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05. 昔話

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 外は暗くなりかけている。オレンジから紫へのグラデーションが空に拡がって、少し眩しい。
 バルコニーに出ると、澄んだ日暮れ時の空気が血の上った頭を落ち着かせてくれた。穏やかな風が気持ちいい。

「……ごめん。レザリンド侯爵の気を引けって言われてたのに」

 今はリッフォン公爵がレザリンド侯爵と話をしてくれているけれど、本来はあたしの仕事だったはずだ。
 あたしは肩を落としたけれど、ブレイクは「ああ、別にいいよ」とあっさり答えた。

「元々、君一人でレザリンド侯爵の対応をし続けられるとは思っていないし、その担当者は複数配置してる。ほら、一人また話しかけに行った」
「聞いてないけど」
「うん。言ってないね」

 そういうことは事前に言ってほしい。ブレイクを軽く睨んだけれど、笑顔で流された。

「僕の予定とは少し違ったけれど、君は十分いい仕事をしてくれたよ」
「ダンスのこと?」
「違う。君は気にしてなかったと思うけど、明らかに何人かがさっきの僕らの会話を聞いていた――レザリンド侯爵は僕に重要な仕事を任せてはいないって発言をね」

 その発言を聞かれたから何だって言うんだろう。
 首を傾げたあたしに、ブレイクはウインクを返してくる。

「内部告発をする以上、僕自身に火の粉がかからないように十分な根回しは終えているけれど、僕が無関係だと証言してくれる人間が増えるに越したことはないでしょう?」
「ああ、そういう……」

 内部告発に、なるのか。全然似ていないけど、あのレザリンド侯爵とブレイクは親戚なんだよな。
 分家とか本家とか、貴族の家の事情はあたしにはよくわからない。でも分家の人間は本家の人間に逆らうなっていうレザリンド侯爵の言葉は、うまく言えないけど、なんか嫌だ。

「ブレイクはあんな……言われっぱなしでいいのかよ」

 口を尖らせてそう言うと、ブレイクはふふっと笑みを浮かべた。

「なんで笑うんだよ」

 バルコニーの手すりに背を預けたブレイクが、あたしを見つめて無言で微笑む。ただ見られているだけなのになぜか落ち着かなくて、自分の腰を抱くように腕を組んだ。

「自分への嫌味は笑顔で受け流してた君が、僕のために怒ってくれたことが嬉しくてね」
「べっ、別にブレイクのために怒ったわけじゃない」
「そう?」

 楽しそうにまた笑ってから、ブレイクはバルコニーの手すりに背を預ける。

「さっきの問いに答えるね。君は、僕が黙ってサンドバッグになってやるお人好しだと思うの? 言われっぱなしじゃ癪だから、僕は君たちと組んで仕返しを画策しているわけだ」
 
 仕返し。なんとなく嫌な響きだ。
 あたしは眉を寄せたけれど、ブレイクは「正義感いっぱいの君たち親子と違って、僕の動機の三分の一くらいは私怨だよ」と肩をすくめた。

「ねえシア。事が全て片付く前に君に話すって、ジャッカルさんと約束していることがあるんだ。今聞いてもらっていい?」
「うん?」
「レザリンド家ではね、スクールに通い始める八歳までの間、分家の子供もみんな本邸に集められて教育を受けるんだ。本家の子供かどうかで明らかな扱いの差を受けながらね」

 なんで父さんはブレイクに身の上話を語らせる約束なんてしたんだろう。頭にハテナを浮かべながら聞いていたら、

「物心つく頃にはもう諦めてたよ。そういうものなんだって――でも」

 ブレイクが言葉を切って、あたしに目を向ける。

「教育の一環として領内を回らされていたときに訪れた港町で、本家の兄弟から殴られていた僕を庇ってくれた女の子がいたんだ」

 そう言われてどきりとした。
 ブレイクの話が突然思い出の光景と重なったから。

 港町で、他の子供からいじめられていた男の子。いじめている方もいじめられている方も身なりが町の子たちより立派だった。近くに子供たちの従者らしい大人がいたのにその人は見ているだけだったから腹が立った。
 だからあたしは走って割り込んで、一番体の大きな子供を蹴り飛ばしたんだ。

「覚えてる?『二人で小さい子をいじめて、恥ずかしくないのか』って君は言ったね」
「覚――えてる」

 あの時の話を一言一句覚えているわけではないけど、たぶん言った。
 あたしと向かい合っていたいじめっ子たちが言い返してきて、取っ組み合いになりかけて、駆けつけた父さんがあたしと男の子を抱えて別の場所に連れて行ってくれたんだっけ。

「自分より体の大きな相手に全く怯まなかった君はとても格好良かったけれど、同時に、年下の女の子に守られたことが恥ずかしかった。僕は今のままじゃだめだって、変わらなきゃって思ったよ」

 昔のことを思い出しながらブレイクの話を聞いていたけれど、やっぱりあの男の子とブレイクが重ならない。髪や目の色はよく似ていると思うけれど、あの子はブレイクと違って素直で、可憐な花みたいに笑う子だった。

「この家もやっぱりおかしいって思ったけど、当主があんな風だからね。どうすれば追い落とせるかを知るためにたくさん勉強して、時間をかけて裏で動いて味方を増やして、やっとあと少しというところまできた」

 ブレイクがためらいがちにあたしの頬に手を添える。あたしを見つめる紫の目が揺れている。

「ねえシア。僕は、君に守ってもらったあの時から、ずっと君のことが好きだよ。でも君は昔の僕のほうがよかった? 今の僕じゃ――嫌?」
「……あたし、は」

 ブレイクが黙って待っている。
 何か言わなくちゃ。
 そう思うのに、いつもなら考える前に喋ってしまうはずの口が固まったみたいに動かない。

 ずっと、スカーフをくれた男の子に会いたかった。本音の見えないブレイクのことは気に入らないって思っていた。
 でも、あのときの男の子もブレイクで、だったらあたし――あたしは……?

「シア、答えて。今の話を聞いた上で、僕のことは嫌だって言うなら、ちゃんと諦めるよ」
「……」

 なんであたしは答えられないんだろう。
 ブレイクと婚約したって聞かされたとき、絶対嫌だと思ったのに。

 今のブレイクじゃ嫌だって言ったらどうなる?
 諦めるっていうのは、もう会わないということ?
 それは――嫌だ。あの子にもう一度会えたら話したいと思っていたことも、見せたかったものも、たくさんある。
 でも、じゃあいいのかって聞かれたらやっぱりわからない。だから、

「話を聞かされたばっかで、今すぐには答えられないよ」

 としか言えなかった。
 何の回答にもなってないのに、ブレイクはふわりと笑って一歩近づいてきた。

「ねえシア、それなら――」

 突然、夜の中に大きな羽音が響く。そちらに目を向けると、茜色の空の向こうに鳥が一羽飛び去っていくのが見えた。

「……本当、彼は空気を読んでくれないね」
「あれ、もしかしてロウの仕業?」
「そうだよ。あの鳥が証拠の一部を運んでくれるんだ。設定は、〝リッフォン公爵がサプライズプレゼントとして持ってきた鳥を運ぼうとした従者が誤って逃した〟ってことにしてある」
「でも鳥が運べる量なんて大したことないんじゃないか?」
「いいんだよ。家宅捜索の名目が立って、隠し部屋の開け方がわかれば。あとの手筈は整えてある」

 鳥が去っていった方角を見つめながら、ブレイクは口元を釣り上げた。

「ああ、早くあいつらが慌てふためく顔が見たいなあ」

 目が全く笑っていない横顔を見て、やっぱり今のブレイクは微妙かもしれないという考えが頭をよぎった。

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