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二章

最後の泉

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 二人が泉の家で逢瀬を重ねるようになってから、いつの間にか睡蓮の季節も終わってしまった。泉はまだ美しいが、どことなく冷ややかでもの寂しい。
 ラウルが目を覚ますとララはおらず、泉で水音がした。
 外に出ると、ララが月光の下で全裸で泳いでいるのを見つけた。
 ラウルはしばらく、その美しく幻想的な光景に見惚れていた。
 ララがラウルに気づき、笑顔で岸に戻って来た。そして、ふと足元にかがんで何かを掬うと、長い髪から水をしたらせながらラウルから布を受け取り、代わりに手に持っていた何かをホイと渡された。
 反射的に受け取ったが、ラウルの手の中でぐにゃりと動いたそれはでかいヒキガエルだった。

「おまえ寒くな……うわああああ!」
「あははは」

 反射的に手の中のカエルを思い切り振り払った。
 カエルはラウルの足元に落ち、ゲコッと一声鳴くと大きく跳ねて逃げて行った。

「バカヤロウ! 俺はこの世でカエルが一番嫌いなんだ!!」
「知ってる」

 ララは笑いながら布に包まり、テラスのテーブルの上にある何かの白い丸薬を2粒水で流し込んだ。

「それは? おまえ、どこか悪いのか?」
「あぁ、これは避妊薬だ。そなたと会う日は必ず飲んでいる」

 小粒な真珠のように真っ白な丸薬だ。銀鱗丸ぎんりんがんという。その名の通り、シンの鱗から作られている。前王カリアが開発した薬の中でもっとも安価で哀しく切実な薬でもある。

「そうだったのか……」
「実は、2年前に聖婚した日から月のものもないんだが、念のため」
「そうか……」
「……生き物として、いびつだと思わないか?」

 ララは身体に布を巻きつけ、ラウルに背中を向けたまま悲しく笑った。

「………ララ、俺は」
「ラウル、今日で最後にしよう」
「……え?」
「そなたは王だ。結婚して子どもを作れ」
「本気で言ってるのか?」
「……冗談でこんなことは言えない」
「シンが聖王だけで乗り切ってゆくというなら、俺もそうしても構わんだろう?」
「……ラウル、長年そうやってきたシンと違って、ゴダールがそう簡単にいかないのはわかっているんだろう?」

 ララは、ラウルが国でたくさんの縁談を次々に断っているのを知っていた。
 あの劇的な代替わりの聖婚以来、ゴダール宮廷でひしめき合っていた龍王色の王族は、ラウル以外誰もいなくなってしまったのだ。
 そうなって民が最初に抱いたものは、王政に対する不安だった。
 もちろん、王族が実際に消えてなくなったわけではなく、今も多くは王宮で政務に勤しんでいる。
 しかし、神龍の加護の証でもある龍王色の者がキレイさっぱりいなくなってしまったのは、そのまま神から見捨てられたように感じるのも無理はない。
 そこへ行くと、シンは長く続いたカリアの平和な治世のお陰で、王はひとりであるということに慣れ・・ていたのだ。
  
「私と違って、そなたはそんな無理をする必要なんかないんだ。好きな女性と一緒になって、ちゃんと自分の子どもが持てる」
「……俺が穢れた忌児いみごだというのは知っているだろう? だから俺だって……」
「そんなの危険リスクのうちに入らない。何世代も同じ過ちを積み重ねてやっと現れる程度だ。ラウルは穢れてなんかいない。私のように必ず次の世代に受け継がれる性質のものではない」

 医師くすしのララの言うことだから説得力がある。
 そしてラウルにも半ば分かっていた。己の言うこととララの言うことは、根本的にまるで意味が違うのだということを。
 それでもこの関係を終わらせたくなくて、わずかな可能性に縋ったのだ。

「ララ……」
「ラウル、王になって何度襲われた?」
「――…!」
「何度暗殺されかかった? 私が知らないとでも思っていたのか?」
「…………」

 そしてララも、間違いなく一国の王なのだ。
 王位を継承して以降、ラウルの周囲は常にきな臭い。一部の過激な元王族たちのせいだ。
 代替わりの聖婚はゴダールに限らずどの国でも度々行われるが、その場合、余程のことがない限り前王の親族が貴族の地位を追われることはなく、そのまま留保される。代替わりのたびに地位を剥奪された王族と新王の間に、余計な禍根を残さないためだ。
 しかし今回のゴダールの場合、神龍自らが一族総勢の加護を残らず剥奪した。龍王色が一般色になっただけではない。長寿頑健のその体質まで奪われたのだ。これは、とんだとばっちりであり、他国でも類を見ない前代未聞の名誉毀損である。
 そのことに不満を持つ一部の元王族が過激化した。特に、前王の庇護の下、好きに専横していた黒龍色を持っていたというだけの無能な王族たちだ。
 彼らの言い分は、既存の王の血筋が全て加護を失うのであれば、神龍の怒りを買った元凶のハロルド王の孫であるラウルが聖王になるのは筋違いであり、ラウルは王権を奉還するべきであるというのだ。それはつまりラウルに死ねと言うことである。
 当然、黒龍は動かない。
 であるならば、誰かがやるしかないという理屈だ。
 一見理にかなっているように見えるが、そもそも、最初から神龍の一存で全てが決まるのだから人間の理を当てはめようとしても無理がある。神龍が人の理の外で生きているのだから。 

 ラウルは部屋の隅に立てかけた黒い刀剣を見た。黒龍刀という。
 実際、何度か襲われた時は真っ先にこの刀剣が反応した。刀剣の反応とともに、黒龍は実に頼りになる守護者だった。
 だが実は、問題の根はもっと深い。

 ラウルも薄々気づいていた。何度か暗殺者の攻撃をかわしながら、この凶刃がララに向かわないと誰が保証できる? 女王のララが手厚い加護を受けていることを都合よく解釈し、その危険に気づかないふりをした。
 ララもまた、常に暗殺の危機にあるのだ。
 それはラウルとこの関係を続けることで倍にも膨れあがる。いや、もっとかもしれない。
 これ以上、ララに甘えるわけにはいかない。そもそも、決別の辛い宣言をララに言わせるのも男としてどうなのだ。
 ララは強い。しかし己はなんと弱いのか。

「ララ………」
「……ん?」
「俺もひと泳ぎしてくるから、おまえはその間に行ってくれ。じゃないと俺はここで………」

 おまえを殺して俺も死ぬ――

 そのあとの言葉を辛うじて飲み込んで、ラウルは目の前の泉にザブザブと飛び込んだ。
 肌を刺す水の冷たさが、今のラウルの頭を冷やすのにちょうどよかった。
 もう腕が上がらないと思うまで泳ぎ、泉の真ん中でぽっかりと仰向けになって息をつくと、明け方の空に白い稲妻が一閃した。

 終わったのだ―――…。

 火の消えたような誰もいない暗い別荘の中に戻った。
 徐々に差し込む朝日を受けながら、黒龍刀が鈍く光っていた。
 王にしか抜けないそれを掴んで鞘を払った。その冷たい黒刃の中で閃く黒龍に声をかけた。

「ゴダールよ、出てこい」

 黒刃が一瞬きらめき、ドッと大きな黒い影が刀身から躍り出た。部屋一杯に膨れ上がっているそれは、禍々しいほど黒く美しい。

〈王よ、何か用か……〉
「用がなければ呼んじゃ悪いか」
〈………シンの姫はどうした?〉
「行ったよ。とうとう手放した………」
〈…………〉

 ゴダールは表情の読めない顔でじっとラウルを見ている。

「お前は、いや、神龍とは一体なんだ?」
〈その問いは、そのまま人にも言えるな〉
「……じゃあ、質問を変えよう。なぜ人に取り憑く?」
〈……わからない。だが我らは、王となる人間の中で、一度浄化されなければ存在できない。その際、人も我と一緒に浄化され、バラバラになって混ざり合いながら再構築される〉
「それが神龍の加護か……。なぜ俺なんだ?」
〈……なぜなのかはわからない。だが、おまえは浄化に耐えうる者であり、我らをどうしようもなく惹きつける者だ〉

 ラウルは自分の傷だらけの大きな手を見た。

「………みんな手の中からこぼれてしまう。何もかも消えてしまう。俺はただ、平凡に暮らしていたいだけなのだ………」
〈……王よ、おまえには我の加護がある〉
「ふっ……」

 ラウルは力なく笑った。

「もういい。戻れ」

 加護が欲しいと思ったことなど一度もない―――

 朝日を反射して輝く黒い龍は、禍々しいほど美しく鍛えられた黒い刀身の中に、キリキリと細く身を捩らせながら再び戻った。
 
  その朝、小さな泉のほとりで、小さな別荘が一軒焼き払われた―――


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