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Part2 Rasidensy Days of the Southern Hospital

Chapter_05.迷走する者(2)勉、説教される

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At the Southern Hospital, Nakagusuku Village, Okinawa; August, 1999.
The narrator of this story is Tsutomu Uema.

「田本さん?」
ノックして病室に入った瞬間、ユミおばぁは縋るように僕を見た。そして、多恵子が出す険悪なオーラに気がついたとき、正直、やばいと思った。が、もう遅い。逃げられない。
「上間先生! たしきてぃくぃんそーれー。また怒られてるさぁ」
僕はユミおばぁの手元を見た。よせばいいのに、調子に乗って僕はつい言ってしまった。
「ほー、今日は豚の角煮ラフテーですか。おいしそうだな。僕にもちょうだい」
「先生は話が判るさぁ。はい、口開きみそーれー、あーん」
「あーん」
そう、僕はユミおばぁの共犯者になってしまったのだった。実は、この日は早朝から勤務に追われ、何も食べてなかったのです。だから、天の助けに等しかった。……って、言い訳してはいけませんよね。反省。
美味しいまーさいびーんやーさい」
いや、本当に、おいしかった。あんなうまい豚の角煮ラフテーはそうお目にかかれるものではない。
「勉、あんた何考えてるの?」
ここで多恵子は僕に何度目かの「軽薄者」のレッテルを貼りかけていた。だから僕は主治医として面目を保つべく、右手の親指と人差し指をU字に構えて示しながら、ユミおばぁにこう付け加えるのを忘れなかった。
「田本さん、御馳走くわっちー、くーてんぐゎーやれーまびーしが、うほーくなり次第しでー、体んかい負担ぬ掛かいびーくとぅ、病院の御盆うぶぬん、召し上がうさがてぃくぃみそーりーよー」
そして僕は、白衣のポケットからあるものを取り出し、ユミおばぁに渡した。
「これは僕からプレゼント。薬局からもらってきたさ」
「何かねぇ、あい、プチプチぐゎーだね!」
そう、ユミおばぁはエアクッション(ビニール製包装材でつぶ状の突起が一面にある、あれです)を潰すのが大好き。これで少しは傷口の不快感が紛れ、リハビリに精を出してくれればよいが。そう思って調達してきたのだ。
「ありがとうね、おばぁはこれが大好きさぁ! 上間先生、愛してるわよー」
はあ。それは、ありがたいことで。うん、嫌われるよりは、ましかな。僕は苦笑しながら、田本さんに告げた。
「はいはい、午後からリハビリん気張ちばいみそーりよー」
「じゃあ、御盆うぶぬん、召し上がうさがてぃくぃみそーりーよー」
多恵子がそう言い添えた直後、僕にささやいた。
「勉、ちょっと」
嫌な予感がした。そして、見事に的中した。

病室のドアを閉めた後の彼女の怒りっぷりと言ったらなかった。有無を言わさず僕はナースステーションの奥へと引っ張り込まれた。
「どうして叱らんの? ほかの患者さんに示しがつかないでしょう?」
「田本さんは叱って聞くタイプの患者さんじゃないよ。見ててわからんか?」
「そうかもしれないけど、医者がきちんと指導しないと看護師が馬鹿にされるんだよ!」
はい、おっしゃるとおりです。正しいのは、あなたです。僕は心の中で白旗をあげていたが、多恵子にはそうは見えなかったのだろう。考えても見てくださいよ。プライベートならともかく、職場で心底惚れた人から説教されている図。しかも、サザン・ホスピタルのナースステーションは三方向オープンカウンターだ。奥側だったとはいえ、僕が叱られている状況は周囲からは丸見えだった。情けないったらありゃしない。だから、つい言ってしまった。
「そうカリカリするなよ」
その結果、彼女は僕を睨みつけ、回れ右をして去ってしまったのだ。

ご存知のように、多恵子は声が大きい。対する僕はといえば、彼女に終始圧倒されているように見えた。おまけに、彼女と話し込んでいた僕の耳――プロ野球にいた江川卓選手並みにでかい耳なのだが――は、見事に真っ赤に染まっていたらしい。
かくして、僕の気持ちは医局のみならず、整形外科スタッフ全員に知れ渡ることとなった。

それなのに、だよ。多恵子は……この恐るべき鈍感女は、全然気がついてないのだ。僕が師匠の元へサンシンの稽古に通い始めてから十年近く気づかなかった奴だ。やはりというべきなのか。
僕の様子を気の毒に思ったナースの皆様は、多恵子が僕をなじるたびに、僕の肩を持つようになった。だから多恵子はさらに怒り狂うようになってしまった。まさに悪循環だった。

あろうことか彼女は、まさに天然記念物とも言うべき稀有な人だ。こちらからボールを投げたとき、反応が早すぎるかと思えば、全然返ってこないこともある。その差がありすぎて全く間合いが取れない。プレゼント作戦で釣ろうにも、彼女はブランド物に対する意識がかなり希薄なため、釣れない。嘘をつけず、人を欺けず、かなり律儀で礼儀正しく、決して誰をも差別しない。ぼーっとしているように見えるが、本当は真面目でかなり頭が良いから、僕のようなお調子者に対して非常に手厳しい。

こういうタイプは、攻めようがない。たしか「君は天然色」とかいう流行歌があったな? 「君は天然記念物」じゃ、歌にもならないぜ?

もっとも、相手を賞賛して気持ちよくするのが楽な攻め方なのは知っている。でも、努力家の彼女は自分自身を未熟者だと必要以上に思い込んでいるから、褒めすぎてもダメなのだ。少しでもやりすぎると機嫌をそこね、プイと横を向くと、その日一日は口を利いてくれない。来る日も来る日も僕は迷路の中にいた。いつも壁にぶち当たり、僕はしょげ返った。

でも、困ったことに……本当に困ったことに、僕は諦め切れなかった。どうしても、この人でなくちゃダメなのだ。それは天から降ってきた直感で、決して覆すことはできなかった。
僕の心は空吹かしと急ブレーキを繰り返した。まるで坂道発進でエンストを起こし、検定中止を言い渡されるドライバーのような状態だった。僕がそのエンスト地獄から抜け出したのは、八月も後半に入ってからのことである。というわけで、次章へTo be continued.

そういえば季節柄、僕はサザンの独身寮でよくごきぶりとーびーらーを見かけた。殺虫剤を一発プシュッと吹きかけ、七転八倒ぱったらげーする彼らを見て、ふと自分も実はこいつらと同じなのではないかと思った。僕の場合は殺虫剤ではない、東風平多恵子という強烈な媚薬だ。媚薬は少しずつ効き始め、やがて中毒症状を呈する。まるで、こいつらのように。
僕はごきぶりとーびーらー平常心では眺めていられなくなり、彼らの触覚を持ち上げると、速攻で水洗トイレに流したのだった。
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