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Part3 The year of 2000
Chapter_01.花染手巾(はなずみてぃさじ)は誰の物?(4)東風平長助、山内幸恵(ゆきえ)に琉歌を贈る
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At Naha City, Okinawa; 1969.
At Okinawa City, Okinawa; January 30, 2000.
The narrator of this story is Taeko Kochinda.
それからほぼ毎日、お父は辻の料亭に通った。さすがに高級な琉球料理を毎日食べるわけにはいかないので、楽屋裏から出てくるお母を待ち伏せしたのだ。そしてある日、お母の手に無理やり手紙をつかませると、疾風のようにタクシーに乗り込んで去っていった。
お母は、人目につかない場所でそっと手紙を開いた。中には歌が一首だけ。
暮らさらぬ (耐えられない)
無蔵探めら (君を探そう)
たとい玉の緒の (たとえこの命が)
消え果てるとも (消え果たとしても)
これも琉歌。五・五・八・六音からなる「仲風」といわれる形式の歌だ。それから「無蔵」というのは琉球古典文学の世界では女性二人称単数。男性二人称単数「里」に対応する語である。
サンシンを弾くお父は、自分でも琉歌を詠むことがある。それにしてもなんと激しい歌だろう。飄々とした今のお父の姿からは全然想像もできない。対するお母は当時二十歳になったばかりで、結婚のケの字も考えたことがなかった。そんな女性がいきなり、こんな手紙をもらったのだ。
だから最初、お母は逃げ回っていた。当然でしょう。お父がやっていることってほとんどストーカーだもん。しかも、お父は当時かなり年上に見えたこともあって(実際は五つ違いなのだけど)、来る日も来る日も待ち構えるお父をどうやり過ごそうかお母は相当悩んだらしい。
が、お父がサンシンを弾くと知ってからは、逃げることはなくなった。いつしか、二人は辻のバイトの後に待ち合わせるようになった。そしてすぐ近くの波之上の護岸で(当時は水上店舗などもあったらしい)、十セントのコカコーラを二人で仲良く交互に飲みながらお父の歌サンシンに合わせてお母が踊るのが日課みたいになった。そう、昔、沖縄の各地であった「毛遊び」のように、二人は毎晩歌と踊りを楽しんだのだ。この二人の様子は波之上界隈ではかなり有名だったらしい。見物人から貰った投げ銭で、もう一本コーラを買って飲んだという嘘のような逸話まである。
やがてお母は舞踊の教師免許を取った。貯めたお金で道場を開こうと思ってたが、花嫁衣裳代と結婚式の費用に化けた。お父が待ちきれなくなったのだ。
しかし、山内の家はこの結婚にわりと賛成だったけど、東風平の家は大反対だった。もともと、東風平の家の人間は経済界関係者が多い。そんな中、サンシンを弾くために企業勤めをせずタクシー運転手になった六男のお父は、周囲から道楽者の烙印を押され爪弾きにされていた。まして、辻でバイトしていた踊り子と一緒になると言ったものだからブーイングの嵐が起こった。
沖縄の芸能文化がアイデンティティのよりどころとして正当な評価を受けるようになったのは、実はつい最近のことだ。それまで、芸能に携わる人間は社会的地位が低く、さげすまれてきた。金にもならないことに時間をかけるのは馬鹿のすることで、きちんと働き、大和人のような立ち居振る舞いが良しとされていた。だから沖縄方言を使わなくなり、方言を使って進行する演劇や文化は衰退する一方だったのだ。芸能がイベントの一環として大々的にもてはやされる現状からは到底考えられない話だけど、芸能の島と呼ばれる沖縄にも、そんな時代があった。
だから、二人の結婚式に東風平の人間はほとんど参列していない。それに、お母が産んだ最初の男の子 (つまり、あたしの兄です)がすぐ他界して、そのあとあたしが生まれたのだけど、女の子が生まれたというだけで「男の子じゃない」と文句たらたらだったそうだ。
これって、とっても失礼だと思わない? 一度子供を亡くした家が、ようやく子宝に恵まれたのにさ、文句だけだなんて。
幼いあたしが空手を習おうと思い立った理由は、実はここにあるのです。
女の子をダメ扱いした東風平の親戚を、見返したかった。できることなら、謝らせたかった。
絶対、全沖縄のチャンピオンになってみせる。男の子になんか負けるものか。
そして、小学校四年生の時の空手道選手権であたしは優勝した。
「ほーらね! 女の子だって、やれば、できるでしょ」
そう言って、あたしは親族一同が居並ぶ東風平の宗家の仏壇の前で、優勝の盾を持ってピースサインをした。東風平の親戚がどう思ったか知らないけど、あの時はスカッとしたなー。もっとも、お母はあきれていたし、お父は苦笑いしかしなかったけどね。ま、その後いろいろあって空手は辞めざるを得なかったんですが、空手を通して身につけた礼儀作法とスポーツマンシップ、そして、物事を最後まであきらめないというガッツは、今でもあたしの大事な宝物です。
お母が下手から、髪を結ってウシンチー姿で舞台に出てきた。小柄な母には絣の着物がよく似合う。やっぱり、何度観ても、お父の歌サンシンとお母の踊りは天下一品だ。美沙紀さんも、元弥兄々も、会場のお客さんも、そしてホテルのウエイターの皆さんまでも、舞台に釘付けだもん。
やがて、お父のサンシンの音にあわせて、お母が日傘を差したまま下手へ退場し、万雷の拍手が鳴り響いた。
いい舞台をありがとう。いい結婚式だよ。((5)へつづく)
At Okinawa City, Okinawa; January 30, 2000.
The narrator of this story is Taeko Kochinda.
それからほぼ毎日、お父は辻の料亭に通った。さすがに高級な琉球料理を毎日食べるわけにはいかないので、楽屋裏から出てくるお母を待ち伏せしたのだ。そしてある日、お母の手に無理やり手紙をつかませると、疾風のようにタクシーに乗り込んで去っていった。
お母は、人目につかない場所でそっと手紙を開いた。中には歌が一首だけ。
暮らさらぬ (耐えられない)
無蔵探めら (君を探そう)
たとい玉の緒の (たとえこの命が)
消え果てるとも (消え果たとしても)
これも琉歌。五・五・八・六音からなる「仲風」といわれる形式の歌だ。それから「無蔵」というのは琉球古典文学の世界では女性二人称単数。男性二人称単数「里」に対応する語である。
サンシンを弾くお父は、自分でも琉歌を詠むことがある。それにしてもなんと激しい歌だろう。飄々とした今のお父の姿からは全然想像もできない。対するお母は当時二十歳になったばかりで、結婚のケの字も考えたことがなかった。そんな女性がいきなり、こんな手紙をもらったのだ。
だから最初、お母は逃げ回っていた。当然でしょう。お父がやっていることってほとんどストーカーだもん。しかも、お父は当時かなり年上に見えたこともあって(実際は五つ違いなのだけど)、来る日も来る日も待ち構えるお父をどうやり過ごそうかお母は相当悩んだらしい。
が、お父がサンシンを弾くと知ってからは、逃げることはなくなった。いつしか、二人は辻のバイトの後に待ち合わせるようになった。そしてすぐ近くの波之上の護岸で(当時は水上店舗などもあったらしい)、十セントのコカコーラを二人で仲良く交互に飲みながらお父の歌サンシンに合わせてお母が踊るのが日課みたいになった。そう、昔、沖縄の各地であった「毛遊び」のように、二人は毎晩歌と踊りを楽しんだのだ。この二人の様子は波之上界隈ではかなり有名だったらしい。見物人から貰った投げ銭で、もう一本コーラを買って飲んだという嘘のような逸話まである。
やがてお母は舞踊の教師免許を取った。貯めたお金で道場を開こうと思ってたが、花嫁衣裳代と結婚式の費用に化けた。お父が待ちきれなくなったのだ。
しかし、山内の家はこの結婚にわりと賛成だったけど、東風平の家は大反対だった。もともと、東風平の家の人間は経済界関係者が多い。そんな中、サンシンを弾くために企業勤めをせずタクシー運転手になった六男のお父は、周囲から道楽者の烙印を押され爪弾きにされていた。まして、辻でバイトしていた踊り子と一緒になると言ったものだからブーイングの嵐が起こった。
沖縄の芸能文化がアイデンティティのよりどころとして正当な評価を受けるようになったのは、実はつい最近のことだ。それまで、芸能に携わる人間は社会的地位が低く、さげすまれてきた。金にもならないことに時間をかけるのは馬鹿のすることで、きちんと働き、大和人のような立ち居振る舞いが良しとされていた。だから沖縄方言を使わなくなり、方言を使って進行する演劇や文化は衰退する一方だったのだ。芸能がイベントの一環として大々的にもてはやされる現状からは到底考えられない話だけど、芸能の島と呼ばれる沖縄にも、そんな時代があった。
だから、二人の結婚式に東風平の人間はほとんど参列していない。それに、お母が産んだ最初の男の子 (つまり、あたしの兄です)がすぐ他界して、そのあとあたしが生まれたのだけど、女の子が生まれたというだけで「男の子じゃない」と文句たらたらだったそうだ。
これって、とっても失礼だと思わない? 一度子供を亡くした家が、ようやく子宝に恵まれたのにさ、文句だけだなんて。
幼いあたしが空手を習おうと思い立った理由は、実はここにあるのです。
女の子をダメ扱いした東風平の親戚を、見返したかった。できることなら、謝らせたかった。
絶対、全沖縄のチャンピオンになってみせる。男の子になんか負けるものか。
そして、小学校四年生の時の空手道選手権であたしは優勝した。
「ほーらね! 女の子だって、やれば、できるでしょ」
そう言って、あたしは親族一同が居並ぶ東風平の宗家の仏壇の前で、優勝の盾を持ってピースサインをした。東風平の親戚がどう思ったか知らないけど、あの時はスカッとしたなー。もっとも、お母はあきれていたし、お父は苦笑いしかしなかったけどね。ま、その後いろいろあって空手は辞めざるを得なかったんですが、空手を通して身につけた礼儀作法とスポーツマンシップ、そして、物事を最後まであきらめないというガッツは、今でもあたしの大事な宝物です。
お母が下手から、髪を結ってウシンチー姿で舞台に出てきた。小柄な母には絣の着物がよく似合う。やっぱり、何度観ても、お父の歌サンシンとお母の踊りは天下一品だ。美沙紀さんも、元弥兄々も、会場のお客さんも、そしてホテルのウエイターの皆さんまでも、舞台に釘付けだもん。
やがて、お父のサンシンの音にあわせて、お母が日傘を差したまま下手へ退場し、万雷の拍手が鳴り響いた。
いい舞台をありがとう。いい結婚式だよ。((5)へつづく)
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