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2017.5.6.Sat

第九章 回顧 【 五日目 朝 】

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「……光志郎? ……嘘でしょ?」

 木目美しいフローリングの床の上に、光志郎はいた。赤黒く、変色した沼に倒れ伏したその姿を見れば、既に彼が事切れているのは明白だった。

(何で……? どうしてよ。だって、昨日は普通に話して、笑い合っていたのに……!)

 その、光を灯さない彼の瞳を見た瞬間、私はぺたりとその場に座り込む。周りの喧騒は、最早耳に届かなくて。ただただ、目の前の光景を信じたくなかった。
 裏切り者の存在を示唆し、警告してくれた彼。
 崩壊しかけた“裁判”の場を持ち直してくれた彼。
 私を好きな奴と言ってくれた、……彼。
 光志郎の姿が、走馬灯のように頭を駆け巡る。中学時代から変わらない、その食えない笑みにはもう、会えないのかと思うと、胸が苦しくなった。
 現実から逃避したくて、私はそのまま血で染まる床に目を落とした。すると、視界の端に、何かが入り込む。
 何だ? これは?
 仕事を放棄しかけた足を叱咤して、這うように前へ進む。途中、誰かが何か声をかけた気がするが構っている場合ではない。
 伸ばした指先に触れたのは、一冊の本だ。しかも、ただそこに落ちているわけではなく、光志郎の手の下敷きにされている。

(……“そして誰もいなくなった”?)

 生粋のクリスティーフリークだった光志郎の、愛読書。確か事件前夜にも、彼はこの本を読んでいたんだっけ。栞が挟まっているらしく、紫色のリボンが覗いている。

(でもどうして、こんなところに?)

 読書中に、襲撃されたのだろうか。……まさか。それにしては、本は上手い具合に手に敷かれているじゃないか。つまり、これは偶発的なものではない。
 おそらくこれは、光志郎自らの行動による物だ。そう考えると納得がいく。そして何故、彼はそんな事をしたのか。こんなあからさまな示し方。考えうるのはただ一つ。

(もしかしてこれは、ダイイングメッセージ?)

 一瞬、頭に浮かんだ言葉を、私は半信半疑で吟味する。しかし、有り得ない事ではない。だって、偶然にしてはあまりにもおかしいじゃないか。
 良く考えれば、襲撃される事即ち、人狼との遭遇だ。つまり光志郎は、人狼の正体に気付いている。ならこれは、もしかしたら有力な情報かもしれない。

(上手くいけば、人狼を特定出来る。凄いな光志郎)

 私はこっそりと、その文庫本を上着の内側に隠し持つ。今ならまだ誰も、本の事には意識が行っていない。だから、咎められる事も無い筈だ。
 何気無い仕草で私は立ち上がり、早々に場を離れる。その際ふと、壁の一点が目に止まった。血文字だ。そこには、こう書かれていた。

 【守りたかったんだ。あの人を】

(これは、……レイの台詞だ………)

 つまり、光志郎の配役はレイだったわけか。なら残っているのは、カノン、ヒナタ、アキラ、ツバサ、ミズキ、カオル、ユキ、ジュンって事に……。と、そこまで考えたところで、私は首を傾げる。
 ……あれ? 何か、……おかしくないか?
 ふとした違和感に気付いた瞬間、私は顔から一気に血の気が引いて行くのを感じた。何て事だ。もし、これが本当なら……!
 がぁん、と頭を鈍器で殴られるような衝撃に、私は震えが止まらなくなった。そんな私を異常に思ったのか、近くにいた将泰さんが、私の肩を揺さぶる。

「朱華ちゃん大丈夫!? 気分が悪くなったかい!?」
「……私、……ヤバい事に、気付いちゃいました」
「ヤバい、事………?」

 どうして今まで、その可能性を考えなかったのだろう。思えば、最初に手紙のルールを目にした時に、きちんと確認すべきだったのだ。その、齟齬に。

「数が合わないんです!“ユダの箱庭”の残りのキャラと、私達の人数が!!」
「……数が、合わない?」
「はい。今、ここにいる私達は、丸太小屋にいる唯を含めても七人です。キャラはあと八人なのに、……おかしくないですか?」
「何だって? だとすると、……どういう事になるんだ………?」

 まだ、私の言葉を上手く呑み込めていないのか、将泰さんがそう聞き返す。常に冷静な彼らしくないが、多分混乱しているのだろう。
 その間にも、私の中では焦燥感ばかりが膨らんで行く。にも関わらず、誰一人として、未だその可能性に気付けない事がもどかしかった。その時、黎名ちゃんが、静かにこう告げる。

「おそらく、役を掛け持ちしている方がいらっしゃるのでしょう。本来の役と、GMジュンの二役を演じる方が」

 その言葉は槍の如く、容赦無く私の心を貫く。それくらい、衝撃的である事は否定出来なかったのだ。
 だって、その事が表すものは、つまり……。

「……俺達の中に、GMがいるって事なのか………?」

 兄のその一言に、誰もが言葉を失う。
 この新事実が、今後ゲームでどんな影響を及ぼすのか。更なる不安に、私は身を震わせた。



「あれ? ここにあったペティナイフ、一本足りない気がするんですが……?」
「あー、それね。何か切れ味悪くて使い辛くてさー。邪魔だから、奥にしまっちゃった」
「あらら……。そうでしたか……」

 朝食の片付けの最中。包丁スタンドの側で雑談する、比美子と黎名ちゃんを余所に、私はぼんやりと今朝の事について考えてみる事にした。
 あの後、愕然とする私達に、恒例となったジュンからのメールが届いた。あまりにも絶妙過ぎるタイミングに、私は思わず奇声を上げてしまった。
 その時に送られて来たメールを、思い出す。もう、画像を直視しても以前程動揺しなくなっていた。それが、たまらなく苦々しかった。

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From:香澄ちゃん
 Sub:あ~た~らし~い~あ~さがきた♪
File:20**********.jpg
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ぜつぼ~の、あ~さ~だ♪( *´艸)
というわけで、四日目の処刑結果! 今日も張り切って行っちゃうゾッ! d=(^o^)=b

唯さんは……村人でした~。残念~。(((*≧艸≦)ププッ
さぁ大変! 今日の人狼裁判で人狼を処刑出来なければ、村人の負けになっちゃうよ?
全滅しないように、せいぜい頑張ってねッ!!  ヘ(゚∀゚ヘ)

「他人を蹴落として生きて、何が悪いのさ?」










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(この台詞。……なら、唯はツバサか)

 床に転がされた、唯の遺体。朝の日差しに照らされた白い頬には、僅かに血の飛沫がこびりついていた。
 その驚愕に開いたままの目は、何を映していたのか。そして遺体の側には、お馴染みとなった花束が。
 同じように日差しを浴びるそれは、セロファンに反射した光の所為か、十字を型どった輝きを見せている。そこから覗くのは、赤・青・紫の三つの色合い。画面越しでも目立つその花が何かは、既に兄、紫御、将泰さんが小屋にて確認済みだ。
 その花の名は、アネモネ。花言葉は“見捨てられた”。又は“見放された”。そして、……“嫉妬の為の無実の犠牲”。

(……それと、もう一種。ついさっき、ここで見つけたのが………)

 私はちらりと、側にある椅子の足元に目をやる。そこに鎮座しているのは、小さな鉢植えだ。細長く、ラッパにも似た黄色の花は、これまたポピュラーな物だった。
 こちらは、クロッカス。先程のアネモネと同様、花に詳しくない私でも知っている花だ。そんな花の持つ花言は、……“私を裏切らないで”。どちらも、ネガティブな花言葉だ。だが、今に始まった事でもないか、と思い直す。
 それにしても何故、人狼達はわざわざ花を置いて行くのだろう。いくら深夜、村人達の寝静まっている時間帯とはいえ、丸太小屋にまで花を用意するのは、些か骨の折れる作業だと思うのだけど。

 ──もう、ここまで来るとアレだな。これはきっと、人狼達からのメッセージだ。
 ──おそらくだけど、奴らは自分達の伝えたい事を、花言葉に込めているんじゃないかな?“自分達の罪を思い知れ”ってね。

 不意に思い出したのは、将泰さんの言葉だった。“自分達の罪”……か。やはり、今までに送られて来た花達は、無造作に選ばれているわけではないのだ。
 それもそうか。ただ単に、ネガティブな花言葉ばかり並べたいだけなら、例えば“呪い”とか、最もストレートな言葉を持つ花を選べば良いだけの事なのだから。
 なら、今までの花のチョイスは、私達の“罪”に関係していると考えるべきだろう。つまり、送られて来た花全部の花言葉を調べ直せば、何か判るかも知れない。そう考えた、まさにそのタイミングで、ポケットに入れていたケータイのアラームが鳴った。
 突如告げられる、メールの受信。しかも、バイブ音がしない事から、このメールを受け取ったのは私のみという事だ。一瞬、頭の中が真っ白になる。
 どうしたら良いのか判らなくなって、つい比美子と黎名ちゃんに無言で助けを求める。だが、二人もまた、戸惑いを含んだ視線を私に向けるだけだった。

「まずは、内容を確認してみては? まだ、ジュンからのものとは決まっていませんし」
「そ、そうよね! 見てみなよ朱華! あ、でもアタシ達がいると見辛い?」
「へ、……平気。ただ、確認は先に一人でさせて」

 黎名ちゃんが諭し、比美子が同意し、私が承諾する。無駄な連携もあったものだ。結局見る事になるのだから、初めから腹を括れば良いものを。
 気を取り直して、私はケータイを操作する。呼び出された画面はすぐに、受信ボックスにメールが一件届いている事を示していた。
 緊張の一瞬。一度だけ、見守る比美子と黎名ちゃんを一瞥してから、私は画面をタップした。すぐに目的の文章は、私の目の前に現れる。

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From:ユーガくん
Sub:よう、朱姉!(*´∀`)ノ
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ユダの箱庭映画化おめでとう。直接お祝い出来なくてごめんね。今度、どこかで埋め合わせするから、予定あけといてね。 (*ゝω・*)

同窓会、楽しんでる?  僕は今日やっと、熱が下がったとこだよ。まったく、ゴールデンウィークに季節外れのカゼ引くなんてツイてないよね。久しぶりに皆に会えるって、ずっと楽しみにしてたのにさ。(。´Д⊂)

まぁ、スネてもしかたないから、土産話楽しみにしてるよ。もちろんお土産(物品)もヨロシクね。(/ω・\)チラッ

ちなみに本入部の件、やっぱり明兄と同じサッカー部に決めました。最後まで野球部と迷ったけど、僕じゃ将泰さんみたいな名プレイヤーにはなれそうになかったんで諦めたよ(笑)
でも、今めっちゃ充実してるから、結果的に良かったかなーって思ってるけどね。(*´ω`*)

とりあえず、今からもう一眠りするから、また後で連絡するね。(  ̄ー ̄)ノ
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「ユーガ君からだ………」
「え? 相手ユーガ君? 風邪、平気そうなの?」
「お知り合いの方、ですか?」

 黎名ちゃんが、きょとんとした表情でそんな事を聞いて来たので、比美子と私は、ユーガ君の事について説明する。

「朱華の従弟だよ。本当は一緒に来る筈だったんだけど、風邪引いちゃったから、お留守番してるんだ」
「せっかく久々の霧隠荘なのにーって地団駄踏んでたんだよね。……でも、結果的に良かったよ。あの子だけでも、こんなゲームに、巻き込まれないで済んだから」

 私はそう呟きながら、それだけは本当に良かったと思っていた。もし、予定通りあの子もここに来ていたら。そう考えるだけでぞっとする。そう考えると、ユーガ君は本当に、神がかったタイミングで風邪を引いたんだな、としみじみ思うのだった。

「……返信、しなきゃ。ちょっと、外すね」

 それだけを口にして、私は台所を後にする。洗浄途中で泡だらけの食器も手も、気にしていられなかった。早く、あの子と連絡を取りたい。
 ……とは言ったものの。

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To :ユーガくん
Sub:ごめんね。
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姉ちゃん達、無事に帰れないかも知れないんだ。
信じられないと思うけど、殺人事件に巻き込まれちゃったの。
香澄ちゃんも美津瑠さんも、相田先生も。神楽さんも聖も唯も光志郎も死んじゃった。

もう、どうしたら良いのか、わからないの。
だから|












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「……駄目だ。こんなの送れるわけない………」

 むぅ、と唸りながら、私は廊下でメールの返信画面を睨み付けていた。さっきからずっと、返事を書いては消し、書いては消しの繰返しばかりしている。
 正直、何と返すべきか判らない。だってユーガ君は、私達は予定通りに、同窓会をエンジョイしていると思っているのだから。そんな彼に、今の私達の状況を伝えたら、きっと不安にさせてしまう。それだけは絶対に駄目だ。ただでさえ、彼は体調を崩しているというのに。
 かと言って、このまま無視するのも頂けない。それこそ、ユーガ君に心配をかけてしまうだろう。彼は、なかなか勘の鋭い子なのだ。

「……どーしよー………」

 途方に暮れて、思わず天を仰ぐ。もういっそ、嘘で固めたメールを送れば無難なのだろうけど、こんな心境では明るく振る舞えないし……。

「…………はぁ」
「大丈夫ですか? 朱華さん」

 解決策が出せず、つい溜め息を吐く私に人影が近付く。黎名ちゃんだ。彼女は、控え目に私に声をかけると、私のケータイ画面を覗き込んだ。

「あれ? 黎名ちゃん。片付けはもう済んだの?」
「ええ。今しがた終わりました。……返信内容、悩んでるんですか?」
「そうなの。まさか、本当の事を伝えるわけにはいかないし。……正直、あまり不安にさせたくないの。まだ中学校に入ったばかりの子だし、今病み上がりでね。だから余計に心配っていうか……」

 返答が無い事を訝しみ、ふと横を見ると、黎名ちゃんが黙り込んでいた。何やら、考えに耽っている様子だ。今度は、私が彼女に声をかける。

「黎名ちゃん?」
「朱華さん」

 急に、黎名ちゃんがさっと顔を上げたせいで、思いがけずその漆黒の瞳と目が合い、思わず後ずさる。だが、彼女は特に気にした様子はない。
 若干狼狽えてしまった私を見据えたまま、黎名ちゃんはにこりと笑った。見惚れるような笑顔だ。益々混乱する私に、黎名ちゃんはこう言ったのだった。

「気分転換に、付き合ってくれませんか?」
「……は?」



(どうしてこうなった……?)

 廊下でのやり取りから数分後。何故か私は、自転車で森の中を駆け回っていた。
 ふと、先を行く黎名ちゃんの背中に目をやる。付き合ってくれ、と言われたままに付いて来てしまったが、はっきり言って彼女の思惑が判らない。何か理由があって、私を連れ出したのか。それとも本当に、ただの気分転換なのか。
 そこまで考えたところで止めた。何かもう、どっちでも良いや。どうせ、あのままケータイとにらめっこしていたところで、気のきいた返事が思い付いたとは思えないし。なら私自身が、気分転換しても良いかも知れない。
 そんな風にあれこれ考えていると、不意に黎名ちゃんが、前を向いたまま話しかけて来る。

「朱華さん、ちょっと付いて来て頂けますか? 確かめたい事があるんです」

 そう言う黎名ちゃんの、淡々とした声色からは、やはり何も読み取れない。しかも、こちらの返事も待たずにずんずん進んで行く姿は、やや自分勝手な風にも見えた。まぁ、特に悪意を感じなかったから、単にマイペースなだけかも知れないが。

(というか、確かめたい事って何だろう? ……って、あれ? この道、まさか)

 進むにつれ明らかになる行き先に、私は黎名ちゃんの目的に気付く。成程、そういう事ね。確かに、誰もその事に触れていなかったな。
 今まで、霧隠荘や丸太小屋に気を取られていて、すっかり失念していた。けれど、私にとっては少しだけ複雑だ。何せ“それ”を確認した内の一人が、紫御だったから。
 だが、一部の人間の証言だけでは不十分なのも判ってはいる。だからこそ、黎名ちゃんは確かめに行くつもりなのだろう。他でもない、自分の目で。
 なら、トコトン付き合おうじゃないか。もし“それ”が事実であれば、紫御はもちろん、将泰さんの証言を裏付ける証明になるのだから。

「……良いよ」

 気付いた時には、そう口にしていた。というか、断る理由も無いだろう。なら、ついでに私から言ってみようか。気分転換の、真の意味を。

「どうせ私も、見ておきたいと思ったからね。確かめに行こうか。……吊り橋の様子を」

 私の言葉に、黎名ちゃんは素早くこちらを振り向いた。その、少し驚いたような表情に私は、してやったりとばかりにニヤリと不敵に笑って見せた。



 結論から言えば、吊り橋は見事に破壊されていた。最初の議論で、紫御と将泰さんが証言した通りだ。
 みっともなくぶら下がった橋の残骸は、最早修復出来る見込みは無い。逃げ道は完全に絶たれ、私達は地獄という名の孤島へと取り残された。虚しさと喪失感だけが、胸中を駆け巡る。

「……戻りましょう、朱華さん。これ以上は、得られる情報は無さそうですから」
「……そうだね」

 戻る意思を告げる黎名ちゃんに同意し、私達はその場を去る事にした。そのまま二人きりで、無言のまま坂を下る。雑談で気を紛らわせる気力も無かった。一応、ここへ行くにあたって覚悟は決めて来たつもりだが、やはりショックだった。
 私はちらり、と黎名ちゃんの様子を盗み見る。彼女には、この状況はどう見えているのだろうか。つい先程、一緒に橋の成れの果てを見た時には、互いに言葉を交わす事は無かった。だからこそ、彼女の心境が今なお判らないのだ。
 本当に、不思議な子だ。彼女と知り合って五日は経っているというのに、私は未だにこの子の事を理解出来ずにいる。それに、彼女と“超能力少女レノア”との接点も、まだうやむやなままだ。そんな、得体の知れない相手と、二人きり。……やばい、めちゃくちゃ気まずくなって来た。

(こ、このままじゃ気まずさのあまり爆死する……。何か! 何か話題を下さい……!!)

 ボキャ貧の気がある、自身の知識力に話題の提供を願った時、私の耳に届くは水の音。コポコポと流れるようなそれに、私も黎名ちゃんもその場に止まる。

「何の、音? この辺りにそんな、水の流れるような場所ってあったかな……?」
「あちらの方向から、聞こえて来るみたいですね」

 私の零した疑問に、黎名ちゃんは答えながらある方向を指差す。見て見ると、前方からやや北よりの木々の奥だ。若干、正規の道から外れているせいか、鬱蒼とした茂みが地面を覆っている。
 瞬間、私の奥に潜む好奇心がひょっこりと顔を出した。やっぱりいくつになっても、童心という物は失えないのだなぁと、つい思ってしまう。

「何か、気になるかも。私、ちょっと行って来るね。何なら、先に帰っちゃっても良いよ?」

 橋の確認は出来たし、どうせ気分転換目的で来たんだから、良いよね? と誰にともなく言い訳をして、私は茂みの中へと一歩踏み出そうとした。のだが。

「待って下さい! 朱華さん!」

 予想以上に強い力で腕を引かれ、私は面食らう。振り返れば、そこには真剣な目付きで私を射抜く、黎名ちゃんの瞳があった。思わず、息を呑む。
 やはり、危険だから止めろという事なのだろうか。でも、正直めっちゃ気になるし……。
 これは一悶着あるか、と覚悟した時、決着は思いもよらぬ形で迎える事となる。

「抜け駆けは駄目ですよ。私だって行きたいですもん」

 シリアスムードを保ったまま、少女はそう言い放つ。思わず、自転車から転げ落ちそうになった私は悪くない。と思いたい。



「ひゃー! 小川だぁ!!」
「凄いですね。こんな所にこんなに綺麗な場所があるなんて……!」

 茂みを抜けると、そこには小川があった。セルリアンブルーに近い水色が美しい。どうやら先程の音は、この小川の流れる音だったようだ。
 私達は近くに自転車を止めると、小川の側へと足を進める。所々足場が悪く、歩くのに少しだけ苦労したが、何とか川縁まで辿り着いた。小川の水は、底が見える程に澄みきっている。どこかから流れて来たらしい白い浮遊物さえ無ければ、絵葉書にしたいくらいの絶景だ。

「何か、テンション上がっちゃうなー。……おぉ、良い感じの冷たさだぁ!!」

 水面に手を伸ばし、指先で触れてみる。ぱしゃぱしゃと音を立てれば、跳ねる飛沫が心地良い。適度な温度と、爽やかな音が、心を癒して行くみたいだ。

「……そう言えば昔、皆で水遊びした事あったな。……ふとした時に思い出すよね、こういうの」

 小川の端に座り込み、なおも水面を揺らしながら私は呟く。目を閉じれば今にも、その時の光景が脳裡に浮かんで来るようだ。……けれど、それも一瞬の事。
 あの日を共にした人達の多くは、永遠に失われてしまった。楽しかった時はもう、戻る事は無いのだ。過去とは、こんなにも儚く、尊いものだったのか。……いや。
 例え頭で忘れてしまったとしても、心には古傷の如く残る事だってある。昨日、思い知ったばかりじゃないか。それが、本当に消し去りたい事ならなおの事。
 結局のところ、過去から逃れる事など出来はしないのだ。否定しようが拒絶しようが、その一瞬もまた自分の辿った軌跡である事は確かなのだから。
 ならばもう、逃げるのは終わりにしよう。過去に犯した“罪”があるというのなら、その“罪”を清算して初めて、私は先へ進む事が出来る。

「……昨日、兄さんに問い詰めたの。周潤水の事とか、……“あの日”の事を」

 私の一言で、背後から緊迫した気配を感じた。けれど、それに気付かぬフリをして、私は躊躇う事無く言葉を紡いで行く。昨晩の事を思い返しながら。



「すべてを闇に葬り去る事が最善だと思った! 少なくともあの時は、そうするしかなかったんだ……!」

 昨晩、屋外で兄と鉢合わせた時の事。問い詰める私を前に、兄は叩き付けるように叫ぶ。その声色からは、酷く切羽詰まったような焦りが滲んでいた。こんなにも余裕の無い兄は初めてだ。

「……混乱していたんだ。皆。倫理も道徳も関係ねぇ。ただ、隠蔽する事だけしか頭になかった。……この六年間、そうやって自分の罪から目を背けていたのかも知れねぇな。けど、……もう限界だ」

 兄は頭を振りながら、そう口にする。先程とは打って変わった、弱々しい声だ。普段の堂々とした姿とはかけ離れたそれに、私は思わず息を呑んだ。

「……何が、起きたというの? 兄さんや皆が、死に物狂いで隠そうとした事って、一体……?」
「…………まさか、あんな事になるなんて、思っていなかったんだ……」

 そう言って項垂れたまま、兄はようやくその重い口を開く。そこで語られたものは、確かに忌まわしいと言える悲劇のあらましだった。
 “あの日”私達は、“ユダの箱庭”書籍化おめでとうという名目で、ホテルのスイートルームでささやかなパーティを行っていたのだという。
 仲間達と美味しい料理に囲まれた中、兄の乾杯の一言で始まったそれは、つつがなく行われたかのように思えた。この時はまだ。
 やがてパーティも中盤に差し掛かり、一層盛り上がりを見せる室内に、不意に“それ”は起こった。
 最初に異変に気付いたのは、紫御だった。ふと彼の目に止まったのは、ホテルの向かい側に立つ、至って平凡なマンションだ。
 彼は、そのマンションの屋上に人影を見た。ふらふらと屋上の縁沿いを彷迷い歩く姿は、何とも危なっかしい。彼は無性に気になってしまい、その人影を目で追った。
 その様子を不可解に思ったのだろう。身動ぎ一つする事無く、なおも窓の向こうを見つめる紫御に、光志郎が声をかけた。周りも、一斉に彼らに注目する。
 紫御は、そんな彼ら─もちろん、当時の私も─の前で、黙って窓の向こうを指差す。その時点で人影は、屋上の縁に腰掛けていた。

『……あれ、潤水ちゃんじゃないか?』

 将泰さんの一言に、その場にいた全員が強張る。そして、改めて窓の向こうでぼんやりと前方の景色を見やる人影に、目を向けた。
 ……成程。確かに周潤水だ、と全員が彼女を認識する。だが何故、彼女はあんな所にいるのだろう。
 不意に潤水が、こちらの方を向いてふわりと笑った、気がした。まさか、こちらの様子に気付いたのか? 馬鹿な。あの位置から、室内の様子が見えるわけない。
 呆然とする私達の目の前で、潤水が立ち上がる。真っ先に席を立ったのは誰だったか。一瞬にして楽しげな雰囲気は消え失せ、空気が張り詰める。
 一人、また一人と扉の向こうへと消える背中。されど、どれだけ己の足に鞭打ち、急がせたところで、最も空の近くにいる彼女の行動を止められる筈もない。
 慌てふためく声と、窓ガラスを殴打する音。無駄だという事は判り切っている筈なのに。それでも、何かせずにはいられないのが、人間なのだろうか。
 時間にして数秒程。虚しくもその時は訪れる。
 潤水が、まるで鳥が翼を広げるかのように両腕を伸ばし、ゆっくりと前のめりに倒れて行った。
 室内を揺らす悲鳴。誰かが勢い良く立ち上がったせいで、倒れた椅子の音。ドサッと誰かがその場で頽れる気配。そのすべてが、嘆きの曲のよう──。
 その時、何かが潰れるような異音が、聞こえた気がした。
 もちろん、落下地点からかなり距離があるから、直接聞いたわけではない。……ない、筈なのだが。それでも確かに、室内は水を打ったように静まり返った。誰一人動かないし、話さない。ずっと騒音に満たされていたのが嘘のように、沈黙に包まれたのだ。
 だが、それも束の間の事。ふと、兄の耳に届いたのは、お経の如くブツブツと唱えられた、不明瞭な声。不審に思ってその方向を見ると、驚くべき光景があった。
 そこには、酷く青褪めた顔で震える私、……等々力朱華の姿が。その、今にも倒れそうな程に弱々しい様子に、兄は死霊のようだと思ったらしい。

『……おい、朱華!? どうした!?』
『……じゃない。…………私……悪く………私じゃ………………違う…………ない。…………知らない!』

 突然暴れ出した私に、皆は愕然とする。だが、いち速く我に返った兄が、咄嗟に私を羽交い締めにして何とか落ち着かせようとした。

『どうしたんだ朱華!? 落ち着け!』
『私じゃない! 違うの! 違う!! 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う……!!』

 混乱に見舞われた室内に、血を吐くような悲鳴が響き渡る──。



「……そうして私はその場で卒倒。何やかんやドタバタしている合間に、病院に運ばれたってワケ」

 小川の水に手を晒しながら、私は話に一区切りつけた。ちゃぷちゃぷと水中で手を揺らす度、その冷たさに頭が冷静になって行く気がした。

「……それで、運ばれた後……私は深夜になるまで目覚めなかったんだって。……余程ショックだったのね。けど、私が眠っている間に、お医者様とあの場にいた皆で話し合いがなされたそうなの。その時の出来事を私や、……世間から隠し通す為の、話し合いを」

 そこまで話した時、ふと思い出す。多分私は、その会話を聞いている。あの時は半分寝ていたから、それらの内のほんの一部しか覚えていないけれども。

 ──厄介な事になった。どうする?
 ──無かった事にすれば良い。潤水を死に追いやった原因も、パーティの事も全部。
 ──もし、朱華が覚えていたら?
 ──口裏を合わせれば済む話だ。全員で誤魔化せば、バレる心配は無い。
 ──…………………。
 ──良いか? 皆。これは俺達の……“誓い”だ。

 記憶の繋がった瞬間に、苦い想いが込み上げる。きっとあの時から、私の世界は狂ってしまったのだろう。そうして無理矢理封じられた記憶は、いつしか私の中で歪み、やがて夢として私にその存在を示していた。まるで“忘れる事は許さない”とばかりに。
 夢は潜在意識の表れとは、良く言った物だ。私の場合はおそらく、周潤水という親友の存在を無かった事にしてしまった罪悪感、になるのだろうか。
 そして悲劇が起きてから、丁度一年後。つまり今から五年前。一度だけ、私に関する事で会議を開いたそうだ。私を欠いたメンバー一同が、この霧隠荘で。
 その頃には、私の記憶からは事件の事はもちろん、潤水に関する全ての事が抜け落ちていた。良く、不審に思わなかったなぁと我ながら思うが、おそらく、自分が壊れないようにする為の、一種の自己防衛本能だったのかも知れない。
 だが、その程度では兄達は安心出来なかった。もし、ふとした弾みで思い出してしまったら? もし、その時に事情を知る者がいなかったら? その瞬間、間違い無く私は壊れてしまうだろう。それだけは避けなくてはならない。なら、どうするべきか。
 相談の結果、兄達は一つの決断をした。それは、同級生である比美子・聖・光志郎・紫御の四人の内の誰かが、私の志望する高校─行く行くは大学─へ入学するというものだった。
 その決定までには紆余曲折があったらしいが、最終的に同性という事が決定打となり、比美子が私と同じ進学先に付いて行く結果となったのだ。



「これが、私自身も忘れていた、“あの日”の全容だよ。一応、兄さんから聞いた事は、包み隠さず話したつもり」

 一通り話し終えた私は、取りあえずふぅ、と息を吐いた。浮遊物は、いつの間にか川縁にそってプカプカと、こちらへ近付いて来ていた。結構な時間、話し続けていたらしい。やはり、延々と言葉を続ける事は疲れる。その場で伸びをしてから、私はすっ、と立ち上がった。
 そして黎名ちゃんに向き直り、真正面から彼女の眼差しを受け止める。その瞳はいつだって、心の中を見透かしているような気がして、何と無く落ち着かなくなるが、それでも、私は目を反らすつもりはない。
 多分、彼女は本当の意味で“探偵”なのだ。だからこそ、この霧隠荘を訪れたんだと、今なら思う。
 罪を犯す事で、人は一生背負わなければいけない秘密を抱える。それは、想像以上の苦痛だ。けれど罪を暴かれる事で、その重荷は少しだけ減らす事が出来るのだ。
 物語の“探偵”はいつだって、犯人や登場人物達の罪を暴き、それが原因で起こってしまった悲劇を解決する。それは、彼らにとっては一種の救済だ。
 元々私は“探偵”に憧れて筆を取った。自分が“探偵”になれないのならせめて、虚構の中ででも“探偵”となりたかった。そんな私の前に現れた、一つの光。
 彼女が“探偵”だというのなら、私は自らの“罪”を受け入れよう。そして、この五年間ずっと悩まされていた苦痛から解放されたいと、そう思うのだ。

「……“あの日”、“彼女”を自殺するまでに追い詰めた事や、原因を隠蔽した事が、兄さん達の犯した“罪”だと思う。けれどそれだけが、この“ゲーム”が起きる引き金になったとは到底思えないの。それだと、あなたに向けられた告発文や、“芳香と咆哮”の存在の説明が付かないから。それにね、……私自身、その時の記憶が曖昧なの。“彼女”が飛び降りた瞬間も、その前後の事も」
「……完全に、思い出せていないんですか? 明宣さんから、すべてを聞いたにも関わらず?」
「うん。未だにピンと来てないね。まるで、他人の事を聞かされたみたい。他でもない、私自身の話なのに」

 私の懺悔を聞いていた黎名ちゃんは、不意に、ゆっくりと歩き出し、そのまま私の横をすり抜けて川縁にしゃがみ込んだ。そして、何を思ったのか、水面に手を伸ばす。
 ざぱ、と音を立てて、浮遊物が引き上げられる。球体のそれを弄びながら、彼女はぼんやりと小川を見ていた。そんな姿に申し訳が立たなくて、私は謝罪する。

「……ごめんね。大した情報じゃなくて。本当は、昨日の時点で思い出せてれば良かったのに」
「いえ。事件の背景を知れただけでも、十分収穫ですよ。多分、まだ“その時”ではないのだと思います」
「…………“その時”?」
「まだ思い出すべき段階ではない、という事です。おそらく“その時”が来れば、真実も明かされますよ」

 黎名ちゃんの言葉に、私は首を傾げた。今はまだ思い出すべき時じゃない? なら、“その時”は果たして、いつ来るというのだろう。

「……そろそろ戻りましょうか。霧が出て来たら大変ですから」

 その一言で、この話を終わりにするつもりなのだと悟った。確かに、これ以上論議を交わしても、何の進展も無いだろう。私も、大人しく引き下がる事にする。

「……何だか、お魚が食べたくなっちゃった。こんな山中だと、近くに川がないと手に入らないのがネックよね」
「鯖の水煮缶でしたら、いくつかありましたよ。さっき、食料品の整理していた時に見つけました」
「鯖缶かぁ。なら久々にハンバーグ作ろうかな。でもトマトチーズ焼きも捨てがたいし……黎名ちゃん、何食べたい?」
「……お味噌汁とか、良いですねぇ。色々な具材と、生姜をたっぷり入れて」
「お主、なかなか好みがシブいな……」

 そんな他愛ない会話をしながら、私達は自転車を止めた場所へと歩き出す。去り際に見た小川は、相変わらず美しく澄んだ水面を波立たせていた。
 もう一度、この場所に来れたら良い。今度はユーガ君も一緒に。そんな淡い期待が叶う時は来るだろうか。
 けれど今は、この些細な願いにさえ、縋りたかった。



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To :ユーガくん
Sub:ごめんね。人( ̄ω ̄;)
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返信遅くなっちゃった! m(。_。)m メンゴ
姉ちゃん、フィーバーし過ぎて忘れてたよ。U ´꓃ ` U
部活、サッカー部にしたんだね。
兄さんが知ったら、小躍りして喜ぶと思うよ。

こっちは同窓会継続中!୧( ˵ ° ~ ° ˵ )୨
成人式も終えた大人ばっかりだってのに、皆ちっとも変わってないの。何か、昔に戻ったみたいで楽しいよ。
香澄ちゃんも、見ない内に綺麗になったしね。ユーガ君も会ったら見惚れちゃうかも。( *´艸)

そうそう! 実はこっちで私のファンに遭遇しました! 
名前は、烏丸黎名ちゃん。
十八歳とは思えない程に大人っぽい、美人さんだよ。
機会があったら是非とも、ユーガ君ともお友達になれれば良いな。多分、話が合うような気がするんだよね。

明日も、何かあったら報告するね♪
それじゃ、おやすみー。
病み上がりだから、ムリしちゃダメよー。(。・`з・)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「………………よし」

 ベッドに腰かけたまま、私はたった今完成させたばかりの文章に目を通す。その後簡単に誤字を確認してから、やや緊張気味に送信ボタンを押した。
 こんな時間まで返信を先送りにするなんて私らしくもないが、今回は仕方ない。ただ、ユーガ君がこの事を不審に思わないかだけが、少し不安だ。一つ、息を吐く。
 可愛い従弟に嘘を吐いてしまった事は心苦しいが、やはり、本当の事は話せない。どうせ、彼を通して外に伝わったところで、現状を変える事は出来ないのだし。
 ふぅ、と溜め息を吐くと、私は机の上に無造作に置かれた冊子に目をやる。酷く、憂鬱な気分になった。
 私は机に近付くと、その冊子を手に取る。内容は、“芳香と咆哮”の続きだった。そこにはまさに、今日一日で起きた出来事を忠実に再現した物語が書かれている。
 どうして、ここまで事細かに物事が一致しているのだろうか。まるで私達がこの小説、“芳香と咆哮”を演じているみたいだと、つい馬鹿げた事を考えてしまう。

(詰まるところ、この冊子が台本で、私達が役者という事かな。……なんて)

 下らない思い付きに、つい溜め息をもう一つ。やっぱり、気持ちが沈んでいる時は、ロクな事を考えないなと反省する。けれど、この冊子を衝動に任せて、ゴミ箱へ投げ入れる愚行はしない。それは、一種の逃げだ。そんな事をしたら、それこそ人狼達の思惑通りになってしまう。
 私は、人狼達と戦う事を決めた。その為なら、自らの“罪”と向き合う覚悟だって厭わないつもりだ。だから私は、この冊子を利用してやる。自身の“罪”の象徴とも言えるそれは、正に諸刃の剣。私の内に潜む、トラウマを抉りかねない危険物だが、同時に真実に切り込む為の武器にもなり得る。
 ならばこの危険物、利用しない手は無い。いつまでも人狼達の好きにさせるわけにはいかないのだから。
 私は冊子束をぎゅ、と胸に抱くと、ケータイで時刻の確認をする。──八時二十分だった。まだ、時間に余裕がある。さて、どうしようか。

「まず、コレは持って行くとして……。それと、他にいくつか使えそうなモノを……」

 ブツブツと呟きつつも、手を動かす事は止めなかった。何故なら、今回の“裁判”は負けられないからだ。もし今晩、人狼を処刑し損ねれば、その時点でゲームオーバーになってしまう。
 だから、今回は今まで以上に準備する必要があった。もし、こんなところでヘマをしたらそれこそ、犠牲になった仲間達に申し訳が立たない。ふと、私の脳裏に、唯と光志郎の姿が映る。

 ──皆ぁ、朱華センパイが大好きだからぁ、お祝いしたかったんですよぉ~!!
 ──何、弱気になっていたんだよ。お前はそう簡単に終わるような奴じゃないんだ。自信を持てよ!

(……村人は今や、背水の陣に追い詰められている。ユーガ君に土産話する為にも、生き残らなくちゃ! それには、最善の状態で“裁判”に挑まないと。後は、何をしておこうかな? ……そうだ)

 ふと思い立って、私は机の端に置かれた、ある物に視線を移す。……唯の、タロットカードだ。私はそれを纏めていたバンドを外すと、カードを机の上に広げた。
 調べたところによると、タロット占いにはワンオラクルという、カード一枚で占う方法があるらしい。それを知った後、今朝起きてすぐに試してみたのだ。
 引いた結果は“ソードの3の正位置”。確かタロットは、カードの向きも占いに反映されるっけ、と思い、意味を調べて凍り付いた。その意味する事は、“涙を流す程の深い悲しみ”だ。結果として、その数十分後に自分を好いてくれた人の死と対面した。
 たかが占いだがされど占い。例え偶然と言えど、一度的中してしまうと、どうしても気にしてしまう。けれど何故か、占いを止める気にはなれなかった。
 多分、こんな時だからこそ、何かに縋りたいのかも知れない。所謂、神頼み。先が見えない程の闇に挑んでいる今だから、曖昧な忠告さえ有難く思えるのだ。
 カードを良く混ぜ、整えて、良く切る。デッキを前に深呼吸して、目を閉じた。そして、様々な雑念を頭から振り払って、デッキの一番上のカードを引く。

「さてどうだ? っと? ……“聖杯カップの7、逆位置”………?」

 早速調べれば、意味はすぐに出て来た。そこにあったのは、“現実的な思考”、あるいは“的確な決断を下す”というものだった。
 “現実的な思考”と“的確な決断”。……今現在、過去の出来事に振り回されている自分が、正しい思考で“裁判”に参加する事が出来るのだろうか。ネガティブな思考に囚われた私の耳に、扉をノックする音が届く。

(誰? こんな“裁判”直前に? ……まぁ、良いか)

 突然の来訪者を訝しく思いつつも、私は迷う事無く扉を開ける。どうせこの時間の襲撃はあり得ない、と理解した上での行動だ。決して無用心なわけではない。
 前触れも無く開かれた扉に驚いたのか、来訪者は私の見ている前で肩をびくりと震わせる。……何か、可愛い。と、こっそり思った私の前に立っていたのは。

「今晩は、朱華さん。少し、お時間よろしいですか?」
「黎名ちゃん? こんな時間にどうしたの? 取りあえず、入って」
「……失礼します」

 立ち話もアレだからと思い、私は黎名ちゃんを部屋へ招き入れる。そして椅子を引いて少女を座らせると、自分はベッドへ腰かける。

「それで、何のご用事? そろそろ“裁判”が始まっちゃうけど……」
「もちろん、手短に済ませるつもりですよ。時間も惜しい事ですし、早速本題に入りましょう」

 そう言って、黎名ちゃんはポケットからあの黒い手帳を取り出し、机に置いた。そして、身構える私に向かって、思いも寄らぬ言葉を口にしたのだった。
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