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Part3 The year of 2000
Chapter_01.花染手巾(はなずみてぃさじ)は誰の物?(3)東風平長助、辻町で山内幸恵(ゆきえ)と出会う
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At Naha City, Okinawa; 1969.
The narrator of this story is Taeko Kochinda.
話はまだ沖縄が日本本土に復帰する前までさかのぼる。
ある日の夕方、タクシーで観光客を案内していたお父は、那覇の辻町にある有名な料亭に車を停めた。辻は王朝時代から戦前まで遊郭があったところだ。遊郭といっても一流どころで、身分の高い男性がお客を丁重にもてなす交流の場として辻は機能していたのだ。女性が行政や祭祀すべてを取り仕切り、遊び目的の普通の男性客はまず相手にされなかった。それなりの品格の男性を相手とすべく、ジュリと言われる遊郭の女たちは教養高く育てられ、芸事にも秀でていた。そして、客との肉体的な関係よりも精神的な交流にずっと重きを置いた。
八・八・八・六の三十音で詠まれる琉球の歌を「琉歌」というが、有名な琉歌の詠み手として知られる「よしや」という女性もジュリの一人だった。彼女の歌は他の者の追随を許さないくらい洗練され、かつ情緒的で、当時のジュリの教養がいかに高かったかを伺わせる。
そんな歴史ある辻の街の料亭で、お母は踊り子のバイトをしていた。貧しい山内家の末娘に生まれたお母の夢は、琉舞道場を持つ事だった。その資金をためる為に辻でバイトを始めたのだ。伝統的な琉球料理に舌鼓を打つ観光客の目の前で琉球舞踊を披露する。三、四つの演目を踊れば、日給五ドルくらいのお金になった。現在の感覚で言うと五千円に相当する金額だ。バイトの時間はきちんと決まっていたし、辻は伝統的な女の街だから雇用主も地謡も女性。セクハラの心配も全然なかった。おまけに、運が良ければお客さんからおひねりを頂戴することもあったという。
お父は既にサンシンを習っていた。サンシンを習う時間が欲しくって、比較的行動の自由が利くタクシー運転手を職業に選んだくらいだ。もちろん、琉球舞踊も大好きだった。
その日はボーナス・デーだった。臨時収入を得たお父は、ふと自分も料亭で琉球舞踊を見たいと思い立った。乗車した観光客には沖縄の芸能を判りやすく解説してあげると買って出たのだ。うまく行けばガイド料をせしめるつもりだったらしい。
琉球料理に囲まれたお父たちの前で、藍色の日傘を片手に、絣に身を包んだお母が舞った。「花風」だった。
「花風」は、琉球舞踊の代表的な演目の一つで、明治以降に作られた舞踊(雑踊り)の中でも傑作に数えられる舞踊だ。「花風節」と「下出し述懐節」の二部構成からなる。
三重城に登て (三重城の丘に登って)
手巾持ち上げれば (手巾を持ち上げて別れの合図をしたのに)
早船ぬ習いや (船は早くて)
一目ど見ゆる (一瞬しか見えないのですね)
那覇港に近い三重城の丘から、旅立つ恋しい男をそっと見送り嘆くジュリの心境を見事なまでに描いている。手巾とは、簡単に言えばハンカチだが、ここでは花染手巾を指すとみていいだろう。つまり、愛する人へ手向けるために心を込めて織った、極上のスカーフというニュアンスのほうが近い。その手巾をそっと振って、今生の別れといっても過言ではない合図をしたのに、無常にも船はさっさと沖へ出てしまったのだ。
そして、歌は下出し述懐節へと移る。二揚げ(第二弦を一音階上げる奏法)で華麗に、切々とこう歌い上げるのだ。
朝夕さもお側 (朝夕お側に居て)
拝み馴れ染めの (ずっと一身同体の思いで眺めていた)
里や旅せめて (愛しい人が旅立ってしまって)
如何し待ちゅが (どうお待ちすればよいのだろう)
別れの言葉も交わせないまま日傘を片手に涙をこらえ、とぼとぼと辻へと戻らざるを得ない。誇り高いとはいえ所詮は花街の女。恋人を公然と港から見送ることなどジュリには許されていなかったのだ。そして、男を待ったところで帰ってくる保証などなかった。それでも、女は男を待ち続ける。ほとばしる情熱はジュリだけが持つわけではない。それが、沖縄の女というものだ。
燃えたぎるような想いを胸中に灯らせながら、そっと舞う。「花風」という舞踊が最高傑作と言われるゆえんだろう。
お父は、舞台の上に立つお母の姿に釘付けになった。男を見送った女は悲しみの中で日傘を差し、客席に向かってゆっくり旋回すると、うつぶせた状態からゆっくりと顔を上げる。二人の目と目が合った瞬間、お父は、恋に落ちた。((4)へつづく)
The narrator of this story is Taeko Kochinda.
話はまだ沖縄が日本本土に復帰する前までさかのぼる。
ある日の夕方、タクシーで観光客を案内していたお父は、那覇の辻町にある有名な料亭に車を停めた。辻は王朝時代から戦前まで遊郭があったところだ。遊郭といっても一流どころで、身分の高い男性がお客を丁重にもてなす交流の場として辻は機能していたのだ。女性が行政や祭祀すべてを取り仕切り、遊び目的の普通の男性客はまず相手にされなかった。それなりの品格の男性を相手とすべく、ジュリと言われる遊郭の女たちは教養高く育てられ、芸事にも秀でていた。そして、客との肉体的な関係よりも精神的な交流にずっと重きを置いた。
八・八・八・六の三十音で詠まれる琉球の歌を「琉歌」というが、有名な琉歌の詠み手として知られる「よしや」という女性もジュリの一人だった。彼女の歌は他の者の追随を許さないくらい洗練され、かつ情緒的で、当時のジュリの教養がいかに高かったかを伺わせる。
そんな歴史ある辻の街の料亭で、お母は踊り子のバイトをしていた。貧しい山内家の末娘に生まれたお母の夢は、琉舞道場を持つ事だった。その資金をためる為に辻でバイトを始めたのだ。伝統的な琉球料理に舌鼓を打つ観光客の目の前で琉球舞踊を披露する。三、四つの演目を踊れば、日給五ドルくらいのお金になった。現在の感覚で言うと五千円に相当する金額だ。バイトの時間はきちんと決まっていたし、辻は伝統的な女の街だから雇用主も地謡も女性。セクハラの心配も全然なかった。おまけに、運が良ければお客さんからおひねりを頂戴することもあったという。
お父は既にサンシンを習っていた。サンシンを習う時間が欲しくって、比較的行動の自由が利くタクシー運転手を職業に選んだくらいだ。もちろん、琉球舞踊も大好きだった。
その日はボーナス・デーだった。臨時収入を得たお父は、ふと自分も料亭で琉球舞踊を見たいと思い立った。乗車した観光客には沖縄の芸能を判りやすく解説してあげると買って出たのだ。うまく行けばガイド料をせしめるつもりだったらしい。
琉球料理に囲まれたお父たちの前で、藍色の日傘を片手に、絣に身を包んだお母が舞った。「花風」だった。
「花風」は、琉球舞踊の代表的な演目の一つで、明治以降に作られた舞踊(雑踊り)の中でも傑作に数えられる舞踊だ。「花風節」と「下出し述懐節」の二部構成からなる。
三重城に登て (三重城の丘に登って)
手巾持ち上げれば (手巾を持ち上げて別れの合図をしたのに)
早船ぬ習いや (船は早くて)
一目ど見ゆる (一瞬しか見えないのですね)
那覇港に近い三重城の丘から、旅立つ恋しい男をそっと見送り嘆くジュリの心境を見事なまでに描いている。手巾とは、簡単に言えばハンカチだが、ここでは花染手巾を指すとみていいだろう。つまり、愛する人へ手向けるために心を込めて織った、極上のスカーフというニュアンスのほうが近い。その手巾をそっと振って、今生の別れといっても過言ではない合図をしたのに、無常にも船はさっさと沖へ出てしまったのだ。
そして、歌は下出し述懐節へと移る。二揚げ(第二弦を一音階上げる奏法)で華麗に、切々とこう歌い上げるのだ。
朝夕さもお側 (朝夕お側に居て)
拝み馴れ染めの (ずっと一身同体の思いで眺めていた)
里や旅せめて (愛しい人が旅立ってしまって)
如何し待ちゅが (どうお待ちすればよいのだろう)
別れの言葉も交わせないまま日傘を片手に涙をこらえ、とぼとぼと辻へと戻らざるを得ない。誇り高いとはいえ所詮は花街の女。恋人を公然と港から見送ることなどジュリには許されていなかったのだ。そして、男を待ったところで帰ってくる保証などなかった。それでも、女は男を待ち続ける。ほとばしる情熱はジュリだけが持つわけではない。それが、沖縄の女というものだ。
燃えたぎるような想いを胸中に灯らせながら、そっと舞う。「花風」という舞踊が最高傑作と言われるゆえんだろう。
お父は、舞台の上に立つお母の姿に釘付けになった。男を見送った女は悲しみの中で日傘を差し、客席に向かってゆっくり旋回すると、うつぶせた状態からゆっくりと顔を上げる。二人の目と目が合った瞬間、お父は、恋に落ちた。((4)へつづく)
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