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Part3 The year of 2000

Chapter_06.エイサーの夜(2)多恵子、独身寮の勉を訪ねる~勉、多恵子の手を握る

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At the dormitory for single employees of the Southern Hospital, Nakagusuku Village, Okinawa; June 7, 2000.
The narrator of this story is Tsutomu Uema.

それから2日後の六月七日が、僕の二十七歳の誕生日だった。折角のバースデー休暇だし、とりあえず部屋の掃除をすることにした。
え、医者の癖によく休むなーって? 偶然ですよ、偶然。明日からCSA受験でフィラデルフィアへ行くまで、十日間、無休で突っ走らなくっちゃ。そのうち少なくとも二回は当直だろう。まとめて休みを取ろうとすると、結構日程はタイトになる。
それにしても、久々に掃除すると気持ちがいいものだ。今回はアメリカへの引越しに備えて、古い物は全部処分した。医学雑誌で溢れかえっていた本棚が一気に空っぽになった。

ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。珍しいな、午前中に人が尋ねてくるなんて。
「はーい」
僕はドアを開け、息を呑んだ。
「おはようございます」
そこに立っていたのは、多恵子だった。
淡いブルーのVネックブラウスに、薄いグレーのスカート。驚いたことに、昨日までと打って変わって彼女は髪をショートカットにしていた。髪のなくなった耳元で、イルカのピアスが輝いている。
「プレゼント、持って来ました」
彼女は明るくそう言い、にっこり笑った。

「ああ、……Thank you.」
ショートヘアの彼女にずっと見とれるのもなんなので、僕は包みを受け取った。あれ以来僕らは、ほとんど会話らしい会話をしていない。職場ではお互いに避けあっていた。
「髪、切ったの?」
「うん、昨日の日勤終わった後、安里あさとまで行って、切ってきた。暑いから」
「そ、そうか。そうだな。暑いよな」
多恵子が髪をショートにするのは、たぶん初めてだと思う。いままでしたことないのが不思議なくらい、よく似合っている。夏らしくて清々すがすがしい。
でも、それって、ひょっとして僕に対する何らかのメッセージかい?

「上がってく?」
「いいよ。折角の休日、邪魔したら悪いから」
「今、ちょうど掃除終わったから、きれいだよ。上がったら? あいにく、何もないけど」
引き止めたかった。このまま帰すのはあまりにも惜しい。
「じゃあ、ちょっとだけ、お邪魔します」
部屋に入ると、僕はフロアにある卓袱台ちゃぶだいに案内し、多恵子に座布団を薦めた。冷蔵庫からオレンジジュースを出す。
いゃーが来るとわかってたら、もうちょっと何か用意してたのにな。コーヒー切らしてて、オレンジジュースしかないや。はい、どうぞ」
「いえいえ、こちらこそ、お邪魔しまして」
多恵子は部屋中を見回した。そういえば、独身寮に来てからはいつも玄関口で対応していたから、彼女を部屋の中に招いたことはなかったんだっけ。僕はおもむろに包みを指し示した。
「あ、これ、ありがとう。わざわざ、これ届けにここまで来たの?」
「うん、今日どうせ準夜勤だから」
「そっか。……開けていい?」
「どうぞ」
僕は包みを開けた。それは、こげ茶色の上質な本皮製のベルトだった。
「男の人に何贈ったらいいか、わからなくてさ。引越ししても、かさばらないのがいいかなーっと思って」
「早速、着けてみるよ」
僕はすぐに着ていたジーンズへ多恵子から貰ったベルトを通した。うん、悪くないや。
「ありがとうね、わざわざ」
僕が礼を言うと、多恵子は恐る恐る切り出したのだ。
「でさ、勉、こないだの話なんだけど」

「ちょっと、多恵子、ストップ、ストップ!」
僕は両手で多恵子を制した。こいつ、本当にわかってないな?
「今日、俺の誕生日だよな?」
「うん」
「君は、そういう日に、なんでわざわざsensitiveな話題を切り出すの?」
「……ごめんなさい」
多恵子はうつむいた。

あのね、ごめんなさい、じゃないでしょう?
ケチつけたいのは山々だが、君の元気の無い顔はもっと見たくない。
「もういいよ、気になるから、聞くよ。で? 何?」
「あたしさ」
思わず僕は唾を飲み込んだ。が、多恵子は一言、こうつぶやいた。
「自信がない」
僕はがっくりうなだれ、卓袱台ちゃぶだいへ上体を崩した。怒りを通り越して、呆れ返るよ。全く、君という奴は!
いゃーよ! 今、俺がどんな気持ちで聞いてたと思ってる? 心臓止まりそうだったぜ? それなのに、何? 自信がない? それ答えにもなってないよ?」
「……ごめんなさい」

また、ごめんなさい、かい? 僕は天井を仰いだ。はー、本当に、どうしようかな?

しょうがない。仕切りなおしだ。
僕は少しオレンジジュースを飲み、息を整えて穏やかに尋ねることにした。
「自信がないって、どういう意味? 待てないってこと?」
「ううん」
多恵子は首を振る。僕は詰め寄った。
「じゃあ、何?」
「あたしがだめだってこと」
「ん?」
何だそれ? 意味がわからないよ? 僕の様子に気がついたのだろう。多恵子が言い添えた。
「あたしがさ、あんまり、良くないってこと」
「ごめん、まだ意味がよくわからんけど」
すると、多恵子がとつとつとしゃべった。
「勉は、いっぺー、出来る者でぃきやーさーね。わんねー、ぬーぬ取り得んねーらん、出来ない者でぃきらんぬーさーね」
そう言って、涙ぐむではないか。お、おいおい。ちょっと?
戸惑っていると、多恵子がわっと泣き出した。
わんにんかい、いゃーや、もったいない。もっといい女の人、いっぱいいるさー」
瞬間、僕は思わず卓袱台ちゃぶだいを思い切り叩いて叫んでいた。
たーいゅたが、ぬ様なくとぅ自分どぅーさーに勝手に決めるな!」
「……だって」
多恵子は泣きじゃくり、ハンカチを取り出し涙を拭いている。

いかんな、このままじゃ。なんとか事態を収拾しないと。だって、今日は僕の誕生日なんだよ? なのに、なんで、君が泣くの?
「頼むから、泣くなよ」
僕は彼女の顔を覗き込んだ。はっきりさせたいことがひとつ、ある。
「まず、多恵子の気持ちはどうなわけ?」
彼女は涙を押さえながら言った。
「大好き」

僕は思わずグラスを手に取り、ジュースを一気に流し込んだ。
「い、今のは、いい誕生日プレゼントだな、ありがとう」
心臓がどきどき言ってる。僕は大きく深呼吸した。

つまり、見込みはあるってことだ。
ゆっくり話し合えば、事態は必ずいい方向へ向かうはず。落ち着こう。

「あの、東風平こちんだ多恵子たえこさん?」
「は、はい」
いきなりフルネームで呼ばれ、びっくりしたのだろう。多恵子が大きな目でこっちを眺めている。僕はバカ丁寧な標準語で続けた。
「あなたは看護師になって、何年目ですか?」
「六年目になります」
多恵子は指を折り数えながら答える。
「お伺いしますけど、出来ない者でぃきらんぬーが丸五年なーも、人の命を預かる看護師の仕事が勤まりますか?」
多恵子は首を傾げていたが、納得してゆっくりつぶやいた。
「そうですね。できませんね」

ほらね、君は出来ない者でぃきらんぬーじゃないでしょう?
僕が笑いかけると、彼女も照れくさそうに微笑んだ。僕は自分の両手を差し出した。
「あの、多恵子さん、手、出してもらえますか?」
「はい」
多恵子はおずおずと右手を出した。
「握ってもいい?」
彼女が頷くのを確認して、僕は彼女の右手を取った。

実は、これだけ長い付き合いの中で、多恵子の手を握るのは二回目だ。一回目は小学校四年生の正月明けだった。長い喧嘩から仲直りのしるしに、僕らは握手を交わしたのだ。あれ以来、全くない。

僕は多恵子の右手を両手で包んだ。彼女の目を見ながら僕は標準語で語りだした。
「僕は医者になってまだ三年目です。医者は五年経って一人前と言われていますから、まだまだひよっ子です。とにかく、次から次へ仕事をこなして、挫折を味わうこともあるけど、そこから学んで大きくなっていく。仕事ってそういうものだと思いますが、どうでしょう?」
「そうですね」
多恵子は頷いた。
「人生も同じだと思いませんか?」
「ああ、……そうかも」
僕は一呼吸置いて尋ねた。
「じゃあ、結婚生活は? 未熟者同士でも、お互いに励ましあって成長すれば、それでいいんじゃないですか?」
「あっ……」
多恵子は小さく驚きの声をあげた。
「ね?」
僕が促すと、多恵子は小さく頷いた。僕は努めて明るい声を出した。
「多恵子さん、僕は言ったでしょう? 返事はあわてなくてもいいって。だから、前向きに検討して欲しいって」
「そうでしたねー」
多恵子はにっこり笑った。もう大丈夫だな? 僕はいつものそっけない調子に戻って、こう付け加えた。
「言っとくけど、僕は、あなたがちゃんと返事してくれるまで、こちらからは一切、手は出しませんから。多恵子に投げられるのは、嫌です」
「ぷっ、ふふふ」
多恵子は吹き出し、明るく笑い転げた。そうだよ、その笑顔だよ。忘れるなよ?
「わかりましたか?」
僕は彼女に医者口調で尋ねた。
「はい、わかりました」
彼女はにっこり頷いた。

僕は多恵子の手を離した。気を張りすぎたよ。こんな状態が長く続くはずがない。
「多恵子ー、お腹空かないか?」
僕の気の抜けた声に、多恵子が左手を持ちあげる仕草をした。腕時計は十二時をまわっている。
「俺、ケーキ食いたいな。今日、誕生日だから」
「じゃ、あたしがずっと前にバイトしてたホテル行こうか? ここから高速飛ばせばすぐだし、車停めやすいし、ランチタイムは値段もお手ごろだし、ケーキもおいしいよ」
たしかに、悪くない提案だ。頷く僕の横で、多恵子は鈴の音をチリリンといわせながら車のキーを取り出した。
「あたしが運転するよ。行こうか?」
「じゃあ、よろしくお願いします」
僕らはにっこり笑って立ち上がると、独身寮を後にした。((3)へつづく)
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