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④はじめの一歩
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④はじめの一歩
――――貴方はどっちを選ぶ?
さわやかな香り。
優しさで包みこまれる、愛おしさ。
『俺と一緒に歩いて行こうぜ?』
伸ばした手の先に輝く未来があるから。
『いつまでもずっと、一緒にいる』
甘い香り。
まるでそれは駆け引き、ときめきが止まらない。
『俺の隣にさっさと来いよ』
掴まれた手の先に輝く未来があるから。
『いつまでもずっと、俺のもんだ』
――――ほら、貴方はどっちを選ぶ?
「「香りが君から離れない」」
「あっはは! どんな二人か知ってて見るとすごく笑えるわね!」
パソコンの画面に映し出されているそれに、尚斗は痛む頭を抱えた。
「いや姫蕗社長、笑わないでください」
「撮影もめちゃくちゃ恥ずかしかった・・・・・・」と呟けば、姫蕗は「でもいい感じじゃない」とソファに深く座り、足を組む。
「これ大好評で、予約ですでに売り切れたところもあったみたいよ?」
「それは良かったんですけど、恥ずかしさとは別問題だから……」
「――んで?」
今まで黙ったまま隣に座っている辰己も足を組み、その脚の上で頬杖をつきながら姫蕗に聞く。
「どっちの会社が勝ってんだ?」
それは尚斗も気にしていたところで、顔を上げて彼女を見た。が、彼女は満面の笑みを浮かべて言う。
「それは秘密」
「は?」
「へ?」
まさかの言葉に二人はポカンと口を開けた。それに対しても彼女はニコニコと微笑んだままだ。
「血の気の多い二人だもの。本気で勝負させるつもりなんてはなからないわ」
「…………」
確かにという言葉しか出てこないが、それはそれでどうなんだとも思う。
「ハッ! まぁ姫蕗さんの言葉は一理あるっつーか、確かにその方がいいかもな」
先に口を開いたのは辰己だった。
「ナオも俺と勝負するの嫌がってたわけだし?」
「ちょ、てめっ、そういうこと言うなっての!」
彼の暴露に、隣にある脚を叩くが「事実だろ?」と反省する様子は全くない。
「言っていいことと悪いことがあんだろ」
「お前が甘えたなのを隠したって今更だ、今更」
「てめっ、甘えたって何だよ。どっちかっつーとてめぇの方だろ!」
尚斗は恥ずかしさと苛立ちで声を荒げれば、「はいはい。ここで言い合いしないでちょうだい」と手を叩いた。今にも胸倉を掴まんばかりの尚斗だって辰己に負けないくらいの迫力はある。だが全然それを気にすることなく止めに入れる姫蕗は、流石不良をスカウトするだけある。
「とにかく。今回の香り男子の仕事に勝敗がつくけれど、それが貴方たちを左右することはないわ。だからいつも通り最高の姿を世間に見せてやりなさい」
「だとよ。良かったなナオ」
「うるせぇ。マジで殴んぞ」
横目で見てくる辰己に尚斗はフンと顔を逸らす。
「へーへー」
呆れたように言う彼に尚更苛立ちが増すけれど、「それで先日会議があったのだけど、今後も香り男子を続けることに決まったわ」と仕事の話に戻ったため、内心舌打ちをしつつも、顔を戻して姫蕗を見た。
「香水の次はこれ」
彼女が座るソファの隣に置いてあった白い紙袋をテーブルの上に乗せる。
「シャンプーですって」
「シャンプー?」
それを聞いた辰己が首を傾げた。
「ボディーソープとかなら分かるけどよ、何でシャンプーなんだよ。香りとかあんま関係なくね?」
「あら、そんなことないわよ」
姫蕗は言う。
「シャンプーだって色々な種類があって、それぞれに匂いも違う。髪質によっても選び方は変わってくるけれど、匂いだって大事な決め手よ?」
「風呂上がりなら匂うがよ、外であんまり匂うことねぇんだから適当でいいだろ、そんなもん」
「はい、その発言ひとつで辰己は女子の敵と見なされたわ」
「はー……面倒くせぇにも程があんだろ」
背もたれに寄りかかりながら両腕をそこに預け、大きく溜息をついた。
「貴方がどう思おうが今回の仕事はこれよ。先にサンプルもらったから、二人それぞれにイメージを固めておいてちょうだい」
「じゃあこれで話は終わり」と姫蕗は立ち上がって、二人の横を通り過ぎた。
「私は別件の会議に出るから先に失礼するわね」
「あ、俺送りますよ」
いつものように立っていた永原が姫蕗に声を掛ける。そして「お前らは適当にタクシー捕まえろ」と払うように手を振った。
「ちょ、俺たちのマネージャーなんじゃないんですか?」
「あ? てめぇらよりも社長の方が偉いんだぞ? 優先順位があんだよ」
「マジかよ……」
この業界ってそういうものだっただろうか。そう溜息をついた尚斗に、辰己は「俺らは俺らで久々に外で飯でも食わね?」と提案する。
「ここ最近街中に行ってねぇだろ」
「あー、確かに」
彼の言葉に尚斗は頷いた。
モデルになってから忙しいということもあったが、周囲にバレて騒がしくなるのが嫌で、自然と街に行かなくなった。学生の頃はゲームセンターとかでよく遊んでいたのに、今では最後に行ったのがいつだったかも思い出せない。
「んじゃ、ちょっと遊んで帰るか」
「おっし。決定な」
笑顔で立ち上がった辰己に、永原が「おいてめぇら」と姫蕗にドアを開けながら釘を刺す。
「面倒ごと起こすなよ? 噂なんかはすぐ広がるんだから、出来るだけ目立つな」
「はいはい」
本当に分かっているのかと問い詰めたくなる返答だったが、姫蕗を送る任務がある彼はそれ以上なにも言うこと無く、彼女と一緒に消えて行った。
「よーっしゃ! 俺たちも行こうぜ!」
いつものようにこちらの肩に腕を乗せ、機嫌良く「昼飯なに食いたい?」と聞いてくる。それに尚斗は「お前が食いたいもんで構わねぇよ」と言いながら、シャンプーが入った紙袋を手に取った。
これを持ち歩くのは面倒くさいけれど、仕方が無い。
「イタリアンもいいけど、定食屋もいいよなー」
悩みながら歩き出す。歩調を気をつける必要もなく、端から見たら随分うまい二人三脚だと思うに違いない。
「あんま食べないようなもんにすれば?」
「でもそれで失敗とかしたくねぇだろ」
「確かにそうだな」
冷静に頷く尚斗だが、内心子供のようにはしゃいでいた。
(なんか学生の頃に戻ったみてぇ)
久しぶりに街をぶらつくのが妙に嬉しい。だがしかし――――
「え、もしかして辰己と尚斗じゃね?」
学ランを着ている五人の声に、ピクリと尚斗は反応する。
結局イタリアンでも定食屋でもなく、焼き肉で満腹になった二人は、このままゲームセンターにでも行こうと向かっている最中だった。
尚斗が辰己に視線を向ければ、無視しようぜとその目が言う。絡まれたら少々面倒だ。もし喧嘩なんて始めればギャラリーが出来て、Boysの辰己と尚斗であるとバレてしまう。
元々喧嘩男子と言われているのだから喧嘩をしたっておかしいところはないけれど、じゃあ実際に相手を殴ってもいいのかと聞かれれば答えはノーだろう。
二人はこちらの道を塞ぐように並んでいる五人の隙間をぬって通り過ぎる、つもりだったが「おい待てよ」とひとりが尚斗の腕を掴んだ。
「春の悪夢っていう伝説、あんたらが作ったもんだよな?」
高校一年生、しかも入学式に先輩方をボコってトップの座を奪った。それが春の悪夢という名がついたことは二人も知っている。だがそんなもの何年も前の話だ。語り継がれているとは思わなかった。
「そうだったらどうした」
きっと聞く人が聞けば、その声は笑いを抑えたものだと分かる。そりゃ笑いたいわなと尚斗も口元を押さえた。
「あんたら、高校卒業と同時にモデルになったんだろ? 今や人気者だそうじゃねぇか」
ニヤニヤと笑う顔は学生時代何度も見てきたもので、今更こんな雑魚の言葉に苛立つ二人ではない――それはあくまでどうでもいい相手なら、の話だ。もしそれを尚斗が、辰己が言ったとしたら二人で拳を握っていただろう――このまま手を振り払い無視したいところだけれど、だんだんこちらを気にする野次馬が出てくる。ここでもし写真でも撮られてSNSに投稿されたら永原に殺されかねない。
「なぁ、ちょっと場所変えねぇか?」
尚斗がそう提案してみれば、どこか下品な笑い方でこちらを見た。
「ひぃっはは! 大変だなぁモデル様はよ。周囲の目に気をつけないといけねぇなんて、春の悪夢の名が泣くぜ?」
いや別にそれは名前ってわけじゃねぇんだけど? とまた笑いそうになるが、ここで相手を怒らせて殴り合いになるのは避けたい。
(どうすっかな)
尚斗が捕まれた腕を見ながら悩むと、相手の腕も誰かに捕まれた。それが誰の手なのか、考えずとも答えは分かる。
「おいてめぇ、そろそろナオの手、離してくんね? 腹立って仕方ねぇんだわ」
「タツ」
なだめるように名前を呼ぶけれど彼は引く様子はなく、そのまま歩き出した。
「あ? 離せよてめぇ」
「はは、喜べよ不良くん。春の悪夢に直々ボコられるんだからな」
辰己が引っ張ると自然と尚斗の腕も引かれ、そのまま一緒に裏路地へと連れて行かれる。
そこは人通りが少なく、昔ここでも喧嘩したなぁと懐かしくなる。だが今は思い出に浸っている場合ではない。
「ちょ、タツ。永原さんに怒られるぞ」
「バレなきゃいいだけだろ?」
ニインと笑う辰己はもう準備バッチリだと言わんばかりに首をコキと鳴らした。
「三十秒時間をやる。逃げてもいいし、俺らを殴ってもいい。このまま真っ直ぐ行った先にある公園の公衆トイレに隠れたっていい」
「あ? てめぇバカにしてんのか? ボコられるのはてめぇら二人だ」
「はい、じゃあスタート」
相手の言葉はまるっと無視し、パンと手を叩く。そして「いーち、にー」と呑気に数をかぞえ始めた。
「逃げなきゃいけねぇのはてめぇらの方だってぇの!」
「後悔すんなよ!」
「モデルなんて出来ない顔にしてやるよ」
それぞれが吠えるのを聞きながらも、まだ辰己はゆっくり数をかぞえている。それについにブチ切れたひとりが、「いい加減にしろよてめぇ!」と辰己に殴りかかった。
「…………ったく」
仕方が無いというように持っていた紙袋を壁際に置く。そしてザリとコンクリートの床を蹴り、尚斗は辰己の前に立った。そして手のひらをそちらに向ければ、パチンと高い音が響く。
大した振動もなく、こちらの手のひらの中に相手の拳が収まる。最近の若者はこんな弱い力しかないのだろうか。
「さっさと逃げなかったんだ。少しくらいは楽しませろよ?」
尚斗が鼻で笑えば耳に「三十」と最後の数が届く。それを合図かのように手のひらで受け取った拳を強く握った。
「いっででででぇ!」
「んじゃ、やるか。喧嘩」
握りしめられる手に悲鳴に近い声を上げながらなんとか逃げようと腕を引くけれど、解放してやる気はさらさらない。
尚斗は口角をつり上げて掴んでいる手を引き、彼の懐に入る。そして瞳を覗き込めば、こちらの迫力に負けたようで緊張に染まった瞳が見えた。だが止まる必要はない。三十秒も与えたんだ。それでも逃げずにここにいるということは、どうボコられても自己責任である。
「ほーらよ」
その作った拳を相手の頬にめり込ませた。
(あー、なんか久しぶりな感覚だな)
喧嘩両成敗とあるように、殴ればこちらの拳だって痛む。赤くすり切れている手の甲が男の勲章なんて思わないけれど、この痛みが尚斗は嫌いじゃ無かった。
「――――」
殴られた相手は何も言葉に出来ず、悲鳴すら上がらない。殴られた彼は汚れた路地裏の壁にぶつかり、ずるずる落ちていった。
それを見ながら掴んでいた手をポイと捨て、彼らに向き合う。
「あと四人」
ふらりと身体を揺らし、片足に重心を置く。そしてしゃがむようにして相手の視界から姿を消せば、四人は動きについていけず立ち尽くす。平和ぼけか? と呆れながら尚斗は顎下から殴った。
「ぐっ」
喉から零れた声とガチン! と歯がぶつかる音。それに「ひっ!」と残りの三人が恐怖に染まった。
「ったく。俺らをボコるんじゃなかったのかよ」
痛みから顎を両手で包み込むようにし、腰を曲げている彼に今度は腹に蹴りを思い切り入れて吹き飛ばす。そこには先ほどの先客がおり、ぶつかった二人は低く呻いた。
「おいおいナオ、勝手に独り占めしてんじゃねぇよ」
「そろそろ俺にもよこせや」と肩を叩かれ、尚斗は素直に「あ、悪ぃ」と謝る。一歩だけ足を引いて辰己の隣に立てば、「三人、か」と吟味するかのように顎に手を置き、そしてポン! と手のひらを合わせた。
「お前らさ、学生証は?」
そう言いながら伸ばす腕はそれを渡せと無言で訴えている。しかしのびていない三人は恐怖で表情で引き攣らせながら「誰が見せるかよ」と震える声で言った。
そのガッツは認めるが、今回は相手が悪すぎる。
「そうかそうか、んじゃ代わりに写メ撮るから、殴られとけ」
「え――?」
即座に反応できなかった三人だったが、理解する前に辰己に拳を振るわれた。
学生証を見せれば痛い思いなんてしなかっただろうに。
「手加減したのかよ」
「いんや?」
三対一の喧嘩に手加減なんか不要だろう。その台詞に逆に辰己が尚斗に聞く。
「手加減、必要だったか?」
「一応な」
尚斗は溜息をつき、ポケットからスマホを取り出す。そして伸びている五人を撮影した。
「こういのは意識が半分くらいあった方がいい。その方が恐怖が倍増するからよ。もう手を出してこなくなる」
再度パシャ、と響くそれは、いつも仕事で使われているカメラと比べたらなんと可愛いことか。しかし。
「お前、結構エグいよな」
「あ? モデルである自分を守るためだ。仕方がないだろ?」
「これを正当防衛と言ってのけるてめえが一番怖えんだよ、マジで」
辰巳が溜息をついてこちらを見てくる。だが「それでもいいけどよ」と付け足すように言い、「こいつら、もういいのか?」と問うた。
「写真も撮ったし、他の人に見られたとしても、こいつらが伸びているのがBoysの仕業なんて誰も思わねーって」
それにここらの裏路地に誰かが倒れているのは日常茶飯事で、通行人もそれらを見たとしても喧嘩したのに敗れたんだー、なんて平和に思うだろう。
(前は何にも気にせずにボコってたんだけどな)
綺麗に写真が撮れているか確認する。
頬が赤く腫れているがそこまで顔の形が変わっているわけではない。誰が誰かちゃんと分かるのなら問題はない。
「んじゃ行くぞ、ナオ」
「あいよ」
スマホをポケットにしまい、置いておいた紙袋を持って二人で歩き出す。
表通りは人が多いけれど、まさか今の今まで学生をボコっていたとは誰も思わないだろう。
(これが学ランだったら全然違うんだよなぁ)
まだ彼らくらいの学生だった時は、表でも裏でも喧嘩をした。チラチラと遠巻きにこちらを見る連中は二人と目を合わせないように通り過ぎていく。それはあの不良校の学ランだと分かっていたからだ。
有名な不良校に通う二人に自ら声を掛けるのは警察、そして我らが社長の姫蕗だけに違いない。
「あー、喧嘩すんの久々だったわー」
伸びをしながら隣を歩く辰己は言った。
「モデルになってから街からも遠ざかってたし、あんま絡んでくる奴もいなかったからな」
「でも春の悪夢とかいつの話だよ。どういう噂になってんのか聞いとけば良かったわ」
「つか俺らの顔見てそれが分かるとか、実は卒業アルバムとかで見てんじゃねぇの? こいつらが春の悪夢だーってな」
「そんなもん知ってどうすんだか」
尚斗は溜息をつく。だが「相手はまだガキんちょだぜ?」と辰己は鼻で笑った。
「そういうのが面白かったりするんだろ」
「理解しがてぇな」
そう言いつつも、自分たちも番長潰しとかを楽しんだタチなので完全に否定は出来ない。
(俺らもあんなバカだったんだろうな)
喧嘩の思い出なんて何も綺麗じゃない。全部が全部簡単にカタがついたわけでもないし、頭から血を流したこともある。
それでも感じてしまう懐かしさに尚斗は自嘲するように口元だけで笑った。
もしモデルをしていなかったら自分たちはどうしていたのだろう。大学に通うつもりもなければ金もなかったから、きっと就職先を適当に探して、それなりに生きていたかもしれない。
だが一番思うのは、その未来に辰己がいるかどうかだ。
今は一緒にモデルをすることになったから隣にいるけれど、この先もずっと一緒だという確証はない。もしかしたらBoysではなく、個々に活動する可能性だってあるのだ。それを止める力を尚斗は持っていない。
(学生の頃は良かったなんて思わねぇけど)
何の理由もなく傍にいられるのが、今となっては羨ましい。
(ん、羨ましい?)
悲観モードに入っていた尚斗はハッとして、今しがた思い浮かんだ単語に首を傾げた。
確かに辰己とはこれからも友達、親友、相棒、それらの関係でいたいとは思うけれど、永遠に一緒にいるなんて無理だろう。連絡を取り合うことはあるかもしれないが、学生の頃のように顔を合わせる回数は減るに違いない。
(なんだ?)
そう思った瞬間、胸の辺りがチクリと痛む。そしてそこからモヤモヤしたものが溢れ出てきた。
中学生から一緒にいたのだ。突然隣から消えてしまえば動揺もするだろうし、慣れるまで時間は掛かるだろう。
(俺はそれが嫌なのか?)
このモヤモヤの正体は辰己が自分から離れたあとはどうなるのか不安なのかもしれない。
(だからって学生時代を羨むとか、単純にもほどがあんだろ)
「ナオ? おいどうした」
不意に耳に声が届き、ビクッと尚斗は驚いた。
「え……あ、なんだ?」
「それは俺の台詞だっつの」
ハッとして辰己に視線を向ければ呆れたような顔をし、親指で自身の背後をさす。そこには目的地であったゲームセンターがあった。
「ゲーセン行くっつってんのに、通り過ぎてどうすんだよ」
「あー、悪ぃ悪ぃ」
頭を掻きながら笑う。
「ちょっとボーッとしてたわ」
「ふーん」
そう答えた尚斗を辰己は目を細めて覗き込む。それに一歩下がって逃げれば、下から見上げるようにこちらを見て「帰るか」と呟くように言った。
「え? 帰るって?」
「ゲーセンはまた今度。帰ろうぜ」
クルリと反転して歩き出す彼に、尚斗は「おいちょちょちょっ」と腕を掴む。
「もう目と鼻の先だろ? なんで帰るんだよ」
「気が変わった」
「はぁ?」
辰己のわがままには慣れているけれど、今でも一体なにを考えているのかは理解できないままだ。
「家でのんびりしようぜ」
「ちょ、おい待てよ」
さっさと歩き出した辰己の後を追いかければ、大通りに出て止まっていたタクシーを捕まえる。どうやら本当に帰るらしい。
「おいタツ」
「いいから。おら」
先にタクシーに乗り込んだ辰己は尚斗の腕を引っ張り座らせる。そして運転手にマンションから少し離れたところを言うと、そのまま静かに発車した。
「はぁ、てめぇはいつも唐突だな」
窓の向こうを見ながら溜息をついて言うと、クツクツと笑い声が返ってくる。それに不満を覚えた尚斗が隣を見れば、どこか嬉しそうな顔をしてこちらを見ていた。
「……なんだよ」
「いいやぁ?」
「その顔と言い方、すっげぇ腹立つんだけど」
「はは、こうさせてんのはてめぇだろ」
「さっきから訳分からねぇし」
もう付き合ってられないとまた窓の外を見れば、「まぁ許せよ」と辰己がトンと肩をぶつけ合わせる。
「久々に絡まれたからな。それに興奮してんだきっと」
「……変態か?」
そういう趣味は無かったと思ってたけどと続ければ、辰己はまた笑い、そうだなと頷いた。
「男は全員変態なんだよ」
「あっそ」
これ以上話していても核心には触れさせる気がないことを察し、尚斗はぶつかる肩もそのままに黙って窓の外を見続ける。すると辰己が少しだけこちらに体重を預けてきたがそれも無視し、到着するまで口を開くことはなかった。
「ただいまーっと」
「おかえり、んでただいま」
「おう。おかえり」
二人は言いながら靴を脱ぎ、リビングへ。
高い位置にある部屋は太陽の光で明るく照らしてくれていた。
尚斗がテーブルに紙袋を置けば、辰己が「どれどれ」と中を覗き込む。先ほどまで一切興味も関心もなかったのに。
「あー、なるほど」
勝手にひとり納得をする辰己に、尚斗はソファに座り後ろから覗き込む。
「なにか分かったのか?」
「いや別に」
紙袋から取り出されたボトルは二本。片方は紫色で、もう片方はクリーム色だ。パッケージのデザインは香水と似ていて、香り男子第二弾であることが分かる。
それを見た尚斗は「あ、なるほど」と、辰己と同じことを口にした。
「だろ?」
「確かにそう口に出るな」
うんうんと頷く。そして自分が担当するクリーム色のそれを手に取った。
「リンスはついてねぇの?」
「香りが一緒だから必要ないんじゃね?」
「意外とケチケチしてんな」
「先に寄越した理由もイメージを固めるためなんだろ? 匂いさえ分かればいいと思ってんだろうよ」
辰己ももう片方のそれを持って、デザインを見る。
「香水と似た匂いすんのかな?」
尚斗がボトルを開けようとすれば、「ちょっと待った」と辰己がストップを掛けた。
「なんだよ」
それに首を傾げると、辰己は尚斗が持っていたボトルを奪い、立ち上がる。
「なぁ、折角なんだ。ちょっと使ってみようぜ」
「このシャンプーを?」
「これ以外何があんだよ」
呆れたように辰己は言い、そして「おら、風呂行くぞ」とソファに座る尚斗の膝を軽く蹴った。
「ちょ、は? 何で俺も行くんだよ」
「二人で入るからだよ」
「……は?」
尚斗は一瞬にして固まった。
「二人で入るって……一緒に?」
「そうした方が互いのシャンプーの匂いが分かるだろ」
「いや、ここでボトルを開ければいいじゃねぇか」
「直接嗅ぐより、洗い終わった髪の毛の匂い嗅ぐ方がより本物だろ」
「なら別にいつもみたいに別々でもよくね? 風呂から出てくれば匂うだろうし」
「あー、もう面倒くせえな」
不機嫌そうに舌打ちをした辰己だが、舌打ちをしたいのはこっちの方だ。本当にこいつは昔から気分屋だなと、慣れた筈のそれが腹立たしい。
もう部屋にこもってしまおうと立ち上がれば、辰己が「ナオさんよぉ」と喧嘩腰で名前を呼んだ。
「もしかして恥ずかしいとか? 今まで何度一緒に入ってんのによ。あー、それとも」
辰己は笑った。
「俺のこと、意識しちゃってるとか?」
「お前もやっぱ変態じゃん」と言う彼に、尚斗は頭の中で何かが切れる音が聞こえた。
「は? なに言ってんだてめぇ」
「ちげぇの?」
「ちげぇに決まってんだろ」
「へー?」
分かっている。これは挑発しているだけだと。その言葉が本心ではないことも。だがそれを受け流すことが出来れば、喧嘩男子になんてなっていない。
「いいぜ。昔みたいに一緒に入って背中流してやんよ」
「はは! そうこなくっちゃな!」
笑う辰己に、尚斗は担当する方のシャンプーを奪い取り、「おら行くぞ」と浴室へ向かった。
「つーか、今までもデカいと思ってたけどよ」
男二人が裸で浴室に立つ。普通ならば肩が当たるか当たらないかの広さだろう。しかし。
「二人で入っても余裕あるとか、ガチでやばくね?」
「やべぇな……」
まさかここまで広いとは。一人で入る時よりも広く感じる。
二人一緒に関心していたが、ハッとした尚斗はシャワーヘッドを持ち、高い位置へ引っかけた。
「湯、出んぞー」
手前にいる自分には当たらないことを知りながら思い切り蛇口をひねる。するとシャワーを一気に浴びた辰己が「おいこら!」と文句を口にした。
それにケラケラ笑えば、腕を引っ張られ「おわ!」と尚斗も頭からお湯を浴びる。
あっという間に濡れた二人は手にしていたシャンプーを、誰も座っていないバスチェアに置く。そして手のひらにプッシュした。
「もう少し使った方がいいんじゃね?」
「あー、確かに」
目的は香りだ。沢山使った方が匂うだろう――多分。
尚斗は四、五回プッシュし、手のひらが艶のある白い液体でいっぱいになる。それを零さないように一気に頭の頂点で手をひっくり返した。
「おあ! つめて!」
「お前、もっと丁寧にやれよ」
辰己もシャンプーを手に取って、ゆっくりそれを髪の毛に馴染ませた。
中学生の頃は適当だったくせにと尚斗は舌打ちしつつも、髪の毛で泡立たせる。
いつもより多くシャンプーを出したからか、それとも元々泡立ちやすいのか。どんどん頭が泡だらけになっていく。
「タツこれ、って……あはは! タツもすげぇ泡!」
泡立ちやすいシャンプーなのか彼にも問おうと思い視線を向けると、前髪をオールバックにした状態で、顔を上げたまま頭上だけが白い泡にまみれた状態だった。
メンズ用のシャンプーのCMで、こんな風に泡だらけになっているものが昔あった気がする。
「超泡だってんな! 漫画のキャラクターでそんなのいた気がするわ」
「俺のこと笑ってっけど、てめぇも随分泡だらけだぜ?」
「すっげぇ泡立つよなぁ」
ワシャワシャと髪の毛をかき混ぜるように洗っていると、「あ、そうだ」と本来の目的を思い出す。
「匂い! 匂いどうだ?」
「あー、そうだったな」
「完璧忘れてたわ」という彼はどこか明後日の方向を向いていて、やる気が無いようだ。
尚斗はほんとに気分屋だと呆れるが、そのまま顔を近づけて匂いを嗅ぐ――すると彼は驚いたように一歩下がり、「な、なんだよ」と表情を歪めた。
「いや、どんな匂いか確かめてみた」
「お前なぁ、突然するんじゃなくてちゃんと前もって言えよ」
「はぁ? ンな必要なくね? 面倒くせぇ」
スンスンと鼻を動かしながらまた辰己に顔を近づける。
「やっぱ前と同じような甘い匂いがすんな。薔薇のような気がすっけど、そこまで濃い匂いじゃねぇから丁度良いな」
「――――っ」
頭だけではなく首筋にも顔を近づければ、ゴクリと唾を飲み込んだ音が聞こえた。
「タツ?」
「っ、なんでもねぇよ!」
「わっ!」
先ほどまで自分の頭を泡立てていたタツだったが、近づいた尚斗の髪の毛に手を入れる。そして泡を飛ばすほどワシャワシャとかき混ぜ始めた。
「ちょっ! 犬じゃねぇんだから!」
笑いながらそれを受け入れていると、「知ってんよクソが!」と悪態をつく。きっと壁にも泡が飛んでいるだろう。
「そういや、俺の方の匂いはどうだ?」
尚斗は泡だらけの自分の手を鼻先に持って行き、先ほどと同じように鼻を動かす。するとフローラルな香りし、「おー、全然違うわ」と辰己の方を見た。
「タツのと比べたら匂いが薄い気がすっけど、ひとりで使ってたらもっと匂うだろうな」
「へー、そうかよ」
適当な返事をしつつもまだ尚斗の頭を洗っている辰己に「ほらお前も」と少しだけ顎を上にし、首筋をさらした。
「は?」
「お前も嗅いでみろよ。いい匂いすっから」
「そもそも提案したのはお前だろ」と付け足せば、グッと辰己は緊張したように身体を硬くする。それに多少の疑問は抱きつつも、それほど気にせずに「おら」と促した。
「嗅いでみろよ」
「…………」
ようやく辰己は頭から手を離し、そして一歩近づく。そしてゆっくり首筋に鼻を近づけて、スンと匂いを嗅いだ。
「な? いい匂いだろ?」
ニカっと笑って言えば、辰己は首筋から顔を上げ、こちらをみる。必然的に目が合わさったのだが。
「タツ?」
「…………」
真っ直ぐこちらを見つめる目は、どことなく潤んでいる気がする。
どうかしたのか聞こうと口を開くが、言葉が喉に引っかかって出てこない。シャワーの音が妙に大きく聞こえ、自身の鼓動がいつもより早いことも気付けば、勝手に頬に熱が灯る。
「えっと……」
その瞳から逃げようとすると、「ナオ」と辰己は名前を呼び、泡がついている手が尚斗の首筋を撫でた。
「ちょっ」
ビクッと身体が驚きで震える。いや嘘だ。驚いて身体が震えたわけではない。
尚斗は一歩下がり、その手から逃げる。しかしすぐ背中は浴室の壁にぶつかってしまった。泡がついている壁だが、それを感じるほどの余裕はない。
「タ、タツ?」
「ナオ」
首筋から顎へ。くすぐるように撫でられて、またビクビクと身体が震えた。
それを熱い視線で見つめていた辰己は、片方の手で尚斗の頬を包み込むように触れる。その手で頬が焼けてしまうような感覚を覚え、再度名前を呼ぶけれど彼は止まらない。
「尚斗……」
ゆっくりと顔が近づいてくる。その光景をどこかで見た気がして、そういえば香水の撮影のときも彼はこうやって顔を近づけたことを思い出す。
その時は永原が入ってきて止まったけれど、今日は二人で住んでいるマンションだ。ここには誰も来ない。
「…………っ」
ぎゅっと目を閉じれば、そんな様子のこちらを笑ったかのように唇に息が掛かる。そして間が空くこともなく、そのまま唇に柔らかい感触を感じた。
「ふっ……・」
たった一瞬。ただ触れただけ、触れ合っただけ。
「ナオ」
「や、待てって」
泡だらけの手は滑りやすいのか、頬を撫でるそれがどこかスムーズで、なぜか背中にゾクゾクとした何かが走って行く。
鼻頭同士を少しだけぶつけ合い、それからまた辰己が首を傾けてくるのに対し、尚斗が逃げるように逆へ顔を背けたが「ほら、尚斗」と囁かれる。
その声にまでドクンと心臓が跳ね上がった。
「ん……」
尚斗の顔を追いかけ、辰己が再び唇を重ねる。
今度は唇が食むように動かされ、尚斗はそれを拒絶するように必死に口を閉じるが、「ぅ、ン」と喉から声が出てしまう。
それが恥ずかしくて逃げたいのに、背中を壁に押しつけることしか出来ない。
何度も何度もこちらの唇を食み、辰己は頬を撫でる。シャワーの音の隙間からチュ、と濡れた音が聞こえ、尚斗は恥ずかしさで死にそうだ。
行き場のない両手は拳を作り壁に張り付けてばかりだったが、不意に頬を触っていない方の手が尚斗の手をそっと掴む。
「ふ、ぁ」
泡立つ手はヌルヌルしていて、手首を指先でくすぐられれば簡単に拳は解かれ、そのまま恋人のように手と手が重なった。そしてまるで標本のように壁に張り付けられる。
「ん、ちょ、待ってタツ」
リップ音を立てながら離れた唇に、尚斗はストップを掛ける。互いに乱れた呼吸をぶつけ合いながら近くで視線を交ぜ合わせた。
「なん、で、こんな……」
自分たちはただ頭を洗ってただけだった。そもそも二人でシャワーを浴びるのも仕事の為だった筈だ。それなのにどうしてこんなことになっているのだろう。
「…………」
「やっ、待てって」
こちらの言葉に答えぬまま再び口付けを再開しようとする辰己に、尚斗は顎を引く。
「いきなり、なんでこんな……そういう雰囲気とか、なかったろ」
「そういう雰囲気って?」
「っ……」
ようやく言葉が返ってきたが、その声は掠れていて、欲情に濡れていた。
「なぁナオ、答えろよ」
「っぁ」
唇を塞ごうとしていたそれは耳元に移動し、今度は赤いピアスが輝く耳たぶを食む。そしてピアスの周りを舌で撫でられれば、腰から力が抜けていった。
「や、タツっ、それ、やだっ」
ビクビクと震える身体が恥ずかしい。耳たぶなんて何度も触られたことがあるのに。
制止の言葉を吐くが、彼はやめることなくそのまま歯を立てた。瞬間「やぁっ」と上がった声は自分の声とは思えないほど高く、もう片方の手で自分の口を押さえた。
「なんで口塞ぐんだよ」
また耳に掠れた声を注がれる。
ブンブンと首を振れば頬から手を離し、こちらの脇の下から脇腹をなぞるように動いていった。
もともと脇腹は弱いのに、まるで何かを引きださんとばかりの手で撫でられれば簡単に身体は跳ねる。
「んっ、んく、んん」
口を塞いでいても喉から零れる声は止まらない。そんな尚斗に辰己は耳たぶから顔を上げ、首を傾けたままこちらを見た。
「気持ちいい?」
そして塞いだ手をまるで唇かのように、尚斗の手の甲をチュッと吸う。
「身体、震えてる」
溢れんばかりの色気でそんなこと言わないで欲しい。
もう嫌だと首を振って壁に背を預けたまま横へずれる。すると電気が走ったような感覚にビクリと肩が跳ね、尚斗は口を塞いでいた手を辰己の胸板に置いた。
「なっ、やっ、タツっ」
助けを求めるように名前を呼ぶが、彼は捕食者のする笑みを浮かべて快感が走るソレに指先で触れた。
「あっ!」
「可愛いな、ナオ」
ほんの少し頭を上げているソレに辰己の手が絡みつく。それに「やだ、やだっ」と子供みたいに首を振れば唇をまた唇で塞がれた。
「う、ン、ぁ、んんっ」
上唇を噛まれ、下唇は舐められる。それだけでも頭の中はいっぱいいっぱいなのに、男の象徴であるソレを扱かれるなんて、混乱しない方が無理だろう。
「くぅ、ん、はぁ、ぁ」
「ナオ」
見つめ合う瞳は、お互いに見たことの無い瞳で、それに吸い込まれるように見合ってしまう。
荒い呼吸がぶつかり合い、「ナオ」とどこか切羽詰まった声で辰己は言った。
「俺のも触って」
有無も聞かずに尚斗の手を取り、そのまま勃つソレへと触れさせる。
「やっ……」
すでに固く、そして熱いソレに怯えるように手が逃げるも、それを許さないと辰己が捕まえる。そして無理矢理、辰己のソレを握らされた。
「俺の真似でいいから」
「で、もっ、ンぁ!」
無理だと言う前に辰己は尚斗のソレを扱きだす。
「ほら、ナオ」
「~~~~っ」
いつもよりも甘い声で促され、尚斗はゆっくりと自身の意思でソレをそっと握り、同じように扱く。
「あ、はぁ、はぁ……」
「くっ」
クチュクチュと鳴るソレが気持ちいい。どうしてこんなことになっているのか混乱し、恥ずかしくて死にそうなのに、どうしようもなく気持ちがいい。
「タ、ツっ」
息を乱したまま彼を見れば、「ナオ」と返される。
悩ましげに眉を顰める顔をもっと見ていたくて見つめていれば、また唇が触れ合った。
(やばい、どうしよう、気持ちいい)
ずっと相手から食まれるだけだったのに、尚斗はそっと唇を開けて、彼の唇をそっと食む。
うまく出来ているか分からないけれど快感に流されるまま何度も食めば、先ほどよりも激しく口付けられた。
「ん、ンっ、ぁっ、イく、イくッ!」
ぷはっと口付けを解いて言えば、扱く手がより強く動く。熱を吐き出すことを促されていると分かった瞬間、尚斗は腰を丸めて快感に声を上げた。
「ぁっ、ぁっ」
高く啼く自分を気にする余裕はなく、射精の快感に頭が真っ白になる。その間に辰己も達したようで、互いに肩に顎を乗せながら呼吸を整えようと深呼吸をした。
「な、んで、こんな……」
尚斗が辰己にそう聞くと、彼は出しっぱなしのシャワーを手に取り、泡だらけのままの頭にお湯を掛けた。
「うわっ」
流れてきた泡に慌てて目を閉じ、頭を下にする。すると辰己は先ほどのように髪の毛を掻き混ぜ、シャンプーを流していった。
「ちょっと、我慢出来なかった」
「あ?」
洗い終えたのだろう。尚斗の頭にお湯が掛からなくなり、顔を上げる。すると今度は辰己は自分の髪の毛を洗い流しており、そのままこちらを見ずに彼は言った。
「最近やたらめったら可愛いからよ、ちょっとふざける感覚でイタズラするつもりだった」
「でも」と言い、泡が無くなった前髪をオールバックに持ち上げ、今度は真っ直ぐこちらを向く。
「てめぇの裸見たらイタズラするどころじゃなくなった。触りたくて仕方がなくなって、でも我慢しようと思ったのにお前が――好きな奴が近づいて来たらもうダメだった」
「え……」
辰己の言葉に尚斗はぽかんと口を開ける。待て、いま彼はなんて言った?
「でも謝る気はねぇ。無防備なお前も悪い」
「いやいやいや、それはちょっと」
違うだろと言いたかったのに、頭の中で『好きな奴』という単語が回っていて上手く言葉が出てこない。
顔を真っ赤にして尚斗は「えーっと、そのー」と視線を泳がせた。
「ちょっとあんま理解出来なかったっつか、間違いだったら悪いんだけどよ」
指で頬を掻きながら、チラリと彼を見る。
「タツは俺のことが好きってこと?」
誤解なら誤解でいいが、それはそれで恥ずかしい。だが辰己は間髪入れずに頷いた。
「そーいうことだ」
「…………」
その自信満々な態度は何なんだ。
そう思うけれどいつも通りの彼に尚斗は少しホッとする。あんなことをされたのは驚いたが、これで互いにぎこちなくなるのは嫌だ。
このまま無かったことには出来ないだろうかと適当な返事をしながら浴室のドアを開けた。
「あー、そうか。分かった。うんうん、なるほどな」
手にバスタオルを取れば、「おいこら」と辰己がこちらの肩を取り、無理矢理彼の方へ向かされる。額に浮いている怒りマークがあった。
「無視たぁ、良い度胸してんじゃねぇか」
「え、いや、別に無視してるわけじゃ」
「ほー? なら返事はどうしたよ」
「返事?」
よく分からないと首を傾げるが、辰己は許してくれない。
「俺はお前のことが好きだっつってんだ。それが友達同士の好きじゃねぇって分かんだろ」
「あんなことされたんだからよ」と言う声に反省という文字が一個も入っていない。少しくらい罪悪感を抱けよと思うけれど、それで辰己の態度がよそよそしくなるのも本望じゃない。
「んで? てめぇはどう思ってんだよ。俺のこと好きだとか、俺も好きだとか、俺の方が好きだとか、なんかあんだろ」
「おい、好きっつー選択しかねぇじゃねえか」
「そりゃそうだ」
辰己は掴んでいた尚斗の肩をポンポンと叩き、自分も浴室から出る。そして彼用のバスタオルでこちらの顔を拭った。
「嫌じゃなかったろ?」
次は頭を拭き始める。こちらのことを気にするより、お前も拭かないと風邪引くだろと思ったところで、
「――――は?」
思考がついにショートした。
「え、は?」
「嫌だったか?」
バスタオルに包まれた頭を持ち上げるように顎を取られる。そして顔を合わせれば、どこか愉しそうに笑う辰己がいて、再度「は?」と声を出す。
「え、なに?」
「だーから、俺とのキスとか、嫌だったか? 気持ち悪いと思ったか?」
「っ…………」
勝手に口から『いや別に』と滑り出てきたのを必死に止めた。
(ちょ、待てよ俺。待てって)
辰己の質問は、すでにショートしている自分の思考には酷すぎる。キャパオーバーどころの話ではない。
(タツの言う通り別に嫌ってわけじゃ……つーか別になんの問題もない、と思うのが問題だろ俺!)
「ナーオ」
「っるせえ! この変態!」
甘えるように名前を呼ばれ、混乱極める尚斗は頭に乗ったままだったバスタオルを取って辰己に投げつけた。
「おい」
「変態のことなんか知るかバーカバーカバーカッ!」
そう叫び、自分のバスタオルを持ったまま廊下へと繋がるドアを思い切り開ける。そして振り返ることなく「バーカバーカ!」と子供みたいに喚きながら自室へと走って行き、中へ入ればずるずるとドアを背にしてしゃがみ込んだ。
(あー、前にもこんなことあったな)
デジャブか? なんて思いながらバスタオルを握りしめ、それに顔を埋める。あの時の方がまだマシだったと溜息をついた。
「何なんだよ一体」
辰己は俺のことが好き。そりゃあ付き合いも長いし、相棒と呼び合っていた仲だ。そこらにいる仲良しよりも固い絆のようなものがあると思っている。
でもそれだけじゃなくて、そういう、色々含んだ意味で好きだなんて。
――可愛いな、ナオ。
「わあああああ!」
浴室で響いた声が、今度は頭の中で響いた。恥ずかしさで死にそうだ。
「あーもーっ! このクソったれ!」
今すぐにでも辰己のことを殴ってしまいたい。何すんだてめぇと喧嘩になってしまえばいい。だが困ったことに、それは喧嘩ではなく、ただじゃれて遊ぶような殴り合いだと知っている。知ってしまっているのだ。
なぜなら――――
「なんで嫌じゃないんだよ、俺ぇ~~」
彼の言う通り、嫌じゃなかったのだから。
――――貴方はどっちを選ぶ?
さわやかな香り。
優しさで包みこまれる、愛おしさ。
『俺と一緒に歩いて行こうぜ?』
伸ばした手の先に輝く未来があるから。
『いつまでもずっと、一緒にいる』
甘い香り。
まるでそれは駆け引き、ときめきが止まらない。
『俺の隣にさっさと来いよ』
掴まれた手の先に輝く未来があるから。
『いつまでもずっと、俺のもんだ』
――――ほら、貴方はどっちを選ぶ?
「「香りが君から離れない」」
「あっはは! どんな二人か知ってて見るとすごく笑えるわね!」
パソコンの画面に映し出されているそれに、尚斗は痛む頭を抱えた。
「いや姫蕗社長、笑わないでください」
「撮影もめちゃくちゃ恥ずかしかった・・・・・・」と呟けば、姫蕗は「でもいい感じじゃない」とソファに深く座り、足を組む。
「これ大好評で、予約ですでに売り切れたところもあったみたいよ?」
「それは良かったんですけど、恥ずかしさとは別問題だから……」
「――んで?」
今まで黙ったまま隣に座っている辰己も足を組み、その脚の上で頬杖をつきながら姫蕗に聞く。
「どっちの会社が勝ってんだ?」
それは尚斗も気にしていたところで、顔を上げて彼女を見た。が、彼女は満面の笑みを浮かべて言う。
「それは秘密」
「は?」
「へ?」
まさかの言葉に二人はポカンと口を開けた。それに対しても彼女はニコニコと微笑んだままだ。
「血の気の多い二人だもの。本気で勝負させるつもりなんてはなからないわ」
「…………」
確かにという言葉しか出てこないが、それはそれでどうなんだとも思う。
「ハッ! まぁ姫蕗さんの言葉は一理あるっつーか、確かにその方がいいかもな」
先に口を開いたのは辰己だった。
「ナオも俺と勝負するの嫌がってたわけだし?」
「ちょ、てめっ、そういうこと言うなっての!」
彼の暴露に、隣にある脚を叩くが「事実だろ?」と反省する様子は全くない。
「言っていいことと悪いことがあんだろ」
「お前が甘えたなのを隠したって今更だ、今更」
「てめっ、甘えたって何だよ。どっちかっつーとてめぇの方だろ!」
尚斗は恥ずかしさと苛立ちで声を荒げれば、「はいはい。ここで言い合いしないでちょうだい」と手を叩いた。今にも胸倉を掴まんばかりの尚斗だって辰己に負けないくらいの迫力はある。だが全然それを気にすることなく止めに入れる姫蕗は、流石不良をスカウトするだけある。
「とにかく。今回の香り男子の仕事に勝敗がつくけれど、それが貴方たちを左右することはないわ。だからいつも通り最高の姿を世間に見せてやりなさい」
「だとよ。良かったなナオ」
「うるせぇ。マジで殴んぞ」
横目で見てくる辰己に尚斗はフンと顔を逸らす。
「へーへー」
呆れたように言う彼に尚更苛立ちが増すけれど、「それで先日会議があったのだけど、今後も香り男子を続けることに決まったわ」と仕事の話に戻ったため、内心舌打ちをしつつも、顔を戻して姫蕗を見た。
「香水の次はこれ」
彼女が座るソファの隣に置いてあった白い紙袋をテーブルの上に乗せる。
「シャンプーですって」
「シャンプー?」
それを聞いた辰己が首を傾げた。
「ボディーソープとかなら分かるけどよ、何でシャンプーなんだよ。香りとかあんま関係なくね?」
「あら、そんなことないわよ」
姫蕗は言う。
「シャンプーだって色々な種類があって、それぞれに匂いも違う。髪質によっても選び方は変わってくるけれど、匂いだって大事な決め手よ?」
「風呂上がりなら匂うがよ、外であんまり匂うことねぇんだから適当でいいだろ、そんなもん」
「はい、その発言ひとつで辰己は女子の敵と見なされたわ」
「はー……面倒くせぇにも程があんだろ」
背もたれに寄りかかりながら両腕をそこに預け、大きく溜息をついた。
「貴方がどう思おうが今回の仕事はこれよ。先にサンプルもらったから、二人それぞれにイメージを固めておいてちょうだい」
「じゃあこれで話は終わり」と姫蕗は立ち上がって、二人の横を通り過ぎた。
「私は別件の会議に出るから先に失礼するわね」
「あ、俺送りますよ」
いつものように立っていた永原が姫蕗に声を掛ける。そして「お前らは適当にタクシー捕まえろ」と払うように手を振った。
「ちょ、俺たちのマネージャーなんじゃないんですか?」
「あ? てめぇらよりも社長の方が偉いんだぞ? 優先順位があんだよ」
「マジかよ……」
この業界ってそういうものだっただろうか。そう溜息をついた尚斗に、辰己は「俺らは俺らで久々に外で飯でも食わね?」と提案する。
「ここ最近街中に行ってねぇだろ」
「あー、確かに」
彼の言葉に尚斗は頷いた。
モデルになってから忙しいということもあったが、周囲にバレて騒がしくなるのが嫌で、自然と街に行かなくなった。学生の頃はゲームセンターとかでよく遊んでいたのに、今では最後に行ったのがいつだったかも思い出せない。
「んじゃ、ちょっと遊んで帰るか」
「おっし。決定な」
笑顔で立ち上がった辰己に、永原が「おいてめぇら」と姫蕗にドアを開けながら釘を刺す。
「面倒ごと起こすなよ? 噂なんかはすぐ広がるんだから、出来るだけ目立つな」
「はいはい」
本当に分かっているのかと問い詰めたくなる返答だったが、姫蕗を送る任務がある彼はそれ以上なにも言うこと無く、彼女と一緒に消えて行った。
「よーっしゃ! 俺たちも行こうぜ!」
いつものようにこちらの肩に腕を乗せ、機嫌良く「昼飯なに食いたい?」と聞いてくる。それに尚斗は「お前が食いたいもんで構わねぇよ」と言いながら、シャンプーが入った紙袋を手に取った。
これを持ち歩くのは面倒くさいけれど、仕方が無い。
「イタリアンもいいけど、定食屋もいいよなー」
悩みながら歩き出す。歩調を気をつける必要もなく、端から見たら随分うまい二人三脚だと思うに違いない。
「あんま食べないようなもんにすれば?」
「でもそれで失敗とかしたくねぇだろ」
「確かにそうだな」
冷静に頷く尚斗だが、内心子供のようにはしゃいでいた。
(なんか学生の頃に戻ったみてぇ)
久しぶりに街をぶらつくのが妙に嬉しい。だがしかし――――
「え、もしかして辰己と尚斗じゃね?」
学ランを着ている五人の声に、ピクリと尚斗は反応する。
結局イタリアンでも定食屋でもなく、焼き肉で満腹になった二人は、このままゲームセンターにでも行こうと向かっている最中だった。
尚斗が辰己に視線を向ければ、無視しようぜとその目が言う。絡まれたら少々面倒だ。もし喧嘩なんて始めればギャラリーが出来て、Boysの辰己と尚斗であるとバレてしまう。
元々喧嘩男子と言われているのだから喧嘩をしたっておかしいところはないけれど、じゃあ実際に相手を殴ってもいいのかと聞かれれば答えはノーだろう。
二人はこちらの道を塞ぐように並んでいる五人の隙間をぬって通り過ぎる、つもりだったが「おい待てよ」とひとりが尚斗の腕を掴んだ。
「春の悪夢っていう伝説、あんたらが作ったもんだよな?」
高校一年生、しかも入学式に先輩方をボコってトップの座を奪った。それが春の悪夢という名がついたことは二人も知っている。だがそんなもの何年も前の話だ。語り継がれているとは思わなかった。
「そうだったらどうした」
きっと聞く人が聞けば、その声は笑いを抑えたものだと分かる。そりゃ笑いたいわなと尚斗も口元を押さえた。
「あんたら、高校卒業と同時にモデルになったんだろ? 今や人気者だそうじゃねぇか」
ニヤニヤと笑う顔は学生時代何度も見てきたもので、今更こんな雑魚の言葉に苛立つ二人ではない――それはあくまでどうでもいい相手なら、の話だ。もしそれを尚斗が、辰己が言ったとしたら二人で拳を握っていただろう――このまま手を振り払い無視したいところだけれど、だんだんこちらを気にする野次馬が出てくる。ここでもし写真でも撮られてSNSに投稿されたら永原に殺されかねない。
「なぁ、ちょっと場所変えねぇか?」
尚斗がそう提案してみれば、どこか下品な笑い方でこちらを見た。
「ひぃっはは! 大変だなぁモデル様はよ。周囲の目に気をつけないといけねぇなんて、春の悪夢の名が泣くぜ?」
いや別にそれは名前ってわけじゃねぇんだけど? とまた笑いそうになるが、ここで相手を怒らせて殴り合いになるのは避けたい。
(どうすっかな)
尚斗が捕まれた腕を見ながら悩むと、相手の腕も誰かに捕まれた。それが誰の手なのか、考えずとも答えは分かる。
「おいてめぇ、そろそろナオの手、離してくんね? 腹立って仕方ねぇんだわ」
「タツ」
なだめるように名前を呼ぶけれど彼は引く様子はなく、そのまま歩き出した。
「あ? 離せよてめぇ」
「はは、喜べよ不良くん。春の悪夢に直々ボコられるんだからな」
辰己が引っ張ると自然と尚斗の腕も引かれ、そのまま一緒に裏路地へと連れて行かれる。
そこは人通りが少なく、昔ここでも喧嘩したなぁと懐かしくなる。だが今は思い出に浸っている場合ではない。
「ちょ、タツ。永原さんに怒られるぞ」
「バレなきゃいいだけだろ?」
ニインと笑う辰己はもう準備バッチリだと言わんばかりに首をコキと鳴らした。
「三十秒時間をやる。逃げてもいいし、俺らを殴ってもいい。このまま真っ直ぐ行った先にある公園の公衆トイレに隠れたっていい」
「あ? てめぇバカにしてんのか? ボコられるのはてめぇら二人だ」
「はい、じゃあスタート」
相手の言葉はまるっと無視し、パンと手を叩く。そして「いーち、にー」と呑気に数をかぞえ始めた。
「逃げなきゃいけねぇのはてめぇらの方だってぇの!」
「後悔すんなよ!」
「モデルなんて出来ない顔にしてやるよ」
それぞれが吠えるのを聞きながらも、まだ辰己はゆっくり数をかぞえている。それについにブチ切れたひとりが、「いい加減にしろよてめぇ!」と辰己に殴りかかった。
「…………ったく」
仕方が無いというように持っていた紙袋を壁際に置く。そしてザリとコンクリートの床を蹴り、尚斗は辰己の前に立った。そして手のひらをそちらに向ければ、パチンと高い音が響く。
大した振動もなく、こちらの手のひらの中に相手の拳が収まる。最近の若者はこんな弱い力しかないのだろうか。
「さっさと逃げなかったんだ。少しくらいは楽しませろよ?」
尚斗が鼻で笑えば耳に「三十」と最後の数が届く。それを合図かのように手のひらで受け取った拳を強く握った。
「いっででででぇ!」
「んじゃ、やるか。喧嘩」
握りしめられる手に悲鳴に近い声を上げながらなんとか逃げようと腕を引くけれど、解放してやる気はさらさらない。
尚斗は口角をつり上げて掴んでいる手を引き、彼の懐に入る。そして瞳を覗き込めば、こちらの迫力に負けたようで緊張に染まった瞳が見えた。だが止まる必要はない。三十秒も与えたんだ。それでも逃げずにここにいるということは、どうボコられても自己責任である。
「ほーらよ」
その作った拳を相手の頬にめり込ませた。
(あー、なんか久しぶりな感覚だな)
喧嘩両成敗とあるように、殴ればこちらの拳だって痛む。赤くすり切れている手の甲が男の勲章なんて思わないけれど、この痛みが尚斗は嫌いじゃ無かった。
「――――」
殴られた相手は何も言葉に出来ず、悲鳴すら上がらない。殴られた彼は汚れた路地裏の壁にぶつかり、ずるずる落ちていった。
それを見ながら掴んでいた手をポイと捨て、彼らに向き合う。
「あと四人」
ふらりと身体を揺らし、片足に重心を置く。そしてしゃがむようにして相手の視界から姿を消せば、四人は動きについていけず立ち尽くす。平和ぼけか? と呆れながら尚斗は顎下から殴った。
「ぐっ」
喉から零れた声とガチン! と歯がぶつかる音。それに「ひっ!」と残りの三人が恐怖に染まった。
「ったく。俺らをボコるんじゃなかったのかよ」
痛みから顎を両手で包み込むようにし、腰を曲げている彼に今度は腹に蹴りを思い切り入れて吹き飛ばす。そこには先ほどの先客がおり、ぶつかった二人は低く呻いた。
「おいおいナオ、勝手に独り占めしてんじゃねぇよ」
「そろそろ俺にもよこせや」と肩を叩かれ、尚斗は素直に「あ、悪ぃ」と謝る。一歩だけ足を引いて辰己の隣に立てば、「三人、か」と吟味するかのように顎に手を置き、そしてポン! と手のひらを合わせた。
「お前らさ、学生証は?」
そう言いながら伸ばす腕はそれを渡せと無言で訴えている。しかしのびていない三人は恐怖で表情で引き攣らせながら「誰が見せるかよ」と震える声で言った。
そのガッツは認めるが、今回は相手が悪すぎる。
「そうかそうか、んじゃ代わりに写メ撮るから、殴られとけ」
「え――?」
即座に反応できなかった三人だったが、理解する前に辰己に拳を振るわれた。
学生証を見せれば痛い思いなんてしなかっただろうに。
「手加減したのかよ」
「いんや?」
三対一の喧嘩に手加減なんか不要だろう。その台詞に逆に辰己が尚斗に聞く。
「手加減、必要だったか?」
「一応な」
尚斗は溜息をつき、ポケットからスマホを取り出す。そして伸びている五人を撮影した。
「こういのは意識が半分くらいあった方がいい。その方が恐怖が倍増するからよ。もう手を出してこなくなる」
再度パシャ、と響くそれは、いつも仕事で使われているカメラと比べたらなんと可愛いことか。しかし。
「お前、結構エグいよな」
「あ? モデルである自分を守るためだ。仕方がないだろ?」
「これを正当防衛と言ってのけるてめえが一番怖えんだよ、マジで」
辰巳が溜息をついてこちらを見てくる。だが「それでもいいけどよ」と付け足すように言い、「こいつら、もういいのか?」と問うた。
「写真も撮ったし、他の人に見られたとしても、こいつらが伸びているのがBoysの仕業なんて誰も思わねーって」
それにここらの裏路地に誰かが倒れているのは日常茶飯事で、通行人もそれらを見たとしても喧嘩したのに敗れたんだー、なんて平和に思うだろう。
(前は何にも気にせずにボコってたんだけどな)
綺麗に写真が撮れているか確認する。
頬が赤く腫れているがそこまで顔の形が変わっているわけではない。誰が誰かちゃんと分かるのなら問題はない。
「んじゃ行くぞ、ナオ」
「あいよ」
スマホをポケットにしまい、置いておいた紙袋を持って二人で歩き出す。
表通りは人が多いけれど、まさか今の今まで学生をボコっていたとは誰も思わないだろう。
(これが学ランだったら全然違うんだよなぁ)
まだ彼らくらいの学生だった時は、表でも裏でも喧嘩をした。チラチラと遠巻きにこちらを見る連中は二人と目を合わせないように通り過ぎていく。それはあの不良校の学ランだと分かっていたからだ。
有名な不良校に通う二人に自ら声を掛けるのは警察、そして我らが社長の姫蕗だけに違いない。
「あー、喧嘩すんの久々だったわー」
伸びをしながら隣を歩く辰己は言った。
「モデルになってから街からも遠ざかってたし、あんま絡んでくる奴もいなかったからな」
「でも春の悪夢とかいつの話だよ。どういう噂になってんのか聞いとけば良かったわ」
「つか俺らの顔見てそれが分かるとか、実は卒業アルバムとかで見てんじゃねぇの? こいつらが春の悪夢だーってな」
「そんなもん知ってどうすんだか」
尚斗は溜息をつく。だが「相手はまだガキんちょだぜ?」と辰己は鼻で笑った。
「そういうのが面白かったりするんだろ」
「理解しがてぇな」
そう言いつつも、自分たちも番長潰しとかを楽しんだタチなので完全に否定は出来ない。
(俺らもあんなバカだったんだろうな)
喧嘩の思い出なんて何も綺麗じゃない。全部が全部簡単にカタがついたわけでもないし、頭から血を流したこともある。
それでも感じてしまう懐かしさに尚斗は自嘲するように口元だけで笑った。
もしモデルをしていなかったら自分たちはどうしていたのだろう。大学に通うつもりもなければ金もなかったから、きっと就職先を適当に探して、それなりに生きていたかもしれない。
だが一番思うのは、その未来に辰己がいるかどうかだ。
今は一緒にモデルをすることになったから隣にいるけれど、この先もずっと一緒だという確証はない。もしかしたらBoysではなく、個々に活動する可能性だってあるのだ。それを止める力を尚斗は持っていない。
(学生の頃は良かったなんて思わねぇけど)
何の理由もなく傍にいられるのが、今となっては羨ましい。
(ん、羨ましい?)
悲観モードに入っていた尚斗はハッとして、今しがた思い浮かんだ単語に首を傾げた。
確かに辰己とはこれからも友達、親友、相棒、それらの関係でいたいとは思うけれど、永遠に一緒にいるなんて無理だろう。連絡を取り合うことはあるかもしれないが、学生の頃のように顔を合わせる回数は減るに違いない。
(なんだ?)
そう思った瞬間、胸の辺りがチクリと痛む。そしてそこからモヤモヤしたものが溢れ出てきた。
中学生から一緒にいたのだ。突然隣から消えてしまえば動揺もするだろうし、慣れるまで時間は掛かるだろう。
(俺はそれが嫌なのか?)
このモヤモヤの正体は辰己が自分から離れたあとはどうなるのか不安なのかもしれない。
(だからって学生時代を羨むとか、単純にもほどがあんだろ)
「ナオ? おいどうした」
不意に耳に声が届き、ビクッと尚斗は驚いた。
「え……あ、なんだ?」
「それは俺の台詞だっつの」
ハッとして辰己に視線を向ければ呆れたような顔をし、親指で自身の背後をさす。そこには目的地であったゲームセンターがあった。
「ゲーセン行くっつってんのに、通り過ぎてどうすんだよ」
「あー、悪ぃ悪ぃ」
頭を掻きながら笑う。
「ちょっとボーッとしてたわ」
「ふーん」
そう答えた尚斗を辰己は目を細めて覗き込む。それに一歩下がって逃げれば、下から見上げるようにこちらを見て「帰るか」と呟くように言った。
「え? 帰るって?」
「ゲーセンはまた今度。帰ろうぜ」
クルリと反転して歩き出す彼に、尚斗は「おいちょちょちょっ」と腕を掴む。
「もう目と鼻の先だろ? なんで帰るんだよ」
「気が変わった」
「はぁ?」
辰己のわがままには慣れているけれど、今でも一体なにを考えているのかは理解できないままだ。
「家でのんびりしようぜ」
「ちょ、おい待てよ」
さっさと歩き出した辰己の後を追いかければ、大通りに出て止まっていたタクシーを捕まえる。どうやら本当に帰るらしい。
「おいタツ」
「いいから。おら」
先にタクシーに乗り込んだ辰己は尚斗の腕を引っ張り座らせる。そして運転手にマンションから少し離れたところを言うと、そのまま静かに発車した。
「はぁ、てめぇはいつも唐突だな」
窓の向こうを見ながら溜息をついて言うと、クツクツと笑い声が返ってくる。それに不満を覚えた尚斗が隣を見れば、どこか嬉しそうな顔をしてこちらを見ていた。
「……なんだよ」
「いいやぁ?」
「その顔と言い方、すっげぇ腹立つんだけど」
「はは、こうさせてんのはてめぇだろ」
「さっきから訳分からねぇし」
もう付き合ってられないとまた窓の外を見れば、「まぁ許せよ」と辰己がトンと肩をぶつけ合わせる。
「久々に絡まれたからな。それに興奮してんだきっと」
「……変態か?」
そういう趣味は無かったと思ってたけどと続ければ、辰己はまた笑い、そうだなと頷いた。
「男は全員変態なんだよ」
「あっそ」
これ以上話していても核心には触れさせる気がないことを察し、尚斗はぶつかる肩もそのままに黙って窓の外を見続ける。すると辰己が少しだけこちらに体重を預けてきたがそれも無視し、到着するまで口を開くことはなかった。
「ただいまーっと」
「おかえり、んでただいま」
「おう。おかえり」
二人は言いながら靴を脱ぎ、リビングへ。
高い位置にある部屋は太陽の光で明るく照らしてくれていた。
尚斗がテーブルに紙袋を置けば、辰己が「どれどれ」と中を覗き込む。先ほどまで一切興味も関心もなかったのに。
「あー、なるほど」
勝手にひとり納得をする辰己に、尚斗はソファに座り後ろから覗き込む。
「なにか分かったのか?」
「いや別に」
紙袋から取り出されたボトルは二本。片方は紫色で、もう片方はクリーム色だ。パッケージのデザインは香水と似ていて、香り男子第二弾であることが分かる。
それを見た尚斗は「あ、なるほど」と、辰己と同じことを口にした。
「だろ?」
「確かにそう口に出るな」
うんうんと頷く。そして自分が担当するクリーム色のそれを手に取った。
「リンスはついてねぇの?」
「香りが一緒だから必要ないんじゃね?」
「意外とケチケチしてんな」
「先に寄越した理由もイメージを固めるためなんだろ? 匂いさえ分かればいいと思ってんだろうよ」
辰己ももう片方のそれを持って、デザインを見る。
「香水と似た匂いすんのかな?」
尚斗がボトルを開けようとすれば、「ちょっと待った」と辰己がストップを掛けた。
「なんだよ」
それに首を傾げると、辰己は尚斗が持っていたボトルを奪い、立ち上がる。
「なぁ、折角なんだ。ちょっと使ってみようぜ」
「このシャンプーを?」
「これ以外何があんだよ」
呆れたように辰己は言い、そして「おら、風呂行くぞ」とソファに座る尚斗の膝を軽く蹴った。
「ちょ、は? 何で俺も行くんだよ」
「二人で入るからだよ」
「……は?」
尚斗は一瞬にして固まった。
「二人で入るって……一緒に?」
「そうした方が互いのシャンプーの匂いが分かるだろ」
「いや、ここでボトルを開ければいいじゃねぇか」
「直接嗅ぐより、洗い終わった髪の毛の匂い嗅ぐ方がより本物だろ」
「なら別にいつもみたいに別々でもよくね? 風呂から出てくれば匂うだろうし」
「あー、もう面倒くせえな」
不機嫌そうに舌打ちをした辰己だが、舌打ちをしたいのはこっちの方だ。本当にこいつは昔から気分屋だなと、慣れた筈のそれが腹立たしい。
もう部屋にこもってしまおうと立ち上がれば、辰己が「ナオさんよぉ」と喧嘩腰で名前を呼んだ。
「もしかして恥ずかしいとか? 今まで何度一緒に入ってんのによ。あー、それとも」
辰己は笑った。
「俺のこと、意識しちゃってるとか?」
「お前もやっぱ変態じゃん」と言う彼に、尚斗は頭の中で何かが切れる音が聞こえた。
「は? なに言ってんだてめぇ」
「ちげぇの?」
「ちげぇに決まってんだろ」
「へー?」
分かっている。これは挑発しているだけだと。その言葉が本心ではないことも。だがそれを受け流すことが出来れば、喧嘩男子になんてなっていない。
「いいぜ。昔みたいに一緒に入って背中流してやんよ」
「はは! そうこなくっちゃな!」
笑う辰己に、尚斗は担当する方のシャンプーを奪い取り、「おら行くぞ」と浴室へ向かった。
「つーか、今までもデカいと思ってたけどよ」
男二人が裸で浴室に立つ。普通ならば肩が当たるか当たらないかの広さだろう。しかし。
「二人で入っても余裕あるとか、ガチでやばくね?」
「やべぇな……」
まさかここまで広いとは。一人で入る時よりも広く感じる。
二人一緒に関心していたが、ハッとした尚斗はシャワーヘッドを持ち、高い位置へ引っかけた。
「湯、出んぞー」
手前にいる自分には当たらないことを知りながら思い切り蛇口をひねる。するとシャワーを一気に浴びた辰己が「おいこら!」と文句を口にした。
それにケラケラ笑えば、腕を引っ張られ「おわ!」と尚斗も頭からお湯を浴びる。
あっという間に濡れた二人は手にしていたシャンプーを、誰も座っていないバスチェアに置く。そして手のひらにプッシュした。
「もう少し使った方がいいんじゃね?」
「あー、確かに」
目的は香りだ。沢山使った方が匂うだろう――多分。
尚斗は四、五回プッシュし、手のひらが艶のある白い液体でいっぱいになる。それを零さないように一気に頭の頂点で手をひっくり返した。
「おあ! つめて!」
「お前、もっと丁寧にやれよ」
辰己もシャンプーを手に取って、ゆっくりそれを髪の毛に馴染ませた。
中学生の頃は適当だったくせにと尚斗は舌打ちしつつも、髪の毛で泡立たせる。
いつもより多くシャンプーを出したからか、それとも元々泡立ちやすいのか。どんどん頭が泡だらけになっていく。
「タツこれ、って……あはは! タツもすげぇ泡!」
泡立ちやすいシャンプーなのか彼にも問おうと思い視線を向けると、前髪をオールバックにした状態で、顔を上げたまま頭上だけが白い泡にまみれた状態だった。
メンズ用のシャンプーのCMで、こんな風に泡だらけになっているものが昔あった気がする。
「超泡だってんな! 漫画のキャラクターでそんなのいた気がするわ」
「俺のこと笑ってっけど、てめぇも随分泡だらけだぜ?」
「すっげぇ泡立つよなぁ」
ワシャワシャと髪の毛をかき混ぜるように洗っていると、「あ、そうだ」と本来の目的を思い出す。
「匂い! 匂いどうだ?」
「あー、そうだったな」
「完璧忘れてたわ」という彼はどこか明後日の方向を向いていて、やる気が無いようだ。
尚斗はほんとに気分屋だと呆れるが、そのまま顔を近づけて匂いを嗅ぐ――すると彼は驚いたように一歩下がり、「な、なんだよ」と表情を歪めた。
「いや、どんな匂いか確かめてみた」
「お前なぁ、突然するんじゃなくてちゃんと前もって言えよ」
「はぁ? ンな必要なくね? 面倒くせぇ」
スンスンと鼻を動かしながらまた辰己に顔を近づける。
「やっぱ前と同じような甘い匂いがすんな。薔薇のような気がすっけど、そこまで濃い匂いじゃねぇから丁度良いな」
「――――っ」
頭だけではなく首筋にも顔を近づければ、ゴクリと唾を飲み込んだ音が聞こえた。
「タツ?」
「っ、なんでもねぇよ!」
「わっ!」
先ほどまで自分の頭を泡立てていたタツだったが、近づいた尚斗の髪の毛に手を入れる。そして泡を飛ばすほどワシャワシャとかき混ぜ始めた。
「ちょっ! 犬じゃねぇんだから!」
笑いながらそれを受け入れていると、「知ってんよクソが!」と悪態をつく。きっと壁にも泡が飛んでいるだろう。
「そういや、俺の方の匂いはどうだ?」
尚斗は泡だらけの自分の手を鼻先に持って行き、先ほどと同じように鼻を動かす。するとフローラルな香りし、「おー、全然違うわ」と辰己の方を見た。
「タツのと比べたら匂いが薄い気がすっけど、ひとりで使ってたらもっと匂うだろうな」
「へー、そうかよ」
適当な返事をしつつもまだ尚斗の頭を洗っている辰己に「ほらお前も」と少しだけ顎を上にし、首筋をさらした。
「は?」
「お前も嗅いでみろよ。いい匂いすっから」
「そもそも提案したのはお前だろ」と付け足せば、グッと辰己は緊張したように身体を硬くする。それに多少の疑問は抱きつつも、それほど気にせずに「おら」と促した。
「嗅いでみろよ」
「…………」
ようやく辰己は頭から手を離し、そして一歩近づく。そしてゆっくり首筋に鼻を近づけて、スンと匂いを嗅いだ。
「な? いい匂いだろ?」
ニカっと笑って言えば、辰己は首筋から顔を上げ、こちらをみる。必然的に目が合わさったのだが。
「タツ?」
「…………」
真っ直ぐこちらを見つめる目は、どことなく潤んでいる気がする。
どうかしたのか聞こうと口を開くが、言葉が喉に引っかかって出てこない。シャワーの音が妙に大きく聞こえ、自身の鼓動がいつもより早いことも気付けば、勝手に頬に熱が灯る。
「えっと……」
その瞳から逃げようとすると、「ナオ」と辰己は名前を呼び、泡がついている手が尚斗の首筋を撫でた。
「ちょっ」
ビクッと身体が驚きで震える。いや嘘だ。驚いて身体が震えたわけではない。
尚斗は一歩下がり、その手から逃げる。しかしすぐ背中は浴室の壁にぶつかってしまった。泡がついている壁だが、それを感じるほどの余裕はない。
「タ、タツ?」
「ナオ」
首筋から顎へ。くすぐるように撫でられて、またビクビクと身体が震えた。
それを熱い視線で見つめていた辰己は、片方の手で尚斗の頬を包み込むように触れる。その手で頬が焼けてしまうような感覚を覚え、再度名前を呼ぶけれど彼は止まらない。
「尚斗……」
ゆっくりと顔が近づいてくる。その光景をどこかで見た気がして、そういえば香水の撮影のときも彼はこうやって顔を近づけたことを思い出す。
その時は永原が入ってきて止まったけれど、今日は二人で住んでいるマンションだ。ここには誰も来ない。
「…………っ」
ぎゅっと目を閉じれば、そんな様子のこちらを笑ったかのように唇に息が掛かる。そして間が空くこともなく、そのまま唇に柔らかい感触を感じた。
「ふっ……・」
たった一瞬。ただ触れただけ、触れ合っただけ。
「ナオ」
「や、待てって」
泡だらけの手は滑りやすいのか、頬を撫でるそれがどこかスムーズで、なぜか背中にゾクゾクとした何かが走って行く。
鼻頭同士を少しだけぶつけ合い、それからまた辰己が首を傾けてくるのに対し、尚斗が逃げるように逆へ顔を背けたが「ほら、尚斗」と囁かれる。
その声にまでドクンと心臓が跳ね上がった。
「ん……」
尚斗の顔を追いかけ、辰己が再び唇を重ねる。
今度は唇が食むように動かされ、尚斗はそれを拒絶するように必死に口を閉じるが、「ぅ、ン」と喉から声が出てしまう。
それが恥ずかしくて逃げたいのに、背中を壁に押しつけることしか出来ない。
何度も何度もこちらの唇を食み、辰己は頬を撫でる。シャワーの音の隙間からチュ、と濡れた音が聞こえ、尚斗は恥ずかしさで死にそうだ。
行き場のない両手は拳を作り壁に張り付けてばかりだったが、不意に頬を触っていない方の手が尚斗の手をそっと掴む。
「ふ、ぁ」
泡立つ手はヌルヌルしていて、手首を指先でくすぐられれば簡単に拳は解かれ、そのまま恋人のように手と手が重なった。そしてまるで標本のように壁に張り付けられる。
「ん、ちょ、待ってタツ」
リップ音を立てながら離れた唇に、尚斗はストップを掛ける。互いに乱れた呼吸をぶつけ合いながら近くで視線を交ぜ合わせた。
「なん、で、こんな……」
自分たちはただ頭を洗ってただけだった。そもそも二人でシャワーを浴びるのも仕事の為だった筈だ。それなのにどうしてこんなことになっているのだろう。
「…………」
「やっ、待てって」
こちらの言葉に答えぬまま再び口付けを再開しようとする辰己に、尚斗は顎を引く。
「いきなり、なんでこんな……そういう雰囲気とか、なかったろ」
「そういう雰囲気って?」
「っ……」
ようやく言葉が返ってきたが、その声は掠れていて、欲情に濡れていた。
「なぁナオ、答えろよ」
「っぁ」
唇を塞ごうとしていたそれは耳元に移動し、今度は赤いピアスが輝く耳たぶを食む。そしてピアスの周りを舌で撫でられれば、腰から力が抜けていった。
「や、タツっ、それ、やだっ」
ビクビクと震える身体が恥ずかしい。耳たぶなんて何度も触られたことがあるのに。
制止の言葉を吐くが、彼はやめることなくそのまま歯を立てた。瞬間「やぁっ」と上がった声は自分の声とは思えないほど高く、もう片方の手で自分の口を押さえた。
「なんで口塞ぐんだよ」
また耳に掠れた声を注がれる。
ブンブンと首を振れば頬から手を離し、こちらの脇の下から脇腹をなぞるように動いていった。
もともと脇腹は弱いのに、まるで何かを引きださんとばかりの手で撫でられれば簡単に身体は跳ねる。
「んっ、んく、んん」
口を塞いでいても喉から零れる声は止まらない。そんな尚斗に辰己は耳たぶから顔を上げ、首を傾けたままこちらを見た。
「気持ちいい?」
そして塞いだ手をまるで唇かのように、尚斗の手の甲をチュッと吸う。
「身体、震えてる」
溢れんばかりの色気でそんなこと言わないで欲しい。
もう嫌だと首を振って壁に背を預けたまま横へずれる。すると電気が走ったような感覚にビクリと肩が跳ね、尚斗は口を塞いでいた手を辰己の胸板に置いた。
「なっ、やっ、タツっ」
助けを求めるように名前を呼ぶが、彼は捕食者のする笑みを浮かべて快感が走るソレに指先で触れた。
「あっ!」
「可愛いな、ナオ」
ほんの少し頭を上げているソレに辰己の手が絡みつく。それに「やだ、やだっ」と子供みたいに首を振れば唇をまた唇で塞がれた。
「う、ン、ぁ、んんっ」
上唇を噛まれ、下唇は舐められる。それだけでも頭の中はいっぱいいっぱいなのに、男の象徴であるソレを扱かれるなんて、混乱しない方が無理だろう。
「くぅ、ん、はぁ、ぁ」
「ナオ」
見つめ合う瞳は、お互いに見たことの無い瞳で、それに吸い込まれるように見合ってしまう。
荒い呼吸がぶつかり合い、「ナオ」とどこか切羽詰まった声で辰己は言った。
「俺のも触って」
有無も聞かずに尚斗の手を取り、そのまま勃つソレへと触れさせる。
「やっ……」
すでに固く、そして熱いソレに怯えるように手が逃げるも、それを許さないと辰己が捕まえる。そして無理矢理、辰己のソレを握らされた。
「俺の真似でいいから」
「で、もっ、ンぁ!」
無理だと言う前に辰己は尚斗のソレを扱きだす。
「ほら、ナオ」
「~~~~っ」
いつもよりも甘い声で促され、尚斗はゆっくりと自身の意思でソレをそっと握り、同じように扱く。
「あ、はぁ、はぁ……」
「くっ」
クチュクチュと鳴るソレが気持ちいい。どうしてこんなことになっているのか混乱し、恥ずかしくて死にそうなのに、どうしようもなく気持ちがいい。
「タ、ツっ」
息を乱したまま彼を見れば、「ナオ」と返される。
悩ましげに眉を顰める顔をもっと見ていたくて見つめていれば、また唇が触れ合った。
(やばい、どうしよう、気持ちいい)
ずっと相手から食まれるだけだったのに、尚斗はそっと唇を開けて、彼の唇をそっと食む。
うまく出来ているか分からないけれど快感に流されるまま何度も食めば、先ほどよりも激しく口付けられた。
「ん、ンっ、ぁっ、イく、イくッ!」
ぷはっと口付けを解いて言えば、扱く手がより強く動く。熱を吐き出すことを促されていると分かった瞬間、尚斗は腰を丸めて快感に声を上げた。
「ぁっ、ぁっ」
高く啼く自分を気にする余裕はなく、射精の快感に頭が真っ白になる。その間に辰己も達したようで、互いに肩に顎を乗せながら呼吸を整えようと深呼吸をした。
「な、んで、こんな……」
尚斗が辰己にそう聞くと、彼は出しっぱなしのシャワーを手に取り、泡だらけのままの頭にお湯を掛けた。
「うわっ」
流れてきた泡に慌てて目を閉じ、頭を下にする。すると辰己は先ほどのように髪の毛を掻き混ぜ、シャンプーを流していった。
「ちょっと、我慢出来なかった」
「あ?」
洗い終えたのだろう。尚斗の頭にお湯が掛からなくなり、顔を上げる。すると今度は辰己は自分の髪の毛を洗い流しており、そのままこちらを見ずに彼は言った。
「最近やたらめったら可愛いからよ、ちょっとふざける感覚でイタズラするつもりだった」
「でも」と言い、泡が無くなった前髪をオールバックに持ち上げ、今度は真っ直ぐこちらを向く。
「てめぇの裸見たらイタズラするどころじゃなくなった。触りたくて仕方がなくなって、でも我慢しようと思ったのにお前が――好きな奴が近づいて来たらもうダメだった」
「え……」
辰己の言葉に尚斗はぽかんと口を開ける。待て、いま彼はなんて言った?
「でも謝る気はねぇ。無防備なお前も悪い」
「いやいやいや、それはちょっと」
違うだろと言いたかったのに、頭の中で『好きな奴』という単語が回っていて上手く言葉が出てこない。
顔を真っ赤にして尚斗は「えーっと、そのー」と視線を泳がせた。
「ちょっとあんま理解出来なかったっつか、間違いだったら悪いんだけどよ」
指で頬を掻きながら、チラリと彼を見る。
「タツは俺のことが好きってこと?」
誤解なら誤解でいいが、それはそれで恥ずかしい。だが辰己は間髪入れずに頷いた。
「そーいうことだ」
「…………」
その自信満々な態度は何なんだ。
そう思うけれどいつも通りの彼に尚斗は少しホッとする。あんなことをされたのは驚いたが、これで互いにぎこちなくなるのは嫌だ。
このまま無かったことには出来ないだろうかと適当な返事をしながら浴室のドアを開けた。
「あー、そうか。分かった。うんうん、なるほどな」
手にバスタオルを取れば、「おいこら」と辰己がこちらの肩を取り、無理矢理彼の方へ向かされる。額に浮いている怒りマークがあった。
「無視たぁ、良い度胸してんじゃねぇか」
「え、いや、別に無視してるわけじゃ」
「ほー? なら返事はどうしたよ」
「返事?」
よく分からないと首を傾げるが、辰己は許してくれない。
「俺はお前のことが好きだっつってんだ。それが友達同士の好きじゃねぇって分かんだろ」
「あんなことされたんだからよ」と言う声に反省という文字が一個も入っていない。少しくらい罪悪感を抱けよと思うけれど、それで辰己の態度がよそよそしくなるのも本望じゃない。
「んで? てめぇはどう思ってんだよ。俺のこと好きだとか、俺も好きだとか、俺の方が好きだとか、なんかあんだろ」
「おい、好きっつー選択しかねぇじゃねえか」
「そりゃそうだ」
辰己は掴んでいた尚斗の肩をポンポンと叩き、自分も浴室から出る。そして彼用のバスタオルでこちらの顔を拭った。
「嫌じゃなかったろ?」
次は頭を拭き始める。こちらのことを気にするより、お前も拭かないと風邪引くだろと思ったところで、
「――――は?」
思考がついにショートした。
「え、は?」
「嫌だったか?」
バスタオルに包まれた頭を持ち上げるように顎を取られる。そして顔を合わせれば、どこか愉しそうに笑う辰己がいて、再度「は?」と声を出す。
「え、なに?」
「だーから、俺とのキスとか、嫌だったか? 気持ち悪いと思ったか?」
「っ…………」
勝手に口から『いや別に』と滑り出てきたのを必死に止めた。
(ちょ、待てよ俺。待てって)
辰己の質問は、すでにショートしている自分の思考には酷すぎる。キャパオーバーどころの話ではない。
(タツの言う通り別に嫌ってわけじゃ……つーか別になんの問題もない、と思うのが問題だろ俺!)
「ナーオ」
「っるせえ! この変態!」
甘えるように名前を呼ばれ、混乱極める尚斗は頭に乗ったままだったバスタオルを取って辰己に投げつけた。
「おい」
「変態のことなんか知るかバーカバーカバーカッ!」
そう叫び、自分のバスタオルを持ったまま廊下へと繋がるドアを思い切り開ける。そして振り返ることなく「バーカバーカ!」と子供みたいに喚きながら自室へと走って行き、中へ入ればずるずるとドアを背にしてしゃがみ込んだ。
(あー、前にもこんなことあったな)
デジャブか? なんて思いながらバスタオルを握りしめ、それに顔を埋める。あの時の方がまだマシだったと溜息をついた。
「何なんだよ一体」
辰己は俺のことが好き。そりゃあ付き合いも長いし、相棒と呼び合っていた仲だ。そこらにいる仲良しよりも固い絆のようなものがあると思っている。
でもそれだけじゃなくて、そういう、色々含んだ意味で好きだなんて。
――可愛いな、ナオ。
「わあああああ!」
浴室で響いた声が、今度は頭の中で響いた。恥ずかしさで死にそうだ。
「あーもーっ! このクソったれ!」
今すぐにでも辰己のことを殴ってしまいたい。何すんだてめぇと喧嘩になってしまえばいい。だが困ったことに、それは喧嘩ではなく、ただじゃれて遊ぶような殴り合いだと知っている。知ってしまっているのだ。
なぜなら――――
「なんで嫌じゃないんだよ、俺ぇ~~」
彼の言う通り、嫌じゃなかったのだから。
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