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1話「春がはじまる」

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  5.

「ケイくん、好きです。付きあってください」

  1.

 中学生活ものこすところあと一年となった、そんな春休み。

 まっ白な朝の陽ざし。ぽかぽか暖かい陽気のなかに、ほんのり雪どけのなごりを感じる。
 市立舟守中学の体育館うらにはカンザクラの花びらが舞う。やさしく吹く風は新緑の香りとともに、ほのかなシャンプーのにおいを僕の鼻腔まで運んだ。

 目のまえでは僕とおなじ卓球部員の加奈ちゃんが、かわいらしい顔を赤く染めながら、上目づかいに僕を見つめていた。
 部活がはじまるまえの朝、僕はそんな加奈ちゃんにこの体育館うらへと呼びだされたのだった。

 女の子が異性をこんな場所に呼びだす理由なんて決まりきっている。
 僕は加奈ちゃんに告白されたのだった。

「嘘だね」

 僕は加奈ちゃんの告白にそう答えた。
 加奈ちゃんは一瞬だけ表情をくもらせたあと、不思議そうに首をかしげる。

「どうして?」

 その表情には一世一代の告白を嘘だと決めつけられたいきどおりはなく、むしろ、どうしてそれを見ぬけたのかという純粋な興味のいろがあった。

「エイプリルフールに告白するやつがいるもんか」
 僕は単純明快な解をしめした。

 加奈ちゃんは意外そうに目をすこしだけ見ひらいたあと、ちぇっ、と口をすぼめる。

「ケイくんってそういうイベント興味なさそうだから、わからないと思ったのになぁー」

 正直な加奈ちゃんのいいぶんに、僕は苦笑する。

「まあ、ジッサイ、今朝まではそうだったんだけどね」
「だれかに騙されたの?」
「うん、妹に」

 今朝。バタバタとあわただしい足音。うたたねの僕。
 うるさいな、と思っていたら、妹がバンッとドアをあけ、
 お兄ちゃん九時だよ部活遅れるよ起きてー!
 はね起きたら朝の五時だった。

「ふふ、それは災難だったね」
「そうかな。おかげで加奈ちゃんに騙されずにすんだ」
「むう、くやしい」
「はは、ザンネン。さすがに、一日に二回もだまされるバカはいないからね」

 僕が笑うと、加奈ちゃんはすこし考える素ぶりをみせ、そして、いたずらっぽく笑った。

「そこまでいうなら、賭けをしない?」
「賭け?」
「そう。今日じゅうに、あたしがケイくんを騙せるかどうか」
「そんなの、賭けるまでもないと思うけど」

 嘘をつかれるとわかっていて騙されるわけがない。僕はそう思ったが、加奈ちゃんは自信たっぷりな笑みを浮かべる。

「だったら、この賭けのるよね?」
「えっと……」

 僕はなにかみえない罠にかけられているような、そんな錯覚におちいたった。そして、それに気づいた。

「賭けってことは、賭けるものがあるはずだよね? それはなに?」

 これを確認しないで賭けは成立しない。
 加奈ちゃんは挑発するように唇の片はじを吊りあげると、

「そうだなぁー。じゃあ、負けたらなんでも一ついうことをきくっていうのはどう?」
「なんでも……?」
「そう。いまケイくんが考えているヨコシマな妄想を叶えてもいいんだよぉ」

「な、なにゃをなに!」
 その発言はズルい。そんなことをいわれたら、

「僕がそんなこと考えるワケないじゃないか!」
 否定せざるをえない。

「ほんとぉー?」
 加奈ちゃんはニヤニヤとからかうような笑みで僕をみつめた。

「ああ、ちっとも!」
 僕はそう断言し、そして、今日はエイプリルフールだった。

 加奈ちゃんはクスクス笑い、
「じゃあ、賭けは、のるの? のらないの?」
「のるさ!」

 会話は完全に加奈ちゃんのペースだった。
 僕は加奈ちゃんのかけ引きをまえにすっかり冷静さを欠いていた。よく考えずいきおいで即答してしまった。

「じゃあ、決まりだね」
「あ、」

 加奈ちゃんのいやにあかるい声をきいて我に返った。
 だが、いまさら撤回するワケにはいかない。
 いや、これでいいのだ。
 どうせ賭けには僕が勝つ。ようは今日一日じゅう、加奈ちゃんを疑いつづければいいだけのハナシだ。

「そうと決まれば、ケイくん。はやく体育館にもどろ? もうすぐ部活がはじまる時間だよっ!」
「ん……ああ」
 僕はうなずきかけて。

「待てよ。加奈ちゃんは僕を騙そうとしているワケだから、これは嘘」
 ブツブツ……。

「ああ、もうケイくん! はやくしないと部活はじまるよ!」
「ふふふ、まったく。加奈ちゃん、そんなみえすいた嘘に僕が騙されるとでも?」
「なにいってるの! あたし、もうさきに行くからね!」

 そうかけ足でさっていく加奈ちゃんの背中を、あさましいものをみるように眺めながら、僕はのんびりとした足どりで体育館へむかった。

 僕は部活に遅れた。

  2.

 体育館にはいって、壁時計の針をみて、僕の頭皮から首すじにかけて冷たい汗がさした。遅刻だ。

 多くの運動部がそうであるように、僕が所属する卓球部は遅刻にきびしい。数分でも遅れたら最後、きっと、卓球部顧問の飯塚武蔵いいづかたけぞうは鬼のような説教をするに決まっている。

 どうして遅刻したんだ! いいワケをするな! やる気がないのか! ならどうして遅刻をした! だからいいワケをいうな! やる気ないなら帰れ!

 どうしろと。
 で、いっぽう的な暴言をひと通りうけたあと、ペナルティとして学校の外周をエンドレスで走らさせられるのだ。地獄だ。

「運がいいなぁ、ケイ」
「ヒッ――!」
 口から心臓が飛びでた。そう錯覚した。突然となりから声がしたのだ。

 だが、すぐに知った声だと気づいた。
 胸をなでおろしていると、声のぬし、土井俊介が愉快そうに笑った。

「ニュフフ、お前、めちゃくちゃビビってたぜ」
「そりゃそうだろ、遅刻して怒られると思ったんだから」

 僕は土井をにらみつけるが、土井は気にするようすもなく飄々としている。
 僕は降参した。

「で、タケゾーはどこ行ったんだ?」

 卓球部の鬼監督は不在だった。

「さあ? なんか用事があるらしくて、十一時くらいまでおらんらしーわ。それまでこのメニューをやっとけってさ、書き置きのこして帰ってったわ」
「うげ」

 土井の掲げたコピー用紙にはびっしりと練習メニューが書きこまれていた。

「で、これ、ぜんぶやるの?」
「まさか。こんなもんだれがやるかい」

 土井がとぼけて笑う。僕は体育館を見わたした。

 体育館はおおきなネットではんぶんに区切られ、そのむこうがわではバスケ部の生徒がウォームアップをはじめている。僕の中学では体育館を利用する部活が三つあるので、こうしてはんぶんに分割して午前・午後・全日で交代しながら使っているのだ。
 そして、今日は卓球部が半面を一日じゅう使えるはずの日だったが、かんじんの卓球台が一台も準備されていなかった。

 土居はニイッと笑みを浮かべると、
「まあ、つーわけで、一緒にモンハンでもやろーぜ」
「いや、僕ゲーム持ってきてないし」
「マジか。準備わるっ」

 なんの準備だよ。心のなかでツッコむ。

 土居は手をひらひらと振りながら、
「じゃー、オレら、更衣室でモンハンやりよるわ」
「はいはい」

 さて、どうしようか。僕は土井を見送りながら考えた。

 卓球部はほかの運動部とくらべても遜色ないぐらいに体育会系している部活だ。平日は部活動時間ぎりぎりまで、休日は体育館がつかえる時間ずっと。ランニングや筋トレなどの基礎訓練もみっちりおこなわれるし、練習をサボるなんてもってのほかだ。

 しかし、それは顧問の存在によるところがおおきい。学生時代、全国大会に出場したことがご自慢の鬼軍曹がいるまえではみんな一生懸命に振るまうしかなかった。ようするに、独裁者による恐怖政治なのだ。

 だが、こうしてやつの目がとどかない場所では部員の本性が発揮される。

 そもそも、たいして強くもない卓球部に入部する生徒なんていうのは、だいたいがスポーツ少年からあぶれたインドア派で、生徒の大半が運動部に入部する手前しかたなく、いちばんマシそうな卓球を選んだにすぎないのだ。それがまちがいだとも知らずに。

 そんな運動ぎらいの卓球部員たちが、顧問のいない絶好の機会に、わざわざ練習なんてするわけがない。男子も女子も関係なく、ひとときの自由を謳歌している。

 トランプや携帯ゲーム機で遊んでいるやつらがいれば、ピン球とプラスチック棒で野球のまねごとをしているやつもいる。女子部員たちが壁にもたれかかって談笑し、プロレスごっこをしていた男子部員がその集団にぶつかってひんしゅくをかっている。

 カオスだ。

 だが、僕にはほかの部員のような思いきりがなかった。いくら顧問がいないからって、こんなに堂々とサボる気にはなれなかった。

 まじめなわけじゃない。
 こわいのだ。

 こうしてサボっているあいだにも鬼顧問飯塚武蔵が帰還するのではないかと気が気でないのだ。
 ようするに僕はビビリだった。

 そういうワケで、僕はひとりでせっせと卓球台の準備をはじめた。

 自分はいかにもまじめにサーブ練習をおこなっているふうによそおい、いつ顧問がもどってきてもいいワケをできるようにしようという魂胆だった。
 どっちみち怒られるのにはかわらないが、ただサボるよりマシだろう。

「ケイくん。はい、ネット」

 僕が卓球台を出しおえると、タイミングよく加奈ちゃんが僕に近づき、台にとりつけるネットを渡してくれた。

「ありがと……って、え? どうして?」
「あたしもケイくんと打とっかなって。なんかみんなやる気ないみたいだから」
「え。」

 意味がわからなかった。

 確かに、卓球部は運動部にしてはめずらしく男女混合である。もともとは別々に活動していたらしいが、顧問をつとめる教員の不足にくわえて、どうせ男女ともにおなじような練習をするうえに試合会場もおなじことがおおいので、それならば統一してしまえばいいというコトらしい。

 だが、だからといって男女が直接打ちあうことはなかった。べつに禁止されているワケではない。だが、男子と女子では体力がちがうし、実力もちがうし、打球感もちがう。
 でも、それはたいした問題じゃない。もっと単純で、もっと深刻な問題がある。

 恥ずかしいのだ。

 なにせ、ちょっと色気づくとすぐに茶化され、はやし立てられる年ごろである。
 もし仮にここで僕が加奈ちゃんと一緒に練習をはじめようものなら、その瞬間に好奇の視線が僕たちを包囲するのだ。僕たちは卓球部の晒しものになるのだ。

 死ぬ。
 まちがいない。

 だから僕は加奈ちゃんの提案を断らなくてはならなかった。

「あ、あのっ」
 僕が口をひらくと、加奈ちゃんはきょとんと首をかしげた。

「なあに?」
「え、えっと……」

 正しい言葉がみつからない。
 僕なんかが加奈ちゃんの誘いを断っていいのだろうか。それこそ、あってはならないことなんじゃないか。
 そんな僕を瞳にうつしながら、加奈ちゃんは表情をくもらせる。

「もしかして、嫌? だった?」
「そ、そんなことないひょ!」

 裏声になった。
 耳まで熱い。
 恥ずかしい。

 しかし、加奈ちゃんは僕の失態なんて気にした素ぶりもみせず、
「よかった」
 と、純粋な微笑みを浮かべる。

 ああ。

 彼女はきっと、まわりのことなんてちっとも気にしていないのだ。
 僕を練習に誘ったのだって、嘘をつくのに都合がいいからとか、そんなものだろう。

 ちょっとはこっちの身にもなってくれ。
 そう文句をいいたい気分だった。

 うらみがましく加奈ちゃんをみると、彼女はそんな悩みとは無縁の鼻歌を口ずさみながらネットをとりつけている。

「……アホらし」

 僕は自分の不安がちっぽけなものに感じ、ちいさくため息をついた。

  3.

「ほらっ、ケイくん。空をクジラが飛んでるよっ」
「小学生の嘘じゃないんだから……。それにカーテン閉めきってて空なんか見えないし」
「じゃあ、ほらっ! 天井に全裸の校長先生がへばりついてるっ!」
「それは……ちょっと見てみたいかも」
「ケイくん、証拠はあがってるんだよっ!」
「え、なんの?」
「公然わいせつ罪」
「それは校長先生」
「だれがわいせつ先生じゃっ!」
「こ、校長先生……っ! て、モノマネにしてもぜんぜん似てないよ、加奈ちゃん」

 バスケ部から聞こえる激しい練習音の隣で、僕たちのあいだを往復するピン球がひかえめに鳴っていた。

 やはり、加奈ちゃんが僕と一緒に打ちたいといいだしたのは嘘をつくのに都合がいいからみたいで、加奈ちゃんはラリーの最中にさまざまな嘘をしかけてきた。

 わかってはいた。
 だけど、やはりそういう打算があったのはすこし残念だ。

 そして、加奈ちゃんの嘘はすこしどころではなく残念だった。もはや嘘と呼ぶのすら馬鹿らしいレベルである。

 とはいえ、たまには異性と練習するのもいい。健全で殺風景な部活動に花が添えられたみたいだった。

「……」

 まわりの目さえなければ、と僕は思う。

 舐めまわすような部員たちの視線。
 ひそひそときこえてくる声。

――え、あのふたりできてんの?
――いやいや、釣りあわないだろ。
――ケイのやつ、鼻のした伸ばしてない?
――おれ、加奈ちゃんのこと狙ってたんだけどなー。
――え、お前もかよ。
――くそー、ケイのやつ……!

 いたたまれない。
 まるで、動物園の見世物にでもなった気分だ。

 本当に付きあってるならまだしも、どうしてなんの罪もない僕がこんな公開羞恥プレイをしなくてはならないのか。
 だが、いったん加奈ちゃんと打ちはじめた手前、リタイアすることもできない。

 けっきょく、僕は耐えがたい恥ずかしさに耐えながら、ぎこちなく練習をつづけるしかないのだ。

 そうしていると、敏感になっていた僕の聴覚が、こちらに接近してくる遠慮がちな足音をとらえた。
 僕がラリーをやめてそちらを見ると、女子部員のひとりが好奇心を抑えられないような表情でこちらを見ていた。

 彼女はすこしためらったあと、
「なあ、ふたりは付きあっとん?」
「え、えっとぅ、その……」

 僕はしどろもどろになった。

「うん。付きあってるよ」
 加奈ちゃんが平然といった。
 やけに明るい声だった。

「「マジ!?」」

 体育館がどよめく。僕も驚く。
 そんななか、加奈ちゃんはつづけてこう笑うのだ。

「さて、今日はなんの日でしょう?」

 四月一日。

 それは、エイプリルフールだった。

4.

 やっと部活が終わった。

「酷い目にあったね……」
「本当だよ……」

 部活の帰り道、加奈ちゃんと二人で頷きあう。

 加奈ちゃんの発言に卓球部が振りまわされたあの直後、伝えられていた予定よりはやく顧問が帰ってきたのだ。
 練習しているのは僕と加奈ちゃんだけ。卓球台の準備すらされておらず、さらにはトランプや携帯ゲーム機まで散乱している。

 当然のごとく、鬼のごとく、飯塚武蔵は激怒した。
 こてんぱんに怒られた。徹底的に怒られた。親の仇ぐらい怒られた。死ぬほど怒られた。とにかく怒られた。

 それからは地獄だ。
 体罰すれすれのシゴキ。部活という名の拷問。

 とばっちりだ、と僕は思った。

 先生、僕は練習してたんです!
 そう心のなかで訴えた。

 だけど、口にすることは許されなかった。そんなことすれば、火に油なのはわかりきっていた。

 体育会系なのだ。連帯責任なのだ。僕が悪いのだ。

 終わったときには、みんなヘトヘトだった。

 とにかく、部活は終わった。
 部活が終わってからもしばらくは動けず、みんな体育館の床と同化していた。
 三十分が過ぎて、帰宅の準備をはじめるやつが現れた。僕がようやく立ちあがったのは、そのさらに十分後だった。

「そういえば、加奈ちゃん」

 僕は思い出した。

「賭けは僕の勝ちだよね?」
 僕がいうと、

「にはは……」

 加奈ちゃんは苦い笑みを浮かべ、
「あたし、嘘つく才能ないみたい」
 降参するように両手をあげた。

 さて、いったいどんな命令をしてやろうか。僕は舌なめずりする。なにせ、なんでもいいのだ。

 なんでもってなんだ?
 なんでもといえば、なんでもである。

 メイド服でも、チャイナ服でも。スクール水着でもボンテージでも紐ビキニでも絆創膏でも手ブラでも。
 三回まわってワンと鳴かせることもできるし、首輪をつけて散歩することもできるし、疲れた筋肉をマッサージしてもらうことだってできるのだ。

 おとと、よだれが。
 僕がそんなヨコシマな妄想を膨らませていると、

「でも、」

 加奈ちゃんがそうつぶやき、
「ひとを騙す才能はあったりして」

 いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「ひとを騙す才能?」

 オウム返しに、僕は問う。
 なにをいってるんだ。加奈ちゃんはさっき負けを認めたじゃないか。

 困惑する僕を見て、加奈ちゃんはチ、チ、チ、と人差し指を振り。

「嘘をつくだけが、ひとを騙す手段じゃないんだよ?」
「へ。」

 意味がわからない。

 加奈ちゃんは人差し指をそのまま自分の唇に添えると、
「そう。例えばなんだけど、あたし今日まだ一度も嘘をついてないんだよ」
「嘘だあ」

 ありえなかった。

 だが、加奈ちゃんは心外そうに唇をとがらせ、
「嘘じゃないよーっ」
「じゃあ、クジラとか校長先生のくだりはどうなるんだよ」
「あれは、冗談だもん」

 加奈ちゃんがリスみたいに、頬をぷくーっと膨らませた。

 ラリー中のあれが冗談だったとしたら、あとは……。
 ある。決定的な嘘が。

 それは、今朝。僕と加奈ちゃんが体育館裏でむかいあったあのとき。

 僕たちがこの賭けをするきっかけになった嘘。
 加奈ちゃんが、僕を好きだといった。そんな嘘。

 そこまで考えて、ふと、思った。

 もし、あの告白が嘘じゃなかったら?
 今朝、僕は加奈ちゃんにいった。エイプリルフールに告白なんて普通ありえない。

 本当にそうか?
 加奈ちゃんは僕にこういったのだ。僕はエイプリルフールなんてイベントには興味がなさそうだ、と。

 加奈ちゃんはひとの嫌がることをするような娘じゃない。なのに、エイプリルフールだと知らないはずの僕に対して、そんなアンフェアな嘘をつくか?

 いや、しない。少なくとも、僕の知っている加奈ちゃんがそんなことするわけがない。
 だから、ほかになにか理由があるのだ。

「そうか……」
 僕はその可能性に至った。

 もし、今日がエイプリルフールでなければ、僕は加奈ちゃんの告白に正直な答え――つまり、OKの返事をしただろう。
 でも、加奈ちゃんにしてみれば、僕が加奈ちゃんの告白を受けいれるなんて確証はどこにもないのだ。

 だから、保険をかけた。
 失敗してもいいように。もし僕にフラれても「エイプリルフールの嘘だった」といい訳できるように。

 そうだ。きっとそうだ。そうに違いない。

 だって、加奈ちゃんは僕に告白を嘘だと指摘されたとき「どうして?」と返したのだ。
 嘘をつくのが目的だったのなら「ばれたか」と悔しがるのが普通だ。加奈ちゃんなら絶対そうだ。

 だから、加奈ちゃんには最初から、嘘をつくつもりなんて一ミリもなかったのだ。
 加奈ちゃんは僕のことが好きだったのだ。

「ねえ、ケイくん」

 不意に加奈ちゃんの声がした。
 びくり、と僕は加奈ちゃんを見た。

 加奈ちゃんは鞄からピンクの封筒をとりだす。
 まるでラブレターだと、僕は他人ひとごとのように思った。

「これ、昨日の夜、書いたんだけど……さっきは断られちゃったから渡せなくて、」

 胸の鼓動が、痛い。
 足がガクガクする。
 頬が、熱い。

「ケイくん、ごめんなさい。断られるのが怖くて、素直になれなかったの。いまから、あたしの本当の気もちを伝えます。今朝のくり返しになるけれど、」

 どこかでカラスが鳴いた。

 そして、加奈ちゃんは告白した。

 7.

 その日の夜。

「ただいま、ケイ! きいてくれ、父さん大阪に転勤することになったんだ!」
 父は帰ってくるなりさけんだ。

「お前も転校しなくちゃいかんっ! 友だちと別れるのはつらいかもしれんが……」

 あわてた演技でドタドタ玄関をあがってくる父に、リビングでテレビを眺めていた僕は冷ややかにいった。

「エイプリルフールの嘘なら間にあってるよ」

 僕は昔やった理科の実験を思いだした。
 過冷却水に衝撃を与えたときみたいに、父は一瞬にしてガチガチに固まってしまった。

「し、知ってたのか?」

 父が落胆する。

「今日、二回も騙されたんだ。もう騙されない」

 僕の視界は涙でぼやけていた。

 6.

 桜が散る。

 加奈ちゃんは僕に告白したあと、ラブレターを渡してきた。

「待って――!」
 僕が開けようとすると、加奈ちゃんが制止した。

「恥ずかしいから、一人になってから読んで」
「う、うん」

 恥ずかしいことが書いてあるのか、と僕は思った。
 それくらい赤裸々に彼女の気もちが綴られているのだろうと信じた。

 僕は加奈ちゃんのラブレターを鞄の中に丁寧な動作でしまい、それから僕たちはゆっくりと帰宅した。
 加奈ちゃんは自転車通学だったが、自転車を押しながら僕のとなりを歩いた。

 ろくに喋れなかった。
 二人とも目もあわせられず、たまに独りごとをつぶやいては、よくわからない相づちを返すだけだった。

 でも、楽しかった。
 学校から僕の家までの五百メートルはあっという間に過ぎてしまった。

「じゃあ、ね」

 加奈ちゃんがなごり惜しそうにいった。

「うん」

 加奈ちゃんが自転車を漕いで去っていくのを、ずっと見送った。
 加奈ちゃんがいなくなってからも、しばらくその方向を眺めていた。いつまででも見ていられる気がした。

 足もとで猫が吠えた。近所の猫だ。

 はっ、とわれに返った僕は、家にはいろうとして、さっきのラブレターのことを思いだした。一刻もはやく、この内容を知らなくてはならなかった。

 僕は鞄からゆっくりと封筒を取りだすと、指についた汗をなんども、なんどもズボンで拭き取りながら、汚さないように、折り目をつけないように、慎重に、慎重に、その中身を取りだした。

 かわいらしい模様の便せんが、三つ折りにされてはいっていた。
 僕はそれをおもむろにひらく。

「……え」

 一瞬、なにが書いているのかわからなかった。
 そのあと、目を疑った。
 だけど、たしかにそう書かれていた。
 たった一言。

『今日はなんの日でしょう?』

 エイプリルフールに決まっていた。

  8.

「ねえ、ケイくん。お返事いただけるかしらん?」

 翌朝、体育館にはいると、加奈ちゃんが得意げに待ち構えていた。

「あーもう、はいはいっ!」
 やけくそだった。

「僕の負けですよ、僕の負け! 降参、コーサン!」

 両手をあげてさけぶ。
 加奈ちゃんがくすくすと笑う。

 僕はそのかわいい笑みが無性に腹立たしくて、

「よくもまーこんな嘘つけるもんだよ! 最低だ!」
「嘘? なんのこと?」

 加奈ちゃんがとぼけたように、きょとんと首をかしげる。
 こいつ。これ以上僕をコケにするつもりか。

「昨日の告白だよ! くそっ、僕もうお婿にいけないっ!」

 なにが素直になれなかった、だ。
 なにが本当の気もち、だ。
 なにが好きです、だ。

 ぜんぶ嘘じゃないか。
 僕がうつむいて屈辱に震えていると、加奈ちゃんがその場にしゃがみ込んで、僕の顔を上目づかいに覗きこんだ。

 そして、ニマッ、と笑みを浮かべると、
「ケイくんは二つ、勘違いしているよ」
「なにを、」
「まず、あたし。昨日、一つも嘘をついてないんだよ?」
「嘘だ」

 嘘に決まっていた。
 エイプリルフールでもないのになおも嘘をつこうとするのか。

「昨日、加奈ちゃんは僕に告白して、ラブレターは偽物だったんだ。『今日はなんの日でしょう?』って、そう書いてたじゃないか!」
「じゃあ、昨日はなんの日なの?」
「だから、エイプリルフールじゃ、」

 加奈ちゃんは立ちあがった。

「なにいってるの、昨日はあたしたちの『交際記念日』だよ?」
「は――」

 なに、。?

 ちょっと待て。
 思考が追いつかない。

 昨日はエイプリルフールだ。そうに決まっている。だから、僕は賭けをしたんだ。騙されたら負け、

「嘘をつくだけが騙す手段じゃないって、いったでしょ?」

 物わかりの悪い生徒に教えるような、丁寧な口調だった。
 嘘、じゃない?
 嘘じゃないけど、僕は騙された?

 昨日の告白は嘘じゃない。ラブレターの内容も嘘じゃない。
 まさか。そういうことなのか。

 あの手紙には『今日はなんの日でしょう?』と書かれていただけで、告白が嘘だとも、今日がエイプリルフールだとも書かれていない。だいたい、エイプリルフールだからといって必ず嘘をつく必要もない。だって、加奈ちゃんは嘘をついてないといってるのだ。

 つまり、あれは嘘をつかずして僕をミスリードさせるものであり、加奈ちゃんは僕のことが……。

 いや、待て。
 そんなこと、ありえるのか。
 僕なんかを。加奈ちゃんが。

 僕が半信半疑に加奈ちゃんを見ると、彼女は唇をちいさく動かした。

「それと、もうお婿に行けないとか、いってたけど、」

 僕の脳内がまっ白になる。

 そんな僕の視界のなかで、加奈ちゃんの表情だけが、目まぐるしく移り変わっていった。
 頬を赤く染め、ためらうように目を逸らし、意を決したように僕を見つめ、恥ずかしそうに口をパクパクと開き、咳払いをして、蚊の鳴くような声でなにやら呻いたあと、それは唐突にきこえた。

「お婿さんには、あたしのところに来たらいいよ!」

 加奈ちゃんがゆでだこみたいに赤くなっていた。直立不動の姿勢で僕をまっすぐ見て、居心地のわるそうに唇をもぞもぞさせている。ズボンを両手でぎゅっと握りしめるもんだから、しわくちゃになっていた。

「んあ……」
 しゃべろうとして、声がうまくでなかった。のどで引っかかった音のカケラが不格好に漏れただけだった。

「それって」
 今度はうまく声がでた。

「ん。」
 加奈ちゃんは口を閉じたまま肯定した。

 長い沈黙。
 その間、僕たちはずっと見つめあっていた。

 僕はなにかいおうとして、先に口を開いたのは加奈ちゃんだった。

「賭けは、あたしの勝ちだよね?」
「うん」

 加奈ちゃんはもじもじと肩を左右に小さく揺らしながら、
「じゃあ、あたしの命令、きいてもらいます」

 そして、僕に命令した。


「あたしを幸せにしてください」
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