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II
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「……死んで二週間、鷗の鳴き声ももう忘れてしまった。深海の底波も、収支損得の勘定も。……流れのままに揺られながら……人生の晩年と青春の段階を通り抜け……渦に巻き込まれた……」
「ねえ、不破くん、さっきからその妙な文句を低声(こごえ)で呟き続けているの、やめてくれないかな。気味が悪いんだ」
不破は、日焼けと貧血で浅黒くなった不健康な肌色の、中背で十九歳の男子学生で、渡辺は不破よりは年上で二十一の、背の高い、豊かに発達した青年の肉体にライ麦色の肌がぴったりした、こちらも男子学生だった。二人は同じ東京の大学に籍を置いていて、不破は仏文科に、渡辺は法学科にいた。二人ともどちらかと言えば怠惰な部類に入る大学生で、頻繁に講義をばっくれて日頃大学構内にいる時間は少なかったから、あるとき二人が初めて出会った後すぐに懇意になったのも、喫茶兼バーのここ「ブラウンスティック」だった。
「渡辺くんはこの詩を知らない?」
「『荒地』からの引用だってことくらい、分かってるよ。でもね、ここは別に文学同好のつどいじゃないし、ゲイバーなんだから、もう少し気の利いた話題にしようよ。ゲイバーでエリオットの詩行を口誦するなんていうのは、ちょっと奇抜」
「ゲイバーではゲイかセックスの話しかしちゃいけないの?」
「もちろんそうじゃないけどさ、取り合わせの問題だよ。今は金曜夜の十二時四十五分で、みんなもうそろそろ出来上がってるっていうのに、そこにいきなり文学談義なんかぶちこまれたら、せっかくの色気が萎えちゃうじゃないか。それにせっかく仏文科生なら、せめてランボオかラディゲあたりにしといてくれたら、まだしもだけど」
「そういうものかなあ」
「そうだよ、だけどそんなのよりも、もっとなにか気楽で、頭の悪い、猥褻な話をしたいな、私は」
ちょうど店内のBGMが切り替わって、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』がトラック9の途中で打ち切られ、代わりにビリー・ジョエルの『ピアノマン』が、エヴァンスの演奏をそのまま引き継いだみたいに滑らかに流れ始めた。この店では『蛍の光』の要領で、店じまいまであと十五分という時刻になると、この曲が客の追い出しの合図に流れることになっている。この時間になってもまだ店に残っているのは、常連客の四、五人と、ママ、それからママお気に入りの二人の従業員だけで、とはいえ十一坪の狭いバーではそれだけの人数でも十分に賑やかに見えた。彼らは大抵、みんなでカウンターを囲むように集まって話すのが習慣になっていたが、その日は不破と渡辺の二人だけ、そこからいくらか離れた隅の席に掛けていた。といってカウンターの連中も、この訳ありそうな二人の離脱者を特に気にかける様子はなく、ついさっき音楽が上手い具合に切り替わった些細な偶然の演出にうっとりしつつ、グラスの底に溜まった数滴のブランデーを飲み干したりしていた。やがてスピーカーが〝It′s nine o’clock on a Saturday……〟と歌い出すと、不破と渡辺はおどけた視線を互いにぶつけあって微笑み交わした。
「別に変なこと聞くわけじゃないんだけどさ、でも不破くんは自分のことをゲイだとかバイセクシャルだとか思ってみたことはないんだよね?」
「ないよ」
「マスタベーションするときは、女の人の身体と男の人の身体と、どっちを思い浮かべることが多い?」
「さあ、なんだか答えにくいけど」
「だけどやっぱり女の人の身体の方が多いんじゃない?」
「まあ、うん」
「男の人とセックスするよりは女の人とのセックスの方が、自分の中でしっくりくる?」
「たぶん」
「それでも毎週金曜と土曜と日曜の夜にはゲイバーに来て、きっちり閉店時間まで残るんだね?」
「そうだよ」
「分からないなあ」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃあ単にお酒が飲みたいだけなら普通のバーでいいわけだし、そっちの方が料理もお酒も美味しいし安いし、女の子だっているわけだし、わざわざゲイバーだなんて少しはずれた店を選ばなくてもいいはずじゃないか?」
「ねえ、なんだかさっきから話の進み方がよくわからないけど、ひょっとして渡辺くんは、もう僕にこの店に来てほしくないの? そうじゃなきゃ、どうして急にそんなに意地悪な言い方するの?」
「違うよ、そんなつもりで言ったんじゃない。あたしにとってあなたとお喋りするのは楽しいし、あなたと飲むお酒は美味しいし、毎週金曜と土曜と日曜はあなたと会うのが楽しみで仕様がないよ。でもね、単純に気になるんだ。ホモでもバイでもない普通の人が、普通のお店じゃなくてゲイバーに来る。なんだかしっくり来ないんだよ」
「ねえ、普通とか普通じゃないとか、しっくり来るとこか来ないとか、そういうのってそんなに大切なことなの? 僕はただ僕がここに来たいと思っているから来てるだけで、だってこの店以外では君に会えないんだもの。これだけ言ってもまだ不満? 僕から何かまだ問い質し足りない?」
「理由が分からないんだよ。あなたがあたしに会いたがる理由が」
「僕が君に会いたい理由?」不破は怒ったような声になって言った。 「ねえ、それって本当にわからなくて訊いてるの? それとも空恍けて僕を苛めているのが楽しいの? どうしてそんなこと、僕に言わせようとするの? 決まってるじゃない、僕は君が好きだからだよ」
「抱かれたくはないけど好きなんだね?」
「抱かれたくないわけないよ」不破が突然大きな声を出したので、渡辺はびっくりした。憚るように周囲を見回すと、幸いカウンターの連中はこちらの会話は気にせずに、自分たちの会話と閉店間際のバーの雰囲気に没頭しているみたいだった。あるいは遠慮して表向きそう装っているだけだったかもしれないが、いずれにしても渡辺と不破は自分たちの事柄に熱中していればそれでいいわけだった。
「でも、だってあなたはついさっき、男の人に性欲は感じないって言ったじゃない」
「性欲は感じなくても抱いてほしいっていうのは駄目?」
「駄目ということはないけど、でも、やっぱり分からないよ、どうしてそんなことを急に言い出すのかも」
「だから言ってるじゃないか」
「あなたがあたしを好きだから?」
「それ以外にまだ何か必要?」
「いいや、——」渡辺は、一瞬ためらいがちに眼を下げた。それからすぐ決心したように言った。「あたしもあなたのことが大好きだし、抱いてあげたいくらい大好きだから、他には要らないよ、何にも。だけどね、これだけは覚えておいてほしい。不破くんはそうじゃないから分からないかもしれないけど、あたしはゲイで、あたしが不破くんを好きだという気持ちは自然なこととして性欲に結びついているの。だからさ、あたしとあなたがたとえば一つ同じベッドに入ったとして、あたしはそのとき多分、あなたとやりたい気持ちに悶々としてしまうと思うの、正直に言って。だけど別に、そんなことであたしのこと変な風に思わないでね、あたしにとってあなたとの関係は恋愛で、仲のいい恋人はセックスをすることを考えるものでしょう、普通。だからといって、あたしがあなたにやることを強要するわけじゃもちろんないけど。あたしもそれは我慢するから、あなたもそこのところは分かっておいて、ね?」
「うん、わかった」
「それじゃあ、そろそろホテルを探しに行こう。どのみちこのお店はもうすぐしまっちゃうし」
「うん」
ふたり一緒に席を立った。わずかな言い争いがあって、結局渡辺が二人分の代金とチップを支払った。
渡辺が不破のために店の押し扉を開けてやると、途端に深夜の底冷えする空気がそこから押し寄せて、暖房とアルコールであたたまった店内の空気をかき混ぜた。カウンターの連中は瞬時震えてそれから怠そうに首をすぼめつつドアの方を見やった。そうしてそこに、うら若い初夜のふたりの恋人たちを見つけたのだった。
不破が先に店を出て、渡辺がその後から外に出た。冷え込んだ夜の風が、酔いでぽっとなった二人の頬にまともに当たった。二人はカウンターからの視線をやはり意識せずにはいられないものの、しかしなるだけ無関心を装うよう心掛けて、まだ続いていたBGMに注意を集中するのだった。
〝Yes, they′re sharing a drink they call loneliness〟 〝But it′s better than drinking alone〟
ホテルはすぐに見つかった。九階の部屋がひとつだけ空いていた。
チェックインを済ませて部屋に入るとすぐ二人は手提げと上着をベッドの上に投げ出して、その傍に腰を下ろしながら、おもむろに服を脱ぎ始めた。
「ねえ、渡辺くん、僕のここ、おへその上のあたりに、うっすらピンク色の筋が何本か見えるでしょ? これ、自傷の跡だよ。もうちょうど一年前のことだけどね、割腹に憧れていた時期があって、ひと月くらい毎晩部屋に籠って電気を消して、掃き出し窓から向かいのマンションを眺めながら、文具のカッターをお腹に突き立てて引っ搔いたりしていたんだ。するとね、たまたま刃が深く喰い込んでいたりするとね、数度手で拭えば止まるくらいの量の血が一条滲んで、それが夜の暗闇の中に月みたいにぼんやり浮かんで見える僕の白いお腹の上で映えて、それはもううっとりしてしまうくらい美しくて……」
そこで一瞬不破が口を噤んだので、それまで服を脱ぐ手をやめてじっと彼を見つめていた渡辺は、不破の伏し目をちらと覗き込んだ。不破も渡辺の目を見返した。不破の黒目が虹彩を見分けられないほど一面に濃密な墨色をしているのを見つけて、渡辺は何かしら確信を得た。
「——ああ、なんだ。 もしかしてそれが、あなたがあたしと寝たがった理由?」
「……うん」
不破の両頬の厚ぼったい黒い皮膚の下が真っ赤に染まった。
不破が服を脱ぎ終わって立ち上がりざま訊いた。
「お風呂、一緒に入る?」
「どうして?」渡辺は半裸でベッドの上に仰向けになっていたのから、飛び起きて言った。
「どうしてって渡辺くんは、お風呂とか入りたいんじゃないの?」
「そりゃあ入りたいけど、でも、不破くんは別にそういうんじゃないんだろう?」
「僕は別に入ってもいいよ」
「いや、やめておくよ」渡辺は短い息をついてから言った。「お風呂は早いところ済ませて、ベッドの中で色々と話そう」
うん、と言って不破がバスルームに入ったのを見送った後、渡辺は再びベッドに仰向けに倒れた。そのとき渡辺はようやく、不破がまだ十九歳だということを思い出し、逢瀬を控えた初恋の男のように、裸の胸を小刻みに慄わせながら長い息を吐いた。
交代で入った渡辺が風呂を終えて後、二人はすぐ部屋の明かりを消してベッドに入った。ベッドサイドのランプも使わなかった。
「不破くんがバーで呟いていた、『フェニキア人フレバスは、死んで二週間、……』という詩句はⅣの『水死』だよね?」
「そうだよ」
「どうしてあの詩を口ずさんでいたの?」
「そうだなあ」不破は両手で顔を覆いつつ話した。「なんだかうまく言えないんだけどさ、昔からの習慣で、僕は夜になると、どうしてだかすごく不安になって死ぬことを考えるんだけどね、そういうときの気分に、この詩はときどきなんだかすごくぴったりしてるんだ」
「死ぬことっていうのは、入水ってこと?」
「たとえばそういうこと」
「それで、今は入水のこと考えてるの?」
「いいや、今は別の死に方がいいな」
「どんな?」
「渡辺くんに抱き潰されて死にたいかな」
そう言いざま不破はいきなり渡辺の肩に抱きついた。渡辺は突然のことに動揺しつつも、さっき不破の眼を見て得た確信を思い返して、上から不破の腰に手を回した。
「ね、抱いて」
「抱いてるよ、今も」
「もっときつく」
渡辺はシーツと不破の身体の間からもう片方の手を通して、両手で不破の背中を探った。
「ね、もっときつく」
「これくらいで十分じゃないかな」
「駄目だよ、これじゃあ全然、僕の身体が潰れないもの」
「潰したくなんかないよ」
「じゃあ、こうして」
不破は腰の上にあった渡辺の腕をとって、自分の首根に掌をあてがった。
「絞めて」
「出来ないね」
「どうして?」
「あたしじゃ力が足らないもの」
「嘘ばっかり」不破は意地悪な笑みで渡辺の眼を覗き込んだ。
「嘘だよ」渡辺も悪戯っぽい微笑みで報いた。「力は足りるだろうけど、締めたくはないね」
「どうして?」
「あたしはあなたの死体じゃなくて、生きてる身体を抱きたいから」
「自分のことばっかり」
「あなただって、自分が死にたいばっかりじゃない?」
不破は渡辺の身体にしがみつくように腕に力を込めた。
「ね、不破くんはいま、不安?」
「さあ、どうだろう」
「じゃあ、どうして死にたくなるんだろう?」
「渡辺くんはいま、硬くなってる?」
「緊張してるかってこと?」
「馬鹿だなあ」不破は思いがけず笑い出した。「勃起してるかってことに決まってるよ」
「それならしてるよ」
「知ってる。だってさっきから、ごつごつしたのが腿の辺りに当たってるんだもの」
「じゃあ、どうしてそんなこと聞いたの?」
「どうして渡辺くんは、僕と寝てると勃起するの?」
「さあ、そういうものだからじゃない?」
「僕のも、そういうものだからだと思うな」
ふたりしばらく黙った。
「ねえ、夜って随分長いんだね」
「捉えようによってはね」
「苦しいなあ」
「不破くんはさ、いまこうしてあたしと抱き合ってると、気持ちがいい?」
「うん、とっても」
「いま、落ち着いてる?」
「すごく」
「あたしもね、こうしているの、苦しいけどでもすごく気持ちがいい。ねえ、こういう時間ってすごく素敵だと思わない? すごく素敵で、ずっと続いてくれたらいいのに、って思わない?」
「思う。でも、絶対にずっとは続かないよ」
「どうしてそう考えるの?」
「だって夜が終わったら、厄介な朝が来ちゃうもの。それに朝の後には面倒な昼も待ち受けているし」
「馬鹿だなあ。なんだってそんな遥か未来のことを考えるの? だってほら、あそこの窓を見てよ、まだ星も出てないじゃない」
渡辺が指さして示した窓の向こうは、淡い青藍色の空で、右側の窓越しに見える空は、わずかに隅の方から赤らみ始めていた。
「そうだね、まだ月も見えない」
不破は腕を緩めて、代わりに渡辺の厚い胸板に頭を寝かせた。
不眠の夜はまだ眠らない。
「ねえ、不破くん、さっきからその妙な文句を低声(こごえ)で呟き続けているの、やめてくれないかな。気味が悪いんだ」
不破は、日焼けと貧血で浅黒くなった不健康な肌色の、中背で十九歳の男子学生で、渡辺は不破よりは年上で二十一の、背の高い、豊かに発達した青年の肉体にライ麦色の肌がぴったりした、こちらも男子学生だった。二人は同じ東京の大学に籍を置いていて、不破は仏文科に、渡辺は法学科にいた。二人ともどちらかと言えば怠惰な部類に入る大学生で、頻繁に講義をばっくれて日頃大学構内にいる時間は少なかったから、あるとき二人が初めて出会った後すぐに懇意になったのも、喫茶兼バーのここ「ブラウンスティック」だった。
「渡辺くんはこの詩を知らない?」
「『荒地』からの引用だってことくらい、分かってるよ。でもね、ここは別に文学同好のつどいじゃないし、ゲイバーなんだから、もう少し気の利いた話題にしようよ。ゲイバーでエリオットの詩行を口誦するなんていうのは、ちょっと奇抜」
「ゲイバーではゲイかセックスの話しかしちゃいけないの?」
「もちろんそうじゃないけどさ、取り合わせの問題だよ。今は金曜夜の十二時四十五分で、みんなもうそろそろ出来上がってるっていうのに、そこにいきなり文学談義なんかぶちこまれたら、せっかくの色気が萎えちゃうじゃないか。それにせっかく仏文科生なら、せめてランボオかラディゲあたりにしといてくれたら、まだしもだけど」
「そういうものかなあ」
「そうだよ、だけどそんなのよりも、もっとなにか気楽で、頭の悪い、猥褻な話をしたいな、私は」
ちょうど店内のBGMが切り替わって、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』がトラック9の途中で打ち切られ、代わりにビリー・ジョエルの『ピアノマン』が、エヴァンスの演奏をそのまま引き継いだみたいに滑らかに流れ始めた。この店では『蛍の光』の要領で、店じまいまであと十五分という時刻になると、この曲が客の追い出しの合図に流れることになっている。この時間になってもまだ店に残っているのは、常連客の四、五人と、ママ、それからママお気に入りの二人の従業員だけで、とはいえ十一坪の狭いバーではそれだけの人数でも十分に賑やかに見えた。彼らは大抵、みんなでカウンターを囲むように集まって話すのが習慣になっていたが、その日は不破と渡辺の二人だけ、そこからいくらか離れた隅の席に掛けていた。といってカウンターの連中も、この訳ありそうな二人の離脱者を特に気にかける様子はなく、ついさっき音楽が上手い具合に切り替わった些細な偶然の演出にうっとりしつつ、グラスの底に溜まった数滴のブランデーを飲み干したりしていた。やがてスピーカーが〝It′s nine o’clock on a Saturday……〟と歌い出すと、不破と渡辺はおどけた視線を互いにぶつけあって微笑み交わした。
「別に変なこと聞くわけじゃないんだけどさ、でも不破くんは自分のことをゲイだとかバイセクシャルだとか思ってみたことはないんだよね?」
「ないよ」
「マスタベーションするときは、女の人の身体と男の人の身体と、どっちを思い浮かべることが多い?」
「さあ、なんだか答えにくいけど」
「だけどやっぱり女の人の身体の方が多いんじゃない?」
「まあ、うん」
「男の人とセックスするよりは女の人とのセックスの方が、自分の中でしっくりくる?」
「たぶん」
「それでも毎週金曜と土曜と日曜の夜にはゲイバーに来て、きっちり閉店時間まで残るんだね?」
「そうだよ」
「分からないなあ」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃあ単にお酒が飲みたいだけなら普通のバーでいいわけだし、そっちの方が料理もお酒も美味しいし安いし、女の子だっているわけだし、わざわざゲイバーだなんて少しはずれた店を選ばなくてもいいはずじゃないか?」
「ねえ、なんだかさっきから話の進み方がよくわからないけど、ひょっとして渡辺くんは、もう僕にこの店に来てほしくないの? そうじゃなきゃ、どうして急にそんなに意地悪な言い方するの?」
「違うよ、そんなつもりで言ったんじゃない。あたしにとってあなたとお喋りするのは楽しいし、あなたと飲むお酒は美味しいし、毎週金曜と土曜と日曜はあなたと会うのが楽しみで仕様がないよ。でもね、単純に気になるんだ。ホモでもバイでもない普通の人が、普通のお店じゃなくてゲイバーに来る。なんだかしっくり来ないんだよ」
「ねえ、普通とか普通じゃないとか、しっくり来るとこか来ないとか、そういうのってそんなに大切なことなの? 僕はただ僕がここに来たいと思っているから来てるだけで、だってこの店以外では君に会えないんだもの。これだけ言ってもまだ不満? 僕から何かまだ問い質し足りない?」
「理由が分からないんだよ。あなたがあたしに会いたがる理由が」
「僕が君に会いたい理由?」不破は怒ったような声になって言った。 「ねえ、それって本当にわからなくて訊いてるの? それとも空恍けて僕を苛めているのが楽しいの? どうしてそんなこと、僕に言わせようとするの? 決まってるじゃない、僕は君が好きだからだよ」
「抱かれたくはないけど好きなんだね?」
「抱かれたくないわけないよ」不破が突然大きな声を出したので、渡辺はびっくりした。憚るように周囲を見回すと、幸いカウンターの連中はこちらの会話は気にせずに、自分たちの会話と閉店間際のバーの雰囲気に没頭しているみたいだった。あるいは遠慮して表向きそう装っているだけだったかもしれないが、いずれにしても渡辺と不破は自分たちの事柄に熱中していればそれでいいわけだった。
「でも、だってあなたはついさっき、男の人に性欲は感じないって言ったじゃない」
「性欲は感じなくても抱いてほしいっていうのは駄目?」
「駄目ということはないけど、でも、やっぱり分からないよ、どうしてそんなことを急に言い出すのかも」
「だから言ってるじゃないか」
「あなたがあたしを好きだから?」
「それ以外にまだ何か必要?」
「いいや、——」渡辺は、一瞬ためらいがちに眼を下げた。それからすぐ決心したように言った。「あたしもあなたのことが大好きだし、抱いてあげたいくらい大好きだから、他には要らないよ、何にも。だけどね、これだけは覚えておいてほしい。不破くんはそうじゃないから分からないかもしれないけど、あたしはゲイで、あたしが不破くんを好きだという気持ちは自然なこととして性欲に結びついているの。だからさ、あたしとあなたがたとえば一つ同じベッドに入ったとして、あたしはそのとき多分、あなたとやりたい気持ちに悶々としてしまうと思うの、正直に言って。だけど別に、そんなことであたしのこと変な風に思わないでね、あたしにとってあなたとの関係は恋愛で、仲のいい恋人はセックスをすることを考えるものでしょう、普通。だからといって、あたしがあなたにやることを強要するわけじゃもちろんないけど。あたしもそれは我慢するから、あなたもそこのところは分かっておいて、ね?」
「うん、わかった」
「それじゃあ、そろそろホテルを探しに行こう。どのみちこのお店はもうすぐしまっちゃうし」
「うん」
ふたり一緒に席を立った。わずかな言い争いがあって、結局渡辺が二人分の代金とチップを支払った。
渡辺が不破のために店の押し扉を開けてやると、途端に深夜の底冷えする空気がそこから押し寄せて、暖房とアルコールであたたまった店内の空気をかき混ぜた。カウンターの連中は瞬時震えてそれから怠そうに首をすぼめつつドアの方を見やった。そうしてそこに、うら若い初夜のふたりの恋人たちを見つけたのだった。
不破が先に店を出て、渡辺がその後から外に出た。冷え込んだ夜の風が、酔いでぽっとなった二人の頬にまともに当たった。二人はカウンターからの視線をやはり意識せずにはいられないものの、しかしなるだけ無関心を装うよう心掛けて、まだ続いていたBGMに注意を集中するのだった。
〝Yes, they′re sharing a drink they call loneliness〟 〝But it′s better than drinking alone〟
ホテルはすぐに見つかった。九階の部屋がひとつだけ空いていた。
チェックインを済ませて部屋に入るとすぐ二人は手提げと上着をベッドの上に投げ出して、その傍に腰を下ろしながら、おもむろに服を脱ぎ始めた。
「ねえ、渡辺くん、僕のここ、おへその上のあたりに、うっすらピンク色の筋が何本か見えるでしょ? これ、自傷の跡だよ。もうちょうど一年前のことだけどね、割腹に憧れていた時期があって、ひと月くらい毎晩部屋に籠って電気を消して、掃き出し窓から向かいのマンションを眺めながら、文具のカッターをお腹に突き立てて引っ搔いたりしていたんだ。するとね、たまたま刃が深く喰い込んでいたりするとね、数度手で拭えば止まるくらいの量の血が一条滲んで、それが夜の暗闇の中に月みたいにぼんやり浮かんで見える僕の白いお腹の上で映えて、それはもううっとりしてしまうくらい美しくて……」
そこで一瞬不破が口を噤んだので、それまで服を脱ぐ手をやめてじっと彼を見つめていた渡辺は、不破の伏し目をちらと覗き込んだ。不破も渡辺の目を見返した。不破の黒目が虹彩を見分けられないほど一面に濃密な墨色をしているのを見つけて、渡辺は何かしら確信を得た。
「——ああ、なんだ。 もしかしてそれが、あなたがあたしと寝たがった理由?」
「……うん」
不破の両頬の厚ぼったい黒い皮膚の下が真っ赤に染まった。
不破が服を脱ぎ終わって立ち上がりざま訊いた。
「お風呂、一緒に入る?」
「どうして?」渡辺は半裸でベッドの上に仰向けになっていたのから、飛び起きて言った。
「どうしてって渡辺くんは、お風呂とか入りたいんじゃないの?」
「そりゃあ入りたいけど、でも、不破くんは別にそういうんじゃないんだろう?」
「僕は別に入ってもいいよ」
「いや、やめておくよ」渡辺は短い息をついてから言った。「お風呂は早いところ済ませて、ベッドの中で色々と話そう」
うん、と言って不破がバスルームに入ったのを見送った後、渡辺は再びベッドに仰向けに倒れた。そのとき渡辺はようやく、不破がまだ十九歳だということを思い出し、逢瀬を控えた初恋の男のように、裸の胸を小刻みに慄わせながら長い息を吐いた。
交代で入った渡辺が風呂を終えて後、二人はすぐ部屋の明かりを消してベッドに入った。ベッドサイドのランプも使わなかった。
「不破くんがバーで呟いていた、『フェニキア人フレバスは、死んで二週間、……』という詩句はⅣの『水死』だよね?」
「そうだよ」
「どうしてあの詩を口ずさんでいたの?」
「そうだなあ」不破は両手で顔を覆いつつ話した。「なんだかうまく言えないんだけどさ、昔からの習慣で、僕は夜になると、どうしてだかすごく不安になって死ぬことを考えるんだけどね、そういうときの気分に、この詩はときどきなんだかすごくぴったりしてるんだ」
「死ぬことっていうのは、入水ってこと?」
「たとえばそういうこと」
「それで、今は入水のこと考えてるの?」
「いいや、今は別の死に方がいいな」
「どんな?」
「渡辺くんに抱き潰されて死にたいかな」
そう言いざま不破はいきなり渡辺の肩に抱きついた。渡辺は突然のことに動揺しつつも、さっき不破の眼を見て得た確信を思い返して、上から不破の腰に手を回した。
「ね、抱いて」
「抱いてるよ、今も」
「もっときつく」
渡辺はシーツと不破の身体の間からもう片方の手を通して、両手で不破の背中を探った。
「ね、もっときつく」
「これくらいで十分じゃないかな」
「駄目だよ、これじゃあ全然、僕の身体が潰れないもの」
「潰したくなんかないよ」
「じゃあ、こうして」
不破は腰の上にあった渡辺の腕をとって、自分の首根に掌をあてがった。
「絞めて」
「出来ないね」
「どうして?」
「あたしじゃ力が足らないもの」
「嘘ばっかり」不破は意地悪な笑みで渡辺の眼を覗き込んだ。
「嘘だよ」渡辺も悪戯っぽい微笑みで報いた。「力は足りるだろうけど、締めたくはないね」
「どうして?」
「あたしはあなたの死体じゃなくて、生きてる身体を抱きたいから」
「自分のことばっかり」
「あなただって、自分が死にたいばっかりじゃない?」
不破は渡辺の身体にしがみつくように腕に力を込めた。
「ね、不破くんはいま、不安?」
「さあ、どうだろう」
「じゃあ、どうして死にたくなるんだろう?」
「渡辺くんはいま、硬くなってる?」
「緊張してるかってこと?」
「馬鹿だなあ」不破は思いがけず笑い出した。「勃起してるかってことに決まってるよ」
「それならしてるよ」
「知ってる。だってさっきから、ごつごつしたのが腿の辺りに当たってるんだもの」
「じゃあ、どうしてそんなこと聞いたの?」
「どうして渡辺くんは、僕と寝てると勃起するの?」
「さあ、そういうものだからじゃない?」
「僕のも、そういうものだからだと思うな」
ふたりしばらく黙った。
「ねえ、夜って随分長いんだね」
「捉えようによってはね」
「苦しいなあ」
「不破くんはさ、いまこうしてあたしと抱き合ってると、気持ちがいい?」
「うん、とっても」
「いま、落ち着いてる?」
「すごく」
「あたしもね、こうしているの、苦しいけどでもすごく気持ちがいい。ねえ、こういう時間ってすごく素敵だと思わない? すごく素敵で、ずっと続いてくれたらいいのに、って思わない?」
「思う。でも、絶対にずっとは続かないよ」
「どうしてそう考えるの?」
「だって夜が終わったら、厄介な朝が来ちゃうもの。それに朝の後には面倒な昼も待ち受けているし」
「馬鹿だなあ。なんだってそんな遥か未来のことを考えるの? だってほら、あそこの窓を見てよ、まだ星も出てないじゃない」
渡辺が指さして示した窓の向こうは、淡い青藍色の空で、右側の窓越しに見える空は、わずかに隅の方から赤らみ始めていた。
「そうだね、まだ月も見えない」
不破は腕を緩めて、代わりに渡辺の厚い胸板に頭を寝かせた。
不眠の夜はまだ眠らない。
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