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29.桜桃
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「大丈夫?」
自分の粗相に巻き込んだから、というわけではなく。
あらためて認識した相手へ手を差し出し、促すように軽く揺らした。
四月下旬の、黄昏時。
まだ日没はしていない。
けれど空と地上の間は薄く藍がかり、同じ色に染まりつつある土手から見える川の水面に周辺の建物の灯りがオレンジ色に映っている。
「玲子?」
差し伸べた手に自然な動きで甘えかけてゆるく曲がっていた細い手は、なにかを思い止まったような不自然な動きで引っ込められ、玲子は自力で立ち上がった。
「ありがとう、大丈夫」
立ち上がってぱたぱたと尻餅をついたスカートの後ろへ両手を回して払う音をさせて、玲子は首を傾げた。
「どうしたの? 三橋くん」
「えっ? ああ……いや」
尋ねられてはじめて、手を差し出したまま中途半端に腰を屈めた間抜けな体勢でいることに気がついて背筋を伸ばした。
「どこかへ急ぐのじゃないの?」
「病院帰り?」
二人同時に問いかけた。
俺の問いかけにぴくんと震えて、玲子の大きな目が俺をじっと見詰めた。
猫が何かを察知したときに顔を上げ、目を見開いて髭をわずかに震わせる。
それをそのまま人間の少女に置き換えたらこうなるだろうという反応で、一呼吸おいて玲子はゆっくりと微笑んだ。
「ええ、お友達のお見舞いに」
さらりと玲子は俺が想像していた通りの答えを返した。
目元を先に細め、次いで閉じた口元が心持ち弓形に吊り上がる。
その微笑みの動作。
一流の詐欺師と三流の詐欺師の違いはどこにあるのか――ふと、そんな話が頭をよぎった。
本じゃない……雑誌か、もしくは三田村の店で耳にしたのか。
『違いは、主に二つ。一つは表情。特に笑顔だ。目は口ほどにものを言うが、感情の窓なんだな』
耳の奥に普段馴染みのない大人の男の声が甦った。
そうだ、三田村の店の、常連の誰かが話していた。
三流の詐欺師は相手に笑いかける時、口元から先に笑みの形を作って目が後を追う。
人間の視覚情報を侮るなかれ、見る者はそこで無意識のうちに感情が伴わない笑みに違和感を覚える。
一流の詐欺師はそんなヘマはしない。
きちんと目元から表情を変化させるのさ。
達者な役者の芝居と同じ、感情を表情に乗せるんだ。
いや芝居じゃないな……その一瞬は、本当にそう思い込んでいるんだ。
もう一つは嘘。
三流の詐欺師は嘘をつく。
嘘を維持するため、嘘の上塗りをして言動が破綻をきたす。
一流の詐欺師はそもそも嘘をつかない。
ただ黙っている。
判断を左右する重要な情報は伝えない。
知られて構わない情報だけを選びとって開示する。
それを聞いた人がどう解釈したって知ったことじゃない。
後で被害者に責められても、嘘は言っていないと堂々と反論できる。
事実嘘は言っていないのだからと――そんな話だ。
「三橋くんも……病院? 診察?」
「どうして?」
「風邪、引いてたし。それにもうすぐ外来の受付時間終わっちゃうから、それで急いでいたのかなって」
まるで探偵のようだと思いながら、違うと否定した。
「そう? でもまだ声ちょっといつもと違う感じに聞こえるね」
「玲子を追ってきた。その、書庫のことは……」
言いかけて、どう説明したものかと口籠った。
どうしたって、佐竹の行動から説明しなければならない。
それを話したところで、ますます玲子を不愉快な気持ちにさせるだけではないだろうか。
玲子の側から考えればそれを説明する俺は、すべてを佐竹のせいにしている卑怯な男にしか思えないだろう。
「……困ったな」
「三橋くん」
静かな呼びかけに、煩悶から我に返った。
玲子はそんな俺を上から下まで一通り眺めるように視線を移動させてから、くすりと微笑んだ。
「どうしたの? 擦り傷かな……おでこのところ少し」
「え、ああ……」
言われて額に手を当てる。たしかに薄い引っ掻き傷のようなものがあった。
気がつかなかった、たぶん書庫のドアとぶつかった時についたのだろう。
「ちょっとドアにぶつかって、書庫の鍵開けてくれた人とタイミングが上手く合って。いや合わなかったからこうなったのかな? えっと」
「病院じゃないなら……もしかして、わたしを追いかけて?」
躊躇いがちな問いかけに、素直に頷く。
「どうして? わたしが病院にいると思ったの?」
「この前、薬貰いに行った時に見かけた気がしたんだ。ちょっとだけいい?」
道の端で向き合い立ち話しているのも妙だと思い、川の側へ誘えばこくりと玲子は頷いた。
「君の家行ったけど帰ってなさそうだった。本屋をのぞいてもいなかったから……」
玲子の鞄を持って左肩にかけ、二、三メートル戻った場所にあるコンクリートの階段を下りて、細長い原っぱになっている川辺のふかふかした草の地面を歩く。
さらさらと水が流れる音と川面を撫でる風に玲子はうっすらと目を細め、肩から前に滑り落ちる髪の毛を耳の後ろにかけて、佐竹の事には一言も触れずに俺に再び問いかける。
「どうして家にいないってわかったの? あ、もしかして訪ねてくれた?」
「いや、窓を見て」
「窓?」
「君、帰ったらすぐに部屋の窓開けるだろ? 振り返って、サンルームの上の部屋の窓が開くの何度か見かけて」
ぴくんと玲子が大きく瞬きをして、俺の横顔を斜めに見上げた。
「三橋くんって、探偵みた……」
玲子の言葉が、途中で途切れる。
ほんの一瞬。
考えるより先に、俺を見上げた玲子に被さるように俯けた顔を上げる。
触れたのかどうかすら怪しい、儚い感触。
目を見開いたままでいる、桜桃の、唇をした少女……。
「本條玲子に……」
「え?」
ゆらりと、黒目がちの眼差しが不安げに揺れる。
何故、そんな不安げな表情をするのだろう。
「“本條玲子にキスできた男が、彼女を呪いから解放するだろう”って」
「え?」
さわさわと夕暮れの風が吹き出す。
ほんの数分のうちに周囲は薄い藍色から淡い紫色へと色を一段深めて、いつの間にか二人して立ち止まっていた。
「第一図書室にいた俺の前に君が初めて現れる前。三田村からそんな噂話を聞いたんだ」
「そう」
「だからあんな二択の告白を?」
玲子は答えず、黙っている。
「話を元に戻すけれど、書庫のことは弁明しない。鍵をかけ直して立ち去ったことは釈然としないけれど、結果的に出られたし、君が見て思って判断した通りでいい。けれど俺はっ」
「言わないで!」
いつもの玲子から想像できない、叫ぶような声。
俯いた玲子に驚き、俺は眉を顰める。
「玲子?」
「鍵をかけたことはごめんなさい。だからお願い。言わないで……三橋くん……」
「いやそんな、気にすることじゃ……。それにそうではなくて」
困惑した俺に、玲子は深々と詫びるように腰から直角に頭を下げた。
違う、そうじゃない。
なにか、なにかが……それまで淡々としながらでも相違がなかったなにかが。
理由のわからない焦りに俺は混乱した。
ちゃんと掴まなければ、ここで捕まえなければ……。
「玲子。君……」
少しだけ頭を持ち上げ、けれどもまだ垂れ下がった髪に顔が隠れて見えない玲子に囁くように。
そろりと呟く。
「君は、何故……」
俺が好きなんだ?
しかし問いかける寸前、けたたましいクラクションの音が俺達二人の間に割り込んだ。
はっと玲子が頭を上げて道路を振り仰ぐ。
普段見るのんびりと優雅な彼女の振る舞いと、どこかちぐはぐな俊敏な動きだった。
「あら?」
まるでなにか思っていたものと違ったものを見たような、怪訝そうな表情を玲子が浮かべる。
遅れて彼女の目線の先を追えば、見慣れた仰々しい黒塗りの車が停まっていた。
俺達の注意を引くように、再びクラクションが二度鳴った。後部座席の色をかけた窓ガラスがゆっくりと下がって開く。
「おーい、洋介!」
窓から首を出した人物に、俺は呆気に取られた。
「……叔父さん」
「えっ!?」
俺を仰ぎ見た玲子に軽く肩を竦め、「……兼、父」と伝える。
子供のように羽織の片腕まで突き出して、袖を揺らしぶんぶんとこちらに向かって手を振っている。
「三橋くんの叔父さま。で、お父さま」
「うん」
――先生っ、出るならドア開けて出てくださいよっ……!
叔父がさらに身を乗り出そうとしているのを、誰かが止めている声が小さく聞こえた。
おそらく内弟子の透さんだ。
「おぉぉい! なにをしているんだ? もう日が暮れる時間まで若いお嬢さん連れ回しちゃあ駄目だろう。乗っていきなさい」
「だってさ」
くすくすと玲子が笑い声を漏らす。
先程の不安げな様子などまるでなかったような、いつも通りの玲子だった。
「言い出すと聞かないんだ。あんな悪目立ちする車だけど、諦めて一緒に乗って」
なにしろ俺が堅気じゃない家の息子だと、勘違いされる元凶となった車だ。
「おかしな言い方」
「家まで送るよ。送り届けるのは僕じゃなくて叔父さんの車だけど」
「三橋くんって、変なところで厳密だね」
「そう?」
玲子を促すように先に進みでた俺は背中を向けたまま応じた。
「うん」
“だから、言わないでほしいの……”
「えっ……?」
たしかにそう聞こえた。
慌てて振り返ったけれど、唇を閉じてきょとんと首を傾げた玲子と目が合っただけだった。
「どうしたの、三橋くん?」
「いや……なんでも」
その時、どうして聞き返さなかったのだろう。
近い未来で俺は何度そう思ったか——けれどその時は知らなかった。
車が停まっている少し先、小さな歩行者専用の橋の側から再び道路へ戻って玲子と叔父の車に近づき、ドアを開けて車から出て来た叔父に対し、三田村と出会った時同様に丁寧な挨拶をする玲子を後ろから眺めていた、俺は。
綺麗なお辞儀をする玲子の後ろ姿を見つめ。
ただ漠然とした不安に似たものを感じていた。
なにか、なにかが……それまで淡々としながら相違なかった。
そう。
重なっている状態に近かったなにかが、互いに別々の方向へと距離を開け始めた気がしていた。
どこまでも交わる事のない、平行線の間の幅が広がったように——。
自分の粗相に巻き込んだから、というわけではなく。
あらためて認識した相手へ手を差し出し、促すように軽く揺らした。
四月下旬の、黄昏時。
まだ日没はしていない。
けれど空と地上の間は薄く藍がかり、同じ色に染まりつつある土手から見える川の水面に周辺の建物の灯りがオレンジ色に映っている。
「玲子?」
差し伸べた手に自然な動きで甘えかけてゆるく曲がっていた細い手は、なにかを思い止まったような不自然な動きで引っ込められ、玲子は自力で立ち上がった。
「ありがとう、大丈夫」
立ち上がってぱたぱたと尻餅をついたスカートの後ろへ両手を回して払う音をさせて、玲子は首を傾げた。
「どうしたの? 三橋くん」
「えっ? ああ……いや」
尋ねられてはじめて、手を差し出したまま中途半端に腰を屈めた間抜けな体勢でいることに気がついて背筋を伸ばした。
「どこかへ急ぐのじゃないの?」
「病院帰り?」
二人同時に問いかけた。
俺の問いかけにぴくんと震えて、玲子の大きな目が俺をじっと見詰めた。
猫が何かを察知したときに顔を上げ、目を見開いて髭をわずかに震わせる。
それをそのまま人間の少女に置き換えたらこうなるだろうという反応で、一呼吸おいて玲子はゆっくりと微笑んだ。
「ええ、お友達のお見舞いに」
さらりと玲子は俺が想像していた通りの答えを返した。
目元を先に細め、次いで閉じた口元が心持ち弓形に吊り上がる。
その微笑みの動作。
一流の詐欺師と三流の詐欺師の違いはどこにあるのか――ふと、そんな話が頭をよぎった。
本じゃない……雑誌か、もしくは三田村の店で耳にしたのか。
『違いは、主に二つ。一つは表情。特に笑顔だ。目は口ほどにものを言うが、感情の窓なんだな』
耳の奥に普段馴染みのない大人の男の声が甦った。
そうだ、三田村の店の、常連の誰かが話していた。
三流の詐欺師は相手に笑いかける時、口元から先に笑みの形を作って目が後を追う。
人間の視覚情報を侮るなかれ、見る者はそこで無意識のうちに感情が伴わない笑みに違和感を覚える。
一流の詐欺師はそんなヘマはしない。
きちんと目元から表情を変化させるのさ。
達者な役者の芝居と同じ、感情を表情に乗せるんだ。
いや芝居じゃないな……その一瞬は、本当にそう思い込んでいるんだ。
もう一つは嘘。
三流の詐欺師は嘘をつく。
嘘を維持するため、嘘の上塗りをして言動が破綻をきたす。
一流の詐欺師はそもそも嘘をつかない。
ただ黙っている。
判断を左右する重要な情報は伝えない。
知られて構わない情報だけを選びとって開示する。
それを聞いた人がどう解釈したって知ったことじゃない。
後で被害者に責められても、嘘は言っていないと堂々と反論できる。
事実嘘は言っていないのだからと――そんな話だ。
「三橋くんも……病院? 診察?」
「どうして?」
「風邪、引いてたし。それにもうすぐ外来の受付時間終わっちゃうから、それで急いでいたのかなって」
まるで探偵のようだと思いながら、違うと否定した。
「そう? でもまだ声ちょっといつもと違う感じに聞こえるね」
「玲子を追ってきた。その、書庫のことは……」
言いかけて、どう説明したものかと口籠った。
どうしたって、佐竹の行動から説明しなければならない。
それを話したところで、ますます玲子を不愉快な気持ちにさせるだけではないだろうか。
玲子の側から考えればそれを説明する俺は、すべてを佐竹のせいにしている卑怯な男にしか思えないだろう。
「……困ったな」
「三橋くん」
静かな呼びかけに、煩悶から我に返った。
玲子はそんな俺を上から下まで一通り眺めるように視線を移動させてから、くすりと微笑んだ。
「どうしたの? 擦り傷かな……おでこのところ少し」
「え、ああ……」
言われて額に手を当てる。たしかに薄い引っ掻き傷のようなものがあった。
気がつかなかった、たぶん書庫のドアとぶつかった時についたのだろう。
「ちょっとドアにぶつかって、書庫の鍵開けてくれた人とタイミングが上手く合って。いや合わなかったからこうなったのかな? えっと」
「病院じゃないなら……もしかして、わたしを追いかけて?」
躊躇いがちな問いかけに、素直に頷く。
「どうして? わたしが病院にいると思ったの?」
「この前、薬貰いに行った時に見かけた気がしたんだ。ちょっとだけいい?」
道の端で向き合い立ち話しているのも妙だと思い、川の側へ誘えばこくりと玲子は頷いた。
「君の家行ったけど帰ってなさそうだった。本屋をのぞいてもいなかったから……」
玲子の鞄を持って左肩にかけ、二、三メートル戻った場所にあるコンクリートの階段を下りて、細長い原っぱになっている川辺のふかふかした草の地面を歩く。
さらさらと水が流れる音と川面を撫でる風に玲子はうっすらと目を細め、肩から前に滑り落ちる髪の毛を耳の後ろにかけて、佐竹の事には一言も触れずに俺に再び問いかける。
「どうして家にいないってわかったの? あ、もしかして訪ねてくれた?」
「いや、窓を見て」
「窓?」
「君、帰ったらすぐに部屋の窓開けるだろ? 振り返って、サンルームの上の部屋の窓が開くの何度か見かけて」
ぴくんと玲子が大きく瞬きをして、俺の横顔を斜めに見上げた。
「三橋くんって、探偵みた……」
玲子の言葉が、途中で途切れる。
ほんの一瞬。
考えるより先に、俺を見上げた玲子に被さるように俯けた顔を上げる。
触れたのかどうかすら怪しい、儚い感触。
目を見開いたままでいる、桜桃の、唇をした少女……。
「本條玲子に……」
「え?」
ゆらりと、黒目がちの眼差しが不安げに揺れる。
何故、そんな不安げな表情をするのだろう。
「“本條玲子にキスできた男が、彼女を呪いから解放するだろう”って」
「え?」
さわさわと夕暮れの風が吹き出す。
ほんの数分のうちに周囲は薄い藍色から淡い紫色へと色を一段深めて、いつの間にか二人して立ち止まっていた。
「第一図書室にいた俺の前に君が初めて現れる前。三田村からそんな噂話を聞いたんだ」
「そう」
「だからあんな二択の告白を?」
玲子は答えず、黙っている。
「話を元に戻すけれど、書庫のことは弁明しない。鍵をかけ直して立ち去ったことは釈然としないけれど、結果的に出られたし、君が見て思って判断した通りでいい。けれど俺はっ」
「言わないで!」
いつもの玲子から想像できない、叫ぶような声。
俯いた玲子に驚き、俺は眉を顰める。
「玲子?」
「鍵をかけたことはごめんなさい。だからお願い。言わないで……三橋くん……」
「いやそんな、気にすることじゃ……。それにそうではなくて」
困惑した俺に、玲子は深々と詫びるように腰から直角に頭を下げた。
違う、そうじゃない。
なにか、なにかが……それまで淡々としながらでも相違がなかったなにかが。
理由のわからない焦りに俺は混乱した。
ちゃんと掴まなければ、ここで捕まえなければ……。
「玲子。君……」
少しだけ頭を持ち上げ、けれどもまだ垂れ下がった髪に顔が隠れて見えない玲子に囁くように。
そろりと呟く。
「君は、何故……」
俺が好きなんだ?
しかし問いかける寸前、けたたましいクラクションの音が俺達二人の間に割り込んだ。
はっと玲子が頭を上げて道路を振り仰ぐ。
普段見るのんびりと優雅な彼女の振る舞いと、どこかちぐはぐな俊敏な動きだった。
「あら?」
まるでなにか思っていたものと違ったものを見たような、怪訝そうな表情を玲子が浮かべる。
遅れて彼女の目線の先を追えば、見慣れた仰々しい黒塗りの車が停まっていた。
俺達の注意を引くように、再びクラクションが二度鳴った。後部座席の色をかけた窓ガラスがゆっくりと下がって開く。
「おーい、洋介!」
窓から首を出した人物に、俺は呆気に取られた。
「……叔父さん」
「えっ!?」
俺を仰ぎ見た玲子に軽く肩を竦め、「……兼、父」と伝える。
子供のように羽織の片腕まで突き出して、袖を揺らしぶんぶんとこちらに向かって手を振っている。
「三橋くんの叔父さま。で、お父さま」
「うん」
――先生っ、出るならドア開けて出てくださいよっ……!
叔父がさらに身を乗り出そうとしているのを、誰かが止めている声が小さく聞こえた。
おそらく内弟子の透さんだ。
「おぉぉい! なにをしているんだ? もう日が暮れる時間まで若いお嬢さん連れ回しちゃあ駄目だろう。乗っていきなさい」
「だってさ」
くすくすと玲子が笑い声を漏らす。
先程の不安げな様子などまるでなかったような、いつも通りの玲子だった。
「言い出すと聞かないんだ。あんな悪目立ちする車だけど、諦めて一緒に乗って」
なにしろ俺が堅気じゃない家の息子だと、勘違いされる元凶となった車だ。
「おかしな言い方」
「家まで送るよ。送り届けるのは僕じゃなくて叔父さんの車だけど」
「三橋くんって、変なところで厳密だね」
「そう?」
玲子を促すように先に進みでた俺は背中を向けたまま応じた。
「うん」
“だから、言わないでほしいの……”
「えっ……?」
たしかにそう聞こえた。
慌てて振り返ったけれど、唇を閉じてきょとんと首を傾げた玲子と目が合っただけだった。
「どうしたの、三橋くん?」
「いや……なんでも」
その時、どうして聞き返さなかったのだろう。
近い未来で俺は何度そう思ったか——けれどその時は知らなかった。
車が停まっている少し先、小さな歩行者専用の橋の側から再び道路へ戻って玲子と叔父の車に近づき、ドアを開けて車から出て来た叔父に対し、三田村と出会った時同様に丁寧な挨拶をする玲子を後ろから眺めていた、俺は。
綺麗なお辞儀をする玲子の後ろ姿を見つめ。
ただ漠然とした不安に似たものを感じていた。
なにか、なにかが……それまで淡々としながら相違なかった。
そう。
重なっている状態に近かったなにかが、互いに別々の方向へと距離を開け始めた気がしていた。
どこまでも交わる事のない、平行線の間の幅が広がったように——。
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