本條玲子とその彼氏

ミダ ワタル

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38.等しい距離

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 舞台の匂いは独特だ。
 冷たく乾いた埃っぽさと木の匂いと微かな金属の匂いが混じる。
 新しい、木の匂いが濃かった――。
 最初が。
 この季節が。
 この響きのホールであるのならば、もっと年月が経ち空気が乾燥する冬場は?
 玲子の作った静寂は、どこまで俺の音を響かせてくれるのだろう。

 sans rigueur ――堅苦しくなく、テンポを自由に動かしながら。

 どういうわけかいまやすっかり演奏曲の定番となってしまった。
 しかもプログラム最後の曲と、順番までもが決まっている。
 アンコールが想定される独演会では、アンコール曲として控えておいてほしいといった要望を受ける。苦笑しつつもその通りにしている。
 一種の様式、わかりやすい記号があるのは便利でもある。
 独演会の構成にさほど悩まないですむし、専門誌等の記事を書く人々も書きやすいようであった。
 緑風を卒業して進学した普通の大学で美学を専門に凡庸な日々が二年程過ぎた、ある日。
 ふと、なにか腑に落ちてそのまま、帰り道になんとなく買い食いでもするような調子で俺は正式に一門へ入ってしまった。
 なにやら各々感慨深げであったり神妙な面持ちでいる、一族の面々や各支部長が並ぶ前で頭を下げていた時もぼんやりしていた。
 なにか頭のてっぺんに細い糸をつけられて操られて動いているような、自動機械のように何も考えていなくても動いているような感覚であった。
 叔父だけは見抜いていたようで、顰め面と心配そうな表情を交互にみせながら、しかし概ね顰め面であった。
 親族会議ともいえる集まりの場での挨拶を澄ませ、自分の部屋がある離れに向かおうと母屋の廊下を歩いている途中で叔父に呼び止められた。

「洋介。お前、自分で一門に入るってどういうことかわかってるか」
「え? はあ……まあ、叔父さんの後継者になる可能性もなきにしもあらずになってしまうかなと……」
「馬鹿言うな。そんな事は果てのその先の話だ。門下生のいろはのいも知らん新入が思うことじゃない」

 これまで散々そういったことを言い聞かせてきて、入った途端に掌を返すような理不尽さではあったが、たしかにそうであった。
 俺は、一門の弾き手としては何一つ三橋流のことを知らない。
 弾いてはいたが詩織の見よう見真似のほとんど我流であったし、門下生を見てもいたが俺は音でしか判断しておらずどう絃を操ればどう鳴るかに言及したまでのことで、文字通り門外の者なのだった。

「なるほど」

 それは少々大変だ。
 今後、卒論だの就職活動だのできっと忙しくなる。
 日課ついでにあらためて真面目に修練するつもりでいたが、十年以上も好き勝手弾いてきたのをいまさら基本中の基本から一旦型に嵌め、またそこから自分なりの解釈を加えていくとなると。

「骨が折れそうだな……」
「心配するな。お前は透の下につける」
「は?」
「私がいる時はもちろん私が、いない時は透が指導する。卒業までに仕立ててやるから安心しろ」
「いや、あの……別に、そんな急いでする必要は。というよりそんな軽いものでもないでしょう一応」

 連綿と継承してきたものは技術とも知識とも思想とも異なり、形はなくとも何百年と伝え続けられてきただけのものではあるはずだった。そんな即席のようなものではない。

「なに言ってんだ。お前の場合、足りんのは形の部分だけじゃないか」
「叔父さん?」
「物心つくかつかないかの頃から、一門の誰より奏でることに向き合い音を追い求め弾いていたのは、洋介、お前だろう」
「はあ」
「まあ、そういうわけだから今日より覚悟しろ。私は身内に甘いが弟子には厳しいからな」

 呵々と笑い声を立てて去っていた叔父の言葉通り、その日から夜は基礎から叔父がそれまで研究してきた理論まで叩き込まれる日々がきっかり二年。
 正直、就職活動などする余裕はなかった。まあ、結果として一門の指導者と奏者の立場となって食っているのだけれど。
 その間、玲子本人直接からの便りは一度もなかった。
 あの、設計図。このホールの図面以外には——。
 
 ジャン——。
 
 短く、一度掻き鳴らし高い音から順番に、煌めくような響きで音が少しずつ低い音へと転がり落ちていく。
 低い音は塊となり粒立って跳ね、高い音は手元で鳴らしているはずなのに上から降ってくる。
 そんな響きだ。
 小規模なホール全体を包み込むような残響。
 最後に弾く曲は決まっている。
 なにより俺自身がこの曲を弾いた後で、立て続けに何か弾く気が起きない。
 ああ、贅沢なホールだ。
 ここは、邦楽専用でも室内楽専用でもないはずなのに。
 客席数は500席。明らかに音響性能を優先し設計されている。
 ホール全体の形状、広さ、客席、天井、床、壁、舞台、出入口のドア、屏風や幕……すべてだ。
 すべてがここにある。
 リハーサルの前日に誰もいないホールを確かめたかった。
 いや、誰にも邪魔されずに会いたかったのかもしれない。
 彼女に。
 本條玲子に。
 本條玲子が知る、静寂に。
 俺の節の目立つ筋張った手が、絃を弾き、押さえ……もうとうに客席も劇場も、俺には見えない。


  “生い茂る牧草に腰をおろし、朝まだき歌うは誰。
 それは亜麻色の髪の乙女、桜桃の実のくちびるをした美しき少女

 お前の唇は神聖さを湛え。嗚呼、愛おしき君よ。口付を誘う。
 長き睫に、美しきお下げ髪の乙女よ。繁る草の上で語らわん

 夏の明るい陽をあびて、ひばりとともに愛をうたう
 否やと言い賜うな、つれなき乙女よ。是と言い賜うな

 嗚呼、大きな瞳を薔薇の唇を 永遠に見詰めるを願わん……”
 
 
 永遠に見詰めるを願わん——。
 たぶん、きっと。
 俺は、玲子は、同じものを見詰めていた。
 俺は音の向こうに。
 玲子は静寂の向こうに。
 そこにある、なにか美しいものを。
 好きとか嫌いとか個別の心情や思惑よりも前に。
 俺と玲子は噛み合っているようで最初から噛み合ない二人だった。
 別々の、各々が立つ地点から、等しい距離で同じものを見詰めていた。
 それが触れ合うのは、いま、こうしている時しかない——。

「玲子……」

『三橋くん、きっととても静かだと思うから』

 そうなのかも知れない。
 けれど、俺は奏でずにはいられない。
 俺の音は玲子の生み出す静寂を破るだろう。けれど俺の音は静寂がなければ響かない。
 噛み合っても交わらない。

「……玲子」

 あの日——定演会の日。
 俺の演奏に対し、すごかったと一言だけ感想をいって、さよならとなんでもない別れの挨拶をして背を向けた玲子になにも伝えられなかった。

 音は——。
 常に、静寂を伴う。

『しんと静かになる。演奏直前になにもかもが沈黙するような……ホール独特の静けさが好きなの』

 俺が伸ばしかけた手の、指先十数センチ離れて玲子がそっと目を閉じる。
 あの日、あの時に俺ははっきりと。 
 本條玲子に恋をして、そしてすぐさま終わった——。
 彼女の恋が成就してはいけないものだったからではなく。
 ほんの一瞬の静けさが生み出す張り詰めた美しさと、その静けさのために奏でられる音とに、それぞれ魅入られている二人であることを彼女が示して、少しばかり時間をおいて俺が頷いたというだけの。
 ただそれだけの話である。
 

<完>
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