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白
病室の景色は、いつもと変わらなかった。
淡い色の花がいけてある花瓶。左右に束ねられた薄緑のカーテン。清潔に保たれた白いシーツのかけられた彼の眠るベッド。
そこに横たわる君は、とても美しい。
陶器のように白い肌。閉じられたままのまぶたと、短くはえ揃ったまつ毛。烏のように黒い髪は、男子にしてはやや長めだ。手足は細く長い。全体的に体に肉がついていないため、骨ばっているのだが、ただ骨ばっていると言うよりは、華奢な体つき、といったほうが似合っている。
そんな彼だからだろうか。
一目見た時に思うのは「病弱な青年」ではなく「眠り姫」であるのは。
「今日もよく寝てるね、サトル」
私は彼の名を呼んだ。
「……すー。……すー」
返ってくるのは返事ではなく寝息だけ。
まあ、これもいつもの事だ。
彼はあまり目を覚まさない。私が彼と話すことが出来るのは、病室に十回きたらそのうちの一回、それもそのうちの数分、といったところだ。
不意に病室のドアが開いた。
「セツナちゃん、来ていたのね」
「あ、サトルのお母さん。お邪魔しています。」
サトルのお母さんは疲れを顔に滲ませていた。歳は私の母とそう変わらないはずなのに、はっきりとした隈や皺なんかがあるせいでずっと歳上に、悪くいえば老けて見えた。気のせいだろうか、この前会った時よりも一段とそのように見える。
「セツナちゃん。あのね」
そこまで言うとサトルのお母さんは言いにくそうに口元を歪めた。そして私から目をそらして、
「少し話があるの。一緒に来てくれる?」
「分かりました」
病室の外へと私を連れ出した。
病室フロアのベンチで私はサトルのお母さんと向き合って座っていた。手には紅茶のペットボトル。サトルのお母さんが売店で買ってきてくれたものだ。
きっとこれも時間稼ぎなのかもしれない。なんて嫌な予想がよぎる。
話の内容に心当たりがあった。前々から、いつかはそんな話もされるだろうって思っていた。でも、それが今話されることであるという確証もないし、信じたくなかったから、話を聞くまでは何も考えないことにした。
ベンチの脇には大きな窓がついていたが薄いレースのカーテンがなにかからここを隠すように閉められていた。カーテンとガラスの向こう側で青々とした葉を茂らせた桜の木が、季節を主張するかのようにゆっくりと風に揺れた。
「それで、話ってなんですか?」
なるべく平静を保つように心がけて尋ねた。心臓が大きな音をたてる。お願い、悪い予感が当たりませんように。
「そう、ね」
ひとつ深呼吸をして話は始まった。
「セツナちゃん、いつもお見舞いに来てくれているでしょ。きっとサトルも喜んでいるわ。眠っているばかりだけど、セツナちゃん、毎日のように来てくれるでしょ」
「ええ、まあ。……一応、彼女、ですし」
堂々と答えなきゃいけないはずの最後の一言は口籠もってしまった。そんな私を見て微笑んだかと思えば、急に真剣な顔になってこう話した。
「もう、来ないでほしいの」
「なんで……ですか?」
うまく言葉が出てこなかった。やっぱりそうなんだ。きっとそうなんだ。息が苦しい。
いつかはそうなるってわかっていたのに。こんなふうにサトルのお母さんなら言うだろうなってわかっていたのに。なのに、喉になにかが詰まったかのように、言葉は出てこない。
「きっとこれ以上来ていたら苦しくなるわ」
「理由は、それだけ、ですか?」
切れ切れになる言葉をようやく繋いで尋ねた。
「そうよ」
サトルのお母さんは伏し目がちにそう言った。
「なら私は来ます」
苦しいのはサトルに会えないほうだ。どれだけ苦しくても辛くても私はサトルに会いたい。
「ほんとうにこれから辛くなるわよ」
悲しそうな顔。だけどそれくらいじゃ私の決意は変わらない。
「だって……」
そこでサトルのお母さんは言葉を切った。目に涙を浮かばせてこう続けた。
「サトルの命はあと2週間ほどってお医者様が」
そう言うと顔をおおい泣き出した。
「2週間……」
体全体の力が抜けた。手に持っていたペットボトルがすり抜ける。そのまま床に叩きつけられたペットボトルは、べこりと形を変える。音が遠くなっていき、目の前が真っ暗になって真っ白になった。
その白の向こう側に見えたのはサトルと過ごした日々。まだサトルが私と話が出来た頃の思い出。優しく笑うサトルの横顔。遠くを見て夢を話すサトルの瞳。風に揺れる柔らかい髪。太陽に照らされる白い肌。私の頭を撫でる温かい手。なにもかも手に取るように思い出せる。
「ごめんね、セツナちゃん。」
その声で現実に戻された。
「だから、もうサトルのことはいいの。」
「よくないです!」
反射的に叫んでいた。
「よくなんて、ないです。サトルは、サトルは……。」
視界がぼやける。雫が落ちる。止まらない。止まらない。
いつかはそんな日が来てしまうって、分かっていたはずなのに。
分かっていたはずなのに。
はずだったのに。
「すみません。」
私はそう言って席を立った。向かう先はサトルの病室。リノリウムの床の白さが目に焼き付くようだ。いつもは気にならない病院独特の消毒液の臭いがやけに鼻についた。
黙って病室のドアを開ける。下を向いていつも座っているベッド脇の椅子に腰掛けた。涙は止まらない。泣き声は出ないけど、ただ静かに涙だけが流れ落ちた。
「セツナ?」
優しい声が私の名前を呼んだ。反射的に顔を上げる。
「ねえ、セツナ?」
心配そうな声。
「サトル、起きてたんだ。」
目を合わせることが出来なかった。こんなズタボロに泣いている顔が恥ずかしくて、顔を背けた。
「どうしたの?」
柔らかくてあったかい、でも少し曇った心配そうな声。でも私は顔を上げることが出来ない。
「もしかして、僕のお母さんとかに何か言われた?」
私が答えないでいるとサトルは私の頭を撫でた。ゆっくりと、優しい手つきで。
「セツナが辛くなったらいつだってやめていい。僕は、僕がいなくなったあとのセツナのことが心配なんだ」
「やめない。やめないよ、私。サトルの隣にいるの。彼女だもの。好きだもの。サトルのこと、愛しているもの!」
そう言って私は強く抱き締めた。
ありふれた陳腐な言葉でしかこの想いを伝えられない事がもどかしい。こんな言葉じゃ私の気持ちは足りない。
「ありがとう」
サトルもそっと抱き締め返してくれた。
その力加減がサトルの優しさではなく、もうそれ以上の力が出ないこと、理解してしまうのが怖かった。心臓の当たりを冷たい何かで撫でられたような感触がした。
あったかくて、優しくて、失いたくないのに、時間はすぎていく。現実はあまりにも残酷だった。
*****
それから一ヶ月が経った。
サトルがいた病室は白い空き箱になってしまった。花瓶も花も何も無い。真っ白な四角い箱が私に「現実」を突きつけてくる。
カーテンの向こうはきっと青い空が広がっているのだろう。外の木々は日の光を浴びて、風とともに歌うのだろう。
どれも私には別世界のようだ。この白い空き箱から見えるものはすべてが白黒に見える。この白い空き箱の中に音はない。静かに暗い哀しみが足元にまとわりついていた。
重い足を引きずって外に出る。
「セツナちゃん。これ」
目を真っ赤に腫らしたサトルのお母さんが白い封筒を手渡してきた。
「これは?」
「サトルからよ。」
何も言わずにお辞儀をすると私は駆け足で外へ出た。誰とも目を合わせずに走った。
一人でベンチに座る。ここは入院中、サトルの調子がよかった時に二人で座って話をしていたベンチ。隣にサトルがいないから、なんだかすーすーしている。
そっと封筒を開ける。
恐る恐る便箋を広げる。
そこには懐かしいサトルの字が並んでいた。へたっぴな文字で、読むのには解読が必要だって笑っていたサトルの文字。
読みながら私は泣いていた。開けっ放しの涙の蛇口は閉まることを知らない。顔をぐちゃぐちゃにしながら私はその手紙を何度も、何度も読んだ。
文字を指でたどって、言葉を何度も繰り返して。何度も、何度も読んだ。
夏の空は高く、終わりのない青が遠くまで広がっている。太陽の光は私のことを刺すように降り注ぐ。緑色の風が枝を揺らして去っていく。ざわざわ、ざわわと木が歌う。
空いたままの隣の席。待っている人はもう来ない。わかっている。わかっているんだ。
記憶の中で彼は笑う。眠り姫はもう目覚めない。届かないんだ、二度と。
便箋の余白の白さが目に残っていた。
淡い色の花がいけてある花瓶。左右に束ねられた薄緑のカーテン。清潔に保たれた白いシーツのかけられた彼の眠るベッド。
そこに横たわる君は、とても美しい。
陶器のように白い肌。閉じられたままのまぶたと、短くはえ揃ったまつ毛。烏のように黒い髪は、男子にしてはやや長めだ。手足は細く長い。全体的に体に肉がついていないため、骨ばっているのだが、ただ骨ばっていると言うよりは、華奢な体つき、といったほうが似合っている。
そんな彼だからだろうか。
一目見た時に思うのは「病弱な青年」ではなく「眠り姫」であるのは。
「今日もよく寝てるね、サトル」
私は彼の名を呼んだ。
「……すー。……すー」
返ってくるのは返事ではなく寝息だけ。
まあ、これもいつもの事だ。
彼はあまり目を覚まさない。私が彼と話すことが出来るのは、病室に十回きたらそのうちの一回、それもそのうちの数分、といったところだ。
不意に病室のドアが開いた。
「セツナちゃん、来ていたのね」
「あ、サトルのお母さん。お邪魔しています。」
サトルのお母さんは疲れを顔に滲ませていた。歳は私の母とそう変わらないはずなのに、はっきりとした隈や皺なんかがあるせいでずっと歳上に、悪くいえば老けて見えた。気のせいだろうか、この前会った時よりも一段とそのように見える。
「セツナちゃん。あのね」
そこまで言うとサトルのお母さんは言いにくそうに口元を歪めた。そして私から目をそらして、
「少し話があるの。一緒に来てくれる?」
「分かりました」
病室の外へと私を連れ出した。
病室フロアのベンチで私はサトルのお母さんと向き合って座っていた。手には紅茶のペットボトル。サトルのお母さんが売店で買ってきてくれたものだ。
きっとこれも時間稼ぎなのかもしれない。なんて嫌な予想がよぎる。
話の内容に心当たりがあった。前々から、いつかはそんな話もされるだろうって思っていた。でも、それが今話されることであるという確証もないし、信じたくなかったから、話を聞くまでは何も考えないことにした。
ベンチの脇には大きな窓がついていたが薄いレースのカーテンがなにかからここを隠すように閉められていた。カーテンとガラスの向こう側で青々とした葉を茂らせた桜の木が、季節を主張するかのようにゆっくりと風に揺れた。
「それで、話ってなんですか?」
なるべく平静を保つように心がけて尋ねた。心臓が大きな音をたてる。お願い、悪い予感が当たりませんように。
「そう、ね」
ひとつ深呼吸をして話は始まった。
「セツナちゃん、いつもお見舞いに来てくれているでしょ。きっとサトルも喜んでいるわ。眠っているばかりだけど、セツナちゃん、毎日のように来てくれるでしょ」
「ええ、まあ。……一応、彼女、ですし」
堂々と答えなきゃいけないはずの最後の一言は口籠もってしまった。そんな私を見て微笑んだかと思えば、急に真剣な顔になってこう話した。
「もう、来ないでほしいの」
「なんで……ですか?」
うまく言葉が出てこなかった。やっぱりそうなんだ。きっとそうなんだ。息が苦しい。
いつかはそうなるってわかっていたのに。こんなふうにサトルのお母さんなら言うだろうなってわかっていたのに。なのに、喉になにかが詰まったかのように、言葉は出てこない。
「きっとこれ以上来ていたら苦しくなるわ」
「理由は、それだけ、ですか?」
切れ切れになる言葉をようやく繋いで尋ねた。
「そうよ」
サトルのお母さんは伏し目がちにそう言った。
「なら私は来ます」
苦しいのはサトルに会えないほうだ。どれだけ苦しくても辛くても私はサトルに会いたい。
「ほんとうにこれから辛くなるわよ」
悲しそうな顔。だけどそれくらいじゃ私の決意は変わらない。
「だって……」
そこでサトルのお母さんは言葉を切った。目に涙を浮かばせてこう続けた。
「サトルの命はあと2週間ほどってお医者様が」
そう言うと顔をおおい泣き出した。
「2週間……」
体全体の力が抜けた。手に持っていたペットボトルがすり抜ける。そのまま床に叩きつけられたペットボトルは、べこりと形を変える。音が遠くなっていき、目の前が真っ暗になって真っ白になった。
その白の向こう側に見えたのはサトルと過ごした日々。まだサトルが私と話が出来た頃の思い出。優しく笑うサトルの横顔。遠くを見て夢を話すサトルの瞳。風に揺れる柔らかい髪。太陽に照らされる白い肌。私の頭を撫でる温かい手。なにもかも手に取るように思い出せる。
「ごめんね、セツナちゃん。」
その声で現実に戻された。
「だから、もうサトルのことはいいの。」
「よくないです!」
反射的に叫んでいた。
「よくなんて、ないです。サトルは、サトルは……。」
視界がぼやける。雫が落ちる。止まらない。止まらない。
いつかはそんな日が来てしまうって、分かっていたはずなのに。
分かっていたはずなのに。
はずだったのに。
「すみません。」
私はそう言って席を立った。向かう先はサトルの病室。リノリウムの床の白さが目に焼き付くようだ。いつもは気にならない病院独特の消毒液の臭いがやけに鼻についた。
黙って病室のドアを開ける。下を向いていつも座っているベッド脇の椅子に腰掛けた。涙は止まらない。泣き声は出ないけど、ただ静かに涙だけが流れ落ちた。
「セツナ?」
優しい声が私の名前を呼んだ。反射的に顔を上げる。
「ねえ、セツナ?」
心配そうな声。
「サトル、起きてたんだ。」
目を合わせることが出来なかった。こんなズタボロに泣いている顔が恥ずかしくて、顔を背けた。
「どうしたの?」
柔らかくてあったかい、でも少し曇った心配そうな声。でも私は顔を上げることが出来ない。
「もしかして、僕のお母さんとかに何か言われた?」
私が答えないでいるとサトルは私の頭を撫でた。ゆっくりと、優しい手つきで。
「セツナが辛くなったらいつだってやめていい。僕は、僕がいなくなったあとのセツナのことが心配なんだ」
「やめない。やめないよ、私。サトルの隣にいるの。彼女だもの。好きだもの。サトルのこと、愛しているもの!」
そう言って私は強く抱き締めた。
ありふれた陳腐な言葉でしかこの想いを伝えられない事がもどかしい。こんな言葉じゃ私の気持ちは足りない。
「ありがとう」
サトルもそっと抱き締め返してくれた。
その力加減がサトルの優しさではなく、もうそれ以上の力が出ないこと、理解してしまうのが怖かった。心臓の当たりを冷たい何かで撫でられたような感触がした。
あったかくて、優しくて、失いたくないのに、時間はすぎていく。現実はあまりにも残酷だった。
*****
それから一ヶ月が経った。
サトルがいた病室は白い空き箱になってしまった。花瓶も花も何も無い。真っ白な四角い箱が私に「現実」を突きつけてくる。
カーテンの向こうはきっと青い空が広がっているのだろう。外の木々は日の光を浴びて、風とともに歌うのだろう。
どれも私には別世界のようだ。この白い空き箱から見えるものはすべてが白黒に見える。この白い空き箱の中に音はない。静かに暗い哀しみが足元にまとわりついていた。
重い足を引きずって外に出る。
「セツナちゃん。これ」
目を真っ赤に腫らしたサトルのお母さんが白い封筒を手渡してきた。
「これは?」
「サトルからよ。」
何も言わずにお辞儀をすると私は駆け足で外へ出た。誰とも目を合わせずに走った。
一人でベンチに座る。ここは入院中、サトルの調子がよかった時に二人で座って話をしていたベンチ。隣にサトルがいないから、なんだかすーすーしている。
そっと封筒を開ける。
恐る恐る便箋を広げる。
そこには懐かしいサトルの字が並んでいた。へたっぴな文字で、読むのには解読が必要だって笑っていたサトルの文字。
読みながら私は泣いていた。開けっ放しの涙の蛇口は閉まることを知らない。顔をぐちゃぐちゃにしながら私はその手紙を何度も、何度も読んだ。
文字を指でたどって、言葉を何度も繰り返して。何度も、何度も読んだ。
夏の空は高く、終わりのない青が遠くまで広がっている。太陽の光は私のことを刺すように降り注ぐ。緑色の風が枝を揺らして去っていく。ざわざわ、ざわわと木が歌う。
空いたままの隣の席。待っている人はもう来ない。わかっている。わかっているんだ。
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