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二章 檻の中
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玄関がギィと開き、友里は靴を脱ぐと、昔から体に染み付いた抜き足で軋みやすい廊下を音を立てないようにそうっと歩いた。
リビングには明かりがついており、この家の住人がまだ起きていることが分かる。
目的地は二階にある自分の部屋だ。
気付かれないよう部屋に入り、住人が寝静まったのを見計らってシャワーを浴びよう、そう考えていた。
しかし、友里の企みとは裏腹に、友里の気配に敏く気付いた『彼女』は、リビングの扉を開け友里を出迎えた。
「ゆう君、お帰り。遅かったね。ごはんは?もう食べた?」
リビングから出てきたのは、友里の義理の母、静(しずか)だった。
静はいつも家にいるのに、バッチリと化粧をしている。毒々しいほどの紅い口紅が友里は大嫌いだった。
「静さん、ただいま。うん、余った弁当もらって食べた。」
友里は不自然にならない程度の微笑を浮かべ、さりげなく部屋に戻ろうとした。
「待って。」
友里はビクッと体を震わせ立ち止まり、ゆっくりと静を見た。
「最近外泊が多くない?友達って言ってたけど·········彼女じゃないよね?」
静の見開いた目が友里の視線を捕らえた。友里は目を背けることができず、何でもないふうを装い静の問いに答えた。
「当たり前じゃん。男の友達だよ。勉強教えてもらってるんだ。」
静はふぅんと小さく頷き、突然明るい声を出して友里の腕を掴んだ。
「そうなんだ!そうだよね。ごめんね疑って。今度お友達家に連れておいで。私にも紹介してね。」
「───────う、うん。分かった。」
「シャワー浴びるでしょ?今日ね、見たい映画があるの。一緒に見よう。」
その言葉を聞いたとき、友里の目の前は真っ暗になった。
新(あらた)の言葉に甘え、やはり泊まらせてもらえば良かったのだ。友里は激しく後悔した。
『シャワーを浴びた後映画を見よう』
は、静の合図だ。
静の言われるがままシャワーを終えた友里は、リビングの扉を開けた。
静は既にソファーに座り、テレビの前で友里を待ち構えていた。
静は胸元が大きく空いたネグリジェを着ていた。今年四十になる静の外見は若々しく、そのような露出の高い格好をしていても違和感がない。
しかし、友里にとって静の女性の象徴のような豊かな胸や腰回りは、若い男の欲望に火をつけるものではなく、鳥肌が立つほど嫌悪を感じるものだった。
「ゆうくん、ここ座って。」
静は頬を蒸気させながら、ソファの隣をポンポンと叩いた。
友里は覚悟を決め、そろそろとソファの隣に腰を下ろした。
静はさりげなく友里の肩に頭を乗せ、映画を見始めた。
映画はいつものように恋愛ものだった。友里は映画は好きだが恋愛ものはほとんど見ないし、静と見る映画など内容は全く頭に入っていない。
唯々、『アレ』がいつ始まるのか、内心ビクビクしながら平然を装っているのだ。
映画の主人公達のベッドシーンが始まった。それと同時に、静は友里の太ももの辺りをゆっくりと擦ってきた。
「ゆうくん、疲れたでしょ?リラックスしよう。寝ころがって。」
静は有無を言わさず友里の胸を軽く押し、ソファに寝転ばせると、友里の上に跨がった。
近付いてくる静の体を見ながら、友里はゆっくりと目を閉じ空想の世界に逃げ込んだ。
(これは夢の中だ。こいつは魔物なんだ。)
友里の体を触るこの女が、『静』だと思えば友里の体は嫌悪感で反応しない。しかし、人間ではない何かだと思えば、身体的な感覚のみでなんとか反応できると知っていた。
静は友里が『終わらない』限り行為を止めない。使い物にならなければ、私に魅力がないのねと半狂乱になり、包丁を持ち出すこともある。
だから、友里にとってこの行為は無事に終わらなければならない重大な責務なのだ。失敗すれば、今よりもさらに深い闇が待っていて、成功すれば今日をなんとか生き延びられる。
友里が静とこのような関係になった経緯は複雑だ。
友里は元々、シングルファザーである父に育てられた。
父が五十歳の時にできた子どもだった。父は友里に愛情を注いでくれたが、やはり高齢での男手一つの子育ては苦労が絶えなかったのだろう、友里が十歳の時に、二十以上も年下の静と再婚した。
静に初めて会ったとき、友里の目には静が綺麗で優しそうな義母に映った。実際、静は友里に優しかったし、義母として距離感を間違えることはなかった。
変化が訪れたのは、友里の背が伸び、声変わりした小学六年生頃だったか。
友里が風呂上がりに脱衣所で着替えているところに、偶然なのか静が入ってくることが何度かあった。
「あ!ゆうくん入ってたんだね、ごめんね。」
と口では言うが、何だかジロジロと体を見られている気がして友里は居心地の悪さを覚えた。
決定的におかしいと気が付いたのは、夜中、友里が寝ている子供部屋に入ってきては、寝ている友里の頬や唇を触ったりキスしてくることだった。ある時たまたま目が覚め、静が部屋に入ってきた為寝た振りをした。
最初は、幼い子どもがかわいくて出来心でやっているのだろうと思ったが、同じことが何度も続き、次第に行為はエスカレートしてきた。
友里の服の中に手を入れた為、友里はバッと起き上がり静の手を掴んだ。
「!!·······ゆうくん、起きてたの。」
静は焦るどころか、笑みすら浮かべていた。
「もしかして、今までも気付いてた?気付いて私のこと待ってたんだ。かわいいね。」
友里が何も言えず真っ赤になって固まっていると、静は友里の首に手を回し、頭を撫でてきた。
「私ね。お父さんと結婚して良かったと思ってる。だって、友里くんみたいにかわいい子がいるって思わなかったんだもん。かわいくてかわいくて、全部食べちゃいたい。」
恍惚とした静の声に、友里は恐怖を覚えた。
翌日の朝、起きてきた父に、友里は昨夜の出来事を話した。
「お父さん、静さん変だよ。時々僕の部屋にくるんだ。顔とか体を触ってきて、昨日は服の中に手を─────」
「友里。」
いつも温厚な父が、厳しい声で友里を黙らせた。
「めったなこと言うもんじゃない。母さんはな、お前の本当の母親になりたいと思ってるんだ。母親が子どもの顔や体を触っておかしいか?可愛がってたらキスだってみんなするぞ。」
そう言われればそうかもしれないが、友里は静へ感じている得体のしれない気持ち悪さを上手く父に伝えることができず、もどかしくなった。
それから、静は友里の部屋にくることを隠さなくなった。
父が起きていてリビングにいる時でさえ、ベッドに寝ている友里の側に来ては大胆に体を押し付けたり、友里のあらゆる場所を触ったりした。
友里は次第に寝ることが怖くなった。寝ている間、静に何をされるか分からないからだ。
それでも睡魔には勝てず、ある晩、深い眠りに落ちてしまった友里は、夜中に金縛りのように何かに乗られている感覚と、下腹部の違和感を感じた。
ゆっくりと目を開け自身の下半身を見ると、静が友里の上に跨がり、一部が結合しているのが見えた。
友里は混乱し、下から逃げ出そうとしたが、元々華奢で小柄な友里は非力だった。
静の動きが一段と激しくなり、友里はなす術もなく果ててしまった。
放心状態の友里を上から見下ろした静は恍惚な笑みを浮かべ、嬉しそうに友里の頬をベロリと舐めた。
「ゆうくんの初めてもらっちゃったね。私達ずっと一緒よ。愛してる。」
静が部屋から去った後、『ずっと一緒』『愛してる』という言葉が、呪いのように頭から離れなかった。
友里は屈辱と恥ずかしさ、何もできなかった恐怖で、一晩中泣き続けた。
翌朝、リビングに起きてきた父に今度こそ本当のことを打ち明けようとした友里を待っていたのは、父の強烈な殴打だった。
目が合った瞬間、父から頬を思い切り殴られた友里は床に勢い良く転がった。
何が起こったのか分からず、目を白黒させている友里に、父は言葉を投げつけた。
「お前は恥知らずだ!静の好意を利用して··········断れない母さんを誘惑したんだな!?お前なんか息子じゃない!!」
いつも穏やかだった父が、憤怒の形相で罵詈雑言を友里に吐いている。
友里はあまりのショックに言葉が出なかった。痛む頬を抑え、怒り狂う父を呆然と見ていることしかできなかった。
そこへ、夫婦の寝室から飛び出してきた静が、父の腕に絡み付き、涙ながらに訴えた。
「あなた止めて!仕方ないじゃない、ゆう君はそういうことに興味がある年頃なのよ!?私がいけないの······!母親だから、なんでもしてあげたいって言ってしまって─────」
静の声が、遠くこだましている。友里には全く現実感がなかった。
静にひどいことをされたのは自分なのに、この家の中で悪いのは友里なのだと。
父は何を言っても取り合ってくれない。父は友里よりも、静を選んだのだ。
友里は絶望感にうちひしがれ、靴も履かずに家を飛び出した。
「待ちなさい!!」
すぐに鬼のような形相で父が後を追ってきた。
家を飛び出した息子を心配しているのではない。父の顔には、『逃がすものか』という憎悪が浮かんでいた。
友里は後ろを振り返りながら、無我夢中で道路を走った。追い付かれたら殺される、そう思った。
友里が横断歩道のない大通りを、車の合間を縫って横断した時、すぐ後方で激しいクラクションと、何かがぶつかり壊れるようなドンッ!!という音がした。
友里は立ち止まり、恐る恐る振り返った。
それから友里が見たものは、大型トラックの下に潰された、かつて父だった真っ赤な『何か』だった。
周囲の悲鳴や喧騒がスローモーションのように流れ、友里は呆然としたまま立ち竦み、すぐに気を失ってその場に倒れた。
それから病院で目覚めた友里は、半年間は話すことも、泣くことも笑うこともできなくなった。
父が自分のせいで死んだという事実だけは頭にあった。
警察や児童相談所の人間が代わる代わるやってきては、友里にあれこれ聞いてきた。
友里の目は虚ろで、なぜ殴られた跡があったのか、裸足で外を走っていたのかを聞かれたが、何も答えることができなかった。
静は病院で入院している友里に付き添い、色んな人の前で、『血の繋がらない子を、我が子のように甲斐甲斐しく世話をする、夫に先立たれた可哀想な若妻』を演じて見せた。
病院関係者も警察も児童相談所も、思春期の父と子の激しい喧嘩の末の不幸な事故という見解で落ち着き、友里は一週間ほどで自宅に帰ることになった。
父の葬式で、静は涙をハンカチで拭いながら、
「これからは二人きりだねゆうくん。助け合っていこうね。あの時何があったのか、私達だけの秘密だよ。」
と言った。周囲は泣いている静に同情したが、友里の目には笑いを堪えているように見えた。
小学生最後の半年間は、学校を休んだ。しかし、中学に上がるタイミングからはずっと休んでいることもできなくなり、友里は学校に行き始めた。
快活な少年だった友里は見る影もなく、人の関わりを避け、一人を好む陰鬱な少年に変貌していた。
父の保険金が数千万入ったので、生活には困らなかったが、全て静が管理していた。
父の死後、しばらくは児童相談所の職員が家を訪ねることがあった為、静は友里に面だって何かを仕掛けてくることはなかった。
友里も、父親を死なせてしまった自責の念に苦しめられた。静にも迷惑をかけてしまったという負い目があった為、一年間は何事もなく穏やかに暮らした。
しかし、次第に静の本来の『悪癖』が顔を出し始めた。
今や、この家を支配するのは静に他ならない。友里の戸籍上の母親は静であり、友里に食事を与えるのも、何かを買い与えるのも、静の意思に左右される。
友里は静に反抗した態度を取ることを止めた。
どうせ誰も信じてはくれないし、父は友里が騒いだせいで死んだようなものだ。
静は、友里がしおらしく、静の思うように行動し、静を女扱いすれば大抵機嫌が良かった。ゲームやスマホも買い与えてもらえたし、外食代もくれた。
ある程度の自由と贅沢を得るために、友里は体とプライドを静に差し出した。
高校を卒業するまでの我慢だと自分に言い聞かせた。
高校生になってからは、新のおかげで静と過ごす時間を大幅に減らせた。アルバイトもしていたので、静に頼りきりじゃなくても生きていけるようになり、なんとか息を吸えるようになった。
しかし、それとは裏腹に静の友里への執着はひどくなった。
「女がいるのか、スマホを見せろ」
「私に飽きたのか」
「父親が何故死んだのか思い出して」
とヒステリックにわめき散らし、死んでやると包丁を振り回すこともあった。
友里は感情に鈍くなっていて、高校生にもなると、大抵のことには傷付かなくなっていた。体も静より大きいし、力だって負けないだろう。しかし、失うもののない人間というのは、女であっても何をするか分からないという怖さがあった。
父の死を目の当たりにした友里は、自分は父のようにはなりたくないと強く願っていた。こんな女に殺されるのだけはごめんだと。
(あともう少しだ·······あともう少しで、高校を卒業したらこいつと離れられる。)
そう思うことが、友里の生きる希望になっていた。
リビングには明かりがついており、この家の住人がまだ起きていることが分かる。
目的地は二階にある自分の部屋だ。
気付かれないよう部屋に入り、住人が寝静まったのを見計らってシャワーを浴びよう、そう考えていた。
しかし、友里の企みとは裏腹に、友里の気配に敏く気付いた『彼女』は、リビングの扉を開け友里を出迎えた。
「ゆう君、お帰り。遅かったね。ごはんは?もう食べた?」
リビングから出てきたのは、友里の義理の母、静(しずか)だった。
静はいつも家にいるのに、バッチリと化粧をしている。毒々しいほどの紅い口紅が友里は大嫌いだった。
「静さん、ただいま。うん、余った弁当もらって食べた。」
友里は不自然にならない程度の微笑を浮かべ、さりげなく部屋に戻ろうとした。
「待って。」
友里はビクッと体を震わせ立ち止まり、ゆっくりと静を見た。
「最近外泊が多くない?友達って言ってたけど·········彼女じゃないよね?」
静の見開いた目が友里の視線を捕らえた。友里は目を背けることができず、何でもないふうを装い静の問いに答えた。
「当たり前じゃん。男の友達だよ。勉強教えてもらってるんだ。」
静はふぅんと小さく頷き、突然明るい声を出して友里の腕を掴んだ。
「そうなんだ!そうだよね。ごめんね疑って。今度お友達家に連れておいで。私にも紹介してね。」
「───────う、うん。分かった。」
「シャワー浴びるでしょ?今日ね、見たい映画があるの。一緒に見よう。」
その言葉を聞いたとき、友里の目の前は真っ暗になった。
新(あらた)の言葉に甘え、やはり泊まらせてもらえば良かったのだ。友里は激しく後悔した。
『シャワーを浴びた後映画を見よう』
は、静の合図だ。
静の言われるがままシャワーを終えた友里は、リビングの扉を開けた。
静は既にソファーに座り、テレビの前で友里を待ち構えていた。
静は胸元が大きく空いたネグリジェを着ていた。今年四十になる静の外見は若々しく、そのような露出の高い格好をしていても違和感がない。
しかし、友里にとって静の女性の象徴のような豊かな胸や腰回りは、若い男の欲望に火をつけるものではなく、鳥肌が立つほど嫌悪を感じるものだった。
「ゆうくん、ここ座って。」
静は頬を蒸気させながら、ソファの隣をポンポンと叩いた。
友里は覚悟を決め、そろそろとソファの隣に腰を下ろした。
静はさりげなく友里の肩に頭を乗せ、映画を見始めた。
映画はいつものように恋愛ものだった。友里は映画は好きだが恋愛ものはほとんど見ないし、静と見る映画など内容は全く頭に入っていない。
唯々、『アレ』がいつ始まるのか、内心ビクビクしながら平然を装っているのだ。
映画の主人公達のベッドシーンが始まった。それと同時に、静は友里の太ももの辺りをゆっくりと擦ってきた。
「ゆうくん、疲れたでしょ?リラックスしよう。寝ころがって。」
静は有無を言わさず友里の胸を軽く押し、ソファに寝転ばせると、友里の上に跨がった。
近付いてくる静の体を見ながら、友里はゆっくりと目を閉じ空想の世界に逃げ込んだ。
(これは夢の中だ。こいつは魔物なんだ。)
友里の体を触るこの女が、『静』だと思えば友里の体は嫌悪感で反応しない。しかし、人間ではない何かだと思えば、身体的な感覚のみでなんとか反応できると知っていた。
静は友里が『終わらない』限り行為を止めない。使い物にならなければ、私に魅力がないのねと半狂乱になり、包丁を持ち出すこともある。
だから、友里にとってこの行為は無事に終わらなければならない重大な責務なのだ。失敗すれば、今よりもさらに深い闇が待っていて、成功すれば今日をなんとか生き延びられる。
友里が静とこのような関係になった経緯は複雑だ。
友里は元々、シングルファザーである父に育てられた。
父が五十歳の時にできた子どもだった。父は友里に愛情を注いでくれたが、やはり高齢での男手一つの子育ては苦労が絶えなかったのだろう、友里が十歳の時に、二十以上も年下の静と再婚した。
静に初めて会ったとき、友里の目には静が綺麗で優しそうな義母に映った。実際、静は友里に優しかったし、義母として距離感を間違えることはなかった。
変化が訪れたのは、友里の背が伸び、声変わりした小学六年生頃だったか。
友里が風呂上がりに脱衣所で着替えているところに、偶然なのか静が入ってくることが何度かあった。
「あ!ゆうくん入ってたんだね、ごめんね。」
と口では言うが、何だかジロジロと体を見られている気がして友里は居心地の悪さを覚えた。
決定的におかしいと気が付いたのは、夜中、友里が寝ている子供部屋に入ってきては、寝ている友里の頬や唇を触ったりキスしてくることだった。ある時たまたま目が覚め、静が部屋に入ってきた為寝た振りをした。
最初は、幼い子どもがかわいくて出来心でやっているのだろうと思ったが、同じことが何度も続き、次第に行為はエスカレートしてきた。
友里の服の中に手を入れた為、友里はバッと起き上がり静の手を掴んだ。
「!!·······ゆうくん、起きてたの。」
静は焦るどころか、笑みすら浮かべていた。
「もしかして、今までも気付いてた?気付いて私のこと待ってたんだ。かわいいね。」
友里が何も言えず真っ赤になって固まっていると、静は友里の首に手を回し、頭を撫でてきた。
「私ね。お父さんと結婚して良かったと思ってる。だって、友里くんみたいにかわいい子がいるって思わなかったんだもん。かわいくてかわいくて、全部食べちゃいたい。」
恍惚とした静の声に、友里は恐怖を覚えた。
翌日の朝、起きてきた父に、友里は昨夜の出来事を話した。
「お父さん、静さん変だよ。時々僕の部屋にくるんだ。顔とか体を触ってきて、昨日は服の中に手を─────」
「友里。」
いつも温厚な父が、厳しい声で友里を黙らせた。
「めったなこと言うもんじゃない。母さんはな、お前の本当の母親になりたいと思ってるんだ。母親が子どもの顔や体を触っておかしいか?可愛がってたらキスだってみんなするぞ。」
そう言われればそうかもしれないが、友里は静へ感じている得体のしれない気持ち悪さを上手く父に伝えることができず、もどかしくなった。
それから、静は友里の部屋にくることを隠さなくなった。
父が起きていてリビングにいる時でさえ、ベッドに寝ている友里の側に来ては大胆に体を押し付けたり、友里のあらゆる場所を触ったりした。
友里は次第に寝ることが怖くなった。寝ている間、静に何をされるか分からないからだ。
それでも睡魔には勝てず、ある晩、深い眠りに落ちてしまった友里は、夜中に金縛りのように何かに乗られている感覚と、下腹部の違和感を感じた。
ゆっくりと目を開け自身の下半身を見ると、静が友里の上に跨がり、一部が結合しているのが見えた。
友里は混乱し、下から逃げ出そうとしたが、元々華奢で小柄な友里は非力だった。
静の動きが一段と激しくなり、友里はなす術もなく果ててしまった。
放心状態の友里を上から見下ろした静は恍惚な笑みを浮かべ、嬉しそうに友里の頬をベロリと舐めた。
「ゆうくんの初めてもらっちゃったね。私達ずっと一緒よ。愛してる。」
静が部屋から去った後、『ずっと一緒』『愛してる』という言葉が、呪いのように頭から離れなかった。
友里は屈辱と恥ずかしさ、何もできなかった恐怖で、一晩中泣き続けた。
翌朝、リビングに起きてきた父に今度こそ本当のことを打ち明けようとした友里を待っていたのは、父の強烈な殴打だった。
目が合った瞬間、父から頬を思い切り殴られた友里は床に勢い良く転がった。
何が起こったのか分からず、目を白黒させている友里に、父は言葉を投げつけた。
「お前は恥知らずだ!静の好意を利用して··········断れない母さんを誘惑したんだな!?お前なんか息子じゃない!!」
いつも穏やかだった父が、憤怒の形相で罵詈雑言を友里に吐いている。
友里はあまりのショックに言葉が出なかった。痛む頬を抑え、怒り狂う父を呆然と見ていることしかできなかった。
そこへ、夫婦の寝室から飛び出してきた静が、父の腕に絡み付き、涙ながらに訴えた。
「あなた止めて!仕方ないじゃない、ゆう君はそういうことに興味がある年頃なのよ!?私がいけないの······!母親だから、なんでもしてあげたいって言ってしまって─────」
静の声が、遠くこだましている。友里には全く現実感がなかった。
静にひどいことをされたのは自分なのに、この家の中で悪いのは友里なのだと。
父は何を言っても取り合ってくれない。父は友里よりも、静を選んだのだ。
友里は絶望感にうちひしがれ、靴も履かずに家を飛び出した。
「待ちなさい!!」
すぐに鬼のような形相で父が後を追ってきた。
家を飛び出した息子を心配しているのではない。父の顔には、『逃がすものか』という憎悪が浮かんでいた。
友里は後ろを振り返りながら、無我夢中で道路を走った。追い付かれたら殺される、そう思った。
友里が横断歩道のない大通りを、車の合間を縫って横断した時、すぐ後方で激しいクラクションと、何かがぶつかり壊れるようなドンッ!!という音がした。
友里は立ち止まり、恐る恐る振り返った。
それから友里が見たものは、大型トラックの下に潰された、かつて父だった真っ赤な『何か』だった。
周囲の悲鳴や喧騒がスローモーションのように流れ、友里は呆然としたまま立ち竦み、すぐに気を失ってその場に倒れた。
それから病院で目覚めた友里は、半年間は話すことも、泣くことも笑うこともできなくなった。
父が自分のせいで死んだという事実だけは頭にあった。
警察や児童相談所の人間が代わる代わるやってきては、友里にあれこれ聞いてきた。
友里の目は虚ろで、なぜ殴られた跡があったのか、裸足で外を走っていたのかを聞かれたが、何も答えることができなかった。
静は病院で入院している友里に付き添い、色んな人の前で、『血の繋がらない子を、我が子のように甲斐甲斐しく世話をする、夫に先立たれた可哀想な若妻』を演じて見せた。
病院関係者も警察も児童相談所も、思春期の父と子の激しい喧嘩の末の不幸な事故という見解で落ち着き、友里は一週間ほどで自宅に帰ることになった。
父の葬式で、静は涙をハンカチで拭いながら、
「これからは二人きりだねゆうくん。助け合っていこうね。あの時何があったのか、私達だけの秘密だよ。」
と言った。周囲は泣いている静に同情したが、友里の目には笑いを堪えているように見えた。
小学生最後の半年間は、学校を休んだ。しかし、中学に上がるタイミングからはずっと休んでいることもできなくなり、友里は学校に行き始めた。
快活な少年だった友里は見る影もなく、人の関わりを避け、一人を好む陰鬱な少年に変貌していた。
父の保険金が数千万入ったので、生活には困らなかったが、全て静が管理していた。
父の死後、しばらくは児童相談所の職員が家を訪ねることがあった為、静は友里に面だって何かを仕掛けてくることはなかった。
友里も、父親を死なせてしまった自責の念に苦しめられた。静にも迷惑をかけてしまったという負い目があった為、一年間は何事もなく穏やかに暮らした。
しかし、次第に静の本来の『悪癖』が顔を出し始めた。
今や、この家を支配するのは静に他ならない。友里の戸籍上の母親は静であり、友里に食事を与えるのも、何かを買い与えるのも、静の意思に左右される。
友里は静に反抗した態度を取ることを止めた。
どうせ誰も信じてはくれないし、父は友里が騒いだせいで死んだようなものだ。
静は、友里がしおらしく、静の思うように行動し、静を女扱いすれば大抵機嫌が良かった。ゲームやスマホも買い与えてもらえたし、外食代もくれた。
ある程度の自由と贅沢を得るために、友里は体とプライドを静に差し出した。
高校を卒業するまでの我慢だと自分に言い聞かせた。
高校生になってからは、新のおかげで静と過ごす時間を大幅に減らせた。アルバイトもしていたので、静に頼りきりじゃなくても生きていけるようになり、なんとか息を吸えるようになった。
しかし、それとは裏腹に静の友里への執着はひどくなった。
「女がいるのか、スマホを見せろ」
「私に飽きたのか」
「父親が何故死んだのか思い出して」
とヒステリックにわめき散らし、死んでやると包丁を振り回すこともあった。
友里は感情に鈍くなっていて、高校生にもなると、大抵のことには傷付かなくなっていた。体も静より大きいし、力だって負けないだろう。しかし、失うもののない人間というのは、女であっても何をするか分からないという怖さがあった。
父の死を目の当たりにした友里は、自分は父のようにはなりたくないと強く願っていた。こんな女に殺されるのだけはごめんだと。
(あともう少しだ·······あともう少しで、高校を卒業したらこいつと離れられる。)
そう思うことが、友里の生きる希望になっていた。
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卒業パーティー。
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青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
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