夏の海

天野蒼空

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夏の海

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 この海岸に来るのはいつぶりだろうか。誰もいない砂浜で、僕は一人でぼうっとしていた。

 瑠璃色の海に、白い波と太陽のキラメキが模様をつける。幼い頃からよく嗅いでいた磯の香りと、潮で少しベタついた蒸し暑い風。貝殻の破片の散らばった、観光地の海とはかけ離れた、どこにでもあるような砂浜。幼い頃はそこにあるのが当たり前に感じていた海だったが、こうやって久しぶりに来るとなんだか胸の中で何かが踊りだしそうな気分になる。

 しばらく学校で忙しく、祖父母の家になんて遊びに来る暇はなかったのだけれど、今年は曽祖父の何周忌かでどうしても来なくてはならなかった。昨日、すべての法要を済ませ、明日には帰るのだが、「折角の夏休みなのだから、海で遊んで来ればいい」と祖父母が口を揃えて言うものだから、僕は一人きりで、海で遊ぶことになってしまった。

「家から海が近すぎるんだよな」

 そうぼやきながら僕は海に近づく。

 ざざん、ざざん。小さな波が足元で行ったり来たりする。足首まで海の中に入り、砂が足の甲の上でゆらゆらと動くのを見つめる。

 ギラギラと太陽が僕の背中を焼き付けるように照らすが、海の水は思ったよりも冷たくて、少し気持ちがいい。

 一歩、また一歩と海の中に入ってみる。

 足首までだったが、やがて膝まで、そして腰まで、海の中に入ってみる。

ざざん、ざざん、ざばん。

 いきなり大きな波が上から降ってきて、あっという間に頭の上まで濡れてしまった。

「ぷはっ」

 頭を少し振って髪についた海水を払う。

「くくく、くくくく」

 誰かが笑う声がした。

 振り返るとそこには見たことのない女の子が立っていた。背丈は僕より少し低いくらいだろうか。どこか憂いのある大人びた顔をしているのに、子供のような体型をし、髪を頭の天辺で大きなお団子にし、紫色の花柄のワンピースタイプの水着を着た彼女は、ちぐはぐな感じがして、この田舎の海には似合わなかった。きっとこれがどこか観光地のきれいな海なら絵になるんだろうな、と、思いながらその女の子を見ていたら、彼女は真っすぐこちらに歩いてきた。

 そして、迷わずジャバジャバと海の中に進み、僕と同じように波を被った。

「はははは、はははは」

 僕は思わず笑ってしまった。僕を笑った彼女が僕と同じように波を被ったのがなんだかおかしかったからだ。そんな僕をみて怒ったのか、彼女は水を蹴散らすようにこちらに歩いてきて、僕に思いっきり水をかけた。あまりの急な出来事にかわすこともできず、僕はまた、頭の上からびしょぬれになってしまった。

「ごめんってば」

 とりあえず謝ると、彼女はニンマリと笑った。



 それから僕らは一緒に遊んだ。

 初めて会った女の子と遊ぶなんて、考えたこともなかったけれど、ただ、水を掛け合ったり、潜ったり、遠くまで泳いだりと、何も考えずに遊んだ。

 そうしているうちに、気がついたら、太陽が西に傾いて、指の皮膚がふやけて手がシワだらけになっていた。

「そろそろ、戻ろうか」

 そう僕が言うと、彼女は、こくん、と、頷いた。

 持ってきたタオルで一通り体を拭いて、ティーシャツを着る。女の子は気がついたらいなくなっていた。

 きっと彼女も家に戻ったか、着替えているのだろう。

 道路脇にある自販機でソーダを買い、少し飲む。砂浜は少しだけ暖かい色に変わっていた。

 そこに人影が一つ。さっきの彼女だ。彼女は僕を見つけると、手招きをした。もう一本、ソーダを買って僕は彼女のもとへ行った。

 ソーダを手渡すと彼女は嬉しそうに受け取り、一気に半分ほど飲み干した。



 さり、さり、さり。砂浜に足跡を残して彼女は歩く。ベージュのサンダルと、中身が半分ほど減ったソーダのペットボトルを手に持って、足元に長い影を作りながら。白いリボンのついたシュシュで一つに結んだ、黒いストレートの髪は腰よりやや高い位置まで伸びていて、歩くたびに左右に揺れる。彼女の白いワンピースの裾はまるで熱帯魚の尻尾のように潮風になびく。

「ねえ、どこまでいくの」

 その問いに彼女は答えない。ただ、同じ速度で足を進めるだけ。僕は一定距離を保ってついていくだけ。

 黒い影が砂浜にはっきりと長い影が落ちる。

 不意に彼女が足を止める。

 そして、くるり、と、こちらを振り返る。白いワンピースが開いた傘のようにふわりと膨らみ、髪が扇状に広がり、そして元あった位置に戻る。
昼間はギラギラと僕らを焼くように照りつけていた金色の太陽が、今は笑っているような優しいオレンジ色になり、空と雲、そして彼女の頬を柔らかな赤に染め上げる。

 ざざん、ざざん、と、規則正しい波の音だけが僕らの間に流れ込む。

「ありがとう」

 それは今日僕が初めて聞いた彼女の言葉だった。はどこか懐かしく、でも、聞いたことのない、柔らかくて温かい音の波が、僕の心の中に溶け込んで、じんわりと広がっていく。

 しかし、彼女の様子が少しおかしい。いや、もしかしたら僕の目がおかしいのかもしれない。だって、彼女の輪郭がだんだんとぼやけてきたからだ。彼女の髪の毛が、ワンピースの裾が、足が、指先が、背景の海と同化するかのように薄くなっている。

 彼女が手を振る。

──ばいばい。

 彼女は言葉を口にしなかったけど、その意味はわかった。彼女は、いなくなるんだ。そんなことが現実にあるのかどうかは信じられないけれど、目の前から彼女はいなくなってしまうんだ。

 少し、寂しく感じた。もう、彼女と今日みたいに遊ぶことができないということが、胸の中に小さな穴を開けた。

「今日、一緒に遊べて楽しかったよ」

 彼女は笑ったままだった。

 砂浜に落ちている影が段々と薄くなる。それに比例するかのように、僕の影はどんどん長くなる。




 そして太陽が完全に沈むと、彼女は跡形もなくそこからいなくなってしまった。

 東から夜がやってきた。

 僕はまだ中身の残っているペットボトルを二本手に持ち、祖父母の家へ戻った。
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