本條玲子とその彼氏

ミダ ワタル

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20.才能

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 照明は客一人に一つ灯される小さなグラスキャンドルの光と、床の一部が人の足を誘導するようにテーブルとテーブルの間や通路に沿って仄白く光っているだけ。
 都内でも、規模が大きく高級な部類に入るホテルのメインラウンジ。
 どうしてこんな場所で、玲子と向き合っているのか不思議だった。
 すぐ近くに地下の宴会場に降りるエスカレーターがある。
 本條グループの創業何周年といった集まりのために、両親と学校を終えてから来たと言っていた。
 一泊して早朝に一人、ホテルを出て学校に間に合うように戻るらしい。
 創業家のお嬢様も大変だ。
 ホテルは詩織が選んで予約した。
 筝があるから、最低でもリビングスペースのある広いタイプの部屋になる。
 学生が宿泊するには明らかに分不相応な、その宿泊料の払いは一体どこから出るのやら。
 いくらなんでもプライベートの費用まで詩織の所属事務所が持ってくれるとは思えない。
 だとすれば中道か三橋か……もしかすると一門の事務局かもしれない、それは十分ありえる。
 父は現家元、母は北陸の教室を束ねている。
 中道の家は三橋の分家筋。若手奏者を代表する立場と実績を持つ詩織は一門の中で特別な存在だ
 詩織は将来一門を背負う可能性を持つ者として育てられ、歳が近いから宗家の三橋直系である俺の結婚相手として生まれた時から考えられていた。
 中道の叔母と叔父が離婚した時、詩織は二歳。
 叔父夫婦は俺達と一緒に暮らしていた。
 詩織は叔母が引き取ったのだが、筝の稽古をするなら圧倒的に宗家である三橋の家の方が有利だった。
 たくさんいる一門の教室通いの子供と、詩織は全く扱いが違っていた。
 彼女は将来一門を担うべき奏者として育てられた。
 俺が前家元であった父に放任されている分まで詩織は稽古をつけられ、学校と生活時間以外に自由はない。
 つねに一門の大人達に囲まれ、俺と妹以外に詩織と付き合う同世代の子供はいなかった。 
 叔母は、叔父が俺の母と結婚するまで詩織を三橋の家に預けて詩織のために頻繁に三橋の家を訪ねていた。
 会って娘と過ごすのと、奏者としての上達を見るためだ。
 中道の叔母は躾も稽古も厳しい人で、叔母が来る前日よく詩織は離れの庭の隅、道具小屋の影に隠れていたものである。
 家の中から姿を消した詩織を見つけるのは常に俺だった。
 庭に時折迷い込んでくる野良猫を他の者に内緒で世話する場所と同じ所に隠れていた、俺自身の秘密を含む場所なので詩織がどこにいたのか他の者に告げたことはなかった。
 そんなことをとりとめもなく思い返しながら、軽く目だけを動かし周囲を見回す。
 夜も更けてきたラウンジは、ディナーを終えた様子の大人達の語らいの場となり、男女二人組が多かった。
「腹が減ったな……」
「なにかお願いする?」
 可憐な少女の声が俺をおもんぱかったが、空腹であっても食欲がなかったので首を横に振った。
「やめておく」
「そう」
 正面に座る玲子は頷いたきり、メニューに載った軽食等を勧めることはしなかった。
 彼女はそういった、無駄な干渉を他人にしない。
「とても疲れた顔してる」
 詩織に丸三日も付き合って、騙し討ちまがいの目に合った上に口論したばかりだ、疲れもする。
 だから……左側から聞こえてくる音が気になってしまうのだろう。
 ラウンジの中央に黒光りするグランドピアノが一台、黒いドレスを着た女性が静かなBGMを奏でている。
 ピアノとその向こう、ガラスの壁越しに、淡い光源を岩影に仕込んだ人口滝が水と光の幻想的な風景を作り出しているのを横目にちらりと見て、背後に一段下がってロビースペースが広がる座っているソファ席の肌触り滑らかなベージュのウール地の背もたれに両肩を預け、上半身を天井に斜めに仰向け目を閉じた。
 少し前に、玲子じゃなく詩織とこの席にいた。
 聞こえてくるピアノの音。
 旋律の中の違和感。
 演奏者はそつなく弾いているから技巧のせいではない。
「自信ないけど、あのピアノ、調律微妙かも……」
「それって、もしかして絶対音感?」
 玲子の言葉に、目を閉じたままいいやと答えた。
「それはないんだ。基準音がないとなにがどの音なんだかさっぱり。けれど、昨日まで音大の付属校見学していたからそこで聞いた音の響きがまだ残ってる」
 その気になれば無段階で音を操作できる筝を扱っている俺に、絶対音感はない。
 ただ音の高い低いといった音程を感じ取る相対音感は、人と比べて鋭い方だとは思う。
「音と音の幅が少し違っている気がする。でも昨日聞いたのが狂っていたら、こっちが正解なんだろうけど」
「どちらも狂っていたら?」
 くすりと笑み混じりの声で悪戯っぽく問われて、その可能性もあるかと肩をすくめた。
「そういえば、絶対音感ならそっちこそ」
 目を開けて、きちんと座り直して玲子を見た。
 幼少期からピアノを習っているら、持っていておかしくない。
「ううん、ピアノの音をよく聞いてどの音か拾えるくらい。習っているからって誰もがTVに出てる演奏家みたいなわけじゃないもの」
 演奏家、か。
「詩織がいたらきっとわかるんだけどな。両刀使いで、異常に音に鋭いから」
「え?」
「三歳から筝の稽古始めて、四歳から叔母の意向でピアノも習ってる。ピアノはプロデビューする前に止めたみたいだけど」 
「すごい」
「うん、すごいんだよ詩織は。叔母が詩織の音楽教育に熱心だったこともあるけど、本人の才能と感性と努力が……小さい頃は同じ家に暮らしていたけれど全然顔合わさないんだ。ずっとなにかの稽古をしているから」
「一緒に暮らしてたの?」
「母と叔父が結婚するまで。中道を名乗っているけど詩織は叔父の元にいたから」
「なら、三橋くんが小学校の終わりくらいまで一緒にいたのね」
「そうだな、そうなるかな」
 最後の方は、月の半分くらい詩織は中道の家で過ごす感じにはなっていたけれど。
「それにしても、玲子」
「はい?」
「本條グループの会合とは聞いたけど、どうして君とこんな時間にこんな場所でこんな話をしているのだか」
「本当ね」
 くすりと玲子は笑った。
 このホテルは先月大きく内装を変えたばかりであるらしい。
 その新しい内装を手掛けたのが本條家が経営する会社の一つで、それもあって会場として選んだみたいと玲子は説明した。
「フロントに預けてたお部屋の鍵を取りにいこうとしたら、三橋くんの声が聞こえたからびっくりした」
「声、ね」
 怒鳴り声だったのによくわかったものだ。
「振り返ったら女の子と言い争ってるんだもの。もしかしてこれが修羅場というものなのかしらってどきどきしちゃった」
「玲子……その場合、君はたぶんどきどきしている場合じゃないと思う」
「そうかな。相手の女の子が三橋くんとどんな関係でも、それは三橋くんと女の子の問題だもの。わたしと三橋くんの間のこととはまた別でしょう? わたしに関わるのなら三橋くんはわたしとお話するでしょう?」
「まあ」
 たしかにそれはそうかもしれないけれど。
 二股かけられたとか思わないのだろうか。他の女性とこういった場所で二人でいて口論なんて場を目の当たりにしてそんな冷静に割り切れそうな女の子と俺はこれまで付き合ったことがない。
 学校の教室や廊下で少し話していただけで機嫌を悪くするような子が多かった。
「世の中の女の子が皆、玲子みたいに冷静だと面倒が起こらなくていいな」
「冷静なわけではないの」
「うん?」
「私は、ただ三橋くんが好きなだけだから……」
 ぽつりと小さく呟いた玲子の、普段から潤んでいる様な大きな目が、テーブルのグラスキャンドルの光に壊れそうな儚さで揺れた。
「……制服の時と随分雰囲気が違う」
 テーブルの上に置かれていた白いティーカップを目を伏せて見つめている玲子を、しばらく黙って眺めてからそう言った。
 一つに編み込みきれいな形に結い上げられた長い黒髪は濃紫色のシルクタフタの幅広のリボンで飾られ、普段着ている紺地の地味な制服とは違って、華やかで手の込んだ振袖を玲子はまとっていた。
 時代を感じさせる奥深い色合いをした淡紅色のぼかし地に、垂れ下がる白と紫の藤の花が肩から裾へ袖も含めて全面に描かれ、その花の房に施された刺繍が彩りと立体感を添えている。
 細くのぞく薄紫の半襟にも藤の刺繍が施され、金糸を裏に通した白い帯地に色鮮やかに織り出された蝶が舞い、帯留めは藤の葉と蔓を絡ませた彫金の後ろに嵌めた珊瑚が透けていた。
「まさに、令嬢って言葉が相応しいな」
 それも完璧なまでに美しい令嬢だ。
 微かな憂いを漂わせる様子は一枚の絵のようだ。
「見事な、藤尽くし」
 白く細い指が白磁のティーカップを持ち上げ、ゆらりと漂ってきた紅茶の湯気の中に二、三滴垂らされたブランデーの香りに鼻腔をくすぐられる。
 俺は組んだ両手を頭の後ろへやって再びソファに頭を預けた。
「昔の、お着物なの」
「家にも何枚かそういった昔からの着物ってあるけど、そこまで見事なのはないな」
「そんなこと」
 さらりと衣摺れの音がして、カチャリとガラステーブルの上にティーカップが戻る。
 面映そうにうろたえる様子の玲子は、普段よく見知った玲子で何故か少しばかりほっとしたものを覚えた。
「とりあえず、詩織が君にグラスの水なんかを浴びせなくてよかったと思ってる」
「まさか」
「するよ。きつい性格してるし、ああなると落ち着くまで手が付けられない」
 だから疑問に思う。
 詩織は……いや、玲子は詩織と一体なにを話してたのだろう
 口論を目撃されて、なんとも気詰まりな紹介の後、玲子は詩織をロビーのソファに誘い二十分ほど話をしてその場を去った。
「それに部屋に君から内線がかかってくるなんて」
 玲子がキャンドルの火に揺らめいている瞳で俺を見るのを、ソファにもたれたまま受け止めた。
 詩織は黙ってラウンジを出て、俺は彼女の後を追うようにして二人で部屋に戻った。
「お部屋で、少し一人にしてあげた方がいいと思って……三橋くんと離れて」
「それで俺をまたここに誘ったのか」
「同じお部屋って聞いたから」
「心配しなくても、ベッドは分かれてるよ」
「えっと、そんなことは聞いてないですっ」
 オレンジ色の炎の色に染まっていた玲子の白い顔に、それだけではない赤みが差すのを見ながらいいのかと思った……従妹で妹だからだろうか?
「少し、言い過ぎちゃったかも。三橋くんのこととても好きなのね詩織ちゃん」
「そういえば、部屋に戻ってやけにしゅんとしてた」
 それにも驚いた。
 てっきり玲子を悪し様に言って、俺に当たり散らすに違いないと思っていたから。
 俺が詩織から父親の関心をそっくり奪ってしまったことと、幼い日の出来事を持ち出して。
「なにからなにまで意外だ。玲子が割って入ってくるとも思わなかったし」
 頭を支えている腕を抜いて、腕時計の時間を確認する。
 二十二時半を回っている。
 もういい時間だ。
「君、明日帰るのにいいの? それにこんな時間までここにいて」
「大丈夫」
 口論から二時間近く経っていた。

 *****

「迷惑なのは洋ちゃんじゃないっ!!」
 逆毛を立てた猫が威嚇するように、詩織は席を立って声を荒げた。
「洋ちゃんは才能がどういうものかってわかってないっ! 自分じゃ誰も巻き込んでないって思ってても違うんだから……あたしやパパとは全然、違うんだからっ……」
 なにが違うのか、なんの事だか支離滅裂だ。
 けれど、詩織の言葉と甲高く叫ぶ声からは、蓄積された苛立と怒りと遣る瀬無さを感じた。
「ちゃんとしないなら止めてよ!」
 それは出来ない、そもそもちゃんとってなんなんだ。
 ちゃんと一門の稽古を受けて、後継者として一門のなかで振る舞えということなのか。
 そうでなければ、弾いては駄目だと誰がなんの理由で決めるのか。
 聴覚を切りつけてくるような詩織の声を聞いているうちに、俺の中でもいい加減にしてくれといった鬱屈した感情が急激に膨らんでいった。
 詩織のお伴の最後の用事は、俺に用意された面談の席だった。
 ラウンジでお茶をしたいと言った詩織に付き合ってみれば、予約されていた席に四十がらみの男が待っていて、各種コンサートを手掛けるプロモーターだと名乗って名刺を俺に差し出した。
 定演会の俺の演奏を録音した媒体を、詩織は事前にその男に渡していた。 
 嵌められたと思いながら、挨拶されてしまったからには仕方なく相手の話すことを一通り黙って聞いた。
 要約すれば、詩織と同様にプロの演奏家として活動してみないかということだった。
 もちろん、表立った演奏活動など興味もなければする気もない。
 面倒極まりない気分でいたが、詩織の今後の活動に差し障りが生じたり一門に迷惑はかけられないため、俺の一門での状態と考えとを両方話して丁重にお断りをした。
 おそらく向こうも話しながら俺の様子に薄々なにかおかしいと感じていたのだろう、思ったよりもあっさりと引いてくれて、これもなにかの縁ですからいつか気が変わったら連絡くださいとまで言ってくれた。
 向こうからやってきて、俺がただ嫌だといってそれで済むならいい。
 けれど詩織が持ちかけたのなら話は違ってくる。
 ましてや叔父まで背後で関わっているならなおさらだ。
 それを詩織の物言いから察した途端に、さすがに怒りを覚えた。
「どうしてこんな迷惑なことをするんだか……」
 思わず吐き捨てるように呟けば、テーブルに足が当たる音を立てて詩織は立ち上がった。
 周囲の客が、一斉にこちらを向いたのに心底うんざりしてため息まじりに詩織をたしなめたが、昂奮した猫のような詩織はこちらを睨んで微動だにしなかった。
「詩織」
「迷惑なのは洋ちゃんじゃないっ!!」
 そこからはもう、俺にとっては理不尽なだけの……けれどそう簡単に切り捨てるのは躊躇ためらわれる様々な感情を含んで浴びせられる責めの言葉だ。
 大人げないとは思った。
 詩織が言う事も一理あるにはあるのだ。
 けれど。
「わかってないのは詩織達だろっ!」
 座ったままではあったが、気がついたら詩織を怒鳴りつけていた。
「なによ……なにがわかってないの?! わかってないの洋ちゃんじゃないっ。あたしもパパも、洋ちゃんが後継者だって思ってるのにっ!」
 不毛な口論だ。
 このまま話していても、たぶん両者が納得する回答は出ない。
「だから……っ」

 ――たぶん、どちらもわかっていないのじゃないかしら?

 突然、俺の言葉を遮った可憐な声に、俺と詩織の争いは一瞬空白になった。
 声のした方向を振り返ってラウンジからロビーを見下ろせば、一段下がった場所から振袖姿の玲子が俺を見上げていた。
「誰?」
「玲子?」
「こんばんは、三橋くん」
 そう言って、玲子はにっこりと微笑んだ。

 *****

「ごめんなさい。よく知らないのに立ち入って」
「いや、たぶん玲子がいなかったら収拾つかなかった
 俺と言い争っているのが詩織だと知ると、玲子は丁寧な挨拶をして少しだけお話ししてもいいと誘った。
 好戦的な性格の詩織がそれを断るはずがない。
「詩織と、なにを話してた?」
「三橋くんのこと。すごい才能だって聞いた。次の後継者にって言われているんでしょ?」
 玲子の返答に深いため息を吐いて、ソファから頭を起こした。
「叔父と詩織がそう思い込んでいるだけだよ。父が、稽古する必要ない好きにさせておけって言ったのを才能みたいなものを認めたと曲解して」
「そうなの?」
「家元の子供だからって別に弾く必要ない。本人が習う気があれば教えればいいし、そうでないならならそれでいいってだけだ。妹の茜なんて筝に触ったことがあるかも怪しいくらいで、俺は弾くけどきちんと教わっていない。叔父や詩織の言う通りなら普通きちんと稽古させるだろ?」
 俺の問いかけに、うーんと玲子は悩むように眉をひそめて首を傾げた。
「玲子?」
「全然、習っていないのに三橋くんは難しい曲も弾けるの?」
 ああ……なるほど、そういうことか。
「いや、全然習ってないわけじゃないんだ。小さい時は詩織の稽古覗いてて基本的な弾き方くらいはたぶん叔父から教わってる」
 じっと俺を見つめて話を聞く玲子に、あとは好き勝手に遊び半分といえば困ったように微笑んだ。
「だから次期家元なんて資格はない。詩織や叔父みたいに人生の殆どを修練に費やしてる人ではないから」 
「尊敬しているのね、叔父さまや詩織ちゃんのこと」
「尊敬……なのかな? でもそういうの蔑ろにするみたいな才能なんかはきっとない。父は才能のある人だって言われてたけどちゃんと修練してた。たとえ俺に同じ才能があったとしても違うんだ」
「小さい頃から、毎日弾いてるって聞いたけど?」
「好き勝手にただ弾くのと、稽古は違うよ」
「そう。そういえば、三橋くん学校にはいつ来るの?」
「学校か……」
 今夜は、詩織のお伴で東京を訪れて三度目の夜だった。
 詩織の学校の見学は問題なく、詩織を満足させたらしくあとは編入手続きを残すのみ。
 修繕中の筝も無事に受け取って調子も確かめた。
 詩織の買い物に付き合い、一通り目当てのものを彼女は買い込んで、明日また三橋の家に戻りたいと言った詩織と二人で帰る予定だった。
 明日は木曜日、翌日からならなんとか学校に顔を出せるだろう。
 きっと家に戻ったら、詩織は公演のリハーサルのため他者を拒絶して稽古に打ち込む。
「たぶん金曜日かな。たった一週間なのに随分長い間行っていない気分だ……詩織と二人でいると時間の感覚がおかしくなるから」
「どんなふうに?」
「なにか時間の止まった二人切りの世界に放り出された感じなんだ。一度、二人で家出したことがあって時間がすごく長く感じた」
「え?!」 
 薄闇にグラスキャンドルのオレンジ色の光が小さく揺れる中から驚く声がして、俺は天井を見上げて僅かに目を細め、玲子の声は静かで澄んだ響きの声だなと思った。
 干渉せず、感情的になったりもしない玲子の性質が現れている気がした。  
「家出と言っても道具小屋の中で一晩過ごしただけ。翌日の昼に内弟子に発見されて連れ戻された。家の敷地さえ出ていないからよく考えたら家出って言えないかも」
 いよいよ中道の家に詩織が移る二日前の晩だった。
 テーブルに灯されている小さな炎の明かりの中で玲子が微笑む気配を感じた。
「道具小屋で詩織とキスした……あれが初めてかも」
「素敵ね」
「どうかな。詩織が叔母の元に行った翌朝に起きたら下着汚してたし」
「もしかして、それも初めて?」
 思いがけない質問に天井を見上げたまま苦笑する。 
「まあね」
「初めてがたくさんあったのね」
 こくりと紅茶を一口飲んだ気配がして、天井を向いたまま俺は頷いた。
 吹き抜けの天窓になっている天井は高く、小さな円形ドーム状の窓枠に夜空が等分されたケーキのように切り分けられていた。
「いま考えれば、そう、たぶん……好きだったんじゃないかと思う」
「そう」
 腕を動かしたから着物の長い袖が膝に擦れ合ったのだろう、さらりと衣摺れの音がした。
「まだ子供だったから。でもそういうのって女の子はずっと憶えているし、詩織から理由はどうあれ結果的に父親を奪ってしまっているから罪滅ぼしっていうか、いい兄でいたいんだけどな……玲子?」
 等分された夜空を突然遮った、玲子の顔のアップにさすがに驚いて目を見開いた。
 こちりと小さな衝撃とそのぶつかった音が額に響く。
 玲子は立って俺を見下ろし、自分の額を俺のそれにふっつけていた。
「骨……」
「ほね?」
「ベートーベンの。小さい頃からたくさん音を聞いていたんでしょう?」
 囁くように脈絡のないことを話す玲子の吐息が鼻先にかかる。
「詩織ちゃんの話を聞きながら思ったの。弾くの止めないんじゃなくて、止められないんじゃないかなって」
「玲子」
「三橋くんのなかに詰まっている音、こっちに移せたらいいのにね」
「口移しで、移せるかな」
 まともな返事がすぐに返せずまぜ返せば、ぴしっと口元を指先で押さえつけられて額に触れる玲子の温かみが離れた。
「そういうのはっ、三橋くんがちゃんとわたしを好きになってからでっ」
「みんなちゃんとが好きだな」
 ちゃんとしてるはずなんだけれど……とぼやけば、くすくすと玲子が鈴を転がす様な笑い声を立てた。
「詩織ちゃんにさっきの話してあげたらいいと思う。あ、そろそろお部屋に戻らないと」
「うん」
 もう二十三時前だ。別にやましい事はないけれど流石に部屋に戻ったほうがいい。
「また、学校でね。おやすみなさい」
「おやすみ」
 玲子との別れ際にしては妙な挨拶だなと思いながら応え、ひらりと鮮やかな藤の袖と文庫に結んだ蝶が舞う白い帯の垂れを揺らして、エレベーターホールへ向かう玲子の後ろ姿をなんとなく名残惜しいような気分で見送った。
 なにも考えても、知ってもいなかった。
 この、額を合わせた時が俺と玲子が重なった唯一だったのではないか。
 あとはもう、二人は等しく離れて互いを見るばかり――。
 ずっと後になってこの時のことをそう思い返すようになることを、その時の俺は考えてもいなかった。
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