん普通より少々上手い程度なんだと思う。
 俺にとってはそんなことはどうでもいい、うっかり引き込まれる音を聞いたその事実のが重要だった。日頃誘われる響きとは異なる、浮気というのはこんな気分かと少しだけ苦笑した。
 テンポの早い曲が得意らしい玲子だったが、第三楽章はそれをよりはっきりさせた。
 あの普段おっとり天然気味な、玲子のイメージからは少し離れる。
 大作曲家が作った曲の妙でそう感じてしまうのだろうか……高音をじつに哀しく情熱的に響かせる激しさに、閉じていた目を開いてピアノを弾く玲子を見た。
 玲子は演奏に入り込んでいて、どんなに見詰めても気が付かず、こちらを見向きもしない。
 本当に好きな曲なんだなと思った。
 きっと好きなものに対して集中するタイプなんだろう。
 探偵小説もこんな感じで没頭するのだろうか。
 なら、傍にいても本を読んでいてくれれば案外俺も読書を楽しめるかもしれない。
 すぐ傍で見詰めている俺を存在していないかの如くここまで無視できるのだから……と考えて、俺自身も玲子の好きなモノの範疇に入っているかもしれないことに思い至った。
 この集中をこちらに向けられたら……俺は真っ当に相手できるだろうか。
 ふと、曲が途切れた。
 終わったわけではない、終盤の、クライマックスが中断したような形だ。
 ワンテンポ置いて、曲は、束の間の穏やかさを取り戻し、急展開の激しさで終わった。
 はあっ、と肩で息をついた玲子に軽く手を打ち鳴らした。
 まだ演奏の余韻が抜けきらない、ぼんやりとした眼差しのまま玲子は俺を見上げ、やだ、と呟いて正気に戻った。
「拍手とか、しなくていいからっ」
「なんで?」
「そこまでじゃないもの」
「……そこまでだった」
「嘘」
「嘘じゃない。技術的なことはしらない」
 少なくとも、一瞬引き込まれた。
 恐縮して薄く頬を染める玲子にパチパチパチと三度ほど手を打って止めた。
 ありがとう、ともごもごしながら玲子が呟いた。
「そんなに恐縮するほど、下手じゃないと思うけどな」
「うーん、プロの演奏家にそう言われても……」
「だからプロじゃない。本当に好きな曲なんだ」
「うん」
 嬉しそうに玲子は頷いて、たわむれにポロンと鍵盤を鳴らした。
 普段の玲子っぽい可愛らしい音がした。
 ものすごく素直な弾き手らしい。頼まれて内弟子の練習を仕方なく見ている時のような、自分もまた一応は弾き手である部分で思った。
「どうして好き? 作曲家が好き? 旋律が好き? 弾きやすい? そういった要素すべて含めて曲自体が好き?」
「すごい、質問攻め」
 くすくすと玲子が口元に握った手を当てるようにして笑った。
 たしかに俺にしては珍しく、他人を詮索していたことに気がついてバツの悪さに口ごもる。
「別に……ちょっと意外な選曲だったから」
「そうかな?」
 玲子は首を傾げ、さらりと音を立てるように髪が肩を滑った。
 いつの間にか日が暮れかけていて教室は薄暗くなっていた。
 まだ完全に暗くはなかったが、窓から差し込む淡い黄色の光はなくなっている。
 夜でも昼でも無い、黄昏たそがれの時間。
 やっぱり玲子の答えが気になって、譜面台のあたりに片腕を乗せて玲子に向かって身を乗り出した。
 俺の体の影が玲子に被さるように落ちる。
「どうして、好き?」
「あの、三橋くん……えっ……と」
 静かに尋ね直せば、何故か急にうろたえだして玲子はうつむき、それでも答えてくれた。
「えっとね、ほら、ベートーヴェンって耳が聞こえなくなっちゃったでしょう?」
 玲子が作曲家について話し、俺は黙って頷いた。
「だんだん聞こえなくなって……その頃、作曲して。“悲愴”て本人がつけた題名らしいの。ベートーヴェンって自分の曲に名前付けるのめったにしない人だったみたいで……」
「うん、それで?」
 そのあたりの話はなんとなく俺も家にある本で読んで知っている。
 賛否両論、頑として区別を付けたがる人もいるけれど、いまの邦楽で西洋音楽を完全に無視することはできない。それは向こうも同じことで、無限階の音を基本とするこちらの世界と交わろうとする試みはかなり以前からある。
 こちらは向こうの音階に合わせて弾こうと思えばいくらでも弾ける。
 複雑な和音や転調も複数人で合奏すれば、かなり忠実に、演奏自体は可能だ。
 それに意味があるのかないのか、音楽的にどうかなどといった、難しい話は別として。
 とにかく叔父はそういったことに目を向けている人の一人であり、その叔父の本や資料が家の中にあって、時折、気まぐれ程度に手に取って読んでいた。 
「“悲愴”って名前なのにきれいな曲でしょ。確かに暗くて重い部分もあるけど、どの楽章にも救いっていうか明るい穏やかな部分があって、それに聞く人をちょっとびっくりさせて引き込むような曲だし、だから好きなの」
「つまり曲自体、そのものが好きというわけか」
 その明るい穏やかな部分を、透明感のある物哀しさと陰鬱さで弾いた本人の言葉とは思えず苦笑が漏れてしまった。あれは玲子が無意識で奏でた音か。
「うん、音楽家が聴力を失うなんて致命的なのに、絶望しないでこんな曲作るってすごいなって」
 明るくそう言って立ち上がった玲子の言葉に、そうかな……と反射的に考えた。
 えっ、と驚いたように玲子が俺の顔を真正面に見る。
 玲子に身を乗り出すように背を曲げていたので、ほぼ同じ高さに互いの顔があった。
「三橋くん……?」
 大きな目が少し不安気に揺れたのを見て、ああ、思ったことを口に出してしまったらしいと理解する。
「ああ、いや……なんとなく。彼は何故止めなかったんだろう」
「え?」
 背筋を伸ばし、すぐそこいる、玲子から顔を離した。
「たしかに宮廷に出入りする音楽一家だったそうだけれど。第二のモーツァルトを当て込んで4歳か5歳そこらで父親から荒っぽいやり方で音楽を叩き込まれて、父親の代わりに家計を支えるような苦労をして……ようやく音楽で生計を立てられるようになってさ」
「三橋……くん?」
「難聴なんて音楽家としては致命的だ。けれど、致命的だからこそ周囲も文句は言えない、助けを乞いなにか他の道だって模索できたかもしれない」
 唖然として俺を見上げている玲子に軽く笑って、手近な鍵盤を人差し指で軽く押した。
 ポーン、と高い音が教室に響く。
「骨で、聞いたんだっけ?」
「え?」
「ベートーヴェン。歯と鍵盤をステッキで繋げたんだっけ? 人の声は聞こえないけど、ピアノの高音はかすかに聞こえたかもって。でも致命的だ……だから」
「だから?」
 もう一度、鍵盤を押してみた。
 同じ、高く澄んだ音が鳴る。
 たとえ止めたくても止められなかったんじゃないか。
 歴史に名を残す大作曲家と自分を重ねる気はさらさら無い、けれど物心付く前に箏の音に囲まれて育った俺でも音に侵食されるような気分を時折味わう。
 天才的な才能を持ち、音楽一家に生まれ、苛烈な音楽修行を強いられた彼が、まったく内側に音が響いていないなんてあり得るだろうか。
 難聴が進んだ後にこそ大曲をいくつも発表していることが、それを裏付けていると思った。
 外側からの音じゃない、内側の音を彼は奏でる代わりに楽譜に吐き出したのではないか?
 作曲家について詳しく知っているわけでもない。
 ただの想像だ、妄想といってもいい。
「玲子の考えを否定する気はないけど、彼は絶望したと思うよ。きっとひどく絶望したと思う。それでも続けたのはすごいと思う」
「三橋くんって……」
「なに?」
 尋ねたら、ふるふると玲子は首を横に振った。
 怪訝に眉を寄せれば、なんでもないと言う。
「詳しいね」
 感心しているような、本当は違うことを言うつもりですり替えたような、どちらにも取れる調子の言葉に、まあジャンルは違えど音楽は家業だからと返事になっていないような言葉を返した。
「帰らないと、暗くなってきてる。本は月曜日でいいから」
「うん」
「家まで送るよ」
 玲子は頷くとピアノの蓋を閉じかけて、鍵盤から遠ざけようとした俺の手を引きとめるように片手を重ねた。
 小さな不協和音が重ねた手の下から漏れる。
「玲子?」
「三橋くんも……」
「ん?」
「三橋くんも小さい頃からたくさん音、聞いた?」
 玲子じゃなければ、そのまま下方から俺を見上げる彼女の手にもう一つの手を重ね、流れでキスしていたかもしれない。
 そんな雰囲気だった。
 けれど玲子の目が、俺を見詰めている潤んだような瞳はそんなことを望んではいなかった。
「家がああいった家だからね」
「……そう」
 軽く笑って玲子の問いかけに答えればすぐに玲子は手を離し、俺が手を鍵盤から引いたのを確認してから蓋を閉めると、背を向けて俺とは反対側のピアノの足元に置いた鞄を取り上げた。 
「遅くなっちゃったね」
「全部弾いてってせがんだの、俺だから」
 俺の言葉に玲子は微笑んだ。
 そのままこれといって話すこともせず、けれど特に気詰まりな感じでもなく、学校を出て毎朝の登校のように並んで歩くつもりでいたら、不意に左手の指を軽く掴まれた。
「……手、繋いでもいい?」
 掴んでおきながら、恐る恐る、俺をうかがうような玲子の様子に、思わず笑っていいよと握り返した。
 付き合って五日目でようやく手か。
 たしかにこれまでこんな感じで付き合いが進む女の子はいなかったなと、暗くなっても艶を放っている玲子の頭頂部を見ながら、俺はそんなことを考えた。
  
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