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Part2 Rasidensy Days of the Southern Hospital
Chapter_05.迷走する者(1)我儘(じまま)な患者様
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At the Southern Hospital, Nakagusuku Village, Okinawa; 2:45AM JST, July 25 and August, 1999.
The narrator of this story is Tsutomu Uema.
とりあえず、治った。
発熱して以来、多恵子を見てうろたえることだけはなくなった。発熱という症状は内科であれ外科であれ治療の段階にはつきものだが、精神的なものまで治るんだな。
翌朝、正規の出勤時刻まではかなり間があったが僕は朝の二時半に出勤し、整形外科病棟のドクター控室で点滴を打っていた。セルフで入れようと思っていたが、深夜勤当番だったナースの粟国さんにルートを取ってもらった。同じく深夜勤の多恵子は病棟を巡回中だった。
点滴は普通、ナースの仕事だ。粟国さんは多恵子と同じナース四年目。さすがに翼状針を刺す動作は的確で、僕は思わず見とれてしまった。もちろん、粟国さんは美人なんですけど、今の僕は、残念ながらそっち方面には関心がいかない。
僕は左腕に点滴を落としながら、右手で患者さんのカルテをめくっていた。午前のカンファレンスで行う報告をまとめておく必要があった。カンファの時間は限られている。一人の患者さんについて、SOEAP(近年ではSOAP)を簡潔に述べなくてはならない。
S:Subjective data 主観的データ (おもに患者さんが訴えている症状、既往歴など)
O:Objective data 客観的データ (実際に起きている症状、バイタルサイン)
E:Examination 診察・検査 (血算、生化学等の結果)
A:Assessment 評価 (SOに基づく診断)
P:Plan 計画 (Aに基づき、患者さんの治療方針を策定し実行させる)
僕は自分のノートにメモを取るのに夢中で、側で多恵子が覗き込んでいることには全く気づかなかった。
「勉、良くなったんだね?」
ちょっと驚いた。多恵子がいることもそうだけど、だからといって逃げ出そうと思わなかった自分にも。おまけに、落ち着き払って、こんな受け答えまでできた。
「おはよう。野菜、ありがとうな。今朝、出てくる前にゴーヤーをシリシリーして(おろし金で下ろして)、もろみ酢で割って飲んだよ」
「そっか。あんまり、頑張りすぎないでよ?」
多恵子は微笑むとナースステーションへ去っていった。
とりあえず、一安心だ。これで元通り仕事ができる。僕は再びカルテに向かい、ノートにペンを走らせた。
とはいえ、僕と多恵子の間がなんら進展したわけではない。それどころか、僕らはよく職場で小競り合いを起こしていた。なぜなら、多恵子は僕に、“患者さんであるおじぃおばぁ達と茶のみ話ばかりしている不良医師”というレッテルを貼っていたからだ。対する僕は、多恵子のちょっとしたミスをフォローすることが長年にわたる付き合いでほとんど習性化してしまっていたから、粟国さんをはじめとする若手のナースからは評判がよかったみたいだ。
「ちょっと多恵子、また上間先生に助けてもらったわけ? いいなー、多恵子は上間先生みたいな彼氏がいて」
「ち、違うよ里香。勉は小学校から一緒だから、そんだけだよ」
……おいおい、「そんだけ」かい。もっとマシな言い方はないのか?
「本当? じゃ、あたし今度アタックしてみようかな」
「うーん、あんまし薦めんよー」
……別に、薦めろとは言わないけどさ。
「なんでよ? ハンサムだし、整形外科の中では一番いい感じじゃん?」
「調子が良すぎるんだよ。おじぃおばぁ達と話ばっかりして、仕事してるかね?」
……とまあ、こんな具合だ。
それから、僕自身のポリシーとして、患者さんのわがままはできる限り受け入れていた。
当時、整形外科病棟には、田本ユミさんとおっしゃる、当時七十歳の女性患者さんがいた。人懐っこく、小柄でよく動き回り、おしゃべりが大好きという典型的な沖縄の女性で、皆は敬意と親しみをこめて「ユミおばぁ」と呼んでいた。何かにつけかなりわがままな患者さんだったが、僕はできるだけ彼女のわがままを聞いてあげていた。僕にとっては、どうすれば彼女が自主的にリハビリに取り組むようになるか、そっちの方が重要だったのだ。
ある昼食時間、多恵子が昼膳を持ってユミおばぁの病室 (二人部屋だったが一人状態だった)を訪れた。多恵子はドア付近で既にある匂いに気がついていたらしい。ドアを開けると、ご機嫌なユミおばぁがいた。
「あい看護婦さん、いつもご苦労さんね」
そういうユミおばぁは、なんと、どこかから出前で取り寄せた豚の角煮をおいしそうに食べていた。
「田本さん! また勝手に出前取ったの?」
「これね? これは豚の角煮さぁ。看護婦さんも食べる?」
「ダメでしょう。決められたもの以外食べたら、また血圧上がるよ!」
多恵子は本気でユミおばぁを叱った。彼女は真面目なのだ。
「嫌いねぇ? なんでここは豚の角煮好かんぬーが多いかねぇ。さっき、向かいの部屋の髭小兄さんにもあげようしたら、否否しよったさー」
それを聞いて多恵子はぎょっとした。
「向かいの部屋のヒゲの兄さん、って、ムスタファさん? 大事さぁ! あの人はイスラム教だよ! イスラム教は、豚、ダメ!」
「豚、ダメ? かわいそうね、おばぁだったら生きていけないさぁ。ハハハ」
多恵子は、この時点で軽い頭痛を覚えたらしい。そこへ僕がひょっこり入ってしまった。非常にタイミングが悪かった、と思いたい。((2)へつづく)
The narrator of this story is Tsutomu Uema.
とりあえず、治った。
発熱して以来、多恵子を見てうろたえることだけはなくなった。発熱という症状は内科であれ外科であれ治療の段階にはつきものだが、精神的なものまで治るんだな。
翌朝、正規の出勤時刻まではかなり間があったが僕は朝の二時半に出勤し、整形外科病棟のドクター控室で点滴を打っていた。セルフで入れようと思っていたが、深夜勤当番だったナースの粟国さんにルートを取ってもらった。同じく深夜勤の多恵子は病棟を巡回中だった。
点滴は普通、ナースの仕事だ。粟国さんは多恵子と同じナース四年目。さすがに翼状針を刺す動作は的確で、僕は思わず見とれてしまった。もちろん、粟国さんは美人なんですけど、今の僕は、残念ながらそっち方面には関心がいかない。
僕は左腕に点滴を落としながら、右手で患者さんのカルテをめくっていた。午前のカンファレンスで行う報告をまとめておく必要があった。カンファの時間は限られている。一人の患者さんについて、SOEAP(近年ではSOAP)を簡潔に述べなくてはならない。
S:Subjective data 主観的データ (おもに患者さんが訴えている症状、既往歴など)
O:Objective data 客観的データ (実際に起きている症状、バイタルサイン)
E:Examination 診察・検査 (血算、生化学等の結果)
A:Assessment 評価 (SOに基づく診断)
P:Plan 計画 (Aに基づき、患者さんの治療方針を策定し実行させる)
僕は自分のノートにメモを取るのに夢中で、側で多恵子が覗き込んでいることには全く気づかなかった。
「勉、良くなったんだね?」
ちょっと驚いた。多恵子がいることもそうだけど、だからといって逃げ出そうと思わなかった自分にも。おまけに、落ち着き払って、こんな受け答えまでできた。
「おはよう。野菜、ありがとうな。今朝、出てくる前にゴーヤーをシリシリーして(おろし金で下ろして)、もろみ酢で割って飲んだよ」
「そっか。あんまり、頑張りすぎないでよ?」
多恵子は微笑むとナースステーションへ去っていった。
とりあえず、一安心だ。これで元通り仕事ができる。僕は再びカルテに向かい、ノートにペンを走らせた。
とはいえ、僕と多恵子の間がなんら進展したわけではない。それどころか、僕らはよく職場で小競り合いを起こしていた。なぜなら、多恵子は僕に、“患者さんであるおじぃおばぁ達と茶のみ話ばかりしている不良医師”というレッテルを貼っていたからだ。対する僕は、多恵子のちょっとしたミスをフォローすることが長年にわたる付き合いでほとんど習性化してしまっていたから、粟国さんをはじめとする若手のナースからは評判がよかったみたいだ。
「ちょっと多恵子、また上間先生に助けてもらったわけ? いいなー、多恵子は上間先生みたいな彼氏がいて」
「ち、違うよ里香。勉は小学校から一緒だから、そんだけだよ」
……おいおい、「そんだけ」かい。もっとマシな言い方はないのか?
「本当? じゃ、あたし今度アタックしてみようかな」
「うーん、あんまし薦めんよー」
……別に、薦めろとは言わないけどさ。
「なんでよ? ハンサムだし、整形外科の中では一番いい感じじゃん?」
「調子が良すぎるんだよ。おじぃおばぁ達と話ばっかりして、仕事してるかね?」
……とまあ、こんな具合だ。
それから、僕自身のポリシーとして、患者さんのわがままはできる限り受け入れていた。
当時、整形外科病棟には、田本ユミさんとおっしゃる、当時七十歳の女性患者さんがいた。人懐っこく、小柄でよく動き回り、おしゃべりが大好きという典型的な沖縄の女性で、皆は敬意と親しみをこめて「ユミおばぁ」と呼んでいた。何かにつけかなりわがままな患者さんだったが、僕はできるだけ彼女のわがままを聞いてあげていた。僕にとっては、どうすれば彼女が自主的にリハビリに取り組むようになるか、そっちの方が重要だったのだ。
ある昼食時間、多恵子が昼膳を持ってユミおばぁの病室 (二人部屋だったが一人状態だった)を訪れた。多恵子はドア付近で既にある匂いに気がついていたらしい。ドアを開けると、ご機嫌なユミおばぁがいた。
「あい看護婦さん、いつもご苦労さんね」
そういうユミおばぁは、なんと、どこかから出前で取り寄せた豚の角煮をおいしそうに食べていた。
「田本さん! また勝手に出前取ったの?」
「これね? これは豚の角煮さぁ。看護婦さんも食べる?」
「ダメでしょう。決められたもの以外食べたら、また血圧上がるよ!」
多恵子は本気でユミおばぁを叱った。彼女は真面目なのだ。
「嫌いねぇ? なんでここは豚の角煮好かんぬーが多いかねぇ。さっき、向かいの部屋の髭小兄さんにもあげようしたら、否否しよったさー」
それを聞いて多恵子はぎょっとした。
「向かいの部屋のヒゲの兄さん、って、ムスタファさん? 大事さぁ! あの人はイスラム教だよ! イスラム教は、豚、ダメ!」
「豚、ダメ? かわいそうね、おばぁだったら生きていけないさぁ。ハハハ」
多恵子は、この時点で軽い頭痛を覚えたらしい。そこへ僕がひょっこり入ってしまった。非常にタイミングが悪かった、と思いたい。((2)へつづく)
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