25歳の誕生日のプレゼントは場末の地下物件でした

シンリーベクトル

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あちらのお客様からですサービス

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西村の前に、新しいグラスが静かに置かれた。
「あちらのお客様からです」と告げられ、振り向くと、カウンターの武田がわずかにグラスを掲げていた。
――例のサービスだ。

西村は少し驚き、そして小さく息を整えた。

「……正直に言うと、私、発想力ってあまりないんです」
指先でグラスの水滴をなぞりながら、淡々と語り始める。
「白鳥くんや佐伯さんみたいに、ゼロから面白いことを生み出すタイプじゃない。
 でも、情報を整理して構造を見つけ、形にしていくのは得意なんです。
 未知のデータ点から新しい数式を作るより、散らばったデータを回帰直線にまとめる方が好きなんです。」

少し微笑み、続けた。
「整理した結果を仲間に渡すと、そこから新しい発想が広がる。
 私が平面にしか見えなかった数式が、みんなの手で立体になる。
 ――その瞬間が、私にとっていちばんの喜びです。」

彼女は一呼吸おいて、視線を上げた。
「“あちらのお客様からです”も、山本くんが仕組みにしてくれたおかげで、アイデアが“機能”になった。
 私は、そういう“形にする工程”が好きなんです。理論を定理に変えるような感覚で。」

武田は黙って聞いていたが、やがて短く呟いた。
「……役割を数式で語るやつは珍しいな。
 それだけで、もう発想的だ。」

西村は小さく笑い、グラスを掲げた。

隣の涼子がその様子を見ながら、静かに口を開いた。
「発想と構築。どちらも理論を動かすためには必要ね。」

彼女はグラスの縁を指でなぞりながら、少し遠くを見た。

「きっかけはね、小学生のときだった。
 リビングに父のドラッカーがあって、“経営”って響きに惹かれて手を伸ばしたの。
 父に見つかって笑われたわ――『それを理解できたら大人だ』って。
 その一言が、ずっと胸に残った。」

一度微笑み、すぐに真顔に戻る。
「最初は意味なんて分からなかった。
 でも、“人をどう動かすか”という考え方が大人の世界にはある――そう感じた。
 そこから、私はずっと“人の行動”を観察してきたの。」

涼子は視線を西村に戻す。
「高校の部室で、あなたたちが“人の行動をベクトルで説明できる”って語ってたとき、
 気づいたら身体が勝手に動いてた。
 あれは、私がずっと探していた“答えの種”だった。」

彼女は静かに息を吐き、グラスを軽く持ち上げる。
「私は理論を広める側だった。
 ゼロから創ったのは白鳥くんや西村さん。
 でも、それを人に届かせて、動かす――そこからが私の役割。
 経営者になりたいわけじゃない。
 ただ、“学び続ける経営者”ではありたい。
 いつか、あの父に胸を張って“理解できた”と言えるように。」

短い沈黙が落ちる。
武田はグラスを回しながら、低く言った。
「理屈を動かす力――それがあるから理論は生きる。
 広げる人間がいるから、世界に届くんだ。」

カウンターに氷の音が響く。
西村、涼子、武田――
三人の言葉が、理論と現実の間に静かに橋をかけていた。

武田は静かにグラスを置き、目を細めて語り始めた。
「若い頃、ニューヨークの市場で一晩に数百億を動かしたことがある。
 為替が跳ねる瞬間を読み切って、ヘッジファンドの大物を逆に出し抜いた。
 あの夜だけで会社の四半期利益の半分を叩き出したんだ」

白鳥が思わず口笛を鳴らす。
理沙が目を輝かせ、西村でさえ一瞬だけ驚いた表情を見せた。

武田はグラスを傾け、苦笑を漏らす。

「……だがな、そんな話をしても周りとは温度差しか生まれなかった。
 飲みの席で『昨日数百億動かした』なんて言っても、誰もピンとこない。
 “すごいですね”で終わりだ。
 こっちは命を削って戦った興奮がまだ身体に残ってるのに、伝わらない。
 それが逆に虚しくてな」

西村が少しうつむき、涼子は静かにペンを止めた。

武田はカウンターの天井を見上げ、低く続ける。

「気づけば俺は、勝った喜びよりも“分かち合えない孤独”を抱えていた。
 エリートと呼ばれても、結局は孤立していく。
 ……そんな錯覚を、ずっと引きずってきた」

沈黙。
そのあと、武田はゆっくりとグラスを掲げ、居酒屋のざわめきを眺める。

「だがこの店にいると、少しだけ違う。
 理屈を持ち寄って笑ったり、数字で語り合ったり……。
 本当に見つけたわけじゃない。
 けど、“ここなら俺にも場所がある”って錯覚できる。
 それだけで十分なんだ。
 おまえらの言う“ランク”が満たされていくみたいだ」

西村は真剣な眼差しでうなずき、涼子は小さく微笑んだ。
白鳥が気恥ずかしそうにグラスを掲げ、理沙が「かんぱーい!」と声を上げる。

氷の音と笑い声が重なり、武田の胸に、久しぶりに温かいものが広がった。

――後日、准教授の甲斐が店に現れた。
本を抱えたままスーツのジャケットを脱ぎ、少し緊張した面持ちでカウンターに腰を下ろす。

「先生~! この前ね、武田さんがすごい話してくれたんですよ!」と理沙。
「そうそう。一晩で数百億を動かしたことがあるとか。
 でもその後、“誰とも分かち合えない孤独が残った”って……」と白鳥。

甲斐は一瞬目を細め、グラスを受け取りながら静かにつぶやいた。
「……武田らしいな」

西村が首をかしげる。
「先生、武田さんと昔からの知り合いなんですか?」

甲斐は少し考え込み、やがて口を開いた。
「ああ。昔からの知り合いだ。
 彼がまだ若手トレーダーだった頃、私は大学院で市場理論を研究していた。
 数字と理論で市場を読み解こうとしていた私にとって、武田は“理論を現実で体現する存在”だった」

彼はグラスをゆっくり傾け、思い出を掘り起こすように続ける。

「武田は、数百億を一晩で動かす。
 私は、数式でその一部を説明する。
 ……私の理論は彼の成果に追いつけたのか?
 いや、正直、追いつけなかったことの方が多い。
 だが、だからこそ私は研究を続けてきた。
 “彼がやったことを、後からでも説明できる理論を作りたい”と」

涼子が感心したようにうなずく。
「現場と理論、両輪ってことですね」

甲斐は小さく笑い、グラスを掲げた。
「そうだな。武田は現場で人を動かし、私は教室で理論を広げる。
 違う場所に立ちながらも、互いに補い合う関係なのかもしれない」

そして少し照れくさそうに、静かに付け加えた。
「……彼が“孤独だ”と語ったのなら、私は研究室で似た孤独を抱えてきたんだろう。
 だが、こうして同じ店に座れば、孤独も錯覚に変わる。
 武田がそう感じたのなら……私も同じだ」

場が静まり、やがて理沙が「先生もカンパイ!」と声を上げる。
甲斐は笑みを浮かべ、グラスを高く掲げた。
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