桟田譲児とその家族

ミダ ワタル

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第三話

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「桟田君、どうして……?!」

 本の貸出のやりとりで覚えられたのだろう。
 図書室の本を借りる時は借りたい本の最後についている貸出カードに学年・クラス・氏名を書いて図書委員が処理しないと本が持ち出せない。
 名乗った覚えのない名前付きで驚かれた。

 驚いた顔を見つめる目線より下の位置で、左右に分けて三つ編みにした髪の毛先が小刻みに震えている。
 だれも入れないようにしていたのに、といった言葉が続きそうだったが黙っていた。
 説明が面倒でおれは手の中にあるものを本を借りる時以外に言葉を交わすこともない同級生の少女に見せる。
 指にひっかけた細い鎖を通して合鍵がおれの掌を背景にぶらぶらと揺れる振動が伝わってくる。もちろん無断で作ったものだった。
 少女の眉がきゅっと寄って、批難も明らかな目がおれを見た。

「なに? 合鍵を作ってはいけない規則はないはずだ」

 おれの言葉が癇に障ったらしい。少女の頬に赤味が差した。

「そんな規則あるわけがない。誰もしないし思いもしないことだもん」
「誰もしないことはない、現にしてる」
「そんなの」
「あまりに予想通り過ぎる反応で詰まらない……」

 顔見知りでむこうはこちらの名前を覚えているが、こちらは名前を知らないことに気がついて少し言い澱んだ。とはいえ、いまのやりとりに支障は無いと思い直して、そのまま続ける。

「鍵は自前で作ってるし。管理には十分注意して、利用時間外に入った時は本は持ち出さず、部屋を出る時は入る前と変わらないようにしてから出てる。少なくとも生徒で鍵を預かっている役目のくせに貸出しカウンターから手を伸ばせばすぐ届く位置に放り出すようないい加減なことはしていない。実質、何も問題は起きてもいないし」
「問題ないからって、やってもいいってわけじゃない」
「なら、理事長室なり職員室なり駆け込んで、この事を報告して訴えればいい。別に止めない。……どうしてその事を知ったかも聞かれるだろうけど」

 おれが少女のすぐ側の書棚へと目をやれば、彼女はびくんと怯んで縮こまった。その顔は罪が発覚した時の罪人のような狼狽の色が浮かんでいた。

「当然おれも事情を聞かれるだろうから、鍵のこと以外にも、おれと同じように下校時刻もとうに過ぎた遅い時間に学校に居残って、私物らしい本を本棚の裏側に隠そうとしていた図書委員と偶然出くわした経緯を説明するしかないけど」
 
 少女の足元の床には数冊の本が積み上げられていた。
 デカルト、カント、ショーペンハウエル、ニーチェ……。
「哲学/思想」とくすんだ真鍮の細く薄いプレートが貼り付けられている棚。
 本を抜いた棚の裏板は一部分が外れ、奥にデッドスペースなのか教科書と一緒に使っている辞書くらいの厚みの本が収まるくらいの空間があり、床に積まれた本には思想全集とは色もサイズも違う一冊が混ざっていた。
 立ち枯れた無数の蜂巣と咲き誇る花が混在する蓮池に、焔に包まれ恍惚とした表情を浮かべる女の白い裸身が極彩色で描かれた函入の美装本。
 どうしてこの本がこんな場所に。おれもまた動揺していたが彼女に悟られないよう必死で平静を装っていた。

「なんの事? たしかに下校時間は過ぎちゃったけど私は帰りがけに本の並びがおかしい棚があるのに気がついたから整理してただけで」
 
 苦しい言い訳だなと思ったが、案外、それで誤魔化せるかもしれない。
 ここは図書室で、彼女は図書委員だ。
 鍵をかけていたのはやや不審だが、閉館後に他の生徒が入らないようにしていたとでも言い訳は立つ。図書委員が遅くまで書棚を整理していただけ、誰もその本が蔵書かどうかなんて確認したりはしない。
 彼女は運が悪い。
 見つけたのが他の誰でもないこのおれだった。

「桟田依子の『涅槃』……そんな情痴小説、学校の図書室にあるわけがない」

 情痴小説……おれの言葉に反応し、真っ赤になった少女を見て、おれは口元を吊り上げた。
 無理矢理に作った笑みだった。
 たしかに流通には乗っていた、乗ってはいたがたったの100部しか刷られなかった私家限定本が何故ここに。
 どうして彼女みたいな少女が持っているのか。
 作家として十五年、三十五歳を迎えた母の為に父が作品を選んで金を出し、函と装丁は画家が、編集作業と出版を編集者が手掛けた短編集。
 熱心な母の読者と母への、プレゼントを兼ねた遊びのようなものだった。
 採算度外視の豪華さで作って、好きじゃなきゃ誰が買うかという値段を付けて出した。母の最後の本。

「……がい」
「ん?」
「……お願い黙ってて。桟田君の鍵のこと黙ってるから」

 弱々しく震える声が哀願した。

「取引? 大人しそうで意外としたたかなんだな」

 他の人間に喋るつもりはなかったが、少女がそう言うのなら乗ってもいいかと考えた。そもそも鍵のこと自体、教師に告げられようがどうでもいいことで、ただ、どうしてそんなことをしたのかと教師側が納得するまで理由について聞かれたり説教されたりと面倒なことを避けられるのなら、それに越した事は無い。

「図書委員だろ、同じ一年の」
「……七組の、笹本頼子」

 ササモトヨリコ……ヨリコ——。

 名乗りながら上目遣いにおれの顔を伺うように見た少女をおれはあらためて眺めた。
 顔も体も全体的に細くて、病人みたいに青白く、薄い唇がどこか酷薄そうな色気を感じさせ、同じヨリコでも、おれの知るヨリコと対照的だと思った。
 これが。
 後に籍を入れ、ある日突然出奔し、追いかけたおれを拒絶して別れることになる妻・頼子との出会いだった。
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