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番外編4

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 目を開けると、見慣れた天井だった。いつもの寝室のいつものベッド。けれど近くにヴァルターはいなくて、代わりに執事長が扉の横に控えていた。

「お加減はいかがですか? 旦那様をお呼びしましょう。旦那様にも身重の奥様への接し方をきちんとお伝えしませんと」

 身体を起こすと同時にベッドの側に近づいた執事長が、俺の顔を遠慮がちに覗き込む。顔色が良かったのか、ほっと息を吐いてすぐに踵を返そうとしたので慌てて声をかけた。

「あの、待ってください! ……ヴァルターに俺の妊娠のこと、まだ黙っててもらえませんか?」

 執事長は僅かに目を瞠り、困ったように眉を寄せた。

「しかし……。何か躊躇われる理由があるのですか? 旦那様は間違いなくお喜びになりますよ。今もハルト様の御身を案じる余り何か勘違いをなされているようで、使用人に尋問を行っている最中でして。……まあ呼び出されたのは普段から少し素行に問題がある者ばかりですから、いっそ良い機会ではありますが」

 どういった理由でヴァルターが家中で尋問などをしているのかは分からなかったが、使用人の皆さんに迷惑をかけて申し訳ないと俺は頭を下げた。けれど、どうしても先程のヴァルターの言葉が、笑顔が、頭から離れない。

 ヴァルターは今のままの生活が良いらしい。子どもは、いらない。
 その事実があまりにも重くのしかかっている。

 優しいヴァルターのことだ、俺が妊娠していると知れば、たとえ子どもが苦手でも喜んでくれるだろう。でも、俺との幸福の温度差が、どうしても怖くなってしまう。そんな不安定な気持ちで、これから出産なんて大仕事を乗り越えられるのだろうか。
 ヴァルターに黙っていれば何かが解決する問題ではなく、むしろ事態がこじれるのも分かっている。それでも今はまだヴァルターに伝える勇気は出なかった。せめてもう少し、自分の心に整理をつけて、覚悟を決めてから伝えたかった。

「もう少しだけでいいんです。どうせお腹が大きくなってきたら分かることだし、それまでには必ず俺から言うので……」
「……かしこまりました。ですが、くれぐれもご無理はなさいませんように」

 俺の必死の訴えに、執事長が折れてくれた。執事長には俺の我儘でいつも気苦労をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいだ。寝室を出て行くその背中を見送ってから、俺はまたベッドに仰向けになった。
 いつ、どうやってヴァルターに切り出そうか。まずはヴァルターが子どもを苦手な理由を聞いてみようか。そんなことを考えていると、執事長と入れ替わりにヴァルターが寝室に入ってきた。

「ハルト、具合はどうだい?」

 身を起こそうとすると手で制されて、ヴァルターがベッドの縁に腰掛けた。優しく頭を撫でられて、俺は微笑み返す。

「うん、もう大丈夫。心配かけてごめん」
「視察の間中、屋敷に籠りきりだったそうだね。少し外の空気を吸ってみないかい? 明日、視察報告に登城するんだが、君も一緒にどうだろう。良い気分転換になるかもしれない。余計な虫が少々邪魔ではあるが……」

 "余計な虫"とは、フランツとカミルを指しているのだろう。これまでの数々の悶着を思い出しているのか、ヴァルターは苦々しい表情を浮かべていた。

 フランツは相変わらずの調子で、顔を合わせれば俺に王家に入れと言ってくる。俺は今はもう正式にヴァルターと婚姻関係を結んでいるにもかかわらず、諦めてくれる気配は一向にない。カミルはカミルで、貴族のしきたりに従う義務はないと言い出して婚姻を迫ってくる。一度は危うくカミルの故郷へ連れ去られそうになったこともあり、大騒ぎになった。
 二人共に良い人だから、俺以外の人と幸せになってほしいと願っているが、その願いはまだまだ叶いそうもない。
 
 そうしたわけで、貴族の倣いとして伴侶を伴った登城が必要な時にはヴァルターについて行くが、そうでなければ余計な騒動の種となるから基本的には俺は屋敷で留守番をしている。
 けれど、王城の華やかな庭園や静かな温室、城下を一望できるテラスの眺めは、確かに今の鬱々とした俺には魅力的に思えた。ヴァルターが国王に報告している間、屋敷から離れた場所で一人自分を見つめ直す良い機会かもしれない。そうして気持ちを落ち着けて、帰りの馬車の中でヴァルターに打ち明けるのはどうだろうか。うん、それがいい。

「気遣ってくれてありがとう。そうだね、邪魔じゃなければ一緒に行きたい」
「それは良かった。私もハルトと同伴できるかと思うと楽しみだ。勿論、明日ハルトの体調が良ければの話だがね。折角だから王宮医師にも君の具合を診てもらえるよう、手配しておこう」

 ヴァルターは目を細めて、俺の額に口づけた。

「明日に備えて今日はゆっくり休むといい。本当は今すぐにでも激しく可愛がりたいが」

 柔らかく頭を撫でていたヴァルターの指がするりと滑り、耳を撫で唇をくすぐる。それにすらびくりと小さく反応してしまった俺を見て、ヴァルターは小さく笑った。恥ずかしくて悔しくて軽く睨むと、更にヴァルターは笑みを深くして、触れるだけのキスを残して部屋を出て行った。

 すっかり翻弄されてしまった。残された部屋で顔を赤くしたまま息を吐き出す。
 ヴァルターはどこまでも優しい。そのヴァルターを裏切るように隠し事を続けるのはやっぱり良くない。
 明日。そう明日だ。明日にはちゃんと言おう。俺は下腹部を撫でてそう決意すると、次第に訪れた睡魔に身を委ねたのだった。
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