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Part2 Rasidensy Days of the Southern Hospital

Chapter_04.あなたに微熱(1)勉、おかしくなる~勉、発熱する

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At the Southern Hospital, Nakagusuku Village, Okinawa; 3:45PM JST, July 23, 1999.
At Nishihara Town, Okinawa; 1:10PM JST, July 24,1999.
At the dormitory for single employees of the Southern Hospital, Nakagusuku Village, Okinawa; 1:50PM JST, July 24, 1999.
The narrator of this story is Tsutomu Uema.
I dedicate this story to all of you in commemoration of 100 hits of this site. (^o^)
本章は2005年Web掲載時に来訪者100人突破記念「お題:‘100’な小咄(こばなし)」として企画されたものです。

……どうしよう。あれから一週間経つのに、まだおかしいぞ、俺。

とりあえず、勤務はこなしている。医師が指示を出さなくちゃナースは動けないから。もっとも、ナースはいっぱいいるので指示を出す相手は別に多恵子でなくてもいい。気が楽だ。
でも、彼女が近づいてくると、もうダメ。僕はきょろきょろ目を泳がせ、逃げ場を探してしまう。実際、よく逃げる。雑務なら山ほどあるし、まさか逃げているようには見えないだろう。

七月も終わりに近づいた金曜の午後、伊東先生が執刀したオペの助手を務めあげた僕は、医局の廊下に差し込んでくる真夏の太陽光線を、ある種の達成感に酔いしれながら眺めていた。新米研修医が患者さんの術後管理に当たっていて、シニア研修医である僕にちょっとした息抜きの時間ができたのだ。問題があったらすぐPHSで呼び出すよう伝えてある。
「うーん」
ぐゎしぐゎしというけたたましい蝉時雨を聞きながら、僕は伸びをした。普段なら鬱陶うっとうしいクマゼミの騒音も、今日は心地よくさえ思える。体を左右にひねってポキポキ鳴らす。ああ、気持ちいい。

蝉時雨にまぎれて、遠くから車椅子が近づく音がした。
「ほらホヮンさん、ここが医局。そう、doctor's lounge ね。……ええ? 台湾だと、そう書くの?」
あの大声、あのトーン。紛うことなく、多恵子の声だ。さきほどまでの気持ちよさはどこへやら、僕は例のごとく、固まった。あのね、普通、車椅子で患者さんを医局まで散歩に連れて来るか?
逃げ場を探したが、その前に多恵子に声を掛けられてしまった。
「あ、上間先生だよー。あたし、探してましたー」
「な、何か?」
僕の声はしっかり裏返っていたが、多恵子は全く意に介さない。
「うちのお母がさ、苦瓜ごーやー糸瓜なーべーらーがいっぱいあるから、持って帰れって。今度、稽古来た時は忘れんで言ってよ。このまま腐らすと、うちが怒られる」
「あ、ああ、わかった」
僕が答えると多恵子はにっこり微笑んだ。
「じゃーねー。じゃ、ホヮンさん、帰ろうか」
多恵子はホヮンさんを連れて意気揚々と引き上げて行った。僕は外に視線を戻し、ため息をついた。この状況、ため息つかずにいられると思う?

「上間先生」
「は、はい?」
ギクッとして振り返ると、伊東先生と美樹先生がこっちを見ていた。二人とも僕に近づいてくる。
「……ひょっとして、恋煩い?」
伊東先生の意外な質問に、僕は返す言葉を失った。
「やっぱりねー。最近、上間先生、なーんか様子がおかしいって、医局じゃもちきりだもんねー」
同じ理由で、美樹先生の言葉にも返事のしようがない。
「はあ」
僕は実に間抜けな相槌を打った。左の脳は早くも思考を停止していた。もちきり、ですか。それは結構なことで。何が結構なのかは、わからないが、どうでもいい。
「あれ、否定しないの?」
「へ? 何をです?」
かなりひどい返答だな。自分でもそのくらいはわかる。先生方は僕を見て微笑みながら被りを振った。
「だめだ、伊東先生、こりゃ重症だわ」
「どうします?」
「どうしますって、どうしようもないでしょ?」
僕は自分が情けなくなった。こんな個人的な事情で先生方を振り回すのは愚の骨頂だし、シニア研修医として片付けなければならない仕事だってまだ残っているのだ。悩んでいる場合ではない。
「伊東先生、美樹先生。心配かけて、すみません。気を引き締めて、元に戻します」
そう言い残して、僕はさっさとICU (集中治療室)へ舞い戻った。

さらに困ったことに、だ。僕は東風平こちんだ家でサンシンを今までのようには弾けなくなってしまった。
いや、彼女がいなければ、平気なのだ。師匠を前にサンシンを構え、向かい合って弾いている分には何ら問題はない。稽古中は原則として、師弟以外の立ち入りは禁止されている。だから、誰にも邪魔されることなく、のびのびと弾けるはず。それなのに、
「ただいまー」
稽古部屋から遠く離れた玄関から聞こえる、多恵子のこの声だけでうろたえてしまった僕は、「むんじゅる節」の歌持うたむち(イントロ)を弾き間違えるというバカなことをやった。二揚げにあぎ(第二弦を標準より一音階上げる調弦方法)とはいえ、技巧らしい技巧もないかなり簡単な曲を、だ。たとえて言えば、「猫踏んじゃった」を初っ端しょっぱなで弾き間違えるようなものだ。

「勉、如何ちゃーさが? ちかりてぃどぅをぅるい?」
不埒な理由で――しかも相手が他でもない、お嬢さんと来たものだ――弾き間違えたなんて、とても言えたものではない。心配そうに見守る師匠に対してとても申し訳なく思い、僕は頭を下げた。
「も、申し訳ーねーやびらん」
「あんしぇー、休憩っさやー」
師匠は立ち上がると稽古部屋を出て行った。

僕はサンシンを畳に置くと水牛の角でできた爪を右手の人差し指から外し、緊張を解すために両手をぶらぶらさせた。あー、畜生。サンシンまで弾けんくなったら、しゃれにならんなー。
そう思いながら、ふと両手を頬に当ててみる。気のせいかな、なんか顔が火照ほてってきたぞ。
その時だ。稽古部屋の入り口から人が入ってきた。
「あい勉、来てたんだね。あのさー」

多恵子! 僕はぎょっとした。
頼むから、僕の隣に座るのはやめて……ほしいん、ですけど。でも、僕の心の叫びなど知らない彼女は、休憩時間に普段しているように隣に座った。自分の顔が固まるのが判る。ああ、座ったね、君は。どうしよう?
「どうしたの? 顔、赤いよ? 熱でもあるんじゃないの?」
そういうと、こともあろうに彼女は右手を出して接近してくるではないか! わ、わ、わ、だから僕のおでこに手を……。
触ってる……。
僕は固まったまま釘で刺されたように動けなかった。多恵子、君の掌は柔らかいね。心臓がばくばく言ってる。俺、もう倒れそう。

「ちょっと微熱ぐゎーあるみたいだよ。大丈夫ね?」
僕の心中にはまったく気づかず、彼女は小鳥のように首を傾げて僕を見ている。だから、そのかわいい顔で俺の顔を覗き込むなって。頼むから。
「アイスノンで冷やして少し横になったら? 蒲団敷くね?」
こっけい極まりないことだが、蒲団という単語に僕は過剰反応した。
「いや、いや、いい、俺、帰る!」
僕はサンシンを急いで収め、立ち上がり、部屋を後にしようとして、なんでもない所で転んだ。ただのバカだ。
「帰るって勉、あんた運転できるの? あたしが送ろうか?」
「いえ、いえ、結構です。じゃあ、また」
声がひっくり返っているのがわかった。僕はさっさと東風平こちんだ家を飛び出し、自分の車に駆け込むと急発進させ、ひたすらサザンの独身寮を目指した。

自分の部屋へ転がり込み、手洗いとうがいを済ませると、体温計を取り出した。古い水銀タイプだ。目盛りが110まである。たぶん、母親がコザの街で夜の仕事をしていた頃の物だろう。西原のお化け屋敷から引っ越す時に彼女の持ち物はたいてい処分してしまっていたが、小物類はこんな風にちょこちょこ残っている。
まさかと思いつつ、僕はベッドに横になり、体温計を舌下に挟んで熱を測った。
水銀はきっちり、100の目盛を示していた。100F°? 摂氏37.8度? そんなに熱、出てるか?
僕は水銀計を振ると、もう一回測ってみた。やっぱり100度を指している。
……まさかこれ、壊れているんじゃないだろうな?
僕は部屋中を見回した。どこかにドッキリカメラでも仕組まれてあるんじゃないかと思ったが、思い過ごしだったようだ。

とにかく、今日は眠ろう。明日、早起きして、セルフで点滴でも打とう。これから台風シーズンがやってくる。医者が夏風邪をひいている場合じゃないぞ。((2)へつづく)
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